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カテゴリ:書籍( 158 )
オーケストラ解体新書
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読売日本交響楽団編
中央公論新社刊
ISBN978-4-12-005007-7


この間、カンブルランが指揮をした読売日本交響楽団によって日本初演されたメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」全曲のコンサートの時に、CDやDVDとともに即売コーナーに山積みになっていたので、買いたいと思ったのがこの本でした。
基本的な内容は、このオーケストラの事務局の2人、飯田政之さんという方と松本良一さんという方が中心になって執筆やインタビューを行ってまとめられた、オーケストラの内部の説明本なのですが、それだけではなく、日本のオーケストラが抱えている問題にまで踏み込んでいるような部分もあります。
なんと言っても面白いのは、オーケストラがコンサートを開くまでに行うことが本当に事細かに描かれていることでしょうね。特に圧巻なのが、かつては読売新聞の文化部の記者として多くのインタビューなどを行っていた松本さんが執筆した「ドキュメント・オブ・ザ・コンサート」と名付けられた「第3章」です。それはまさにコンサートが出来上がるまでを生々しく追った「ドキュメンタリー」そのものでした。
そこで取り上げられている五嶋みどりをソリストに迎えたコンサートのくだりは、刻一刻変わっていくリハーサルの現場を、ある時はソリストの心の中まで覗き込むほどの鋭さを持って語った卓越したものでした。そこからは、まさにそこにいた人しか知りえない極度の緊張感が、まざまざと伝わってきます。
オーケストラの団員たちが指揮者について語っている言葉も、とても興味深いものでした。テミルカーノフなどは、手の動きを見ただけでどんな音楽をやりたいのかが一瞬で分かってしまうのだそうですね。
さらにこの本からはこのオーケストラが持っている温かい雰囲気を伝えたいという気持ちがとても強く伝わってきます。巻頭にカラーで紹介されているかつて正指揮者だった下野竜也さんの写真をフランケンシュタインのように修正したチラシには、笑えました。
そんな、とても充実した内容の本なのですが、1ヵ所だけ、とても愚かなことが書いてあることによってすべてが台無しになっています。それは、「コンサートのマナー」というコラムです。その中で、コンサートで配られる月刊誌で「マナー」について掲載されていることが語られているのですが、とりあえずその現物を見て頂きましょう。
どれも、至極当たり前のように思えますが、最後の「拍手はタクトが降ろされてから」というのはいったいなんなのでしょう。確かに、最近ではまるで「自分はこの曲をよく知っているのだぞ」とアピールしているような早すぎる拍手やブラヴォーが顰蹙を買っているのは十分に承知していますが、それを阻止するために全ての曲について一律に「タクトを降ろしてから」という「マナー」を「強制」するのは愚の骨頂です。「悲愴」や「マーラーの9番」ではこれは当てはまるかもしれませんが、ほとんどの曲ではタクトを降ろすまで待っていたのでは拍手の意味がなくなってしまいます。早い話が、これを買った時のコンサートの最後は、オーケストラと合唱がクライマックスを作り上げて終わるのですが、それまでに何度となくこの「マナー」がアナウンスされていたために、聴衆はタクトが降りる何十秒かの間、「余韻」はとっくになくなっているのに拍手をすることが出来ませんでした。その後でまるで強制されるかのように起こった拍手の、なんと白々しかったことでしょう。せっかくの感動が、この「マナー」のために吹っ飛んでしまいましたよ。この件のオーソリティ、茂木大輔さんの名著「拍手のルール」の中には、「一呼吸おいてから」という見事なサジェスチョンがあるというのに。
同じ場所で即売されていたDVDでは、まさに音楽が終わって「一呼吸おいてから」、嵐のような拍手が起こっていましたね。このオーケストラを聴きに来た人は、一生そのような体験を味わうことが出来ないのでしょうね。かわいそうに。

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by jurassic_oyaji | 2017-11-30 20:56 | 書籍 | Comments(0)
ティンパニストかく語りき
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近藤高顯著
学研プラス刊
ISBN978-4-05-800818-8


現役のオーケストラ奏者が書いた文章には、どんなライターさんでも決してかなわないリアリティが存在しているものです。たとえば、N響の首席オーボエ奏者の茂木大輔さんがお書きになった「オーケストラは素敵だ」を始めとする一連のエッセイ集など。そこには、茂木さんの修業時代から始まって、様々な体験を通じてオーケストラや、そこで演奏している人々の等身大の姿が描かれていました。
それと同質のテイストを持っていたのが、新日本フィルの首席ティンパニ奏者、近藤高顯(こんどうたかあき)さんが書かれたこの本です。茂木さんの本と同様に、これまで他の出版物の中で披露されていた体験談などをまとめて1冊に仕上げたものです。
「高顯」などという、まるで明治時代の政治家のような難しいお名前なので、さぞかし古風な家系の方なのだろうと想像したら、どうやらごく普通のご家庭みたいだったのでそのあまりのギャップに驚いてしまいました。なにしろ、最初は「家具調のステレオでヴェンチャーズを聴いていた」のだそうですからね。
しかし、そのバンドのドラマー、メル・テイラーのコピーを始めたというのが、彼の楽器演奏の始まりだというのですから、やはり打楽器に対する興味は備わっていたのでしょうね。それから、学生時代は別の楽器を演奏することになっても、最後はやはり打楽器に戻っていくのですが、その時も、あくまでクラシックのオーケストラの中の打楽器であるティンパニを志望したというのは、やはりその「家具調ステレオ」で聴いたベートーヴェンの交響曲、それも、他人のLPのおかげだったんですね。しかも、そのLPの中にプレゼント企画として入っていた応募ハガキを投稿したら、なんとカラヤンとベルリン・フィルのコンサートのチケットが当選してしまったというありえない偶然が重なって、しっかりクラシックへの思いが強まっていきます。
さらに、彼の「出会い」は続きます。藝大の音楽科に進んだのちに再度聴いたカラヤンとベルリン・フィルとのコンサートで、ティンパニを演奏していたオスヴァルト・フォーグナーという人の圧倒的な演奏に衝撃を受けて、ぜひこの人に弟子入りしたいと思ったのだそうです。結局、それも実現することになるのですが、このあたりの、しっかり目標を見据えて、その達成のために全力を尽くすという姿勢はすごいですね。というか、これほどの目標に出会えたということ自体が、なんか現実とは思えないほどの「運命」のようなものを感じてしまいます。確か、オーボエの茂木さんの場合もギュンター・パッシンという「目標」があったんでしたね。
ここではまず、ティンパニには「アメリカ式」と「ドイツ式」という2つの種類があることを知らされます。漠然と、奏者から見て左から低音→高音と並ぶのが「アメリカ式」で、その逆に高音→低音と並ぶのが「ドイツ式」だな、ぐらいは知っていましたが、ここではそれぞれ起源が異なることや、音楽的な意味(ドイツ音楽は低音を重視するので、力が入る右手で低音を叩く)まで教えられました。
もちろん、近藤さんは日本ではまだ知られていなかった「ドイツ式」を勉強することになるのですが、そこではマレットは竹で出来ていて、しかもそれを自作しなければいけないのだそうですね。これも、オーボエのリードを自作するようなものなのでしょうか。
そして、なんと言っても面白いのが、ここで描かれている近藤さんが実際に共演した指揮者たちの素顔ではないでしょうか。山田一雄などは秀逸ですね。指揮が止まってしまった時にオーケストラの奏者たちがどのような対応をとったのか、まさにドラマのようです。
ソロで共演した、同じ打楽器奏者の林一哲(和太鼓)とのバトルの様子などは、まるでジャズのセッションを味わっているようで、とても興奮させられました。
ところで、ティンパニストって、女たらし?(それは「ナンパニスト」)。

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by jurassic_oyaji | 2017-11-16 20:15 | 書籍 | Comments(0)
蓮見律子の推理交響楽/比翼のバルカローレ
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杉井光著
講談社刊(講談社タイガ/ス-A-01)
ISBN978-4-06-294083-2


リアル書店で文庫本の棚を見ていた時に、なにか「呼ばれて」いるような気がしたので読んでみることにしました。「交響楽」という、今のクラシック界では絶えて使われることのない古めかしい言葉がタイトルになっていたせいでしょうか。
著者の名前も全く聞いたことのないものですが、そんなことは気にせずに読み始めると、その内容は音楽的にはけっこうヘビーであることに気づきます。「推理~」というタイトル通り、これは推理小説の範疇に入るべきものなのでしょうが、そんな「推理小説」らしい「事件」が起こるのは、半分近くまで読み進んだ時でした。
つまり、それまでに行われていたことといえば、登場人物たちの単なる「日常」でした。とは言っても、著者はその登場人物たちにとんでもない「非日常的」な設定を与えていますから、まずはそのぶっ飛んだ生態を味わうだけで、けっこうな刺激が与えられたりします。そして、その最もぶっ飛んだ人物が「音楽家」であるところが、この作品の最大の魅力となっています。
タイトルの蓮見律子というのが、その音楽家。映画音楽などで多くの作品が世に出ている作曲家で、その収入で21階建の高級マンションを所有、その最上階に住んでいます。
そして、彼女に絡むのが、音楽に対しては特にマニアックな嗜好はないものの、普通に音楽を楽しめる感性はもっている、ニートのブロガーです。一応大学生ですが留年を繰り返して、講義を聴くこともなく、ただPCに向かって刺激的なブログを書き続け、そのアフィリエイトで生活しているという設定です。彼がひょんなことからその音楽家が作った曲の作詞を依頼されるというところから物語は始まり、その一部始終を彼が一人称で書き綴る、という体裁、これはまさに推理小説の古典に登場するシャーロック・ホームズとジョン・ワトソンとの関係そのものです。ワトソンを女性にしたテレビドラマがありますが、こちらはホームズが女性になっていますね。
そんな律子が、その「日常」の中で語り手のブロガーに対して自らの音楽観を披露しているのが、個人的には最も興味深いポイントでした。そこには著者自身の音楽観と共通するものがあるのか、あるいは単にネットからそれっぽいものを拾って来てコピペしただけ(こちらの方が可能性は高いでしょうが)なのかもしれませんが、それをほとんど日本一の作曲家に言わせているというところで、不思議な存在感が生まれます。
まずは、ブロガーが律子の曲の作詞に挑戦するところで、彼女は「歌詞」というか「詩」についての持論を展開します。曰く、「韻文であることが必要条件の一つ」と。「韻文」!なんと懐かしい言葉でしょう。これを見て、即座に対義語である「散文」という言葉も思い出しました。それで、最近の歌が歌詞の面からとてもつまらなくなっている理由が突然分かったような気になりました。今の歌では、圧倒的に散文の歌詞が多くなっているのですね。それらは、韻文のようにメロディに馴染むことはなく、違和感ばかりが募ることになっていたのでした。さらに、ただ韻を踏むだけの日本語ラッパーに対しても、彼女は「息苦しいほどの必死さで、楽しめない」と切り捨ててくれますから、爽快ですね。
結局、ブロガーの歌詞は完成し、出来上がった曲を音律の専門家に聴かせるのですが、そこで「詞だけを集中して聞こうとしましたができませんでした。どうやっても、声と楽器と言葉とが混然一体となって流れ込んできてしまいます。本来、詞とはこうあるべきなのでしょう」という言葉が返ってきた時には、涙が出てきましたね。
いや、本当に号泣したくなるほどの感動が訪れるのが、「事件」が解決した時です。「音楽」を、これほど見事に小説の中に取り入れたものを、知りません。
もしこれが映像化される時には、律子は絶対シシドカフカでしょう。それは不可

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by jurassic_oyaji | 2017-11-07 23:04 | 書籍 | Comments(0)
ジャジャジャジャーン!
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田中マコト著
講談社刊(マガジンエッジコミックス KCME21/76
ISBN978-4-06-391021-6/978-4-06-391076-6


久しぶりの本格クラシックマンガ、まずは「帯」に注目です。こういうものにはよく「推薦コメント」というものがあって、関係業界の名士による歯の浮くようなコメントが読めるようになっているものですが、ここにはそういうものは一切なく、代わりに、「クラシック業界関係者黙殺!?/いくつもの推薦コメント依頼に返信まったくなし!(第1巻)」とか「クラシック業界関係者激怒!?/推薦コメント依頼にNGの嵐!(第2巻)」といった、とてもインパクトのあるコメントが並んでいます。いや、ヘタな太鼓持ちコメントより、こちらの方がずっと読者の食指を誘うものになっていますね。
このマンガは、少年マガジンエッジ(アダルト誌ではありません・・・それは「少年マガジンエッチ」)に2015年から2017年にかけて連載されたもので、単行本は第1巻が去年の7月、第2巻が今年の7月に刊行されました。もう連載は終わっているので、この2巻で完結のようです。
作者の田中さんは、女性です。彼女はそもそもミュージカル歌手を目指して武蔵野音楽大学音楽学部声楽学科に入学するのですが、まわりの人たちのあまりのレベルの高さに、音楽家への道を断念しかけます。そんな時に「のだめカンタービレ」の作者、二ノ宮知子さんが大学に取材に来て、彼女は「その姿に触発されて」マンガ家を志すようになったのだそうです。それから修行に励み、10年以上の下積みを経て、晴れて世の中に認められるようにようになったというのですから、経歴自体がすでにマンガですね。そうか、「のだめ」ってそんな昔のことだったんですね。
そんな、音大卒マンガ家が世に問うた、クラシック・ギャグマンガが面白くない訳がありません。ギャグそのものはかなりスベってはいるものの、まずはデフォルメされまくっている大作曲家の「絵」には感動に近いものがあります。特に秀逸なのはシューベルトと滝廉太郎。シューベルトの顔の汗と、右手は最高ですね。そして、滝廉太郎。先ほどの帯コメントが事実だったとしたら、推薦コメントが断られたのは絶対この人の描かれ方のせいでしょう。なんたって、「日本のクラシック音楽の開祖」と祀られて、この国の音楽アカデミズムの中枢ではこんな銅像まで飾られているという人ですから、これはまずいです。だから、面白いんですけどね。
とは言っても、やはり先輩格の「のだめ」同様、気になるところはたくさんあります。
そもそも、毎回のタイトルの「第〇楽章」としたあたりで、普通のクラシックファンの感覚とは微妙にずれていることを感じないわけにはいきません。最後は「最終楽章」で何の問題もありませんが、そのひとつ前が「第21楽章」ですって。このぐらいの楽章数の作品がないわけではありませんが、それはかなり特殊なものですからね。
楽器はピアノ以外はほとんど登場しないので大丈夫だと思っていると、そのピアノでいきなりこんなのが出てきました。なんか、ボディのデッサンがおかしいですね。
それは、こちらの天板と比べると、はっきり分かります。
校歌を作るエピソード(第4楽章)では、モーツァルトくんが作った「怒れ!!」という歌詞が登場しますが、これは「レクイエム」の中の「怒りの日」を元ネタにしたものですね。それはなかなか面白いのですが、それに対するベートーヴェンのネームから、それが旧約聖書からの「引用」であることが示唆されています。しかし、このテキスト自体は聖書から取られたものではありませんから、これはベートーヴェンの勘違い。
そして、音楽大学が登場する「第17楽章」では、滝廉太郎が「音楽大学と銘打っているだけでも10校以上、一般大学の音楽科なども含めたら40校以上はあります」と言っているのも事実誤認。こちらを見ると、日本には優に100校以上の「音楽大学」があることが分かります。滝くんはWIKIのいい加減なデータを鵜呑みにしたのでしょう。

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by jurassic_oyaji | 2017-07-27 20:40 | 書籍 | Comments(0)
ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本
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「音楽の友」編
佐伯茂樹監修
音楽之友社刊(ONTOMO MOOK)
ISBN978-4-276-96263-7


「ピリオド楽器」という言葉は、現在ではかなり知られるようになってきました。とは言っても、その正確な意味を把握している人はそれほど多いとは思えません。
これは「特定の時代の楽器」という意味。これとほぼ同じものを指し示す言葉として「オリジナル楽器」と「古楽器」がありますが、これらは正確さにかけては「ピリオド楽器」に負けてます。「オリジナル楽器」には時代的な意味が全く感じられませんし、「古楽器」には、「古い」時代しかカバーできないようなイメージがありますからね。
つまり、「古楽器」と言うと、バロック時代以前の楽器が連想されるのが普通のことではないでしょうか。確かにこの時代の音楽に使われた楽器やその演奏スタイルについての研究が進んで、世の中は今の楽器とは外見ではっきり異なっている「古い」楽器を使った演奏がほぼスタンダードになりつつあります。
しかし実際は、もう少し時代が進んだ「古典派」や「ロマン派」の音楽でも、今の楽器とは微妙に異なった楽器が使われていたわけで、最近ではそれを演奏面で実践している団体もたくさん出てきているのです。そんなまさに、そんなに「古く」ない時代の音楽でも、「その時代の楽器」が使われるようになってきた、という流れを受けて、そこまでカバーできるタームとして俄然主役に躍り出てきたのが「ピリオド楽器」という言葉なのです。
今回、音楽之友社から、こんなムックが出るようになったのも、そのような最近の流れがかなりの現実味を帯びてきたことの表われなのでしょう。実は、「古典派」や「ロマン派」の時代の楽器の方が、それ以前の「バロック」の時代の楽器よりも正しい情報が広まっていないのだそうで、その辺の間違いや勘違いを正す、といった意気込みさえも、ここには込められているようです。
なんたって、監修者としてほとんどの原稿を執筆しているのがこの時代の楽器のオーソリティの佐伯さんですから、これはとても読みごたえがあります。写真も豊富に使われていて、いかにこの時代の楽器と現代のものとは異なっていたかがはっきり分かります。何より重要なのは、作曲家がその曲を作った時には、間違いなく当時の楽器を念頭に置いていた、ということが、ここでははっきり示されている、ということではないでしょうか。クラシック音楽の場合、演奏家の使命は作曲家の意図を正確に再現することに尽きますが、その際に手掛かりになるのは楽譜だけではなく、その当時の楽器の情報だ、という監修者の主張が、至る所から伝わってきます。
たとえば、「(ピッコロは)王侯貴族の趣味の楽器として親しまれてきたフルートとは違い、野外の行進などで遠くまで通る鋭い音を持っていた。ベートーヴェンの交響曲第5番の第4楽章でも、オーケストラ全員がffで鳴らしている場面でもピッコロのパッセージが浮かび上がる」というような記述には、実際に普通のオーケストラの中でこのパートを演奏して報われない思いを体験したものにとっては、激しく同感できる部分があります。
とは言っても、「ワーグナー・テューバ」の説明で、いわゆる「テューバ」との「混同を避ける」ために「テノールテュー」と「バステュー」と表記しているのは、明らかな間違いでしょう。スコアにドイツ語で「Tuben」とあるのは複数形で、単数形は「Tuba」なんですからね。
もう1点、ここではピリオド楽器を使っている団体の紹介もされていますが、その中で「レ・シエクル」の扱いが異様に多いのが気になります。確かにこの団体は現在最も注目に値するオーケストラであることに異論はありませんが、この極端さは、裏表紙全面に広告を掲載しているこの団体のCDの販売元(キングインターナショナル)に対する「忖度」だと思われても仕方がありません。「損得」しか考えられない出版社とは、なんと悲しいことでしょう。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

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by jurassic_oyaji | 2017-07-01 21:03 | 書籍 | Comments(2)
唱歌・童謡 120の真実
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竹内喜久雄著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-91064-3


「唱歌」や「童謡」についてはかなりのことを知っていると思っているのですが、本屋さんにあったこんなタイトルの本の帯に「名曲誕生伝説のウソを徹底調査!」などという挑発的なコピーが躍っていれば、手に取って読んでみないわけにはいきません。
タイトル通り、ここには全部で120曲の、主に子供が歌うために作られ、時代的には「唱歌」、「童謡」、さらには「こどものうた」とその呼ばれ方を変えてきた歌の詳細なデータが掲載されています。それぞれの歌は1曲ずつ見開きの2ページに印刷されているのが、とても見やすい工夫です。左のページには、歌詞と楽譜、そして作詞者、作曲者はもとより、その曲が初めて世の中に現れたデータまでもがきちんと載っています。特にうれしいのは、今までは「文部省唱歌」という表記だけで、個別の作家の名前が全く分からなかった曲に、しっかりクレジットが表記されていることです。
明治政府がどのような姿勢で「唱歌」を作り、流布させたかということに関しては、以前ご紹介した「歌う国民」という本に詳しく述べられていましたが、そこでは作詞家や作曲家の名前は明らかにしないという方針が貫かれていたのですね。みんなとてもよく知っている曲なのに、単に「文部省唱歌」とだけ表記されて、実際に作った人の名前のないものが、かつてはたくさんありました。それが、近年の研究によってかなりのものの作者がきっちり特定できるようになりました。その成果がここでは生かされています。たとえば、1987年に出版された「ふるさとの四季」という唱歌を集めた合唱のためのメドレーには11曲の唱歌が使われていて、そのうちの6曲が「文部省唱歌」となっていたのですが、ここではそのうちの4曲にしっかり作家の名前がありました。どんな歌にも必ずそれを作った人はいるのですから、それを明確に表記するのはとても大切なことです。
「唱歌」と「童謡」との境界線はなにかということに関しては様々な見解があるでしょうが、単に楽譜が出ただけではなく、それが実際に「音」となって世の中に広まった物が「童謡」だ、という見方もあるかもしれません。ということで、初出データも、ある時期からはレコードがリリースされた時のレーベルやアーティストになってきます。こんな扱いも、おそらく今までのこの手の本にはなかったことなのでしょう。
長年気になっていたことが、初めて腑に落ちた、というものも有りました。それは「おもちゃのチャチャチャ」の作詞家の件です。この曲では作詞家のクレジットは野坂昭如となっていますが、そこに「補作詞:吉岡治」と書いてあるものも有るのです。常々、野坂の小説の世界とこの曲の歌詞との間にはあまりにも大きな隔たりがあると思っていたのですが、その疑問は氷解しました。
ただ、気になることはいくつかあります。巻末には参考文献として「インターネット」というカテゴリーもあるのですが、その筆頭がWikipediaというのは、ちょっと情けないですね。さらに、それらの文献からの「参考」では済まない、ほとんどコピペのような文章にも、しばしば出会えます。先ほどの「おもちゃのチャチャチャ」などは、その一例です。
そして、これは2017年3月に刊行されたばかりの新しい書籍なのですが、実は2009年9月に、同じ著者による「唱歌・童謡100の真実 ~誕生秘話・謎解き伝説を追う~」という書籍が出版されているのです。この件に関して著者は「追記」として、「本書は、最初の構想では第1章から第4章までの100曲で完結していた。それが、さらに20曲について言及する『付章』を加えることになった」とは書いていますが、2009年版に関する言及は全くありません。これは、ちょっとアンフェア。
「カチューシャの唄」を「野口雨情作詞」としているちょっと恥ずかしい誤記(134ページ)もありますし(語気を強めて抗議しましょう)。

Book Artwork © Yamaha Music Entertainment Holdings, Inc.

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by jurassic_oyaji | 2017-05-20 20:51 | 書籍 | Comments(2)
ザップル・レコード興亡記/伝説のビートルズ・レーベルの真実
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バリー・マイルズ著
野間けい子訳
河出書房新社刊
ISBN978-4-309-27818-6


「ザップル・レコード」というのは、あのビートルズがその後期に様々なビジョンを実現させるために起こした会社「アップル」の中に作られた実験的なレーベルのことです。「アップル」に関してはこれまでに膨大な文献が登場していて、その実態はほぼ明らかになっていますが、「ザップル」についての詳細な資料はあまりなかったところに、そのマネージャーを任され、実質的なレーベルの責任者だったバリー・マイルズが自ら著した「手記」が発表されました。最初にイギリスで出版されたのは2015年、その時のタイトルは「The Zapple Diaries」でしたが、翌年アメリカで出版された時には、「The Rise and Fall of the Last Beatles Label」というサブタイトルが付いていました。それが2017年2月には早くも日本語訳が登場してしまいました。
これはまさに「日記」、著者のマイルズが、「ザップル」が出来てから消滅するまでの、その日その日に起こったことをざっくりと書き綴ったものですが、そこに、その後の文献からの引用が多数挿入されているのが「記録」としての価値を上げています。日本で出版されたものには、その出版元もきちんと併記されているのも、とても親切。
このレーベルの最も近いところにいた人の書いたものですから、事実関係は詳細を極めていますが、それは殆どマイルズの本来のフィールドである文学的な仕事に関するもので、正直それほどの興味はわきません。ただ、その隙間を埋めるかのようにちりばめられた、「ザ・ボーイズ」(ビートルズのメンバーたちを、彼はそのように読んでいます)のエピソードは、かなり新鮮なものでした。ポールにしてもジョージにしても、とにかくお金に関してはやたら気前がいいのですね。
ジョンに関しては、ヨーコとの絡みが赤裸々に語られています。そこで暴露されるのが、ジョンの「アヴァン・ギャルド」に対するスタンスです。世間一般の受け止め方では彼はそのような芸術に理解を持っている人とされているのでしょうが、実際には彼は「アヴァン・ギャルド」への関心もスキルも全くなかったことが、ここでは明らかにされています。それは単に、ヨーコへの憧れのようなものだったのでしょう。
そのヨーコの「バックバンド」として参加した時に、彼が行ったパフォーマンスに関しての言及には、笑えます。彼は、ヨーコの「前衛的」なパフォーマンス(実体は、ただ意味のない悲鳴を上げていただけ)に合わせて、ギターアンプの前にギターを持って行ってジミ・ヘンドリックスのような(ですらない)ハウリングを出していただけだったというのですからね。
そんなものをA面に収録したアルバムが、1969年5月にザップルから最初にリリースされた「Life with the Lions」(Zapple 01)でした。そして、同時に「Zapple 02」という品番でリリースされたのが、ジョージの「Electronic Sound」というアルバムです。実は、このアルバムに関する部分が、最も興味深く読めてしまいました。
日本盤は確か「ジョージ・ハリスン/電子音楽の世界」みたいな大げさなタイトルだったように記憶していますが、実体は、その頃発表され、あの冨田勲も購入した「モーグIII」というモジュラー・シンセサイザーを演奏していただけなのですがね。そんな、なぜジョージがこの「楽器」に興味を持ったか、そして、それを購入する顛末、さらには、このアルバムに収録されている「作品」の出自(半分は別の人が演奏したもの)などが、ここでは事細かに語られていますよ。
この時には、音を出すこともできなかったジョージは、後に「Abbey Road」の中の「Because」では、モーグIIIのソロを披露できるまでになっていたんですね。でも、この件については新たな検証が必要なのかもしれません。この本によると、ジョージ(・ハリスン)より先にジョージ・マーティンも同じシンセを購入していたそうですから。

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by jurassic_oyaji | 2017-05-06 19:50 | 書籍 | Comments(0)
音の記憶 技術と心をつなげる
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小川理子著
文藝春秋刊
ISBN978-4-16-390607-2


今では「オーディオ」といえば、一部のマニアが専門メーカーのとんでもなく高価なアンプやスピーカーを買い求めて、ひたすらよい音を追求する趣味のことを指します。しかし、何十年か前には、そんなオーディオ機器を揃えることが、百科事典を揃えるのと同等の価値観で受け入れられていたことがありました。ほんとですよ。そんな「お茶の間にオーディオを」という需要に応えるために、冷蔵庫や洗濯機を作っていた大手家電メーカーが、それぞれオーディオ専門のブランドを掲げてオーディオ製品を販売していたのです。例えば、こんなブランド。

「オーレックス」 | 「オットー」 | 「オプトニカ」 | 「ダイヤトーン」 | 「テクニクス」 | 「ローディー」

それらを展開していた家電メーカーは

三洋電機 | シャープ(早川電機) | 東芝 | 日立製作所 | パナソニック(松下電器産業) | 三菱電機

さあ、どのブランドがどのメーカーのものか、分かりますか?全部分かる人なんていないかもしれませんね。
もちろん、今ではこんなブランドは殆ど消滅してしまいましたし、メーカーそのものがなくなってしまったものさえありますから、分からなくても全然恥じる必要なんかありません。ただ、「ダイヤトーン」と「テクニクス」だけは、今でもしっかり存在しているのです。そのうちの三菱電機のブランドの「ダイヤトーン」は、ほとんどカー・オーディオの製品ですが、パナソニックのブランドである「テクニクス」は、ピュア・オーディオのすべてのコンポーネンツでのハイエンド製品を送り出しています。ここが最近こんな新聞広告(2面見開き)を出したために、その知名度は一気に上がりました。
実は、「テクニクス」というブランドは、ある時期完全に消滅していました。他の家電メーカーと足並みをそろえるように、オーディオ機器からは撤退してしまったのですね。それが、最近のオーディオ事情の変化(たとえばハイレゾ化)を察知してか、再度この業界に参入してその昔のブランドを復活させたのです。さっきのターンテーブルの広告も、その流れを象徴する出来事です。
この本では、著者がパナソニック(当時は「松下電器産業」)に入社、希望していた部署に配属されてユニークなオーディオ製品を開発していた輝かしい時代、そこから撤退したために別の部署で活躍をしていた時代、さらに、そのブランドの最高責任者として「テクニクス」を復活させた今に続く時代までの、彼女自身の姿が自らの言葉で克明に語られています。そのような意味で、この本は、一つの企業内の歴史、あるいは業界全体の貴重な証言となっています。
そんな「証言」で、今となっては非常に重要に感じられるのが、CDが開発された頃のオーディオ技術者の対応です。それは、実際は彼女が職場に入る前のことなのですが、そのようなデジタル録音に対して、それまでアナログ録音で「原音を忠実に再現する」ことを追求してきた技術者たちは、オーディオの将来を真剣に憂えた、というのです。CDで採用されたフォーマットでは、20kHz以上の周波数特性は完全にカットされてしまいますからね。もちろん、当時のオーディオ評論家たちは、そんなことは決して口にはしないで、今となっては未熟なデジタル技術の産物に過ぎないCDの登場を歓迎しまくっていたのでした。
それと同時に、彼女は社内の上司の勧めで、プロのジャズ・ピアニストとしても活躍するようになります。そのような、まさに「二足の草鞋」を完璧に実現させた彼女の人生そのものも、語られています。このあたりは、まるでドラマにでもなりそうなプロットですね。アメリカでの活躍を勧められたプロデューサーと、幼馴染である婚約者との三角関係、とか。
それだけで十分な満足度を得られるはずだったのに、最後に余計な章を加えたために、稀有なドキュメンタリーがごくフツーのありきたりなハウツー本に成り下がってしまったのが、とても残念です。

Book Artwork © Bungeishunju Ltd.

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by jurassic_oyaji | 2017-03-07 23:27 | 書籍 | Comments(0)
スカラ座の思い出/コンサートマスターから見たマエストロの肖像
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エンリーコ・ミネッティ著
石橋典子訳
スタイルノート刊
ISBN978-4-7998-0140-6



1918年にミラノのスカラ座のオーケストラに入団、1933年から1965年までの間の32年間はコンサートマスターを務めた著者が、その間に指揮台に立った指揮者のことを語った回顧録です。その間には2つの世界大戦も体験するという、まさに「歴史」の中で演奏活動を続けてきた著者の言葉には、陳腐な言い方ですが「重み」があります。
その間のスカラ座の音楽監督には、トゥリオ・セラフィンから始まってアルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィクトル・デ・サバタ、カルロ・マリア・ジュリーニ、グィド・カンテッリ、ジャナンドレア・ガヴァッツェーニまでの巨匠(マエストロ)の名前が並びます。その他にも、客演指揮者としてドミトリー・ミトロプーロスとヘルマン・シェルヘンについても語られています。こんな人まで、スカラ座には客演していたのですね。
ミトロプールスについては、完璧な記憶力を持っていて、例えばベルクの「ヴォッツェック」のような難解な楽譜でもしっかりオーケストラにその意味が分かるように指揮をする姿が語られます。
それとは対照的に、シェルヘンとの思い出としては、スカラ座ではなく、彼のスイスの自宅に作られたスタジオでの、いとも家族的なレコーディングの様子が語られています。シェルヘンの録音と言えば、ウィーンでのWESTMINSTERによるものしか知られていませんが、こんなこともやっていたのです。スカラ座の団員は、ここでは「アルス・ヴィヴァ・オーケストラ・グラヴェザーノ」という名前で、録音を行っていましたね。そのシェルヘンは、現代音楽にも造詣が深い指揮者として知られていますが、ミトロプーロスが急死したために、代わりにスカラ座でマーラーの「交響曲第3番」をすかさず指揮しなければならなくなった時には、なんと準備不足でリハーサルが出来なくなり、結局その演奏会は中止になってしまったのだそうです。そんな一面もシェルヘンにはあったのでしょう。
そして、圧巻はやはりトスカニーニとのリハーサルのものすごさです。なんせ、彼が自制心を失った時には「私たちを侮辱し、指揮棒を折り、ハンカチは引き裂かれ、楽譜を客席や舞台に向かって投げつけたり」したのだそうですからね。しかし、団員たちは彼を恐れながらも、心から尊敬していたこともよく分かります。
このような、まさに伝説的な指揮者との現場の様子が克明に語られている中で浮かんでくるのが、当時の指揮者とオーケストラとの主従関係です。そう、まさにこの時代では、現在ではまず見ることのなくなった「指揮者=主、オーケストラ=従」という関係が、当然のものとして存在していたのです。
しかし、時代は変わっていきます。ベルリン・フィルから「終身」指揮者などというポストを与えられていたカラヤンなどは、まさにそのようなオーケストラの「主」でした。しかし、そのカラヤンでさえ、団員との軋轢が元で辞任に追い込まれ、それ以後の指揮者には常にオーケストラ団員の顔色を窺うような「小物」しか就任できないようになってしまいました。
トスカニーニに関しては、以前からプッチーニが亡くなったために未完に終わった「トゥーランドット」を初演した時の有名なエピソードが伝えられています。それは、「マエストロはここまでで筆を絶ちました」(Qui il Maestro finí.)」と言って、それ以降の演奏を行わなかった、というものですが、著者によればその時に彼が言った言葉は実際はちょっと違っていたのだそうです。それは、「ここでオペラは終る。マエストロの死で未完となったから(Qui finisce l'opera, rimasta incompiuta per la morte del Maestro)」というもの。微妙に意味が変わってきますよね。なんせ、実際に彼が語った一番近いところで聴いていたのですから、著者の記憶さえ確かであったのならば、これが真実だったのでしょう。

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by jurassic_oyaji | 2017-01-29 09:50 | 書籍 | Comments(0)
ビートルズは眠らない
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松村雄策著
小学館刊(小学館文庫 ま19/3)
ISBM978-4-09-406388-2




2003年にロッキング・オンから刊行された書籍の文庫化です。そのロッキング・オンという、著者の松村さんと渋谷陽一さんが創設した雑誌に掲載されていたエッセイの他に、CDのライナーノーツなどが収められ、1991年から2003年までにビートルズに関して書かれたものが、執筆順に並べられています。このように、初版から文庫化までに長い年月が経っている時には、よく「後日談」のようなものが書き加えられているものですが、ここには一切そのようなものはありません。あるのは、別の人が書いた、文庫本にはお約束の「解説」だけです。ただ、その中に、著者の近況についてとんでもないことが書かれていたので、びっくりしてしまいました。
松村さんのことは、ロッキング・オン誌に連載されている(されていた?)「渋松対談」での、社長の渋谷さんの「相方」としてずっとなじみがありました。それだけですでに何冊かの単行本になっているのだそうですが、その二人のやり取りは、軽妙なものに見せかけて、実はロックへの深い愛情が感じられる、とても面白いものでした(本当は「対談」ではなく、対談という形をとって一人で書いていたエッセイだったようですね)。
その対談の中でもよくビートルズについて「語って」いたように、松村さんといえばおそらくこのバンドについて語らせたら右に出る人はいないのでは、というほどの知識と、そして実体験を持っている方です。
まず、なんと言っても彼は実際にビートルズの最初で最後の日本公演に行って、彼らの演奏を実際に聴いているというのが、すごいことです。ご自身もそれは誇りにされていることは、文中からくっきりとうかがえますが、そういう方がライターとしてその体験を公に出来たという事実に、まず感謝しなければいけません。というのも、この武道館で行われた公演の模様は、当時からずっと報じられていたのは、「観客の悲鳴にかき消されて、演奏などは聴こえなかった」というものでした。ですから、まあそんなところだったんだろうと、かなり最近までずっとそれを信じ切っていたのですが、実際にその場にいた松村さんには、しっかりビートルズの演奏が「聴こえて」いたのだそうです。コーラスがハモらなかったところまできちんと分かったそうですから、それは決して「悲鳴にかき消された」という状況ではなかったようですね。確かに、最近になってその頃の映像とかライブCD何かを聴いてみても、別に「悲鳴」はそんなに邪魔にならないな、と思うようになっていましたから、これが正しい情報なのでしょう。つまり、当時はそんな状況を正しく伝える人などだれもいなかったので、メディアが捏造した情報をみんなが真に受けていたことになるのでしょうね。
同じような情報で、その来日公演のあたりに中学生ぐらいだった世代の人たちが、「当時はクラス中の人がビートルズのファンだった」と言っていることも、真っ赤なウソであることが暴かれます。本当はほとんどの人はビートルズなんかは大嫌いだったのですよ。それが、彼らが大人になってビートルズの人気が確固たるものになった時点で、みずからの思い出をやはり「捏造」していたのですね。そんな指摘には、なんともスカッとさせられます。
そんな昔の話だけではなく、エッセイが書かれた当時に起きていたビートルズ関連の事柄に対する正直なリアクションも新鮮です。「イエロー・サブマリン・ソングトラック」がリリースされた時に、それが「リミックス」だと知った松村さんの思いには、おもいに(大いに)共感できます。彼はそこにはっきりと、ビートルズの音源の将来あるべき姿を見ていたのですね。それが「1」が出た時にはオリジナルだったので失望していましたが、今ではその「1」もリミックス・バージョンに変わっていますから、彼の「予言」は当たっていたことになります。

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by jurassic_oyaji | 2017-01-12 23:25 | 書籍 | Comments(0)