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カテゴリ:書籍( 153 )
シベリウスの交響詩とその時代
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神部智著
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-13055-5




昨年、2015年はシベリウスの生誕150年ということで、コンサートやCDなどのリリースで盛り上がっていましたね。ただ、彼は1865年の12月8日に生まれていますから、正確には昨年のその日が「生誕150年」の始まりで、今年の12月まではそれが続くことになります。でも、おそらく世間では2016年になったとたんに、昨年のようなシベリウス・フィーバーはきれいさっぱりなくなってしまうのでしょうね。そんな、正確な意味での「150年」の始まりごろに刊行されたのが、この本です。
著者の神部さんという方は、おそらく今の日本では最もシベリウスに関しての多くの情報に通じているのではないでしょうか。そのお仕事の一端である、音楽之友社から出版されている交響曲のスタディ・スコアの校訂と、その解説の精緻さには、驚きを隠せません。以前からシベリウスの作品はブライトコプフ&ヘルテルから全集の刊行が続いており、そちらのスコアの方がよりオーセンティックなものだと思っていて、こちらにはほとんど見向きもしていませんでしたが、ある日実際に手に取ってみるときちんとその全集版の校訂結果を反映されている上に、「日本語」で最新の情報が詰まった的確な解説が読めることが分かったのは、本当に衝撃的でした。現在は「3番」までしか出ていませんが、継続して残りのものも出版が予定されているというので、とても楽しみです。
そんな神部さんの、タイトルだけを見ると単にシベリウスの「交響詩」だけに特化した解説書が出たのかと思っていたのですが、これも「実際に手にして」みると、そんなジャンルを超えた広く深い内容のものだったので、改めて驚いているところです。
つまり、ここでは一応、「交響詩」と言われているものを作曲年代順に扱うという構成にはなっていますが、どうやらそれらの交響詩たちは、単に年代を区切る「骨格」として配置されているだけのようなのですね。もちろんそこではその交響詩のアナリーゼっぽい「楽曲解説」も述べられていますが、もっと肝心なのはその骨格に絡み付いている「筋肉」や「皮膚」といったパーツに相当する、それが作られたころに作曲家はどのような状態(精神的なものから経済的なものまで)にあったか、とか、その頃の国際情勢がどのようなものであり、それが作曲家の創作活動、さらには生活そのものにどのように影響を与えていたかということが、実に詳細に語られているのですよ。それによって、それぞれの曲の位置づけやそこに込められた作曲家の意思がよりはっきりするのは、言うまでもありません。
それらの語り口が、とても分かりやすい文章で綴られているのも大きなポイントです。「クレルヴォ」の章などは、まるで推理小説のようにこの曲の「謎」とされていた事柄を明快に解いてくれるのではないでしょうか。
さらに、それらを語るときには、実際の資料を具体的に提示しているという点が、とてもリアリティを感じさせてくれます。シベリウスの自筆稿や書簡、日記なども、今では新しい研究が進んでいるそうで、そこからはかなり精度の高い「事実」が読み取れるようになっています。さらに、彼の作品についての評価なども、驚くほど多くの資料によって発表された当時の巷のコメントが生々しく伝えている内容が紹介されています。
そのような手法で著者が目指したのは、よく言われている「フィンランドの国民的作曲家」としてのシベリウス像を超えた、より普遍的な音楽を生涯にわたって追及していた作曲家の姿を明らかにすることでした。そこから見えてくるものは、いたずらに世間の潮流に身を任せることなどは決してない、自身の信じる道を生涯にわたって貫いた求道者の姿です。この本には、そんな作曲家の作ったものを、より深いところで聴いてみたいと強く望まずにはいられないような力が漲っています。

Book Artwork © ONGAKU NO TOMO SHA CORP.
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by jurassic_oyaji | 2016-01-04 20:39 | 書籍 | Comments(1)
BACH/Messe in h-Moll
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Ulrich Leisinger(ed)
CARUS/CV 31.232/07
ISMN M-007-14596-5(study score)




先日のCDでバッハの「ロ短調ミサ」の新しい楽譜の存在を知って、その場で出版社に直接注文したら、本来なら到着まで1ヶ月はかかるとされる一番安い(7ユーロ)シッピングの扱いなのにたった1週間で届いてしまいましたよ。国内で買うのより、1000円以上お得。
CDの時にこの楽譜の概要は書きましたが、資料として自筆稿のスコアとパート譜があって、それぞれの内容が同じではなかった時に、どちらを決定稿とみなすか、という、なかなか難しい判断を迫られる状況にあったわけですね。そういう時にはどうするか、という点でのせめぎあい、というか、出版社間の覇権争いのようなものを見る思いですね。でも、演奏家にとっては、実際に演奏するかどうかということとは別の、一つの貴重な資料が簡単に手に入るというメリットはあります。
そういう観点でこのCARUS版を見ていくと、最も違いの大きい「7a/Domine Deus」では、まず自筆パート譜にあるようにフルートの最初のフレーズにだけ、この「ロンバルディア・リズム」がきっちりと記譜されていました。

しかし、よく見ていくと、もっと先の27小節目にも、新バッハ全集では十六分音符の連続だったところがこのリズムに変わっている箇所がありました。上から2段目から4段目まで、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラのパートです。

ですから、一応弦楽器でもこのリズムでやってくれ、と念を押しているという意味が込められているのでしょう。ただ、その下のソプラノとテノールのソリストのパートでは、平坦なままなのがちょっとヘンですね。もちろん、CDではソリストたちも弦楽器と同じリズムで歌っています。
ヘンと言えば、実はここで校訂者は不思議なことをしています。確かにパート譜では第2ヴァイオリンとヴィオラはしっかりこのリズムに書かれていますが、第1ヴァイオリンは、自筆も、コピー(これは別の人の筆跡)も平坦なリズムなんですよね。

↑第1ヴァイオリン(自筆)

↑第1ヴァイオリン(コピー)

↑第2ヴァイオリン

↑ヴィオラ

それをこのリズムに勝手に直しているのですよ。なぜ、こんなすぐバレるような「改竄」を行ったのか、校訂者の意図は到底理解不能です。
もう1曲、「9a/Quoniam tu solus sanctus」でも、バスのソロのパートに、パート譜では改訂が加えられた部分が数多くありますが、そこにはスコア(=新バッハ全集)の譜面が「ossia」としてもう1段加えられています。
これらの改訂は、バッハがパート譜を作成した1733年に行われたものなのですが、もう1か所、それとはちょっと事情が異なる部分があることが、今回のスコアから分かりました。それは「4b/Et in terra pax」の、小節番号はその前の「4a/Gloria in excelsis Deo」からの続きで120小節目から始まるフレーズの「hominibus」の「mini」というテキストに付けられたリズムです。ここは有名なところで、かつての「旧バッハ全集(1857年)」では♪+♪だったものが、「新バッハ全集(初版は1954年)」では付点音符のリズムに変わっていました。それが、CARUS版ではまた元に戻っているのですね。

↑旧バッハ全集

↑新バッハ全集

↑CARUS版

これは、パート譜を作った時点では♪+♪だったものを、それ以降(おそらく、1748/49年?)にバッハがスコアに訂正を書き込んだことを示唆するものです。実際にスコアのファクシミリを見てみると、特にベースのパートでははっきり「後で書き込んだ」ように見えますね。

↑十六分音符のヒゲの向きが揃っていない

こういうことがあるので、この、「第1部 Missa」と呼ばれている「Kyrie」と「Gloria」の部分は、単純に「ドレスデンのパート譜は、スコアを改訂したもの」と言い切ることは出来なくなってしまいます。
この部分、有名なカール・リヒターの1961年のARCHIVの録音を聴きなおしてみたら♪+♪でした。ということは、リヒターはまだ旧バッハ全集を使っていたのでしょうね。1958年に録音されたERATOのフリッツ・ヴェルナー盤ではすでに新全集版が使われていたというのに(もう1ヵ所のチェックポイント、「Benedictus」のオブリガートも、リヒター盤はヴァイオリン、ヴェルナー盤はフルートでした)。ARCHIVというのは、今から考えるとそれほど「学究的」なレーベルではなかったのですね。

Score Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2015-08-28 22:50 | 書籍 | Comments(0)
音楽という<真実>
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新垣隆著
小学館刊
ISBN978-4-09-388421-1




もはやすっかり「タレント」と化した感のある新垣隆さんの初めての著作が上梓されました。もちろん、これは彼が自ら「執筆」したものではありません。ここで「取材・構成」というクレジットを与えられた人物が彼にインタビューしたものを、本の形にまとめたものです。そのような職業は、広義では「ゴーストライター」と呼ばれます。「ゴーストライター」として売り出した新垣さんが「ゴーストライター」を使っていたというのでは全然シャレになりませんが、このようにクレジットさえ出しておけば、それはもはや「ゴーストライター」ではないのだ、という、まるで安倍晋三のようなお粗末な詭弁が、出版業界でも通用しているのでしょう。
不幸なことに、おそらく今回の「ゴーストライター」氏は、きちんとした音楽の知識や経験が皆無だったのでしょう。その道のプロの新垣さんの話を正確に理解できないままに原稿に起こしてしまったようなところがかなり見られます。例えば、「ライジング・サン」を作るときに、「依頼主」から「200人のオーケストラで」と言われて面食らった話が出てきます。それは、音楽の現場では当然のリアクションで、せいぜい「100人」もいれば間違いなく「超大オーケストラ」になるのが、この世界の常識です。ですから、その「200人」というのはまさに「アマチュアの発想だ」と新垣さんは言い切っていたはずなのに、いざ実際にスタジオで新垣さんが指揮しているシーンになると、それが突然「200人のオーケストラ」になっているのですよ。これは明らかに現場を知らない「ゴーストライター」氏の勘違い。最悪ですね(それは「ワースト・ライター」)。
そんな体裁はともかく、ここで初めて当事者自身の口から語られた彼の仕事ぶりはやはりとても興味深いものでした。今まで報道されていたイメージでは、依頼主はかなり具体的なイメージを持って新垣さんに「発注」したような感じでしたが、実際にはもっと大雑把な、単に「こんな風にしてくれ」という参考音源を与えることが最大の伝達手段だったようですね。いみじくも、この中で「黒澤明がマーラーの『大地の歌』みたいに作れと武満徹に言った」と語っているのと同じようなパターンなわけです。ですから、依頼者は、実際の「作曲」に対しては何も関与していないということになりますね(コメントなどは逆に邪魔だったと)。
そして、あの、後に「HIROSHIMA」となる「交響曲第1番」を作った時の「本心」には、誰しもが驚いてしまうことでしょう。依頼主からその話があった時には、もしそんなことが実現してしまえば、間違いなく本当のことがバレてしまうと思った新垣さんは、誰も聴こうとは思わないほどのばかでかい作品を作ったのだそうです。ですから、そんな演奏されるはずのないものが実際に広島で演奏されてしまった時には焦ったことでしょうね。もちろん、新垣さんはその初演には立ち会ってはいないのですよ。ですから、以前こちらでその初演の時の指揮者の証言をご紹介しましたが、スコアに指揮者が手を入れた際に激怒したのは、依頼主だということになりますね。そして、新垣さんのスコアは、実は手を入れなければ演奏できないほどのお粗末なものだったということも分かります。
最後に彼がのうのうと「私が行ったことのいちばんの罪は何かと言えば、それは私がワーグナー的に機能する音楽を作ってしまったことでしょう。人々を陶酔させ、感覚を麻痺させるいわば音楽のもつ魔力をうかうかと使ってしまったわけです」と語っていることこそが、彼の最大の「罪」なのだとは思えませんか?彼の作った音楽にそんな力があると思うこと自体が、そもそもの彼の思い上がり。そのような人が、憧れている武満徹ほどの作曲家になれるわけがありません。なれてもせいぜい「HIROSHIMA」をさんざん持ち上げた三枝成彰あたりではないでしょうか。それではあまりに悲しすぎます。

Book Artwork © Shogakukan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-06-21 18:58 | 書籍 | Comments(0)
オペラの学校
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ミヒャエル・ハンペ著
井形ちづる訳
水曜社刊
ISBN978-4-88065-363-1




ドイツのオペラ演出家、ミヒャエル・ハンペが書いた本です。ハンペといえば、カラヤンがザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラを上演した時のドキュメンタリー映像に登場していたことがありましたが、それを見る限り、自分の持ち場の演出の面でもカラヤンにずけずけと介入されている哀れな演出家、というイメージしかありませんでした。
しかし、今では2014年に執筆され、2015年の2月にドイツで刊行された彼の著作が、その4か月後には日本語訳で登場するほど、日本のオペラ愛好家、あるいはオペラ製作者にとっては重要な存在となっていたのですね。実際、彼は新国立劇場が作られた時にはブレインとして参加していたり、その新国立劇場のみならず、他のカンパニーでも実際に演出を手掛けるなど、日本のオペラ界とはかなり深いところでつながりを持っていますから、これは当然のことなのでしょう。彼も日本のパンツを愛用しているのだとか(それは「モンペ」)。
この本の原題は「Opernschule für Liebhaber, Macher und Verächter des Musiktheatres」、直訳すれば「音楽劇場の愛好家、製作者、そしてそれを軽蔑している人のためのオペラの学校」となるのでしょうが、これを訳者は「オペラの学校 すべてのオペラ愛好家、オペラの作り手、そして、オペラ嫌いのために」と訳しました。しかし、タイトルの後半はなぜか帯(↓)に印刷されているだけで、それを外してしまうと表紙にはもちろん、本文のどこにもないようになってしまいます。なんか変。

この「オペラ嫌い」のフレーズは、この本の冒頭、ハンペ自身がインタビューを受けているような体裁で書かれた前書きに登場します。
「嫌いなのは機関、すなわちオペラ作品をそれ相応に上演しようとして、400年もの間、例外はあるものの、その作品の価値を低下させている活動です」

そんな、ほとんど逆説とも捕えられかねない言い方のような、非常に難解で意味の捕えにくい文章が最後まで続くのですが、どうもそれは著者の責任ではなく、もしかしたら意味も分からないで直訳に走ったのではないかと思えるほどの、極めて劣悪な日本語訳のせいなのかもしれません。例えば、「上拍」という訳語。これは「Auftakt」を訳した言葉で、確かに楽典の教科書などには頻繁に登場する単語ではありますが、その実体を理解できる人はどのぐらいいるのでしょう。そのまま「アウフタクト」と訳せば、その理解度は格段に上がるはずですが、それがやはり特殊な音楽用語であることに変わりはないので、適切な注釈を加えるべきだったのでは。それが使われている章のタイトルが「『トリゾフレニア』による上拍」ですよ。いったい何のことかわかりますか?
そのような、まるで読者のことを考慮していないひどい文章を、それなりに理解しようと努めながら読み解くという作業も、時には刺激的な体験です。そんな「苦行」の果てには、間違いなく著者の理想とするオペラ上演の姿が見えてくることでしょう。ここでは、彼のキャリアのスタートは舞台演出家ではなく音楽家(チェリスト)だったということが、重要なポイントです。彼は、スコアを完璧に読む力を備えているのです。したがって、歌手がステージで行わなければいけないことは、全て音楽によってきめられている、と主張しています。これはかなりショッキング。だとしたら、今世界中のオペラハウスで上演されているオペラの演出は、ほとんどが間違ったものだ、ということになるのでしょう。なんと過激なことを。
ドイツのオペラハウスのライブ映像を見ていると、エンドクレジットのスタッフの中によく「ドラマトゥルク」という役職が登場します。これも、ハンペ先生による丁寧な説明を読むことが出来ますから、いったいどんなことをやっている人なのか、詳しく知ることが出来るはずです。これは、かなり有益。

Book Artwork © Suiyosha
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by jurassic_oyaji | 2015-06-16 23:23 | 書籍 | Comments(2)
戦火のシンフォニー/レニングラード封鎖345日目の真実
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ひのまどか著
新潮社刊
ISBN978-4-1-335451-2




なぜかこのたびショスタコーヴィチの「交響曲第7番」とかなり深いおつきあいをすることになって、何かその素性に関する資料がないかとチェックをしてみたら、こんな、ほんの1年前に刊行された書籍が見つかりました。
著者はかつてはプロのヴァイオリニストだった方ですから、音楽に対してはとても深いところで接するスキルを身に着けています。さらに、この方の場合、ロシア語のオリジナルの資料を読むために、それまでは全く知らなかったロシア語を勉強するところから作業を始めたというのですから、もうそれだけで感服してしまいます。
これは、「レニングラード封鎖」という史実に関して克明に描写するという「ノンフィクション」ではありますが、それらが連なる中で浮かび上がってくる「物語」には、即座に引き込まれてしまいます。しかし、この本の目的はそんな「戦記」を綴ることだけではありません。その「レニングラード封鎖」を「縦糸」にして、それに絡まる「横糸」として登場しているのが、その街の音楽家たちなのです。「戦火」のなかで、一時は音楽家としての自己を否定して戦時下要員として生き始めた彼らが、またオーケストラのメンバーとして復帰し、同じく「戦火」の中でショスタコーヴィチによって作られ続けた「交響曲第7番」を演奏するようになるまでの、壮絶な物語がここでは描かれているのです。
信じがたいことですが、ライフラインは断たれ、食料も底をついて餓死者が毎日何千人と出ているうえに、連日の空襲でもう疲弊しきっているはずの市民が、音楽を演奏することによってまだまだ力を持っていることをアピールしようとするのですね。もちろん、これは市当局の幹部が「プロパガンダ」としての音楽の影響力を認めて、組織的に放送局のオーケストラを再建しようとしたもの、そんな発想が、ソ連では可能だったのですね。
しかし、それを敢行するのには当然のことですが、多くの困難が伴います。そもそも、指揮者が餓死寸前の体で救急所に収容されているのですからね(その救急所の悲惨な状況もとてもリアル、トイレも使えない時にはどうなるか、そんなことは知りたくもありません)。そして、このオーケストラは小曲を演奏することから始まって、最終的にはショスタコーヴィチが「レニングラードのために」作ったとされる交響曲を演奏するまでを描くのが、このノンフィクションの山場となっています。いやあ、このあたりは本当に感動的ですよ。
もちろん、これはノンフィクションとは言っても、そもそもの「事実」がすでにソ連当局のフィルターにかけられていることは間違いありませんから、「実話」として鵜呑みにするのは極めて危険なことです。当初、筆者は小説として刊行するつもりだったと言いますから、そのような「筆が滑った」と思われるようなところも見られなくはありません。
そして、最大の「謎」は、やはりあのヴォルコフの「証言」を知ってしまったからには素直には受け入れることが出来なくなってしまっている、この曲のテーマです。ここでは、1ヵ所だけ、その「証言」を裏付けるエピソードも紹介されています。それにもかかわらず、筆者はまずこの「証言」を徹底的に無視することから論を始めているように思えます。そうなってくると、作曲の途中でレニングラードを離れてしまった作曲家の行動や、初演は別のところで行い、レニングラードでの初演でも当初は、すでに疎開していたレニングラード・フィルに任せるつもりだったという著者の「見解」には、かなりの齟齬が見えてはこないでしょうか。
本当に、ショスタコーヴィチという人は難解です。おそらく、この交響曲を自分で何回も演奏したところで、その「謎」が解けることはないのでは。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2015-04-27 21:19 | 書籍 | Comments(0)
ポホヨラの調べ/指揮者がいざなう北欧音楽の森
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新田ユリ著
五月書房刊
ISBN978-4-7727-0513-4




指揮者の新田ユリさんと言えば日本シベリウス協会の会長を務められるなど、シベリウスを中心にした北欧の作曲家の演奏に関してはまさにオーソリティとして自他ともに認められている方です。そんな新田さんは、文才も豊か、日々の指揮活動などを事細かに語ったFacebookやブログの文章は、常に関係者への配慮が込められた適切さの中に、ご自身の思いを端的に伝えているという驚くべきものです。そんなスキルの真髄を込めて書き上げられた本が、面白くないわけがありません。
表紙の一番上に「シベリウス&ニルセン生誕150年」という文字があります。もちろん、この本が今年のそのような記念年をさらに盛り上げるために企画されたものであることはまちがいありません。しかし、おそらくそれは単なるきっかけ、新田さんの脳に蓄積された豊かな知識と経験値は、ずっとこのような発露の機会をうかがっていたのでしょう。それが地表に現れて輝く光のもとに姿を見せたものが、この本なのではないでしょうか。
全体のページの半分を占めているのが、シベリウスの全交響曲と主な管弦楽曲(+ヴァイオリン協奏曲)についての記述です。それらは、その辺のCDのブックレットやらネットのブログやタイムラインで見つかる通り一遍の「楽曲解説」のようなものとはまるで次元を異にするものです。新田さんの場合、まずは客観的な事実、創作に至るまでの状況など、基本的なデータはしっかり述べられているのは基本ですが、その部分ですでに多くの資料を立体的に読み解いた末にたどり着いたとても見晴らしの良い情景が広がっています。そしてそのあとに続くのが、演奏家という視点から曲の真髄に分け入っていくという作業です。それは、実際にスコアの隅々までを読み込んで、作曲家の思いを完璧に受け取ったものにしか書くことの許されないほどの精緻かつ深遠なものです。ですから、もしかしたらこの部分を真の意味で理解するためには、ある程度の音楽的な知識と経験が必要とされるのかもしれません。しかし、それは逆に未熟な読者にとってはさらなる知的探求を促すものに違いありません。もちろん、それなりの深みに達した聴き手にとっては、これ以上のものはないでしょう。まして、実際にオーケストラのメンバーとして新田さんの指揮に接していたりすれば(新田さんは多くのアマチュアの団体との共演を行っていますから、そんな機会がないとは限りません)、これほど興味深く読める部分もないはずです。
楽譜に関する最新の情報が盛り込まれているのも、新田さんならではのことです。現在、シベリウスの初期稿や編曲なども含めてすべての作品を刊行するという全集の編纂が進行中で、現時点ではその半分近くのものが出版されていますが、新田さんはそれらの校訂を担当している人物とも直接コンタクトできるという立場にありますから、その情報の正確さに関しては誰よりも精通しています。ごく最近、昨年の12月に刊行されたばかりのヴァイオリン協奏曲の全集版についても、ここで初めて楽譜として目に触れることが出来るようになった初期稿への熱い思いをつぶさにうかがうことが出来ます。なんでも、6月には実際にこの初期稿を指揮される機会があるのだそうですね。新田さんの「経験値」はさらに高まります。
さらに、シベリウスやニルセン以外の北欧諸国(フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランド)の作曲家200人(!)を、代表的なCDとともに紹介しているという「編集部」の偏執狂ぶりにも驚かされます。それはただの「付録」ではなく、新田さんの本文とはしっかり有機的に関連付けられているという優れものです。
217ページにリハーサルで指揮をなさっている写真が載っていますが、そのオーケストラはなんと仙台ニューフィル。なんかうれしくなりました。

Book Artwork © Gogatsu-Shobo
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by jurassic_oyaji | 2015-04-17 20:25 | 書籍 | Comments(0)
ところで、きょう指揮したのは?/秋山和慶回想録
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秋山和慶・冨沢佐一著
アルテスパブリッシング刊
ISBN978-4-86559-117-0




指揮者の秋山和慶さんの「回想録」というものが出版されました。秋山さんのほかにもう一人の「著者」の名前がありますが、これはよくある「ゴーストライター」とは異なる、ちょっと面白い立場からの参加です。この冨沢さんという方は中国新聞社の記者などを務めた方で、この本の骨子となった原稿はその中国新聞に、秋山さんへのインタビューを文字に起こすという形で連載されたものなのだそうです。ただ、それだけを読むといかにも淡々としているので、それを補うために冨沢さんが秋山さんのお話に登場する事柄に「史実」としての客観的なデータを書き加えているのです。
このやり方は、例えばゴールウェイの自伝のように、本人とゴーストライターとの記述が混然一体となっているものとは好対照です(「婚前一体」だったら問題)。ここでは、秋山さんの部分には、何か物足りなさが残ってしまうようなところがあったものが、冨沢さんの追記によって、見事に「資料」として読み応えのあるものに仕上げられているのではないでしょうか。
ちょっと驚いてしまうのは、この冨沢さんという方は記者時代には音楽に関する仕事は全くやっていなかったのに、この秋山さんへのインタビューや、その後の単行本のための執筆を行うために、音楽のことをものすごく勉強されている、ということです。これはご自身があとがきで述べられていることなのですが、それを読むまでは、その辺の音楽ライターよりもずっと確かな目に裏付けられたその筆致に、圧倒されていましたからね。
正直、秋山さんという指揮者に関しては、例えばメジャー・レーベルからCDをリリースするといったような目立ちかたはされていないからでしょうが、何か「地味」な印象がありました。テレビで映像を見たことも何回かありましたが、その指揮ぶりはとてもしなやかであるにもかかわらず、どこか醒めたところがあるような気がしたものです。しかし、この本を読んでいくと、それはかなり表面的な印象であって、実体としての秋山さんはとてつもなくエネルギッシュなキャラクターだったことがわかってきます。見かけは穏やかでも、内に秘めた情熱はハンパではないという感じですね。そこからは、あの同門の小澤征爾ほどの派手さはありませんが、確実に世界の頂点を極めた指揮者の姿が浮かんできます。
もしかしたら、秋山さんの言葉の中には「勉強」という、それこそ小澤征爾が年中使っている単語があまり登場しないのが、逆にマイナスのイメージを与えてしまっているのかもしれません。ここで、例えば「800曲は暗譜している」などとサラッと言ってのけたり、難しい現代曲をこともなげに演奏してしまう姿を見てしまうと、それもなるほどと思えます。
なによりも素晴らしいのは、秋山さんは1963年に東京交響楽団というオーケストラの専属指揮者として就任して以来、経営破綻して再建される間もずっとそのオーケストラの指揮者を続け、その関係が今でも続いているという事実です。この本では、まるでこの長いスパンの中での秋山さんの活躍の幅の拡大と、このオーケストラの充実ぶりをシンクロさせながら、巧まずして日本のクラシック音楽界の変遷を見事に浮き出しているようです。あの「題名のない音楽会」が、東響を救済する意味でスタートしたものだったことも、初めて知りました。
最後のあたりには、秋山さんが世界初演を行った例の「HIROSHIMA」に関する言及も見られます。「技術的にかなり粗末で演奏できない個所も多かった」ために、楽譜に手を入れたら、作曲家が激怒した、というのですね。この件に関しての冨沢さんの解説は、至極当たり前のものなのがちょっと残念です。その「作曲家」というのがどちらだったのか、CDで使われているのはこの「秋山版」なのか、ぜひ知りたいものです。

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by jurassic_oyaji | 2015-03-03 23:14 | 書籍 | Comments(0)
世界で一番美しい劇場
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エクスナレッジ刊
ISBN978-4-7678-1921-1




建築関係の書籍に関しては日本最大といわれている「エクスナレッジ」からは、「世界で一番」という言葉で始まるタイトルの本が多く出版されています。「世界で一番美しい空港」とか「世界で一番美しい宮殿」など、さすがは建設関係には強い会社ならではの企画だな、と思わせられる半面、「世界で一番美しいイカとタコの図鑑」なんてのもありますから、どういう会社なんだ、と思ってしまいますが。ただ、このフレーズは別にこの会社だけのものではなく、かなり興味をそそられる「世界で一番美しい元素図鑑」などは原則として他社のものですので、お間違えなく。
いずれにしても、こんな扇情的なタイトルで読者を引き付けようとする魂胆はミエミエで、その罪滅ぼしなのでしょうか、この本の英語のタイトルは「Beautiful Theater in the World」というサラッとしたものです。大体、「世界で一番」と言っておいて、それを52も挙げるということ自体が反則ですし。
しかし、この表紙を飾っている「パラウ・デ・ラ・ムシカ・カタラナ(カタルーニャ音楽堂)」というバルセロナにあるコンサートホールに関しては、文句なしに「世界で一番美しい」と言うことが出来るのではないでしょうか。このホールの存在を知ったのは、こちらの映像でモーツァルトの「レクイエム」と「ハ短調ミサ」を見た時でした。コンサートホールというにはあまりにも装飾過剰で、まるで異次元にでも誘われるようなその内部の様子には、心底圧倒されてしまいました。ですから、この表紙を見たとたんに、ぜひ手元に置いて何度でも見つめていたいという衝動に駆られたのですね。
やはり、印刷物で見たその姿は、映像で見たものとはさらに深みのあるものに感じられました。さらに、ここではホール内の全景だけではなく、ステージのバックに飾られたレリーフや、モザイクタイルによる合唱団と踊り子の図柄なども紹介されていますから、たまりません。ですから、その気になって探せば、もうこのホールのすべてのものがありとあらゆる手段で何らかの装飾を施されていることを発見することが出来ましたよ。
ただ、そのモザイクタイルが一体どこにあるのかが、これだけの写真ではわからなかったので、Googleのストリートビューを使って「現地」に行ってみることにしました。便利な世の中になったものです。結局、それは建物の上の方にあるファサードを飾っていたものだったことが分かりましたが、同時に、この「空間移動ツール」は、「ストリート」だけではなく、ものによっては建物の内部の「ビュー」まで体験できることが分かりました。あの通行人のアイコンを地図にかざすと、道路の上に青い線が出るだけではなく、建物の中にもいくつかの「点」が表示されるのですよ。そこをクリックすると、見事に客席の中に入ることができました。
さらに、そこから上のバルコニーを見上げると、ふつうの写真ではまず気が付かないことですが、天井裏に「Mozart」とか「Gluck」などという作曲家の名前が書いてあることまでわかってしまいます。すごいですね。
「劇場」という範疇で取り上げられているのは、オペラハウス、演劇用の劇場、そしてコンサートホールです。「演劇用」の中にはちょっとなじみがないものもありましたが、それ以外はどこかで一度は聞いたことがあるおなじみのところばかりです。最も古い建物は18世紀に建てられたバイロイト辺境伯歌劇場(どうせなら、同じ市内の祝祭劇場も取り上げてほしかったものです)、そして、2011年にできたばかりのヘルシンキ・ミュージックセンターまで、4世紀に及ぶ「美しい」劇場の写真には圧倒されます。そして、最近作られたホールの音響設計が、ほとんど豊田泰久さんの手になるものだという事実にも驚かされます。こういうことは胸を張って自慢しましょうね。同じ「日本製」ですが、原発の輸出みたいに恥ずかしいことでは全然ありませんから(いや、原発は持っているだけで「恥」)。

Book Artwork © X-Knowledge Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2015-02-19 20:57 | 書籍 | Comments(0)
『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
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瀬川裕司著
平凡社刊(平凡社新書759)
ISBN978-4-582-85759-7




「サウンド・オブ・ミュージック」というのは、言うまでもなく1959年にブロードウェイで初演された、ロジャース/ハマースタインのミュージカルですが、今ではそのオリジナルの舞台版よりは、1965年にロバート・ワイズによって映画化されたハリウッド・バージョンの方が、圧倒的な人気を誇っています。特に、多くの部分が「現地」であるザルツブルクでのロケによって撮影されていますから、そのスケールの大きさと言ったら舞台版の比ではありません。ですから、特に注釈がない場合はこういうタイトルだと「映画版」を指し示すようになっていますし、例えば「劇団四季」が上演したような時には、映画を元にして「ミュージカル化」されたのではないか、と思ってしまう人がいてもおかしくはありません。なんせ、その「劇団四季」で今公演中の「リトル・マーメイド」や、これからの公演が決まっている「アラジン」などは、オリジナルは映画(というか「アニメ」)だったのですからね(あら、そう?)。
この本の著者は、映画に関してはプロですから、もちろんここで語られるのは「映画版」についてです。もちろん、きちんとした論を展開するための基礎データとして、この舞台版ミュージカル、さらには同じ題材で1956年に制作されたドイツ映画「菩提樹」、そして実話そのものまでにさかのぼっての言及は、抜かりはありません。
そのうえで、著者は恐ろしくマニアックな手法で、この「映画」の魅力に迫っています。それは、監督の演出の手法を、それこそカットごとの人物のすべての動きに注目して、そこでの登場人物の心の動きの詳細まで検証する、というやり方です。音楽で言えばアナリーゼということになるのでしょう。普通に映画を見ている人は、そんなことは考えなくてもそこで行われていることの意味を感覚的に知ることが出来るはずなのですが、ここでは、なぜそのようなことが可能になるのかを、様々なシーンを例に挙げて、徹底的に分析してくれています。おそらく、これを読んだ後でこの映画をもう一度見たら、そのシーンで漠然と感じていたことが、より具体的に理解できることでしょう。
そんな細かい分析の過程では、カットごとに撮られた時期、場合によっては撮られた場所までが違っていることまで指摘されています。こういう、言ってみれば重箱の隅をほじくるようなことは、どちらかといえば作った側にしてみたらあまり明らかにして欲しくはないものなのかもしれません。ですから、見る人の役に立つかどうかは微妙なところですね。できれば、こんなことは知らないでその画面を楽しんでいた方が、その人にとっては幸せだったかもしれませんから。でも、世の中にはこの手のことが大好きな人はたくさんいますので、そういう人たちの好奇心を満たすには、これは欠かせない情報となることでしょう。
ロケ地についても、実際にロケに使ったところではないのに堂々とロケ地であることをうたっているようなところがあるというのは、なかなか面白い指摘です。こういういい加減なことをやっている人が、○国だけではなくザルツブルクにもいるのですね。こちらはれっきとした「偽装表示」ですから、明らかにするのは必要なことです。
そんな、とても多くの情報にあふれている本なのですが、我々音楽ファンにとっては物足りないところが結構あったりします。ここでは、出演者ではなく別の人が歌を歌っている時の代役などについてもかなり詳しく述べられていますが、その世界では有名なマーニ・ニクソンに関しては一言も触れられていないのがとても残念です。あまりに有名なことなので、あえて触れなかったのかもしれませんが。
しかし、音楽祭の会場であるフェルゼンライトシューレについて、他のロケ地のような詳細な説明がなかったのには、怒りさえ覚えます。

Book Artwork © Heibonsha
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by jurassic_oyaji | 2015-02-09 21:12 | 書籍 | Comments(0)
ニッポンの音楽
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佐々木敦著
講談社刊(講談社現代新書 2296)
ISBN978-4-06-288296-5




著者の佐々木さんは、1964年の生まれ。評論家として幅広いジャンルで活躍なさっており、早稲田大学では教授として教鞭も執っておられる方です。そんな、かなりアカデミックなイメージのある方が、1970年代以降から現在に至るまでの我が国の「大衆音楽」について語った本が上梓されました。ちょっと汗臭いかも(それは「体臭音楽」)。
その語り口は予想通りアカデミックなもので、そもそも言葉の定義から論を起こすという、その辺の「音楽ライター」にはちょっと出来そうもないようなスタンスで迫ります。つまり、最近では誰でもなにげなく使っている「Jポップ」という単語に関しての、ちょっとわずらわしいまでの成り立ちやら使い方やらの蘊蓄から始まるという、相当の気合の入れ方から、この本は始まるわけです。
しかし、著者がそこまでこのタームにこだわった訳は、次第に明らかになってきます。読み進むうちにその「深さ」に触れてしまうと、もはや軽々しく「Jポップ」などとは口に出来ないほどのプレッシャーを全身に感じることになるでしょう。なにしろ、この本の結びが、「この本は『Jポップ』の紛れもない葬送の物語です」などという物騒なフレーズなのですからね。そうなんです。「Jポップさん」は、もうお亡くなりになってしまったのですよ。
そんな大層な枠組みで語られるのは、実はおそろしくあっけらかんとしたその時代時代のアーティストに対する愛慕の情です。要は、そんな、著者が好きでたまらなかったそれぞれのアーティストに対する思いを、事細かに語ったというだけのものなのですよ。ただ、そこには、単なるファンとしての熱さをあえて隠し、冷静にその変遷を見守る客観的な視点が存在しています。その際に、地理的にも時代的にも広汎に及ぶ著者の知識が総動員されていることは言うまでもありません。こういう、殆ど照れ隠しのスタンスの語り口は、嫌いではありません。というより、なにかその中からかわいらしさのようなものまで感じとることは極めて容易です。
著者がここでそれぞれの時代を代表する(つまり、著者の愛慕の対象である)アーティストは、「はっぴいえんど」、「YMO」、「渋谷系」、「小室系」、「中田ヤスタカ」などです。個人的には「渋谷系」に関する知見がほとんどなかったので、このあたりのアーティスト、音楽状況に対する詳細な記述は、とても役に立ちます。これさえ押さえておけば、あとはすべてリアルタイムにかなり深くかかわっていたものばかりですから、すべての「ディケイド」における知識を持ちえたことになります。そういう意味で、この本は第1級の「参考書」たりえます。
もちろん、「知識」ばかりを得たとしても、そこからは何も生まれません。この本から得られるものがあるとすれば、それは著者のほとんど独りよがりとも思えるような強引な理論で結びつけられた3人のアーティストの共通点を知らされたことでしょうか。具体的には、YMOの坂本龍一、渋谷系の小山田圭吾、そして中田ヤスタカのテキストに対する姿勢(聴き方、ひいては音楽の中での用い方)の類似性です。「大衆音楽」の作り手でも、そのような感性を持っている人が確かにいることを知らされたのは、無上の喜びです。
もしも、70年代の「ロックにおける日本語」という命題をこれだけきっちりと分析してくれた著者の視点から「ラップにおける日本語」の位置づけが語られていれば、さらに実のあるものに仕上がっていたのでは、という気がします。あるいは、著者は意図的にこの命題から目をそらしていたのかもしれませんが。
そして、なぜタイトルが「にほん」ではなく「ニッポン」だったのかという素朴な疑問などは、この世代ではそもそも語るに足るものではなくなっているのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2015-01-02 22:56 | 書籍 | Comments(0)