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MESSIAEN/Vingt regards sur l'Enfant-Jésus
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Jaana Kärkkäinen(Pf)
ALBA/ABCD 226



今年は、ルロイ・アンダーソンと並んで、オリヴィエ・メシアンも生誕100年を迎えます。「大作曲家」メシアンと、ヒット曲ばかり書いていたアンダーソンとを同列に扱ったりすると、きっと不謹慎だと目くじらを立てる人もいるかもしれませんね。でも、全く同じ時代を生きていたのですから、この2人の間には、なにかは共通するものがあるのではないでしょうか。
その「共通するもの」というのは、どうやら「どの作品を聴いても、同じ人が作ったことがすぐ分かる」ということではないかという気がしませんか?アンダーソンのシンプルなメロディにちょっと粋なハーモニーをつけた、えもいわれぬあの感触は彼独特の世界。そして、メシアンにも、やはり聴いてすぐ感じられる彼独自の「色」があります。まさに彼にしか出せなかった色彩的な和声、それは、そのまわりを彩る鳥の声の模倣とあいまって、紛れもない彼のキャラクターを主張するものです。
「現代音楽」にはめっぽう定評のあるフィンランドのピアニスト、カルッカイネンが演奏する「20のまなざし」も、最初はそんな親しみやすいメシアンを存分に味わおう、という気持ちで聴き始めました。ところが、なんだかいつも聴いている「まなざし」とは様子が違います。まるで、ピアノという楽器で演奏しているのではないような、不思議な感覚に襲われたのです。最初のうち、それは非常に居心地の悪いものでした。いつもだったらまず味わえるはずのキラキラした音の粒の嵐が、全然感じられないのです。しばらく聴き続けているうちに、5曲目、「御子の御子を見るまなざし」あたりになった頃、そこからははっきり、オルガンの響きが生まれていることに気づきました。そう、その左手のアコードは、減衰するピアノの音ではなく、まるで管楽器のようにいつまで経っても同じ大きさを保っている、あのパイプオルガンそのものの響きだったのです。そして、その響きの中で奏でられる右手はと言えば、音色もタッチも全く別のキャラクター、オルガンでいえば別の鍵盤で全く異なるストップを鳴らしているという感じがするものでした。しばらくして始まる鳥の声の超絶技巧は、もはやオルガンさえも超えたシンセのプログラミングでしょうか。
これは、今までメシアンのピアノ曲を聴いていたときには全く味わうことの出来なかった感覚でした。彼女はスタインウェイのD-2741台で、まるでフルオルガンのような響きを作り出していたのです。いや、時にはそれはオーケストラにも匹敵する、とても10本の指だけで紡ぎ出しているとは思えないほどの多くの声部の饗宴にすら聞こえます。この作品のすぐ後に作られることになる巨大なオーケストラ曲「トゥーランガリラ交響曲」を彷彿とさせられるようなマッシヴなパッセージを至る所で感じたのは、まさに彼女の狙いに見事に嵌ってしまった結果なのでしょう。
2枚組CDの1枚目の終わり、11曲目「聖母の最初の聖体拝領」の後で、拍手の音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。これだけ完璧な演奏を成し遂げていたのが、生のコンサートの現場だったとは。この素晴らしいホールの音響まで見事に制御のうちに入れていた彼女は、なんという感覚の持ち主なのでしょうか。
ですから、2枚目のCDになったら、殆どその場に居合わせた聴衆の気持ちになりきって、この希有な体験を味わうことが出来ました。甘美な和声が心を打つ15曲目「幼子イエズスの口づけ」では、そのハーモニーの移ろいは、ひたすら平らな音の力として伝わってきます。鍵盤楽器特有の減衰感をまるで感じさせないその柔らかなタッチ、そこからは、音が淡いパステルカラーとなって、確かにメシアンの描いた暖かい「まなざし」が伝わってきます。
こちらでは、そんな体験まで味わうことが出来るんですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-23 20:12 | ピアノ | Comments(0)