おやぢの部屋2
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2017年 12月 06日 ( 2 )
デッカは、国内盤でもカッティングはイギリスでした
 我が家のサラウンド・システムは、どうやら生活の中にしっかり入ってきたような感触があります。なんせ、私が使っている部屋は、ドアが邪魔になってリア・スピーカーを理想的な場所には設置できないというネックがあったものですから、なんとかそこをクリアしようといろいろ試みましたよ。その結果、ほぼ理想的なポイントが見つかったので、あとは使い込んで微調整を行えば完成、という段階に入りましたからね。
 前から予想はしていましたが、これが最も効果的に使えるのは映画でした。もちろん、オーケストラやオペラでも、しっかり音場がスピーカーの前に広がってそれなりの「立体感」は感じられるのですが、それはあくまでコンサートホールやオペラハウスの空間を疑似的に再現したもので、特にサラウンドにしなくてもクオリティ的にはそれほどアップしたという気にはならないのですね。それが映画になると、そこからは今までは感じられなかった製作者の意図までがはっきりと感じられるようになってきます。彼らは一つの表現手段として、このサラウンドというテクノロジーを使いこなしていることがよく分かるのですね。それは、ひいては映画における音楽の役割すらも変えてしまうほどのものなのではないかとすら思えてきます。つまり、サラウンドの中での音楽自体は、それほどキャッチーである必要はなく、ただ音場を巧みに操作することによって、観客に直接感覚的に訴えかける術を、製作者たちは手に入れてしまったのではないか、という気がするのです。
 もちろん、それはハリウッドの大規模な作品に一番当てはまります。さらに、それだけではない多様性も、製作者のセンスによって自由に使いこなすこともできるのではないか、というのも、ある日本の作品を見て感じました。それは、音楽にはそれほどサラウンドは使わずに、もっぱら風の音とか川の流れのような自然音をサラウンドとして、かなり控えめに使っていました。ちょっと物足りないな、と思っていると、家の近くに雷が起きるというシーンで突然フルにサラウンドを活用して、見事な雷鳴を再現してくれました。音響スタッフは、まさにこの雷鳴に命をかけていたのではないか、と思いましたね。
 そんなさまざまな思いが、ほとんどBSや地デジを録画したものから体験できてしまうというのも、うれしいですね。今まで普通に録画していたものは、ほとんどがそんな最高のサラウンドのソースとして味わえるのですからね。
 そんな最新のテクノロジーとは正反対の、半世紀前に作られたLPレコードからも、新鮮な感動が味わえることもありました。たまたま駅前のお店で中古レコードを販売していたので、覗いてみたら、こんなのが目についたので買ってきました。
 いずれもイギリス・デッカのLP。左のカラヤンは1965年、右のストコフスキーは1964年の録音、いずれもカッティングはイギリス、プレスは左はイギリス、右は日本です。発売されたのはどちらも1965年です。左は輸入盤に日本のキングが解説書と、オマケの「生写真」を付けて販売したものですね。
 もうジャケットはかなり傷んでいましたし、解説書にはこんな書き込みまでありました。
 おじさんからのプレゼントだったのでしょうか。
 これは、メモ用紙代わりだったとか。
 まずは、カラヤンの方。これはLPは聴いたことはなくて、CDとブルーレイ・オーディオでしか聴いてません。ブルーレイではかなりいい音だったのですが、この新しい(というか、古い)LPはそれ以上の音でした。盤面に少し擦れキズがあったのでちょっと心配だったのですが、スクラッチ・ノイズは皆無、そこからはまさに録音されたばかりの新鮮な音が聴こえてきましたよ。ブルーレイでは、弦楽器の音だ明らかに経年劣化していることが分かってしまいます。
 ストコフスキーの方は、これと同じLPを持っていました。もう手放してしまいましたが、ごく最近復刻盤が出たので、それも買ってました。
 でも、このLPは、マスターテープの転写がものすごいことになっていました。同じ時期に出たCDではそれは全くなかったので、それはカッティングの際の転写(プリエコー)なのかな、と思っていたので、劣化していないテープからカッティングしたLPを、改めて聴いてみたかったのですよ。
 さっきのおじさんのプレゼントを聴いてみたら、プリエコーは全く聴こえなかったばかりか、やはり弦楽器の音が別物でした。最新のLPは「180g重量LP」とか言ってましたが、元のテープが悪ければどうしようもありません。それは、新しいCDでも違いがはっきり分かるのですが、10年ぐらい前に作られたCDでは、かなりLPに近い音が聴けましたから、その間にかなり劣化が進んだのでしょうね。半世紀前のテクノロジーをなめてはいけません。
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by jurassic_oyaji | 2017-12-06 21:14 | 禁断 | Comments(0)
SCHUBERT/Symphony No.8
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Peter Gülke/
Brandenburger Symphoniker
MDG/901 2053-6(hybrid SACD)


シューベルトの「交響曲第8番」という珍しいタイトルのアルバムです。いや、その曲であれば、「ザ・グレイト」というサブタイトルのついた、シューベルトの最後のハ長調の交響曲のことなのではないかと普通は誰でもが思いますよね。しかし、ことレコード業界においては、「交響曲第8番」はその前に作られた前半の2つの楽章しか完成されていない、いわゆる「未完成交響曲」を指し示すものだと決まっているのですよ。これはもちろん、かつてはそれが「常識」だった時代の名残です。レコード業界が誕生した時点ではまだ「未完成=8番、グレイト=9番」だったのですが、その後の研究によってこの2曲はそれぞれ1つずつ番号が繰り上がってしまいました。それに合わせて、演奏家たちはしっかり呼び名を変えたのに、レコード業界は決してそれに従うことはなく、大昔の呼び名にしがみついていたのです。
そのような大きな力の元では、良心を持った人たちは不本意でもそれに従うしか、道はありません。許されたのは、「第8(9)番」というみっともない表記だけだったのですからね。
ところが、このアルバムはどうでしょう。そこにはしっかり「Symphony No.8 C major(The Great)」という文字が躍っているではありませんか。もしかしたら、こんなタトルが付けられたCDにお目にかかったのは初めての体験だったかも。これは「画期的」と言っても差し支えないほどの出来事です。
同じジャケットで指揮者の名前を見て、そんな「快挙」の訳が分かりました。ここでは、あのペーター・ギュルケが指揮をしていたのですよ。「あの」と言われても何のことかわからないかもしれませんが、このギュルケさんは指揮者というよりも、音楽学者として有名な方でした。つまり、彼は「ベートーヴェンの交響曲第5番の第3楽章に、ダ・カーポを入れた人」として、世界中で有名になったことがあったのです。
そんな、大作曲家の楽譜に手を入れることなんてできるのか、と思われるかもしれませんが、そもそも印刷されている楽譜は作曲家が書いたものとは同じではない場合の方が多いのです。そこで、自筆稿や初演の時に使われたパート譜などを丁寧に調べて、最も作曲家の意図を反映した「原典版(クリティカル・エディション)」が作られるようになりました。ベートーヴェンの交響曲について、最も初期に全曲完成した原典版がかつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)のペータース社が刊行した「ペータース版」ですが、その校訂に携わったのが、このギュルケさんたちなのです。ギュルケさんはご自分が担当した交響曲第5番で、先ほどのような、斬新な見解が反映された楽譜を作ったのです。普通は第3楽章はスケルツォ-トリオ-小さなスケルツォという構成で、そのままアタッカで第4楽章につながっているような楽譜であったかと思うのですが、ギュルケさんはそのトリオが終わったところで、もう1度楽章の頭までもどって演奏するように指定していたのです。それ以前にもそういうことをやっていた指揮者はいましたが、それが実際に楽譜として出版されたのはこれが初めてでしたから、大きな話題になりましたね。
ギュルケさんはその後ブライトコプフ社でのシューベルトの原典版の校訂にも携わります。「交響曲第7番」がその成果です(「8番」の方は、ペータース版のベートーヴェンの共同校訂者、ペーター・ハウシルトが校訂したものが出版されています)。
1934年生まれ、83歳になるギュルケさんは、指揮者としてはもはや「巨匠」と呼ばれるような年齢に達しています。しかし、2015年から首席指揮者を務めている1810年に劇場付属の楽団として創設されたという由緒あるオーケストラ、ブランデンブルク交響楽団を指揮している時には、なんとも軽いフットワークを発揮して、余計なものをそぎ落としたすっきりとしたシューベルト像を再現していました。このオーケストラは弦楽器も少なめなようで、管楽器との程よいバランスも聴きものです。

SACD Artwork ©c Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

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by jurassic_oyaji | 2017-12-06 00:16 | オーケストラ | Comments(0)