おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:ヴァイオリン( 14 )
PAGANINI, SPOHR/Violin Concertos

Hilary Hahn(Vn)
大植英次/
Swedish Radio Orchestra
DG/00289 477 6232
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1333(国内盤 1025日発売予定)


ジャケットのハーン、いつもながらおっかない顔をして写っていますが、でも、何だかずいぶん「丸み」のようなものが出てきたような感じがしませんか?
このアルバムでは、これだけではなく、彼女の写真があちこちに載っていますが例えばブックレットの裏表紙のものは髪を下ろして、ちょっとサンドラ・ブロックのように見えないこともありません(これって、褒めてることにならない?)。そして、インレイには横顔のアングルでちょっと寂しげな表情のものがあるのですが、それが「音楽を忘れるなーっ!」の「あおいちゃん」そっくり。「純情ひらり」ですね。
そんな、ちょっとソフトなイメージが感じられるようになった彼女が、パガニーニです。ちょっと前までは、こんな、ロマンティシズム満載の、言ってみれば「陳腐」な曲を彼女が手がけること自体、あり得ないと思えたものですが、いえいえ、ここではその外見同様、なにか包容力さえ感じられる素晴らしい演奏を聴かせてくれていますよ。
なにしろ、超絶技巧満載の曲ですから、思い切り速いテンポでバリバリ弾きまくるのだろうという予想を見事に裏切って、彼女は実にしっとりとしたテンポで弾き始めましたよ。これだと、パガニーニが書いたどんな難しいパッセージでも、その中にはことごとく美しい「歌」が潜んでいることが判ります。その様な、ある意味クレバーさをこの曲に与えたのは、指揮者の大植英次の手腕も大きく貢献しているはずです。ハーンの意図を完璧に汲みとったそのサポートぶりには敬服させられます。実はこの1番の協奏曲、最初から最後まで(ゆっくりした第2楽章ですら)シンバルと大太鼓という、一歩間違えると何ともノーテンキなたたずまいを醸し出しかねない打楽器が、盛大に盛り上げています。それで、もちろん、まるで運動会の行進曲のような楽しい演奏になっているものも数多く聴いてきたものなのですが、彼女たちの演奏にはそんな浮ついた雰囲気は全く感じられませんでした。お祭り騒ぎではない、単にビートをキープするというクールさが、その打楽器の扱いにはあったのです。
第2楽章あたりでは、ハーンは意識的に過剰な歌い方を避けているかのように見えます。ことさらベタベタ手を加えなくても、音楽自体の持つ甘さをそのまま味わってもらおうという姿勢でしょうか。そして、それを演出したのも大植です。この楽章の導入での臭すぎるほどの表情付けが、それに続くハーンの冷静なソロを見事に際立たせています。
第3楽章の軽やかなロンドのテーマ、それを彼女は、タイトなリズム帯に乗って小粋に歌い上げてくれます。それと共に、時たま顔を出すフラジオレットによるフレーズのなんとチャーミングなことでしょう。
カップリングのシュポアの協奏曲第8番は、「協奏曲」というほどの重さはない連続した3つの部分から成る曲です。ブリリアントな趣味の「コンチェルティーノ」といった感じでしょうか。第1楽章はほとんど「序奏」という程度のものですが、ここでもパガニーニ同様いかにも大時代的な大げさな身振りは見られない、ソロがオーケストラの間を軽やかに泳ぎ回るといったさりげなさが素敵です。そして、味わい深いのが、第2楽章。大植の絶妙のドライブで、つかず離れずの距離を保ったオーケストラの上を、ハーンのヴァイオリンはあくまで淡々と流れていきます。素晴らしいのは、まるでささやくようなピアニシモ。あたかも耳たぶにそっと息を吹きかけられたような、そのセクシーさはたまりません。この楽章の中間部で、突然いかにもロマン派っぽい一陣の風が吹きすさぶような場面が現れます。ここでの、うってかわって毅然としたハーンの姿も、また魅力的なのは、言うまでもありません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-09-27 19:43 | ヴァイオリン | Comments(0)
MOZART/3 Violin Concertos




Andrew Manze/
The English Concert
HARMONIA MUNDI/HMU 907385



今年の「モーツァルト・イヤー」にちなんで、テレビではさまざまな番組が放送されていますが、そんな中にこの前の「モーツァルト・イヤー」、つまり、1991年の没後200年の時に放送されていた交響曲全曲演奏会の一部がありました。トン・コープマン率いるアムステルダム・バロック・オーケストラが当時東京で行ったそういう演奏会を収録したものです。すでにその頃ではこのようなオリジナル楽器による演奏は、ごく一般的なものとして人々に知られるようになってきており、それがテレビで紹介されるのも珍しいことではなくなっていましたが、これを見た時には、少なからぬショックを受けたものでした。それは、指揮者コープマンの天衣無縫とも言える指揮ぶりとともに、オーケストラのメンバーが普通のクラシックのコンサートではあり得ないほどのリラックスした演奏ぶりを繰り広げていたことからもたらされるものだったのです。特に、弦楽器のセクションはお互いに顔を見合わせて微笑みあったりして、その親密度を見せつけていたものでした。ですから、そこから聞こえてくるモーツァルトの音楽は、とことん生気に満ちた躍動感溢れるものだったのです。
その、10年以上前の映像を見直して驚いたのは、そんなメンバーの中心にいて一際目立った動きをしていたコンサートマスターが、今をときめくアンドルー・マンゼだったことです。当時からちょっと惹き付けられるものを持っていたこのヴァイオリン奏者、これが現在の大活躍につながっていたのですね。
ところで、さっきの「モーツァルト・イヤー」、今までこんなものには縁がなかったような人のコメントがテレビを賑わせていますが、そういう場合決まって「モーツァルトは『癒し』の音楽ですね」とか「流れるような音楽に、心が洗われるような気がします」という常套句が聞かれるようになっています。もちろん、マンゼの前回のヴァイオリン・ソナタ集を聴いた人であれば、彼が作り出すモーツァルトがそんな肌触りの良いものではないことは十分予想が付くはずです。そして、まさにその予想通り、この協奏曲でも、マンゼは刺激たっぷり、とても『癒し』などと言ってはいられないようなモーツァルトを聴かせてくれていました。
「3番」の冒頭で、彼のたくらみは明らかになります。最初のフレーズにリタルダンドが掛かっていったかと思うと、ついには完全に終止してしまい、そこから新たに次のフレーズが始まる、といったショッキングな表現がそこにはあったのです。アルバムの最初の、これはいわば「ツカミ」、私達がマンゼ・ワールドに浸るためのいわば通行手形のようなものなのでしょう。ここで彼の術中に陥ったが最後、途中でスピーカーの前から離れることなどできっこありません。「5番」の最後、例の「トルコ風」のらんちき騒ぎ(これはすごいですよ。オリジナル楽器のバルトーク・ピチカート)が終わるまで、この3曲の有名な、ということは、「名演奏」の手垢だらけの陳腐な協奏曲が、まさに自由な翼を持って羽ばたいているさまを味わうことが出来るはずですよ。もちろん、それが「流れるような」ものでないことは保証します。それどころか、川の流れの中に、それに逆らう岩場があることによって初めて見えてくる波しぶきのような「流れ」の「形」を、この演奏からは見つけ出すことは出来ないでしょうか。
ちなみに、彼は最新のブライトコップフ版の楽譜に自らのカデンツァを提供していますが、この録音ではそれを使わないで新しいものを用いています。彼自身のライナーノーツによれば、本来即興演奏であるべきカデンツァは、印刷譜となった途端「ピンで留められた、死んだ蝶々」になってしまう、というのです。それは、「かつて羽ばたいていた」もの、その場で作った新しいカデンツァでなければ、今羽ばたいている生きた蝶々にはなりえない、というのが彼の蝶々、いや主張です。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-02-11 07:13 | ヴァイオリン | Comments(0)
MOZART/Violin Sonatas, 1781




Andrew Manze(Vn)
Richard Egarr(Fp)
HARMONIA MUNDI/HMU 907380



快調にアルバムをリリース、獲得した賞も数知れずという、オリジナル楽器界のスーパースター、マンゼによる、モーツァルトのソナタ集です。このジャケット、もちろんモーツァルトのシルエット(影絵・人の名前なんですってね@トリビア)があしらわれた素敵なデザインですが、そのデジパックを開いてみると、その中からは、なんと演奏者のマンゼとエガーの、ちょっと怪しげなポーズのやはりシルエットが現れたのには笑ってしまいました。もしやこの2人は・・・。

それはともかく、「1781年のヴァイオリン・ソナタ」というタイトルのこのアルバムには、モーツァルトとは犬猿の仲だったザルツブルクの大司教ヒエロニムス・コロレードと決別して、晴れてウィーンでの自由な作曲家生活を始めたという記念すべき年の作品が中心に収められています。「作曲家」とは言ったものの、今も昔も作曲だけで食べていけるほど世の中は甘くはありません。ザルツブルクの宮廷音楽家という「定職」を棒に振って、いわば「フリー」というか、殆ど「フリーター」に近い身分になってしまったのですから、まずは糊口をしのぐための収入源を見つけなければなりません。そうしなければ、フルコースはおろか、定食すらも食べられなくなってしまいます。それは、やはり今も昔も変わらない「レスナー」への道です。そんなお得意様の1人が、ヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマーというお金持ちの娘、この人はなかなか才能のあるピアニストだったらしく、しばしばモーツァルトと2人で「2台のピアノのための協奏曲」や、「2台のピアノのためのソナタ」を公開の場で演奏しています。ただ、彼女は体重と身長のバランスが著しく悪く(つまり、○ブ)、容姿に人から好ましいと思われる要素が著しく少なかった(つまり、○ス)ために、モーツァルトとは「先生と生徒」以上の関係にはならなかったという事です(彼女の方は、モーツァルトに「本気で惚れこんじゃって」いたそうですが)。そんな彼女に献呈され、世に「アウエルンハンマー・ソナタ集」と呼ばれている6曲のうち、このアルバムにはK.376K.377K.380の3曲のヴァイオリンソナタが収められています(ちなみに、ここで表記されているケッヘル番号は、年代的にはなんの意味も持たない「第1版」のものです。マンゼほどの人が、あえて「第6版」を使わなかったのは、そろそろ「新ケッヘル」が出るために、「第6版」すら意味が無くなって、「第3版」であるアインシュタイン番号と同じ道をたどるという事なのでしょうか)。
そんな、上流階級のサロンの雰囲気を色濃く持つ曲から、バロック・ヴァイオリンのマンゼとフォルテピアノのエガーは、まるでベートーヴェンあたりが備えていてもおかしくないような緊張感溢れる世界を見せてくれています。マンゼの途方もない表現力の幅は、恐怖心にもつながろうかという荒々しいものから、まるですすり泣くような繊細なものまで、殆ど予測不能に近いものがあります。それを支える20年来のパートナー、エガーとの絶妙のアンサンブル、「これは一つの楽器ではないか」と思えた場面が幾度有ったことでしょう。
K.377の第2楽章の変奏曲が、まさに絶品です。短調によって語られるメッセージの濃いこと。長調に変わるところの絶妙な味も、たまりません。そして、10年後に「魔笛」のパパゲーノのアリアとして生まれ変わる事になる(これって、「ガセビア」?)K.376の第3楽章ロンドでは、ピアノフォルテによるそのロンド主題に「モデラート」レジスターによって音色が変えられている部分があります。モーツァルトの時代にはちょっと「反則」っぽいこの処置、彼らの手にかかればなんでも許せる気になるのは、不思議なものです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-09-12 21:25 | ヴァイオリン | Comments(0)
DUTILLEUX/Sur le même accord


Anne-Sophie Mutter(Vn)
Kurt Masur/
Orchestre National de France
DG/477 5376
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1232(国内盤)


最近のレコード業界は、いろいろ難しい局面を迎えているようですね。特にクラシックのように、基本的に「新曲」というものはあまり期待できない深刻な状況の中では、いかにして過去の作品の「カバー」を売っていくかが勝負になる訳ですから、よっぽどの付加価値がないことには、消費者は振り向いてはくれません。その反面、このムターのように、セールスがきっちり読めて、新しい録音があればただちにリリースへの道が開けているような限られたアーティストの場合は、もしそれが「新曲」だったりすれば、レコード会社はなんとしてでもアルバムを出そうとするはずです。
ここでムターが世界初録音を行ったのは、今年89歳になるフランスの重鎮アンリ・デュティユーが、ムターのために作った「同じ和音の上に」という曲です。副題として「ヴァイオリンと管弦楽のためのノクターン」とあるように、これは「協奏曲」のような大規模な作品ではありません。演奏時間が9分という、ほんの小品な訳ですから、シングル盤を出せるポップスならいざ知らず、クラシック業界ではこれだけで1枚のアルバムなど作れるはずもありません。そこで考えたのが、過去にリリースされた曲とのカップリングです。91年に小澤と入れたバルトークの2番、そして88年にパウル・ザッハーのサポートで録音されたストラヴィンスキーの、それぞれの協奏曲が、ここでは選ばれました。もちろん、そのような「使い回し」を正当化させるために、ライナーノーツでもっともらしい理屈をこねくり回すのには、抜かりはありません。ポール・グリフィスという高名な音楽評論家は、「曲が出来るにあたっての作曲家とヴァイオリニストの間の対話」というテーマで、バルトークにおけるセーケイ、そしてストラヴィンスキーにおけるドゥシュキンの役割をこのデュティユーの新作におけるムターのそれとを並列で論じるという手法で、2500円以上のお金がたかが9分の曲のために費やされなければならない理由を、だれでも納得出来るように説明してくれているのです。
全部でおそらく4つか5つの部分からなるこのノクターンは、ソロヴァイオリンのピチカートによる6つの音列の提示から始まります。それは執拗にティンパニなどで繰り返され、この音列が曲全体を支配しているテーマであることが印象づけられます。最初のうちは全体を覆っているいかにも上品なヴァイオリンとオーケストラのテクスチャーは、やがて、タランテラのようなリズミカルな部分によって消え去ります。このあたりの対比の妙は、この作曲家の持ち味でしょう。そして、そのあとに訪れる、ソフトなテイストに彩られた部分での、ムターのヴァイオリンの、なんて柔らかで暖かいことでしょう。この、まるで真綿にくるまれたようなフワフワした高音は、ちょっと今までの彼女の演奏からは聴くことが出来なかったもの、ここには、ヴァイオリニストとして、そして、女性として円熟を迎えていることの、確かな証を感じないわけにはいきません。
曲が終わると、この名演をたたえる盛大な拍手が聞こえます。そう、これはラジオ・フランスによる放送用のライブ録音(もちろん、編集もされてはいません)、もはやDGほどのレーベルでも、その制作には一切関わっていない音源に使い古しのアイテムを「抱き合わせ」て、レギュラー・プライスで販売するというような阿漕なことに手を染めなければならないほど、この業界は病んでいるのでしょうか。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-04-13 19:41 | ヴァイオリン | Comments(0)