おやぢの部屋2
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2013年 03月 08日 ( 1 )
Vogt/Wagner
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Klaus Florian Vogt(Ten)
Camilla Nylund(Sop)
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
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まるでカウフマンに対抗するかのように、フォークトがこんなアルバムをリリースしました。あちらはまさにワーグナー・テノールの「正統」というか「王道」を行くものだったのに対して、こちらは「異端」もしくは「邪道」、もっと言えば「勘違い」ですから、最初から勝負の結果は見えているのですが。
しかしまあ、これほどまでに似たようなアルバムをぶつけるというのは、どういう神経をしているのか、ちょっと恐ろしくなってしまいます。「ワルキューレ」では、やはりその前のアルバムとの重複を避けるために「剣のモノローグ」を持ってきていますし、なんとも珍しい「リエンツィ」からのアリアもしっかりかぶさっていますよ。
その、「リエンツィ」の最後近く、第5幕で歌われる「Allmächt'ger Vater, Blick Herab!」というアリアは、それ自体はまず聴く機会はなくても、そのテーマは、こちらは良く演奏されている序曲の中にしっかり登場していますから、初めて聴いてもすぐに入って行けるものです。これを、カウフマンが歌ったものと比べてみれば、その違いは明らかです。
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これが、序曲と同じメロディの部分、赤丸の記号は「転回ターン」という装飾音符で、この場合だとここに三十二分音符で「ラシドシ」という音が入ります。ワーグナーの場合では初期の作品にしか顔を出さない、ちょっと「古い」表現なのですが、いかにも「ロマン派」という感じを醸し出してくれる装飾です。「全能の父よ」で始まるこのアリアは、この大詰めまでに友人や民衆に裏切られてしまったタイトル・ロールが、「あなたは私に力を与えてくれた。それを奪わないでください」と訴える悲痛な歌です。そこで、カウフマンは、この装飾を単なる飾りとは考えず、しっかり意味を持たせた歌い方をしています。ですから、こんな装飾音だけで、見事に訴えかける力が聴く者に伝わってくるのですね。ところが、フォークトの場合はこれが文字通り単なる「飾り」にしか聴こえてこないのです。そこからは、いかにもヒラヒラした軽やかさしか感じることはできません。
そんなことに気づいてしまうと、フォークトの歌がなぜつまらないのかがはっきりしてきます。彼は、何よりも甘く美しい声を出すことを最大の課題と考えているのでしょう。ドイツ語のゴツゴツした子音などは、その美しさを妨げるものでしかありませんから、いとも安直にその子音を目立たせないようにして、あくまでソフトな音を出すことのみに腐心しています。その結果、彼の歌からは子音によってもたらされるはずの「ことば」の力が完璧に消えてしまいました。オペラで感情を表現するために最も必要な「ことば」がないのですから、その歌は死んだも同然のただの音の羅列でしかなくなってしまいます。さらに彼の声は、どんな時にも同じようなビブラートに彩られている明るさだけが取り柄のものでしかありません。「ことば」を放棄した分、何らかの方法で感情を表現しようと思っても、そんなことはそもそも出来ないのです。実際、彼の歌を聴いて悲しみや苦しみを感じる人など、いないのではないでしょうか。
このアルバムでは、「トリスタン」と「ワルキューレ」で、ソプラノのカミラ・ニュルンドが共演しています。そんな木偶の坊が、このようなしっかり歌で感情表現が出来るまともな歌手と一緒に歌っていれば、おのずとその無能さが露呈されてしまいます。それよりも、ここでは「ワルキューレ」の第1幕のエンディングまでがたっぷり演奏されていますが、そんな毒気に当てられたジョナサン・ノットの指揮するオーケストラまでが、全くワーグナーらしくない覇気のない軟弱な演奏に終始していることの方が問題です。「悪貨は良貨を駆逐する」とは、まさにこのようなことを指すのでしょう。フォークトには、ワーグナーなどは歌わずに、おとなしく重い荷物でも運んでいて欲しいもの(それは「フォークリフト」)。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2013-03-08 19:11 | オペラ | Comments(5)