おやぢの部屋2
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カテゴリ:書籍( 153 )
MOZART/Requiem
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Benjamin-Gunnar Cohrs(Comp)
Musikproduktion Hoeflich(Study Score)




モーツァルトの「レクイエム」は未完の作品ですが、今では弟子のジュスマイヤーが「完成」させた楽譜が広く用いられているのはご存知のことでしょう。さらに、その、ちょっと完成度の低い楽譜に対して異議を唱え、より完成度の高いとされる楽譜を作った人が5人以上はいたことも、よく御存じのはずです。それは、1971年のフランツ・バイヤーに始まり、1994年のロバート・レヴィンの仕事によってひとまず出尽くした、という感がありました。結局その中で生き残ったのはバイヤー版とレヴィン版の2つだけのような気がしますが、それよりも在来のジュスマイヤー版の存在感が、それらの「新しい」楽譜の出現によって、相対的に高まったのではないでしょうか。もはや、レクイエム業界はその3者によってシェアされているというのが実情なのでしょう。もちろん、トップメーカーはジュスマイヤー版です。
そんな業界に、ここにきて新しい「メーカー」が「参入」してきました。それは、今年、2013年に出来たばかりの、「ベンヤミン=グンナー・コールス版」です。このコールスという音楽学者の名前は、おそらくブルックナーの交響曲第9番の最新の原典版の校訂者として耳にしたことがあるのではないでしょうか。彼はさらに、この交響曲の「未完」だった第4楽章の修復にも関与していましたから、「こうする方がいいよ」と言えるだけのものを持っていたのでしょう。
手元に届いたスコアは、まるで電話帳ほどの厚さがあるものでした。それは、巻末にドイツ語と英語でそれぞれ34ページにも上る解説が加わっているほかに、「レクイエム」を演奏する時の「付録」として、別の曲の楽譜が何曲分か入っていたためでした。
「レクイエム」本体の「完成」に対する基本的なコンセプトは、その長ったらしい解説でつぶさに述べられています。まず、コールスがこの作業を思い立ったものが、こちらでご紹介したバッハの「ロ短調ミサ」に関する書籍を著したクリストフ・ヴォルフの「Mozarts Requiem」という1990年の論文だということです。ヴォルフによると、今まではジュスマイヤーの「創作」とされていた「Sanctus」、「Benedictus」、「Agnus Dei」などには、しっかりと元になるモーツァルト自身によるスケッチがあったのだそうです。ですから、それらの曲に関しては、あくまでスケッチにあった部分は尊重するという姿勢です。その上で、ジュスマイヤーの仕事は破棄して、全く新しいものを作ったそうです。
このあたりは、なんだかレヴィン版とよく似た姿勢ですね。実際に比べてみると、「Lacrymosa」のあとには「アーメン・フーガ」が入っていますし、「Sanctus」のイントロなども、そっくりです。上がコールス版、下がレヴィン版。
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参考までに、このジュスマイヤーが作った部分の小節の長さを比較してみました。
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さらに、前半の部分はこれもジュスマイヤーのものではなく、彼の前にこの修復作業をコンスタンツェから依頼されたヨーゼフ・アイブラーのものを使います。これも、ヴォルフの「ジュスマイヤーは、モーツァルトの弟子の一人にすぎなかった。それが、コンスタンツェが最初にジュスマイヤーに仕事を頼まなかった理由だ」という言葉によるものなのでしょう。
アイブラーといえば、確か「ランドン版」の前半が、同じようなコンセプトで作られたものだったはずです。確かに比べてみるとほとんど同じですが、中にはコールス独自の部分があったりしますから、まあ、それも彼の姿勢だったのでしょう。
惜しいのは、その解説の中でバイヤー版の成立年を「1991年」と間違えていることです。これはドイツ語のテキストでも同じですから、かなり残念。
この楽譜を紹介していたサイトでの、「レオポルド・ノーヴァクとの問答なども見られる」という記述も、残念。そもそもノーヴァク(ノヴァーク)はだいぶ前に亡くなってますし、それらしい部分はおそらくヴォルフの論文の引用です(解説の原文はこちら)。
この楽譜で、最初に録音してくれるのは誰なのでしょうね。

Score Artwork © Musikproduktion Hoeflich
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by jurassic_oyaji | 2013-10-16 20:40 | 書籍 | Comments(0)
レナード・バーンスタイン/ザ・ラスト・ロング・インタビュー
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ジョナサン・コット著
山田治生訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-580-2



「このバンド無くしては日本という国がおっ勃(た)ちません」というフレーズは、先日行われたサザンオールスターズのスタジアム・ライブのオープニングMCに登場したものです。ご丁寧に、その「字幕」は巨大なLEDスクリーンに映し出されましたし、ファイナルではそれをWOWOWが生中継していましたから、その「勃」という、ほとんど「erection」の翻訳語として知られる二字熟語にしか使われることのない漢字(ま、「勃発」なんてのもありますが)は、ほぼ全国民の目に触れることになったのです。
まあこの程度のことはこの世界にはつきものですから別に目くじらを立てるほどのものではありません。しかし、その同じ二字熟語が、前世紀に多くの人に多大な影響を与えた指揮者であり作曲家、あるいは教育者でもあったレナード・バーンスタインの口から放たれ、それがそのまま活字となっているのを見てしまうと、ちょっと穏やかな気分ではいられなくなってしまいます。
この「巨人」が亡くなる1年前、198911月に、「ローリング・ストーン」誌のライターであったジョナサン・コットという人が、バーンスタインとのインタビュー原稿を依頼されたそうです。もはやそのようなメディアとの接触を断っていたマエストロを説得し、なんと12時間にも及ぶインタビューを敢行、その成果が、2013年にOxford University Pressから出版されたばかりの「Dinner with Lenny, The Last Long Interview with Leonard Bernstein」というタイトルの原書です。20年以上も前の記事がなぜ今頃書籍になったのか(そもそも、記事自体は掲載されたのか)とか、原書に数多く掲載されていた貴重な写真はなぜ割愛されたのか、などといった多くの疑問には、通常は「訳者あとがき」というものの中で答えられているものなのですが、その期待は巻頭にある「訳者は『訳者あとがき』を書きたいと準備していたが、著者の意向で掲載できなかった」という一文によって、叶えられることはありませんでした。「訳者」の無念さがにじみ出ているこのコメントは、もしかしたらこの本の中で最も印象的な文章なのかもしれません。この「著者」は、いったい何様のつもりなのでしょう。
確かに「著者」は、このインタビューの中では、かなり機知にとんだやり取りを披露しています。その一つが、さっきの二字熟語ネタです。
バーンスタイン:10歳のときに、僕は初めてピアノの鍵盤に触れた……僕が○起できるようになる前のことだ。
コット:幼児だって○起すると思いますが。
バーンスタイン:そうだけど、僕が言いたいのは”必要”な時に○起できるということだよ〈笑〉

まあ、「大人は必要な時に○起できる」ということなのでしょうね。大人であっても「必要な時に○起できない」人や、「必要でない時に○起してしまう」人は多いはずですが、このやり取りは、バーンスタインはそれをきちんとコントロールできる極めて稀な才能を持った人であること伝えるエピソードとして、後世に残ることでしょう。同じような「下ネタ」で、アルマ・マーラーに「ベッドに連れて行かれそうになった」というようなアレマな隠れた史実を引き出した才能も、なかなかのものです。
ただ、「カラヤンの死の床に立ち会った」とするバーンスタインの言葉に対して付けられた「カラヤンが死の直前に大賀典雄と面会していたことは有名な話であるが」という「訳者」の注釈には、なにか「ざまあみろ」といったような感情が込められているような気は、しないでしょうか。
そんなことを言ったら、インタビュー前の「プレリュード」という章で、バーンスタインが薬局で薬剤師から「覚醒剤」を渡されたという記述も、ひょっとしたら訳者が巧んだ意識的な誤訳なのかもしれませんね。
いや、バーンスタインはまともなことも喋っているんですよ。それは、実際に読んでいただく他はありません。

Book Artwork © alpha-beta publishing
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by jurassic_oyaji | 2013-09-26 23:07 | 書籍 | Comments(0)
最後のクレイジー 犬塚弘
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犬塚弘+佐藤利明著
講談社刊
ISBN978-4-06-218447-2



以前、2006年に結成50周年を記念して新曲も含めてリリースされたベストアルバムをご紹介した時に、「メンバー7人のうちの3人までが、すでに鬼籍に入ってしまった」と書いていたクレイジー・キャッツですが、その後もメンバーの訃報は続き、植木等さん、谷啓さんに続いて、昨年は桜井センリさんまでが亡くなってしまい、とうとうご存命のメンバーは犬塚さん一人になってしまいました。
そんな犬塚さんが、ご自身の一生を振り返るとともに、当然ながらその「仲間」のことを克明につづった伝記が出版されました。とは言っても、これは犬塚さんが直接執筆したものではなく、クレイジー・キャッツ・フリークであるライターの佐藤利明さんという方が、犬塚さんにインタビュー、そこで犬塚さんが語られたことを再構成したものです。ですから、そこでは犬塚さんも知らなかったようなデータまでもが、あたかも犬塚さんの言葉であるかのように滑らかにはめ込まれていますから、単なる「思い出話」には終わらない、しっかりとした「資料」あるいは「文献」としての価値のあるものに仕上がっています。そういう意味で、ただのゴーストライターには終わらなかった佐藤さんの名前までが「著者」としてクレジットされているのは当然のことでしょう。
実は、ここで述べられているクレイジー・キャッツの歴史などは、1985年に刊行されたこちらの本で、すでに紹介されていたことでした。
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しかし、こんな「歴史的」(まだオフセットではなく、凸版の印刷でした)な本はもはや入手不可能ですから、改めてここで最新の資料が登場したということは、割と最近ファンになった人にとってはなによりのことでしょう。まずは、この敗戦直後の「ジャズ」の歴史の一面を垣間見ることができる、そもそもの「クレイジー」の人脈に注目です。そう、もしかしたら、現在残っているCDDVDでしか彼らに接していない人は、このグループが「ジャズ・バンド」だったことさえ知らないかもしれませんからね。そして、ほんのちょっとタイミングが合っていたら、あの宮川泰や、ラテン・フュージョンの大御所松岡直也などがメンバーに名を連ねていたことも。犬塚さん自身も、かつては秋吉敏子とトリオを組んでいたこともあるのだとか、さらに、ごく最近の話では、渡辺貞夫から本気でバンドに参加することを乞われたそうですよ。彼のベースの腕は、「本物」だったのですね。
今のこの時点まで続いている、役者としての犬塚さんを語った部分も、非常に興味深いものです。確かに彼は、いつの間にかとても素晴らしいバイプレーヤーになっていました。別に震えたりはしませんが(それは「バイブレーター」)。あるとき、たまたまテレビで井上ひさしの戯曲をやっていたのですが、そこに犬塚さんが出演されていて、なんとも味のある演技をしていたので驚いたことがあります。「クレイジー」の映画でのオーバーアクションからは考えられないような、渋い味でした。
ただ、犬塚さんの演技修業は、もっぱら映画の撮影の時のものなのだそうですね。古澤憲吾は苦手だったのに、山田洋二には多くのことを教わったというのも、何か人柄がしのばれます。
「クレイジー」として活躍している時の話は、ほとんどすでにどこかで聴いたことがあるようなものでしたが、それでも「本人」によって語られることで、さっきの文献よりははるかにリアリティを伴って迫ってきます。それも、ライターさんの手腕もあるのでしょうが、常に温かい視線が感じられて、とても幸せな気持ちになれます。「最後のクレイジー」として、「クレイジー」の語り部に犬塚さんが選ばれたところに、何か神の配剤のようなものを感じるのは、そんな温かな語り口のせいなのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2013-09-02 20:49 | 書籍 | Comments(0)
ジャン・シベリウス/交響曲でたどる生涯
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松原千振著
㈱アルテスパブリッシング刊(叢書ビブリオムジカ)
ISBN978-4-903951-67-6



フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの最新の評伝です。タイトルにあるように「交響曲」を軸に、時系列を追って生涯と作品の変遷を語る、という手法を取っていますから、単なる「伝記」とは違い、とても読みやすいものに仕上がっています。
著者の松原さんは、合唱指揮者として高名な方ですから、「なぜ、シベリウス?」、「なぜ交響曲?」という疑問符がたくさん頭のまわりを駆け回ります。しかし、そんな「なぜ?」は、この本を読むうちに氷解することになります。彼は、1980年前後にフィンランドのシベリウス・アカデミーに留学されていて、有名なヘルシンキ大学男声合唱団(YL)の、当時唯一の日本人団員だったのですね。そのほかにもフィンランド放送室内合唱団や、タピオラ合唱団などの団員でもあったそうなのです。その頃、テレビの仕事でフィンランドを訪問していた渡邉暁雄さんから、本格的なシベリウス研究を勧められ、それがこの本のモチヴェーションになったのだとか。
ここでは、「交響曲でたどる」とあっても、いわゆる7つの「交響曲」だけを扱うのではなく、もう少し範囲を広げて「クッレルヴォ」とか「ヴァイオリン協奏曲」までも含めて、話を進めています。その最初の「クッレルヴォ」は、なんと男声合唱が大活躍してくれるぼ。これが、合唱指揮者との接点でした。「交響曲第1番」の章の最後には、「男声合唱と作曲コンクール」というタイトルのパートで、シベリウスの男声合唱曲についても語っています。
各「交響曲」の解説は、それほど厳密なアナリーゼを行っているわけではなく、その分、よくある「楽曲解説」のような退屈さとは無縁なものになっています。例えば、「交響曲第1番」については、「シベリウス自身も語っているが、この曲を支配している要素は、ヴィクトール・リュドベルイのいう『少年の心』である」といった感じで、どちらかというと情緒的なアプローチをとっているために、とても親しみやすいイメージがわいてきます。ここでは、最初から最後まで、その「少年」で通していますから、第1楽章の途中に出てくる最初に装飾音の着いたフルートの二重奏などは「いかにも幼児らしい」とか、第3楽章の木管の軽快な動きは「少年がどこかで他の子どもたちと出会い、言葉を交わすまでもなく、いっしょに戯れ、あちこち足早に動き回っている」などと、分かったような分からないような比喩が並びます。実は、この作品の場合は、もっと語彙が豊富で緻密なアナリーゼを最近体験したばかりなので、何か物足りなさは残り、もうちょっと突っ込んでもらっても良かったな、という気にはなりますね。
他の曲の場合でも、いかにも適切なように見えて、本質とは微妙にずれているのではないか、といった印象を受ける部分がかなりありましたが、基本的に情緒を客観的に表現するのは無理なので、これはしっかりと著者の「気持ちをくむ」といった態度が、読者には求められるのでしょう。
実用的な情報として、ヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番の異稿が、現在も入手可能なCDとして市場に出ていることなどは、かなりポイントが高いはずです。実際、ヴァイオリン協奏曲の初稿が存在することすら、現実にはほとんど知られていませんから、その「音」が実際に聴けるという情報はありがたいものです。
巻末の年表や作品表は、データとして重宝しそうですし、北欧のスペシャリストとして、当地の作曲家や演奏家の日本語表記に、一石を投じているのも、なかなか刺激的です。シベリウスの演奏で定評のあったパーヴォ・ベルグルンドは本当は「ベルイルンド」というのが正しそうですし、デンマークの、いわゆる「ニールセン」も、数ある「正しい」表記の中から、著者は「ネルセン」を選んだようですね。

Book Artwork © Altes Publishing Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-08-27 22:31 | 書籍 | Comments(0)
新・長岡鉄男の外盤A級セレクション
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長岡鉄男著
共同通信社刊

ISBN978-4-7641-0663-5




1984年に刊行された同名書(確か、これが「1」で、その後続編が何冊か出たはず)の復刻版です。ただ、文字通りそのまま同じものを作るのではなく、復刻されているのはテキストだけで、結局その他はレイアウトもデザインも一新されています。用いられているレコードのジャケット写真も、新たに別の人が所有していたレコードから撮影された全100枚がカラーで紹介されています。その、巻頭に45ページにわたって掲載されている「撮りおろし」の写真が、まず圧巻です。12インチ四方のキャンバスを使い切った壮大なアートワークは、12センチ四方のCDのジャケットを見慣れた目には、別世界のもののように感じられることでしょう。
さらに、今回の復刻では、実際にこの中で紹介されている優秀録音盤の音の一部分を聴くことが出来るSACDが付録として付いています。
長岡さんがこの本を書いたときには、間違いなくレコード・マニアたちの購入に際しての指針という役割を持っていたはずでした。ここで長岡さんが紹介していたレコードを何とかして入手し、長岡さんがおっしゃっていたことを実際に体験、それを自分の耳と照らし合わせて、さらなるオーディオ修行に励む、といったマニアは、たくさんいたことでしょう。
しかし、今回の復刻版の最初には「掲載している(原文のママ)アナログレコードは、現在ほとんど全てが廃盤であることをご了承ください」という断り書きがある通り、今となってはこの本の当初の目的はすっかり失われてしまっています。それでもなおかつ復刻されたというところに、長岡鉄男のすごさがあるのでしょう。彼が書いたものはその時限りのものではなく、そのレビューの対象が失われてしまってもなお残る普遍的な価値観の記録なのでしょうね。確かにここからは、「カリスマ」ならではの時代を超えた主張が感じられます。
そんな彼の言葉は、今でも事あるごとに引用されていて、他の人には決してまねのできない独特の表現がマニアを酔わせているのはご存じの通りでしょう。ただ、今回そんな「名言」のオリジナルの出典を読んでみると、全体の文章自体はそれほどインパクトのあるものではないことにも気づきます。彼が書いていたことは、そのレコードに関するコメントを、単にオーディオ的な側面だけではなく、演奏や作品そのものにも言及しつつ様々な角度から述べているという、非常に高度なものだったのですが、後世の人はその中のごく一部のフレーズだけを取り出して、そこを異様なまでに強調していたのですね。ECJのレコード「鳥の歌」での、「口の開け方までわかる」というフレーズは有名ですが、その他の点では結構シビアなことも書いているのですから。
今回も、ブリテンの「戦争レクイエム」の自演盤で「コーラスの衣装の色は全員、黒一色」などと、これだけ見たらとんでもないホラ話だと思えるようなフレーズを発見しましたが、これだってその前後の文章をきちんと読めば、それなりに納得できる表現だと気づくはずです。
いくら、すでに現物は入手が出来ない状況だとしても、そんな長岡さんのお勧めレコードの片鱗を知りたいと思う人は多いはず。そこで、ここでは現在CDなどで入手可能なアイテムにはその旨の表記があります。ただ、それも全100枚中の25枚のみというのには、かなり失望させられます。しかし、よく見てみると、その他にも確実に現時点でCDなどが手に入るはずのものもかなりあることに気付きます。何の表記もなかったさっきのブリテンだって、ごく普通に買えるはずですし、BDオーディオだって、もうすぐ出るというのに。
そんないい加減な編集スタッフのやることですから、付録のSACDに不満が募るのは当然のことです。もしこれを目当てに購入するのであれば、間違いなく味わうはずの失望感を覚悟しなければいけません。

Book Artwork © K.K.Kyodo News
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by jurassic_oyaji | 2013-08-07 21:16 | 書籍 | Comments(4)
今のピアノでショパンは弾けない
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高木裕著
日本経済新聞出版社刊(日経プレミアシリーズ
190
ISBN978-4-532-26190-0



3年ほど前に刊行された高木さんというピアノ調律師の方がお書きになったの、言ってみれば「続編」とでも言うべき新刊が出ました。前の本ではピアノの調律について、今まで全く知らなかったことを教えていただきましたから、今回もエキサイティングな語り口を期待しましょうか。なにしろ、こんなショッキングなタイトルですから、さぞや刺激的な内容なのでしょうから。
正直、そのタイトルに関しては期待したほどのものではなく、単なるこけおどしだったのには、ちょっとがっかりしてしまいました。ショパンの時代と現代とでは同じピアノといっても全く違うものだということぐらいは、そういうCDがいくらでも出ているので知っていましたから、「今のピアノは、ショパンが弾いたピアノとは別物」という意味でこういうタイトルを付けたのだとすれば、なんとも底の浅い発想のように思えてしまいます。
ところが、タイトルだけではなく、本文でも前の本に書かれていたこととなんら変わりのない主張が羅列されるのを見てしまうと、ちょっと疑問がわいてきます。いや、確かにここで(というか、前作で)述べられている「良心的な調律をしたければ、ホールに備え付けの楽器を使うのではなく、自ら納得のいくまで調律した楽器を運びこむべきだ」という主張は、間違いなく正論なのですが、それを、こんなに短いスパンで繰り返すことによって、逆に真実味が薄れてしまうことが、他人事ながら心配になってしまいます。
おまけに、このあたりでは例えば「ラプソディ・イン・ブルーでは、100人を超えるオーケストラが使われた」とか、「チェンバロは大きな音は出せても小さい音は出せない」といった、なんだかなぁというような記述がみられて、さらにがっかりさせられてしまいます。
前作の冒頭を飾っていた、ホロヴィッツが来日した時に、たまたまホテルに置いてあったので弾いてみたらとても気に入ったという古いスタインウェイのエピソードも、やはり今回も同じような興奮気味の筆致で語られています。そのピアノを筆者が手に入れ、それならばその楽器を、かつて演奏されていたカーネギー・ホールに持ち込んで自ら調律し、それを録音しようということになって、実際にCDも制作されたという話ですね。ただ、その時にいったい誰が演奏を行ったのかは、前作には書かれていなかったので、今回こそはそのあたりの具体的な演奏者や曲目などもきちんと知ることができるのでは、と思ったのですが、やはり「カーネギーで録音」としかありませんでした。確かに、このCDが出たときにはかなり話題になったはずですから、筆者としてはことさら述べる必要はないと思っていたのかもしれませんが、この新書の読者層を考えれば、それはかなり不親切な扱いのような気がします。あるいは、ご自分では、ちゃんと書いていたと思い込んでいたとか。確かに、別のところに唐突にそのピアニストは登場していますがね。
と、何か肝心のことが抜けているようで焦点が定まらない本なのですが、最後のあたりでホロヴィッツが自分の楽器として世界中のコンサートで使っていたピアノを筆者が手に入れる、という、ごく最近のエピソードになったとたん、今まで読んできたものはいったいなんだったのか、と思ってしまうほどの、息もつかせぬほどの迫力が出てきたのですから、驚いてしまいました。それはまるで上質のミステリーを読んでいる時のような興奮を誘うものでした。ここには、まさにそのスタインウェイ自身が波乱の「生涯」をたどった挙句に、幸せなエンディングを迎えるという、涙さえ誘いかねない感動的な物語がありました(主人公はスタイルいい)。おそらく筆者は、これを書きたいがために、前作の二番煎じをだらだらとやっていたのでしょう。

Book Artwork © Nikkei Publishing Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-07-22 20:32 | 書籍 | Comments(0)
ヴェルディ/オペラ変革者の素顔と作品
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加藤浩子著
平凡社刊(平凡社新書
683
ISBN978-4-582-85683-5



同じ「生誕200年」とは言っても、ワーグナーに比べたらヴェルディの扱いはかなり冷淡なこのサイトです。この傾向は、世間一般ではどうなのでしょうね。少なくとも、CDDVDBD)の世界では、「ワーグナー>ヴェルディ」という図式は厳然と存在しているような気がするのは、はたして錯覚なのでしょうか。ワーグナーの場合、初期の3作品はともかく、「オランダ人」以降の10作品についてはもれなく何十種類ものアイテムが簡単に入手できますが、ヴェルディでは26作品の中でそのような厚遇を受けているのはせいぜい11作品ぐらいのものではないでしょうか。その「11作品」というのは、あくまで私見ですが「マクベス」、「リゴレット」、「イル・トロヴァトーレ」、「ラ・トラヴィアータ」、「シチリアの晩鐘」、「仮面舞踏会」、「運命の力」、「ドン・カルロ」、「アイーダ」、「オテッロ」、「ファルスタッフ」です。宇宙飛行士の話はありません(それは「ライトスタッフ」)。例えば、序曲だけはたま~に演奏されることがある「ナブッコ」や「ルイーザ・ミラー」の「本体」を全部見たり聴いたりしたことがあるという人には、いまだかつて会ったことがありません。つまり、作品の有名度は、ワーグナーは7割6分9厘に対して、ヴェルディは4割2分3厘ということですから、ヴェルディの劣勢は明らかです。
そんな状況は、この本の出現によって必ずや是正されるはず。加藤浩子さんという方が書かれた最新のヴェルディ本、これはとてもバランスのとれた素晴らしいものでした。
構成は、ヴェルディの生涯と作品について語るという、何の変哲もないのですが、その視点が非常に新しいものであることが、最大の魅力です。最近では、その作曲家の作品の楽譜を徹底的に客観的な資料をもとに検証して、後の校訂や印刷の際に紛れ込んでしまった胡散臭い情報を取り除き、真に作曲家が楽譜に込めたものを明らかにしようという、いわゆる「批判校訂」の作業が、猛烈な勢いで進められています。オペラの世界でも、ロッシーニなどではその成果が見事に現れて、彼の作品に対する評価が劇的に変わってしまったのはご存じのことでしょう。ヴェルディの場合は、まだその作業は緒に就いたばかりですが、一部の批判校訂版はすでに出版されていますし、ヴェルディ作品での歌手の声についても、今までとは全く違ったアプローチが試みられるようになっているのだそうです。そのあたりの、今まさに「進行中」の最新情報が得られるのは、なににも代えがたいものです。
さらに、ヴェルディ本人の生涯や功績なども、従来の俗説ではなく、これもきっちり音楽学者によって「裏」の取れた「真実」のみが語られています。これも、今までは作曲家を「偉人」とあがめて、都合の悪いことはひたすら隠していた風潮がさっぱりと取り払われている現在の潮流に従ったものですね。ヴェルディの女性関係についての詳細な記述は、それだけでとてもドラマティックです。確かに、そのような真の人間像が分かった上で、初めてその作品に対する真の理解も得られることになるのでしょう。
そのような客観的で厳密な考証と並んで、著者自身の「主観」を前面に押し出している部分もあるというのが、この本の魅力を一層高めています。「今聴きたいヴェルディ歌手」という一章が、そんなところ、ここでは、著者の好みがもろ全開で、とても素直なコメントが楽しめます。
そして、最後に登場するのが、全作品の詳細なデータです。単なる「あらすじ」や「聴きどころ」だけではなく、その「背景と特徴」というのが絶妙な筆致、正直、これを読むだけで、ヴェルディのオペラの真の魅力が分かるほどです。これさえあれば、マイナーな作品も聴いてみようという意欲が、間違いなく湧いてくることでしょう。

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by jurassic_oyaji | 2013-06-30 21:53 | 書籍 | Comments(2)
レクィエムの歴史
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井上太郎著
河出書房新社刊(河出文庫い
30-1
ISBN978-4-309-41211-5



井上太郎さん渾身の名著が、今春文庫本でリイシューされました。1999年に平凡社から出ていた元本はすり減るほど読み返したものですが、もう絶版になって入手困難な状況だったとか、こういう「復刻」はとてもありがたいことです。
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おそらく、「レクイエム」だけに特化したガイドブックなどというものは、日本ではこれが最初に出版されたものなのではないでしょうか。しかも、それは最初からとてつもない完成度を持ったものでした。まずは、「レクイエム」という音楽形態の定義から始まって、その歴史、テキストの意味、さらには個々の作品の詳細な解説と続きます。そこで取り上げられている作品の多さにも驚かされます。それは、古今東西の「レクイエム」という名前を持つ作品のみならず、タイトルは違ってもこの曲の本来の目的である「死者を悼む」という意味が込められている作品まで網羅されているのですからね。
これについては、著者は元本の「あとがき」(もちろん、今回の文庫本にも収録されています)の中で「海外でもこれほど広範囲にわたって触れた本はあるまい」と言い切っていますから、最初から壮大なビジョンをもって執筆にあたっていたことがうかがえます。
なんと言っても、ちょっと馴染みのない「レクイエム」のCDを見つけたときなどに、この本を見ると必ずその曲が触れられているのですから、これほど役に立ったものはありません。それに関しても、やはり「あとがき」によると、「執筆にあたりCDを集めることから始め、150曲ほど集めた」と言いますから、すごいですね。
修復にあたって多くの版が存在しているモーツァルトの作品では、そのあたりの成立の事情が手際よく解説されていますし、それぞれの版の特徴などは潔く省いて、その代わり巻末のCD一覧にあるものを聴いて実際に聴き比べてほしい、といったスタンスなのでしょう。しかし、稿そのものが違っているものが乱立しているフォーレの作品の場合は、一般に演奏されている第3稿ではなく、オリジナルの第2稿、しかも参照CDはネクトゥー・ドラージュ版を使っているガーディナー盤だというのも、見識の高さが現れているのではないでしょうか。
著者の高い志は、評価の定まった古典的な作品だけではなく、最近出来たばかりの「20世紀」(書かれた当時は、まさに20世紀が終わろうとしていた時でした)の作品についても、確かな価値を見出し、それを伝えるための労をいとわない、というあたりにも表れています。いや、むしろそのような新しいものの方が、生身の人間との思いがストレートに込められていて、「現代人」の心を打つのでは、という著者の主張のようなものを、受け取ることが出来ます。リゲティの作品に対しての「地獄を見た人でなくては書けない音楽」という言及は、感動的ですらあります。
最後の章で、日本人の作品について触れているのも、見逃すわけにはいきません。日本にとっての「原爆」はまさに「地獄」そのもの、それをモティーフにした「レクイエム」は、まさに日本人のアイデンティティであることが、まざまざと伝わってきます。その中にさりげなく込められたペンデレツキの欺瞞性にも、注目すべきでしょう。
文庫化にあたって、21世紀になって作られたものも新たに加筆されているのではないかと期待したのですが、それはありませんでした。したがって、元本と同様、「あとがき」で触れられている1998年に作られた三枝成彰の作品が、この本の中では最も新しい「レクイエム」です。こんな駄作でこの名著を終わらせるのではなく、さらに新しいものもぜひ書き加えて欲しかったと、切に思います。ただ、もしかしたら、著者にとってはそれ以降の作品はもはや紹介するに値しないものだったのかもしれませんね。それはそれで、納得できないことではありません。

Book Artwork © Kawade Shobo Shinsha, Publishers
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by jurassic_oyaji | 2013-06-28 21:07 | 書籍 | Comments(1)
DURUFLÉ/Requiem
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Éditions Durand
DF 13485(Study Score)




デュリュフレの「レクイエム」は手に入る限りのCDを集めているぐらい大好きな作品ですが、なぜかそのスコアは今まで見たことがありませんでした。実際に歌ったことまであるのに、印刷されたヴォーカル・スコアすら、手にしたことがないのですね。というのも、その演奏が行われたのはかなり昔のことで、まだ今のように簡単に輸入楽譜が手に入る時代ではなく、指揮者自らが手書きで作った合唱譜をコピーして使っていたのですよ。そんな、なんとものどかな時代でした。今そんなことをやったら、そういうことには常に神経をとがらせている埼玉県合唱連盟のさる理事などは、かんかんになって抗議してくることでしょう。
さすがにいまでは、まずどんな楽譜を買うにも不自由のない状態になりましたから、機会あるごとにこのスコアを求めようとするのですが、なぜか現物には出会えませんでした。そんな入手困難だったはずのスコアが、最近別の用事で立ち寄った銀座の楽器店には、「売るほど」置いてあったではありませんか。裏表紙を見てみると、それは2011年に新しく印刷されたもののようでした。しかし、版下自体は1950年に最初に出版されたものがそのまま使われていて、かなり汚い印刷面ではありましたが、そんなことは全然構いません。ミスプリントが1ヵ所即座に見つかるほど、ある意味いい加減なのも、また味がありますし。
この作品は、もちろんこのフル・オーケストラのバージョンがオリジナルの形です。しかし、現在この編成による録音はそれほどたくさんあるわけではありません。最も演奏機会が多いのは、合唱とオルガンのためのバージョン、それに次いで、オーケストラの楽器編成を縮小したバージョンでしょう。詳細は、こちら
しかし、今回改めてスコアを見てみると、これらのリダクション、あるいは縮小バージョンはいかにも「代用品」のようにしか感じられなくなってしまいます。デュリュフレの楽器の使い方には、フル・オーケストラならではの色彩感とダイナミクスが満載ですが、それはこの作品にとって欠くべからざる要素であることに、改めて気づかされます。例えば、コール・アングレやバス・クラリネットといった特殊楽器の使い方が非常に巧みで、それはほかの楽器では決して出せないような絶妙な音色を提供しています。それをオルガンで代用すると、その魅力が全くなくなってしまうのですね。あとは、単なるロングトーンでも、オルガンのパイプから出てくる感情のない音と、フルーティストが表情を込めて演奏しているものでは存在感が全く違ってしまいます。
実際にスコアを見るまで分からないこともありました。「Pie Jesu」の弦楽器にはヴァイオリンが入っておらず、「ヴィオラ以下」で演奏されているのです。これはまさに、デュリュフレがモデルとしたフォーレの「レクイエム」と同じ編成ではありませんか。確かに、この曲の落ち着いた雰囲気はヴィオラだからこそ醸し出されるものでした。もちろん、オルガンだけでその違いを出せるわけはありません。
もう1か所、最後の「In Paradisum」では冒頭のチェレスタによる鐘のような響きが印象的ですが、この楽器は実は最後の3つの小節でもそれぞれ2拍目に入っていることを初めて知りました。というか、改めて全てのCDを聴きなおしてみると、このチェレスタの音が聴こえるものはほとんどありませんでした。実は最後の和音が「ナインス」であることもスコアを見て初めて分かったのですが、その7音と9音をチェレスタが出しているのです。7音は合唱も出していますが、9音をほかに出しているのは4つに分かれたヴィオラの一番上のパートだけ、こんな重要な音が聴こえないんすよ。そんな指揮者(あるいはエンジニア)の耳を疑ってしまいます。
ちなみに、この最後のチェレスタの音が最もはっきり聴こえてくるのが、1950年代のデュリュフレ自身の指揮によるERATO盤です。
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Score Artwork © Universal Music Publishing Group
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by jurassic_oyaji | 2013-05-01 20:43 | 書籍 | Comments(0)
幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語
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平野真敏著
集英社刊(集英社新書0674N)
ISBN978-4-08-720674-6



本屋さんの店頭で、こんなヴァイオリンのような楽器が表紙になっている新書が目につきました。「幻の楽器」とか「ヴィオラ・アルタ」などといった、とても興味をそそられる言葉もあるた。同じ「ヴィオラなんとか」でも「ヴィオラ・ダ・ガンバ」ヤ「ヴィオラ・ダモーレ」というのは、外観がただのヴィオラとは全然異なっていますが、これは何の変哲もないヴィオラにしか見えません。ただ、著者がその楽器と一緒に写っている写真を見ると、かなり大きなものであることは分かります。でも、このぐらいの大きさのヴィオラだったら、実際に弾いている人を見たことがあるような気がします。しかし、「幻の」というような言葉をわざわざ使っているところを見ると、やはりこれは特殊な楽器なのかもしれません。
実際に買って読み始めたら、一気に最後まで読めてしまうほどの面白さでした。それは、単にこの楽器に関する情報を提供するだけのものではなく、ほとんど「ミステリー」と言ってもかまわないほどのエキサイティングな展開を味わえる、極上のエンターテインメントでさえあったのですからね。
まず著者は、この楽器が普通のヴィオラとはどのように違っているかを、克明に語ってくれます。確かにヴィオラにはかなり大きなものもありますが、これはそれらとはかけ離れて大きなサイズなのだそうです。そして、今回初めて知ったのですが、弦楽器というものは完全に左右対称の形のものなどないのだそうなのですね。しかし、これはとても精密な対称性を持っています。さらに、著者の持つこの楽器は本来は弦が5本付いていたようで、おそらく通常のヴィオラのC線、G線、D線、A線の上に、さらにE線が張られていたらしいのです。つまり、上の4本の弦は、ヴァイオリンと全く同じ音域を持っていたというのですね。もちろん、最低音はヴァイオリンの5度下まであることになります。
そして、何よりも音色がヴィオラとははっきり違っているそうです。ヴィオラ特有の「鼻にかかった音」ではなく、もっとほかの弦楽器に馴染む音なのだとか。巻末で紹介されている著者のウェブサイトでは、実際にそれを聴くことが出来るようになっています。確かに、低音はチェロ、高音はヴァイオリンのような音でしたね。
この楽器は、作られた当時は多くの作曲家に好まれたようで、特にワーグナーは、彼のオーケストラのサウンドにはなくてはならない楽器として、バイロイトにこの楽器の発明者であるヘルマン・リッターを首席ヴィオラ・アルト奏者として招き、ヴィオラパート全員にこの楽器を持たせて、リッターに奏法を教えさせたのだそうです。
それほどまでに隆盛を誇った楽器が、現在では完璧に誰も知らない楽器になってしまっています。その「謎」を解くために、著者はわざわざヨーロッパまで行って、各地で様々なリサーチを試みます。そして、決定的な「証拠」を見つけるまでの描写のスリリングなこと、これはぜひ実物を読んでいただきたいものです。
そんな本筋とは別に、先ほどのバイロイトのくだりで、新しく「5本」のヴィオラ・アルタを購入したというところに引っかかりました。リッターの楽器と合わせても6本、音色をそろえるための措置なのですから、そこに普通のヴィオラが加わることは考えられません。ということは、これが当時のバイロイトのオーケストラのサイズだったのでしょうか。現在の半分近くの人数ですね。しかし、手元にあったピリオド楽器による「オランダ人」のCDのメンバー表では、ヴィオラはまさに「6人」でした(弦全体の人数は10-9-6-6-4)。ということは、現在のおそらく16型ぐらいの弦楽器のサイズは、決してワーグナーが求めたものではなかったのかもしれませんね。前々回のゲルギエフは、そんなことも考えてあのような編成をとっていたのかも。

Book Artwork © Shueisha Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-02-26 23:28 | 書籍 | Comments(0)