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カテゴリ:書籍( 151 )
クラシックレコードの百年史/記念碑的名盤100+迷盤20
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ノーマン・レブレヒト著
猪上杉子訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93542-2



イギリスの音楽ジャーナリストNorman Lebrecht2007年に刊行した「Maestros, Masterpieces and Madness」という書籍の全訳です。お分かりのように、この元のタイトルはしっかり「M」で韻が踏まれていますね。全部で3部からできている、これがそれぞれのタイトルだったのです。実は、その第1部はさらに8つの章に分かれていて、それぞれ「Matinee」、「Middlemen」といったM始まりの単語がタイトルになっています。それだけで、このレブレヒトという人はただ者ではないような気がしてきますね。もちろん、邦題はそれとは似ても似つかぬ陳腐なものですから、そこから著者、あるいは著書のテイストを推測することは困難です。ほんと、こんなんではまるでクラシックレコードが100年かけて発展してきた歴史をつづった本、みたいに思えてしまいますよね。
そうなんです。この日本語の書名では全く伝わっては来ませんが、これはレコードがこの世に誕生してから消滅してしまうまでの成り行きを、主にメジャー・レーベルについて、その経営者やプロデューサーを主人公にして、客観的に描いたドキュメンタリーなのです。いや、まだ「消滅」はしてはいないだろう、と、多くの方は思うかもしれませんが、メジャー・レーベルに限って言えばもはや「クラシックレコード」というものを「産み出す」機能は失われてしまっているのですよ。これは、そんな「クラシックレコードの終焉」を世に知らしめる書物なのです。こんなノーテンキな邦題に騙されて読み始めたら、そのあまりに悲惨な内容に、読んだことを後悔するかもしれませんよ。
そもそもの著者の企ては、彼がコラムを執筆している新聞やウェブサイトを通して寄せられた読者の声も反映させて、クラシックレコードが誕生してから今日までの100枚の「Masterpieces」を選ぶことでした。その結果は本書の「第2部」にまとめられています。そこで選ばれた全てのアイテムに詳細にコメントを加えていく過程で、必然的にそれらを包括的に歴史を追って述べることの必要性を感じ、「第1部」を新たに書き下ろしたのでしょう。したがって、「第1部」と「第2部」(さらに、「Madness」たる「第3部」も)では、重複した記述が頻繁に見られますが、それらはおそらく著者の主張を繰り返すことによって印象付けようとする手法だと思いたいものです。
もちろん、「終わり」があれば「始まり」もありますし、その途中には間違いなく「成功」だってありました。そんな最も成功した事例として挙げられているのが、言うまでもなくヘルベルト・フォン・カラヤンです。なんたって、彼は今までにレコード(+CD)を2億枚も売っているのですからね(そんなアーティストランキングが載ってますが、ジェームズ・ゴールウェイが6位のマリア・カラスと8位のプラシド・ドミンゴに挟まれて7位に入っているというのがすごいですね)。そんな、カラヤンに群がる複数のレーベルの関係者の動向をつぶさに語っているくだりは、何かとても現実とは思えないほどの今の世の中とはかけ離れた出来事のように思えます。かつては、レーベルの力によって、指揮者をランクの高いオーケストラに「送り込む」ことさえ出来たというのですからね。
たとえば、古くはゴードン・パリーがDECCAを去った理由とか、最近ではSONYによって進められていたリゲティの全曲録音がいきなり中断され、WARNERに移った事情など、ぜひ知りたいと思っていたことがいとも身近に語られているのを見るのは、知的好奇心を潤すには十分すぎる効能です。あのジョン・カルショーすら、いとも気軽に「ゲイ」で片付けられているのですからね。ただ、注意しなければいけないのは、おそらく原文にあったであろう「ひねりのきいた」言い回しが、この訳文では誤って伝えられる恐れがあること、それと、著者自身の事実誤認は、訳者によってかなり訂正されてはいますが完全にはなくなっていない点です。パヴァロッティがベルゴンツィの代役でヴェルディの「レクイエム」を歌ったのはニューヨークではなくミラノですし、「EMIスタジオ」が「アビーロード・スタジオ」と呼ばれるようになったのは1970年代以降のことなのですからね。

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by jurassic_oyaji | 2014-03-31 23:02 | 書籍 | Comments(0)
空想工房の絵本
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安野光雅著
山川出版社刊
ISBN978-4-634-45054-6



つい先日88歳の「米寿」を迎えられたばかりの画家、安野光雅さんの最新の絵本です。お誕生日にはベージュのちゃんちゃんこを着ていたのだとか。
ただ、新刊には違いないのですが、この中に収録されている作品は、もう40年以上も前に書かれたものです。しかも、その一部分は今までにも事あるごとに別の形で印刷物になっていたことのあるものです。おそらく、その中のいくつかは、安野さんの作品とは知らずに目にしていたことがある人も多いのではないでしょうか。実際、これが発売された時の案内を見てみても、これはなにかの復刻なのでは、と思ってしまいましたから。しかし、実際に手にしてみると、これはまぎれもない「新刊」、しかも、マニアにとってはうれしくてたまらないものであることが分かりました。
安野さんは、1969年から1980年にかけての足掛け11年間、「数理科学」という月刊誌の表紙を書くという仕事をなさっていました。この雑誌は「科学の最前線を紹介する雑誌」として、もう50年以上もサイエンス社から出版され続けていますが、その当時の編集長が安野さんの絵本を目にして、表紙の連載を依頼したのでしょう。それが、出版された順に、全てのものがまとめられているのですよ。ですから、今まではその中から適宜選ばれて様々な機会で紹介されていたものを、まさに「一次資料」として1冊の絵本として提供されたもの、と言えるのではないでしょうか。
最近では、もっぱらスケッチ紀行のようなものが作品の主体になっているような気がしますが、この頃の安野さんは、もっぱらトリッキーな絵を書く絵本作家として知られていました。そこでは、M.C.エッシャーの作品のエキスだけを、安野さん独自のタッチで別の形に仕上げたものとか、有名な芸術作品を巧みなパロディで思いもよらないようなものに変えてしまうものなど、あらゆる「だまし」のテクニックを使って読者に対する挑戦を仕掛けていたものでした。この本の中の作品には、どれにもそのようなひねりが加えられていて、何度見ても飽きることはありません。
ここには、それぞれの作品に、「今の」安野さんが書いたコメントが付けられています。それによると、それがいったいどんな仕掛けだったのか、作ったご本人でももう分からなくなっているものがある、というのが面白いところです。それと、当時は完璧な仕掛けだと思っていたものも、今見ると大したことがない、というのもあるのだそうです。さらに、頻繁に「これは失敗作だ」とか、「締め切りがあったので、仕方なく渡した」みたいなネガティブな書き方をされています。
おそらく、そんな当時の評価によって、今まで日の目を見ることのなかった作品もあったものが、ついにこんな形で全てのものが公開されてしまったのです。実際に、殆どのものは確かに見たことがありますが、その中に今回初めて目にするものを発見した時の喜びと言ったら、言葉では表せないほどです。
そんなものを2作ほど、あくまで主観ですが、初めて見てとても「感動」したものを、その辺に広げてあったものを写真に撮ったらたまたま入っていた、というスタンスでご紹介します。



ところで、「いろは歌」という作品のコメントで、関係者の名前が登場したのには驚きました。ただ、安野さんの勘違いでしょうか、名称に不正確なものがあるのが、ほほえましいところです。


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by jurassic_oyaji | 2014-03-29 20:48 | 書籍 | Comments(0)
音楽史影の仕掛人
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小宮正安著
春秋社刊
ISBN978-4-393-93031-1



「音楽史」、正確には「西洋音楽史」というのは、言うまでもなく「西洋音楽」の「歴史」なのですから、そんな「音楽」を作った人物である「作曲家」の「歴史」と言えないこともありません。しかし、現実はそんな単純なものでないことは、誰でも気付くはずです。例えば、バッハ→ハイドン→モーツァルト→ベートーヴェンと「音楽」が「進化」してきた、みたいな、かつては教育現場でさえもまかり通っていた分かりやすくシンプルな史観は、もはや顧みられることはありません。そんなものは、そういう流れの発展形ととらえられていた「現代音楽」の崩壊とともに、跡形もなく崩れ去っていたのです。
もちろん、作曲家は西洋音楽史の主人公であることは間違いありません。しかし、その作曲家に様々な影響を与えるなど、何らかの形で関係を持っていた人物の存在を知れば、より奥深い人間像がイメージ出来るようになるはずです。確かに、それぞれの作曲家の伝記には決まって登場するキャストというものが、必ずいるものです。ただ、それらは、たとえば「モーツァルトはコロレド大司教の逆鱗に触れた」みたいな定型文として認識されているだけで、そのコロレドさんというとは実際はどういう人だったのか、つまり、コロレドさんサイドからの証言というものにはほとんどお目にかかることがなかったというのが、今までの伝記業界の実状だったのではないでしょうか。そんな、今まで西洋音楽史の片隅にちょこっと顔を出すことによって「どこかで聞いたことがあるような名前」として意識の片隅に残っていた人物について掘り下げてみた、というのがこの本なのです。
そんな、いわば「裏音楽史」の主人公たちは全部で25人、それぞれに個性的な面々が集まっています。そんな中で、この人たちがいなかったら、今のコンサートはさぞやさびしいものになっただろうと思えてしまうような二人の「セルゲイ」の存在が、とても気になるものでした。一人は、「バレエ・リュス」を創ったセルゲイ・ディアギレフ、そしてもう一人は指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーです。ディアギレフに関してはある程度の人間像はわかっていましたが、クーセヴィツキーがこれほどまでに貪欲に自らの道を開いた人であったことは、ここで初めて知ることが出来ました。なんと言っても、2度目の奥さんの実家の財産にものを言わせて、強引に指揮者のレッスンを受けたり、あのベルリン・フィルを金で買って指揮者デビューを果たしたりといった豪快なエピソードがたまりません。
考えてみれば、前作「モーツァルトを『造った』男」に登場したケッヘルさんも、この著者によって同じようにその人間的な側面が生き生きと伝わって来たものでした。あの時に著者が見せた単に音楽史にとどまらない世界史全体を見据えた視点は、ここでも健在でした。あたかも「暴露話」のように見えて、全体を読み終えたときには18世紀後半から現代へ至るまでのヨーロッパ全体の歴史が頭の中に広がっていて、革命や戦争にさらされながらもしたたかに生き延びてきた「西洋音楽」の姿が、くっきりと浮かび上がってくるのです。おそらく意識したことではなかったのでしょうが、この本の中に幾度となく登場する「毀誉褒貶」という難しい単語が、それぞれの人物の姿を「つとに」明らかにしてくれています。
著者がこの本を書き上げたのは昨年の7月ごろだったのでしょうが、あと半年ほどすると世間を騒がせた「ゴーストライター」事件が発覚します。そこでゴーストライターに曲を作らせた人物こそは「影の仕掛け人」、そこで、あのモーツァルトをしてゴーストライター業に手を染めしめたヴァルゼック伯爵を登場させていれば、さらに充実した内容になっていたのかもしれないよう。惜しいことをしましたね。

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by jurassic_oyaji | 2014-03-12 00:11 | 書籍 | Comments(0)
ブルクミュラー 25の不思議 なぜこんなにも愛されるのか
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飯田有抄・前島美保共著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-14333-3



「ブルクミュラー」と言えば、小さい頃(あるいは、ある程度おおきくなってから)ピアノの勉強をしたことがある人にとっては忘れられない単語に違いありません。それは「バイエル終わったから、次はブルクミュラーね」みたいなノリで語られる、ごく初歩的な段階での教材の話として、もっぱら登場していたものでした。「バイエル」にしても「ブルクミュラー」にしても、それぞれフェルディナント・バイエルとフリードリヒ・ブルクミュラーという名前の作曲家が作曲した練習曲のことなのですが、そんな作った人のことなどはすっかり忘れられ、単に「バイエル教則本」とか「25のやさしい練習曲」という「教材」の名前として、それらは認識されていたはずです。
現実には、バイエルさんに関しては最近ではかなりその人物像が一般的になって来たような印象はありますが、ブルクミュラーさんについてはそもそもどんな顔をしていたのか、というあたりから「謎」に包まれていたのではないでしょうか。まあ、別に顔が分からなくてもピアノの勉強には差支えはないでしょうから、そんなことはどうでもよかったのかもしれませんが。
ただ、ご存じのようにこのブルクミュラー(あ、もちろん練習曲のことです)には、技術的には全然難しくないのに、なんか奥の深い世界を味わわせてくれる魅力がありました。そのせいでしょうか、この曲集は、現在ピアノに携わっている人だけではなく、これを習っているあたりでピアニストへの道をあきらめた人までも含めた多くの人たちに愛されているような気がします。
そんな思いが昂じて、「ぶるぐ協会」などというブルクミュラーさんのことを研究する秘密結社(つまり、出版社のお仕着せ表記である「ブルク」ではなくあくまで昔の呼び名の「ブルグ」にこだわっているというマニアの集まりなのでしょう)を作ってしまった飯田さんと前島さんというお二人が、これまでの「調査」の成果として上梓したのが、この本です。
まず、この本の表紙に描かれた、お目目がキラキラしたかわいいブルクミュラーさんの似顔絵に、ちょっとびっくりしてしまいます。こんな顔をしていたんですね。知りませんでした。いや、それは当然だということが、読み始めてすぐに分かります。そこには彼の肖像画(リトグラフ)が掲載されているのですが、それは、彼女たちが2006年にフランスの国立図書館で発見し、初めて日本で紹介したものだというのですからね。そんな「足」で調べた、これもおそらく日本では初めて目に出来る彼のバイオグラフィーから始まって、この曲集の出版の歴史、さらには教育現場での受容史など、あらゆる方面からブルクミュラーさん本人と、その作品についての詳細なアプローチが並びます。これはもう圧巻としか言いようがありません。
執筆に当たっては、飯田さんと前島さんという、全く文章のテイストが異なるお二人が、それぞれの切り口で語っている、というスタンスが、なんとも言えない魅力を生んでいます。どちらも藝大の楽理科卒業という経歴ですが、飯田さんの方はプロのライターとしてご活躍なさっているとあって、文章はとても滑らか、時には「ウケ」をねらったようなツッコミまで交えて、軽快に論を進めています。一番受けたのは、音楽雑誌で何度か掲載されたブルクミュラーの特集記事に対してのツッコミですね。
一方の前島さんは、はっきり言って文章はヘタ、というか、そもそもエンタテインメントとしての文章ではなく、学術論文のようなちょっとした堅苦しさが残るものですが、それがちょっと滑りがちな飯田さんのパートの確かなフォローとなっています。彼女が担当した出版史のパートなどは、詳細で堅実な記述が光ります。21番の「天使の合唱」のコーダの最初の和音は、属7ではなく減7だというのが、今の現実です。

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by jurassic_oyaji | 2014-02-03 20:18 | 書籍 | Comments(0)
名曲の暗号/楽譜の裏に隠された真実を暴く
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佐伯茂樹著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-21063-9


AMAZONのカスタマーズレビューで、「茂木大輔」さんという方がこの本を絶賛されていましたが、これは、あの茂木さんご本人なのでしょうか。しかし、もぎ(もし)「なりすまし」だったとしても、それは本物の茂木さんでも間違いなく書きそうな内容でした。つまり、あのマニアックな茂木さんですら手放しで絶賛することをはばからないような、これはものすごい本なのですよ。
はからずも同じ時期に出版された前回の書籍と比べると、その違いがより明確になるはずです。あちらはあくまで「ファン」というか、音楽に関してはシロートの仕事ですから、頼りとするのは自分の感性のみ、作品にまつわる胡散臭い俗説なども真に受けて、ひたすら自分に都合の良いように作品をねじ曲げてありがたがるという姿勢が前面に出ています。まあこのような人の場合、ご自分の感想を謙虚に述べているうちは害はありませんが、それをまわりの人がありがたがるようになってくると、事態は深刻です。困ったものですね。
対して、本書の著者の佐伯さんは、膨大な資料と論理的な思考をもとに、あくまで客観的に作品の本質に迫るという、本物の「マニア」のスタンスを貫いているのですから、最初から勝負にはなりません。以前ご紹介したこちらの本よりも、さらにワンランク上がった「至高の」知識を、貪らせていただきましょう。
まず、冒頭で、ベートーヴェンの「交響曲第5番」の、それこそ冒頭のモティーフについて、例の「運命が扉を叩く」という俗説を全否定してくれています。あの「運命~」云々は、もともと胡散臭いものであるのは最近では周知の事実とされていて、さすがに前回の著者もそれを受け入れてはいますが、それでも「音楽がそのように聴こえる」と開き直っているのが、笑えます。もちろん、佐伯さんは同時期に作られた「交響曲第6番」との関連で、カール・ツェルニーが言ったとされる「鳥の鳴き声がヒントになった」という説を支持しています。
メンデルスゾーンの「交響曲第4番」の改訂についても、彼の姿勢は明確です。このサイトでは、一体何が真実なのかはっきりしていなかった中で、とりあえずこちらで書いたようなところに落ち着いてはいました。そんな中で、ここではその2つの楽譜のそれぞれの成り立ちを詳しく知ることが出来、一気に確証を得ることが出来ました。きちんと、どちらもファクシミリが出版されていたのですね。ですから、耳で聴いただけでは分からなかった第3楽章トリオでの2番ホルンの音形まで、ここでは知ることが出来ます。この改訂、出来としてはいわゆる「改訂稿」の方が元の形のように思えるところもあったのですが、このように新しい楽器が出てきたことに影響された跡(一応推測ではありますが)まで突きつけられれば、もはや信じないわけにはいきません。
一番驚いたのは、ドヴォルジャークの「交響曲第9番」での2番フルートのパートの話です。常々、この曲では1番フルートを差し置いて2番フルートが多くの個所でソロを吹くことには、何か不自然なものを感じていました。まあ、2番をやった時には堂々とソロが吹けたので気持ちがよかったのは事実ですが、普通の曲の2番ではまずあり得ないことですからね。しかし、これも著者の自筆稿のリサーチによって、単なる印刷ミスであることが発覚してしまいます。これは、いわゆる「原典版」でもそこまで踏み入ってはいなかっただけに、かなりショッキング。2番奏者の唯一の楽しみが、これからはなくなってしまうのでしょうか。
これだけ明確に今までの「誤謬」を正しているにもかかわらず、最後のコントラファゴットについての部分では、ちょっと文章の詰めが甘く、著者の言いたいことが正確に伝わっていないのでは、と思えるのが、少し残念です。

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by jurassic_oyaji | 2014-01-08 20:11 | 書籍 | Comments(0)
至高の音楽/クラシック 永遠の名曲
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百田尚樹著
PHP研究所刊
ISBN978-4-569-81603-6



処女小説「永遠の0」が映画化され、大ヒットとなった百田さんは、実は筋金入りのクラシック・ファンであったことを世に知らしめるエッセイ集です。なにしろ、お持ちのレコードやCDは2万枚以上と言いますから、これはそんじょそこらの「マニア」だったら裸足で逃げ出すほどの物量、それだけで尊敬してしまいます。
この本は発売されてすぐ買ったのですが、暇な時に読もうとそのままにしてありました。しばらくしてたまたま車の中でかけていたラジオから、関西弁のやたらハイテンションの声で、クラシックについて熱く語っているのが聴こえてきました。その方は、番組の進行役の坂本美雨を相手に、有無を言わせぬ迫力で、クラシックの魅力をとうとうと、まるで何かに憑かれたようにしゃべり続けていたのですね。この時代に民放FMでこれだけクラシックについて無心に語れる人に、とてつもない違和感を覚えたものです。しばらく聴いているうちに、どうやらこの方はこの本の著者で、そのプロモーションのためにここに出演しているのだな、と分かりました。まあ、普段は、新しいアルバムを出したロックかなんかのアーティストが出ている番組ですから、そんなノリで登場していたのでしょう。確かにこのトークは、そんなアーティストと同じような滑らかな口調で、ひたすらクラシックの素晴らしさ、ひいてはそんなことをテーマにしているこの本の素晴らしさを、飽くことなくまくしたてていたのでした。
家へ帰って実際に本を読んでみると、最初の章と最後の章が、さっきまでしゃべっていた内容と全く同じものだったのには驚きました。これも、ニューアルバムの中のタイトルチューンを丸ごと番組でかけてもらう手法とよく似ています。卑しくもクラシック・ファンともあろうものが、こんなあからさまな形でクラシックを扱うなんて、許せません。それが、さきほどの違和感の主たる原因だったのでしょう。
いや、日ごろ寡黙さこそがクラシック・ファンの資質だ、という信条があるものですから、こんな「明るい」人種に出会うと、何か大切なものを土足で踏みにじられているような感じをつい持ってしまうのが、「暗い」クラシック・ファンのいけないところなのでしょう。
やり方はともかく、この本からは著者のクラシックに対する熱い思いは間違いなく伝わってきます。それも、極めて「古典的」な思いだというあたりが、ある種のすごさを感じさせるものなのでしょう。2万枚という枚数についても「自慢ではなく恥ずべきこと」と、ちょっと意外なコメントがきけるのが、嬉しいところです。たくさん集めるよりは、「1枚のレコードを宝物のように」聴く方がずっといいことを知っている人なら、音楽に関しては安心できるな、という気がします。
その「2万枚」にしても、「ゴルトベルク」だけで、編曲も含めて100枚以上お持ちになっているというのですから、その内訳はそれほど多くはないのかもしれませんね。確かに、「いずれ誰かが録音するかもしれない」と書かれている、マリウス・コンスタンの編曲によるラヴェルの「夜のガスパール」のオーケストラ版は、すでにプティジラールの指揮によるCDを始め、最近ではこんなのも出ているのに、どうやらまだ入手されてはいないようですから、そのようなレア物に対する執着は、あまりお持ちになっていないのかもしれませんね。このあたりから察するに、百田さんは「ファン」ではあっても決して「マニア」ではないように思えてしまいますが、どうなのでしょうか。
ひとつ気になるのは、表紙に写っているスコアが、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」のものだということです。一緒にCDが写っているように、この本ではサンプル音源が付録になっていますが、その中にはこの曲は入っていませんし、本文の中でも登場していないのですよね。これは、デザイナーの勘違いだろーま

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by jurassic_oyaji | 2014-01-06 20:40 | 書籍 | Comments(0)
ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き
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Otto Biba, Ingrid Fuchs共著
小宮正安訳
集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版 031V)
ISBN978-4-08-720718-7




「ウィーン楽友協会の現在の資料館館長と副館長による、日本のクラシック愛好家のための書き下ろし」というフレーズが帯に踊っています。最後に「びっくりマーク(!)」が付いているぐらいですから、それは本当にびっくりするようなことなのでしょう。もちろん、このお二人はドイツ語で執筆なさったのでしょうから、オリジナルのタイトルも併記されています。それは「Die Geschichte der Gesellschaft der Musikfreunde in Wien」というものですから、そのまま訳すと「ウィーン楽友協会の歴史」という素っ気ないものでした。それを、上のように「歴史」を「二〇〇年の輝き」と直した(「改竄した」ともいう)のは、訳者なのか、編集担当者なのかは分かりませんが、このあたりで、「日本人」が抱いている「ウィーン」のイメージを端的に表現しているのは、さすがです。ただ、横書きで「二〇〇年」という書き方には、いくらなんでも馴染めません。
もう1点、日本語の「楽友」に相当する単語はここでは「Musikfreunde」のはずですが、我々日本人には「ムジークフェライン」、つまり「Musikverein」という言い方の方が馴染みがあるのではないでしょうか。そのあたりの違いについて、当事者たちの見解はどうなのかということをぜひとも知りたいと思ったのですが、それはこの本の中にはどこにも見つけることはできませんでした。
まあ、そんな厳密なところまでの議論を求めるというのが、もしかしたらこの本のスタンスからしたら筋違いのことだったのかもしれません。なんせ、全部で4つの章に分かれているうちの「歴史」に関して述べた「第1章」と、「演奏会」について述べた「第2章」とでは8割程度の部分で全く同じ記述が重なっているのですからね。おそらく、2人の著者の間での調整が取れなかったのと、それをきちんと校正しなかった結果なのでしょうが、その程度の、1冊の本としてはかなりみっともない仕上がりでもかまわないだろうというおおらかさの前には、細かい指摘など何の意味もありません。
ウィーン楽友協会について、「演奏会」と「音楽院」と「資料館」という3つの側面から詳細に語ったこの本は、特に「音楽院」と「資料館」について、今までほとんど知られることがなかったような知識を与えてくれています。「楽友協会」というのは、今の「ウィーン国立音楽大学」の前身だったんですね。さらに、この本が日本人向けに書かれたということもあって、その音楽院と日本との関係について語られているのもうれしいことです。そこの学生で、アントン・ブルックナーに師事したルドルフ・ディットリヒという音楽家は、明治政府からの要請で東京音楽学校の教師として招かれ、まさに日本のクラシック音楽の基礎をなす人材を育てたのですからね。もっとも、そこで、「楽友協会あっての日本の音楽教育」と自慢げに語る著者の筆致には、ちょっと引いてしまいますが。
このディットリヒという人は、在任中に妻を亡くした後、日本人の女性と親しくなって子どもまでもうけますが、やがて二人を残して帰国、ドイツで別の女性と再婚するという、まるでピンカートンを地で行ったような男なのですね。たまたま手元には、ディットリヒなどの「お雇い外国人」が作った曲を集めた2001年のCDがありました(KING/KKCC 3001)。そのライナーを執筆していたのが、ディットリヒの「孫」にあたる根上淳(ペギー葉山の夫)でした。
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「資料館」に関しては、さすが「ヴィジュアル版」だけあって、所蔵されている珍しい楽譜や楽器の写真が満載です。その中で一番受けたのは、「Harmoniumflügel」あるいは「Orgelklavier」と呼ばれる、ピアノとリードオルガンが合体した楽器です。
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訳文は非常にこなれていて(です・ます体)、とてもスラスラと読めてしまえました。まるで最初から日本語で書いたのでは、とすら思えるほどの素晴らしさです。

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by jurassic_oyaji | 2013-12-27 21:36 | 書籍 | Comments(0)
嶋護の一枚/The BEST Sounding CD
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嶋護著
株式会社ステレオサウンド刊(
SS選書)
ISBN978-4-88073-316-6



時系列として辿れば、嶋護(しまもり)さんの文章を読んで最初に衝撃を与えられたのは、ESOTERIC「指環」のSACDに付いてきた分厚い解説書ででした。「リング、そのデッカサウンド」というエッセイからは、今まで漠然と存在していたものが、鋭い切り口で突然実体をもって目の前に現れたのです。何しろ、その解説書ときたら、嶋さんと同じ名前の渡辺護(こちらは「まもる」)氏の、1965年に上梓された著作(↓)をそのまま、ライトモチーフの譜例の版下まできれいにコピー&ペイストしただけという雑な「楽曲解説」をはじめとして、すでに公になった文章をかき集めただけというお粗末なものでしたから、そこで唯一の描き下ろしであった嶋さんの文章のすごさは、おのずと際立っていたのでした。
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その次に出会ったのが、「クラシック名録音106究極ガイド」でした。ここで嶋さんが列挙しているプロデューサーやエンジニアの固有名詞には圧倒され、いつかはそのかなたの人名に親しめるだけのスキルを身に着けたいものだ、と思い知らされたものでした。もう一つ悔しかったのは、いくら嶋さんの言葉によって紡がれたそれらの名録音を実際に体験しようにも、それらのLPはもはや入手することは殆どかなわないものばかりだったことです。
そんなもどかしさを解消してくれるようなものが、実はだいぶ前に出ていたことに気づいたのは、菅野沖彦のXRCDを取り上げた時でした。その時にたまたま書店で目にして比較サンプルとして購入した「菅野レコーディングバイブル」という嶋さんの書籍に同梱されていたSACDこそは、それまでの嶋さんの文章を「音」として体験できるものだったのです。そこで試みられていた、「録音時に回っていたセッションマスターを録音時に使われていたマシンと同じ機種で再生し、『フラット』にDSDにトランスファーする」という手法から生まれたSACDから出てきた音は、衝撃以外の何物でもありませんでした。正直、今までほとんど神格化の対象だった杉本XRCDが、これほど色あせて聴こえたことはありません。
したがって、この、今まで10年にわたって雑誌に連載されてきた文章を集めた新刊では、その時以上の衝撃はすでに約束されていました。なによりも、ここで取り上げられているアイテムのほとんどは今でも流通しているCDSACDですから、その気になれば入手して嶋さんの体験を追うことだって可能なはずです(いや、すでに何枚か保有しているのを知って、本当にうれしくなりました)。
個々のアイテムとその周辺の検証はもちろんとても魅力的なエピソードばかりですが、その底に流れる「グルンドテーマ」も、すぐに見つかります。それは、マスタリングにかける嶋さんの思い。多少煩雑な記述の中からは、マスターを選び、的確なマスタリングを行うという作業がいかに重要なものであるかが思い知らされることでしょう。
すでに、いくつかの固有名詞はボキャブラリーに加わっていたとはいえ、ここで怒涛のように押し寄せる新たなそれは、やはり達すべき頂の高さを喚起されるものばかりです。そんな中で、ピーター・マッグラスという名前は、間違いなく新たに仲間になってくれるはずです。その接点は、彼が使っていた「KFM6」というマイク。
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これは、知り合いのKさんというエンジニアの方が、こちらで使っているのを見て初めて知ったマイクです。それで録音されたというマーラーの1番は、本書の2010年の時点では「入手には根気が求められる」CDでしたが、なんと2011年にはリイシューされていたではありませんか。それを知ったからには、注文しないという選択肢はあり得ません。
嶋さんの、ちょっとマニアックな文体には、いつも圧倒されます。フィラデルフィア管弦楽団の弦楽器セクションを、軽く「フィリー・ストリングス」と呼べるボーダーレスな感覚の持ち主は、知る限り「音楽評論家」には皆無です。

Book Artwork © Stereo Sound Publishing, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-11-15 21:22 | 書籍 | Comments(0)
MOZART/Requiem
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Benjamin-Gunnar Cohrs(Comp)
Musikproduktion Hoeflich(Study Score)




モーツァルトの「レクイエム」は未完の作品ですが、今では弟子のジュスマイヤーが「完成」させた楽譜が広く用いられているのはご存知のことでしょう。さらに、その、ちょっと完成度の低い楽譜に対して異議を唱え、より完成度の高いとされる楽譜を作った人が5人以上はいたことも、よく御存じのはずです。それは、1971年のフランツ・バイヤーに始まり、1994年のロバート・レヴィンの仕事によってひとまず出尽くした、という感がありました。結局その中で生き残ったのはバイヤー版とレヴィン版の2つだけのような気がしますが、それよりも在来のジュスマイヤー版の存在感が、それらの「新しい」楽譜の出現によって、相対的に高まったのではないでしょうか。もはや、レクイエム業界はその3者によってシェアされているというのが実情なのでしょう。もちろん、トップメーカーはジュスマイヤー版です。
そんな業界に、ここにきて新しい「メーカー」が「参入」してきました。それは、今年、2013年に出来たばかりの、「ベンヤミン=グンナー・コールス版」です。このコールスという音楽学者の名前は、おそらくブルックナーの交響曲第9番の最新の原典版の校訂者として耳にしたことがあるのではないでしょうか。彼はさらに、この交響曲の「未完」だった第4楽章の修復にも関与していましたから、「こうする方がいいよ」と言えるだけのものを持っていたのでしょう。
手元に届いたスコアは、まるで電話帳ほどの厚さがあるものでした。それは、巻末にドイツ語と英語でそれぞれ34ページにも上る解説が加わっているほかに、「レクイエム」を演奏する時の「付録」として、別の曲の楽譜が何曲分か入っていたためでした。
「レクイエム」本体の「完成」に対する基本的なコンセプトは、その長ったらしい解説でつぶさに述べられています。まず、コールスがこの作業を思い立ったものが、こちらでご紹介したバッハの「ロ短調ミサ」に関する書籍を著したクリストフ・ヴォルフの「Mozarts Requiem」という1990年の論文だということです。ヴォルフによると、今まではジュスマイヤーの「創作」とされていた「Sanctus」、「Benedictus」、「Agnus Dei」などには、しっかりと元になるモーツァルト自身によるスケッチがあったのだそうです。ですから、それらの曲に関しては、あくまでスケッチにあった部分は尊重するという姿勢です。その上で、ジュスマイヤーの仕事は破棄して、全く新しいものを作ったそうです。
このあたりは、なんだかレヴィン版とよく似た姿勢ですね。実際に比べてみると、「Lacrymosa」のあとには「アーメン・フーガ」が入っていますし、「Sanctus」のイントロなども、そっくりです。上がコールス版、下がレヴィン版。
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参考までに、このジュスマイヤーが作った部分の小節の長さを比較してみました。
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さらに、前半の部分はこれもジュスマイヤーのものではなく、彼の前にこの修復作業をコンスタンツェから依頼されたヨーゼフ・アイブラーのものを使います。これも、ヴォルフの「ジュスマイヤーは、モーツァルトの弟子の一人にすぎなかった。それが、コンスタンツェが最初にジュスマイヤーに仕事を頼まなかった理由だ」という言葉によるものなのでしょう。
アイブラーといえば、確か「ランドン版」の前半が、同じようなコンセプトで作られたものだったはずです。確かに比べてみるとほとんど同じですが、中にはコールス独自の部分があったりしますから、まあ、それも彼の姿勢だったのでしょう。
惜しいのは、その解説の中でバイヤー版の成立年を「1991年」と間違えていることです。これはドイツ語のテキストでも同じですから、かなり残念。
この楽譜を紹介していたサイトでの、「レオポルド・ノーヴァクとの問答なども見られる」という記述も、残念。そもそもノーヴァク(ノヴァーク)はだいぶ前に亡くなってますし、それらしい部分はおそらくヴォルフの論文の引用です(解説の原文はこちら)。
この楽譜で、最初に録音してくれるのは誰なのでしょうね。

Score Artwork © Musikproduktion Hoeflich
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by jurassic_oyaji | 2013-10-16 20:40 | 書籍 | Comments(0)
レナード・バーンスタイン/ザ・ラスト・ロング・インタビュー
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ジョナサン・コット著
山田治生訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-580-2



「このバンド無くしては日本という国がおっ勃(た)ちません」というフレーズは、先日行われたサザンオールスターズのスタジアム・ライブのオープニングMCに登場したものです。ご丁寧に、その「字幕」は巨大なLEDスクリーンに映し出されましたし、ファイナルではそれをWOWOWが生中継していましたから、その「勃」という、ほとんど「erection」の翻訳語として知られる二字熟語にしか使われることのない漢字(ま、「勃発」なんてのもありますが)は、ほぼ全国民の目に触れることになったのです。
まあこの程度のことはこの世界にはつきものですから別に目くじらを立てるほどのものではありません。しかし、その同じ二字熟語が、前世紀に多くの人に多大な影響を与えた指揮者であり作曲家、あるいは教育者でもあったレナード・バーンスタインの口から放たれ、それがそのまま活字となっているのを見てしまうと、ちょっと穏やかな気分ではいられなくなってしまいます。
この「巨人」が亡くなる1年前、198911月に、「ローリング・ストーン」誌のライターであったジョナサン・コットという人が、バーンスタインとのインタビュー原稿を依頼されたそうです。もはやそのようなメディアとの接触を断っていたマエストロを説得し、なんと12時間にも及ぶインタビューを敢行、その成果が、2013年にOxford University Pressから出版されたばかりの「Dinner with Lenny, The Last Long Interview with Leonard Bernstein」というタイトルの原書です。20年以上も前の記事がなぜ今頃書籍になったのか(そもそも、記事自体は掲載されたのか)とか、原書に数多く掲載されていた貴重な写真はなぜ割愛されたのか、などといった多くの疑問には、通常は「訳者あとがき」というものの中で答えられているものなのですが、その期待は巻頭にある「訳者は『訳者あとがき』を書きたいと準備していたが、著者の意向で掲載できなかった」という一文によって、叶えられることはありませんでした。「訳者」の無念さがにじみ出ているこのコメントは、もしかしたらこの本の中で最も印象的な文章なのかもしれません。この「著者」は、いったい何様のつもりなのでしょう。
確かに「著者」は、このインタビューの中では、かなり機知にとんだやり取りを披露しています。その一つが、さっきの二字熟語ネタです。
バーンスタイン:10歳のときに、僕は初めてピアノの鍵盤に触れた……僕が○起できるようになる前のことだ。
コット:幼児だって○起すると思いますが。
バーンスタイン:そうだけど、僕が言いたいのは”必要”な時に○起できるということだよ〈笑〉

まあ、「大人は必要な時に○起できる」ということなのでしょうね。大人であっても「必要な時に○起できない」人や、「必要でない時に○起してしまう」人は多いはずですが、このやり取りは、バーンスタインはそれをきちんとコントロールできる極めて稀な才能を持った人であること伝えるエピソードとして、後世に残ることでしょう。同じような「下ネタ」で、アルマ・マーラーに「ベッドに連れて行かれそうになった」というようなアレマな隠れた史実を引き出した才能も、なかなかのものです。
ただ、「カラヤンの死の床に立ち会った」とするバーンスタインの言葉に対して付けられた「カラヤンが死の直前に大賀典雄と面会していたことは有名な話であるが」という「訳者」の注釈には、なにか「ざまあみろ」といったような感情が込められているような気は、しないでしょうか。
そんなことを言ったら、インタビュー前の「プレリュード」という章で、バーンスタインが薬局で薬剤師から「覚醒剤」を渡されたという記述も、ひょっとしたら訳者が巧んだ意識的な誤訳なのかもしれませんね。
いや、バーンスタインはまともなことも喋っているんですよ。それは、実際に読んでいただく他はありません。

Book Artwork © alpha-beta publishing
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by jurassic_oyaji | 2013-09-26 23:07 | 書籍 | Comments(0)