おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:書籍( 157 )
ところで、きょう指揮したのは?/秋山和慶回想録
c0039487_23114216.jpg






秋山和慶・冨沢佐一著
アルテスパブリッシング刊
ISBN978-4-86559-117-0




指揮者の秋山和慶さんの「回想録」というものが出版されました。秋山さんのほかにもう一人の「著者」の名前がありますが、これはよくある「ゴーストライター」とは異なる、ちょっと面白い立場からの参加です。この冨沢さんという方は中国新聞社の記者などを務めた方で、この本の骨子となった原稿はその中国新聞に、秋山さんへのインタビューを文字に起こすという形で連載されたものなのだそうです。ただ、それだけを読むといかにも淡々としているので、それを補うために冨沢さんが秋山さんのお話に登場する事柄に「史実」としての客観的なデータを書き加えているのです。
このやり方は、例えばゴールウェイの自伝のように、本人とゴーストライターとの記述が混然一体となっているものとは好対照です(「婚前一体」だったら問題)。ここでは、秋山さんの部分には、何か物足りなさが残ってしまうようなところがあったものが、冨沢さんの追記によって、見事に「資料」として読み応えのあるものに仕上げられているのではないでしょうか。
ちょっと驚いてしまうのは、この冨沢さんという方は記者時代には音楽に関する仕事は全くやっていなかったのに、この秋山さんへのインタビューや、その後の単行本のための執筆を行うために、音楽のことをものすごく勉強されている、ということです。これはご自身があとがきで述べられていることなのですが、それを読むまでは、その辺の音楽ライターよりもずっと確かな目に裏付けられたその筆致に、圧倒されていましたからね。
正直、秋山さんという指揮者に関しては、例えばメジャー・レーベルからCDをリリースするといったような目立ちかたはされていないからでしょうが、何か「地味」な印象がありました。テレビで映像を見たことも何回かありましたが、その指揮ぶりはとてもしなやかであるにもかかわらず、どこか醒めたところがあるような気がしたものです。しかし、この本を読んでいくと、それはかなり表面的な印象であって、実体としての秋山さんはとてつもなくエネルギッシュなキャラクターだったことがわかってきます。見かけは穏やかでも、内に秘めた情熱はハンパではないという感じですね。そこからは、あの同門の小澤征爾ほどの派手さはありませんが、確実に世界の頂点を極めた指揮者の姿が浮かんできます。
もしかしたら、秋山さんの言葉の中には「勉強」という、それこそ小澤征爾が年中使っている単語があまり登場しないのが、逆にマイナスのイメージを与えてしまっているのかもしれません。ここで、例えば「800曲は暗譜している」などとサラッと言ってのけたり、難しい現代曲をこともなげに演奏してしまう姿を見てしまうと、それもなるほどと思えます。
なによりも素晴らしいのは、秋山さんは1963年に東京交響楽団というオーケストラの専属指揮者として就任して以来、経営破綻して再建される間もずっとそのオーケストラの指揮者を続け、その関係が今でも続いているという事実です。この本では、まるでこの長いスパンの中での秋山さんの活躍の幅の拡大と、このオーケストラの充実ぶりをシンクロさせながら、巧まずして日本のクラシック音楽界の変遷を見事に浮き出しているようです。あの「題名のない音楽会」が、東響を救済する意味でスタートしたものだったことも、初めて知りました。
最後のあたりには、秋山さんが世界初演を行った例の「HIROSHIMA」に関する言及も見られます。「技術的にかなり粗末で演奏できない個所も多かった」ために、楽譜に手を入れたら、作曲家が激怒した、というのですね。この件に関しての冨沢さんの解説は、至極当たり前のものなのがちょっと残念です。その「作曲家」というのがどちらだったのか、CDで使われているのはこの「秋山版」なのか、ぜひ知りたいものです。

Book Artwork © Artes Publishing Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2015-03-03 23:14 | 書籍 | Comments(0)
世界で一番美しい劇場
c0039487_20542499.jpg






エクスナレッジ刊
ISBN978-4-7678-1921-1




建築関係の書籍に関しては日本最大といわれている「エクスナレッジ」からは、「世界で一番」という言葉で始まるタイトルの本が多く出版されています。「世界で一番美しい空港」とか「世界で一番美しい宮殿」など、さすがは建設関係には強い会社ならではの企画だな、と思わせられる半面、「世界で一番美しいイカとタコの図鑑」なんてのもありますから、どういう会社なんだ、と思ってしまいますが。ただ、このフレーズは別にこの会社だけのものではなく、かなり興味をそそられる「世界で一番美しい元素図鑑」などは原則として他社のものですので、お間違えなく。
いずれにしても、こんな扇情的なタイトルで読者を引き付けようとする魂胆はミエミエで、その罪滅ぼしなのでしょうか、この本の英語のタイトルは「Beautiful Theater in the World」というサラッとしたものです。大体、「世界で一番」と言っておいて、それを52も挙げるということ自体が反則ですし。
しかし、この表紙を飾っている「パラウ・デ・ラ・ムシカ・カタラナ(カタルーニャ音楽堂)」というバルセロナにあるコンサートホールに関しては、文句なしに「世界で一番美しい」と言うことが出来るのではないでしょうか。このホールの存在を知ったのは、こちらの映像でモーツァルトの「レクイエム」と「ハ短調ミサ」を見た時でした。コンサートホールというにはあまりにも装飾過剰で、まるで異次元にでも誘われるようなその内部の様子には、心底圧倒されてしまいました。ですから、この表紙を見たとたんに、ぜひ手元に置いて何度でも見つめていたいという衝動に駆られたのですね。
やはり、印刷物で見たその姿は、映像で見たものとはさらに深みのあるものに感じられました。さらに、ここではホール内の全景だけではなく、ステージのバックに飾られたレリーフや、モザイクタイルによる合唱団と踊り子の図柄なども紹介されていますから、たまりません。ですから、その気になって探せば、もうこのホールのすべてのものがありとあらゆる手段で何らかの装飾を施されていることを発見することが出来ましたよ。
ただ、そのモザイクタイルが一体どこにあるのかが、これだけの写真ではわからなかったので、Googleのストリートビューを使って「現地」に行ってみることにしました。便利な世の中になったものです。結局、それは建物の上の方にあるファサードを飾っていたものだったことが分かりましたが、同時に、この「空間移動ツール」は、「ストリート」だけではなく、ものによっては建物の内部の「ビュー」まで体験できることが分かりました。あの通行人のアイコンを地図にかざすと、道路の上に青い線が出るだけではなく、建物の中にもいくつかの「点」が表示されるのですよ。そこをクリックすると、見事に客席の中に入ることができました。
さらに、そこから上のバルコニーを見上げると、ふつうの写真ではまず気が付かないことですが、天井裏に「Mozart」とか「Gluck」などという作曲家の名前が書いてあることまでわかってしまいます。すごいですね。
「劇場」という範疇で取り上げられているのは、オペラハウス、演劇用の劇場、そしてコンサートホールです。「演劇用」の中にはちょっとなじみがないものもありましたが、それ以外はどこかで一度は聞いたことがあるおなじみのところばかりです。最も古い建物は18世紀に建てられたバイロイト辺境伯歌劇場(どうせなら、同じ市内の祝祭劇場も取り上げてほしかったものです)、そして、2011年にできたばかりのヘルシンキ・ミュージックセンターまで、4世紀に及ぶ「美しい」劇場の写真には圧倒されます。そして、最近作られたホールの音響設計が、ほとんど豊田泰久さんの手になるものだという事実にも驚かされます。こういうことは胸を張って自慢しましょうね。同じ「日本製」ですが、原発の輸出みたいに恥ずかしいことでは全然ありませんから(いや、原発は持っているだけで「恥」)。

Book Artwork © X-Knowledge Co., Ltd.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2015-02-19 20:57 | 書籍 | Comments(0)
『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
c0039487_2194182.jpg








瀬川裕司著
平凡社刊(平凡社新書759)
ISBN978-4-582-85759-7




「サウンド・オブ・ミュージック」というのは、言うまでもなく1959年にブロードウェイで初演された、ロジャース/ハマースタインのミュージカルですが、今ではそのオリジナルの舞台版よりは、1965年にロバート・ワイズによって映画化されたハリウッド・バージョンの方が、圧倒的な人気を誇っています。特に、多くの部分が「現地」であるザルツブルクでのロケによって撮影されていますから、そのスケールの大きさと言ったら舞台版の比ではありません。ですから、特に注釈がない場合はこういうタイトルだと「映画版」を指し示すようになっていますし、例えば「劇団四季」が上演したような時には、映画を元にして「ミュージカル化」されたのではないか、と思ってしまう人がいてもおかしくはありません。なんせ、その「劇団四季」で今公演中の「リトル・マーメイド」や、これからの公演が決まっている「アラジン」などは、オリジナルは映画(というか「アニメ」)だったのですからね(あら、そう?)。
この本の著者は、映画に関してはプロですから、もちろんここで語られるのは「映画版」についてです。もちろん、きちんとした論を展開するための基礎データとして、この舞台版ミュージカル、さらには同じ題材で1956年に制作されたドイツ映画「菩提樹」、そして実話そのものまでにさかのぼっての言及は、抜かりはありません。
そのうえで、著者は恐ろしくマニアックな手法で、この「映画」の魅力に迫っています。それは、監督の演出の手法を、それこそカットごとの人物のすべての動きに注目して、そこでの登場人物の心の動きの詳細まで検証する、というやり方です。音楽で言えばアナリーゼということになるのでしょう。普通に映画を見ている人は、そんなことは考えなくてもそこで行われていることの意味を感覚的に知ることが出来るはずなのですが、ここでは、なぜそのようなことが可能になるのかを、様々なシーンを例に挙げて、徹底的に分析してくれています。おそらく、これを読んだ後でこの映画をもう一度見たら、そのシーンで漠然と感じていたことが、より具体的に理解できることでしょう。
そんな細かい分析の過程では、カットごとに撮られた時期、場合によっては撮られた場所までが違っていることまで指摘されています。こういう、言ってみれば重箱の隅をほじくるようなことは、どちらかといえば作った側にしてみたらあまり明らかにして欲しくはないものなのかもしれません。ですから、見る人の役に立つかどうかは微妙なところですね。できれば、こんなことは知らないでその画面を楽しんでいた方が、その人にとっては幸せだったかもしれませんから。でも、世の中にはこの手のことが大好きな人はたくさんいますので、そういう人たちの好奇心を満たすには、これは欠かせない情報となることでしょう。
ロケ地についても、実際にロケに使ったところではないのに堂々とロケ地であることをうたっているようなところがあるというのは、なかなか面白い指摘です。こういういい加減なことをやっている人が、○国だけではなくザルツブルクにもいるのですね。こちらはれっきとした「偽装表示」ですから、明らかにするのは必要なことです。
そんな、とても多くの情報にあふれている本なのですが、我々音楽ファンにとっては物足りないところが結構あったりします。ここでは、出演者ではなく別の人が歌を歌っている時の代役などについてもかなり詳しく述べられていますが、その世界では有名なマーニ・ニクソンに関しては一言も触れられていないのがとても残念です。あまりに有名なことなので、あえて触れなかったのかもしれませんが。
しかし、音楽祭の会場であるフェルゼンライトシューレについて、他のロケ地のような詳細な説明がなかったのには、怒りさえ覚えます。

Book Artwork © Heibonsha
[PR]
by jurassic_oyaji | 2015-02-09 21:12 | 書籍 | Comments(0)
ニッポンの音楽
c0039487_22563221.jpg








佐々木敦著
講談社刊(講談社現代新書 2296)
ISBN978-4-06-288296-5




著者の佐々木さんは、1964年の生まれ。評論家として幅広いジャンルで活躍なさっており、早稲田大学では教授として教鞭も執っておられる方です。そんな、かなりアカデミックなイメージのある方が、1970年代以降から現在に至るまでの我が国の「大衆音楽」について語った本が上梓されました。ちょっと汗臭いかも(それは「体臭音楽」)。
その語り口は予想通りアカデミックなもので、そもそも言葉の定義から論を起こすという、その辺の「音楽ライター」にはちょっと出来そうもないようなスタンスで迫ります。つまり、最近では誰でもなにげなく使っている「Jポップ」という単語に関しての、ちょっとわずらわしいまでの成り立ちやら使い方やらの蘊蓄から始まるという、相当の気合の入れ方から、この本は始まるわけです。
しかし、著者がそこまでこのタームにこだわった訳は、次第に明らかになってきます。読み進むうちにその「深さ」に触れてしまうと、もはや軽々しく「Jポップ」などとは口に出来ないほどのプレッシャーを全身に感じることになるでしょう。なにしろ、この本の結びが、「この本は『Jポップ』の紛れもない葬送の物語です」などという物騒なフレーズなのですからね。そうなんです。「Jポップさん」は、もうお亡くなりになってしまったのですよ。
そんな大層な枠組みで語られるのは、実はおそろしくあっけらかんとしたその時代時代のアーティストに対する愛慕の情です。要は、そんな、著者が好きでたまらなかったそれぞれのアーティストに対する思いを、事細かに語ったというだけのものなのですよ。ただ、そこには、単なるファンとしての熱さをあえて隠し、冷静にその変遷を見守る客観的な視点が存在しています。その際に、地理的にも時代的にも広汎に及ぶ著者の知識が総動員されていることは言うまでもありません。こういう、殆ど照れ隠しのスタンスの語り口は、嫌いではありません。というより、なにかその中からかわいらしさのようなものまで感じとることは極めて容易です。
著者がここでそれぞれの時代を代表する(つまり、著者の愛慕の対象である)アーティストは、「はっぴいえんど」、「YMO」、「渋谷系」、「小室系」、「中田ヤスタカ」などです。個人的には「渋谷系」に関する知見がほとんどなかったので、このあたりのアーティスト、音楽状況に対する詳細な記述は、とても役に立ちます。これさえ押さえておけば、あとはすべてリアルタイムにかなり深くかかわっていたものばかりですから、すべての「ディケイド」における知識を持ちえたことになります。そういう意味で、この本は第1級の「参考書」たりえます。
もちろん、「知識」ばかりを得たとしても、そこからは何も生まれません。この本から得られるものがあるとすれば、それは著者のほとんど独りよがりとも思えるような強引な理論で結びつけられた3人のアーティストの共通点を知らされたことでしょうか。具体的には、YMOの坂本龍一、渋谷系の小山田圭吾、そして中田ヤスタカのテキストに対する姿勢(聴き方、ひいては音楽の中での用い方)の類似性です。「大衆音楽」の作り手でも、そのような感性を持っている人が確かにいることを知らされたのは、無上の喜びです。
もしも、70年代の「ロックにおける日本語」という命題をこれだけきっちりと分析してくれた著者の視点から「ラップにおける日本語」の位置づけが語られていれば、さらに実のあるものに仕上がっていたのでは、という気がします。あるいは、著者は意図的にこの命題から目をそらしていたのかもしれませんが。
そして、なぜタイトルが「にほん」ではなく「ニッポン」だったのかという素朴な疑問などは、この世代ではそもそも語るに足るものではなくなっているのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2015-01-02 22:56 | 書籍 | Comments(0)
SIBELIUS/Violin Concerto
c0039487_20295421.jpg










Edited by Timo Virtanen
Jean Sibelius Complete Works/
Series II, Volume 1
Breitkopf & Härtel/SON 622
ISMN979-0-004-80324-0(full score)




1996年にフィンランド国立図書館とフィンランドのシベリウス協会とによって編纂が開始されたシベリウスの作品全集は、ブライトコプフ社から順次刊行が進められています。完成の暁には、9つのシリーズ、およそ52巻に及ぶ全集が完成することになります。その内容は、

  • 第1シリーズ:オーケストラ作品
  • 第2シリーズ:ヴァイオリン(チェロ)とオーケストラの作品
  • 第3シリーズ:弦楽オーケストラと管楽器オーケストラの作品
  • 第4シリーズ:室内楽作品
  • 第5シリーズ:ピアノのための作品
  • 第6シリーズ:舞台作品
  • 第7シリーズ:合唱作品
  • 第8シリーズ:独唱曲
  • 第9シリーズ:その他

となっています。現在のところまだその半分も出版はされていません(交響曲については、4番、5番、6番がまだ出ていません)。
今回22番目のアイテムとして出版されたのは、第2シリーズの第1巻、ヴァイオリン協奏曲です。この全集のコンセプトは、初期稿や編曲なども含めてすべての作品を刊行するというものですから、ここには当然現行版のほかに、初稿である1904年版も収録されています。この楽譜は今回初めて公に日の目を見ることになったという、非常に貴重なものです。この曲は、初演の時の評判があまりに悪かったので、シベリウスは直ちに改訂を施し、そちらの方はめでたく「名曲」として今では多くの人に聴かれているものになっています。ですから、彼としてはもはや初稿は「無かったこと」にしたかったのでしょう。ただ、もちろん楽譜が出版されることはありませんでしたが、自筆稿によってたった1度だけ、特別に遺族の承諾を得て録音されたものはあります。

(BIS/CD-500)

このCDよって、その粗削りではあっても現行版にはない魅力をたたえたヴァイオリン協奏曲の初稿の姿は知ることが出来てはいましたし、掲載されていたライナーノーツによって、大まかな構造上の違いも、何とか理解は出来ていました。しかし、やはり楽譜の現物は見てみたいものだ、という願いが、やっとかなったことになります。
そこで、大まかですがその違いを見てみましょうか。上の数直線が初稿、下が現行版です(数字は小節)。

第1楽章は、こんな感じ、542小節あったものを499小節に削っています。そこでカットされたのが初稿の394小節目から458小節目までの2つ目のカデンツァです(1つ目のカデンツァは206小節目から258小節目まで)。そのほかにも、色のついた部分はモチーフの形も構成も大幅に改変されています。ほとんど同じ形の白い部分でも、オーケストレーションはかなり変わっています。
第2楽章は、小節数(69小節)も構成も全く変わっていません。変わったのは32小節目から41小節目までのソロの音型と、細かいオーケストレーションだけです。

第3楽章は、色のついた部分が別な音楽になっていて、326小節が268小節にまで削られています。ここもオーケストレーションはかなりの違いがあります。たとえば冒頭もこんな感じです。

(↑初稿)

(↑現行版)

今回のきちんと校訂された楽譜によって、さっきのCDでの演奏が必ずしも初稿に忠実ではなかった箇所も見つかりました。一番はっきりわかるのが第2楽章の65小節目(最後から5小節目)のヴァイオリン・ソロです。

CDではこのような細かい音符によるカデンツァのようなものが弾かれていますが、この楽譜では現行版と同じものになっています。これは、参考のために掲載されている自筆稿のファクシミリを見れば明らかなことで、最初に書いたこの細かい音符を、後に作曲家が鉛筆で消した跡がはっきり分かります。そこを、CDの演奏家は見落としたのでしょう。ちなみに、この部分の校訂報告で「Facsimile VII」とあるのは、「Facsimile VIII」の間違いでしょう。
全集版とは言いながら、版権はブライトコプフではなく、最初に出版したロベルト・リーナウが所有しています。ですから、将来スタディ・スコアやリダクション・スコアが出版される見込みはないのだそうです。すこあ(そこは)ちょっと不思議ですね。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-12-28 20:32 | 書籍 | Comments(0)
FAURÉ/Requiem
c0039487_2085094.jpg





Marc Rigaudière(Ed)
CARUS/27.311(full score)
ISMN M-007-09482-9




フォーレが作った「レクイエム」の最新のSACDで、2011年に出版されたばかりの「1889年版」という、今まではなかった楽譜が使われていました。そこで、早速入手して詳細を調べてみました。
従来から言われていたように、この曲が作られてから現在までには3つの段階があり、最初に作られた時には5曲しかなく、オケの編成も弦楽器だけだったものが、次の段階には2曲追加されて管楽器も追加され、さらに最後の段階で、現在最も演奏頻度の高いフル・オーケストラの編成になった、というものです。今回の楽譜は、その「第2段階」に作られたとされるものを再現したものです。ただ、同じようにこの段階の楽譜とされている今までのものには「1893年版」という表示があったものですが、ここにではそれが「1889年版」となっているところが、要注意です。
この2つの年代による楽譜の一番大きな違いは、この段階に付け加えられた2曲のうちの1曲、「Offertoire」の構成の違いです。これが加えられた時には、「Ostias」で始まるバリトン・ソロの部分しかなかったものが、現在ではその前後に額縁のように「O Domine」で始まる合唱の部分が付け加えられています。問題は、それが加えられた時期で、今まではほぼ1894年までにはその形になっていたと言われていたものが、このリゴディエールの見解では「正確に年代を特定することが出来ない」というのですね。さらに、彼の主張によると、フォーレはまだ合唱を付けくわえていないバリトン・ソロだけのものを、最終の形と見なしていたというのですよ。ここで「Pie Jesu」と並んで、ほぼ同じサイズのソリストだけによる曲が入る方が、全体の構成としてもバランスが取れているのだ、と。さらに、これはあくまで憶測ですが、彼はこの合唱部分が、第3段階のコンサート・バージョン成立にかなり近い段階での追加である可能性もあるのでは、と考えているのかもしれません。
この楽譜は、予想通り従来の「ネクトゥー・ドラージュ版」と、細かいところでの表情記号やスラーの位置などを除いてはほぼ同じものでした。ただ、明らかに聴いて分かるほどの音の違いは見つかりました。「Agnus Dei」7小節目の第1ヴィオラと、「In paradisum」でのコントラバスです(もちろん、「Offertoire」の構成も)。

Agnus Dei/1889


Agnus Dei/1893


In paradisum/1889


In paradisum/1893


ところが、この楽譜を使ったはずのSACDでは、「In paradisum」のコントラバスは確かにdivisiの低音が聴こえますが、「Agnus Dei」の方は1オクターブ上げて演奏しています。このあたりは、指揮者の裁量なのでしょう。
この楽譜を入手したことの最大の収穫は、今まで「謎」だった「ラッター版」の位置づけがある程度分かったことではないでしょうか。前書きで「Sanctus」の一次資料である自筆稿のスコアと、ヴァイオリン・ソロのパート譜(コピイスト)とホルンのパート譜(自筆)のファクシミリを見ることが出来ますが、それが全く違っているのですね。パート譜は、おそらく最初に演奏された時に用意されたもので、スコアの方はその後の段階での修正が書き加えられているために、そのような違いが生じているのでしょう。つまり、「第2段階」の楽譜は、演奏された時期によってかなり異なったものになっているのですね。そして、そのスコアを見てみると、それはまさに「ラッター版」そのものでした(確かに、ラッターはこの自筆稿のスコアを元に校訂したことを、最初に述べています)。つまり、大雑把に言ってしまえば、「ネクトゥー・ドラージュ版」は、今回のリゴディエール版と同じく、ごく初期の姿を再現したもの、「ラッター版」はかなり後の姿を再現したものになるのではないでしょうか。
そうなると、「ネクトゥー・ドラージュ版」で、「Offertoire」の最初と最後の合唱が入っているのはちょっとおかしいのでは、ということになりますね。ガブリエル・フォーレは、何という宿題を残してくれたのでしょう。とても相撲の力技(それは「がぶり寄り」)なんかでは解決できません。

Score Artwork © Carus-Verlag
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-11-18 20:11 | 書籍 | Comments(0)
オペラ座のお仕事/世界最高の舞台をつくる
c0039487_19284877.jpg






三澤洋史著
早川書房刊

ISBN978-4-15-209489-6




著者の三澤さんの名前を知ったのは、Facebookで目にした彼のサイトの書き込みからでした。そこで述べられていたことは、確か合唱コンクールの全国大会での審査員を務めたときの感想だったはずですが、詳細はすっかり忘れてしまいました。ただ、なんか、合唱界(というか、「合唱コンクール界」)のタブーのようなものに踏み込んで、とても鮮やかに正論を展開していたという印象だけが残っています。このコンクールの審査員といえば、ほとんどがおよそ全体の音楽を聴かずに、重箱の隅をほじくるような技術的な点だけで評価を下す人たちだと思っていたので、なにかとても救われたような気持になったことをよく憶えています。
今回、おそらくそのようなサイトの書き込みが内容の骨子になっていると思われる書籍が出版されました。タイトルから判断すると、彼の本来のポストである新国立劇場の合唱指揮者の仕事ぶりを語ったもののようですから、面白くない訳はないと、即座に入手してみましたよ。
それは、面白いどころではなく、まさに「面白すぎる」本でした。読み始めたら途中でやめるのも惜しいぐらい、次々と興味ある話題が湧きだしています。もう一気に最後まで読み通してしまいました。だいぶ前に、こんな感じの、夢中になって読みふける本があったな、と思ったら、それは茂木大輔さんの一連のエッセイでした。両者の「面白さ」に共通するのは、なんと言ってもその文体の躍動感。そこからは、自らのリズム感で他人を酔わせてしまうという、良質な音楽家であれば誰しもが持っているグルーヴを感じることが出来ます。
茂木さんの著作同様、ここでも三澤さんのまさに波乱万丈の経歴が語られています。そもそも、彼は音楽には関心があったものの、合唱の経験は全くなく、最初はトランペットをやっていたものが、高校に入った時にはブラスバンドで打楽器をやろうとしていました。ところが、そこに、隣から聴こえてきた「男声合唱」の響きに魅せられて合唱の世界に足を踏み込むという、なんとも不思議な体験が「合唱人」としてのスタートだというのですからすごいですね。
とは言っても、本当になりたかったのは「指揮者」、それも、「合唱指揮者」ではなく、ちゃんとしたオーケストラを指揮するような指揮者でした。そのために国立音大を卒業後(ここでは指揮科ではなく声楽科)ベルリン芸術大学で本格的な指揮の勉強をすることになります。それは、まさにシンフォニー・オーケストラの指揮者を目指す道、事実、三澤さんは単なる合唱指揮だけではなく、オペラそのものの指揮もしっかりなさっているようです。
現在は、いつの間にかしっかり日本にも「オペラのシーズン」というものを定着させてしまった本格的な(つまり、外国のものと同じ質の)オペラハウス専属の合唱団のシェフとして、日々「本物の」オペラの現場で活躍されています。常々、「新国立劇場の合唱団はすごい!」という噂をあちこちで聞いていますが、そんなすごい合唱団を作ってしまった張本人ということになるわけです。その合唱団に求めるサウンドも、実際にバイロイトでノルベルト・バラッチュのアシスタントを務めた経験なども踏まえた上で、最初から「バイロイトと同じもの」というレベルの高さだったのですが、結局「新国」の日本人にはドイツ人を超えることはできないことを知って深刻な壁を感じてしまうと思いきや、後に今度はミラノのスカラ座で研修を受けたことによって、その「壁」はあっさり克服できたという、とてもハッピーな結末が用意されていました。もはや、この合唱団には、何も怖いものはないのでしょう。
そんな、今では「バイロイトを超えた」とまで自画自賛している合唱団を聴きに、ぜひいつの日か新国立劇場を訪れてみたいものだ、と、切実に思わせられてしまいました。

Book Artwork © Hayakawa Publishing Corporation
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-11-08 19:30 | 書籍 | Comments(0)
棒を振る人生
c0039487_22594281.jpg








佐渡裕著
PHP研究所刊(PHP新書951
ISBN978-4-569-82059-0



佐渡裕さんは、ご存知の通り世界的な指揮者として活躍するかたわら、「題名のない音楽会」の司会者として、全国の「お茶の間」にもその姿が浸透している人気者です。正直、忙しいスケジュールの中でほぼ毎週そのテレビ番組に出演しているというのは、かなりすごいことなのではないかと思っているのですが、さらにその隙を縫ってこんな本まで書き上げてしまうのですから、驚いてしまいます。なんでも、これが「単著」としては3冊目のものになるのだそうですね。もちろん、そんな忙しい中でもきっちりとご自身でペンを走らせて(あくまで比喩ですが)いるのは、その畳み掛けるような勢いのある文章からも分かります。最後に、ジャーナリストの方の名前が「編集協力」という肩書でクレジットされていますが、この方は客観的にデータを整えたりしたのでしょう。ご本人の記憶には、えてして勘違いというものがありますからね。
前半は、「楽譜とは何か」とか「指揮者とはどういうものか」ということに関しての、佐渡さんなりの的確な「解説」の部分です。ここでは、彼の師であったバーンスタインと、その作品を引き合いに出して、興味深い逸話が語られます。となると、当然そのバーンスタインの「天敵」であったカラヤンの話も登場することになります。そこでその頃のベルリン・フィルの団員だったゴールウェイの名前が出てくるのには驚いてしまいます。なんでも、彼はバーンスタインの姿をプリントしたTシャツを着てカラヤンのリハーサルに臨んだのだそうですね。そしてそのあとに、ゴールウェイがベルリン・フィルを辞める時には、その最後の演奏会でアンコールにラヴェルの「ボレロ」を、ゴールウェイのソロで演奏した、という逸話を紹介しています。そんなことがあったのでしょうかねえ。ゴールウェイの自伝によれば、最後のシーズンが始まる前に辞表を提出した後は、カラヤンが指揮をする演奏会では全く出番がないようになっていたはずなのですから、「最後の演奏会」でそんな粋な計らいを受けたとは考えにくいのですが、さすが、カラヤンはオトナだった、ということなのでしょうかね。
後半では、佐渡さんの最近の活動について述べられています。その中で注目されるのは、やはり兵庫県立芸術文化センターの芸術監督としての仕事ぶりでしょう。阪神淡路大震災の震災復興事業の象徴として建設されたこの建物は、佐渡さんの尽力で単なるホールではない、豊かな成果を産み出しています。震災を乗り越えて、ホール専属のオーケストラを作ったり、オペラまで上演できるようになってしまうなんて、うらやましすぎます。というのも、その後に起こった東日本大震災では、そのような確固たるビジョンを持った事業などは全く期待できない状況にあるのですからね。いや、たしかに音楽ホールを作ろうとするような動きはありますが、それはどうやら薄汚い利権が絡んだ、将来の展望など望むべくもない計画のようですしね。
そして、最後を飾るのが、最新のトピックス、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督就任のニュースです。この部分の佐渡さんの筆致は、かなりハイテンションのように思えます。それだけ、本場ウィーンで「自分のオーケストラ」を持つことが出来るようになったことがうれしいのでしょう。そこから止めどもなくほとばしる将来への思いには、熱いものがあります。なんたって、この決して知名度が高いとは言えないオーケストラを「ウィーン・フィルよりいい音のするオーケストラ」にしたいと言っているぐらいですから。
そんな充実した人生を送っている人の本のタイトルがまるで「棒に振る人生」のように読めてしまうのは、ジョークでしょうか。そんなマゾっぽいセンスは、この人は持っていないような気がするのですが(いや、彼はサド)。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-10-21 23:03 | 書籍 | Comments(0)
「ビートルズ!」を作った男/レコード・ビジネスへ愛をこめて
c0039487_2365510.jpg






高嶋弘之著
DU BOOKS
ISBN978-4-907583-23-1




この本のタイトルが、ちょっとマニアックなのに気づいた人はいるでしょうか。「ビートルズ」に「びっくりマーク」が付いているのがミソ。これは、グループ名としての「ビートルズ」ではなく、彼らのファースト・アルバムとして日本で発売されたLPのタイトルなのですよ。ジャケットは同じ時期にアメリカで、やはりファースト・アルバムとしてリリースされた「Meet the Beatles!」と同じですが、曲目は日本でのデビュー・シングルの「I Want to Hold Your Hand」など、アルバム未収録の3曲と、それまでにリリースされていた2枚のアルバム(「Please Please Me」、「With the Beatles」)からそれぞれ6曲と5曲をピックアップして編集した日本独自のものだったのです。表紙のイラストは、そのLPOR-7041)のA面の模写です。「エバークリーン」が使われた「赤盤」だったんですね。「もしや」と思って調べたら、タイトルが入っている部分は、その日本盤の発売当初の帯ではありませんか。

もちろん、そのLPの編集を行ったのは著者の高嶋弘之ですから、まさに「『ビートルズ!』をつくった男」となるのですね。それがリリースされたのが1964年の4月5日(発売日には諸説あり)、つまり、今年は「ビートルズ!」が出てからちょうど50年目となるのです。これは、おそらくそのあたりを記念しての復刻だったのでしょう。というより、この時期の日本での独自編集のアルバム5枚をCD化したボックスが発売されたばかりですから、それとのミエミエのタイアップなのでしょう。そう、これは過去(1981年)に出版されたものの、とっくの昔に廃刊となった書籍の復刻版なのでした。
あの1966カルテット」の生みの親である、高嶋音楽事務所の代表高嶋弘之は、有名な話ですがかつては「東芝レコード」のディレクターとしてのサラリーマン生活を送っていました。彼がその東芝を退社して、別の会社を作ったりしている時に、乞われて書いたのが元の本です。彼が「東芝」に入社したのは1959年、そして退社したのが1969年、そんな、出来て間もない「東芝」時代のハチャメチャなディレクター人生が、語られています。
そこで紹介されているのは、なにも知らなければ突拍子もないように思えるほどの「反則技」の数々ですが、もはやそんなことは今では誰でも知っている、ごく普通に「業界」では行われていることばかりなのですね。いや、それはもはや「レコード」業界だけではなく、ありとあらゆる業種(テレビ番組、映画、あるいは書籍)が日常的に販売戦略として行っている手法なのですよ。
この本が書かれた当時ではおそらく知る人はあまりいなかったであろう、たとえばレコードの売り上げ枚数をごまかして公表したり、アルバイトを雇って作為的にラジオのリクエストをたくさん送りつけるなどという「浅知恵」は、今では誰でも知っていること、知っていても、あえてそれを知らないフリをして受け止める、というのが「賢い」人たちの生き方なのですよ。それをあたかも重要な「秘話」であるかのようにしか語れない著者の「愚かさ」のみが、とても目立ってしまうだけという、これは本当につまらない本です。表紙のマニアックさと、その内容とのあまりの落差は、まさに「1966カルテット」と共通しています。
でも、せっかく買ったのですから、賢い読者としては、そんな駄文の端はしにちりばめられた彼自身でしか語ることが出来ないはずの「事実」の重みを、味わうことにしませんか。それは、たとえば「帰って来たヨッパライ」で大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズの第2弾シングルとして発売を予定していた「イムジン河」が、すでに出荷されてしまった時点で「発売中止」という「上から」の指示に従わざるを得なかったという事件。そこでは、当事者からの貴重な証言として詳細な事実関係を、まさに「歴史」として知ることが出来るはずです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-09-09 23:09 | 書籍 | Comments(0)
Mussorgskij-Ravel/Tableaux d'une exposition
c0039487_2120257.jpg








BREITKOPF/5532(Full Score)



ラヴェルが編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」は、今のオーケストラの現場ではほぼ例外なくBoosey & Hawkesから出版された楽譜を使って演奏されているはずです。正確には、「B&Hから出版された何種類かの楽譜、および、そこから派生した楽譜(海賊版とも言う)」ということになるのでしょう。もちろん、これ(ら)にはきちんとパート譜も用意されていますから、演奏に使うためには申し分ありません。何しろ、この楽譜は、1929年に「ロシア音楽出版」から最初に出版されたものを、そのまま版権を譲り受けたという、とても由緒正しいものなのですからね。しかし、このB&H版は、1942年に出版されて以来、1953年と2002年とに改訂を行っていますが、いまだに多くの疑問点やミスプリントが残った、ちょっと信頼のおけない楽譜のままでいます。というか、2002年の「新改訂版」と呼ばれるものは、版下は1953年版をそのまま使い、それにほんの少し手を加え、いくつかの注釈を書き加えただけ、というしょぼいものですからね。
そんな中、1994年にEulenburgから、ラヴェルの自筆稿などの資料を精査してきちんと校訂された楽譜が出版されました。2004年には日本版も出版されています。これは、今までB&H版では謎とされていた部分が、ことごとく解決されていた、素晴らしいエディションでした。ただ、これはパート譜などは用意されていませんでしたから、部分的に指揮者や演奏者が楽譜に書き込んで直すための、いわば「研究用」の資料としての価値が一義的なものだったのでしょう。
そこに、つい最近、Breitkopf & Härtel社(これもB&Hなので、「ブライトコプフ」と言うことにします)という「大手」が、参入しました。この出版社でラヴェルの新しい楽譜の校訂を行ってきた、指揮者であり音楽学者でもあるジャン=フランソワ・モナールの校訂による、やはりEulenburgと同じ手法で作られた「原典版」です。こちらは、レンタルになりますがちゃんとパート譜も用意されていて、実際にオーケストラのライブラリーとしての需要を見込んで出版されたものです。
その作られ方からも分かる通り、このブライトコプフ版は、B&H版に比べたら、限りなく編曲者であるラヴェルの意思に近いものとなっています。つまり、あくまでラヴェルの自筆稿に忠実な校訂を行い、仮にそこがムソルグスキーの楽譜とは異なっていても、ラヴェルが書いたものを優先させるという姿勢が貫かれているのです。そんな例が、最初のプロムナードの23小節目(「5番」の2小節目)の3番ホルンと3番トランペットの最初の音です。ムソルグスキーではこの音はEフラットですが、ラヴェルの自筆稿ではEナチュラルなので、ここでもEナチュラルになちゅらっています。B&H版ではEフラットでした。

もう一つ、「サムエル・ゴルデンベルク」の19小節目(「60番」の2小節目)のトランペットの16番目の音も、ラヴェルはダブルシャープ、ムソルグスキーはただのシャープですが、こちらはダブルシャープ、B&Hはシャープです。そのあとの同じ形も、同様ですね。


この2点は、もちろんEulenburgも全く同じ扱いなのですが、中にはブライトコプフ版独自の解釈が現れているところもあります。「バーバ・ヤガー」の125小節(「94番」)からの10小節間は、今までのどの楽譜でもチューバとティンパニが交代で、あるいは同時に「ブンブン」あるいは「ドンドン」とやっていたのですが、この楽譜ではティンパニの「ドンドン」だけになっています。
こんな有名な曲ですから、いずれこの楽譜を使って「ブライトコプフ版による世界初録音」みたいな帯コピーのついたCDが発売されることでしょうね。
この楽譜、知ったのは日本の楽譜屋さんの案内ですが、そこでは本体価格12,580円でした。でも、直にブライトコプフのサイトから買ったら、59.9ユーロ、今の為替相場だと8,000円ちょっとです。送料を入れても9,500円、日本で買えば税込13,586円+送料ですから、かなりのお買い得でした。注文して1週間で届きましたし。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-09-03 21:22 | 書籍 | Comments(0)