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カテゴリ:書籍( 157 )
小澤征爾 覇者の法則
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中野雄著
㈱文芸春秋刊(文春新書985)
ISBN978-4-16-660985-7



以前「指揮者の役割」というとても刺激的な本を書かれた中野さんの、今回は小澤征爾の評伝です。最近は、この「カリスマ指揮者」に関する著作が目白押し、ついこの間もこんなまさに決定的な「一次資料」とも言うべき「自叙伝」が出たばかりだというのに、間髪を入れずに同じような趣旨の書籍の刊行です。でも、こちらの本はなんせ「十数年前」から執筆が始まっているというのですから、それは単なる「偶然」に過ぎないのでしょう。
とは言っても、結果的にはこの本は今までの自伝も含めた多くの小澤の評伝からの引用(「コピペ」とも言う)で成り立っている、という印象は拭えません。なんと言っても、おそらく執筆当時は新聞連載だけでまだ出版はされていなかった先ほどの「自叙伝」からの「引用」のいんような(異様な)ほどの頻度には、笑うしかありません。そうそう、それに加えて、著者自身の著作物からの引用という言わば「番宣」も、そちこちにあふれかえっていましたね。
いや、ここでの著者の目論見は、そのような巷にあふれた評伝から、著者にしかなしえない「なぜ小澤は世界的な指揮者になれたか」という命題に答えを出すという作業だったはずです。その点に関しては、「DNA」やら「脳科学」といった、おそらく今までの評伝には現れることのなかったタームを使いこなしての論陣が張られていますから、おそらく多くの読者には納得がいくのではないでしょうか。
あるいは、本筋にはあまり関係ないような「ネタ」にこそ、価値が見出せる、とか。たとえば、「八田利一」に関するコメントなど。ここで著者は、下の名前に「としかず」というルビを振っていますが、これは間違いでしょう。「はったりいち」と読まないことには、このペンネームの意味が伝わりませんからね。実はこんな痛快な「評論家」が存在していたことは初めて知りました。さる、高名な評論家さんが覆面ライターとして執筆しているのだそうですが、とても他人とは思えません。
そして、これも先ほどの「指揮者の役割」からのコピペですが、「アマチュア・オーケストラばかりを振っている指揮者は、決して大成しない」という手厳しい指摘です。アマオケを振っている限り、指揮者は「お山の大将」で相手を指導するだけ、決してオケから「教わる」ことはない、というのですね。確かに、それはとても納得のいくものです。この本にも登場する小澤の後継者と目されているさる有名指揮者などは、アマオケのリハーサルの途中で、ここからは何も得るものがないと分かったとたん、あからさまに投げやりな練習態度に豹変しましたからね。本番こそ大過なくまとめていましたが、アマオケの当事者は悔しい思いをしたことでしょう。確かに、その後その指揮者はおそらく「大成」することになるのでしょうが、その前に人間的な資質が問われることになってしまいました。アマオケをなめてはいけません。
先ほどの「命題」に直接答えるという形ではなく、ごくさりげなく登場する「CAMI」の存在あたりは、もしかしたら著者の「本音」が隠されているのではないか、という気がします。実際、なぜ小澤がCAMIのアーティストになれたのかは著者にも憶測でしか分からないようですし、これを突き詰めることはひょっとしたらタブーなのかもしれませんね。
おそらく、最後に述べられている「小澤ブランド」の今後、つまり、そう遠くない将来に必ず訪れるはずの事態への著者の冷徹な眼こそが、この本の「真価」なのではないでしょうか。そう思えば、コピペだらけの本体も許せます。
いや、たとえば「ウィーン国立歌劇場の音楽監督のポストは、日本企業の援助に対するバーターだ」というような「憶測」も、コピペを繰り返すうちに限りなく「真実」に近づくことを、著者は知っているのかもしれません。

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by jurassic_oyaji | 2014-08-28 19:50 | 書籍 | Comments(0)
音楽史と音楽論
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柴田南雄著
岩波書店刊(岩波現代文庫
G310
ISBN978-4-00-600310-4



柴田南雄の「音楽史と音楽論」が、ついに「文庫化」されました。この事実は、そもそもは「教科書」として書かれたものが、一つの卓越した音楽書として、古典的な意味を持つようになったことを意味します。
それは、1980年に旺文社(という名前を見るだけで、すでに「教科書」あるいは「学参」の雰囲気が漂います)から放送大学の教科書として出版されました。その装丁はまさに「教科書」そのもの、絹目のエンボスが入った薄っぺらな表紙は、それこそ高校時代に使った山川出版の日本史の教科書そっくりです。

それ以後に本書がたどった道は知る由もありませんでしたが、今回の文庫のクレジットによれば、これはその放送大学のテキストとして講義に用いられ、年度ごとの改訂を繰り返し、1992年に閉講になるまで実地に使われたそうです。その頃には、出版元は放送大学教育振興会に変わっていました。テキストとしての用途が終わった後も増刷は繰り返され、この文庫本の底本となったものは2004年の第3刷なのだそうです。つまり、教科書としての使途がなくなった後にも、一般書籍として流通していたのですね。
そうなのですよ。これが発売された時には、放送大学を受講している人たち以外に「一般の」音楽愛好家が、こぞって購入していたのです。そんな最近までオリジナルが流通していたのも、そんな需要が継続的にあったためなのでしょう。そう、これはまさに「教科書にしておくには惜しい」ほどの、革新的な「音楽史」あるいは「音楽論」だったのです。この文庫ではもうなくなっていますが、旺文社の初版にはサブタイトルとして「日本の音楽に世界の音楽を投影する」という一文が加わっています。これこそが、本書の最もユニークなところ、それまでの「音楽史」の中心であった西洋クラシック音楽を、地理的にも、また時代的にもごく限られたものとした視点の広さには、だれしもが驚かされたものです。
柴田南雄という人は、生前はテレビやラジオでよく「解説者」として登場していましたから、その辺の「音楽評論家」なのではないか、と見られていた節もありますが、彼の本職は作曲家でした。それも、ひたすら自身の作曲技法を練り上げて推し進めるという、「ベートーヴェン型」ではなく、時代に合わせて柔軟に作風を変化させていく「ストラヴィンスキー型」あるいは「ペンデレツキ型」の作曲家だったようです。それは、もちろんこの世代の日本の作曲家であれば避けては通れない必然だったわけですが(一柳彗とか)、彼の場合はその振れ幅がけた外れに大きかったことが、注目されます。最初は型どおりにロマンティックな西洋音楽の模倣から始まったものが、当時の「最先端」であった「12音」、「セリー・アンテグラル」を徹底的に極めた後には、別の面で「最先端」であった「偶然性」に向かいます。そして、晩年にたどり着いたのが、日本古来の音素材を用いた「シアター・ピース」というわけです。その「シアター・ピース」も、後期の「修二會讃」あたりになると、忠実に東大寺のお水取りの様子を模写した、「音楽」というよりは「記録」に近いものになっています。これを「作曲」したのが1978年、この本には、そこまでの「作曲家」としての膨大な蓄積が確実に反映されています。
本書の最後には未来の音楽はどのようなものになるのか、という「予言」めいた言及もうかがえます。それは、文化までをも含めた歴史上の事象が、ある一定の法則に従って変化しているという学説が裏付けになっています。しかし、このような世界がそんな法則に忠実に従うわけもなく、その30年以上前の「予言」は、少なくとも作曲界に於いては実現する事はありませんでした。
そういえば、最近は「シアター・ピース」を手掛けるような作曲家など絶えてなくなってしあたーような気がするのは、単なる錯覚でしょうか。

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by jurassic_oyaji | 2014-08-18 21:02 | 書籍 | Comments(0)
おわらない音楽/ 私の履歴書
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小澤征爾著
日本経済新聞出版社刊
ISBN978-4-532-16933-6



小澤征爾さんの「自伝」と言えば、かなり若い時に著した「ボクの音楽武者修行」(発行されたのは1962年)が有名ですね。ただ、あれは本当に若い頃、まだニューヨーク・フィルの副指揮者に就任したあたりの、まさに「シンデレラ・ストーリー」の主人公として各方面から注目を集めていたあたりに書かれたものですから、小澤さんの生涯全体からしたら本当にわずかな一部分でしかないのはしょうがいないことです。実は、あの本以後に、彼はとんでもない問題にたち向かわなければならなくなり、それこそ「ストーリー」としては山あり谷ありの面白さが始まるのですがね。

その本は、現在でも文庫本で簡単に入手できますが、1980年に文庫化された時に「解説」を執筆した萩元晴彦が最後に書いた「『ボクの音楽武者修行』から20年、その後の物語は、いずれ小澤征爾自身か、或いは誰かによって書かれるだろう」という「予言」が実現するまでには、それからさらに30年以上も待たなければなりませんでした。
その待望の「物語」は、今年の1月1日から31日まで、日本経済新聞の朝刊に連載されました。それを一冊の本にまとめたものが、本書です。掲載日ごとに一つのテーマ、それが全部で30編しかないのは、1月2日が新聞休刊日だったためなのでしょうね。それは、おそらく「武者修行」のように小澤さんが自らペンを取ったものではなく、インタビューを受けて語ったことを誰かが本の体裁に整えた、という、昨今の「自叙伝」では当たり前になった手法が取られているのではないでしょうか。もちろん、そのあたりの技術は、このような分野だけではなく、各方面で長足の進歩を遂げていますから、そのような読みやすい文体の中からは小澤さんの「生の声」が的確に伝わってきます。それは、もしかしたら本人が書くよりもストレートに伝わる仕上がりになっているのでは、と思えるほどです。同じような手法ですが、小澤さんの言葉をそのまま本にした先日の村上春樹の著作に対して、こちらは充分に手をかけてあくまで簡潔な物言いの中から、本質的なことを浮きだたせるという、高度な操作が加わっているような気がします。
そんな文体ですから、非常に短い言葉でも激しく心を揺り動かされることがあります。中でも印象深いのが、「N響のボイコット」ではないでしょうか。この件については、今まで多くの人がそれぞれの立場から様々な見解を表明してきているはずですが、その最大の「当事者」である小澤さんの「真意」がここで語られているのには、ぜひ注目すべきです。どんな問題に直面しても、明るく前向きに臨んでいるという印象の非常に強い小澤さんが、ここでは「精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった」とまで言っているのですから、やはりこれは彼にとっては未曽有の事態だったのでしょう。「スラヴァの説得」の章では、そんなダメージを負わされたオーケストラとの「和解」の模様が語られています。しかし、なにかそれは単に事象を淡々と述べているだけ、という印象しか受けません。
同じように「世間を騒がせた」天皇直訴事件についても、そのあたりの経緯がきちんと語られているのも、なにかほっとさせられます。
武満徹の出世作「ノヴェンバー・ステップス」が、文字通り世に出るために果たした小澤さんの絶大な貢献に関しても、詳細に事実関係が述べられています。ニューヨーク・フィルの委嘱作品として、そもそもは黛敏郎にと考えていたバーンスタインに武満を進言したのが小澤さんだということは、初めて知りました。もちろん、後に武満が公にする「こんな俗物の指揮者と仕事をしていたことを後悔している」という小澤批判については一切触れられていないのは、まさに小澤さんのおおらかさ、つまり人間としての器の大きさを物語るものに違いありません。

Book Artwork © Nikkei Publishing Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-08-06 21:12 | 書籍 | Comments(0)
小澤征爾さんと、音楽について話をする
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小澤征爾×村上春樹著
新潮社刊(新潮文庫)
ISBN978-4-10-100166-1



単行本が出たのが2011年の11月、それから3年も経っていないのに文庫化が「解禁」になるというあたりが、5年以上は待たされる東野圭吾との違いでしょうか。こんなに早いと、「ついこの間ハードカバーを読んだのに」という気持ちになってしまいます。
いや、「読んだ」と言っても、それは「立ち読み」という読み方でして。こんなタイトルの本が平積みになっていれば、どうしても手が伸びてしまうじゃないですか。ほんのチラッと目を通すつもりが、気が付いたらほとんど半分近く読んでしまっていたというだけの話です。ただ、そのあたり、小澤さんと村上さんがグールドかなんかのレコードを聴いて、「そこが走ってる」とか言い合っているようなところは、確かにスラスラ読めてしまうのですが、それだけで終わっているような気がして、その続きを読むためにその分厚い本を買おうという気には、全然なれませんでした。クラヲタの「熱い語らい」を傍で聴いていることほど退屈なものはありませんからね。
そのうち、その本の中で二人が実際に聴いていた音楽、というものを収録したCDまでが発売されました。当然のことですが、それはすべてが本に登場したレコードと同じというわけではなく、レーベルの関係で同じ曲を別の演奏家が演奏しているものも含まれているものでした。いくら「古楽器による演奏」といっても、インマゼールとレヴィンでは別物ではないか、という気がするのですがね。

そんな「まがいもの」が出た数ヵ月後に、この文庫本は発売になりました。あまりのタイミングの良さに一瞬たじろいでしまいますが、価格も半分以下になっていてお買い得、これだったら、最後まで読んで退屈しても、そんなに落ち込むことはないでしょう。
しかし、そんな腰の引けた読み方をあざ笑うかのように、まだ「立ち読み」していなかったところにはものすごいものが横たわっていました。レコードを聴きながらあれやこれや言い合うというシーンは、このあたりになってくるとあまりなくなってきて、そんなことよりも小澤さんが実際にそんなレコード上の「巨匠」(それは小澤さん自身も含めて)についての実体験を語るあたりが、とてつもないインパクトをもって迫ってくるようになっていたのです。これこそは、小澤さんでなければ語ることのできない、一つの「歴史」ではありませんか。往年の二大巨匠、カラヤンとバーンスタインについての、実際に音楽家として高次元の関わりを持った人によって語られる「事実」の、なんと重みのあることでしょう。データでしかお目にかかったことのない有名なプロデューサーなどが、平気で「親友」なんて言われて登場してくるのですからね。
それにしても、小澤さんの記憶の確かさ、細かさには驚かされます。それはあとでも述べられていますが、実際に録音現場にいたときの記憶が、その録音を聴くことによって甦るという、ある種の潜在意識の覚醒みたいなことが起こっていたのでしょうね。拡声器からの音によって。ただ、そんな中で「バーンスタインがウィーン・フィルとマーラーの2番を録音していた現場に立ち会っていた」という話は、村上さんも不思議がっていましたが明らかに記憶違いのような気がします。同じ時期にロンドンとウィーンで別のオーケストラとこんな大曲を録音していたなんて、いくらバーンスタインでもまずあり得ません。いや、本当にこんな録音(+映像)が存在していたら、すごいことなのですが。
文庫化で新たに収録された村上さんのエッセイは、とても素晴らしいドキュメンタリーでした。小澤さんの普通の人の尺度をはるかに超えた情熱には打たれます。おそらく、今ではほとんど語られることもないあの「天皇直訴」も、そんな情熱のなせる業だったのでしょうね。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2014-07-09 20:43 | 書籍 | Comments(0)
オケ奏者なら知っておきたいクラシックの常識
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長岡英著
アルテスパブリッシング刊(いりぐちアルテス005)
ISBN978-4-903951-90-4



世にアマチュア・オーケストラの公式ウェブサイトというものはたくさん存在しています。そしてそれぞれは、じつに様々な形をもっています。もちろん、演奏会の案内などの活動状況の紹介などは欠かすことが出来ないものですから、まず、もれなく含まれているのでしょうが、それ以外の、団員による読み物なども加えて、バラエティ豊かに迫るものなども多く見受けられます。何を隠そう、このサイトにしてからが、そもそもの出発点はそのような、演奏会に向けて練習している曲についてのマニアックな蘊蓄を集めたものだったのですからね。ですから、この本の著者のように、アマオケの団員でそのウェブサイトに定期的に音楽に関する文章を投稿しているような人を見たりすると、なにか他人とは思えなくなってしまいます。
そう、この本の著者は、本来は音楽学者なのですが、お子さんが通う学校のオーケストラが、父兄も団員として受け入れるというところだったので、そこにヴィオラ奏者として入団し、日々のオーケストラ活動を楽しんでいるという方なのです。そんな方がサイト管理者の勧めに応じて、音楽に関するコラムを毎週公式ウェブサイトに投稿するということを3年間にわたって続けられたというのですね。その結果、180篇以上のコラムが出来上がったのだとか。こらむぁーすごいですね。
そして、その中から60篇ほどを選んで、再構成されたものが、こんな本になってしまいました。そのような、音楽的なバックボーンがしっかりしていて、なおかつオーケストラの「現場」に日々身を置いているという方の書いたものですから、これは読まないわけにはいきません。
ただ、最初にこの本のタイトル(編集者が付けた?)を見た時には、この「オケ奏者なら知っておきたい」というフレーズの中の「なら」という言い方に、ちょっと不快なものを感じてしまいました。これがたとえば「オケ奏者にとって、知っておいて役に立つ・・・」みたいな言い方だと、そんなことは全く感じたりはしなかったのでしょうが、これは本当に損をしているタイトルです。この言い方には、有無を言わせぬ強制力、言ってみれば知識の強要のようなものが感じられます。しかし、知識というものは、他人に強制されて与えられるよりは、自ら知りたいと思って身に着ける方が良いに決まってますからね。実際に読んでみると、そんな押しつけがましいところは全くない内容だったので、なんか、こんなタイトルを付けられたのがかわいそうになってきましたよ。
つまり、そんなよくある煽情的な割には中身のとことん薄いあまたのハウツー本のような先入観をもって読み始めたところ、その語り口は柔らかですし、述べられていることもいともまっとうで奥深いものだったので、かえって面喰ったというのが正直なところなのですよ。
中身がきちんとしているというのは、たとえば「モーツァルトが初めから木管4パートが2本ずつ揃った編成で作ったのは『パリ交響曲(31番)』だけ」というとんでもない事実を、いともさりげなく語る部分によって分かります。確かに、言われてみればそうでした。さらに、そんな「トリビア」であっても、いたずらにマニアックに走ってはいないことも、ベルリオーズが「幻想交響曲」で試みた「標題音楽」の先駆けとして、クネヒトではなくベートーヴェンの例を挙げていることから知ることが出来ます。
ただ1ヶ所だけ、「バロック音楽の付点リズム」のところで掲載された説明用の画像は、視覚的に不完全さを感じてしまいます。

このように「長」、「短」と「言葉」で説明するのよりは、

このように、きちんと「楽譜」(参考文献の中にもあったクヴァンツの書籍からの引用)で示してくれた方が分かりやすいはずですからね。

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by jurassic_oyaji | 2014-05-22 20:40 | 書籍 | Comments(0)
運命と呼ばないで/ベートーヴェン4コマ劇場
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NAXOS JAPAN
IKE

学研パブリッシング刊

ISBN978-4-05-800251-3




あの「のだめカンタービレ」に続けとばかりに、こんなクラシックのネタのコミックが刊行されました。この作品がユニークなのは、まず、「のだめ」のような紙媒体で最初に公開されたものではない、といういかにも今の時代が反映されているところです。そして、なによりも、これを作ったところが「レコード会社」だ、というあたりが、まさに前代未聞。そう、これは、今では「世界一」のクラシック・レーベルとなってしまったあのNAXOSの日本法人「ナクソス・ジャパン」が、公式サイトに殆ど冗談で「連載」していたものを、まとめて単行本にしたという、かなりぶっ飛んだ出自を持っているのです。「作者」に関しては上記のようなクレジット、ストーリーを構成してネームを作るのが「NAXOS JAPAN」さん、作画をするのが「IKE」さんということになるのでしょう。その「NAXOS JAPAN」さんは、大胆にも会社の名前をペンネームにしているぐらいですから、おそらく社員さんなんでしょうね。それも、数人が集まったグループではなく、一個人なのではないか、という気がします。というのは、彼女(だと思いますよ)が書いたであろうコラムが公式サイトにありますが、これを読む限りではマニアックな度合いといい、目指しているものの細かさといい、まず集団ではないような気がするからです。それにしても、この有無を言わせぬ押しつけがましさには、ちょっとたじろいでしまいませんか?
そんな、いかにもマニアっぽい押しつけがましさが、このコミックにもそのまま反映されているのが、おそらく最大の敗因でしょう。タイトルにあるように、基本ベートーヴェンの評伝を4コママンガで表現しようというものなのですが、実は本当の主人公は彼の弟子のフェルディナント・リースなのです。このリースという人は、後に作曲家/指揮者となって大活躍をするのですが、現在ではほとんど忘れ去られた存在です。それでも、彼の名前は、もう一人の著者との共著「Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven (ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書)」という、ベートーヴェンの最初期の評伝の著者としてかろうじて音楽史には残っています。これは、文字通りリースの目から見た師ベートーヴェンに関する「覚書」、作者はこの著作に着目し、絵描きさんと一緒にかわいらしいリースのキャラクターを作り上げて、この中のエピソードをギャグ満載のコミックに仕上げたのです。
しかし、そんなマニアックなアプローチと、いかにもなキャラによる見え透いたギャグとの間には、明白な乖離が生じるのは当然のことです。読んでいるうちに、その居心地の悪さは次第に募り、先へ読み進もうという意欲が確実に薄れていきます。それはまるで、出来の悪い同人誌を無理やり読ませられているような感じでしょうか。
決定的な破綻が訪れるのは、作品のクライマックスとなるべき、リースがベートーヴェンのピアノ協奏曲のカデンツァを即興で弾きはじめる場面でしょう。まず、リースになんでそんなことが可能になったかという必然性が、まるで感じられません。普通はそれなりの伏線があるものなのに、いきなり「化ける」のですからね。まさに独りよがりの極みです。さらに、その状況がこの絵からは全く伝わってきません。つまりこれは、構成力の全くない作者と、コミックの「文法」すらも習得できていない未熟な作画者とによる、おぞましいまでの駄作にほかなりません。
ただ一つ、価値を見出すとすれば、それは各所にちりばめられた、このレーベルから出ているリースの作品のCDの「番宣」でしょう。なんでも、明日から始まる「ラ・フォル・ジュルネ」には、この本の専用のブースが設けられるのだとか。その脇には、売れずに倉庫に眠っていたリースのCDが、日本語のライナーでも付けられて(これは良くやる手)山積みになっていることでしょう。もちろん、CDリースではなく、お買い上げです。

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by jurassic_oyaji | 2014-05-02 20:14 | 書籍 | Comments(0)
クラシックレコードの百年史/記念碑的名盤100+迷盤20
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ノーマン・レブレヒト著
猪上杉子訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93542-2



イギリスの音楽ジャーナリストNorman Lebrecht2007年に刊行した「Maestros, Masterpieces and Madness」という書籍の全訳です。お分かりのように、この元のタイトルはしっかり「M」で韻が踏まれていますね。全部で3部からできている、これがそれぞれのタイトルだったのです。実は、その第1部はさらに8つの章に分かれていて、それぞれ「Matinee」、「Middlemen」といったM始まりの単語がタイトルになっています。それだけで、このレブレヒトという人はただ者ではないような気がしてきますね。もちろん、邦題はそれとは似ても似つかぬ陳腐なものですから、そこから著者、あるいは著書のテイストを推測することは困難です。ほんと、こんなんではまるでクラシックレコードが100年かけて発展してきた歴史をつづった本、みたいに思えてしまいますよね。
そうなんです。この日本語の書名では全く伝わっては来ませんが、これはレコードがこの世に誕生してから消滅してしまうまでの成り行きを、主にメジャー・レーベルについて、その経営者やプロデューサーを主人公にして、客観的に描いたドキュメンタリーなのです。いや、まだ「消滅」はしてはいないだろう、と、多くの方は思うかもしれませんが、メジャー・レーベルに限って言えばもはや「クラシックレコード」というものを「産み出す」機能は失われてしまっているのですよ。これは、そんな「クラシックレコードの終焉」を世に知らしめる書物なのです。こんなノーテンキな邦題に騙されて読み始めたら、そのあまりに悲惨な内容に、読んだことを後悔するかもしれませんよ。
そもそもの著者の企ては、彼がコラムを執筆している新聞やウェブサイトを通して寄せられた読者の声も反映させて、クラシックレコードが誕生してから今日までの100枚の「Masterpieces」を選ぶことでした。その結果は本書の「第2部」にまとめられています。そこで選ばれた全てのアイテムに詳細にコメントを加えていく過程で、必然的にそれらを包括的に歴史を追って述べることの必要性を感じ、「第1部」を新たに書き下ろしたのでしょう。したがって、「第1部」と「第2部」(さらに、「Madness」たる「第3部」も)では、重複した記述が頻繁に見られますが、それらはおそらく著者の主張を繰り返すことによって印象付けようとする手法だと思いたいものです。
もちろん、「終わり」があれば「始まり」もありますし、その途中には間違いなく「成功」だってありました。そんな最も成功した事例として挙げられているのが、言うまでもなくヘルベルト・フォン・カラヤンです。なんたって、彼は今までにレコード(+CD)を2億枚も売っているのですからね(そんなアーティストランキングが載ってますが、ジェームズ・ゴールウェイが6位のマリア・カラスと8位のプラシド・ドミンゴに挟まれて7位に入っているというのがすごいですね)。そんな、カラヤンに群がる複数のレーベルの関係者の動向をつぶさに語っているくだりは、何かとても現実とは思えないほどの今の世の中とはかけ離れた出来事のように思えます。かつては、レーベルの力によって、指揮者をランクの高いオーケストラに「送り込む」ことさえ出来たというのですからね。
たとえば、古くはゴードン・パリーがDECCAを去った理由とか、最近ではSONYによって進められていたリゲティの全曲録音がいきなり中断され、WARNERに移った事情など、ぜひ知りたいと思っていたことがいとも身近に語られているのを見るのは、知的好奇心を潤すには十分すぎる効能です。あのジョン・カルショーすら、いとも気軽に「ゲイ」で片付けられているのですからね。ただ、注意しなければいけないのは、おそらく原文にあったであろう「ひねりのきいた」言い回しが、この訳文では誤って伝えられる恐れがあること、それと、著者自身の事実誤認は、訳者によってかなり訂正されてはいますが完全にはなくなっていない点です。パヴァロッティがベルゴンツィの代役でヴェルディの「レクイエム」を歌ったのはニューヨークではなくミラノですし、「EMIスタジオ」が「アビーロード・スタジオ」と呼ばれるようになったのは1970年代以降のことなのですからね。

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by jurassic_oyaji | 2014-03-31 23:02 | 書籍 | Comments(0)
空想工房の絵本
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安野光雅著
山川出版社刊
ISBN978-4-634-45054-6



つい先日88歳の「米寿」を迎えられたばかりの画家、安野光雅さんの最新の絵本です。お誕生日にはベージュのちゃんちゃんこを着ていたのだとか。
ただ、新刊には違いないのですが、この中に収録されている作品は、もう40年以上も前に書かれたものです。しかも、その一部分は今までにも事あるごとに別の形で印刷物になっていたことのあるものです。おそらく、その中のいくつかは、安野さんの作品とは知らずに目にしていたことがある人も多いのではないでしょうか。実際、これが発売された時の案内を見てみても、これはなにかの復刻なのでは、と思ってしまいましたから。しかし、実際に手にしてみると、これはまぎれもない「新刊」、しかも、マニアにとってはうれしくてたまらないものであることが分かりました。
安野さんは、1969年から1980年にかけての足掛け11年間、「数理科学」という月刊誌の表紙を書くという仕事をなさっていました。この雑誌は「科学の最前線を紹介する雑誌」として、もう50年以上もサイエンス社から出版され続けていますが、その当時の編集長が安野さんの絵本を目にして、表紙の連載を依頼したのでしょう。それが、出版された順に、全てのものがまとめられているのですよ。ですから、今まではその中から適宜選ばれて様々な機会で紹介されていたものを、まさに「一次資料」として1冊の絵本として提供されたもの、と言えるのではないでしょうか。
最近では、もっぱらスケッチ紀行のようなものが作品の主体になっているような気がしますが、この頃の安野さんは、もっぱらトリッキーな絵を書く絵本作家として知られていました。そこでは、M.C.エッシャーの作品のエキスだけを、安野さん独自のタッチで別の形に仕上げたものとか、有名な芸術作品を巧みなパロディで思いもよらないようなものに変えてしまうものなど、あらゆる「だまし」のテクニックを使って読者に対する挑戦を仕掛けていたものでした。この本の中の作品には、どれにもそのようなひねりが加えられていて、何度見ても飽きることはありません。
ここには、それぞれの作品に、「今の」安野さんが書いたコメントが付けられています。それによると、それがいったいどんな仕掛けだったのか、作ったご本人でももう分からなくなっているものがある、というのが面白いところです。それと、当時は完璧な仕掛けだと思っていたものも、今見ると大したことがない、というのもあるのだそうです。さらに、頻繁に「これは失敗作だ」とか、「締め切りがあったので、仕方なく渡した」みたいなネガティブな書き方をされています。
おそらく、そんな当時の評価によって、今まで日の目を見ることのなかった作品もあったものが、ついにこんな形で全てのものが公開されてしまったのです。実際に、殆どのものは確かに見たことがありますが、その中に今回初めて目にするものを発見した時の喜びと言ったら、言葉では表せないほどです。
そんなものを2作ほど、あくまで主観ですが、初めて見てとても「感動」したものを、その辺に広げてあったものを写真に撮ったらたまたま入っていた、というスタンスでご紹介します。



ところで、「いろは歌」という作品のコメントで、関係者の名前が登場したのには驚きました。ただ、安野さんの勘違いでしょうか、名称に不正確なものがあるのが、ほほえましいところです。


Book Artwork © Yamakawa Shuppansha Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2014-03-29 20:48 | 書籍 | Comments(0)
音楽史影の仕掛人
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小宮正安著
春秋社刊
ISBN978-4-393-93031-1



「音楽史」、正確には「西洋音楽史」というのは、言うまでもなく「西洋音楽」の「歴史」なのですから、そんな「音楽」を作った人物である「作曲家」の「歴史」と言えないこともありません。しかし、現実はそんな単純なものでないことは、誰でも気付くはずです。例えば、バッハ→ハイドン→モーツァルト→ベートーヴェンと「音楽」が「進化」してきた、みたいな、かつては教育現場でさえもまかり通っていた分かりやすくシンプルな史観は、もはや顧みられることはありません。そんなものは、そういう流れの発展形ととらえられていた「現代音楽」の崩壊とともに、跡形もなく崩れ去っていたのです。
もちろん、作曲家は西洋音楽史の主人公であることは間違いありません。しかし、その作曲家に様々な影響を与えるなど、何らかの形で関係を持っていた人物の存在を知れば、より奥深い人間像がイメージ出来るようになるはずです。確かに、それぞれの作曲家の伝記には決まって登場するキャストというものが、必ずいるものです。ただ、それらは、たとえば「モーツァルトはコロレド大司教の逆鱗に触れた」みたいな定型文として認識されているだけで、そのコロレドさんというとは実際はどういう人だったのか、つまり、コロレドさんサイドからの証言というものにはほとんどお目にかかることがなかったというのが、今までの伝記業界の実状だったのではないでしょうか。そんな、今まで西洋音楽史の片隅にちょこっと顔を出すことによって「どこかで聞いたことがあるような名前」として意識の片隅に残っていた人物について掘り下げてみた、というのがこの本なのです。
そんな、いわば「裏音楽史」の主人公たちは全部で25人、それぞれに個性的な面々が集まっています。そんな中で、この人たちがいなかったら、今のコンサートはさぞやさびしいものになっただろうと思えてしまうような二人の「セルゲイ」の存在が、とても気になるものでした。一人は、「バレエ・リュス」を創ったセルゲイ・ディアギレフ、そしてもう一人は指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーです。ディアギレフに関してはある程度の人間像はわかっていましたが、クーセヴィツキーがこれほどまでに貪欲に自らの道を開いた人であったことは、ここで初めて知ることが出来ました。なんと言っても、2度目の奥さんの実家の財産にものを言わせて、強引に指揮者のレッスンを受けたり、あのベルリン・フィルを金で買って指揮者デビューを果たしたりといった豪快なエピソードがたまりません。
考えてみれば、前作「モーツァルトを『造った』男」に登場したケッヘルさんも、この著者によって同じようにその人間的な側面が生き生きと伝わって来たものでした。あの時に著者が見せた単に音楽史にとどまらない世界史全体を見据えた視点は、ここでも健在でした。あたかも「暴露話」のように見えて、全体を読み終えたときには18世紀後半から現代へ至るまでのヨーロッパ全体の歴史が頭の中に広がっていて、革命や戦争にさらされながらもしたたかに生き延びてきた「西洋音楽」の姿が、くっきりと浮かび上がってくるのです。おそらく意識したことではなかったのでしょうが、この本の中に幾度となく登場する「毀誉褒貶」という難しい単語が、それぞれの人物の姿を「つとに」明らかにしてくれています。
著者がこの本を書き上げたのは昨年の7月ごろだったのでしょうが、あと半年ほどすると世間を騒がせた「ゴーストライター」事件が発覚します。そこでゴーストライターに曲を作らせた人物こそは「影の仕掛け人」、そこで、あのモーツァルトをしてゴーストライター業に手を染めしめたヴァルゼック伯爵を登場させていれば、さらに充実した内容になっていたのかもしれないよう。惜しいことをしましたね。

Book Artwork © Shunjusha Publishing Company
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by jurassic_oyaji | 2014-03-12 00:11 | 書籍 | Comments(0)
ブルクミュラー 25の不思議 なぜこんなにも愛されるのか
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飯田有抄・前島美保共著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-14333-3



「ブルクミュラー」と言えば、小さい頃(あるいは、ある程度おおきくなってから)ピアノの勉強をしたことがある人にとっては忘れられない単語に違いありません。それは「バイエル終わったから、次はブルクミュラーね」みたいなノリで語られる、ごく初歩的な段階での教材の話として、もっぱら登場していたものでした。「バイエル」にしても「ブルクミュラー」にしても、それぞれフェルディナント・バイエルとフリードリヒ・ブルクミュラーという名前の作曲家が作曲した練習曲のことなのですが、そんな作った人のことなどはすっかり忘れられ、単に「バイエル教則本」とか「25のやさしい練習曲」という「教材」の名前として、それらは認識されていたはずです。
現実には、バイエルさんに関しては最近ではかなりその人物像が一般的になって来たような印象はありますが、ブルクミュラーさんについてはそもそもどんな顔をしていたのか、というあたりから「謎」に包まれていたのではないでしょうか。まあ、別に顔が分からなくてもピアノの勉強には差支えはないでしょうから、そんなことはどうでもよかったのかもしれませんが。
ただ、ご存じのようにこのブルクミュラー(あ、もちろん練習曲のことです)には、技術的には全然難しくないのに、なんか奥の深い世界を味わわせてくれる魅力がありました。そのせいでしょうか、この曲集は、現在ピアノに携わっている人だけではなく、これを習っているあたりでピアニストへの道をあきらめた人までも含めた多くの人たちに愛されているような気がします。
そんな思いが昂じて、「ぶるぐ協会」などというブルクミュラーさんのことを研究する秘密結社(つまり、出版社のお仕着せ表記である「ブルク」ではなくあくまで昔の呼び名の「ブルグ」にこだわっているというマニアの集まりなのでしょう)を作ってしまった飯田さんと前島さんというお二人が、これまでの「調査」の成果として上梓したのが、この本です。
まず、この本の表紙に描かれた、お目目がキラキラしたかわいいブルクミュラーさんの似顔絵に、ちょっとびっくりしてしまいます。こんな顔をしていたんですね。知りませんでした。いや、それは当然だということが、読み始めてすぐに分かります。そこには彼の肖像画(リトグラフ)が掲載されているのですが、それは、彼女たちが2006年にフランスの国立図書館で発見し、初めて日本で紹介したものだというのですからね。そんな「足」で調べた、これもおそらく日本では初めて目に出来る彼のバイオグラフィーから始まって、この曲集の出版の歴史、さらには教育現場での受容史など、あらゆる方面からブルクミュラーさん本人と、その作品についての詳細なアプローチが並びます。これはもう圧巻としか言いようがありません。
執筆に当たっては、飯田さんと前島さんという、全く文章のテイストが異なるお二人が、それぞれの切り口で語っている、というスタンスが、なんとも言えない魅力を生んでいます。どちらも藝大の楽理科卒業という経歴ですが、飯田さんの方はプロのライターとしてご活躍なさっているとあって、文章はとても滑らか、時には「ウケ」をねらったようなツッコミまで交えて、軽快に論を進めています。一番受けたのは、音楽雑誌で何度か掲載されたブルクミュラーの特集記事に対してのツッコミですね。
一方の前島さんは、はっきり言って文章はヘタ、というか、そもそもエンタテインメントとしての文章ではなく、学術論文のようなちょっとした堅苦しさが残るものですが、それがちょっと滑りがちな飯田さんのパートの確かなフォローとなっています。彼女が担当した出版史のパートなどは、詳細で堅実な記述が光ります。21番の「天使の合唱」のコーダの最初の和音は、属7ではなく減7だというのが、今の現実です。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.
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by jurassic_oyaji | 2014-02-03 20:18 | 書籍 | Comments(0)