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2016年 09月 01日 ( 1 )
明治のワーグナー・ブーム/近代日本の音楽移転
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竹中亨著
中央公論新社刊(中公叢書)
ISBN978-4-12-004841-8




学生の男声合唱団として有名なところは、西では「関学グリー」、東では「早稲田グリー」と「慶應ワグネル」と昔から相場が決まっていました。ただ「グリー」というのは「グリークラブ」の略で合唱団というのは分かりますが、「ワグネル」とは一体何なのだ、という疑問はずっと抱いていました。この学校には、合唱団だけではなくオーケストラもやはり「慶應ワグネル」というタイトルが付けられています。フルネームは「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ」なのだそうです。合唱団は「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・男声合唱団」。
おそらく、これはかなり昔に命名されたもののはずですから、ワグネル=ワーグナーという連想は出来ました。でも、確かにあのリヒャルト・ワーグナーは大作曲家でそれなりの人気は誇っていますが、そんな、大学のサークルの名前になるほどの「人気」なんてあるものなのでしょうか。オーケストラはともかく、男声合唱でワーグナーといったら、せいぜい「タンホイザー」や「オランダ人」の合唱ぐらいですから、レパートリーとしてはかなりのマイナーどころ、多田武彦あたりを差し置いてそんな名前を付けるなんて。
ですから、まずこの本のタイトルを見た時には驚きました。明治時代に「ワーグナー・ブーム」があったというのですからね。きちんと中を読んでみると、そのブームに乗って大学の中に作られたサークルが「ワグネル・ソサィエティー」だ、というのですよ。なんでも、それが創設されたのが1901年だとか、そんな時代にワーグナーがもてはやされたことがあったなんて全然知りませんでした。
それが、実際はどのようなものだったのかは、この本で詳しく紹介されています。それを読んでまたびっくり。そのようなブーム、いやムーブメント、火付け役だった人物こそ実際にドイツにいた時にワーグナーの楽劇を体験していたのですが、その人が書いた論文を読んで「ワーグナー・ブーム」を作り上げた他の人々(錚々たる名前が並んでいます)は、ワーグナーの「音楽」なんかはほとんど聴いたことがなかったのですね。彼らが心酔したのは、ワーグナーの「音楽」ではなく「思想」だったのです。
実は、著者の本当の目的は、別にワーグナーに関しての熱狂ぶりを詳述することではなく、そんな、音楽を聴くことなく「作曲家」であるワーグナーを祀り上げる「ブーム」が巻き起こってしまうことが出来たというほどいびつだった、日本における「洋楽」の導入に際しての人々の思考経路をつぶさに描くことだったのです。そして、重要なことは、著者自身は音楽に関する知識や体験がほぼ皆無だ、ということです。つまり、言ってみれば「門外漢」の語る「音楽史」なわけですから、へたな主観が介在しないだけ、説得力のある「事実」が描かれることになるはずです。そして、その試みは間違いなく成功を収めています。
それは、もしかしたら今までの「音楽家」がこのあたりの歴史を語る時に、意図的に無視したのではないか、と思えるような事柄も、ここではあからさまに述べられているのではないか、ということです。いや、単に個人的に勉強不足だというだけのことなのかもしれませんが、いずれにしてもこれまで描いていた明治期の洋楽導入のイメージがかなり変えられてしまうだけのものは、この本には潜んでいました。
その最たるものは、そのような音楽の導入の最初期に、教育的な目的で量産された、いわゆる「唱歌」に関する言及です。今では、それこそ「日本人の心のふるさと」みたいな評価すらされているこれらの曲は、ほとんどが国威発揚の目的で作られていたのですね。あまりにあからさまな歌詞は後に修正されることもありましたが、初期の目的が変わることはありません。甘い郷愁になんか浸っている場合ではなかったのかもしれませんね。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2016-09-01 20:32 | 書籍 | Comments(0)