おやぢの部屋2
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カテゴリ:室内楽( 32 )
MARTÍN y SOLER/Una cosa rara
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Joan Enric Lluna/
Moonwinds
HMC 902010



モーツァルトと同じ頃に活躍していたスペイン出身の作曲家マルティーン・イ・ソレルの作品は、こちらで一度、そのモーツァルトのおまけのようにご紹介したことがありました。その時の曲が「『コサ・ララ』のテーマによるディヴェルティメント」でしたが、今回はその元になったオペラ「コサ・ララ」のハルモニームジークです。当時流行っていたオペラの中の曲を木管合奏の形に編曲して多くの人に聴いてもらうという、録音などなかった時代の大衆伝達のツールが、この「ハルモニームジーク」ですが、そんな編曲を一手に引き受けていた売れっ子アレンジャー、ヨハン・ネポムク・ヴェントが、ここでも編曲を担当しています。
ダ・ポンテの台本による「ウナ・コサ・ララ(椿事)」は、初演の時には、先に上演されていたモーツァルトの「フィガロ」を打ち切りに追いやったほどの人気を博したオペラだったそうですが、現在では全く忘れ去られ、おそらく全曲を録音したCDなども存在していないはずです。ですから、実際にそのオペラを聴くすべのない我々は、まるで18世紀にタイムスリップしたように、この木管合奏のプロモーション版で曲の姿をうかがい知るという体験を味わうことになるのです。
元のバージョンがどの程度のものだったのかは分かりませんが、ここで録音されているものでは、全2幕、18のナンバーから成るオペラ中の、10のナンバーが演奏されています。そこで、6/8(たぶん)の流れるように快活な序曲に続いて、「4番」の「Più bianca di giglio」というアリアが出てくるのですが、これはそれこそ「フィガロの結婚」の中の「恋とはどんなものかしら」と非常によく似たテーマなのには驚かされます。単なる偶然なのか、あるいは故意にパクったのかは知るよしもありませんが、モーツァルトがすかさず次作の「ドン・ジョヴァンニ」でお返しの「引用」を行っているのは、なにかほほえましいというか、子供じみているというか・・・。
その「引用」とは、ご存じ、第2幕フィナーレでの宴会のバンダが、「コサ・ララ」からの「O quanto un sì bel giubilo」というアリアからの旋律を演奏する、というものでした。それを聴いたレポレッロが「ブラヴォー!コサ・ララだ!」と歌うことで、このオペラの存在が今の我々にも認識できる、というシーンでしたね。それは、前回の「ディヴェルティメント」で、同じ旋律がしっかり聞こえてきたことで確認は出来たわけです。それは「前回までのあらすじ」。ところが、その「ディヴェルティメント」には、実はそのアリアの「Aメロ」しか使われていなかったことが、今回のハルモニームジークを聴いて知ることが出来ました。つまり、原曲はその「Aメロ」のあとに、ちょっと暗めの「Bメロ」が続くのですね。そして、そのメロディは、レポレッロが主人の食事の様子を見て「なんて醜い食欲なんだ!」と絶句する部分そのものではありませんか。つまり、「前回」までは、「Aメロ」だけが引用で、その後に続くこのセリフの部分はモーツァルトのオリジナルだと思っていたのが(この絶妙の「暗い」転調は、まさに彼の音楽の本質的なテイストではないでしょうか)、ぜ~んぶマルティーン・イ・ソレルの曲だったなんて。またここでも、過大な「モーツァルト・ブランド」への戒めを味わったような気がします。
7曲目に入っている「Dammi la cara mano」という曲を聴くと、モーツァルトの「お返し」はそれだけでは済まなかったのではないか、というような気にはなりませんか?それは、そのあとの作品「コジ・ファン・トゥッテ」での、フェランドとグリエルモとのデュエットとなんとよく似ていることでしょう。
このようにして、モーツァルトは同じ時代の同業者から、多くのものを「学んで」いたのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-14 19:53 | 室内楽 | Comments(2)
BACH/Cembalo Concertos
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Francesco Cera(Cem)
Diego Fasolis/
I Barocchisti
ARTS/47729-8(hybrid SACD)



エゴン・シーレの「抱擁」というアブない絵が使われたジャケット、バッハのチェンバロ協奏曲からはまるでかけ離れたそんなエロティックなイメージは、BWV1056の第2楽章「ラルゴ」が映画のサウンドトラックに使われているという理由によるものなのでしょうか。でも、「恋するガリア」にしても、「ハンナとその姉妹」にしても、そんなにエロい映画ではなかったような気がしますがね。そういえば、この曲はスィングル・シンガーズがカバーしたことによっても有名になっていますが、そもそもバッハのチェンバロ協奏曲というものはすべて彼自身によるセルフカバーなのですよね。
ここでのアンサンブル、スイスのイタリア語地区、ルガーノを本拠地に活躍している「イ・バロッキスティ」と、その指揮者ディエゴ・ファソリスは、以前パイジエッロの珍しい作品のCDをご紹介したことがありました。実は、ファソリスだけだとサン・サーンスのレクイエム、などというのもありましたね。そんな、主に声楽作品が得意分野の人だと思っていたら、こんなインストものにもしっかり挑戦していたのですね。確かに、真ん中のゆっくりした楽章などはソリストが思い切り歌えるようなサポートも見られて、なかなか味のあるアルバムでした。その、映画にも使われた「ラルゴ」では、ソリストがハメを外すほどに歌いまくっているのが強烈な印象を与えてくれます。
ただ、ライナーのデーターを見てみると、ここで演奏されている4曲の協奏曲のうち、2008年に録音されたのはBWV1053の1曲だけで、あとの3曲(1052,1054,1056)は2005年に録音されていることが分かります。その間にはアンサンブルのメンバーが大幅に替わっていますし、ソリストのチェラが弾いているチェンバロも別の楽器になっていますから、そんな変化も楽しむのも、また格別です。
オリジナル楽器の業界に於いては、3年と言えば決して短い期間ではありません。特に最近は次々と新しいスタイルを持った演奏家が登場、それぞれの主張を華々しく繰り広げていますから、「流行」は時々刻々変わっているという認識が必要です。そこで、同じ演奏家が「たった」3年前に録音したものを「今」と比べるだけで、聴くものにははっきりとその違いが分かってしまうことになります。これは、かなり衝撃的な事実でした。その一番の違いは、「今」の方が格段に伸びやかなものになっている、という点です。「昔」のものは、いかにも肩に力が入って、無理矢理不自然な表現を作り上げているな、というのがありありと伝わってくるのです。確かに、この業界でそのような不自然なものこそがなによりも尊ばれていた時代はありました。このオリジナル楽器のムーブメントの初期の推進者たちは、もっぱらそれだけで自己の価値を強引に認めさせ、聴衆もそれに迎合していたのですね。
しかし、もはやそんな「流行」は過去のものとなりました。ファソリスたちが、その事に気づいたかどうかは分かりませんが、感覚的により美しいものを求めようとするのはイタリア系の人たちの性でしょうから、巧まずしてこのような結果となって現れたのでしょう(コンサートマスターがヴァイオリンではなく「スパラ」を演奏しているのも「流行」?)。
その、BWV1053では、使われているチェンバロも「昔」のものよりさらに澄みきった音が響き渡るものでした。第2楽章の「シチリアーノ」でそのバックを務める弱音器を付けたヴァイオリンは、まさにオリジナル楽器にあるまじき官能的な音色さえも味わわせてくれるものです。そこでは、まるで彼らが今まで我慢してきた禁断の響きを存分に放つことを許された喜びを感じているようには聞こえては来ないでしょうか。
エゴン・シーレのジャケットは、そんな官能性を現しているものだ、というのは、あまりにうがった見方でしょうか。そんなことを言ってはいかんのう
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by jurassic_oyaji | 2008-11-02 19:48 | 室内楽 | Comments(0)
P.D.Q.BACH/The Jekyll & Hyde Tour
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Prof. Peter Schikekle
Michèle Eaton(Sop)
David Düsing(Ten)
Amadillo Quartet
TELARC/CD-80666



なんとも迂闊な話ですが、このレーベルでのピーター・シックリーによる「P・D・Qバッハ」プロジェクトというものは、1995年の「The Short-Tempered Clavier」というアルバムで終了してしまっていたのだと思いこんでいました。ですから、そのスピン・オフである「ピーター(いや、スニーキー・ピート)と狼」(1993がリイシューになったとき、勇んで紹介したのでした。
ところが、なんと今年に入ってから「新作」が発表されていたではありませんか。CDの新譜については入念なチェックを怠らないつもりでいたのに、こんな重大なものを見落としてしまっていたなんて。慌てて注文、発売からはちょっと日が経ってしまいましたが、12年ぶりのニューアルバムを紹介できる運びとなりました。
「ジキルとハイド」というタイトル、そして、2人の人物が写った意味ありげなジャケ写からは、その2人の人物、ヒラヒラのドレスに鬘をかぶったP・D・Qバッハ氏と、コーデュロイのジャケットを着たピーター・シックリー氏とが実は同じ人物であることが暗示されているようです。にもかかわらず、シックリーのライナーノーツでは、この2人を「PS」と「PDQ」という数式に置き換えて、「PSPDQ」という仮定を立てると、いつの間にか「PSPDQ」になってしまうという「証明」が大まじめに論じられているのです。そんな、ばかばかしい議論を真剣にやっているという、いつもながらのシックリーの態度には、いつに変わらないオバカさが満載のようです。
このアルバムは、ホールで行われた「コンサート」のライブ録音です。そもそも40年以上前に始まったこのプロジェクトの最初のものがやはりライブ録音でしたから、まさに原点回帰ということになるのでしょうか。ですから、ここではお客さんを前にしてのシックリーの「前説」をきちんと味わうという、至福の時を味わうことになります。いや、正確にはそれに対するそのお客さんのリアクションの面白さを味わう、でしょうか。次から次へと繰り出すしょうもない駄洒落(そっ、おやぢギャグ)の嵐に、見事にハマっているお客さんの笑い声を聴くだけで、幸せな気持ちにはなれないでしょうか。その名も「Four Next-To-Last Songs」という、シュトラウスの「Four Last Songs」をもじったタイトルの曲は、実はシューベルトのパロディ。そこでの前説で、「シューベルトはゲーテの詩に曲を付けましたが、ワーグナーはゲーテが嫌いでした。そこで彼は『ゲーテの黄昏』というオペラを書いたのです」って言われても何のことだか分からないでしょうが、「Goethe」と「Götterdämmerung」をくっつけたという、くっだらない「おやぢ」なのですよ。
ところが、シックリー自身のピアノ伴奏で、その曲が始まると、それを歌っているテノール歌手には、思わずのけぞってしまいます。冗談ではなく、とんでもない音程、殆ど「音痴」ではありませんか。これは別にそういう歌い方を狙っていたというわけではなく、単にその人が「ヘタ」だというだけのこと、こういうものは、くそまじめに「正しく」歌わなければ決して本当の笑いは生まれてこないというのに、これはなんという醜態なのでしょう。会場のお客さんはそれでも雰囲気にのまれて笑いこけていますが、それを音だけで冷静に聴かされるものにとっては、笑うどころではありません。
そんなものを最初に聴いてしまったせいでしょうか、このアルバムには、今までのもののように素直に楽しめることがありません。その次の「弦楽四重奏曲」も、いまいちギャグが決まりません。さらに後半は殆どシックリー自身の弾き語り、なんだか勝手に一人で盛り上がっているような気さえしてきます。
せっかくの新譜だというのに、心から楽しめなかったのがとても残念です。もしかしたら、もはや彼とは同じ価値観を共有出来ないようになってしまっていたのでしょうか。メロンパンは嫌いだとか(それは「菓子パン」)。
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by jurassic_oyaji | 2008-09-17 19:59 | 室内楽 | Comments(0)
MOZART/Gran Partita Arrangement for Strings
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Amati Ensemble
Salzburg Soloists
BRILLIANT/93696



「グラン・パルティータ」というのは、12の管楽器と1台のコントラバスのためのセレナーデです。コントラバスはコントラファゴットで代用されることもあるので、「13管楽器のための」とも言われますね。木管楽器のアンサンブル、いわゆる「ハルモニー」では、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットの4種類の管楽器がそれぞれ2本という「八重奏」が良くある編成なのですが、ここではそこに、現在では普通には使われなくなってしまった「バセットホルン」という、ホルンの偽物(それは、「ガセットホルン」)ではなく、クラリネットの一種である楽器が2本加わり、さらにホルンが4本に増強されています。そのような大きな楽器編成、中でもオーボエ、クラリネット、バセットホルンという3種類の異なる音色のメロディ楽器によるソロが、曲全体にヴァラエティを与えているのと、7楽章という長大な曲の構成によって、大きな世界の広がる作品になっています。
このCDは、イスラエル・フィルのファゴット奏者であるモルデハイ・レヒトマンという人が、ここで演奏しているアマティ・アンサンブルとザルツブルク・ソロイスツのために、弦楽器9人の編成に編曲したものです。その内訳はダブルの弦楽四重奏プラス、コントラバスということになります。
スピーカーで聴く限りは、二つのカルテットは、左右の端にヴァイオリン、真ん中にチェロという対象形の並びになっているようです。オリジナルの管楽器アンサンブルの場合は、やはり両端にオーボエとクラリネットが座っていて、それぞれに掛け合いの妙を披露するようになっていますから、それを弦楽器で模倣しよう、というプランなのでしょう。
そんな風に弦楽ノネットとして生まれ変わった「グラン・パルティータ」、そこからは、貴族のお館でパーティーかなにかの間に場を盛り上げる音楽、といった猥雑な感じは全く払拭されていました。すべてが均質な弦楽器の響きの中に集約されてしまった結果、とてもお上品な、「高貴」と言ってもいいような雰囲気が漂うようになっていたのです。それはそれで、刺激の少ない、心地よく味わえる音楽には仕上がっていますが、やはりオリジナルに親しんだ耳には、なにかが物足りません。それは、やはり発音原理の異なるさまざまの管楽器が織りなす綾、といったものが消え失せてしまったせいなのでしょう。まず、オーボエとクラリネットという対照的な音色のソロが交互に出てくる場面、確かにそれを担当する2人のヴァイオリニストはそれぞれの個性を出そうとはしているようには聞こえますが、決定的な違いとはなってはいません。しかも、まわりの弦楽器のトゥッティの中では、時としてソロでありながら全く聞こえてこないことすらもあるのです。
さらに、2番クラリネットの低音レジスターの独特の響きがしっかり耳に残ってしまっている音型や、ファゴットのちょっとおどけたような伴奏のパターン、そしてホルンが一体となって作り上げるパートソロの魅力といったような、オリジナルに親しんだ者であれば、ぜひ一緒に感じたいと思っている「小技」がすべて消えてしまっているのも、ちょっと悲しい感じです。
弦楽器だけの編成で無惨にものっぺらぼうになってしまった「グラン・パルティータ」を聴いてみて如実に分かったのは、モーツァルトが各々の管楽器のキャラクターをどれだけ熟知し、それを生かすためにどれだけ腐心していたか、ということです。そう、彼は、ここで決して他の楽器には置き換えることの出来ない完結された編成の音楽を作っていたのです。
最近の研究では、第6楽章の変奏曲は、ハ長調のフルート四重奏曲の第2楽章が使い回されたものだという今までの見解は覆され、フルート四重奏曲の方が後に出来たもの、しかもこれはモーツァルトの仕事ではなかったことが明らかになっているというのも、頷けるような気がしませんか?
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by jurassic_oyaji | 2008-06-11 20:18 | 室内楽 | Comments(0)
BUXTEHUDE/Sonatas Op.1
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L'Estravagante
Stefano Montanari(Vn)
Rodney Prada(Va d G)
Maurizio Salerno(Cem)
ARTS/47731-8(hybrid SACD)



昨年2007年はディートリヒ・ブクステフーデの没後300年という記念すべき年でした。そのおかげで、今までは殆どオルガン曲しか知られていなかったこの作曲家の全貌が、録音によってほぼ明らかになるという快挙が成し遂げられることになりました。北ドイツの町リューベックの聖マリア教会のオルガニストという職務から生まれた膨大な量のオルガン曲と、そしてカンタータなどの宗教的な声楽曲は、まるで宝の山のようなもの、この方面の愛好家にはそれらの録音はとてもうれしい贈り物となったことでしょう。
さらに、教会には関係のない器楽曲もたくさん作っているということも、だいぶ知られるようになってきました。それは、クラヴィーア・ソロのための曲と、アンサンブルによる室内楽作品です。その中で、彼の作品の中で唯一作品番号が付けられた(つまり、出版された)ものが、作品1と2のそれぞれ7曲から成る「ソナタ」です。楽器編成はヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてチェンバロというものですから、通奏低音の伴奏によるヴァイオリン・ソナタのようなイメージを持つかもしれませんが、ここでのヴィオラ・ダ・ガンバは、チェンバロと一緒に同じ低音を演奏するのではなく、しっかりがんばって自分の独立した声部を持っています。つまり、これは3つの声部による「トリオ・ソナタ」ということになります。
そんな曲を演奏、そして録音するために、「ブクステフーデ・イヤー」に結成されたのが、「レストラヴァガンテ」というユニットです。モンタナリ、プラダ、サレルノという、古楽器の世界では名の知れたメンバーは、このレーベルにこの作品1と、作品2(もうすぐ国内でもリリースされます)を録音、さらに2009年までの演奏活動と録音の予定も決まっているそうです。
この3人によるアンサンブルをとらえた録音は、「コンプレッサーもイコライザーも一切使っていない」と言うだけあって(実は、そんなに珍しいことではありませんが)、素晴らしいものです。バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてチェンバロという繊細極まりない楽器にこそ、SACDのスペックはその威力を発揮しているに違いありません。特に、低音楽器でありながら、なんともフワフワとした音を漂わせているヴィオラ・ダ・ガンバが、他の楽器に埋もれることなく十分にその細やかな音色を主張してくれているのはまさに感動的です。この楽器がメロディ楽器として表に立ったときの、なんと味わい深いことでしょう。それを迎え撃つヴァイオリンが、モダン楽器とは全く異なる粗野な面持ちを披露してくれていますから、そのキャラクターの違いは格段に印象的です。これでこそ、3つの声部が対等に渡り合うトリオ・ソナタの醍醐味が存分に味わえるというものでしょう。まるで目の前で演奏しているような生々しさに加えて、録音会場の広い空間の雰囲気も十分に伝わってくる素晴らしい録音です。
ブクステフーデの作品を聴くときにいつも感じる、あふれるばかりのファンタジーと、その場面転換の鮮やかさというものが、この「ソナタ」の中にもしっかり宿っていることも、この3人の情熱的な演奏によって容易に知ることが出来ます。それぞれの曲は7つとか8つといった多くの楽章、というよりは楽想の切れ目によって分かれていますが、それらは彼のオルガン曲のように、まるでふと思いついたかのように瞬時にその光景を変えてくれるものなのです。イタリア趣味も抱負に盛り込まれていて、バッハのような厳格さとはまた別の、魅力あふれる作品です。
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by jurassic_oyaji | 2008-03-23 23:50 | 室内楽 | Comments(0)
SALIERI/Music for Wind Ensemble
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Ensemble Italiano di Fiati
BRILLIANT/93360



ボックスものが多いBRILLIANTにしては珍しく、1枚もののアルバムです。ですから、特別に割安という気はしません(ディズニーリゾートは浦安)。しかし、何しろ、曲目がサリエリの聴いたことのない曲という珍しいものでしたから、買ってみる気になりました。例によって外部のレーベルからライセンスを得てリリースしているもの、そのライセンス元がTACTUSという、今までの印象ではあまり音の良くないイタリアのレーベルのものでしたが、聞こえてきた音は至極まっとうなもの、というより、かなりクオリティの高いものでしたから、一安心でした。演奏もとても自発的な素晴らしいものです。
サリエリといえば、20年以上前に作られた映画の影響で、未だに「モーツァルトの才能をねたんだ凡庸な作曲家」というイメージがついて回っています。恐ろしいのは、こういうイメージは音楽のことを何も知らない人たちの間に、ちょっとハイブロウな知識として、実体のないまましっかり浸透してしまっているということです。先日アメリカの刑事物テレビドラマを見ていたら、殺された天才型のテニスプレーヤーと、その容疑者である努力型のプレーヤーを比較して、ある刑事が「モーツァルトとあれ、みたいなもんだろう?」と言ってましたっけ。「あれ」というのはもちろんサリエリのこと、名前すら忘れられても、映画で作り上げられた図式は殺人現場に於いてまで比喩として使われるという、情けない現実があったのです。
ここで演奏されているのは、サリエリの管楽器アンサンブルのための作品です。今まで彼のオペラや宗教曲は聴いたことがありますが、こういう分野のものは初めて、新鮮な思いで聴き進んでいくうちに、こんな曲を作った人が、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうという疑問と、さらには怒りが湧いてきました。おそらく王侯貴族のまえで演奏されるための機会音楽なのでしょうが、その軽やかなテイストと、センスの良いアレンジの妙は、現代の私たちの耳にも非常に魅力的に響きます。どの曲からも、心底美しいもので聴き手を安らかな思いに誘おうという、作曲家の温かい心が伝わってきます。
もっとも小さな編成であるオーボエ2本とファゴット1本という「トリオ」が何曲か演奏されていますが、そこに凝縮されているアンサンブルの愉悦感には、とても惹かれるものがあります。中でも、ファゴットパートがただのベースラインに終わらない、実にアイディア豊かなフレーズを繰り出しているのが魅力的、次々と現れる新鮮なからみが、曲全体にヴァラエティを与えています。
Armonia per tempio della notte(「夜の寺院のための合奏曲」、でしょうか)」という、クラリネットも加わった編成の長大な曲では、ゆったりと流れるような音楽の中で、そのクラリネットがソリスティックに大活躍してくれます。時折カデンツァのような所での終わり方が、たっぷりとした余韻を含んでとても美しいものです。
最後に収録されている6つの楽章から出来ている「カッサシオン」では、構成の見事さも見られます。次々に現れる豊かな楽想には、自ずと先の楽章への期待も高まります。と、4つ目の早い楽章でホルンが繰り出すリズムには、そんな期待を良い意味で裏切るような驚きも。
こうして聴いてみると、これらの曲から与えられる歓びというものは、今までモーツァルトの曲を聴いたときに得られるものと全く同質のものであることに気づきます。いや、下手をしたら、モーツァルトその人の作品でも、このアルバムの中のものより数段つまらないものもあるはずです。例えば、同じような編成による名曲とされる「グラン・パルティータ」の中のある曲などには(特に名を秘す)、明らかにサリエリほどのミューズは宿ってはいません。
これほどの作曲家を「凡庸」と決めつけることによって、モーツァルトの凡庸さを隠そうとしたのが、「アマデウス」の最大の罪なのです。
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by jurassic_oyaji | 2007-11-24 22:07 | 室内楽 | Comments(1)
Beethoven for Winds
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Octophoros
ACCENT/ACC 10034



なんでも、昨年2006年はこのACCENT(アクサン)レーベルが出来てから25年の記念の年だったそうですね。銀婚式ですか(それは「オクサン」)。1981年(1979年という説もあるのですが)の発足時から、この、ベルギーのオリジナル楽器専門のレーベルは日本コロムビア(現コロムビアミュージックエンタテインメント)というメジャーなメーカーから国内盤が出ていましたから、馴染みがありました。
そんななつかしいアイテムが、25周年を記念してまとめて「ACCENT PLUS」というレーベルでオリジナルのジャケットにかなり近いデザインのものがリイシューされました(例のラーメンの丼のような模様はなくなっていますが)。クイケンたちのものはさんざん聴いていたので、ここではちょっと面白そうなベートーヴェンのハルモニー編曲版を聴いてみましょう。「フィデリオ」序曲は他の人の編曲ですが、なんといっても、交響曲第7番全曲をこの管楽器だけのアンサンブルのためにベートーヴェン自身が編曲をした、というものには興味がわきます。あのベートーヴェン、交響曲というものを極限まで高い精神性で構築した人が、言ってみればBGMに過ぎないこんな編成のものに書き換えるなんて、ちょっと信じられない感じがしませんか?あるいは、それは後の人による勝手な思いこみに過ぎず、軽いノリで自作のプロモーション用のバージョンを作っただけなのかもしれませんがね。
一通り聴いてみると、第1楽章ではしっかり提示部を繰り返して演奏していました。ですから、演奏の姿勢自体はしっかりオリジナルに忠実であるような印象です。しかし、なんだか第3楽章と第4楽章がいつの間にか終わってしまっているような違和感が残りました。演奏時間もこの2つの楽章はずいぶん短めです。
実は、このシリーズには、廉価盤であるにもかかわらず、初出の時のライナーノーツがきちんと掲載されています。それを読んでみると(もちろん英語で)、ベートーヴェンは、この編曲に当たってはずいぶんいい加減なことをやっていたことが、生々しく語られていたのです。あちこちで大幅なカットを行ったと。それを参考にして、今度はスコアを見ながら聴いてみると、確かに第4楽章などは無惨なカットがなされていることが分かります。なんせ、展開部がまるごとなくなっているのですから。その手口があまりにも確信に満ちていたものですから、最初は全く気づきませんでしたが、イ長調(そもそも、この編曲は楽器の都合に合わせて「ト長調」に移調してあります・・・オリジナル楽器ですから、嬰ヘ長調に聞こえますが)からハ長調に転調している展開部は、なんのためらいもなく素通りされていたのです。これは大問題。ひょっとしたら、「運命」の第2楽章を4小節で終わらせてしまったピーター・シックリー(P・D・Qバッハ)と同程度に笑える措置かもしれません。
第3楽章のロンドも、本来はロンド主題-トリオ-ロンド主題-トリオ-ロンド主題-コーダだったものが、「トリオ-ロンド」のセットが一つなくなっています。これもバランス的にはとても間抜け。それからもう一つ、第2楽章の253小節目がやはりなくなっています。これはちょっと余計かと思えなくもない小節なのですが、これがないことによっていかにもありきたりの音楽に変わってしまうのがよく分かります。
こういう仕事を見てしまうと、果たしてベートーヴェンは自作にどれほどの愛着を持っていたのだろうという疑問が湧いてはきませんか?あるいは、そもそもハルモニー・ムジークなどというものはそんなに心血を注ぐほどのものではないと思っていたのでしょうか(それはよく分かります)。
そんな作曲者の思いを代弁したわけでもないのでしょうが、この演奏はとてもしまりのないいい加減なものです。そもそも、交響曲を9つの管楽器だけで演奏することには無理があるのでしょう、一人でベースのパートを担当させられているコントラファゴットなどは、第1楽章の144小節目のとても目立つソロで見事に落ちてしまっていました(繰り返しでは演奏しているので、そういう編曲ではないことが分かります)。それに気づかない録音スタッフも相当いい加減。
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by jurassic_oyaji | 2007-07-14 20:41 | 室内楽 | Comments(0)
MOZART/Gran Partita
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Joan Enric Lluna(Cl)
Moonwinds
HARMONIA MUNDI/HMI 987071



この品番はスペイン(+ポルトガル)の「HARMONIA MUNDI」なのでしょうね。ブックレットにはスペイン語、フランス語、英語によるライナーが載っています。スペイン出身、イギリス各地のオーケストラで首席奏者を務めたクラリネット奏者、ホアン・エンリク・ルナが、やはりオーケストラの首席奏者などの仲間を集めて2005年に設立した管楽器のアンサンブル「Moonwinds」のアルバムは、スペインのヴァレンシアで録音されています。このアンサンブルの名前は、ルナ=月というところから来ているのでしょう。若干スペルは違っているな
曲目は、おなじみモーツァルトの「グラン・パルティータ」と、彼と同時代のオーボエ奏者ヴェントが木管八重奏に編曲した「後宮からの誘拐」、そして、やはり彼と同時代の作曲家ヴィセンテ・マルティーン・イ・ソレルの、「『コサ・ララ』のテーマによる、木管八重奏のためのディヴェルティメント」というものです。実は、この、最後におまけのように入っている曲が、このCDのお目当てでした。
マルティーン・イ・ソレルというスペインの作曲家は、1754年生まれといいますから、モーツァルトより2年年上ということになります。さらに、亡くなったのは1806年、このアルバムが録音された昨年2006年は、没後200年という記念の年でした。ヴァレンシア、マドリッド、ナポリ、ウィーン、ロンドン、そしてサンクト・ペテルブルクと、世界中で活躍した人ですが、ウィーンにいた頃はちょうどモーツァルトも同じ街で活躍していました。そのモーツァルトに3本のオペラ台本を提供したロレンツォ・ダ・ポンテは、このマルティーン・イ・ソレルのためにもやはり3本の台本を書いていますが、そのうちの一つが「Una cosa rara」という作品です。日本語では「椿事」と訳されていて、全曲盤のCDも出ていますが(ASTREE)、もちろん同じダ・ポンテの「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」に比較すれば、現代では完璧に忘れられている作品ということになるでしょう。しかし、作られた当時は人気は全く逆転していました。事実、「フィガロ」が初演された数ヶ月後にこの「椿事」が上演されて評判をとってしまったために、「フィガロ」の上演は打ち切りになってしまうほどでしたから。
そんな屈辱的な思いを、モーツァルトが次の作品の「ドン・ジョヴァンニ」に込めたお陰で、「Una cosa rara」の中のあるメロディだけは、オペラファンであれば誰でも聴いたことのあるものとなっています。それは第2幕のフィナーレ、騎士長を迎えるための晩餐の用意をしている場面で、ステージ上の楽士がBGMを演奏し始めると、レポレッロが「Bravi! "Cosa rara"!(いいぞ!「コサ・ララ」だ!)」と叫ぶ場面です。そこで聞こえている音楽こそが、このオペラの中の「O quanto un si bel giubilo」というアリアの一節なのです。ドン・ジョヴァンニが「この曲はどうだ?」と聞くと、「あなた様にお似合いです」と答えるあたりに、モーツァルトの気持ちが込められているのでしょう。もう少し先に彼自身の「Non più andrai」が聞こえてくると、レポレッロは「Questa poi purtroppo la conosco(こいつはあまりにも有名だ)」と歌うのがオチになっています。
この有名なメロディが第3楽章で現れるマルティーン・イ・ソレルの「ディヴェルティメント」、これはまさに「モーツァルトが、ちょっと生真面目になって書いた音楽」といった趣の曲です。第2楽章アンダンテの終止へ向かう雰囲気などはまさにモーツァルトと瓜二つ、ほんのちょっとしたところでわずかに「別の人」というテイストが感じられますが、それはモーツァルトの作風として私達が認知できる許容範囲を超えるものではありません。ここでもまた、モーツァルトの音楽があくまでその時代の様式の中にあったものだということが再確認できることでしょう。
演奏としては、やはりメインの「グラン・パルティータ」が、表現などにしっかりと練られたあとが感じられます。アーティキュレーションにちょっと馴染みのない扱いが聞かれますが、それも彼らの確固たる意志のあらわれと受け止めることが出来るほど、高い完成度が見て取れます。リーダーのルナと、1番オーボエのルンブレラスの、いかにもラテンっぽい明るい音色と音楽が、印象的です。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-04 19:59 | 室内楽 | Comments(0)
MESSIAEN/Quatuor pour la fin du temps
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長沼由里子(Vn)
Jean-Louis Sajot(Cl)
Paul Broutin(Vc)
Anne-Lise Gastaldi(Pf)
CALIOPE/CAL 9898



メシアンの「四重奏曲」の新しい録音です。演奏しているのが、日本人の長沼さんも参加されている「フランス八重奏団」のメンバーと、ピアノのガスタルディです。この「八重奏団」は、お察しの通りシューベルトの「八重奏曲」を演奏するのに必要なメンバー、すなわちクラリネット、ファゴット、ホルン、そして弦楽五重奏という編成の常設の団体なのだそうです。もちろん、年中シューベルトばかり演奏しているわけにはいかないでしょうから、このように適宜メンバーをピックアップ、足らないパートは新たに加えてメシアンなども演奏することになります。
一方、メシアンのこの曲を演奏するために結成されたという団体も、かつて存在していたことがあるのもご存じのことでしょう。「タッシ」という名前のそのグループの録音が最近リマスター盤としてリリースされたものをついこの間聴いたばかりですので、いやでもこの演奏と比較することになってしまいますが、それも巡り合わせということなのでしょうか。
しかし、同じ曲でありながら、演奏者によってこれほどの違いが出てくるというのも、なかなか興味深いものです。中でも、クラリネットだけで演奏される第3曲目の「鳥たちの深淵」などは、まるで別の曲かと思われるほど、印象が異なっています。ここでのクラリネット奏者サジョは、楽譜に書いてある音を丁寧に一つ一つ再現することに、最大の関心があるように思えてきます(些事にこだわるんですね)。まるでソルフェージュのようなその淡々とした演奏からは、「タッシ」でストルツマンが見せてくれたような生命の息吹は全く感じることは出来ません。
そんな、ある意味躍動感に乏しい彼らの解釈は、そもそも1曲目の「水晶の礼拝」で現れているものでした。そのような流れのイニシアティブをとっていたのがこのクラリネット奏者であったことが、このソロで明らかになったというわけです。ですから、4人が最初から最後までユニゾンで演奏するという第6曲目の「7つのラッパのための狂乱の踊り」からは、「狂乱」とはほど遠い緩やかな情緒しか伝わってはきませんでした。
従って、彼らの美点はそのような動的なものとは正反対の面で、くっきりと現れてくることになります。それは、まるでヒーリング・ミュージックのような静的な美しさを追求する姿勢です。それに気づかされるのが、2曲目「世の終わりを告げる天使たちのヴォカリーズ」です。ピアノが色彩的な和声を奏でる中、ヴァイオリンとチェロのユニゾンによって流れてくる単旋律は、何ともしっとりと味わい深く響き渡っていたのです。それは、「タッシ」の放っていたクールなテイストとは全く異なる世界を形作るものでした。
その世界は、チェロとピアノのデュエットである第5曲目「イエズスの永遠性に対する頌歌」で、さらにはっきりした形となって現れます。チェロのいつ果てるともしれない旋律は、ピアノとともに徐々に昂揚していき、ついにはエクスタシーを迎えます。その直後の虚脱感の、なんと生々しいことでしょう。
そして、それは最後の「イエズスの不死性に対する頌歌」によって、見事な結末を迎えることになります。ここでのヴァイオリンは、まるですすり泣くようなハスキーな音色から、セクシーこの上ない芳醇な音までを自在に使い分け、メシアンのいうところの「愛」を謳いあげます。すべてを語り終わった最後のピアニッシモの、極上の美しさは、この演奏のある一つの面での卓越した資質を、見事に知らしめています。
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by jurassic_oyaji | 2007-05-16 20:01 | 室内楽 | Comments(0)
SCHUBERT/Piano Quintet "Trout"
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Jan Panenka(Pf)
Frantisek Posta(Cb)
Members of the Smetana Quartet
日本ビクター/JM-XR24205


CDの可能性を究極まで高めた「XRCD」については、例えばミュンシュの「幻想」や「オルガン」などでよく知られているはずです。日本ビクターが開発したこの高音質CDは、元々ビクター関連のRCAなどのオリジナルテープを使って作られていたのですが、最近ではレーベルを超えて過去の「名録音」と呼ばれていたものも登場するようになっています。少し前にはHARMONIA MUNDIのパニアグワなどが出ていましたね。このレーベルは、昔ビクターが発売していたこともあったので関連はなくはないのですが、今回はSUPRAPHONですから、全く無関係なレーベルということになります。本当によい録音のマスターテープの持つそのままの音質をCDで再現できるというこのフォーマット(もちろん、普通のCDプレーヤーで再生できます)は、いつのまにかそこまでの広がりを持つようになっていました。
名盤の誉れ高いこの「鱒」を、1960年に録音されたマスターテープからCDのためにアナログ-デジタル変換を行う「マスタリング」という作業は、ビクターの杉本一家さんという方が担当しています。それが行われたのが2007年の2月なのですが、そのほんの1ヶ月ほどあとに、実は別の録音での彼のマスタリングの現場に立ち会う機会がありました。その時に杉本さんの仕事ぶりを目の当たりにすることができたのですが、そこで見せつけられたものは、良い音に対する徹底したこだわりでした。たとえば、最初に行われるのが、接続してあるケーブルをいろいろなものに交換して聴きくらべるということを幾度となく繰り返し、最もその音楽に合ったものを選び出すという作業なのです。XRCDの説明を読むと、使われている機材のスペックなどが詳細に述べられていますが、こういう作業を見ていると、それだけではない、本当に細かいところまで神経を使っているということが、如実に分かったものでした。そして、最終的には、実際にマスタリングを行う人の「耳」がものを言うことも、はっきり分かりました。そこには、マスターテープの持っている味わいを、いかにしたらそのままCDに移すことが出来るのかという、元の録音に対するとてつもなく深い愛情がありました。
ピアノのヤン・パネンカと、スメタナ弦楽四重奏団のメンバーが中心になって演奏された「鱒」の録音は、かつてはほとんど一つのスタンダードとして広く知られているものでした。市販されていたレコードも、もはやオリジナルのSUPRAPHONだけではなく、得体の知れないレーベルからも廉価盤という形で出ていることもあったほどです。それらに接した限りでは、録音の面では特に印象に残るようなものではありませんでした。ところが、今回の新しいマスタリングによるCDからは、そんなレコードとはまったく違った音が聞こえてきたのです。実は、冒頭のピアノのアルペジオが終わった後は、ゲネラル・パウゼだとばかり思っていました。ですから、そこでなにやら音が残っていたのを聴いたときには、てっきり録音上の事故だと思ってしまったのです。しかし、それはコントラバスが延ばしていた音だったのですね。今まで数え切れないほど聞いてきたこの名曲ですが、スコアを見たことはなかったので、こんな風になっていたなんて、これで初めて知らされたことになります。そのポシュタのコントラバスは、なんとニュアンスに富んでいることでしょう。ボウイングの返しまでとらえていた録音が、このマスタリングによって見事に再現されています。
同じように、パネンカのピアノも、実に生々しく再現されています。それは、単にピアノの音だけはなく、そのまわりの雰囲気まで感じられるほどのものでした。まるで、1960年頃のちょっと垢抜けないチェコの録音スタジオの風景までが眼前に広がっているような錯覚さえ、この録音は引きだしてくれていたのです。
マスタリングだけでこれほどまでに情報量が増えたことで、ちょっと思いついたものがあったので確認してみたら、かつて、最新のマスタリングで音が全く変わっていたことをお伝えしたメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」のタッシ盤も、杉本さんが手がけていたものだったのですね。この「鱒」も、ますに「杉本マジック」のなせる技です。
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by jurassic_oyaji | 2007-05-12 22:11 | 室内楽 | Comments(0)