おやぢの部屋2
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カテゴリ:映画( 25 )
KARAJAN/Maestro for the Screen
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Georg Wübbolt(Dir)
ARTHAUS/101 459



カラヤンの記念年はまだまだ続きますねん。そんな中で、まさに今年2008年に制作されたドキュメンタリーなどというものが、即座にDVDでリリースされました。カラヤンの映像好きは多くの人に知られていますが、このフィルムはカラヤンと映像作品との関わりに焦点を当てて、その変遷を追ったものです。彼が残した映像はそれこそ腐るほどありますが、それらを惜しげもなく流すとともに、その時々に制作に関与していた人や、実際に演奏をしていた人たちへのインタビューを集約することで、立体的にその「裏側」が見えてくるという、極めて興味のある仕上がりとなっています。制作は、ベルリン・ドイツ・オペラのガラコンサートなどのDVDでのディレクターとして知られる、ゲオルク・ヴュボルトという、カタカナに直すのが極めて難しい名前の方です。
そもそも、「最初は、カラヤンは映像に対しては懐疑的だった」という証言が、今となっては驚くべきものです。しかし、そんなカラヤンが映像の力を信じるようになったきっかけというのが、日本でのテレビ放送だったというのですから、面白いものです。その、1957年の旧NHKホールでの日本語のテロップの入った映像が、まず注目されます。おそらく、当時生中継されていたのでしょう、その番組のリアクションを、ベルリン・フィルの団員たちとともに体験したカラヤンは、映像という媒体の影響力の大きさを、まさにその時に認識することになったのです。
その後、彼の映像を制作することになる2人の映画監督については、かなりの時間を割いて紹介されています。まず、フランスの巨匠アンリ・クルーゾーは、カラヤンが制作上のノウハウを獲得する人物として登場します。偉大な監督から謙虚に教えを請う、初期のカラヤンの姿が印象的です。対照的に、まるで実写版「ファンタジア」とも言うべきベートーヴェンの「田園」の前衛的な映像を作り上げたフーゴー・ニーベリングは、カラヤンの逆鱗に触れてしまった監督として描かれています。そして、このフィルムの最大の山場、「エロイカ」交響曲でニーベリングが最初に作った映像と、それをカラヤンが編集したものとが並べて映し出される、というシーンの登場です。あくまで音楽の視覚化を目指したニーベリング版と、自分自身の指揮姿だけを執拗に追い続けるカラヤン版、カラヤンが映像に求めたものを、これほど端的に物語っているシーンが、他にあるでしょうか。
実は、朝比奈隆とカラヤンとは同じ年だったことを、先日の「N響アワー」で知らされました。その時に流れたN響の映像では、殆ど全てのカットに朝比奈氏が登場していました。それはまさに必然として指揮者の姿が入っているもの、自分の姿を入れるために映像を作ったカラヤンとは良く似た結果になっていたとしても、その精神には雲泥の差があることを思い知ったのです。
ハンフリー・バートンやギュンター・ブレーストといった、今まで名前は知られていても、基本的に裏方に徹していた「大物」のレアな映像が、見物です。そんな有名無名の人々のコメントからは、カラヤンがビジネスとしてオーケストラ(や自分自身)に大きな利益をもたらしたことは明らかになっても、その映像の芸術的な価値について述べられることは、ついにありませんでした。彼が生涯をかけて成し遂げたのは、「カリスマ」としての自分の姿を「スクリーン」に記録したことのみだったのです。それは、おそらく100年後にはなんの価値もなくなっているのでは、というのが、ヴュボルトの視点だったのではないでしょうか。
このようなDVDの常で、これはもともとは放送用に制作されたものです。そして、ほんの数ヶ月前に、実はそのテレビ番組自体が日本でも放送されていました。それと比較してみると、このDVDは「商品」としての最低限のクオリティすら確保されていないことが分かってしまいます。最悪なのは日本語字幕。もちろん放送されたものとは別物で、誤訳だらけの上に、日本語としての体をなしていないひどいものでした。大賀典雄氏のコメントなどは日本語で語られている上にドイツ語のナレーションが重なり、さらにそれを日本語に訳した字幕が入るのですから、なんともシュールな世界です。さらに、放送ではソニーの盛田社長の家の表札には、きちんとモザイクがかかっていましたが、DVDではそんな「個人情報」には全く無頓着です。こんないい加減なものを決して安くはない価格で販売しようとする業者の感覚は、確実に一般の消費者には相容れないものとなっています。困ったものです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-23 20:22 | 映画 | Comments(0)
The Reichsorchester
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Enrique Sánches Lansch(Dir)
ARTHAUS/101 453(DVD)



「ベルリン・フィルと子どもたちRhythm is it!」というドキュメンタリー映画を作ったエンリケ・サンチェス・ランチ監督による、同じベルリン・フィルを扱った記録映画です。あちらはラトルの指揮による最近の演奏が収録されたものですが、こちらの方は「第三帝国」、つまりヒットラーによって支配されていた時代のベルリン・フィルの演奏が中心になっとらー。その頃ですと、なんと言ってもメインはフルトヴェングラー、そしてクナッパーツブッシュやチェリビダッケの貴重な映像を見ることが出来ます。
しかし、あいにくなことに、これは演奏を楽しむためのDVDでは決してないことは、強調しておかなければなりません。要するに、このフィルムは、そんなナチスの時代にベルリン・フィルというオーケストラはどういう状況に置かれていたのかということを、その時にそのオーケストラの団員だった人や、団員の遺族などのインタビューによって明らかにする、というものなのです。そして、その間に「貴重な」当時の映像が挿入されるだけ、もちろん、それらの映像はきちんと全曲をまとめて聴けるようなものではなく、場合によってはインタビューの都合に合わせて全く無関係なものが使われていることもありますから、あくまで添え物としてとらえるべきものです。
ここから浮き出てくるオーケストラの姿は、なんとも言い難いものでした。つい先日のニューヨーク・フィルの「オーケストラ外交」ではありませんが、ヒットラーは徹底的にこのオーケストラを政治目的に使い切っていたことが良く分かります。もちろん、そのためにはレパートリーからはユダヤ人の作曲家の作品は排除され、ユダヤ人の団員がオーケストラにとどまることも許されないのは当然のことでしょう。そのような「ナチ化」されたオーケストラは、そこで信じられないほどの優遇措置を与えられることになりました。唯一このオーケストラだけが団員の兵役を免除され、戦時中でもしっかりコンサートの場を提供されていました。もちろん、外国への演奏旅行も敢行されます。それらは全て、ドイツ帝国(Deutsches Reich)のオーケストラが奏でるドイツ帝国の音楽の素晴らしさもって、ドイツ帝国そのものの偉大さを世界に知らしめるという、明確なプロパガンダに他なりませんでした。
歴史的に動かしがたいそのような事実に対して、元団員たちのあまりにあっけらかんとしたコメントは感動的ですらあります。「私たちは、あくまで良い音楽を演奏したかっただけだ」、「ベルリン・フィルがナチのオーケストラであったことは一度もない」など、全く罪のないコメントが延々と続きます。その合間に流れるのは、ゲッペルスの扇情的な演説に導かれて、ハーケンクロイツが立ち並ぶ会場で演奏している団員たちと、陶酔した面持ちでそれに聴き入っている聴衆たちの姿です。これを見てコンサートだなどと思う人がいるでしょうか。それはまさにひとつの思想を大衆に植えつけようとしている洗脳集会に他なりません。
そんな、あまりにも世間知らずな音楽バカを描いた退屈な映画が、終わり近くでどんでん返しを迎えます。それは、この中で最も長い時間インタビューが紹介されていた元コンサートマスター、ハンス・バスティアーン(インタビュー当時は93歳)の言葉です。「敗戦間近、傷病兵たちの前で行った演奏会で突然『私たちは、今まで何をやってきたのだろう』という恥ずかしさがこみ上げてきました」。
見事という他はありません。この瞬間にこの映画は人間の良心を見事に描ききっていました。その言葉に呼応するかのように、最後で流れるベートーヴェンの第5交響曲は、第3楽章のクライマックスでピタリと止むのです。それに続く勝利のファンファーレは、決して鳴ることはありませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-28 19:56 | 映画 | Comments(0)
POOK/The Merchant of Venice
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Andreas Scholl(CT)
Hayley Westenra(Sop)
DECCA/475 6367
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCL-1099(国内盤)


最近のテレビドラマを見ていると、音楽がうるさすぎるように感じられることはありませんか?例えば、日本最大のテレビ局が半年間放送している連続ドラマの最新のシーズンでの音楽などは、その最もわかりやすい例かもしれません。その日のドラマの最後3分というときに始まる音楽の、なんと主張に富んでいることでしょう。そこで演技している役者さんの台詞などよりも、そこの音楽の方がよっぽど目立って聞こえてきて、物語のすべてを語っているような気になってしまうと思えたりはしないでしょうか。確かに、映画やドラマにとって、音楽は言葉では表現できないような雰囲気を伝える重要なファクターではあります。しかし、オペラやミュージカルではないのですから、音楽そのものが出しゃばってくるのは見苦しい(聞き苦しい)ものです。このドラマを見る人なら誰でも、そんな勘違いによって作られている音楽がいかに醜いものであるかに気づくことが出来るはずです。
もちろん、本当に優れた映画やドラマの音楽であれば、決して「うるさい」とか「邪魔だ」などと感じることはありません。最近テレビで見たアル・パチーノ主演の「ヴェニスの商人」が、まさにそんな理想的な音楽を聴かせてくれるものでした。あまりに素晴らしかったものですから、こうしてサントラ盤まで買ってしまったというわけです。
この映画で音楽を担当したのは、ジョスリン・プークという、イギリスの女性の作曲家です。ギルドホール音楽院でヴィオラを学んだ後、プレーヤーとして坂本龍一やピーター・ガブリエルなどとも共演したというユニークな経歴の持ち主、キューブリックの最後の作品「アイズ・ワイド・シャット」のスコアも書いています。その映画では、キューブリックの得意技、テンプ・トラックがそのまま使われたリゲティの「ムジカ・リチェルカータ」やショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」の印象があまりに強かったため、彼女の音楽は全く記憶にありません。しかし、この「ヴェニスの商人」では、物語と同時代の音楽のテイストをふんだんに盛り込むことにより、その格調高い映像にさらなる輝きを与えることに成功しています。
ここで彼女が目指したのは、ルネサンスや初期バロックあたりの雰囲気を端的に感じられるような音楽を作ることでした。楽器もそのころの、いわゆる「古楽器」が使われています。素朴な音色のハープやリュートなどが、曲のバックグラウンドであの時代の優雅な音楽のエッセンスを語る一方で、トルコの「カヌム」というツィンバロンのような音を出す民族楽器(前回の「サルバンド」でも使っていましたね)をフィーチャーすることによって、ちょっとオリエンタルなテイストまで醸し出させています。そして、それらを現代の芳醇なストリングスが包み込むことによって、時代も、そして地域も越えた上で、「ヴェニスの商人」の世界に最もふさわしい音楽を作り出したのです。
楽器だけではなく、ヴォーカルにもそのような配慮がなされています。後半になってたびたび聞こえてくるのがアンドレアス・ショルのカウンターテナー。この中性的な声はまさにこの世界にうってつけです。多重録音で途中から2声、最後には3声でハモらせるという処理も見事です。もう一曲、オープニングのタイトル・ロールで「リベラ」がレスポンソリウムのようなものを歌っている教会のシーンもありました。そこで合いの手を歌っているのが、プークの共同プロデューサーであるハーヴェイ・ブロク、彼は昔は聖歌隊員だったのだそうです。エンド・ロールだけですが、あのヘイリーも、その無垢な声を披露してくれます。その中でプーク自身がヴィオラのオブリガートを弾いているのもさりげないお楽しみです。
というような細かいことは、このサントラ盤をじっくり聴いて知ったこと、映画では音楽は控えめに流れているだけで、見事に画面とマッチしていました。これが「どんど晴れ」(あっ、実名を出してしまった!)との最大の違いです。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-08 20:49 | 映画 | Comments(0)
In Search of Mozart









Phil Grabsky(Dir)
SEVENTH ART/SEV 103(DVD)



モーツァルトの生涯についてのドキュメンタリーなどというものは、もちろんこの大騒ぎの日々ですから、それこそ「売るほど」世の中には蔓延していることでしょう。そんな「売り物」のDVDの一つを、さる知り合いの口車に乗せられて買ってしまったと思って下さい。ワクワクしながら見始めたそのDVDのあまりのつまらなさに、思わず口について出た「この無意味だった2時間を返してくれ!」という叫びは、一体どこへ向ければよいのでしょうか。
「番組」(だったんでしょうね、もともとは。あるいはテレビ映画?)の構成は、いたってシンプルです。モーツァルトが生まれてから亡くなるまでを、時系列を追って折々の手紙なども交えて紹介していく、というものです。良くあるドラマ仕立てのようなクサいものではなく、それはいかにも誠実味にあふれた手法のように見えます。「直球勝負」というやつでしょうか。しかし、しばらくこれに付き合っていると、何とも退屈な思いに駆られて、こらえようのない睡魔が襲ってくるのです。言ってみれば、何年も同じノートを繰り返して読み続けているだけという、大学の老教授の講義のようなもの、講義の内容は確かに学ぶべきものが沢山あるはずなのに、それを教える人がその事に対してなんの熱意も持っていない場合に起こる、不幸なコミュニケーションとまさに同じものが、このドキュメンタリーの制作者とそれを見る人との間に横たわっていたのです。
バラエティ番組ではないのですから、無理に盛り上げる必要はさらさら無いのですが、素材はあのモーツァルトですよ。こんな型通りの扱いを受けたのでは、さぞかし草葉の陰で悔しがっていることでしょう。そういえば、彼の息子は草場という名前でしたね(それは「クサヴァ」)。
一番いけないのは、高名なピアニストがモーツァルトの曲の一節を弾いてみて、「この和音やリズムは、モーツァルトにしかできないものでした」とか、「この部分はまるで恋人同士が語っているように、私には思えます」などという、愚にも付かない感傷的な主観の押しつけです。そんな番組を作った人が、「『アマデウス』には、多くの間違いがある」などと音楽学者に言わせているのですから、笑えます。このピアニストたちの勘違いのコメントは、「アマデウス」の罪もない無知よりもはるかにたちの悪いものであることを、この制作者は気づかなかったのでしょうか。
もちろん、そんな陳腐なコメントの間には、モーツァルトの名曲が実際に演奏されているクリップが挿入されるのは、この手の番組の常套手段でしょう。どんなに話が退屈でも、美しい音楽が流れてさえいれば、それだけで楽しむことが出来るはずですから。ところが、この音楽の部分がとても雑な扱いを受けているのですから、とても楽しむことなどは出来なくなってしまいます。曲のタイトルはとりあえず表記されるのですが、それを演奏している人の紹介が全くありません。これは、最後までこのDVDを見れば、そういう細かいことは「こちらのサイトで見てくれ」という案内があるので、あえて画面には出さなかった理由は分かるのですが、それは単に煩雑なことを避けただけの自分勝手なやり方としか思えては来ません。彼(ら)は本気で、いちいちインターネットにアクセスしながら、DVDを見るような人がいるとでも思っているのでしょうか。このような措置からは、演奏している人に対する制作者の敬意が全く感じられません。例えばオペラなど、今まで単独で見たことのあるクリップも使われているのですが、オリジナルに比べるとその画質と音質はとてもひどいものです。なぜこれほど劣悪なものを平気で使えるのか、それも、こういう制作姿勢を見ていると完璧に納得できてしまいます。
こんな番組の中にあると、ノリントンやブリュッヘンといった「真の」芸術家が語っていることまでが、妙に薄っぺらに聞こえてしまうのですから、不思議なものです。ブリュッヘンはともかく、ノリントンは自分が出ているこのDVDをジャケットで褒めちぎっているのですから、案外「俗物」だったのかも知れませんね。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-06 19:52 | 映画 | Comments(2)
MOOG
A Documentary Film by Hans Fjellestad










ナウオンメディア/NODD-00023(DVD)


今年の春先、東京でこのロバート・アーサー・モーグのドキュメンタリー・フィルムが公開されているという事を知った時、どんなにか見に行きたいと願った事でしょう。なにしろ、映画が始まる前に「テルミン」の生演奏まであるというのですからね。しかし、その映画は単館上映という上に、さらに、上映時間は夜中の9時過ぎだけという、超マイナーというかマニアックなものでした。とても日帰りで○○から出かけていくのは無理だと、涙を飲んだものでした。そんなコアなものが、なぜか連日満員御礼、ついにはこうしてDVDまで出てしまうのですから、すごい世の中です。
ロバート・モーグといえば、「シンセサイザー」という「楽器」の発明者として、おそらく後世の音楽史には必ず登場するに違いない人です。この映画では、彼自身がナレーターとして出演、まずは彼の最新の仕事が紹介されます。彼が作った「楽器」は、まさに音楽のあり方まで変えてしまうほどのすごいものだったわけですが、現在では何と言っても「デジタル・シンセサイザー」が主流、彼の「アナログ・シンセサイザー」などもはや誰も見向きもしない・・・と思っていました。しかし、彼は今でもこの「アナログ」にこだわって、名器「ミニモーグ」の改良型である「ミニモーグ・ヴォイジャー」を、本当に小さな工場(「工房」といった方がいいかも)で作り続けているのですね。そこで「回路」とか「基板」について語っている姿は、殆ど「楽器職人」といった印象がふさわしく思えます。彼の自宅の菜園なども紹介されますが、そこで語られる「オーガニック」指向と彼の楽器との結びつきも興味深いものです。
それに続くのが、この「楽器」を開発する際の協力者であったハーブ・ドイチとの対談に始まる、「モーグ」を世に広めたさまざまな音楽家たちとの対話です。中でも興味深いのが、リック・ウェイクマンとの話。彼は「モーグからは100%魅力を引き出す事が出来るが、デジタル・シンセでは10%程度の機能しか使っていない」と語っています(その後に、「それは女房と同じ事」と言いだして、ちょっと下ネタになるのですが)。単音しか出せない上に、いくつもある「ツマミ」を細かく調整して、やっと自分の求める音が出せるといった不自由さ、しかし、そこにはしっかり演奏者との暖かいつながりが存在しているのでしょうね。ただ、この楽器が世に出るきっかけとなった「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムを作ったウェンディ(ワルター)・カーロスからの協力が一切得られなかったため、彼女(彼)に関する映像が使用できなかったというのは、残念です。
後半では、やはり彼が、実はシンセサイザー以前から関わっていた「テルミン」が紹介されます。こちらでも述べられているように、最近になって日本でもブームを巻き起こしているこの不思議な楽器は、モーグなくしては今日まで生き延びる事は出来なかったものです。この楽器の演奏家の最先端、何とウォーキング・ベースそっくりの音までも出してしまうというパメリア・カースティンとの対談が見物です。
DVDだけの特典映像の中で、モーグは日本向けに、彼の会社の最新の製品を紹介してくれています。先ほどの「ヴォイジャー」や「テルミン」の最新モデル「テルミン・プロ」、いとおしげに自分の楽器を売り込むとともに、「まだまだ計画中のものがある」と語っていたボブ・モーグは、このDVDが日本でリリースされた直後の8月21日、脳腫瘍のため71歳で帰らぬ人となりました。もうぐ(喪服)を着て、ご冥福をお祈りします。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-02 19:44 | 映画 | Comments(1)