おやぢの部屋2
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2017年 09月 26日 ( 1 )
ROLLE/Matthäuspassion
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Ana-Marija Brkic(Sop), Sophie Harmsen(Alt)
Georg Poplutz, Joachim Streckfuß(Ten)
Thilo Dahlmann, Raimonds Spogis(Bas)
Michael Alexander Willens/
Kölner Akademie
CPO/555 046-2


ヨハン・ハインリッヒ・ローレという、バロック後期に活躍したドイツの作曲家が作った「マタイ受難曲」の世界初録音です。ローレという人は1716年に生まれて1785年に亡くなっていますから、あの大バッハ(最近は、そういう呼び方はしないんだい)の息子のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハの生涯(1714年~1788年)と見事に重なっていますね。それどころか、ローレはその生涯で何度かエマニュエル・バッハとは実際に関わっていますし、さらに父親の大バッハとも少なからぬ関係があったのでは、とも言われています。
というのも、音楽家の家系に生まれたローレは、小さいころから父親による音楽教育を受けていて、教会のオルガニストを務めるまでになっていましたが、10代後半の3年間はライプツィヒで法律学を学んでいるのです。その頃は大バッハがその街の教会のカントルでしたから、彼が主催していた「コレギウム・ムジクム」や、教会の楽団に参加して演奏していた可能性は否定できないとされています。
その後、ローレはベルリンで法律の仕事に携わるようになるのですが、縁があって24歳の時(1741年)にフリードリヒ大王の宮廷楽団のメンバーとなり、そこで、エマニュエル・バッハの同僚として6年間を過ごします。当時の宮廷にはエマニュエルの他にもクヴァンツ、ベンダ、グラウンといったそうそうたるメンバーがいましたから、ローレは彼らから多くのことを学んだことでしょう。
その後は父親が住むマグデブルクで教会のオルガニストとして、さらに父親が亡くなると、その後を継いで1752年からはアルトシュタット・ギムナジウム(中学校)の音楽監督を晩年まで務めます。その間、1767年にハンブルクでテレマンが亡くなってその後任者を選ぶ選挙があった時には、エマニュエル・バッハとローレが候補者になったのですが、ローレは1票差で負けてしまいました。
ローレは数多くのカンタータやオラトリオを作りましたが、受難節で演奏される受難曲は、全部で8曲作っています。今回録音された「マタイ受難曲」は1748年に作られ、彼の父親によって演奏されました。これは、バッハが作ったのと同じ様式の「オラトリオ風受難曲」で、その形でもう3曲作られていますが、残りの4曲は当時の主流であった聖書のテキストを使わない「受難オラトリオ」の様式で作られたものでした。
この作品は、演奏時間に100分ほどを要する大曲です。とは言っても、大バッハの「マタイ」に比べたら半分程度の長さしかありません。たしかに、テキストはオリーブ山のシーンから始まりますからバッハより少し短くなっているのですが、それだけではなく全体の構成がかなり異なっています。最も顕著な違いは、ソリストによるアリアの比率です。オリーブ山以降で歌われるアリアは、バッハでは11曲ですが、ローレの場合は5曲しかありません。
そして、エヴァンゲリストの語りやイエス、ピラトといった登場人物のセリフで綴られる聖書からのテキストは、バッハと同じようなレシタティーヴォ・セッコの形を取っていますが、それが時折「アリオーソ」という形に変わってメロディアスな歌ときちんとした伴奏による音楽に変わる、という場面はバッハには見られないものです。これは、現代のミュージカルで普通にセリフをしゃべっていた役者さんがいきなり歌い出す、というようなシーンが連想されて、なかなか楽しめます。音楽全体も、やはりバロックというよりはクラシックの様式がそろそろ世の中に広がって来たな、と感じられるような、滑らかな進行のメロディや和声を聴くことが出来ます。合唱などにはロマンティックのテイストさえ漂っていますよ。
それでも、最後近くにおなじみの「O Haupt, voll Blut und Wunden」のコラールが聴こえてくると、なにかホッとします。これこそは、まさに受難曲の地下水脈のようなものなのですね。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

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by jurassic_oyaji | 2017-09-26 00:00 | 合唱 | Comments(0)