おやぢの部屋2
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カテゴリ:書籍( 155 )
西洋音楽史









岡田暁生著
中公新書
1816
ISBN4-12-101816-8



音楽というものは、本来「楽譜」などがなくても成立するものです。現に、今世界中で聴かれている「音楽」の90%以上は(「トリビア」で「1000件のサンプルがあれば信頼できます」と言うのと同じく、この数字にはなんの根拠もありません。単なる私の直感です)楽譜を介在しなくても成り立っているものなのです。例えば、解散して30年以上も経つロック・グループ「ザ・ビートルズ」の曲は、いまだに世界中で愛され続け、CDも売れ続けているものですが、彼らが音楽を作る際には、普通我々が「楽譜」と読んでいる、五線紙に音符を書き連ねたものなどは一切使ってはいないのです。「ピアノ伴奏の付いた楽譜集が出ているではないか」とおっしゃるかもしれませんが、あれは出版社が適当に「採譜」をしただけのもの、作った本人達には全くあずかり知れぬ代物なのです(彼らの財布にはしっかり印税が入りますが)。そもそも、いわゆる「楽譜」が伝えることの出来る情報は、たかだか音の高さや長さだけ、彼らの「音楽」を「楽譜」にした時点で、ロックンロールの持つグルーヴ感やギターソロの細かいニュアンス、ましてやヴォーカルの質感などは、完璧に失われてしまうのですから。
現在私達が好んで聴いている「クラシック音楽」が出来上がるまでの道筋をグレゴリオ聖歌から説き起こし、その「発展」の模様を殆どドラマティックなまでに描き出すことに成功した岡田暁生が、その「クラシック音楽」を「楽譜として設計された音楽」と定義したことによって、この「西洋音楽史」は今までの類似書とは全く異なるインパクトを与えてくれることになりました。そこからは、その「クラシック音楽」にかける著者の熱い思いとは裏腹に、「クラシック音楽」がなぜ一部のエリートにしか受け入れられないマニアックなものであり続けているかと言う疑問に対する明白な解答が引き出されています。そもそも、中世の時代から、音楽というものは人が聴いて楽しむものではなく、「神の国の秩序を音で模倣する」ものだと、著者は述べます。さらに、「『音楽は現象界の背後の数的秩序だ』という特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水脈である」とも。ここに、それぞれの時代で音楽を支えてきた、音楽を作る側ではなく、それを聴く対象に注目することによって、その様ないわばマニアックなものが継続して生きながらえた理由を知ることも出来ます。中世では教会、バロックでは王侯貴族、そして古典派以降では裕福な市民階級という、いずれも知的な階層が聴き手であったからこそ、ある種の「教養」として、「クラシック音楽」は確かな存在感を誇っていることができたのです。
ですから、その様な後ろ盾をなくした「クラシック音楽」の「現代」を語る時、著者の筆致はためらいがちにならざるを得ません。現代の「音楽史風景」を、彼は「『前衛音楽』、『巨匠の演奏』、『ポピュラー音楽』の併走」だと言い切ります。もはや「アングラ化」した前衛音楽はともかく、残りの2者ははからずも「楽譜」としてではなく、「音」としての音楽であることが注目されます。
この著作のサブタイトルは「『クラシック』の黄昏」、「クラシック音楽」の本質を先ほどのように言い切った著者の手によって、「楽譜」を介在しなければ存在できなかったこの音楽の終焉は、見事なまでに誰にでも納得できる事実となったのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-04 20:32 | 書籍 | Comments(0)
雲の歌 風の曲




安野光雅(絵と詞)
森ミドリ(曲)
岩崎書店刊
(ISBN4-265-81012-8)


安野光雅さんは、私にとって殆どアイドルに近い絵本作家です。オランダの画家M・C・エッシャーに触発された「ふしぎなえ」などの初期の作品群は、本家エッシャーの世界を継承しながらも、安野さん独特の温かい絵柄でより親しみやすい魅力を持つものでした。「ABCの本」や「あいうえおの本」のように、全ての文字について何らかの仕掛けを施すという緻密な仕事には、なにか人の能力を超えた叡智のようなものさえ感じさせられたものです。そして、衝撃的だったのが「もりのえほん」。一見何ごともないのどかな森の風景が、実はさまざまなものが巧みに隠された「騙し絵」だったと知った時の驚きは、今でも忘れません。その流れから生まれたのが「旅の絵本」です。その第1巻はまさに「騙し絵」のオンパレード、隠されたものを探し出す作業は、なんと知的な体験だったことでしょう。
その一方で、安野さんは国内やヨーロッパなどの風景を独特の水彩画で綴った画集を数多く生み出しています。そこには、絵本に見られたある意味刺激的な要素とはちょっと異なる、素朴な懐かしさを呼び覚ましてくれるような、温かいたたずまいが漂っていて、こちらの安野さんも私は大好きです。一方で、安野さんの書くエッセイも、とても魅力のあるものです。その中に垣間見られる大きな世界観と柔軟な人間性は、私達を惹き付けて止みません。
そんな安野さんの、「作詞歌」としての新たな一面を見せてくれるものが、今回の新刊です。そもそものきっかけは、彼の生地である津和野にある「安野光雅美術館」に展示してあった、「つわのいろは」という一編の詩でした。2001年に作られた「夢に津和野を思ほえば」で始まるこの詩は、実は「いろは歌」、つまり、いろは48文字全てを重複なく使い切るという非常に技巧的なものだったのです。その様な制約の中で見事に故郷津和野の情景を歌いきっているというのですから、とてつもない、言い換えれば、いかにも安野さんらしいものであると言えるでしょうね。ここを訪れた作曲家の森ミドリさんが、この詩を見て曲を付けたのが、安野さんと森さんとのコラボレーションの始まりでした。作曲家の求めに応じて、ワンコーラス分しかなかったこの詩にさらに2コーラスとサビを2コーラス追加したのが、作詞家安野光雅のデビューとなりました。このロングバージョンは、「津和野の風」というタイトルとなり、2003年にリリースされた森さんのチェレスタ独奏の5枚組アルバムにも収録されることになりました。さらに2005年には混声合唱に編曲され、来年の3月にさる合唱団によって初演(合唱版はそれこそ世界初演!)されるということです(この演奏会では、もう1曲「つわのの子守歌」も演奏されます)。
ここに収録されている「作品」は、全部で31曲。巻末には森さんが作った曲の楽譜も添えられています。もちろん、それぞれの曲には安野さんの絶妙の「挿絵」が添えられていますから、彼のイメージが言葉と絵から伝わってくることになります。「津和野」こそ、夕暮れ迫るもの悲しい情景ですが、大半は子供がたくさん登場する「童謡」の世界、安野さんの子供の歌に対する一つの見識が存分に発揮されています。
そして、まるで「旅の絵本」を思わせるヨーロッパの風景をバックに歌われているのが、安野さんの面目躍如といった「ロンドン頌歌」と「行ってみたいの」という、2つの「いろは歌」です。もっともこれは「津和野」とは異なり、「いざ手をとりて ローマの都 花のバチカン 虹の丘」とか、「行ってみたいの ロンドンパリィ 花の帽子が 似合うでしょ」といった具合に、フレーズの頭を「いろは」でまとめたという別の技法が駆使されたものです。
せっかくですから、楽譜ではなく「音」となったCDが一緒にあんのが良かったのに、とは誰しも思うことでしょう。いずれ、その様なものも出ることを、期待しましょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-30 13:45 | 書籍 | Comments(0)
バッハの街 Bachstätten









Martin Petzoldt著(小岩信治・朝山奈津子訳)
東京書籍刊
(ISBN4-487-79840-X)


バッハの「街」ですから、元のタイトルが「Bachstädte」だと思ったら、そうではないのですね。これだと「バッハゆかりの場所」みたいな訳の方が、より正確な気はしますが。しかし、サブタイトルはもっとすごいことになっていますから、ここでめげてはいけません。「Ein Reiseführer zu Johann Sebastian Bach」、素直に「ヨハン・セバスティアン・バッハへの旅行ガイド」と訳しておけば良いものを、関係者が付けた邦訳は「音楽と人間を追い求める長い旅へのガイド」ですと。なんだかなぁ、という感じですね。ことバッハに関してはそのぐらい重々しいタイトルでないと、世の中では認められないとする感覚が、いまだにこの国には蔓延しているのでしょう。
という具合に、いつかご紹介したカルショーの本にも見られたように、クラシック音楽の書籍の翻訳にあたっては何が何でも「教養」を前面に押し出したいという翻訳者達の美しい「使命感」は、明治以来の「伝統」として、これからも変わらず継続されていくことでしょう。何とうざったい。余談ですが、翻訳業界でのちょっと普通の感覚では理解しにくい不思議な習慣は、他の分野でも大手を振って闊歩しています。特に、児童文学での見当外れの親切心といったら、殆ど犯罪的ですらあります。最近映画化されて大ヒットとなった「チャーリーとチョコレート工場Charlie and the Chocolate Factory」の原作(まず、タイトルの訳が「チョコレート工場の秘密」というだけで、ひいてしまいます)あたりは、その最も分かりやすい例です。今、所狭しと書店をにぎわしているその「新訳」を読んでみると、訳者が誇らしげに「チャーリー・バケットは、チャーリー・バケツとしないことには、ちゃんと翻訳したことにはならない」と開き直っているのですからね。「ベルーカ・ソルト」が「イボダラーケ・ショッパー」ですって。これらのキャラクター名にはちゃんとした意味があるのだから、それが分かるような翻訳でないといけないのだとか。こういう感覚にはとてもついて行けないと思うのは、私がそういうものに慣れていないというだけのことなのでしょうか。そんなことを言っていたら、それこそ「バッハ」は「小川さん」と訳さなければならなくなりますし、シューベルトは「靴ひもさん」ですよね(それは・・・)。


と、関係のないところで悪態を付いてしまいましたが、この本の価値は、そんなおかしなセンスの翻訳でいささかも減じるものではありません。言ってみれば、300年近くの時を軽く飛び越えた「旅行」を体験できるという、まるでタイムマシンのような「ガイド」、これはちょっとすごい発想です。
その仕掛けはこうです。バッハが生前住んだり訪れたりした場所を42ヵ所ほど探しだし(その中には、確かに行ったという証拠がないところも含まれます)、資料を基にそこでバッハが何月何日にどういうことをしたのかを、事細かに述べているのです。人の名前がたくさん出てくるのには少しひるみますが、その、まるで見てきたような筆致を支えている、現在のバッハ研究が到達した成果の精密さには驚かずにはいられません。そして、そのあとに続くのが、現在のその場所の詳細な説明です。歴史的な教会や、その中に設置されている、バッハが触れたであろうオルガン(もちろん、現在は建て替えられて原形をとどめないものも多数)のストップ表まで、克明に記載されているのです。さらに、交通手段や連絡先、教会を見るには予約が必要か、など、本当の意味での「ガイド」まで付いているのですから、すごいものです。ですから、これを読んで実際にそこに行ってみたくなる人も多いことでしょう。あなたの一番大切な人と一緒に行かれてみてはいかがでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-14 20:06 | 書籍 | Comments(0)
のだめカンタービレ Selection CD Book









Various Artists
講談社刊(ISBN4-06-364646-7)


2年以上前の「おやぢの部屋」でこのマンガをご紹介した時には、「ブレイク寸前」とは言ってみたものの、まさかここまで「ブレイク」してしまうなどとは思いだにもしませんでした。今や、新しい単行本が出れば平積みで一番目立つところに並べられますし、コミック・チャートのベストテン入りは常に約束されているという、まさに大ベストセラーになってしまったのですから。そうなってくると、ここで舞台となっている「クラシック」の人たちの反応が注目されてきます。その端的なものが、先日のNHK教育の「芸術劇場」。この、長い歴史を持つ権威ある番組で、このマンガが紹介されるに及んで、もはや一つの作品の枠を超えたところでの「のだめ」ブランドの一人歩きが始まったのです。「ブレイクしたマンガで使われた音楽だから、ブレイクするに違いない」と言う、クラシック関係者の大いなる勘違いを道連れにして。
実は、このような打算に基づいた商品は、以前にも企画されていました。2003年の9月に「限定盤」として発売されたこのCDです。

東芝EMI/TOCP-67266

もちろん、「マンガの中で使われた曲を集めたサントラ盤」とは言ってみても、収録されているのはどこでも手に入る安易な音源だけ、マンガを読んで本当に聞きたいと思った珍しい曲がその中で聴けるのではないか、という「クラシック・ファン」の期待には、完璧に背いたものでした(それでも、「限定盤」ということで、現在ではプレミアが付いていますが)。
今回はCDではなくCDブックという体裁です。収録曲も前作と似たり寄ったり、今回レーベルが異なるために演奏者は異なっていますが、音的には全く魅力は感じられません。何しろ、「安い」音源を求めてリヒャルト・シュトラウスの自作自演の「ティル」などが入っているのですから。ただ、1曲だけ、見慣れない曲が収められています。海老原大作作曲「ロンド・トッカータ」。こんな曲、知ってました?初めてイギリスに行った人の曲でしょうか(「ロンドン・遠かった」)。
実は、いくらクラシックにかけては人後に落ちない「おやぢ」常連のあなたでも、この曲を聴いたことがあるはずはないのです。何しろ、この曲はこのCDブックによる演奏が「世界初演」になるという、極めて珍しいものなのですから。種明かしをしてしまえば、この曲はこのマンガに登場した「架空の曲」なのです。のだめがコンクールを受ける時の課題曲の中の1曲として、第8巻にタイトルだけが登場、そのあと第11巻でパリに留学したのだめが一人で弾いていると、同じアパルトマンの学生が「さっき弾いてた曲なに?」と聞く時に「楽譜」付きで登場します。結構難しい曲なのに、彼が初見で引いてしまったためのだめは落ち込む、というオチが付きます。その時に使われた楽譜はそこしか出来ていなかったのですが、それをきちんと8分ほどの曲として完成させ、実際の「音」として録音したものが、これなのですね。もちろん、作曲家の海老原というのも架空の人物、一応本物の作曲家が、その仕事を行っています。あいにく、私はその作曲家の名前は初めて知りましたが。
そんな、言って見れば「遊び心」が横溢したCDブック(もちろん、「佐久間学」さんのポエムも載っています)には違いありませんが、メインは今まで雑誌の表紙を飾ったイラストなどを集めたもの、この曲を聴くためだけに購入するのは、あまりお勧めできません。何しろCDの出しにくさったら、前に苦言を呈したBMGのヴェルディのレクイエムの比ではありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-11 20:55 | 書籍 | Comments(2)
Putting the Record Straight









John Culshaw著(山崎浩太郎訳)
学習研究社刊
(ISBN4-05-402276-6)


ジョン・カルショーという骨が丈夫になりそうな名前(それは「カルシューム」)、クラシックレコードの愛好家でしたら必ずどこかで聞いているはずです。イギリス・デッカのレコーディング・プロデューサーとして、1950年代から60年代にかけてきら星のような名盤を作り出した人。中でも、スタジオ録音では史上初の「ニーベルンクの指環」の全曲録音を成し遂げたことは、広く知られています。
その「指環」の録音に携わっている間の興味深い事実を克明に語った記録は「Ring Resounding」というタイトルで1967年に出版され、翌年には黒田恭一氏の翻訳で日本語版も出ています(音楽之友社刊・タイトルは「ニーベルングの指環」)。1958年の「ラインの黄金」に始まり、1965年の「ヴァルキューレ」で終わった録音セッションのドキュメンタリー、これに接した人ならば、だれしも、これらの録音が現時点でもこのレパートリーのファースト・チョイスとして万人に勧めることの出来る名盤たり得ているかが納得できるという素晴らしい本は、あいにく今では入手不可能な状態になっています。私は持っていますがね。


この新刊は、残念ながらその名著の復刻版ではありませんでした。カルショーは1980年に、55歳の若さで急逝してしまうのですが、これはその死の翌年に刊行された、いわば「遺作」というようなものです(実際、最後の部分は未完のままになっています)。ここでは、「Ring~」で述べられていた以外のことが、デッカに入社する前の海軍航空隊(実は、その前の銀行員の時代も)の時の体験から詳細に描写されているのです。彼は最終的にはレコーディング・プロデューサーという仕事に就くのですが、その職を得てからも文筆の道、とりわけ小説家として身を立てたいという希望を持っていました(実際、出版された小説も2、3ありました)。ですから、その筆致は読むものをとらえて放さない魅力的なもの、文の構成といい、時折見せるユーモラスな仕掛けといい、最後まで飽きることはありません。
もちろん、私たちにとっては、今まで幾度となく聴いてきた名録音が誕生したまさにその時の様子が生き生きと描かれているのですから、面白くないはずがありません。中でも、カラヤンとウィーン・フィルによって録音された「ツァラ」に関する部分では、例の「2001年」との関わりまできちんと述べられているのですから、ここのマスターのように驚喜にむせび泣いてしまう人もいるかもしれません。何しろ、今まで傍証でしか確認できなかったことが、制作者自身の手で明らかにされているのですから(この件に関しては、マスターがこちらに「追記」を設けましたので、参照して下さい。ちなみに、この部分の訳者による「注釈」は全くの事実誤認、ベームとシュターツカペレ・ドレスデンによる「ツァラ」の録音など、存在していません)。
実は、この本を執筆していた時には、カルショーはデッカを離れていました。そして、デッカ本体も、経営者の死によってポリグラムに売却されるという事態に陥っていたのです。デッカの最盛期を作り上げ、その没落にも立ち会えたはずのカルショー、思いがけない病気で亡くなることがなければ、この中に執拗に登場する経営者との確執を伏線とした、壮大な「悲劇」を完結させることが出来ていたことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-03 19:49 | 書籍 | Comments(1)