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カテゴリ:書籍( 158 )
エスクァイア日本版 9月号








エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-09


桑野信介さんという建築デザイナーが、最近のクラシック界の話題を独占しています。たしかに、彼の持つ確固たる自己の世界と、それを頑なに貫き通そうというスタイルは、全てのクラシックファンの共感を呼ぶに違いありません。彼が好んで聴くマーラーやショスタコーヴィチ、ヴァーグナーなどは、まさに偏屈なクラシックファンの嗜好の王道ではありませんか。そこに日本語による「魔王」などでフェイントをかけられたりすれば、ますますファンは増えることでしょう(あ、「結婚できない男」というドラマの話です)。
そんな信介(つまり、阿部寛)あたりが定期購読していそうな「ちょっとリッチな趣味」が売り物のこの雑誌がクラシックを特集するなどというのは、あまりにも出来すぎた話ではないでしょうか。そのタイトルも「発見、クラシック音楽。」、表紙を飾る写真の、サンクトペテルブルクのフィルハーモニーでリハーサル中のサンクトペテルブルク・フィルという渋さには、信介ならずともつい手が伸びてしまいます。
このような、あまたの「ハウツー本」とは一線を画した、あくまで高いクオリティの情報を提供しようとする媒体の場合、必要になってくるのが程良く高飛車な視点です。たとえ理解できなくても、そして、実体が伴わなくても、ワンランク上の情報に接するというだけで、自分は良い趣味を持っていると思いこんでいる読者は満たされた気分になるものなのです。そんな、読み手のプライドを適度にくすぐるだけのグレードの高いアイテムの供給こそが、ここでは最優先で求められています。それは、博学な信介にバカにされないだけの、「おっ、それいいね!」と言わせられるような素材です。そこで、この雑誌がクラシック特集を組むに当たって用意したものが、「ロシアピアニズム」と「古楽」という、何とも「タカビー」なブランドでした。
まず、「ロシアピアニズム」。これは本当にいいところを突いています。そういうものがあることは知っていても、誰もその本当の意味を知るものはいないという言葉の代表のようなもの、「知らない」と言えばバカにされそうだけど、今さら他人には聞けないと言う意味で、これほど「プライド」を満足してくれる言葉もないのではないでしょうか。そもそも「ピアニズム」とは一体なんなのでしょう。露出狂でしょうか(それは「チラリズム」)。
そして、「古楽」です。これも、額面通り「古い音楽でしょう?」などと言ったりしたらたちまち石をぶつけられそうな、ある特定のマニアの間でしか通用しない言葉、本当のクラシックファンの仲間に入れて欲しいと願っていれば、間違っても「オリジナル楽器」などとは口にせず、ひたすら「古楽、古楽」と連呼することが必要になってくるという、まさに究極のブランドです。しかも、嬉しいことに、その「古楽」界のスーパースター「ニコラウス・アーノンクール」までもしっかりフィーチャーされているではありませんか。なんとこの特集の巻頭に。
ご存じのように、この人物の名前ほど、その「ブランド」が実体と遊離して独り歩きしているものもありません。単なる気まぐれな年寄りに過ぎないものを、周りの人がこぞって「巨匠」などと奉り上げるものですから、何も知らない人はそれが本当だと信じてしまうという、まさに「裸の王様」状態に陥っているのが真実の姿だというのに。言うまでもありませんが、この実体の無さこそが、この雑誌の読者層の「プライド」を最大限にくすぐるもの、そして、それを見事に演出した編集者のセンスには、素晴らしいものがあります。
その他の小ネタとして、オペラ関係の「ペーター・コンヴィチュニー」と、「ステファニア・ボンファデッリ」を選んだセンスなどは、もう最高。どちらも、実体はともかく、これさえ押さえておけば誰からもバカにされないで済む、という絶妙のスタンスの「ブランド」なのですから。
そして、お決まりの「お薦め作曲家のお薦めCD」などというコーナーも用意されています。そこでは、マーラーやヴァーグナーが削られた代わりにショスタコーヴィチと武満が入っています。それを「タカビー」の極みと見るか、編集者の良心のあらわれと見るかによって、もしかしたら聴き手としての資質が問われることになるのかしれません。ところで、信介は武満は好きなのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-28 20:45 | 書籍 | Comments(0)
3時間でわかる「クラシック音楽」入門









中川右介著
青春出版社刊
ISBN4-413-04145-3


ここを訪れる皆さんは、クラシックにかけては「達人」と自他共に許す「クラシック・ファン」もしくは「クラシック・マニア」なのですから、今さらこのような入門書は必要ないはずです。そんなものをあえて取り上げたのは、クラシック界にまで(だからこそ)蔓延しているマニュアル依存の体質が、この書物によって見事に透けて見えるようになったからです(もっと透けて見えるのは「エマニュエル」)。
人がクラシックに親しむようになるには、どのような体験が必要なのでしょう。著者の主張は「最高のものを聴け」です。そして、その「最高のクラシック」を、抽象的な形ではなく、誰にでもはっきり分かる形で示すのが、マニュアルの基本です。それをやっているのが、まず凄いところ、それは、「フルトヴェングラーが1951年にバイロイトで録音した、ベートーヴェンの『第9』」だと言い切っているのです。そこで、早速「初心者」になりきってそのCDを聴いてみることにしました。この本にも述べられているように、もはや著作隣接権が切れている音源ですから、最近は様々な形で「商品」が出回っています。その中で選んだのがこれです。なんでも、HMV(つまり英GRAMOPHONE=EMIの初期のミント盤(つまり手つかずの「新古品」)などという「あり得ない」ものが手に入ったのだとか、たとえ板起こしであろうが、「最高」の演奏に接するためには、このぐらい価値のあるものでなければダメなのでしょうね。ちなみに、元は2枚組、4面からなるヴァイナル盤ですが、記載されているマトリックス番号を見ると、1枚目には第1楽章と第4楽章、2枚目には第2楽章と第3楽章が入っています。これは、2枚重ねてセットすると連続して演奏してくれる「オート・チェインジャー」用のカッティング、これだと、途中で1回裏返すだけで、全曲を聴き通すことが出来ます。

  OTAKEN/TKC-301

お恥ずかしい話ですが、この演奏をきちんと聴いたのはこれが初めてのことでした。スクラッチノイズだらけのいかにもバランスの悪い音は、古色蒼然たるもの、しかし、その中からは演奏家の気分を最大限に反映させるという当時の様式そのものの音楽がまざまざと聞こえてきたではありませんか。なかでも、第4楽章のテンションの高さはまさに異常としか言いようのないものすごいものでした。確かに、戦後バイロイトが再開されたという特別な状況の中でしかなし得なかったような、とてつもない情感が、その演奏の中には宿っていたのです。
こんなすごいものを初めて聴かされたとすれば、その人は一生クラシックから離れることは出来なくなってしまうはずだと、クラシックの達人は思うことでしょう。これほどの演奏に心を動かされない人なんか、いるはずはない、と。しかし、世の中そんなに甘いものではありません。同じものを聴いても、それを受け取る感性は千差万別、ツボにはまる人もいればそうでない人もいるというのは自明の理です。ある人にとって、それはビートルズだったでしょうし、別の人にとってはマイルスだったはず、私たちは、たまたまクラシックで「ピンと来る」ものを感じてしまったから、ここまで来てしまっているのではないでしょうか。
大切なのは、幸福な「出会い」、知識はその後に付いてくるものです。著者が、つまらないと決めつけている教育の中での「音楽教室」でさえ、目を輝かせて同じ波長を感じている少年は必ずいるものです。そこでクラシックに出会った少年ならば、自分の力でもっと面白いものを探し、どんどん「達人」の域に達していくことでしょう。
指揮者の末廣誠さんが、「ストリング」という雑誌に連載しているエッセイで、面白いことを書いています。ポーランドのさるオーケストラでは、定期演奏会の本番前のリハーサルを、子供達に解放しているというのです。もちろん、曲目は定期に取り上げるものですからなんの妥協もありませんし、なんと言っても本番前ですから、かなり立派な演奏になっています。「最高」ではないかも知れませんが「本物」ではある音楽に、子供達はとても生き生きと聴き入っている、ということなのです。
そういう「出会い」の無い人間が、いかにマニュアル通りに学習したとしても、本当にクラシックを愛する人になるはずはありません。それに気づかない人がまだいるということを、この本は教えてくれています。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-02 19:51 | 書籍 | Comments(0)
伝説のクラシックライヴ









東条碩夫 他
TOKYO FM
出版(ISBN4-88745-142-3)


今から30年ほど前、もちろんまだCDなどはなく、「レコード」もかなり高価だった時代、FM放送の番組を録音して楽しむという「エアチェック」は、音楽を聴く上での重要なツールでした。その番組は、ただレコードをかけるだけというものだけでなく、実際の演奏会を録音したもの、さらには外国の放送局が録音した海外の演奏会のテープなども放送され、音楽ファン、特にクラシックファンにとって、なくてはならないものになっていたのです。そして、今ではちょっと考えにくい事ですが、公共放送のNHKだけではなく、民間のFM放送局でも、そんなクラシックのライブ番組を作って放送していた事があったのです。
そんな、遠い昔の事がまざまざと蘇ってくるような、懐かしい、そして、今となっては貴重な証言が収められているのが、この本です。中心になっているのは、民放FM曲「エフエム東京(現TOKYO FM)」で「TDKオリジナルコンサート」という、ミッキー・マウスが司会をしている(それはTDR)のではなく、クラシックのコンサートを録音して放送するという番組を制作していた東条碩夫さんの文章です。この番組、実は私もリアルタイムに聴いていたものでした。コンサートをただ録音しただけという、味も素っ気もないNHKの番組に比べて、本当に音楽が好きな人が情熱をもって作っている、という感じがヒシヒシと伝わってくる素晴らしいものだった事が、今でも懐かしく思い出されるものです。なにしろ、武満徹の「カトレーン」という曲を、番組として委嘱し、その初演の模様を放送していたのですからね。その、作曲依頼交渉から始まって、出来上がるまでの経過、本番直前に仕上がったスコアからパート譜を作る修羅場を経て無事本番の収録を終えるまでの筆致には、この大仕事を成し遂げた筆者の執念までもが乗り移ったかのような尋常ではない臨場感が宿っていて、読んでいてまさに手に汗を握る思いでした。新宿の厚生年金ホールで行われたこの世界初演には、私も足を運んでいます。そんな個人的な思い出もあって、この部分はその熱気を体で受け止められるだけのものとなりました。
この本には、それだけではなく、NHKサイドからも近藤憲一さんが同じ時期の活気のあった音楽番組について、膨大な資料を基に、ご自身の体験を披露しながら書いてくれています。「イタリア・オペラ」や「スラブ・オペラ」など、懐かしい名前が登場しますが、中でも、1967年に行われた「大阪バイロイト」については、現在では殆ど語られる事もなくなっているだけに、貴重な報告となっています。何しろ、ヴィントガッセンとニルソンという世界最高の「トリスタンとイゾルデ」が来日したのですからね(そのニルソン、先日お亡くなりになりました。つつしんでご冥福をお祈りします)。後にバイロイトの一つの時代を築いたブーレーズも、この頃は日本のファンには全く相手にされなかった事も、思い出されてしまいます。
他にも、NHKの技術者が、FMの技術的な変遷を述べてくれているのも興味深いところです。初期にはステレオ放送用の回線が完備されていなかったので、「生」放送はモノラルだけ、ステレオは全てテープを各地方の放送局に送って放送していたというような時代を知る事が出来ます。
最近では音楽放送と言えば映像も伴ったものに関心が行きがちで、もはやFMには往時の勢いはありません。さらに、ネットラジオでは外国のコンサートがリアルタイムで聴けるようになり、溢れるほどの情報が飛び交っています。しかし、今ほど情報の多くなかった時代に放送に携わっていた人達の確かな情熱は、今よりはるかに熱いものだったことが分かるはずです。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-23 19:39 | 書籍 | Comments(1)
西洋音楽史









岡田暁生著
中公新書
1816
ISBN4-12-101816-8



音楽というものは、本来「楽譜」などがなくても成立するものです。現に、今世界中で聴かれている「音楽」の90%以上は(「トリビア」で「1000件のサンプルがあれば信頼できます」と言うのと同じく、この数字にはなんの根拠もありません。単なる私の直感です)楽譜を介在しなくても成り立っているものなのです。例えば、解散して30年以上も経つロック・グループ「ザ・ビートルズ」の曲は、いまだに世界中で愛され続け、CDも売れ続けているものですが、彼らが音楽を作る際には、普通我々が「楽譜」と読んでいる、五線紙に音符を書き連ねたものなどは一切使ってはいないのです。「ピアノ伴奏の付いた楽譜集が出ているではないか」とおっしゃるかもしれませんが、あれは出版社が適当に「採譜」をしただけのもの、作った本人達には全くあずかり知れぬ代物なのです(彼らの財布にはしっかり印税が入りますが)。そもそも、いわゆる「楽譜」が伝えることの出来る情報は、たかだか音の高さや長さだけ、彼らの「音楽」を「楽譜」にした時点で、ロックンロールの持つグルーヴ感やギターソロの細かいニュアンス、ましてやヴォーカルの質感などは、完璧に失われてしまうのですから。
現在私達が好んで聴いている「クラシック音楽」が出来上がるまでの道筋をグレゴリオ聖歌から説き起こし、その「発展」の模様を殆どドラマティックなまでに描き出すことに成功した岡田暁生が、その「クラシック音楽」を「楽譜として設計された音楽」と定義したことによって、この「西洋音楽史」は今までの類似書とは全く異なるインパクトを与えてくれることになりました。そこからは、その「クラシック音楽」にかける著者の熱い思いとは裏腹に、「クラシック音楽」がなぜ一部のエリートにしか受け入れられないマニアックなものであり続けているかと言う疑問に対する明白な解答が引き出されています。そもそも、中世の時代から、音楽というものは人が聴いて楽しむものではなく、「神の国の秩序を音で模倣する」ものだと、著者は述べます。さらに、「『音楽は現象界の背後の数的秩序だ』という特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水脈である」とも。ここに、それぞれの時代で音楽を支えてきた、音楽を作る側ではなく、それを聴く対象に注目することによって、その様ないわばマニアックなものが継続して生きながらえた理由を知ることも出来ます。中世では教会、バロックでは王侯貴族、そして古典派以降では裕福な市民階級という、いずれも知的な階層が聴き手であったからこそ、ある種の「教養」として、「クラシック音楽」は確かな存在感を誇っていることができたのです。
ですから、その様な後ろ盾をなくした「クラシック音楽」の「現代」を語る時、著者の筆致はためらいがちにならざるを得ません。現代の「音楽史風景」を、彼は「『前衛音楽』、『巨匠の演奏』、『ポピュラー音楽』の併走」だと言い切ります。もはや「アングラ化」した前衛音楽はともかく、残りの2者ははからずも「楽譜」としてではなく、「音」としての音楽であることが注目されます。
この著作のサブタイトルは「『クラシック』の黄昏」、「クラシック音楽」の本質を先ほどのように言い切った著者の手によって、「楽譜」を介在しなければ存在できなかったこの音楽の終焉は、見事なまでに誰にでも納得できる事実となったのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-04 20:32 | 書籍 | Comments(0)
雲の歌 風の曲




安野光雅(絵と詞)
森ミドリ(曲)
岩崎書店刊
(ISBN4-265-81012-8)


安野光雅さんは、私にとって殆どアイドルに近い絵本作家です。オランダの画家M・C・エッシャーに触発された「ふしぎなえ」などの初期の作品群は、本家エッシャーの世界を継承しながらも、安野さん独特の温かい絵柄でより親しみやすい魅力を持つものでした。「ABCの本」や「あいうえおの本」のように、全ての文字について何らかの仕掛けを施すという緻密な仕事には、なにか人の能力を超えた叡智のようなものさえ感じさせられたものです。そして、衝撃的だったのが「もりのえほん」。一見何ごともないのどかな森の風景が、実はさまざまなものが巧みに隠された「騙し絵」だったと知った時の驚きは、今でも忘れません。その流れから生まれたのが「旅の絵本」です。その第1巻はまさに「騙し絵」のオンパレード、隠されたものを探し出す作業は、なんと知的な体験だったことでしょう。
その一方で、安野さんは国内やヨーロッパなどの風景を独特の水彩画で綴った画集を数多く生み出しています。そこには、絵本に見られたある意味刺激的な要素とはちょっと異なる、素朴な懐かしさを呼び覚ましてくれるような、温かいたたずまいが漂っていて、こちらの安野さんも私は大好きです。一方で、安野さんの書くエッセイも、とても魅力のあるものです。その中に垣間見られる大きな世界観と柔軟な人間性は、私達を惹き付けて止みません。
そんな安野さんの、「作詞歌」としての新たな一面を見せてくれるものが、今回の新刊です。そもそものきっかけは、彼の生地である津和野にある「安野光雅美術館」に展示してあった、「つわのいろは」という一編の詩でした。2001年に作られた「夢に津和野を思ほえば」で始まるこの詩は、実は「いろは歌」、つまり、いろは48文字全てを重複なく使い切るという非常に技巧的なものだったのです。その様な制約の中で見事に故郷津和野の情景を歌いきっているというのですから、とてつもない、言い換えれば、いかにも安野さんらしいものであると言えるでしょうね。ここを訪れた作曲家の森ミドリさんが、この詩を見て曲を付けたのが、安野さんと森さんとのコラボレーションの始まりでした。作曲家の求めに応じて、ワンコーラス分しかなかったこの詩にさらに2コーラスとサビを2コーラス追加したのが、作詞家安野光雅のデビューとなりました。このロングバージョンは、「津和野の風」というタイトルとなり、2003年にリリースされた森さんのチェレスタ独奏の5枚組アルバムにも収録されることになりました。さらに2005年には混声合唱に編曲され、来年の3月にさる合唱団によって初演(合唱版はそれこそ世界初演!)されるということです(この演奏会では、もう1曲「つわのの子守歌」も演奏されます)。
ここに収録されている「作品」は、全部で31曲。巻末には森さんが作った曲の楽譜も添えられています。もちろん、それぞれの曲には安野さんの絶妙の「挿絵」が添えられていますから、彼のイメージが言葉と絵から伝わってくることになります。「津和野」こそ、夕暮れ迫るもの悲しい情景ですが、大半は子供がたくさん登場する「童謡」の世界、安野さんの子供の歌に対する一つの見識が存分に発揮されています。
そして、まるで「旅の絵本」を思わせるヨーロッパの風景をバックに歌われているのが、安野さんの面目躍如といった「ロンドン頌歌」と「行ってみたいの」という、2つの「いろは歌」です。もっともこれは「津和野」とは異なり、「いざ手をとりて ローマの都 花のバチカン 虹の丘」とか、「行ってみたいの ロンドンパリィ 花の帽子が 似合うでしょ」といった具合に、フレーズの頭を「いろは」でまとめたという別の技法が駆使されたものです。
せっかくですから、楽譜ではなく「音」となったCDが一緒にあんのが良かったのに、とは誰しも思うことでしょう。いずれ、その様なものも出ることを、期待しましょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-30 13:45 | 書籍 | Comments(0)
バッハの街 Bachstätten









Martin Petzoldt著(小岩信治・朝山奈津子訳)
東京書籍刊
(ISBN4-487-79840-X)


バッハの「街」ですから、元のタイトルが「Bachstädte」だと思ったら、そうではないのですね。これだと「バッハゆかりの場所」みたいな訳の方が、より正確な気はしますが。しかし、サブタイトルはもっとすごいことになっていますから、ここでめげてはいけません。「Ein Reiseführer zu Johann Sebastian Bach」、素直に「ヨハン・セバスティアン・バッハへの旅行ガイド」と訳しておけば良いものを、関係者が付けた邦訳は「音楽と人間を追い求める長い旅へのガイド」ですと。なんだかなぁ、という感じですね。ことバッハに関してはそのぐらい重々しいタイトルでないと、世の中では認められないとする感覚が、いまだにこの国には蔓延しているのでしょう。
という具合に、いつかご紹介したカルショーの本にも見られたように、クラシック音楽の書籍の翻訳にあたっては何が何でも「教養」を前面に押し出したいという翻訳者達の美しい「使命感」は、明治以来の「伝統」として、これからも変わらず継続されていくことでしょう。何とうざったい。余談ですが、翻訳業界でのちょっと普通の感覚では理解しにくい不思議な習慣は、他の分野でも大手を振って闊歩しています。特に、児童文学での見当外れの親切心といったら、殆ど犯罪的ですらあります。最近映画化されて大ヒットとなった「チャーリーとチョコレート工場Charlie and the Chocolate Factory」の原作(まず、タイトルの訳が「チョコレート工場の秘密」というだけで、ひいてしまいます)あたりは、その最も分かりやすい例です。今、所狭しと書店をにぎわしているその「新訳」を読んでみると、訳者が誇らしげに「チャーリー・バケットは、チャーリー・バケツとしないことには、ちゃんと翻訳したことにはならない」と開き直っているのですからね。「ベルーカ・ソルト」が「イボダラーケ・ショッパー」ですって。これらのキャラクター名にはちゃんとした意味があるのだから、それが分かるような翻訳でないといけないのだとか。こういう感覚にはとてもついて行けないと思うのは、私がそういうものに慣れていないというだけのことなのでしょうか。そんなことを言っていたら、それこそ「バッハ」は「小川さん」と訳さなければならなくなりますし、シューベルトは「靴ひもさん」ですよね(それは・・・)。


と、関係のないところで悪態を付いてしまいましたが、この本の価値は、そんなおかしなセンスの翻訳でいささかも減じるものではありません。言ってみれば、300年近くの時を軽く飛び越えた「旅行」を体験できるという、まるでタイムマシンのような「ガイド」、これはちょっとすごい発想です。
その仕掛けはこうです。バッハが生前住んだり訪れたりした場所を42ヵ所ほど探しだし(その中には、確かに行ったという証拠がないところも含まれます)、資料を基にそこでバッハが何月何日にどういうことをしたのかを、事細かに述べているのです。人の名前がたくさん出てくるのには少しひるみますが、その、まるで見てきたような筆致を支えている、現在のバッハ研究が到達した成果の精密さには驚かずにはいられません。そして、そのあとに続くのが、現在のその場所の詳細な説明です。歴史的な教会や、その中に設置されている、バッハが触れたであろうオルガン(もちろん、現在は建て替えられて原形をとどめないものも多数)のストップ表まで、克明に記載されているのです。さらに、交通手段や連絡先、教会を見るには予約が必要か、など、本当の意味での「ガイド」まで付いているのですから、すごいものです。ですから、これを読んで実際にそこに行ってみたくなる人も多いことでしょう。あなたの一番大切な人と一緒に行かれてみてはいかがでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-14 20:06 | 書籍 | Comments(0)
のだめカンタービレ Selection CD Book









Various Artists
講談社刊(ISBN4-06-364646-7)


2年以上前の「おやぢの部屋」でこのマンガをご紹介した時には、「ブレイク寸前」とは言ってみたものの、まさかここまで「ブレイク」してしまうなどとは思いだにもしませんでした。今や、新しい単行本が出れば平積みで一番目立つところに並べられますし、コミック・チャートのベストテン入りは常に約束されているという、まさに大ベストセラーになってしまったのですから。そうなってくると、ここで舞台となっている「クラシック」の人たちの反応が注目されてきます。その端的なものが、先日のNHK教育の「芸術劇場」。この、長い歴史を持つ権威ある番組で、このマンガが紹介されるに及んで、もはや一つの作品の枠を超えたところでの「のだめ」ブランドの一人歩きが始まったのです。「ブレイクしたマンガで使われた音楽だから、ブレイクするに違いない」と言う、クラシック関係者の大いなる勘違いを道連れにして。
実は、このような打算に基づいた商品は、以前にも企画されていました。2003年の9月に「限定盤」として発売されたこのCDです。

東芝EMI/TOCP-67266

もちろん、「マンガの中で使われた曲を集めたサントラ盤」とは言ってみても、収録されているのはどこでも手に入る安易な音源だけ、マンガを読んで本当に聞きたいと思った珍しい曲がその中で聴けるのではないか、という「クラシック・ファン」の期待には、完璧に背いたものでした(それでも、「限定盤」ということで、現在ではプレミアが付いていますが)。
今回はCDではなくCDブックという体裁です。収録曲も前作と似たり寄ったり、今回レーベルが異なるために演奏者は異なっていますが、音的には全く魅力は感じられません。何しろ、「安い」音源を求めてリヒャルト・シュトラウスの自作自演の「ティル」などが入っているのですから。ただ、1曲だけ、見慣れない曲が収められています。海老原大作作曲「ロンド・トッカータ」。こんな曲、知ってました?初めてイギリスに行った人の曲でしょうか(「ロンドン・遠かった」)。
実は、いくらクラシックにかけては人後に落ちない「おやぢ」常連のあなたでも、この曲を聴いたことがあるはずはないのです。何しろ、この曲はこのCDブックによる演奏が「世界初演」になるという、極めて珍しいものなのですから。種明かしをしてしまえば、この曲はこのマンガに登場した「架空の曲」なのです。のだめがコンクールを受ける時の課題曲の中の1曲として、第8巻にタイトルだけが登場、そのあと第11巻でパリに留学したのだめが一人で弾いていると、同じアパルトマンの学生が「さっき弾いてた曲なに?」と聞く時に「楽譜」付きで登場します。結構難しい曲なのに、彼が初見で引いてしまったためのだめは落ち込む、というオチが付きます。その時に使われた楽譜はそこしか出来ていなかったのですが、それをきちんと8分ほどの曲として完成させ、実際の「音」として録音したものが、これなのですね。もちろん、作曲家の海老原というのも架空の人物、一応本物の作曲家が、その仕事を行っています。あいにく、私はその作曲家の名前は初めて知りましたが。
そんな、言って見れば「遊び心」が横溢したCDブック(もちろん、「佐久間学」さんのポエムも載っています)には違いありませんが、メインは今まで雑誌の表紙を飾ったイラストなどを集めたもの、この曲を聴くためだけに購入するのは、あまりお勧めできません。何しろCDの出しにくさったら、前に苦言を呈したBMGのヴェルディのレクイエムの比ではありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-11 20:55 | 書籍 | Comments(2)
Putting the Record Straight









John Culshaw著(山崎浩太郎訳)
学習研究社刊
(ISBN4-05-402276-6)


ジョン・カルショーという骨が丈夫になりそうな名前(それは「カルシューム」)、クラシックレコードの愛好家でしたら必ずどこかで聞いているはずです。イギリス・デッカのレコーディング・プロデューサーとして、1950年代から60年代にかけてきら星のような名盤を作り出した人。中でも、スタジオ録音では史上初の「ニーベルンクの指環」の全曲録音を成し遂げたことは、広く知られています。
その「指環」の録音に携わっている間の興味深い事実を克明に語った記録は「Ring Resounding」というタイトルで1967年に出版され、翌年には黒田恭一氏の翻訳で日本語版も出ています(音楽之友社刊・タイトルは「ニーベルングの指環」)。1958年の「ラインの黄金」に始まり、1965年の「ヴァルキューレ」で終わった録音セッションのドキュメンタリー、これに接した人ならば、だれしも、これらの録音が現時点でもこのレパートリーのファースト・チョイスとして万人に勧めることの出来る名盤たり得ているかが納得できるという素晴らしい本は、あいにく今では入手不可能な状態になっています。私は持っていますがね。


この新刊は、残念ながらその名著の復刻版ではありませんでした。カルショーは1980年に、55歳の若さで急逝してしまうのですが、これはその死の翌年に刊行された、いわば「遺作」というようなものです(実際、最後の部分は未完のままになっています)。ここでは、「Ring~」で述べられていた以外のことが、デッカに入社する前の海軍航空隊(実は、その前の銀行員の時代も)の時の体験から詳細に描写されているのです。彼は最終的にはレコーディング・プロデューサーという仕事に就くのですが、その職を得てからも文筆の道、とりわけ小説家として身を立てたいという希望を持っていました(実際、出版された小説も2、3ありました)。ですから、その筆致は読むものをとらえて放さない魅力的なもの、文の構成といい、時折見せるユーモラスな仕掛けといい、最後まで飽きることはありません。
もちろん、私たちにとっては、今まで幾度となく聴いてきた名録音が誕生したまさにその時の様子が生き生きと描かれているのですから、面白くないはずがありません。中でも、カラヤンとウィーン・フィルによって録音された「ツァラ」に関する部分では、例の「2001年」との関わりまできちんと述べられているのですから、ここのマスターのように驚喜にむせび泣いてしまう人もいるかもしれません。何しろ、今まで傍証でしか確認できなかったことが、制作者自身の手で明らかにされているのですから(この件に関しては、マスターがこちらに「追記」を設けましたので、参照して下さい。ちなみに、この部分の訳者による「注釈」は全くの事実誤認、ベームとシュターツカペレ・ドレスデンによる「ツァラ」の録音など、存在していません)。
実は、この本を執筆していた時には、カルショーはデッカを離れていました。そして、デッカ本体も、経営者の死によってポリグラムに売却されるという事態に陥っていたのです。デッカの最盛期を作り上げ、その没落にも立ち会えたはずのカルショー、思いがけない病気で亡くなることがなければ、この中に執拗に登場する経営者との確執を伏線とした、壮大な「悲劇」を完結させることが出来ていたことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-03 19:49 | 書籍 | Comments(1)