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カテゴリ:書籍( 155 )
『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
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瀬川裕司著
平凡社刊(平凡社新書759)
ISBN978-4-582-85759-7




「サウンド・オブ・ミュージック」というのは、言うまでもなく1959年にブロードウェイで初演された、ロジャース/ハマースタインのミュージカルですが、今ではそのオリジナルの舞台版よりは、1965年にロバート・ワイズによって映画化されたハリウッド・バージョンの方が、圧倒的な人気を誇っています。特に、多くの部分が「現地」であるザルツブルクでのロケによって撮影されていますから、そのスケールの大きさと言ったら舞台版の比ではありません。ですから、特に注釈がない場合はこういうタイトルだと「映画版」を指し示すようになっていますし、例えば「劇団四季」が上演したような時には、映画を元にして「ミュージカル化」されたのではないか、と思ってしまう人がいてもおかしくはありません。なんせ、その「劇団四季」で今公演中の「リトル・マーメイド」や、これからの公演が決まっている「アラジン」などは、オリジナルは映画(というか「アニメ」)だったのですからね(あら、そう?)。
この本の著者は、映画に関してはプロですから、もちろんここで語られるのは「映画版」についてです。もちろん、きちんとした論を展開するための基礎データとして、この舞台版ミュージカル、さらには同じ題材で1956年に制作されたドイツ映画「菩提樹」、そして実話そのものまでにさかのぼっての言及は、抜かりはありません。
そのうえで、著者は恐ろしくマニアックな手法で、この「映画」の魅力に迫っています。それは、監督の演出の手法を、それこそカットごとの人物のすべての動きに注目して、そこでの登場人物の心の動きの詳細まで検証する、というやり方です。音楽で言えばアナリーゼということになるのでしょう。普通に映画を見ている人は、そんなことは考えなくてもそこで行われていることの意味を感覚的に知ることが出来るはずなのですが、ここでは、なぜそのようなことが可能になるのかを、様々なシーンを例に挙げて、徹底的に分析してくれています。おそらく、これを読んだ後でこの映画をもう一度見たら、そのシーンで漠然と感じていたことが、より具体的に理解できることでしょう。
そんな細かい分析の過程では、カットごとに撮られた時期、場合によっては撮られた場所までが違っていることまで指摘されています。こういう、言ってみれば重箱の隅をほじくるようなことは、どちらかといえば作った側にしてみたらあまり明らかにして欲しくはないものなのかもしれません。ですから、見る人の役に立つかどうかは微妙なところですね。できれば、こんなことは知らないでその画面を楽しんでいた方が、その人にとっては幸せだったかもしれませんから。でも、世の中にはこの手のことが大好きな人はたくさんいますので、そういう人たちの好奇心を満たすには、これは欠かせない情報となることでしょう。
ロケ地についても、実際にロケに使ったところではないのに堂々とロケ地であることをうたっているようなところがあるというのは、なかなか面白い指摘です。こういういい加減なことをやっている人が、○国だけではなくザルツブルクにもいるのですね。こちらはれっきとした「偽装表示」ですから、明らかにするのは必要なことです。
そんな、とても多くの情報にあふれている本なのですが、我々音楽ファンにとっては物足りないところが結構あったりします。ここでは、出演者ではなく別の人が歌を歌っている時の代役などについてもかなり詳しく述べられていますが、その世界では有名なマーニ・ニクソンに関しては一言も触れられていないのがとても残念です。あまりに有名なことなので、あえて触れなかったのかもしれませんが。
しかし、音楽祭の会場であるフェルゼンライトシューレについて、他のロケ地のような詳細な説明がなかったのには、怒りさえ覚えます。

Book Artwork © Heibonsha
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by jurassic_oyaji | 2015-02-09 21:12 | 書籍 | Comments(0)
ニッポンの音楽
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佐々木敦著
講談社刊(講談社現代新書 2296)
ISBN978-4-06-288296-5




著者の佐々木さんは、1964年の生まれ。評論家として幅広いジャンルで活躍なさっており、早稲田大学では教授として教鞭も執っておられる方です。そんな、かなりアカデミックなイメージのある方が、1970年代以降から現在に至るまでの我が国の「大衆音楽」について語った本が上梓されました。ちょっと汗臭いかも(それは「体臭音楽」)。
その語り口は予想通りアカデミックなもので、そもそも言葉の定義から論を起こすという、その辺の「音楽ライター」にはちょっと出来そうもないようなスタンスで迫ります。つまり、最近では誰でもなにげなく使っている「Jポップ」という単語に関しての、ちょっとわずらわしいまでの成り立ちやら使い方やらの蘊蓄から始まるという、相当の気合の入れ方から、この本は始まるわけです。
しかし、著者がそこまでこのタームにこだわった訳は、次第に明らかになってきます。読み進むうちにその「深さ」に触れてしまうと、もはや軽々しく「Jポップ」などとは口に出来ないほどのプレッシャーを全身に感じることになるでしょう。なにしろ、この本の結びが、「この本は『Jポップ』の紛れもない葬送の物語です」などという物騒なフレーズなのですからね。そうなんです。「Jポップさん」は、もうお亡くなりになってしまったのですよ。
そんな大層な枠組みで語られるのは、実はおそろしくあっけらかんとしたその時代時代のアーティストに対する愛慕の情です。要は、そんな、著者が好きでたまらなかったそれぞれのアーティストに対する思いを、事細かに語ったというだけのものなのですよ。ただ、そこには、単なるファンとしての熱さをあえて隠し、冷静にその変遷を見守る客観的な視点が存在しています。その際に、地理的にも時代的にも広汎に及ぶ著者の知識が総動員されていることは言うまでもありません。こういう、殆ど照れ隠しのスタンスの語り口は、嫌いではありません。というより、なにかその中からかわいらしさのようなものまで感じとることは極めて容易です。
著者がここでそれぞれの時代を代表する(つまり、著者の愛慕の対象である)アーティストは、「はっぴいえんど」、「YMO」、「渋谷系」、「小室系」、「中田ヤスタカ」などです。個人的には「渋谷系」に関する知見がほとんどなかったので、このあたりのアーティスト、音楽状況に対する詳細な記述は、とても役に立ちます。これさえ押さえておけば、あとはすべてリアルタイムにかなり深くかかわっていたものばかりですから、すべての「ディケイド」における知識を持ちえたことになります。そういう意味で、この本は第1級の「参考書」たりえます。
もちろん、「知識」ばかりを得たとしても、そこからは何も生まれません。この本から得られるものがあるとすれば、それは著者のほとんど独りよがりとも思えるような強引な理論で結びつけられた3人のアーティストの共通点を知らされたことでしょうか。具体的には、YMOの坂本龍一、渋谷系の小山田圭吾、そして中田ヤスタカのテキストに対する姿勢(聴き方、ひいては音楽の中での用い方)の類似性です。「大衆音楽」の作り手でも、そのような感性を持っている人が確かにいることを知らされたのは、無上の喜びです。
もしも、70年代の「ロックにおける日本語」という命題をこれだけきっちりと分析してくれた著者の視点から「ラップにおける日本語」の位置づけが語られていれば、さらに実のあるものに仕上がっていたのでは、という気がします。あるいは、著者は意図的にこの命題から目をそらしていたのかもしれませんが。
そして、なぜタイトルが「にほん」ではなく「ニッポン」だったのかという素朴な疑問などは、この世代ではそもそも語るに足るものではなくなっているのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2015-01-02 22:56 | 書籍 | Comments(0)
SIBELIUS/Violin Concerto
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Edited by Timo Virtanen
Jean Sibelius Complete Works/
Series II, Volume 1
Breitkopf & Härtel/SON 622
ISMN979-0-004-80324-0(full score)




1996年にフィンランド国立図書館とフィンランドのシベリウス協会とによって編纂が開始されたシベリウスの作品全集は、ブライトコプフ社から順次刊行が進められています。完成の暁には、9つのシリーズ、およそ52巻に及ぶ全集が完成することになります。その内容は、

  • 第1シリーズ:オーケストラ作品
  • 第2シリーズ:ヴァイオリン(チェロ)とオーケストラの作品
  • 第3シリーズ:弦楽オーケストラと管楽器オーケストラの作品
  • 第4シリーズ:室内楽作品
  • 第5シリーズ:ピアノのための作品
  • 第6シリーズ:舞台作品
  • 第7シリーズ:合唱作品
  • 第8シリーズ:独唱曲
  • 第9シリーズ:その他

となっています。現在のところまだその半分も出版はされていません(交響曲については、4番、5番、6番がまだ出ていません)。
今回22番目のアイテムとして出版されたのは、第2シリーズの第1巻、ヴァイオリン協奏曲です。この全集のコンセプトは、初期稿や編曲なども含めてすべての作品を刊行するというものですから、ここには当然現行版のほかに、初稿である1904年版も収録されています。この楽譜は今回初めて公に日の目を見ることになったという、非常に貴重なものです。この曲は、初演の時の評判があまりに悪かったので、シベリウスは直ちに改訂を施し、そちらの方はめでたく「名曲」として今では多くの人に聴かれているものになっています。ですから、彼としてはもはや初稿は「無かったこと」にしたかったのでしょう。ただ、もちろん楽譜が出版されることはありませんでしたが、自筆稿によってたった1度だけ、特別に遺族の承諾を得て録音されたものはあります。

(BIS/CD-500)

このCDよって、その粗削りではあっても現行版にはない魅力をたたえたヴァイオリン協奏曲の初稿の姿は知ることが出来てはいましたし、掲載されていたライナーノーツによって、大まかな構造上の違いも、何とか理解は出来ていました。しかし、やはり楽譜の現物は見てみたいものだ、という願いが、やっとかなったことになります。
そこで、大まかですがその違いを見てみましょうか。上の数直線が初稿、下が現行版です(数字は小節)。

第1楽章は、こんな感じ、542小節あったものを499小節に削っています。そこでカットされたのが初稿の394小節目から458小節目までの2つ目のカデンツァです(1つ目のカデンツァは206小節目から258小節目まで)。そのほかにも、色のついた部分はモチーフの形も構成も大幅に改変されています。ほとんど同じ形の白い部分でも、オーケストレーションはかなり変わっています。
第2楽章は、小節数(69小節)も構成も全く変わっていません。変わったのは32小節目から41小節目までのソロの音型と、細かいオーケストレーションだけです。

第3楽章は、色のついた部分が別な音楽になっていて、326小節が268小節にまで削られています。ここもオーケストレーションはかなりの違いがあります。たとえば冒頭もこんな感じです。

(↑初稿)

(↑現行版)

今回のきちんと校訂された楽譜によって、さっきのCDでの演奏が必ずしも初稿に忠実ではなかった箇所も見つかりました。一番はっきりわかるのが第2楽章の65小節目(最後から5小節目)のヴァイオリン・ソロです。

CDではこのような細かい音符によるカデンツァのようなものが弾かれていますが、この楽譜では現行版と同じものになっています。これは、参考のために掲載されている自筆稿のファクシミリを見れば明らかなことで、最初に書いたこの細かい音符を、後に作曲家が鉛筆で消した跡がはっきり分かります。そこを、CDの演奏家は見落としたのでしょう。ちなみに、この部分の校訂報告で「Facsimile VII」とあるのは、「Facsimile VIII」の間違いでしょう。
全集版とは言いながら、版権はブライトコプフではなく、最初に出版したロベルト・リーナウが所有しています。ですから、将来スタディ・スコアやリダクション・スコアが出版される見込みはないのだそうです。すこあ(そこは)ちょっと不思議ですね。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel
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by jurassic_oyaji | 2014-12-28 20:32 | 書籍 | Comments(0)
FAURÉ/Requiem
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Marc Rigaudière(Ed)
CARUS/27.311(full score)
ISMN M-007-09482-9




フォーレが作った「レクイエム」の最新のSACDで、2011年に出版されたばかりの「1889年版」という、今まではなかった楽譜が使われていました。そこで、早速入手して詳細を調べてみました。
従来から言われていたように、この曲が作られてから現在までには3つの段階があり、最初に作られた時には5曲しかなく、オケの編成も弦楽器だけだったものが、次の段階には2曲追加されて管楽器も追加され、さらに最後の段階で、現在最も演奏頻度の高いフル・オーケストラの編成になった、というものです。今回の楽譜は、その「第2段階」に作られたとされるものを再現したものです。ただ、同じようにこの段階の楽譜とされている今までのものには「1893年版」という表示があったものですが、ここにではそれが「1889年版」となっているところが、要注意です。
この2つの年代による楽譜の一番大きな違いは、この段階に付け加えられた2曲のうちの1曲、「Offertoire」の構成の違いです。これが加えられた時には、「Ostias」で始まるバリトン・ソロの部分しかなかったものが、現在ではその前後に額縁のように「O Domine」で始まる合唱の部分が付け加えられています。問題は、それが加えられた時期で、今まではほぼ1894年までにはその形になっていたと言われていたものが、このリゴディエールの見解では「正確に年代を特定することが出来ない」というのですね。さらに、彼の主張によると、フォーレはまだ合唱を付けくわえていないバリトン・ソロだけのものを、最終の形と見なしていたというのですよ。ここで「Pie Jesu」と並んで、ほぼ同じサイズのソリストだけによる曲が入る方が、全体の構成としてもバランスが取れているのだ、と。さらに、これはあくまで憶測ですが、彼はこの合唱部分が、第3段階のコンサート・バージョン成立にかなり近い段階での追加である可能性もあるのでは、と考えているのかもしれません。
この楽譜は、予想通り従来の「ネクトゥー・ドラージュ版」と、細かいところでの表情記号やスラーの位置などを除いてはほぼ同じものでした。ただ、明らかに聴いて分かるほどの音の違いは見つかりました。「Agnus Dei」7小節目の第1ヴィオラと、「In paradisum」でのコントラバスです(もちろん、「Offertoire」の構成も)。

Agnus Dei/1889


Agnus Dei/1893


In paradisum/1889


In paradisum/1893


ところが、この楽譜を使ったはずのSACDでは、「In paradisum」のコントラバスは確かにdivisiの低音が聴こえますが、「Agnus Dei」の方は1オクターブ上げて演奏しています。このあたりは、指揮者の裁量なのでしょう。
この楽譜を入手したことの最大の収穫は、今まで「謎」だった「ラッター版」の位置づけがある程度分かったことではないでしょうか。前書きで「Sanctus」の一次資料である自筆稿のスコアと、ヴァイオリン・ソロのパート譜(コピイスト)とホルンのパート譜(自筆)のファクシミリを見ることが出来ますが、それが全く違っているのですね。パート譜は、おそらく最初に演奏された時に用意されたもので、スコアの方はその後の段階での修正が書き加えられているために、そのような違いが生じているのでしょう。つまり、「第2段階」の楽譜は、演奏された時期によってかなり異なったものになっているのですね。そして、そのスコアを見てみると、それはまさに「ラッター版」そのものでした(確かに、ラッターはこの自筆稿のスコアを元に校訂したことを、最初に述べています)。つまり、大雑把に言ってしまえば、「ネクトゥー・ドラージュ版」は、今回のリゴディエール版と同じく、ごく初期の姿を再現したもの、「ラッター版」はかなり後の姿を再現したものになるのではないでしょうか。
そうなると、「ネクトゥー・ドラージュ版」で、「Offertoire」の最初と最後の合唱が入っているのはちょっとおかしいのでは、ということになりますね。ガブリエル・フォーレは、何という宿題を残してくれたのでしょう。とても相撲の力技(それは「がぶり寄り」)なんかでは解決できません。

Score Artwork © Carus-Verlag
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by jurassic_oyaji | 2014-11-18 20:11 | 書籍 | Comments(0)
オペラ座のお仕事/世界最高の舞台をつくる
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三澤洋史著
早川書房刊

ISBN978-4-15-209489-6




著者の三澤さんの名前を知ったのは、Facebookで目にした彼のサイトの書き込みからでした。そこで述べられていたことは、確か合唱コンクールの全国大会での審査員を務めたときの感想だったはずですが、詳細はすっかり忘れてしまいました。ただ、なんか、合唱界(というか、「合唱コンクール界」)のタブーのようなものに踏み込んで、とても鮮やかに正論を展開していたという印象だけが残っています。このコンクールの審査員といえば、ほとんどがおよそ全体の音楽を聴かずに、重箱の隅をほじくるような技術的な点だけで評価を下す人たちだと思っていたので、なにかとても救われたような気持になったことをよく憶えています。
今回、おそらくそのようなサイトの書き込みが内容の骨子になっていると思われる書籍が出版されました。タイトルから判断すると、彼の本来のポストである新国立劇場の合唱指揮者の仕事ぶりを語ったもののようですから、面白くない訳はないと、即座に入手してみましたよ。
それは、面白いどころではなく、まさに「面白すぎる」本でした。読み始めたら途中でやめるのも惜しいぐらい、次々と興味ある話題が湧きだしています。もう一気に最後まで読み通してしまいました。だいぶ前に、こんな感じの、夢中になって読みふける本があったな、と思ったら、それは茂木大輔さんの一連のエッセイでした。両者の「面白さ」に共通するのは、なんと言ってもその文体の躍動感。そこからは、自らのリズム感で他人を酔わせてしまうという、良質な音楽家であれば誰しもが持っているグルーヴを感じることが出来ます。
茂木さんの著作同様、ここでも三澤さんのまさに波乱万丈の経歴が語られています。そもそも、彼は音楽には関心があったものの、合唱の経験は全くなく、最初はトランペットをやっていたものが、高校に入った時にはブラスバンドで打楽器をやろうとしていました。ところが、そこに、隣から聴こえてきた「男声合唱」の響きに魅せられて合唱の世界に足を踏み込むという、なんとも不思議な体験が「合唱人」としてのスタートだというのですからすごいですね。
とは言っても、本当になりたかったのは「指揮者」、それも、「合唱指揮者」ではなく、ちゃんとしたオーケストラを指揮するような指揮者でした。そのために国立音大を卒業後(ここでは指揮科ではなく声楽科)ベルリン芸術大学で本格的な指揮の勉強をすることになります。それは、まさにシンフォニー・オーケストラの指揮者を目指す道、事実、三澤さんは単なる合唱指揮だけではなく、オペラそのものの指揮もしっかりなさっているようです。
現在は、いつの間にかしっかり日本にも「オペラのシーズン」というものを定着させてしまった本格的な(つまり、外国のものと同じ質の)オペラハウス専属の合唱団のシェフとして、日々「本物の」オペラの現場で活躍されています。常々、「新国立劇場の合唱団はすごい!」という噂をあちこちで聞いていますが、そんなすごい合唱団を作ってしまった張本人ということになるわけです。その合唱団に求めるサウンドも、実際にバイロイトでノルベルト・バラッチュのアシスタントを務めた経験なども踏まえた上で、最初から「バイロイトと同じもの」というレベルの高さだったのですが、結局「新国」の日本人にはドイツ人を超えることはできないことを知って深刻な壁を感じてしまうと思いきや、後に今度はミラノのスカラ座で研修を受けたことによって、その「壁」はあっさり克服できたという、とてもハッピーな結末が用意されていました。もはや、この合唱団には、何も怖いものはないのでしょう。
そんな、今では「バイロイトを超えた」とまで自画自賛している合唱団を聴きに、ぜひいつの日か新国立劇場を訪れてみたいものだ、と、切実に思わせられてしまいました。

Book Artwork © Hayakawa Publishing Corporation
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by jurassic_oyaji | 2014-11-08 19:30 | 書籍 | Comments(0)
棒を振る人生
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佐渡裕著
PHP研究所刊(PHP新書951
ISBN978-4-569-82059-0



佐渡裕さんは、ご存知の通り世界的な指揮者として活躍するかたわら、「題名のない音楽会」の司会者として、全国の「お茶の間」にもその姿が浸透している人気者です。正直、忙しいスケジュールの中でほぼ毎週そのテレビ番組に出演しているというのは、かなりすごいことなのではないかと思っているのですが、さらにその隙を縫ってこんな本まで書き上げてしまうのですから、驚いてしまいます。なんでも、これが「単著」としては3冊目のものになるのだそうですね。もちろん、そんな忙しい中でもきっちりとご自身でペンを走らせて(あくまで比喩ですが)いるのは、その畳み掛けるような勢いのある文章からも分かります。最後に、ジャーナリストの方の名前が「編集協力」という肩書でクレジットされていますが、この方は客観的にデータを整えたりしたのでしょう。ご本人の記憶には、えてして勘違いというものがありますからね。
前半は、「楽譜とは何か」とか「指揮者とはどういうものか」ということに関しての、佐渡さんなりの的確な「解説」の部分です。ここでは、彼の師であったバーンスタインと、その作品を引き合いに出して、興味深い逸話が語られます。となると、当然そのバーンスタインの「天敵」であったカラヤンの話も登場することになります。そこでその頃のベルリン・フィルの団員だったゴールウェイの名前が出てくるのには驚いてしまいます。なんでも、彼はバーンスタインの姿をプリントしたTシャツを着てカラヤンのリハーサルに臨んだのだそうですね。そしてそのあとに、ゴールウェイがベルリン・フィルを辞める時には、その最後の演奏会でアンコールにラヴェルの「ボレロ」を、ゴールウェイのソロで演奏した、という逸話を紹介しています。そんなことがあったのでしょうかねえ。ゴールウェイの自伝によれば、最後のシーズンが始まる前に辞表を提出した後は、カラヤンが指揮をする演奏会では全く出番がないようになっていたはずなのですから、「最後の演奏会」でそんな粋な計らいを受けたとは考えにくいのですが、さすが、カラヤンはオトナだった、ということなのでしょうかね。
後半では、佐渡さんの最近の活動について述べられています。その中で注目されるのは、やはり兵庫県立芸術文化センターの芸術監督としての仕事ぶりでしょう。阪神淡路大震災の震災復興事業の象徴として建設されたこの建物は、佐渡さんの尽力で単なるホールではない、豊かな成果を産み出しています。震災を乗り越えて、ホール専属のオーケストラを作ったり、オペラまで上演できるようになってしまうなんて、うらやましすぎます。というのも、その後に起こった東日本大震災では、そのような確固たるビジョンを持った事業などは全く期待できない状況にあるのですからね。いや、たしかに音楽ホールを作ろうとするような動きはありますが、それはどうやら薄汚い利権が絡んだ、将来の展望など望むべくもない計画のようですしね。
そして、最後を飾るのが、最新のトピックス、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督就任のニュースです。この部分の佐渡さんの筆致は、かなりハイテンションのように思えます。それだけ、本場ウィーンで「自分のオーケストラ」を持つことが出来るようになったことがうれしいのでしょう。そこから止めどもなくほとばしる将来への思いには、熱いものがあります。なんたって、この決して知名度が高いとは言えないオーケストラを「ウィーン・フィルよりいい音のするオーケストラ」にしたいと言っているぐらいですから。
そんな充実した人生を送っている人の本のタイトルがまるで「棒に振る人生」のように読めてしまうのは、ジョークでしょうか。そんなマゾっぽいセンスは、この人は持っていないような気がするのですが(いや、彼はサド)。
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by jurassic_oyaji | 2014-10-21 23:03 | 書籍 | Comments(0)
「ビートルズ!」を作った男/レコード・ビジネスへ愛をこめて
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高嶋弘之著
DU BOOKS
ISBN978-4-907583-23-1




この本のタイトルが、ちょっとマニアックなのに気づいた人はいるでしょうか。「ビートルズ」に「びっくりマーク」が付いているのがミソ。これは、グループ名としての「ビートルズ」ではなく、彼らのファースト・アルバムとして日本で発売されたLPのタイトルなのですよ。ジャケットは同じ時期にアメリカで、やはりファースト・アルバムとしてリリースされた「Meet the Beatles!」と同じですが、曲目は日本でのデビュー・シングルの「I Want to Hold Your Hand」など、アルバム未収録の3曲と、それまでにリリースされていた2枚のアルバム(「Please Please Me」、「With the Beatles」)からそれぞれ6曲と5曲をピックアップして編集した日本独自のものだったのです。表紙のイラストは、そのLPOR-7041)のA面の模写です。「エバークリーン」が使われた「赤盤」だったんですね。「もしや」と思って調べたら、タイトルが入っている部分は、その日本盤の発売当初の帯ではありませんか。

もちろん、そのLPの編集を行ったのは著者の高嶋弘之ですから、まさに「『ビートルズ!』をつくった男」となるのですね。それがリリースされたのが1964年の4月5日(発売日には諸説あり)、つまり、今年は「ビートルズ!」が出てからちょうど50年目となるのです。これは、おそらくそのあたりを記念しての復刻だったのでしょう。というより、この時期の日本での独自編集のアルバム5枚をCD化したボックスが発売されたばかりですから、それとのミエミエのタイアップなのでしょう。そう、これは過去(1981年)に出版されたものの、とっくの昔に廃刊となった書籍の復刻版なのでした。
あの1966カルテット」の生みの親である、高嶋音楽事務所の代表高嶋弘之は、有名な話ですがかつては「東芝レコード」のディレクターとしてのサラリーマン生活を送っていました。彼がその東芝を退社して、別の会社を作ったりしている時に、乞われて書いたのが元の本です。彼が「東芝」に入社したのは1959年、そして退社したのが1969年、そんな、出来て間もない「東芝」時代のハチャメチャなディレクター人生が、語られています。
そこで紹介されているのは、なにも知らなければ突拍子もないように思えるほどの「反則技」の数々ですが、もはやそんなことは今では誰でも知っている、ごく普通に「業界」では行われていることばかりなのですね。いや、それはもはや「レコード」業界だけではなく、ありとあらゆる業種(テレビ番組、映画、あるいは書籍)が日常的に販売戦略として行っている手法なのですよ。
この本が書かれた当時ではおそらく知る人はあまりいなかったであろう、たとえばレコードの売り上げ枚数をごまかして公表したり、アルバイトを雇って作為的にラジオのリクエストをたくさん送りつけるなどという「浅知恵」は、今では誰でも知っていること、知っていても、あえてそれを知らないフリをして受け止める、というのが「賢い」人たちの生き方なのですよ。それをあたかも重要な「秘話」であるかのようにしか語れない著者の「愚かさ」のみが、とても目立ってしまうだけという、これは本当につまらない本です。表紙のマニアックさと、その内容とのあまりの落差は、まさに「1966カルテット」と共通しています。
でも、せっかく買ったのですから、賢い読者としては、そんな駄文の端はしにちりばめられた彼自身でしか語ることが出来ないはずの「事実」の重みを、味わうことにしませんか。それは、たとえば「帰って来たヨッパライ」で大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズの第2弾シングルとして発売を予定していた「イムジン河」が、すでに出荷されてしまった時点で「発売中止」という「上から」の指示に従わざるを得なかったという事件。そこでは、当事者からの貴重な証言として詳細な事実関係を、まさに「歴史」として知ることが出来るはずです。
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by jurassic_oyaji | 2014-09-09 23:09 | 書籍 | Comments(0)
Mussorgskij-Ravel/Tableaux d'une exposition
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BREITKOPF/5532(Full Score)



ラヴェルが編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」は、今のオーケストラの現場ではほぼ例外なくBoosey & Hawkesから出版された楽譜を使って演奏されているはずです。正確には、「B&Hから出版された何種類かの楽譜、および、そこから派生した楽譜(海賊版とも言う)」ということになるのでしょう。もちろん、これ(ら)にはきちんとパート譜も用意されていますから、演奏に使うためには申し分ありません。何しろ、この楽譜は、1929年に「ロシア音楽出版」から最初に出版されたものを、そのまま版権を譲り受けたという、とても由緒正しいものなのですからね。しかし、このB&H版は、1942年に出版されて以来、1953年と2002年とに改訂を行っていますが、いまだに多くの疑問点やミスプリントが残った、ちょっと信頼のおけない楽譜のままでいます。というか、2002年の「新改訂版」と呼ばれるものは、版下は1953年版をそのまま使い、それにほんの少し手を加え、いくつかの注釈を書き加えただけ、というしょぼいものですからね。
そんな中、1994年にEulenburgから、ラヴェルの自筆稿などの資料を精査してきちんと校訂された楽譜が出版されました。2004年には日本版も出版されています。これは、今までB&H版では謎とされていた部分が、ことごとく解決されていた、素晴らしいエディションでした。ただ、これはパート譜などは用意されていませんでしたから、部分的に指揮者や演奏者が楽譜に書き込んで直すための、いわば「研究用」の資料としての価値が一義的なものだったのでしょう。
そこに、つい最近、Breitkopf & Härtel社(これもB&Hなので、「ブライトコプフ」と言うことにします)という「大手」が、参入しました。この出版社でラヴェルの新しい楽譜の校訂を行ってきた、指揮者であり音楽学者でもあるジャン=フランソワ・モナールの校訂による、やはりEulenburgと同じ手法で作られた「原典版」です。こちらは、レンタルになりますがちゃんとパート譜も用意されていて、実際にオーケストラのライブラリーとしての需要を見込んで出版されたものです。
その作られ方からも分かる通り、このブライトコプフ版は、B&H版に比べたら、限りなく編曲者であるラヴェルの意思に近いものとなっています。つまり、あくまでラヴェルの自筆稿に忠実な校訂を行い、仮にそこがムソルグスキーの楽譜とは異なっていても、ラヴェルが書いたものを優先させるという姿勢が貫かれているのです。そんな例が、最初のプロムナードの23小節目(「5番」の2小節目)の3番ホルンと3番トランペットの最初の音です。ムソルグスキーではこの音はEフラットですが、ラヴェルの自筆稿ではEナチュラルなので、ここでもEナチュラルになちゅらっています。B&H版ではEフラットでした。

もう一つ、「サムエル・ゴルデンベルク」の19小節目(「60番」の2小節目)のトランペットの16番目の音も、ラヴェルはダブルシャープ、ムソルグスキーはただのシャープですが、こちらはダブルシャープ、B&Hはシャープです。そのあとの同じ形も、同様ですね。


この2点は、もちろんEulenburgも全く同じ扱いなのですが、中にはブライトコプフ版独自の解釈が現れているところもあります。「バーバ・ヤガー」の125小節(「94番」)からの10小節間は、今までのどの楽譜でもチューバとティンパニが交代で、あるいは同時に「ブンブン」あるいは「ドンドン」とやっていたのですが、この楽譜ではティンパニの「ドンドン」だけになっています。
こんな有名な曲ですから、いずれこの楽譜を使って「ブライトコプフ版による世界初録音」みたいな帯コピーのついたCDが発売されることでしょうね。
この楽譜、知ったのは日本の楽譜屋さんの案内ですが、そこでは本体価格12,580円でした。でも、直にブライトコプフのサイトから買ったら、59.9ユーロ、今の為替相場だと8,000円ちょっとです。送料を入れても9,500円、日本で買えば税込13,586円+送料ですから、かなりのお買い得でした。注文して1週間で届きましたし。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel
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by jurassic_oyaji | 2014-09-03 21:22 | 書籍 | Comments(0)
小澤征爾 覇者の法則
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中野雄著
㈱文芸春秋刊(文春新書985)
ISBN978-4-16-660985-7



以前「指揮者の役割」というとても刺激的な本を書かれた中野さんの、今回は小澤征爾の評伝です。最近は、この「カリスマ指揮者」に関する著作が目白押し、ついこの間もこんなまさに決定的な「一次資料」とも言うべき「自叙伝」が出たばかりだというのに、間髪を入れずに同じような趣旨の書籍の刊行です。でも、こちらの本はなんせ「十数年前」から執筆が始まっているというのですから、それは単なる「偶然」に過ぎないのでしょう。
とは言っても、結果的にはこの本は今までの自伝も含めた多くの小澤の評伝からの引用(「コピペ」とも言う)で成り立っている、という印象は拭えません。なんと言っても、おそらく執筆当時は新聞連載だけでまだ出版はされていなかった先ほどの「自叙伝」からの「引用」のいんような(異様な)ほどの頻度には、笑うしかありません。そうそう、それに加えて、著者自身の著作物からの引用という言わば「番宣」も、そちこちにあふれかえっていましたね。
いや、ここでの著者の目論見は、そのような巷にあふれた評伝から、著者にしかなしえない「なぜ小澤は世界的な指揮者になれたか」という命題に答えを出すという作業だったはずです。その点に関しては、「DNA」やら「脳科学」といった、おそらく今までの評伝には現れることのなかったタームを使いこなしての論陣が張られていますから、おそらく多くの読者には納得がいくのではないでしょうか。
あるいは、本筋にはあまり関係ないような「ネタ」にこそ、価値が見出せる、とか。たとえば、「八田利一」に関するコメントなど。ここで著者は、下の名前に「としかず」というルビを振っていますが、これは間違いでしょう。「はったりいち」と読まないことには、このペンネームの意味が伝わりませんからね。実はこんな痛快な「評論家」が存在していたことは初めて知りました。さる、高名な評論家さんが覆面ライターとして執筆しているのだそうですが、とても他人とは思えません。
そして、これも先ほどの「指揮者の役割」からのコピペですが、「アマチュア・オーケストラばかりを振っている指揮者は、決して大成しない」という手厳しい指摘です。アマオケを振っている限り、指揮者は「お山の大将」で相手を指導するだけ、決してオケから「教わる」ことはない、というのですね。確かに、それはとても納得のいくものです。この本にも登場する小澤の後継者と目されているさる有名指揮者などは、アマオケのリハーサルの途中で、ここからは何も得るものがないと分かったとたん、あからさまに投げやりな練習態度に豹変しましたからね。本番こそ大過なくまとめていましたが、アマオケの当事者は悔しい思いをしたことでしょう。確かに、その後その指揮者はおそらく「大成」することになるのでしょうが、その前に人間的な資質が問われることになってしまいました。アマオケをなめてはいけません。
先ほどの「命題」に直接答えるという形ではなく、ごくさりげなく登場する「CAMI」の存在あたりは、もしかしたら著者の「本音」が隠されているのではないか、という気がします。実際、なぜ小澤がCAMIのアーティストになれたのかは著者にも憶測でしか分からないようですし、これを突き詰めることはひょっとしたらタブーなのかもしれませんね。
おそらく、最後に述べられている「小澤ブランド」の今後、つまり、そう遠くない将来に必ず訪れるはずの事態への著者の冷徹な眼こそが、この本の「真価」なのではないでしょうか。そう思えば、コピペだらけの本体も許せます。
いや、たとえば「ウィーン国立歌劇場の音楽監督のポストは、日本企業の援助に対するバーターだ」というような「憶測」も、コピペを繰り返すうちに限りなく「真実」に近づくことを、著者は知っているのかもしれません。

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by jurassic_oyaji | 2014-08-28 19:50 | 書籍 | Comments(0)
音楽史と音楽論
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柴田南雄著
岩波書店刊(岩波現代文庫
G310
ISBN978-4-00-600310-4



柴田南雄の「音楽史と音楽論」が、ついに「文庫化」されました。この事実は、そもそもは「教科書」として書かれたものが、一つの卓越した音楽書として、古典的な意味を持つようになったことを意味します。
それは、1980年に旺文社(という名前を見るだけで、すでに「教科書」あるいは「学参」の雰囲気が漂います)から放送大学の教科書として出版されました。その装丁はまさに「教科書」そのもの、絹目のエンボスが入った薄っぺらな表紙は、それこそ高校時代に使った山川出版の日本史の教科書そっくりです。

それ以後に本書がたどった道は知る由もありませんでしたが、今回の文庫のクレジットによれば、これはその放送大学のテキストとして講義に用いられ、年度ごとの改訂を繰り返し、1992年に閉講になるまで実地に使われたそうです。その頃には、出版元は放送大学教育振興会に変わっていました。テキストとしての用途が終わった後も増刷は繰り返され、この文庫本の底本となったものは2004年の第3刷なのだそうです。つまり、教科書としての使途がなくなった後にも、一般書籍として流通していたのですね。
そうなのですよ。これが発売された時には、放送大学を受講している人たち以外に「一般の」音楽愛好家が、こぞって購入していたのです。そんな最近までオリジナルが流通していたのも、そんな需要が継続的にあったためなのでしょう。そう、これはまさに「教科書にしておくには惜しい」ほどの、革新的な「音楽史」あるいは「音楽論」だったのです。この文庫ではもうなくなっていますが、旺文社の初版にはサブタイトルとして「日本の音楽に世界の音楽を投影する」という一文が加わっています。これこそが、本書の最もユニークなところ、それまでの「音楽史」の中心であった西洋クラシック音楽を、地理的にも、また時代的にもごく限られたものとした視点の広さには、だれしもが驚かされたものです。
柴田南雄という人は、生前はテレビやラジオでよく「解説者」として登場していましたから、その辺の「音楽評論家」なのではないか、と見られていた節もありますが、彼の本職は作曲家でした。それも、ひたすら自身の作曲技法を練り上げて推し進めるという、「ベートーヴェン型」ではなく、時代に合わせて柔軟に作風を変化させていく「ストラヴィンスキー型」あるいは「ペンデレツキ型」の作曲家だったようです。それは、もちろんこの世代の日本の作曲家であれば避けては通れない必然だったわけですが(一柳彗とか)、彼の場合はその振れ幅がけた外れに大きかったことが、注目されます。最初は型どおりにロマンティックな西洋音楽の模倣から始まったものが、当時の「最先端」であった「12音」、「セリー・アンテグラル」を徹底的に極めた後には、別の面で「最先端」であった「偶然性」に向かいます。そして、晩年にたどり着いたのが、日本古来の音素材を用いた「シアター・ピース」というわけです。その「シアター・ピース」も、後期の「修二會讃」あたりになると、忠実に東大寺のお水取りの様子を模写した、「音楽」というよりは「記録」に近いものになっています。これを「作曲」したのが1978年、この本には、そこまでの「作曲家」としての膨大な蓄積が確実に反映されています。
本書の最後には未来の音楽はどのようなものになるのか、という「予言」めいた言及もうかがえます。それは、文化までをも含めた歴史上の事象が、ある一定の法則に従って変化しているという学説が裏付けになっています。しかし、このような世界がそんな法則に忠実に従うわけもなく、その30年以上前の「予言」は、少なくとも作曲界に於いては実現する事はありませんでした。
そういえば、最近は「シアター・ピース」を手掛けるような作曲家など絶えてなくなってしあたーような気がするのは、単なる錯覚でしょうか。

Book Artwork © Iwanami Shoten, Publishers
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by jurassic_oyaji | 2014-08-18 21:02 | 書籍 | Comments(0)