おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:書籍( 158 )
ブルクミュラー 25の不思議 なぜこんなにも愛されるのか
c0039487_20163244.jpg






飯田有抄・前島美保共著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-14333-3



「ブルクミュラー」と言えば、小さい頃(あるいは、ある程度おおきくなってから)ピアノの勉強をしたことがある人にとっては忘れられない単語に違いありません。それは「バイエル終わったから、次はブルクミュラーね」みたいなノリで語られる、ごく初歩的な段階での教材の話として、もっぱら登場していたものでした。「バイエル」にしても「ブルクミュラー」にしても、それぞれフェルディナント・バイエルとフリードリヒ・ブルクミュラーという名前の作曲家が作曲した練習曲のことなのですが、そんな作った人のことなどはすっかり忘れられ、単に「バイエル教則本」とか「25のやさしい練習曲」という「教材」の名前として、それらは認識されていたはずです。
現実には、バイエルさんに関しては最近ではかなりその人物像が一般的になって来たような印象はありますが、ブルクミュラーさんについてはそもそもどんな顔をしていたのか、というあたりから「謎」に包まれていたのではないでしょうか。まあ、別に顔が分からなくてもピアノの勉強には差支えはないでしょうから、そんなことはどうでもよかったのかもしれませんが。
ただ、ご存じのようにこのブルクミュラー(あ、もちろん練習曲のことです)には、技術的には全然難しくないのに、なんか奥の深い世界を味わわせてくれる魅力がありました。そのせいでしょうか、この曲集は、現在ピアノに携わっている人だけではなく、これを習っているあたりでピアニストへの道をあきらめた人までも含めた多くの人たちに愛されているような気がします。
そんな思いが昂じて、「ぶるぐ協会」などというブルクミュラーさんのことを研究する秘密結社(つまり、出版社のお仕着せ表記である「ブルク」ではなくあくまで昔の呼び名の「ブルグ」にこだわっているというマニアの集まりなのでしょう)を作ってしまった飯田さんと前島さんというお二人が、これまでの「調査」の成果として上梓したのが、この本です。
まず、この本の表紙に描かれた、お目目がキラキラしたかわいいブルクミュラーさんの似顔絵に、ちょっとびっくりしてしまいます。こんな顔をしていたんですね。知りませんでした。いや、それは当然だということが、読み始めてすぐに分かります。そこには彼の肖像画(リトグラフ)が掲載されているのですが、それは、彼女たちが2006年にフランスの国立図書館で発見し、初めて日本で紹介したものだというのですからね。そんな「足」で調べた、これもおそらく日本では初めて目に出来る彼のバイオグラフィーから始まって、この曲集の出版の歴史、さらには教育現場での受容史など、あらゆる方面からブルクミュラーさん本人と、その作品についての詳細なアプローチが並びます。これはもう圧巻としか言いようがありません。
執筆に当たっては、飯田さんと前島さんという、全く文章のテイストが異なるお二人が、それぞれの切り口で語っている、というスタンスが、なんとも言えない魅力を生んでいます。どちらも藝大の楽理科卒業という経歴ですが、飯田さんの方はプロのライターとしてご活躍なさっているとあって、文章はとても滑らか、時には「ウケ」をねらったようなツッコミまで交えて、軽快に論を進めています。一番受けたのは、音楽雑誌で何度か掲載されたブルクミュラーの特集記事に対してのツッコミですね。
一方の前島さんは、はっきり言って文章はヘタ、というか、そもそもエンタテインメントとしての文章ではなく、学術論文のようなちょっとした堅苦しさが残るものですが、それがちょっと滑りがちな飯田さんのパートの確かなフォローとなっています。彼女が担当した出版史のパートなどは、詳細で堅実な記述が光ります。21番の「天使の合唱」のコーダの最初の和音は、属7ではなく減7だというのが、今の現実です。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-02-03 20:18 | 書籍 | Comments(0)
名曲の暗号/楽譜の裏に隠された真実を暴く
c0039487_19514323.jpg







佐伯茂樹著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-21063-9


AMAZONのカスタマーズレビューで、「茂木大輔」さんという方がこの本を絶賛されていましたが、これは、あの茂木さんご本人なのでしょうか。しかし、もぎ(もし)「なりすまし」だったとしても、それは本物の茂木さんでも間違いなく書きそうな内容でした。つまり、あのマニアックな茂木さんですら手放しで絶賛することをはばからないような、これはものすごい本なのですよ。
はからずも同じ時期に出版された前回の書籍と比べると、その違いがより明確になるはずです。あちらはあくまで「ファン」というか、音楽に関してはシロートの仕事ですから、頼りとするのは自分の感性のみ、作品にまつわる胡散臭い俗説なども真に受けて、ひたすら自分に都合の良いように作品をねじ曲げてありがたがるという姿勢が前面に出ています。まあこのような人の場合、ご自分の感想を謙虚に述べているうちは害はありませんが、それをまわりの人がありがたがるようになってくると、事態は深刻です。困ったものですね。
対して、本書の著者の佐伯さんは、膨大な資料と論理的な思考をもとに、あくまで客観的に作品の本質に迫るという、本物の「マニア」のスタンスを貫いているのですから、最初から勝負にはなりません。以前ご紹介したこちらの本よりも、さらにワンランク上がった「至高の」知識を、貪らせていただきましょう。
まず、冒頭で、ベートーヴェンの「交響曲第5番」の、それこそ冒頭のモティーフについて、例の「運命が扉を叩く」という俗説を全否定してくれています。あの「運命~」云々は、もともと胡散臭いものであるのは最近では周知の事実とされていて、さすがに前回の著者もそれを受け入れてはいますが、それでも「音楽がそのように聴こえる」と開き直っているのが、笑えます。もちろん、佐伯さんは同時期に作られた「交響曲第6番」との関連で、カール・ツェルニーが言ったとされる「鳥の鳴き声がヒントになった」という説を支持しています。
メンデルスゾーンの「交響曲第4番」の改訂についても、彼の姿勢は明確です。このサイトでは、一体何が真実なのかはっきりしていなかった中で、とりあえずこちらで書いたようなところに落ち着いてはいました。そんな中で、ここではその2つの楽譜のそれぞれの成り立ちを詳しく知ることが出来、一気に確証を得ることが出来ました。きちんと、どちらもファクシミリが出版されていたのですね。ですから、耳で聴いただけでは分からなかった第3楽章トリオでの2番ホルンの音形まで、ここでは知ることが出来ます。この改訂、出来としてはいわゆる「改訂稿」の方が元の形のように思えるところもあったのですが、このように新しい楽器が出てきたことに影響された跡(一応推測ではありますが)まで突きつけられれば、もはや信じないわけにはいきません。
一番驚いたのは、ドヴォルジャークの「交響曲第9番」での2番フルートのパートの話です。常々、この曲では1番フルートを差し置いて2番フルートが多くの個所でソロを吹くことには、何か不自然なものを感じていました。まあ、2番をやった時には堂々とソロが吹けたので気持ちがよかったのは事実ですが、普通の曲の2番ではまずあり得ないことですからね。しかし、これも著者の自筆稿のリサーチによって、単なる印刷ミスであることが発覚してしまいます。これは、いわゆる「原典版」でもそこまで踏み入ってはいなかっただけに、かなりショッキング。2番奏者の唯一の楽しみが、これからはなくなってしまうのでしょうか。
これだけ明確に今までの「誤謬」を正しているにもかかわらず、最後のコントラファゴットについての部分では、ちょっと文章の詰めが甘く、著者の言いたいことが正確に伝わっていないのでは、と思えるのが、少し残念です。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-01-08 20:11 | 書籍 | Comments(0)
至高の音楽/クラシック 永遠の名曲
c0039487_20384738.jpg






百田尚樹著
PHP研究所刊
ISBN978-4-569-81603-6



処女小説「永遠の0」が映画化され、大ヒットとなった百田さんは、実は筋金入りのクラシック・ファンであったことを世に知らしめるエッセイ集です。なにしろ、お持ちのレコードやCDは2万枚以上と言いますから、これはそんじょそこらの「マニア」だったら裸足で逃げ出すほどの物量、それだけで尊敬してしまいます。
この本は発売されてすぐ買ったのですが、暇な時に読もうとそのままにしてありました。しばらくしてたまたま車の中でかけていたラジオから、関西弁のやたらハイテンションの声で、クラシックについて熱く語っているのが聴こえてきました。その方は、番組の進行役の坂本美雨を相手に、有無を言わせぬ迫力で、クラシックの魅力をとうとうと、まるで何かに憑かれたようにしゃべり続けていたのですね。この時代に民放FMでこれだけクラシックについて無心に語れる人に、とてつもない違和感を覚えたものです。しばらく聴いているうちに、どうやらこの方はこの本の著者で、そのプロモーションのためにここに出演しているのだな、と分かりました。まあ、普段は、新しいアルバムを出したロックかなんかのアーティストが出ている番組ですから、そんなノリで登場していたのでしょう。確かにこのトークは、そんなアーティストと同じような滑らかな口調で、ひたすらクラシックの素晴らしさ、ひいてはそんなことをテーマにしているこの本の素晴らしさを、飽くことなくまくしたてていたのでした。
家へ帰って実際に本を読んでみると、最初の章と最後の章が、さっきまでしゃべっていた内容と全く同じものだったのには驚きました。これも、ニューアルバムの中のタイトルチューンを丸ごと番組でかけてもらう手法とよく似ています。卑しくもクラシック・ファンともあろうものが、こんなあからさまな形でクラシックを扱うなんて、許せません。それが、さきほどの違和感の主たる原因だったのでしょう。
いや、日ごろ寡黙さこそがクラシック・ファンの資質だ、という信条があるものですから、こんな「明るい」人種に出会うと、何か大切なものを土足で踏みにじられているような感じをつい持ってしまうのが、「暗い」クラシック・ファンのいけないところなのでしょう。
やり方はともかく、この本からは著者のクラシックに対する熱い思いは間違いなく伝わってきます。それも、極めて「古典的」な思いだというあたりが、ある種のすごさを感じさせるものなのでしょう。2万枚という枚数についても「自慢ではなく恥ずべきこと」と、ちょっと意外なコメントがきけるのが、嬉しいところです。たくさん集めるよりは、「1枚のレコードを宝物のように」聴く方がずっといいことを知っている人なら、音楽に関しては安心できるな、という気がします。
その「2万枚」にしても、「ゴルトベルク」だけで、編曲も含めて100枚以上お持ちになっているというのですから、その内訳はそれほど多くはないのかもしれませんね。確かに、「いずれ誰かが録音するかもしれない」と書かれている、マリウス・コンスタンの編曲によるラヴェルの「夜のガスパール」のオーケストラ版は、すでにプティジラールの指揮によるCDを始め、最近ではこんなのも出ているのに、どうやらまだ入手されてはいないようですから、そのようなレア物に対する執着は、あまりお持ちになっていないのかもしれませんね。このあたりから察するに、百田さんは「ファン」ではあっても決して「マニア」ではないように思えてしまいますが、どうなのでしょうか。
ひとつ気になるのは、表紙に写っているスコアが、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」のものだということです。一緒にCDが写っているように、この本ではサンプル音源が付録になっていますが、その中にはこの曲は入っていませんし、本文の中でも登場していないのですよね。これは、デザイナーの勘違いだろーま

Book Artwork © PHP Institute
[PR]
by jurassic_oyaji | 2014-01-06 20:40 | 書籍 | Comments(0)
ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き
c0039487_21331761.jpg







Otto Biba, Ingrid Fuchs共著
小宮正安訳
集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版 031V)
ISBN978-4-08-720718-7




「ウィーン楽友協会の現在の資料館館長と副館長による、日本のクラシック愛好家のための書き下ろし」というフレーズが帯に踊っています。最後に「びっくりマーク(!)」が付いているぐらいですから、それは本当にびっくりするようなことなのでしょう。もちろん、このお二人はドイツ語で執筆なさったのでしょうから、オリジナルのタイトルも併記されています。それは「Die Geschichte der Gesellschaft der Musikfreunde in Wien」というものですから、そのまま訳すと「ウィーン楽友協会の歴史」という素っ気ないものでした。それを、上のように「歴史」を「二〇〇年の輝き」と直した(「改竄した」ともいう)のは、訳者なのか、編集担当者なのかは分かりませんが、このあたりで、「日本人」が抱いている「ウィーン」のイメージを端的に表現しているのは、さすがです。ただ、横書きで「二〇〇年」という書き方には、いくらなんでも馴染めません。
もう1点、日本語の「楽友」に相当する単語はここでは「Musikfreunde」のはずですが、我々日本人には「ムジークフェライン」、つまり「Musikverein」という言い方の方が馴染みがあるのではないでしょうか。そのあたりの違いについて、当事者たちの見解はどうなのかということをぜひとも知りたいと思ったのですが、それはこの本の中にはどこにも見つけることはできませんでした。
まあ、そんな厳密なところまでの議論を求めるというのが、もしかしたらこの本のスタンスからしたら筋違いのことだったのかもしれません。なんせ、全部で4つの章に分かれているうちの「歴史」に関して述べた「第1章」と、「演奏会」について述べた「第2章」とでは8割程度の部分で全く同じ記述が重なっているのですからね。おそらく、2人の著者の間での調整が取れなかったのと、それをきちんと校正しなかった結果なのでしょうが、その程度の、1冊の本としてはかなりみっともない仕上がりでもかまわないだろうというおおらかさの前には、細かい指摘など何の意味もありません。
ウィーン楽友協会について、「演奏会」と「音楽院」と「資料館」という3つの側面から詳細に語ったこの本は、特に「音楽院」と「資料館」について、今までほとんど知られることがなかったような知識を与えてくれています。「楽友協会」というのは、今の「ウィーン国立音楽大学」の前身だったんですね。さらに、この本が日本人向けに書かれたということもあって、その音楽院と日本との関係について語られているのもうれしいことです。そこの学生で、アントン・ブルックナーに師事したルドルフ・ディットリヒという音楽家は、明治政府からの要請で東京音楽学校の教師として招かれ、まさに日本のクラシック音楽の基礎をなす人材を育てたのですからね。もっとも、そこで、「楽友協会あっての日本の音楽教育」と自慢げに語る著者の筆致には、ちょっと引いてしまいますが。
このディットリヒという人は、在任中に妻を亡くした後、日本人の女性と親しくなって子どもまでもうけますが、やがて二人を残して帰国、ドイツで別の女性と再婚するという、まるでピンカートンを地で行ったような男なのですね。たまたま手元には、ディットリヒなどの「お雇い外国人」が作った曲を集めた2001年のCDがありました(KING/KKCC 3001)。そのライナーを執筆していたのが、ディットリヒの「孫」にあたる根上淳(ペギー葉山の夫)でした。
c0039487_21354114.jpg

「資料館」に関しては、さすが「ヴィジュアル版」だけあって、所蔵されている珍しい楽譜や楽器の写真が満載です。その中で一番受けたのは、「Harmoniumflügel」あるいは「Orgelklavier」と呼ばれる、ピアノとリードオルガンが合体した楽器です。
c0039487_21351057.jpg

訳文は非常にこなれていて(です・ます体)、とてもスラスラと読めてしまえました。まるで最初から日本語で書いたのでは、とすら思えるほどの素晴らしさです。

Book Artwork © Shueisha Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-12-27 21:36 | 書籍 | Comments(0)
嶋護の一枚/The BEST Sounding CD
c0039487_21183799.jpg






嶋護著
株式会社ステレオサウンド刊(
SS選書)
ISBN978-4-88073-316-6



時系列として辿れば、嶋護(しまもり)さんの文章を読んで最初に衝撃を与えられたのは、ESOTERIC「指環」のSACDに付いてきた分厚い解説書ででした。「リング、そのデッカサウンド」というエッセイからは、今まで漠然と存在していたものが、鋭い切り口で突然実体をもって目の前に現れたのです。何しろ、その解説書ときたら、嶋さんと同じ名前の渡辺護(こちらは「まもる」)氏の、1965年に上梓された著作(↓)をそのまま、ライトモチーフの譜例の版下まできれいにコピー&ペイストしただけという雑な「楽曲解説」をはじめとして、すでに公になった文章をかき集めただけというお粗末なものでしたから、そこで唯一の描き下ろしであった嶋さんの文章のすごさは、おのずと際立っていたのでした。
c0039487_21215568.jpg

その次に出会ったのが、「クラシック名録音106究極ガイド」でした。ここで嶋さんが列挙しているプロデューサーやエンジニアの固有名詞には圧倒され、いつかはそのかなたの人名に親しめるだけのスキルを身に着けたいものだ、と思い知らされたものでした。もう一つ悔しかったのは、いくら嶋さんの言葉によって紡がれたそれらの名録音を実際に体験しようにも、それらのLPはもはや入手することは殆どかなわないものばかりだったことです。
そんなもどかしさを解消してくれるようなものが、実はだいぶ前に出ていたことに気づいたのは、菅野沖彦のXRCDを取り上げた時でした。その時にたまたま書店で目にして比較サンプルとして購入した「菅野レコーディングバイブル」という嶋さんの書籍に同梱されていたSACDこそは、それまでの嶋さんの文章を「音」として体験できるものだったのです。そこで試みられていた、「録音時に回っていたセッションマスターを録音時に使われていたマシンと同じ機種で再生し、『フラット』にDSDにトランスファーする」という手法から生まれたSACDから出てきた音は、衝撃以外の何物でもありませんでした。正直、今までほとんど神格化の対象だった杉本XRCDが、これほど色あせて聴こえたことはありません。
したがって、この、今まで10年にわたって雑誌に連載されてきた文章を集めた新刊では、その時以上の衝撃はすでに約束されていました。なによりも、ここで取り上げられているアイテムのほとんどは今でも流通しているCDSACDですから、その気になれば入手して嶋さんの体験を追うことだって可能なはずです(いや、すでに何枚か保有しているのを知って、本当にうれしくなりました)。
個々のアイテムとその周辺の検証はもちろんとても魅力的なエピソードばかりですが、その底に流れる「グルンドテーマ」も、すぐに見つかります。それは、マスタリングにかける嶋さんの思い。多少煩雑な記述の中からは、マスターを選び、的確なマスタリングを行うという作業がいかに重要なものであるかが思い知らされることでしょう。
すでに、いくつかの固有名詞はボキャブラリーに加わっていたとはいえ、ここで怒涛のように押し寄せる新たなそれは、やはり達すべき頂の高さを喚起されるものばかりです。そんな中で、ピーター・マッグラスという名前は、間違いなく新たに仲間になってくれるはずです。その接点は、彼が使っていた「KFM6」というマイク。
c0039487_21211588.jpg

これは、知り合いのKさんというエンジニアの方が、こちらで使っているのを見て初めて知ったマイクです。それで録音されたというマーラーの1番は、本書の2010年の時点では「入手には根気が求められる」CDでしたが、なんと2011年にはリイシューされていたではありませんか。それを知ったからには、注文しないという選択肢はあり得ません。
嶋さんの、ちょっとマニアックな文体には、いつも圧倒されます。フィラデルフィア管弦楽団の弦楽器セクションを、軽く「フィリー・ストリングス」と呼べるボーダーレスな感覚の持ち主は、知る限り「音楽評論家」には皆無です。

Book Artwork © Stereo Sound Publishing, Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-11-15 21:22 | 書籍 | Comments(0)
MOZART/Requiem
c0039487_20345937.jpg







Benjamin-Gunnar Cohrs(Comp)
Musikproduktion Hoeflich(Study Score)




モーツァルトの「レクイエム」は未完の作品ですが、今では弟子のジュスマイヤーが「完成」させた楽譜が広く用いられているのはご存知のことでしょう。さらに、その、ちょっと完成度の低い楽譜に対して異議を唱え、より完成度の高いとされる楽譜を作った人が5人以上はいたことも、よく御存じのはずです。それは、1971年のフランツ・バイヤーに始まり、1994年のロバート・レヴィンの仕事によってひとまず出尽くした、という感がありました。結局その中で生き残ったのはバイヤー版とレヴィン版の2つだけのような気がしますが、それよりも在来のジュスマイヤー版の存在感が、それらの「新しい」楽譜の出現によって、相対的に高まったのではないでしょうか。もはや、レクイエム業界はその3者によってシェアされているというのが実情なのでしょう。もちろん、トップメーカーはジュスマイヤー版です。
そんな業界に、ここにきて新しい「メーカー」が「参入」してきました。それは、今年、2013年に出来たばかりの、「ベンヤミン=グンナー・コールス版」です。このコールスという音楽学者の名前は、おそらくブルックナーの交響曲第9番の最新の原典版の校訂者として耳にしたことがあるのではないでしょうか。彼はさらに、この交響曲の「未完」だった第4楽章の修復にも関与していましたから、「こうする方がいいよ」と言えるだけのものを持っていたのでしょう。
手元に届いたスコアは、まるで電話帳ほどの厚さがあるものでした。それは、巻末にドイツ語と英語でそれぞれ34ページにも上る解説が加わっているほかに、「レクイエム」を演奏する時の「付録」として、別の曲の楽譜が何曲分か入っていたためでした。
「レクイエム」本体の「完成」に対する基本的なコンセプトは、その長ったらしい解説でつぶさに述べられています。まず、コールスがこの作業を思い立ったものが、こちらでご紹介したバッハの「ロ短調ミサ」に関する書籍を著したクリストフ・ヴォルフの「Mozarts Requiem」という1990年の論文だということです。ヴォルフによると、今まではジュスマイヤーの「創作」とされていた「Sanctus」、「Benedictus」、「Agnus Dei」などには、しっかりと元になるモーツァルト自身によるスケッチがあったのだそうです。ですから、それらの曲に関しては、あくまでスケッチにあった部分は尊重するという姿勢です。その上で、ジュスマイヤーの仕事は破棄して、全く新しいものを作ったそうです。
このあたりは、なんだかレヴィン版とよく似た姿勢ですね。実際に比べてみると、「Lacrymosa」のあとには「アーメン・フーガ」が入っていますし、「Sanctus」のイントロなども、そっくりです。上がコールス版、下がレヴィン版。
c0039487_20382776.jpg

参考までに、このジュスマイヤーが作った部分の小節の長さを比較してみました。
c0039487_20374556.jpg

さらに、前半の部分はこれもジュスマイヤーのものではなく、彼の前にこの修復作業をコンスタンツェから依頼されたヨーゼフ・アイブラーのものを使います。これも、ヴォルフの「ジュスマイヤーは、モーツァルトの弟子の一人にすぎなかった。それが、コンスタンツェが最初にジュスマイヤーに仕事を頼まなかった理由だ」という言葉によるものなのでしょう。
アイブラーといえば、確か「ランドン版」の前半が、同じようなコンセプトで作られたものだったはずです。確かに比べてみるとほとんど同じですが、中にはコールス独自の部分があったりしますから、まあ、それも彼の姿勢だったのでしょう。
惜しいのは、その解説の中でバイヤー版の成立年を「1991年」と間違えていることです。これはドイツ語のテキストでも同じですから、かなり残念。
この楽譜を紹介していたサイトでの、「レオポルド・ノーヴァクとの問答なども見られる」という記述も、残念。そもそもノーヴァク(ノヴァーク)はだいぶ前に亡くなってますし、それらしい部分はおそらくヴォルフの論文の引用です(解説の原文はこちら)。
この楽譜で、最初に録音してくれるのは誰なのでしょうね。

Score Artwork © Musikproduktion Hoeflich
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-10-16 20:40 | 書籍 | Comments(0)
レナード・バーンスタイン/ザ・ラスト・ロング・インタビュー
c0039487_2353319.jpg






ジョナサン・コット著
山田治生訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-580-2



「このバンド無くしては日本という国がおっ勃(た)ちません」というフレーズは、先日行われたサザンオールスターズのスタジアム・ライブのオープニングMCに登場したものです。ご丁寧に、その「字幕」は巨大なLEDスクリーンに映し出されましたし、ファイナルではそれをWOWOWが生中継していましたから、その「勃」という、ほとんど「erection」の翻訳語として知られる二字熟語にしか使われることのない漢字(ま、「勃発」なんてのもありますが)は、ほぼ全国民の目に触れることになったのです。
まあこの程度のことはこの世界にはつきものですから別に目くじらを立てるほどのものではありません。しかし、その同じ二字熟語が、前世紀に多くの人に多大な影響を与えた指揮者であり作曲家、あるいは教育者でもあったレナード・バーンスタインの口から放たれ、それがそのまま活字となっているのを見てしまうと、ちょっと穏やかな気分ではいられなくなってしまいます。
この「巨人」が亡くなる1年前、198911月に、「ローリング・ストーン」誌のライターであったジョナサン・コットという人が、バーンスタインとのインタビュー原稿を依頼されたそうです。もはやそのようなメディアとの接触を断っていたマエストロを説得し、なんと12時間にも及ぶインタビューを敢行、その成果が、2013年にOxford University Pressから出版されたばかりの「Dinner with Lenny, The Last Long Interview with Leonard Bernstein」というタイトルの原書です。20年以上も前の記事がなぜ今頃書籍になったのか(そもそも、記事自体は掲載されたのか)とか、原書に数多く掲載されていた貴重な写真はなぜ割愛されたのか、などといった多くの疑問には、通常は「訳者あとがき」というものの中で答えられているものなのですが、その期待は巻頭にある「訳者は『訳者あとがき』を書きたいと準備していたが、著者の意向で掲載できなかった」という一文によって、叶えられることはありませんでした。「訳者」の無念さがにじみ出ているこのコメントは、もしかしたらこの本の中で最も印象的な文章なのかもしれません。この「著者」は、いったい何様のつもりなのでしょう。
確かに「著者」は、このインタビューの中では、かなり機知にとんだやり取りを披露しています。その一つが、さっきの二字熟語ネタです。
バーンスタイン:10歳のときに、僕は初めてピアノの鍵盤に触れた……僕が○起できるようになる前のことだ。
コット:幼児だって○起すると思いますが。
バーンスタイン:そうだけど、僕が言いたいのは”必要”な時に○起できるということだよ〈笑〉

まあ、「大人は必要な時に○起できる」ということなのでしょうね。大人であっても「必要な時に○起できない」人や、「必要でない時に○起してしまう」人は多いはずですが、このやり取りは、バーンスタインはそれをきちんとコントロールできる極めて稀な才能を持った人であること伝えるエピソードとして、後世に残ることでしょう。同じような「下ネタ」で、アルマ・マーラーに「ベッドに連れて行かれそうになった」というようなアレマな隠れた史実を引き出した才能も、なかなかのものです。
ただ、「カラヤンの死の床に立ち会った」とするバーンスタインの言葉に対して付けられた「カラヤンが死の直前に大賀典雄と面会していたことは有名な話であるが」という「訳者」の注釈には、なにか「ざまあみろ」といったような感情が込められているような気は、しないでしょうか。
そんなことを言ったら、インタビュー前の「プレリュード」という章で、バーンスタインが薬局で薬剤師から「覚醒剤」を渡されたという記述も、ひょっとしたら訳者が巧んだ意識的な誤訳なのかもしれませんね。
いや、バーンスタインはまともなことも喋っているんですよ。それは、実際に読んでいただく他はありません。

Book Artwork © alpha-beta publishing
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-09-26 23:07 | 書籍 | Comments(0)
最後のクレイジー 犬塚弘
c0039487_20471941.jpg







犬塚弘+佐藤利明著
講談社刊
ISBN978-4-06-218447-2



以前、2006年に結成50周年を記念して新曲も含めてリリースされたベストアルバムをご紹介した時に、「メンバー7人のうちの3人までが、すでに鬼籍に入ってしまった」と書いていたクレイジー・キャッツですが、その後もメンバーの訃報は続き、植木等さん、谷啓さんに続いて、昨年は桜井センリさんまでが亡くなってしまい、とうとうご存命のメンバーは犬塚さん一人になってしまいました。
そんな犬塚さんが、ご自身の一生を振り返るとともに、当然ながらその「仲間」のことを克明につづった伝記が出版されました。とは言っても、これは犬塚さんが直接執筆したものではなく、クレイジー・キャッツ・フリークであるライターの佐藤利明さんという方が、犬塚さんにインタビュー、そこで犬塚さんが語られたことを再構成したものです。ですから、そこでは犬塚さんも知らなかったようなデータまでもが、あたかも犬塚さんの言葉であるかのように滑らかにはめ込まれていますから、単なる「思い出話」には終わらない、しっかりとした「資料」あるいは「文献」としての価値のあるものに仕上がっています。そういう意味で、ただのゴーストライターには終わらなかった佐藤さんの名前までが「著者」としてクレジットされているのは当然のことでしょう。
実は、ここで述べられているクレイジー・キャッツの歴史などは、1985年に刊行されたこちらの本で、すでに紹介されていたことでした。
c0039487_20482496.jpg

しかし、こんな「歴史的」(まだオフセットではなく、凸版の印刷でした)な本はもはや入手不可能ですから、改めてここで最新の資料が登場したということは、割と最近ファンになった人にとってはなによりのことでしょう。まずは、この敗戦直後の「ジャズ」の歴史の一面を垣間見ることができる、そもそもの「クレイジー」の人脈に注目です。そう、もしかしたら、現在残っているCDDVDでしか彼らに接していない人は、このグループが「ジャズ・バンド」だったことさえ知らないかもしれませんからね。そして、ほんのちょっとタイミングが合っていたら、あの宮川泰や、ラテン・フュージョンの大御所松岡直也などがメンバーに名を連ねていたことも。犬塚さん自身も、かつては秋吉敏子とトリオを組んでいたこともあるのだとか、さらに、ごく最近の話では、渡辺貞夫から本気でバンドに参加することを乞われたそうですよ。彼のベースの腕は、「本物」だったのですね。
今のこの時点まで続いている、役者としての犬塚さんを語った部分も、非常に興味深いものです。確かに彼は、いつの間にかとても素晴らしいバイプレーヤーになっていました。別に震えたりはしませんが(それは「バイブレーター」)。あるとき、たまたまテレビで井上ひさしの戯曲をやっていたのですが、そこに犬塚さんが出演されていて、なんとも味のある演技をしていたので驚いたことがあります。「クレイジー」の映画でのオーバーアクションからは考えられないような、渋い味でした。
ただ、犬塚さんの演技修業は、もっぱら映画の撮影の時のものなのだそうですね。古澤憲吾は苦手だったのに、山田洋二には多くのことを教わったというのも、何か人柄がしのばれます。
「クレイジー」として活躍している時の話は、ほとんどすでにどこかで聴いたことがあるようなものでしたが、それでも「本人」によって語られることで、さっきの文献よりははるかにリアリティを伴って迫ってきます。それも、ライターさんの手腕もあるのでしょうが、常に温かい視線が感じられて、とても幸せな気持ちになれます。「最後のクレイジー」として、「クレイジー」の語り部に犬塚さんが選ばれたところに、何か神の配剤のようなものを感じるのは、そんな温かな語り口のせいなのでしょう。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-09-02 20:49 | 書籍 | Comments(0)
ジャン・シベリウス/交響曲でたどる生涯
c0039487_22301388.jpg






松原千振著
㈱アルテスパブリッシング刊(叢書ビブリオムジカ)
ISBN978-4-903951-67-6



フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの最新の評伝です。タイトルにあるように「交響曲」を軸に、時系列を追って生涯と作品の変遷を語る、という手法を取っていますから、単なる「伝記」とは違い、とても読みやすいものに仕上がっています。
著者の松原さんは、合唱指揮者として高名な方ですから、「なぜ、シベリウス?」、「なぜ交響曲?」という疑問符がたくさん頭のまわりを駆け回ります。しかし、そんな「なぜ?」は、この本を読むうちに氷解することになります。彼は、1980年前後にフィンランドのシベリウス・アカデミーに留学されていて、有名なヘルシンキ大学男声合唱団(YL)の、当時唯一の日本人団員だったのですね。そのほかにもフィンランド放送室内合唱団や、タピオラ合唱団などの団員でもあったそうなのです。その頃、テレビの仕事でフィンランドを訪問していた渡邉暁雄さんから、本格的なシベリウス研究を勧められ、それがこの本のモチヴェーションになったのだとか。
ここでは、「交響曲でたどる」とあっても、いわゆる7つの「交響曲」だけを扱うのではなく、もう少し範囲を広げて「クッレルヴォ」とか「ヴァイオリン協奏曲」までも含めて、話を進めています。その最初の「クッレルヴォ」は、なんと男声合唱が大活躍してくれるぼ。これが、合唱指揮者との接点でした。「交響曲第1番」の章の最後には、「男声合唱と作曲コンクール」というタイトルのパートで、シベリウスの男声合唱曲についても語っています。
各「交響曲」の解説は、それほど厳密なアナリーゼを行っているわけではなく、その分、よくある「楽曲解説」のような退屈さとは無縁なものになっています。例えば、「交響曲第1番」については、「シベリウス自身も語っているが、この曲を支配している要素は、ヴィクトール・リュドベルイのいう『少年の心』である」といった感じで、どちらかというと情緒的なアプローチをとっているために、とても親しみやすいイメージがわいてきます。ここでは、最初から最後まで、その「少年」で通していますから、第1楽章の途中に出てくる最初に装飾音の着いたフルートの二重奏などは「いかにも幼児らしい」とか、第3楽章の木管の軽快な動きは「少年がどこかで他の子どもたちと出会い、言葉を交わすまでもなく、いっしょに戯れ、あちこち足早に動き回っている」などと、分かったような分からないような比喩が並びます。実は、この作品の場合は、もっと語彙が豊富で緻密なアナリーゼを最近体験したばかりなので、何か物足りなさは残り、もうちょっと突っ込んでもらっても良かったな、という気にはなりますね。
他の曲の場合でも、いかにも適切なように見えて、本質とは微妙にずれているのではないか、といった印象を受ける部分がかなりありましたが、基本的に情緒を客観的に表現するのは無理なので、これはしっかりと著者の「気持ちをくむ」といった態度が、読者には求められるのでしょう。
実用的な情報として、ヴァイオリン協奏曲や交響曲第5番の異稿が、現在も入手可能なCDとして市場に出ていることなどは、かなりポイントが高いはずです。実際、ヴァイオリン協奏曲の初稿が存在することすら、現実にはほとんど知られていませんから、その「音」が実際に聴けるという情報はありがたいものです。
巻末の年表や作品表は、データとして重宝しそうですし、北欧のスペシャリストとして、当地の作曲家や演奏家の日本語表記に、一石を投じているのも、なかなか刺激的です。シベリウスの演奏で定評のあったパーヴォ・ベルグルンドは本当は「ベルイルンド」というのが正しそうですし、デンマークの、いわゆる「ニールセン」も、数ある「正しい」表記の中から、著者は「ネルセン」を選んだようですね。

Book Artwork © Altes Publishing Inc.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-08-27 22:31 | 書籍 | Comments(0)
新・長岡鉄男の外盤A級セレクション
c0039487_21143969.jpg






長岡鉄男著
共同通信社刊

ISBN978-4-7641-0663-5




1984年に刊行された同名書(確か、これが「1」で、その後続編が何冊か出たはず)の復刻版です。ただ、文字通りそのまま同じものを作るのではなく、復刻されているのはテキストだけで、結局その他はレイアウトもデザインも一新されています。用いられているレコードのジャケット写真も、新たに別の人が所有していたレコードから撮影された全100枚がカラーで紹介されています。その、巻頭に45ページにわたって掲載されている「撮りおろし」の写真が、まず圧巻です。12インチ四方のキャンバスを使い切った壮大なアートワークは、12センチ四方のCDのジャケットを見慣れた目には、別世界のもののように感じられることでしょう。
さらに、今回の復刻では、実際にこの中で紹介されている優秀録音盤の音の一部分を聴くことが出来るSACDが付録として付いています。
長岡さんがこの本を書いたときには、間違いなくレコード・マニアたちの購入に際しての指針という役割を持っていたはずでした。ここで長岡さんが紹介していたレコードを何とかして入手し、長岡さんがおっしゃっていたことを実際に体験、それを自分の耳と照らし合わせて、さらなるオーディオ修行に励む、といったマニアは、たくさんいたことでしょう。
しかし、今回の復刻版の最初には「掲載している(原文のママ)アナログレコードは、現在ほとんど全てが廃盤であることをご了承ください」という断り書きがある通り、今となってはこの本の当初の目的はすっかり失われてしまっています。それでもなおかつ復刻されたというところに、長岡鉄男のすごさがあるのでしょう。彼が書いたものはその時限りのものではなく、そのレビューの対象が失われてしまってもなお残る普遍的な価値観の記録なのでしょうね。確かにここからは、「カリスマ」ならではの時代を超えた主張が感じられます。
そんな彼の言葉は、今でも事あるごとに引用されていて、他の人には決してまねのできない独特の表現がマニアを酔わせているのはご存じの通りでしょう。ただ、今回そんな「名言」のオリジナルの出典を読んでみると、全体の文章自体はそれほどインパクトのあるものではないことにも気づきます。彼が書いていたことは、そのレコードに関するコメントを、単にオーディオ的な側面だけではなく、演奏や作品そのものにも言及しつつ様々な角度から述べているという、非常に高度なものだったのですが、後世の人はその中のごく一部のフレーズだけを取り出して、そこを異様なまでに強調していたのですね。ECJのレコード「鳥の歌」での、「口の開け方までわかる」というフレーズは有名ですが、その他の点では結構シビアなことも書いているのですから。
今回も、ブリテンの「戦争レクイエム」の自演盤で「コーラスの衣装の色は全員、黒一色」などと、これだけ見たらとんでもないホラ話だと思えるようなフレーズを発見しましたが、これだってその前後の文章をきちんと読めば、それなりに納得できる表現だと気づくはずです。
いくら、すでに現物は入手が出来ない状況だとしても、そんな長岡さんのお勧めレコードの片鱗を知りたいと思う人は多いはず。そこで、ここでは現在CDなどで入手可能なアイテムにはその旨の表記があります。ただ、それも全100枚中の25枚のみというのには、かなり失望させられます。しかし、よく見てみると、その他にも確実に現時点でCDなどが手に入るはずのものもかなりあることに気付きます。何の表記もなかったさっきのブリテンだって、ごく普通に買えるはずですし、BDオーディオだって、もうすぐ出るというのに。
そんないい加減な編集スタッフのやることですから、付録のSACDに不満が募るのは当然のことです。もしこれを目当てに購入するのであれば、間違いなく味わうはずの失望感を覚悟しなければいけません。

Book Artwork © K.K.Kyodo News
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-08-07 21:16 | 書籍 | Comments(4)