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カテゴリ:ヴァイオリン( 14 )
SHOSTAKOVICH/Violin Concerto No.2, TCHAIKOVSKY/Violin Concerto
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Linus Roth(Vn)
Thomas Sanderling/
London Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72689(hybrid SACD)




チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の最新のSACDには、販売している日本の代理店によって「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の最初の形はこうだった!」という大げさなキャッチが付けられていました。確かに、HENLE(2010年)とBREITKOPF(2011年)からは新しい楽譜が出版されています。これらは両社の共同作業(校訂者はベートーヴェンの楽譜の校訂で知られるエルンスト・ヘルトリヒ)によって作られ、ピアノ・スコアは双方から、フル・スコアとパート譜はBREITKOPFから販売されています。おそらくその楽譜を使って初めて録音されたのが、このSACDなのでしょう。
一応、この曲の楽譜に関しての状況を調べてみると、1878年にロシアのユルゲンソン社からまずピアノ・スコアが出版され、それに続いてオーケストラのパート譜も出版されました。初演は1881年に行われたのですが、ご存知の通りこの時はあのハンスリックによってこてんぱんにけなされてしまいます。
そして、1888年になってやっとフル・スコアが出版されるのですが、そこではヴァイオリン・ソロのパートがかなりの部分で改変されていました。ただ、現在の演奏家は、その改変が反映されていない、1878年の形のものを主に使っているのではないでしょうか。
今回のヘルトリヒの校訂も、基本は1878年版を主な資料として採用しているようでした。ただ、その楽譜の断片がブックレットに引用されていますが、その中には一部で「ossia」という但し書きで、初版のスコア(1888年版)での音符が少し小さな楽譜で掲載されています。これは、原典版にはよく見られる措置、校訂者自身もどちらの資料を採用したらいいのか自信がない時には、このように「あるいは」ということで両方の資料を載せることがあるのですね。もちろん、本音では大きな楽譜の方を採用してほしいと思っているのでしょうね。

ところが、ここでのヴァイオリニスト、リナス・ロスは、その「小さな」(上の)楽譜の方を演奏していました。例えば第1楽章の163小節目と165小節目のそれぞれ2つ目の十六分音符を、1オクターブ上げて弾いているのです。参考までに他の人の録音を何種類か聴いてみましたが、そのように弾いている人は誰もいませんでした。そういうとても珍しい演奏になっているのですが、それは果たしてこの楽譜の校訂者の意思に沿ったものであるかは疑問です。もちろん、それはキャッチにある「最初の形」ではありませんしね。
次に引用されているのは第2楽章の楽譜です。これも初版のピアノ・スコアとフル・スコアでは違っています。これはIMSLPでも見られますから、比較してみましょう。

↑ピアノ・スコア

↑フル・スコア

このように、フル・スコアからはヴァイオリン・ソロの「con soldino」という文字が消えています。さらに、もっと先の新しいテーマの最初にある「con anima」という文字もなくなっています。もちろん、今回の原典版では、このピアノ・スコアの形を採用していて、そこには「ossia」はありません。ですから、ロスはこの楽章の間はずっと弱音器を付けて演奏しています。これは「最初の形」ですから、何の問題もありません。

と、ずっとピアノ・スコア版に則った楽譜を提示していたヘルトリヒなのに、この楽章の、頭のテーマがもう1度帰ってくる部分の直前で、この「B♭」の音を「C」に変えています。これはフル・スコア版に見られる形です。

でも、この後にクラリネットが同じ音型を繰り返す時には、しっかり「B♭」(この楽譜はinB♭)を吹いているんですよね。この「C」はチャイコフスキーのミスなのではないか、という気がするのですが。ピアノ協奏曲第1番の第2楽章の頭でも、フルート・ソロとピアノ・ソロでは音が違っているところがありますが、これも最近はミスだと言われていますからね。もちろん、ここを「C」で弾いている録音など、本当に珍しいはずです。もしかしたらこのSACDだけかもしれません。それは、誰もそれが「最初の形」だとは思っていないからなのではないでしょうか。

SACD Artwork © Challenge Classics
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by jurassic_oyaji | 2017-01-10 21:34 | ヴァイオリン | Comments(0)
MOZART/Violin Concertos
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Isabelle Faust(Vn)
Giovanni Antonini/
Il Giardino Armonico
HARMONIA MUNDI/HMC 902230.31




レーベルのクレジットが以前は「harmonia mundi s.a.」だったものが「harmonia mundi musique s.a.s.」に変わりましたね。なにか、社内の組織替えのようなことがあったのでしょうか。そういえば、以前はノーマルCDでも、ハイレゾ音源を無料でダウンロードできるパスコードが付いてきたことがありましたが、あれもいったいどうなったのでしょう。今回のファウストのアルバムでは、ヴァイオリンがとても繊細な音を出していますから、ぜひハイレゾで聴いてみたかったのですが。
彼女が録音したのは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲でした。旧全集では全部で7曲のヴァイオリン協奏曲が存在していたはずですが、「6番」と「7番」は偽作の疑いが強く、最近ではまずこういう全集に入ることはないようですね。実際、この2つの協奏曲を聴いたことはありません。いや、「5曲」の中でも、もっぱら演奏されるのは「3番」、「4番」、「5番」の3曲だけでしょうから、「1番」と「2番」も聴いたことはないんですけどね。
今回ファウストと共演しているのは、ピリオド楽器の団体、ジョヴァンニ・アントニーニの指揮するイル・ジャルディーノ・アルモニコです。この指揮者とオーケストラの演奏は数多くのCDで聴いたことがあり、とても個性的で訴えるものの多い演奏が間違いなく味わえる団体として印象に残っています。ですから、そこと共演するにあたって、ファウストも同じ志向性を持ったスタイルを取っているのでしょう。そのために、彼女のモダン楽器にはガット弦を張り、奏法ではノン・ビブラートや装飾を取り入れるという、双方からのアプローチでピリオドのスタイルを作っているのでしょうか。
というような先入観で聴き始めたら、彼女はそんな中途半端なやり方ではなく、もうどっぷりとピリオド楽器そのものの音と、そして音楽を奏でていたではありませんか。これには、ちょっと驚いてしまいました。
そんな「なり切り」がとても効果的に聴こえるのが、さっきのあまり演奏されることのない「1番」や「2番」です。特に、真ん中のゆっくりした楽章での表現は、ぶっ飛んでいます。まずは、もしかしたらモーツァルトの時代様式を超越しているのではないかと思えるほどの自由な装飾です。バロック期の作品では聴き慣れていた華麗な装飾がモーツァルトで使われると、そこには「宮廷音楽」のぜいたくな世界が広がります。確か、フリードリッヒ・グルダも同じようなことをやっていましたね。ただ、彼女の場合はモダン・ヴァイオリンの音色からは逆に華麗さを取り除く、という大胆なやり方で、さらにその時代の音楽に近づいていきます。とりあえず比較してみたのがイツァーク・パールマン、どんな時にもビブラートを忘れないで甘~く歌うのがヴァイオリンという楽器なのだ、というのも一つの完成されたスタイルなのかもしれませんが、ここで彼女が聴かせてくれたまるでファルセットのようにハスキーなピアニッシモのセクシーさに抗うことなど、とてもできません。
アントニーニのチームも、骨太なモーツァルトを演出してくれています。特に強力なのが低弦。単なる低音ではない、しっかりと主張を持ったパートとして、確かなインパクトを与えてくれています。「5番」の終楽章に出てくるトルコ行進曲で使われるコル・レーニョの激しさには、思わずたじろいでしまいます。
モーツァルトには頻繁に出てくる前打音の扱いについても、ユニークなレアリゼーションが見られます。

「5番」の第1楽章のテーマですが、3回連続して出てくる前打音が、最初の2回は前の音が短く不均等(三十二分音符と付点十六分音符)なのに、最後だけは均等に(十六分音符が2つ)演奏しているのですね。このような自由さがとても魅力的。
それと、アンドレアス・シュタイアーが作ったカデンツァとアインガンクも、やはりそんな自由な雰囲気が満載の素敵なものでした。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.
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by jurassic_oyaji | 2017-01-07 20:53 | ヴァイオリン | Comments(0)
Lovely 恋音
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寺沢希美(Vn)
河地恵理子(Pf)
NAXOS/NYCC-10003




最近、というか、だいぶ前から「クラシック」の世界ではアーティストがやたら「きれい」になって来ています。なんたってピアノやヴァイオリンといった楽器には、美しい女性(まれに男性)が「絵的」によく似合います。音楽大学を卒業する人はもはや飽和状態、そんな中では「美しさ」という武器は欠かせません。演奏する能力がそこそこあるのなら、やはり「美人」の方を選びたくなるのは自然の成り行きなのでしょう。悲しいことです。
ですから、いつもチェックしているNAXOSのFacebookで、まるできゃりーぱみゅぱみゅのようなふわふわのドレスに身を包んだヴァイオリニストの姿が紹介されているのを見た時には、ついにここまで来たか、という思いに駆られてしまいました。彼女の名前は寺沢希美(のぞみ)さん、こうなると、単に「きれい」なだけではなく、ほとんど「アイドル」ではありませんか。その記事では、CDが出ただけではなく、24/192のハイレゾ・データまでリリースされているのだとか。あのNAXOSが本気になって売り出そうとしていることが、まざまざと伝わっては来ませんか?
そのCDはピンクを基調にしたアートワーク、ジャケットでヴァイオリンを抱えて微笑んでいる寺沢さんの姿はまさに「天使」です。あくまで無垢なまなざし、わずかに開いた口元の奥に見える白い歯には、はかない愛しさが宿っています。

インレイでも、彼女の姿を見ることが出来ます。こちらはいかにも清楚な少女というイメージが伝わってくるものです。ジャケットはちょっと近づきがたいほどのオーラが漂っていたものが、こちらではより親しみやすい「女の子」の魅力が一杯です。
せっかくですから、CDの方も聴いてみましょうか。タイトルが「Lovely 恋音」というぐらいですから、「愛」とか「恋」をテーマにした曲を集めたものだと思ってしまいますが、曲目を眺めてみるとあんまり関係ないようなものも並んでいます。それぞれの曲の解説を読んでみると、その中に「愛」という言葉が入っているのは1曲だけ、「恋」に至っては「恋人」という形でかろうじて1曲に使われているだけです。この解説を執筆した篠田さんというライターさんは、逆に「婚約者が元カノと逢引」などと、かなりどぎつい表現を使ったりして、このアルバムのコンセプトにちょっと背を向けているような感じすら抱いてしまいます。それよりも、こういうアルバムにはよく登場する「カッチーニのアヴェ・マリア」を、正しく「ウラディーミル・ヴァヴィロフ作曲『カッチーニのアヴェ・マリア』」とかっちーり決めつけているのが潔いですね。
しかし、そんなちょっと「いじわる」な解説にめげることはなく、彼女の演奏はまさに「アイドル」のスタンスを貫き通したものでした。おそらく彼女が目指したであろうものは、「誰にでも親しめる音楽」だったのではないでしょうか。音色はあくまで澄み切っていますし、メロディ・ラインはあくまで爽やか、そこには「ルバート」や「アゴーギグ」などといったいやらしい「表現」は微塵も見られません。歌手で言えば、ヘイリーとか、年はとっていますがサラ・ブライトマンと共通する「安らぎ」のようなものに満ち溢れた演奏です。
ところで、東京あたりにお住まいの方はご存じないでしょうが、東北地方のテレビでは「三八五引越センター」というところがとってもシュールなCMを流しています。太ったソプラノ歌手が現れて、朗々としたベルカントで「だいじょ~ぶ~」と歌いだす、というものなのですが、どこが「だいじょうぶ」なのか、なぜ引越しにソプラノなのかがいまいちわかりません。そのソプラノの陰で、こちらも意味不明のヴァイオリンを演奏しているのが、この寺沢嬢なのですよ。このド田舎感満載のCMと、今回のキャピキャピなCDとのギャップには驚かされます。いや、もっと驚くのは、実年齢から20歳は若く見せている、その特殊メークなのかもしれません。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-06-10 22:11 | ヴァイオリン | Comments(0)
Sinkovsky Plays & Sings Vivaldii
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Dmitry Sinkovsky(Vn, CT, Conductor)
La Voce Strumentale
NAÏVE/OP 30559




このレーベルの「ヴィヴァルディ・エディション」にはすでにソリストとして登場していロシアのヴァイオリン奏者ドミトリー・シンコフスキーの、「ファースト・ソロ・アルバム」です。共演は、2011年に彼が創設した「ラ・ヴォーチェ・ストゥルメンターレ」、ここでは、シンコフスキーはアルバムタイトルの通りヴィヴァルディを「演奏」した上に「歌って」もいます。そう、この方は卓越したヴァイオリニストで指揮者であると同時に、「カウンターテナー」として「歌」のジャンルでも活躍しているのですね。彼が「カウンターテナー」を目指したのは、ヴァイオリニストとしてある程度のキャリアを積んだのちの2007年のことですから、こちらのカテゴリーではまだまだ「駆け出し」です。
彼の実年齢は正確には分かりませんが、このジャケットの写真を見る限りは「ハゲのヘンタイおやじ」という感じがしてしまいます。ところが、ブックレットのページをめくると・・・

ロン毛のなかなかのイケメンが現れます。このギャップはなかなかのもの。
そんな「ギャップ」のようなかなりショッキングな演奏を、ここでシンコフスキーは披露してくれています。それは、誰しもが「ついにここまできたか」という感慨を持ってしまうほどのものです。そのベースとなっているのが、通奏低音の編成。ふつうは低音楽器のチェロやコントラバスにチェンバロ、それにオマケでリュートあたりが加わっていれば十分に「変わった」ものと思えますが、ここではチェンバロがなんと2台、そしてリュートだけでなくバロック・ハープまでが参加するというものすごさです。
もちろん、この低音チームは全員でガチに迫れば、とてつもない迫力と、時にはすさまじいまでのビート感までもたらしてくれますが、同時に楽器の組み合わせによって思いもかけないような音色が生まれてくるのが魅力となっています。特にバロック・ハープがここぞというところで「ポロロン」と甘いフレーズを入れるのが、とってもセクシー。
そんな低音に乗って、あまりに有名であるがゆえにちょっと食傷気味の「四季」(なんせ「♪日清麺職人~」ですからね)が、とても新鮮なものに聴こえます。それはおそらく、シンコフスキーがそれぞれの曲の3つの楽章をきっちりとキャラクタライズして、そのプランに沿って思い切りやりたいことをやった結果もたらさらたものなのでしょう。第1楽章は言ってみれば「トッカータ」とか「ファンタジア」といった感じ、様々な楽想が脈絡なく出没して一時も油断が出来ないという、ハチャメチャな世界が繰り広げられます。第2楽章は一転して、しっとりしたアリア、と思いきや、そのメロディには誰も思いつかないような過激な装飾が施されています。ほんと、この装飾のセンスは「バロック」を超えて「アヴァン・ギャルド」ですらあります。そして、第3楽章は、低音を思い切りブーストさせた、ほとんど「メタル」と変わらないほどのエネルギッシュなビートの嵐です。なんたって、ソロ・ヴァイオリンが「シャウト」しているのですからね。
それだけで驚いていてはいけません。「夏」と「秋」の間には、「Cessate, omai cessate, rimembranze crudeli(去れ、むごい思い出よ)」というソロ・カンタータが演奏されています。もちろんアルト・ソロはシンコフスキーです。いやあ、彼の声はヴァイオリニストにしておくにはもったいないほどの素晴らしさですね。ファルセットであることを感じさせないほどパワフルで表情豊かな声には、もう感服です。1曲目のアリアにはヴァイオリンのオブリガートが付いていますが、それも彼が演奏しているのでしょうね。それこそ、クリストファー・クロスが歌いながらソロ・ギターを弾く、みたいな感じです。2曲目のアリアのコロラトゥーラなどは、「本職」顔負け、すごすぎます。もはや、その辺のへなちょこなカウンターテナーには、すごすごと引きさがっていただくしかありません。

CD Artwork © Naïve
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by jurassic_oyaji | 2015-06-02 22:54 | ヴァイオリン | Comments(0)
ROZSA, KORNGOLD/Violin Concertos
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Matthew Trusler(Vn)
篠崎靖男/
Düsserldorfer Symphoniker
ORCHID/ORC100005




2005年にイギリスのヴァイオリニスト、マシュー・トラスラーによって設立されたORCHIDレーベルは、これまでにトラスター自身の録音と、ほかの多くのジャンルのアーティストによるアルバムを50枚ほど世に送っています。品番もとても分かりやすいもので、単純にリリースされた順にナンバリングされているだけです。付き合った女性の数じゃないですよ(それは「ナンパリング」)。
そのレーベルの公式サイトを眺めていたら、その「アーティスト」の中に指揮者の篠崎靖男さんの写真がありました。世界的に活躍されている篠崎さんは、すでにこんなレーベルに参加されていたのですね。早速この2009年に録音され、その年の10月にリリースされたCDを聴いてみました。
ここでヴァイオリン・ソロを演奏しているのはトラスター自身なのですが、彼が往年の名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツに寄せる思いは相当なもので(何でも、ハイフェッツが実際に使っていた弓を持っていて、ここでもそれを使っているのだとか)それをアルバムという形でここでは表明しているのでしょう。というのも、ここで演奏されているミクローシュ・ロージャ、エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトという、いずれもハリウッドの映画音楽の現場で活躍した作曲家によるヴァイオリン協奏曲は、いずれもハイフェッツによって初演され、初録音も行われているからです。これはまさに、これらの曲の「産みの親」であるハイフェッツ対するオマージュなのですね。
同じようにクラシックの作曲家としてスタートして、後にハリウッドの映画音楽の世界で大成功を収めたというロージャとコルンゴルトですが、それぞれの「クラシック」に対するスタンスは微妙に異なっているようです。コルンゴルトの場合は、彼のベースとなっている後期ロマン派的な手法をハリウッドでも貫き通し、それが結果としてそれまでにはなかった重厚な映画音楽に結実したのでしょう。後に「クラシック」の世界に戻って作られたヴァイオリン協奏曲は、それまでに作った映画の中で用いたテーマをそのまま用いていたりします。それは今でこそ相応の評価を得ていますが、初演(1947年)当時の「クラシック」の様式からは、多少「時代遅れ」と感じられたのはやむを得ないことです。
年代的には少しあとになるハンガリー出身のロージャは、おそらく映画音楽とは別のスタイルで「クラシック」に立ち向かっているように見えます。この「ヴァイオリン協奏曲」(正確には「ヴァイオリン協奏曲第2番」)で見られるバルトーク風の斬新な創作の姿勢は、明らかに同時代の「クラシック」としても十分に存在感を主張できるものでした。
トラスターも、そして篠崎さんの指揮するオーケストラも、そのあたりの「違い」を明確にしたうえで、それぞれの魅力を最大限に発揮させています。コルンゴルトのテンポが、ハイフェッツの録音よりもかなりゆったりしているのも、「今」の時点での彼の受容の反映なのでしょう。そして、ロージャの終楽章でのほとんどバルトークの「オケコン」のようなアグレッシブなオーケストレーションからは、篠崎さんはとてもドイツのオケとは思えないような見事なドライブ感を引き出しています。
以前こちらで感じたように、ハイフェッツがピアノとヴァイオリンのために行った小品の編曲は、かなりぶっとんだものでした。このアルバムの余白に3曲収められている小品のうちの「エストレリータ」と「金髪のジェニー」がハイフェッツの編曲にオーケストレーションを施したものです(「ジャマイカ・ルンバ」はウィリアム・プリムローズの編曲)。これらも、やはりかなりヘンタイなアレンジ、そのオーケストラ・パートも、篠崎さんはとても優雅に、そして遊び心すら交えて楽しく演奏しているようです。

CD Artwork © Orchid Music Limited
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by jurassic_oyaji | 2015-05-31 23:12 | ヴァイオリン | Comments(0)
Rondo
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磯絵里子(Vn)
新垣隆(Pf)
SONY/MECO-1027(hybrid SACD)




ヴァイオリンの小曲を集めたアルバム、しかも日本人のアーティストなんて、積極的に(消極的ではなく)聴いたりすることはまずないのですが、ここでピアノを弾いているのがあの新垣隆さんで、さらに新垣さんの「作品」も聴くことが出来るというだけの理由で、買ってしまいました。一応、「あの事件」の時には、彼の音楽そのものに対しては好意的なコメントしかなかったような気がしていたので、それがどの程度のものか、全く先入観なしに聴いてみようと思ったのですよ。SACDですし。
まず、アルバムの音を聴く前に、ブックレットのライナーノーツに面白いことがかかれていることに気づきます。ヴァイオリニストの磯さんが新垣さんのことを語る部分で、彼が2009年頃に三善晃のオペラ「遠い帆」のピアノ・リダクションを行っていたことを紹介しているのです。「遠い帆」といえば、1999年に仙台市からの委嘱で初演されたオペラで、その時の合唱団には市内のアマチュアが参加していました。その時に使った楽譜は、手書きのパート譜だったそうですが、ピアノ伴奏者はスコアをそのまま見ながら音を抜き出して演奏していたのだそうです。2014年に、やはり仙台市がこのオペラを再演しますが、その時にはそんな手書きのコピーではなく、全音からちゃんとしたヴォーカル・スコアが出版されていました。これが、新垣さんの仕事だったのですね。確かに、全音のサイトにはそのようなクレジットがあります。

もうひとつ、その磯さんの文の中でのツッコミどころが、「新垣さんから頂いた曲を意識して、このアルバムの選曲を行った」というものです。ここで演奏されている新垣さんの「新作」は、確かに片方は明るく華やかですが、もう片方はちょっと暗めで内省的という、正反対のキャラクターを持っていますから、それに合わせて、他の「小曲」も、対照的な「対」として選曲したというのですね。ところが、そのあとに林田さんという「音楽評論家」が書いている「楽曲解説」によると、この新垣さんの作品は、「録音当日に出来上がった」のだというのですね。普通に読めば、どちらかの言っていることが間違っているとしか思えない状況ですが、こういうことを追求するのはあまり意味のないことなのでしょう。
その新垣さんの作品、アルバムの冒頭に収録されている「ロンド」は、とてもキャッチーなテーマが繰り返し現れる文字通りの「ロンド」で、何の屈託もない楽しい曲です。というか、いかにも興に任せて書きなぐった、というような、聴いた後には何も残らないものです。もう1曲は、最後に収められた「哀しい鳥」という曲です。こちらは、ちょっと聴くとフランスの印象派の作曲家のテイストを取り込んだもののようですが、おそらくそんなベースで即興的に演奏されたもののような気がします。ただ、その場の空気が伝わってくるような切迫感はとてもよく表現できているのではないでしょうか。それによって心が動かされる、という次元のものではありませんが。
ところが、単なる「名曲集」に過ぎないはずの本編の方で、びっくりするような体験が待っていたのは意外でした。それは、サン・サーンスの「白鳥」。もちろん原曲はチェロと2台のピアノのための作品ですが、ここではそれをヤッシャ・ハイフェッツがヴァイオリンとピアノのために編曲した版が使われています。実は、今の今までこの版を聴いたことが無かったのですが、このピアノ伴奏のパートがオリジナルとは全然違ったぶっ飛んだものだったのですよ。そのあまりの「アヴァン・ギャルド」さに、もしかしたらこれは新垣さんが手を入れたのではないか、と思ってしまったほどです(確認しましたが、ここで演奏されていたのは紛れもないハイフェッツ版でした)。
これが、このアルバムを聴いての最大の収穫だというのが、ちょっと哀しいですね。

SACD Artwork © Sony Music Direct Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-03-11 21:16 | ヴァイオリン | Comments(0)
LECLAIR/The Complete Sonatas for Two Violins
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Greg Ewer, Adam Lamotte(Vn)
DORIAN SONO LUMINUS/DSL-92176(CD, BA)




例えば、某ネット通販サイトの「ブルーレイ・オーディオ」のページには最近は紹介されてはいませんが、このSONO LUMINUSというレーベルの新譜はすべてCDBAが同梱されているという形でリリースされています。いともさりげなく、もうこういうやり方が当たり前、という感じで、ハイレゾのBAが付いてくるというのは、うれしいものです。
今回のルクレールという、なんだかおいしそうな響きの名前(それは「エクレール」)のフランスのバロック期の作曲家の「2つのヴァイオリンのためのソナタ全集」は、CDでは2枚組になりますが、BDでは当然ながらそれが全曲1枚に収まります。そのスペックは24/192という最高位のもの、それがLPCMで2チャンネルステレオ、さらに、同じスペックのDTS HD MA7.05.0のサラウンドと、3種類のモードがすべて含まれているというのですから、なんとも豪華なパッケージです。
ヴァイオリンの演奏技術の向上にも大きな貢献のあったルクレールは、ヴァイオリン2本だけというシンプルな編成によるソナタを、Op.3Op.12という2つの形で、それぞれ6曲ずつ、計12曲残しています。バロックの時代には「低音」の存在が欠かせませんが、メロディ楽器であるヴァイオリンだけで、その「低音」までも演奏しようという試みは、この時代の多くの作曲家が行っていたものです。ここでは、その12曲がすべて演奏されています。

演奏しているのは、2人のアメリカのヴァイオリニスト、「1番」を弾いているのが、カンニング竹山似のグレッグ・イーワー、「2番」がオードリー春日似のアダム・ラモッテです。それぞれ、普段は主にモダン楽器のオーケストラやアンサンブルでの活動を行っていますが、ここではピリオド楽器を使用、もちろんピリオド・ボウ、ピリオド・ピッチ、演奏スタイルも、繰り返しでの自由な装飾などごく当たり前に行っていて、完璧に「バロック」に迫ります。
まずは、BDの音のチェックです。録音会場はスタジオで、そんなに残響がなく、楽器の音がくっきり聴こえてくる環境、そんな中で彼らの音は、「ピリオド楽器」という言葉からくる鄙びたイメージからは程遠い、とても生々しいものでした。ビブラートをかけずに、弓で表情を付けているのが、とてもよく分かります。ところが、同じものをCDで聴くと、まず、音像が変に膨らんで、焦点がぼやけてしまいます。さらに、なんだか安物の楽器で演奏しているような、なんとも貧しい響きが伝わってきます。もしかしたら、これがCDの限界だったのかもしれません。CDで再生する限り、ピリオド楽器の本当の音は聴こえてはこないのでは、という思いにかられます。
ですから、BDのハイレゾで聴く彼らの楽器は、なんと新鮮な魅力にあふれていることでしょう。そんな生命力あふれる音に包まれて、いつの間にか全曲を聴きとおしていました。
たった2つの楽器なのに、ルクレールが施した絶妙な役割分担は、とても豊かなバラエティを見せています。時にはフレーズを互いに受け渡すバトル、時には相方のアリアに合わせての控えめな伴奏、さらには全く独立した声部を主張するフーガと、ありとあらゆるテクが繰り出され、退屈することなど許されません。
その間に、この二人の個性もはっきり聴き取れるようになりました。おそらく、芸人、いや、プレイヤーとしては「竹山」の方がワンランク上、自信をもって音楽をリードしています。「春日」の方はしっかり相手に合わせるという、まさにツッコミ、いや、「2番」タイプ、ですから、Op.12の2曲目の第3楽章メヌエットのトリオで、「春日」がソロのメロディを弾くような場面でも、「竹山」の伴奏の方がキャラが立ちすぎていてかわいそうになってしまいます。この曲全体が、構成もしっかりしていて一番聴きごたえがありました。
もちろん、どの曲でも文句なしに楽しめますよ。

CD & BA Artwork © Sono Luminus LLC
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by jurassic_oyaji | 2014-08-16 20:40 | ヴァイオリン | Comments(0)
ReComposed by Max Richter, Vivaldi/The Four Seasons
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Daniel Hope(Vn)
André de Ridder/
Konzerthaus Kammerorchester Berlin
DG/481 0044




5年ほど前に、クラシック専門のはずのDGレーベルからこんなぶっ飛んだアルバムがリリースされたことがありました。音楽自体はクラシックとは全く無縁のダンス・ミュージックざんす。ただ、その素材としてDGの秘蔵品の、カラヤンとベルリン・フィルのマスターテープが使われていたのでした。偶然通販サイトで輸入盤を見つけて入手したのですが、しばらくしてから国内盤としてもリリースされたようですね。もちろんユニバーサルの「クラシック」部門からの販売です。よくぞ出してくれた、と、日本のユニバーサルのスタッフを褒めてあげたい気持ちになりましたね。
この「ReComposed」シリーズは、これだけではなく他のアイテムも出ていたのでしょうが、「クラシック」として引っかかったのはこれだけでした。そうしたら、たまたま2012年にもこんなものが出ていることが分かりました。通販サイトでは「クラシック」ではなく「ダンス&ソウル」のカテゴリーに入っていましたから、見つからなかったのですね。
こちらは前作よりももっと普通の「クラシック」的な仕上がりです。何しろ、音源はテープなどではなく、グァルネリ・デル・ジェスと室内オーケストラという生楽器なのですからね。初演も普通のコンサートホールで行われていましたし、今年のルツェルン音楽祭でも「演奏」されています。そう、今回「リコンポーズ」の対象となったのはヴィヴァルディの「四季」なのです。編成はオリジナルと同じですが、ちょっとした色付けのためにハープも入っています。
その「再作曲」を行ったのは、1966年生まれのドイツのピアニスト/作曲家のマックス・リヒターです。彼はイギリスで作曲とピアノを学びますが、フィレンツェでルチアーノ・べリオにも師事しているそうです。1989年には前衛的なパフォーマンスを行う「ピアノ・サーカス」という6人のピアニストのグループを結成、ペルト、グラス、ライヒといったミニマリストに多くの作品を委嘱、初演しています。作曲家としても、ジャンルを問わずオールラウンドに活躍しているようで、多くの映画やドラマの音楽も担当しています。どうも「ポスト・クラシカル」という、分かったような分からないようなカテゴライズをされているようですね。
そんなリヒターによって装いも新たに登場した「四季」は、彼自身によれば「75%はオリジナルの素材を用いている」のだそうです。「素材」というのが曲者ですね。最初のうちは「いったいどこが『四季』なんだ?」という、それこそアルヴォ・ペルトみたいな世界が広がります。しかし、良く聴いてみると確かにその中に「春」の断片が隠れているのですね。それが「春0」なのでした。「春1」になると、はっきりとヴァイオリン・ソロのフレーズが顔を出しますが、それはそのまま続くのではなく、やはり「断片」として繰り返されるだけです。「きちんと最後までやってよ!」という気持ちのまま、その楽章は終わります。
しかし「春2」では、やはりペルトっぽい和声に変わってはいますが、オリジナルに近いイントロのあとに、そのまんまのヴァイオリン・ソロが入ってくるので安心していると、それは2小節で終わり、その後には全く別のフレーズがつながっているというサプライズですから、油断はできません。
「秋1」あたりは、そんな原曲通りだと思って聴いているといきなり肩透かしを食らう典型でしょう。最初の3小節はきちんと楽譜通りなのですが、その3小節目の終わりの休符がなくなってそのまま次の小節に飛び込みますから、結果的に4拍子・4拍子・3拍子という変拍子になってしまいます。そのあとは1拍半カットされるので、もっと細かい変拍子、それこそ「春の祭典」みたいな変拍子の嵐です。
ペルトやライヒに馴染んでいる人は思わずニヤリとしてしまうようなヴィヴァルディです。まあ、国内盤で出しても売れないでしょうがね。

CD Artwork © Universal Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-12-13 20:46 | ヴァイオリン | Comments(0)
SMILE
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宮本笑里(Vn)
ソニー・ミュージック/SICC 10050-51(hybrid SACD,DVD)


「ライト・クラシック」と呼ばれるようなカテゴリーの音楽がもてはやされるようになったのは、1990年代初頭あたりからだったでしょうか。いかにも心地よく取っつきやすいそのような音楽は、「クラシック」を敬遠してきた人たちをも次第に取り込んで、コンサートに、CD発売にと大きな流れを形作ってきます。「クライズラー・アンド・カンパニー」のリーダーのヴァイオリニスト葉加瀬太郎などは、ソロとして活躍するようになってからもそんな流れの牽引役として大活躍してきたのはご存じの通りです。
ところが、そのような音楽は、実は「クラシック」とはなんの関わりもないものだということも、次第に明らかになってきます。「ライト・クラシック」を中心に構成されたさるテレビ番組で、その、殆どカリスマと化したヴァイオリニストがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を弾き始めたとき、それを聴いていた全国のお茶の間の人たちは唖然としたことでしょう。その演奏は、指は回らないわ、テンポはキープできないわ、音程は定まらないわで、どうひいき目に見てもアマチュアのものにしか聞こえなかったのですから。
そんな、すっかり「クラシック」というものをなめてかかって、最低限の修練すらも怠っている人でももてはやされるようなフィールドで展開されるべきものだと思われるアルバムが、数多くリリースされている中にあって、この宮本笑里というヴァイオリニストのファースト・アルバムは、ひと味違う魅力をたたえていました。笑里と書いて「えみり」なんて、素敵な名前ですね。この方は苗字でもお分かりの通り、世界的なオーボエ奏者をこのたび「引退」なさった宮本文昭氏の娘さんです。
音を聴けば、これは明らかに「クラシック」とは異なるファン層をターゲットにしたものであることが分かります。いかにも人工的な残響が、とてもふくよかにヴァイオリンを彩り、傷など全くないような甘く、美しい響きに満ちています。言ってみれば、アイドル歌手などの録音にありがちな過剰包装された音です。ところが、そんな甘ったるい音の彼方から、彼女でしかなしえないようなある種の主張が聞こえてきたのには、ちょっとびっくりしてしまいました。それは1曲目、大島ミチルの「Le Premier amour」というオリジナル曲での出来事です。いかにも引っかかりのない滑らかなテイストに満ちるその曲の中のある箇所で、彼女はちょっと音程を崩してまるでジプシー・ヴァイオリンのような雰囲気を出すという「表現」を行っていたのです。これは、こういう曲想の中で行われるとかなりインパクトのあるものです。もちろんそれは確実な主張となって伝わってきます。さらに、注意深く聴いていると、彼女はテンポもほんの少し揺らして、単調なメロディに陰影を加えてさえいるように感じられます。
カッチーニの「アヴェ・マリア」では、親子による共演が行われています。最初に出てくるのはお父さんのオーボエ、それはいつもの彼らしく、とことん熱いものを秘めた濃厚な演奏でした。それに続いて、2コーラス目には娘さんのヴァイオリンが聞こえてくるのですが、それが父親に負けないほどの情熱的なものであると同時に、父親よりもさらに洗練されたものであったのです。まるで、「お父さん、私みたいにちょっと力を抜いてみたらどうなの?」と、心温まる親子の会話を交わしているかのように、そのデュエットは聞こえてきました。
このパッケージは、CDの他にDVDも入っています。その映像から分かるのは、彼女の音楽に対する真摯な姿勢です。伏し目がちなその表情は、曲の内面だけを見つめているもの、聴衆に媚びるような目線や、口を半開きにして笑みをたたえるといった、「ライト・クラシック」のアーティストにありがちな見苦しい姿は、そこには微塵も存在してはいませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2007-09-16 23:56 | ヴァイオリン | Comments(0)
BACH/Partita for Unaccompanied Ukulele





John King(Ukulele)
NALU/011998



「ウクレレ」と言えば、「ハワイアン」ですよね。いかにも南国のリゾートっぽいそのダルなカッティングは、「フラダンス」とか「腰ミノ」といった、およそシリアスさからはほど遠い無責任なたたずまいを醸し出すものです。最近聴いた、リコーダーとウクレレのアンサンブルによる「(やる気のない)ダース・ベイダーのテーマ」なども、その「無責任さ」を最初から狙ったものでした。あの勇壮なマーチがいともノーテンキな脱力系で演奏されるとき、私たちはそこにウクレレの持つユーモラスな力を感じずにはいられません。もちろん、「タフア・フアイ」という名曲に乗せて漫談を演じた牧伸二のアイディアは、この楽器のそんなキャラクターを存分に生かしたものであったことは、言うまでもありません。
そんな楽器でバッハを演奏したものがあるということを、2、3のブログで知って、入手したのがこのCDです。タイトルが「無伴奏ウクレレパルティータ」、ブーゲンビレアをバックにしたこのジャケットからは、やはり常夏の島のイメージしか湧いてきません。いったいどんなのどかなバッハが聞こえてくることでしょう。
しかし、1曲目の無伴奏チェロ組曲第1番の「プレリュード」が、まるでハープのような優雅な音で聞こえてきたときには、耳を疑ってしまいました。これが本当に、あのウクレレから出てきた音なのでしょうか。一つ一つの弦の音は、とても澄みきってふくよかです。しかも、それぞれの音に深く豊かな響きが伴っています。音程も、あんな小さな楽器の小さなフレットを扱っているとは思えないほど、正確なものです。ヘタをしたら、本物のチェロを少しいい加減に弾いている演奏などよりは、よほどいい音程かも知れません。そして、そのテクニックの見事なこと。こんな曲を弾くにはかなりの制約があるはずなのに、そんなことは全く感じさせない、まさにヴィルトゥオーゾの音楽が、そこには軽やかに流れていたのです。
ライナーを読んでみると、「ハープのような音」がしている訳が分かりました。なんでも、ここでは「カンパネラ・スタイル」というものが使われているというのです。これは、メロディを弾くときに、隣り合った音を常に別の弦で弾くという奏法、そうすることによって、フレットだけを移動するときのように前の音の響きがなくなってしまうことはなく、双方の音に豊かな響きが残るという、まさにハープのような音が可能になってくるのです。

そうなってくると、例えばトラック6に入っている無伴奏チェロ組曲第4番のブーレのように、最初のテーマで音が5つつながっている場合(楽譜参照)、弦が4本しかないウクレレではこの奏法を使おうとしてもちょっと難しくなってしまうのではないでしょうか。しかし、ご覧下さい。ネットで探したこの演奏家、ジョン・キングの写真を見てみると、彼はなんと「5弦」の楽器を使っていますね。この写真の背景を飾っているのはここで演奏されている「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番」の自筆稿ですから、このアルバムの曲がこの楽器で演奏されたことは明白です。これで、疑問は解けました。しかし、そもそも最初からこの写真をジャケットに使っていれば、あれこれ思いを巡らさずとも、これほどきちんとバッハを演奏しているのはすぐ分かったことでしょうに。
その「パルティータ」も、素晴らしい演奏です。そもそもこの曲はリュートのために編曲されたバージョン(BWV1006a)があるぐらいですから、ウクレレにも良く馴染みます。後にカンタータ29番の冒頭の華々しいシンフォニアにオルガンによって演奏されることになるプレリュードの細かいパッセージも難なく弾きこなすキングのテクニックには、いささかのほころびもありませんし、有名なガヴォットあたりでは、ウクレレのキャラクターが他のどの楽器よりも見事にマッチしているのではないでしょうか。
この曲は、ウクレレで弾きやすいようにでしょうか、ホ長調のものがニ長調に移調されています。そういえば、ト長調のチェロ組曲第1番もニ長調でしたね。そして、「平均律クラヴィーア曲集」の第1番、ハ長調のプレリュードも、同じくニ長調になっています。ところが、そのキーだと音域的に無理があるのか「ドミソドミ(ここではレファ♯ラレファ♯)」とまっすぐ上へ昇るべき音型が、「ソ」からオクターブ下に折れ曲がってしまっています。ここあたりが、唯一ウクレレの弱点が出てしまったところでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-18 07:48 | ヴァイオリン | Comments(0)