おやぢの部屋2
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Wir setzen uns mit Tränen nieder
 R☆Sオケはもうおしまいですか。これが言ってみればクライマックスのはずなのですから、もっと時間をかけてていねいに描いて欲しかったという思いは残ります。結論を急ぎすぎ、なぜのだめがあれほどの涙を流さなければならないのか、その伏線が十分ではありませんでした。まあ、こんな風に「結論」をいきなり持ってきて「感動」をもぎ取る、というのはテレビドラマ、いや、ハリウッドの映画でも常套手段ではありますが。そうなってくると、少なくともこのシーンでは、マンガの方が表現手段として勝っている、ということになるのではないでしょうか。
 このドラマ、実際に音楽を演奏するというシーンが非常に重要な要素になっていますから、当然その時の音楽はその場では主人公になっているわけです。そこで、難しくなってくるのがBGMの使い方です。それ専用の曲が用意されている場合には問題にならないものが、ここでのウリである「クラシック音楽のBGM」というところで、ヘタをするとBGMがBGMではなくなってしまい、あたかも主人公のように振る舞ってしまうことがあるからです。今回の、コンサートが始まる前に流れていた「ボレロ」が、まさにそんな大失敗の実例に他なりません。本物のオーケストラが画面に現れている所でオーケストラの曲を流したときには、もはやそれはBGMとしてとらえてもらうことは不可能になってきます。このシーンで、緊張感を盛り上げるという効果をねらってこの曲を選んだスタッフは、その時点でクラシックファンの心をまるで分かっていないことを露呈したのです。
 ミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」は、その逆の意味での失敗作です。あの場合は、「主人公」として聞こえてこなければならない音楽が、単なるBGMにしか聞こえなかったのですから。
 そんな前半の失態も、後半、催眠術の場面に出てきた「マタイ」の終曲と、バーバーの「アダージョ」で、すっかり帳消しになりました。「マタイ」は、その少し前にイントロだけ出てきて、ついにバッハか、と喜んだら(あ、「小フーガ」がありましたね)ここでしっかり合唱までやってくれたのですから、感激です。そして、それに続けてバーバーとは。こういう、人間の心の深い所を描写しているシーンでのこういう曲は、まさにうってつけ、というか、こういう言葉や映像では表せない情感を表現するためにこそ、クラシック音楽はその資質を高めてきたわけですからね。さらに、これが既存の音源であったことも、その深みを誇れた要因でしょう。その前に「ブラ1」のとことんいい加減なドラマのためのセッション音源を聴いてしまったあとだから、その違いは際立ちます。冒頭のティンパニのかったるいこと、最後のあたりも弦のアンサンブルはめちゃめちゃ、それでいてわざとらしい「決め」だけはしっかり付けているというあざとさだけが目立つ、つまらない演奏でした。
 そういえば、だいぶ前に「ブラ1」のアンコールでバーバーを聴いたことがありました。その時のバーバーも素晴らしいものでしたが、今回の方がより素晴らしく聞こえたのは、「メイン」があまりにお粗末だったせいで対比が際立ったからなのでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-04 23:02 | 禁断 | Comments(3)
Oboe Concerto in C
 最近気が付いたのですが、「のだめ」の公式サイトに行くとちゃんと使用曲目のリストが載っているのですね。もちろんタイトルだけですから、誰の演奏かはわかりませんが。で、その中にしっかり「服部隆之」などというこのドラマの音楽担当者の名前も見られるのですよ。つまり、前回書いたような「ドラマのためのオリジナル曲」はやっぱり存在していたのです。前回はそれがかなり耳に付いたので分かっただけで、そのリストによるとすでに第1回目から「オリジナル曲」は使われていたのですね。そのリストを参考にして前の分を見直してみると、確かにありましたね。「元気な学生」とかが。最初に見たときはこんな曲、全く気づきませんでしたよ。それは、いかにその「劇伴」が映像に馴染んでいたか、という証なのでしょう。
 ということは、別に誰が言ったことでもなかったのかも知れませんが、「全てのBGMはクラシックを使う」というのはデマだったことになりますね。ガセビアだと。そう言えば、確かに「なんだったかな~」と悩んでしまった曲もあったことを思い出しました。そうです。分からない曲は全て「オリジナル」で片づけてしまえば、めでたく解決するのですよ。でも、なんだかちょっとがっかりしてしまいました。所詮はただのドラマだったのか、と。
 今回はシベリウス関係が新機軸でしたでしょうか。「フィンランディア」の頭の一発だけというのも、もしかしたらかなりマニアックなことなのかも知れません。「カレリアのマーチ」あたりは「オリジナル」と言って逃げることも出来そう、微妙なところです。
 黒木クンは、期待通りでした。いやぁ、完全になりきっていましたね。リードを触ったりするようなほんのちょっとした仕草がまさにオーボイストそのもの、ブレスでリードを口から離すときの呼吸の感じも、真に迫っています。コーチ(小池さん?)も優秀なのでしょうが、これは福士さんの努力のたまものでもあるのでしょうね。前作でのピアニスト役の時も、彼はビデオを見まくってその「振り」をマスターしたと言いますし、なんでも、その演技の姿を見てピアニストになろうと決心した視聴者がいたというぐらいですから、ツボを押さえてなりきるための修練はハンパではないと見ました。ピアノと違って「腕だけ」のスタンド・インは使えませんから、運指などもかなり練習したのでしょうね。素人目には限りなく本物に近い運指に見えました。実際にリードを削る現場が出てくるなどということも、日本のドラマ史上初めてのことではないでしょうか。ほんと、普通に生活をしていれば、オーボエのリードを削っているところを見る機会などは一生訪れないはず、それを全人口の19%の人が体験してしまったのですから、これはすごいことですよ。
 「いぶし銀」だったものが「ピンク」になるというのも、演技だけでなく実際に「音」でかなりあらわしていましたね。といっても演奏そのものは変わりなく、イコライジングやエコーの付け方のほんのちょっとした違いなのでしょうが、それが演技と結びついて、確かに「ピンクのモーツァルト」が聞こえてきましたよ。大昔、単行本が出たときに書いたことですが、これって松田聖子ですよね。
 忘れるところでした。千秋が使うブラームスの1番のスコアは「ヘンレ版」なのですね。そんなものが自宅の本棚に入っているのが、すごい。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-27 23:12 | 禁断 | Comments(0)
ユレル
 もう、合唱団の合宿に行ってきてから1週間近く経ってしまいました。来年3月の演奏会へ向けての練習が東京と仙台で行われていたのが、このときに初めて全員が顔を合わせるという、一つのイベント、これがあることによって、仙台での人たちは演奏会の全体像がはっきり自覚できて、いよいよ本番へ向けての気持ちを新たにする、ということになります。
 もちろん、練習はまさに分刻みのスケジュールに沿ったハードなものなのですが、そこでは1年ぶりに顔を合わせた仲間が、旧交を温めるという場面がそこここで見られます。1日目の夜には、夕食の会場で懇親会が開かれ、全員が一堂に会して、演奏会へ向けての抱負や、昔の思い出話などに花が咲くことになります。
 そこでは、毎年恒例になってしまった出し物のようなものが演じられます。なんせ、メンバーは全員歌歌いですから、ネタには困りません。一応テーブルごとに何か、ということになっているのですが、その場で昔覚えた歌を見事なハーモニーで披露する、という場面が繰り広げられます。そのテーブルだけではパートが足らないときには、適宜よそから借りてきて、などというほほえましいケースも。
 ところが、私たちのテーブルで「何をやろうか?」という話になったときに、誰もアイディアが出ていなかったのに気づきました。積極的にやりたいという声が、何もなかったのです。と、私の1年下の学年の男が、「ここに『ユレル』の作曲者がいるじゃない」と言い出しました。その曲、私が現役の時には、団内でかなり人気のあったもの、例えば、定期演奏会で「みんなで歌いましょう」などというコーナーがあれば(実際に、こういうシング・アウトをやっていたのですよ)そこでお客さんと一緒に歌ったり、大学祭(学園祭、ですか)でのサークルの出し物「歌声喫茶」では、しっかりレパートリーに取り入れたりと、私の前後の年代にはかなり懐かしい曲なのです。それをこのテーブルで歌おうとしたのですが、もちろん知らない人もいます。そこで、その男は紙にフリーハンドで五線を書き始めました。4段の五線紙が出来上がると、彼は私に「○○さん、楽譜書いて」と渡してよこしました。そう、この曲の「作曲者」というのは、実は私だったのです。もう何十年も忘れていたものなのに、音符はスラスラと出てきました。そこで出来上がったのが、この楽譜です(詞はやなせたかし)。
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 これをコピーしてきて、テーブルのメンバーに渡し、伴奏はこの合唱団の指揮者が、この楽譜で即興的に弾いてくれました。そして、そこにいた100人の人が、全員で私の作った歌を歌ったのです。正直、私自身でも忘れていたような曲をまだおぼえていてくれて、こんなところで歌ってみようとした人がいたなんて、ちょっと感激モノでしたよ。これだけの時を超えてもまだ忘れられないでいた歌、ということは、私の作った曲はすでに歴史のふるいにかけられて「名曲」としての命を持ち始めている、と思うのは、もちろん常軌を逸した自己満足に過ぎません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-24 20:40 | 禁断 | Comments(0)
Basic Instinct 2
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 シャロン・ストーンの「氷の微笑2」は、ぜひ劇場で見てみたい映画でした。やはり、大画面で彼女のあの迫力を体験したかったのです。ところが、今日の日中は少し時間が取れそうなので見に行ってみようと時間を調べて見たところ、もはや1日1回しかやっていないようになっているではありませんか。しかも、利府では夜の6時過ぎのものしかありません。これではちょっとまずいので、モールを調べたら、こちらは1時10分、これなら大丈夫、しかも今日は木曜日なのでメンズデー料金の1000円で見られます。利府のメンズデーは月曜日ですから、これで決定です。
 その前に灯油を買ったりお昼ご飯をモスまで買いに行ったり(チーズドッグがもうすぐ終わります)していたら、家を出たのは12時20分になっていましたよ。長町まで車で行って、果たして間に合うのでしょうか。まあ、間に合わないときでも「プラダを着た悪魔」だったら大丈夫ですから、無駄足にはならないはずです。
 でも、道はそんなに混んでなく、「微笑」の上映開始時間の10分前にはMOVIXに着きました。しかし、カウンターは長蛇の列、チケットを買えたのは3分前でした。しかも、思いの外混んでいて、後ろの席は本当の壁際しか空いていません。この前そのあたりで「プロデューサーズ」を見たときに、あまりに端っこでスクリーンが完璧に歪んでしか見えなかったという苦い経験がありますから、それよりは、と、前から4番目の真ん中の席を取りました。
 しかし、予告編の段階で、この場所はとてもまともに映画を鑑賞できるようなところではないことに気づかされます。あまりにも大きすぎて、スクリーン全体が視界に入らないのです。こうなったら「アイマックス」だと思って、開き直るしかありませんね。
 本編も、最初の車を飛ばしながら、○○というシーンは、ですから、ものすごい迫力でした。しかし、普通のシーンになって顔がアップになったりすると、ちょっと見るのが大変になってきます。それに、なんだかシャロン・ストーンの顔も歪んで見えます。真ん中だからいいだろうと思ったのですが、劇場映画というものはスクリーンに対して決して垂直に投光されている訳ではないので、後ろで見たときには気にならなくても、この位置では完全に歪んで見えてしまうものなのですね。そもそもこの劇場はどこも横方向に広い客席になっていて、一番後ろでもかなり近いような造りですから、こんな前ではとても見ていられないのは当たり前です。その点、利府では縦方向が長くなっていますから、壁際でもちゃんと見えますし、少しぐらい前でも大丈夫なはず、もうここに来るのはやめましょう。
 シャロン・ストーン、いくら歪んでいても、あの大きな画面で肌が若々しく見えるのはすごいですね。目尻に少ししわが見えたのが、「年」を感じさせられたところでしょうが、その他のパーツは少しも衰えが見られませんでしたよ。もちろん、あの全てを承知しているような不気味な「微笑」も健在でした。脚本も前作以上の凝ったものでしたね。正直、これだけ翻弄されると一体真実はなんだのだろうかという思いです。そして、そう思わせられるだけの存在感をいやと言うほど示しているストーン、十分堪能できました。正直疲れましたが。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-23 20:55 | 禁断 | Comments(1)
Die Meistersinger von Nürnberg
 原作が手元にないので、いまいち不安なのですが(というか、原作を読んだのはもうだいぶ前のことでした)、あまり憶えていないようなストーリーが出てくるのはもしかしてテレビ用?ラフマニノフのエピソードって、あんなにありましたっけ。ドラマを見ただけでは、以前のモーツァルトの二番煎じのような気がしてなりません。それと、いつも思うのですが、ここでロケに使われている音大のレッスン室や練習室は、かなり頑丈なドアノブが付いてますし、扉も厚くて頑丈ですから、そうそう外部には音が漏れることはないと思うのですが。まあ、すぐ前で耳を近づければいくらかは聞こえるのでしょうが、今回のように遠くから聞きつけて集まって来るというのはあり得ないのではないでしょうか。もちろん、第1話のように外を歩いていて「悲愴」の細かいニュアンスなどを聴き取ることなども、かなり難しいような気がするのですが。
 まあ、そういう設定上の「無理」は、大目に見るとして、今回後半に流れていた音楽は、あれは「クラシック」だったのでしょうか。オカリナみたいな音も聞こえたり、かなりアレンジも入っていたみたい、少なくとも今まであったようにストレートに「クラシック」というものではなかったような気がします。というより、あの部分は殆ど普通のドラマの音楽のノリ、つまり、流れている音楽に全く耳が行かないものでした。このドラマの音楽が今までと違っていたのは、「クラシック」だからこそ敏感に反応できていろいろツッコミを入れられたことなのですが、音楽が鳴っていることすら気づかなかったほど馴染んでしまっていたのでは、その時点で「クラシック」としての資格がなくなっていたのだ、とは言えないでしょうか。
 ただ、現実にはそんな「クラシック」にあるまじき「クラシック」が、大手を振って闊歩しているのには、いとも簡単に出会うことが出来ます。もしかしたら、このドラマを通して「クラシックというものを多くの人に聴いてもらえれば」などと考えている人の中の「クラシック」という概念は、そういうものしか聴かない人まで含めた「ライトユーザー」を相手にしているものだったのでしょうか。
 オーボエの黒木クンが登場、いやぁ、すごい人を見つけたものです。イメージはまさにぴったりじゃありませんか。その上、この人は半年間、音楽の素晴らしさをことあるごとに説いていたという輝かしい経歴を持っているのですからね。彼のセリフ「ピアノを忘れるなーっ!音楽を忘れるなーっ!」は、殆ど流行語となりかけましたよね。そう、ちょっと前まで味噌屋の跡取りのピアニストだった「達彦さん」が黒木クン役、かなり楽しみです。そうそう、彼は「スイング・ガールズ」でものだめやミルヒと共演してましたよね。
 佐久間学さん、やっぱりこのキャラは馴染めません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-20 22:49 | 禁断 | Comments(1)
Tokyo Tower
 先ほど放送されていた「エフエム名曲アワー」、ご存じ「元寺コージ」さんの名調子に乗って流れてきたのは、「君が登れと言うのなら、登ってやるぜ、東京タワー」などという過激な曲でした。実は好きな女の子のために、恋敵とこのぐらいに張り合ってもいい、というけなげな内容なのですが。ただ、これだけでもすごいのに、2番は「君がとばせと言うのなら、とばしてやるぜハイウェイ」ですから、ちょっとあぶなくなってきます。制限速度はお構いなしに突っ走るというのですから、時代が時代なら放送禁止になりかねない歌詞です。実際クレージー・キャッツの「五万節」が、そんなタクシー運転手を歌って放送禁止になったことがありましたよね。そして3番になると、「君が走れと言うのなら、走ってやるぜ山手線」ですって。恋敵は「外回り」なので、自分は「内回り」の線路の上を走ってやろうじゃないか、という、危険極まりない「告白」、これはすごいです。
 残念なことに、この曲のタイトルとアーティストを聞き逃してしまいました。サウンド的にはマイナーコードに乗った、いかにものグループサウンズ風ですから、70年代の作品なのでしょうね。もしご存じの方がいらっしゃったら、ご教示下さい。これはまさに山下達郎の「珍盤奇盤」ものです。
 こういうオールディーズ、もちろん最初にリリースされたのはEP(シングル盤)の形だったはずです。今ではCDになっているのでしょうが、形態は変わっても音楽そのものは変わらないで残っているのですから、これからもきちんと受け継がれていくことでしょう。しかし、そんな技術の進歩によって取り残されてしまったフォーマットから、全ての人が新しいものに移行できるわけではありません。ホームビデオなども、そんな一例でしょう。私も昔は子供の運動会などとりまくったものですが、その頃から「8ミリビデオ」とか「ハイエイト」などという互換性のないものが登場し始めてきて、なんだか嫌気がさしてきた思い出があります。もうすっかりそんなものと縁がなくなっていますから、実は最近の「デジタルビデオ」なども使ったことすらありません。なんでも今ではDVDのカメラなども出ているそうですね。ですから、今ではどこに行っても「8ミリビデオ」のテープなんか売っていないことを知り合いから聞いて、こんなものから足を洗っておいて良かったとしみじみ思っているところです。あ、「シングルエイト」というのもありましたね。
 それは、ビデオテープではなく銀塩式のフィルムなのですが、その静止画でもやはりフォーマットの移行がものすごい勢いで起こっていますよね。先日親戚の結婚式に行ったところ、出席していた人が使っていたスチルカメラは、全て(本当に1台残らず、でした)デジカメだったのですから、すごいものです。なんでも、最近はネガフィルムからのプリント代が、ずいぶん高くなったというのを、やはりさっきの知り合いから聞きました。デジカメを家庭でプリント出来るような時代なのですから、それも当たり前の流れなのでしょう。何たって、さっきみたいな東京タワーに登っているような「あぶない」写真だって、平気でプリントできてしまうのですからね。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-17 21:09 | 禁断 | Comments(2)
Sicilienne
 2回目の時の心配はなんのその、しっかり「佐久間学」さんの登場です。でも、生佐久間は及川光博?ちょっと私の中のイメージとはギャップがありますね。あくまで、繊細でナイーブなキャラであって欲しかったのですが、どうなることやら。なぜ私がこの役にこだわるかというのは、サイト版の「おやぢ」を見て頂ければ分かることなのですが、一応「2」からは「ペンネーム」を「佐久間學(がく)」としているのですよ。これを始めた頃はまだ原作もそれほどブレイクしてはいなかったので、誰も分からないだろうと思っていたのですが、こんな派手な人が登場では、一気にこちらもブレイク?
 さて、今回の「のだめ」、いきなりフォーレの「ペレアスとメリザンド」ですか。いくら専門でも、これを吹いているのが誰かなどということを詮索したりはしません。とりあえずモントリオール響のティモシー・ハンチンスということにしておきましょう(本当だったりして)。その他に、久しぶりに「新曲」のオンパレード、中でも理事長とミルヒとの再会のシーンでの「タンホイザー」は感動的でしたね。あれで、秋吉久美子のセリフが竹中直人ぐらいドラマティックだったら完璧でしたのに。ほんと、この人は昔から芝居はヘタ、「のだめ」の文脈の中に溶け込んでいない違和感が残ります。
 といっても、その「のだめ」本人の芝居こそが、初回からずっと気になっていたものなのですが。つまり、上野樹里は「演じ」過ぎているのですよ。のだめ本人の魅力はその全く飾らないキャラ、それを出そうとするあまり、それを「演技」で表現しようとしている「苦労」のあとが、ありありと見えてしまって、どうしても馴染めないのですけど。すみません。
 それは、第0回(つまりメーキング)を見たときに感じてしまったことです。そこで見られる「素」の彼女が、えらく賢そうに見えてしまったのですよ。「スイング・ガールズ」で見せてくれた素朴なイメージが、その時には全く見えてきませんでした。どうやら、この違和感は最終回まで続いてしまうのでしょうね。
 千秋の玉木宏は、それに比べると格段のリアリティがあります。最初のうちはただのイケメンだと思っていたのですが、次第に見せるようになってくる三枚目(死語!)的な表情が、それこそ原作を超えた魅力を放っていることにすぐ気付くことになりました。実写版「ちびまるこちゃん」での「若いときのヒロシ」役にも笑えましたが、ああいう、巧まざるおかしさが、好きです。そして、それは原作の千秋にはない魅力です。
 指揮やピアノの「振り」も、ドラマ的にはなんの不安もありません。今回のラフマニノフだって、たまに出てくるスタンド・インではないカットが、見事に(あくまでドラマ的に、ですが)決まっていたじゃありませんか。おまけに、彼はなんとドイツ語まで喋っていましたね。それもあの金髪の「秘書」よりは、ずっとそれっぽいドイツ語でしたからね。そのドイツ語の字幕が、劇場映画用の手書き風フォントだったのも、スタッフのこだわりなのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-13 23:03 | 禁断 | Comments(0)
Roger Norrington
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 このところの東京では、アーノンクールだ、クリスティだ、ノリントンだと、ちょっと毛色の変わったビッグネームが相次いでお目見えするということで、大騒ぎになっているようですね。チケットの争奪戦は大変そうですが、逆に仙台にいる限りはどうせ聴けないと、さっぱり目を背けて大騒動に巻き込まれないだけ、ストレスはたまらないのではないでしょうか。というのは、もちろん負け惜しみなのですが。実はクリスティの「パラダン」などは客席がガラガラだったそうですね。それが分かっていれば当日券を買ってでも行ったのに。
 そんな中で、私が一番注目していたノリントン指揮のN響の演奏が、さっそくBSで放送になりました。「注目」というのは、このオーケストラが果たしてこの指揮者のやり方にどこまで付いていくのか、という興味です。ご存じのように、彼は、自分が音楽監督を務めるドイツのオーケストラでは、非常にユニークな演奏を団員に求めています。「ピュア」なサウンドを作るために、一切のビブラートを付けないようにさせているのです。それはもっぱら弦楽器奏者に対する要求なのですが、その徹底ぶりはものすごいもので、現代オーケストラでありながらまるでオリジナル楽器で演奏しているかのような禁欲的な響きを産み出しています。ただ、これはあくまで「自分の」オーケストラだからやれること、ここまで来るのにはさぞや時間がかかったのだろうと思われる、ちょっと普通の演奏家の生理からは遠くにあるものでした。ですから、客演で他のオーケストラにやってきたときにそれがどれだけ浸透できるか、そこにものすごく興味があったのです。
 この演奏会のメインは、モーツァルトの交響曲第39番。このような大きなオーケストラでこういう曲が最後に来るというプログラム自体が今ではかなり珍しくなっていますが、まずその編成に驚かされます。それは、ほとんどフル編成に近い弦楽器の数である上に、なんと木管楽器が指定の倍の人数、「倍管」になっているではありませんか。そう、例えばベームやカラヤンの大昔の映像などを見てみると、確かに倍管で演奏しているものを見かけることがあります。しかし、これはまだモーツァルトでさえもロマンティックな趣味で塗り固められていた時代の産物、「オーセンティック」な思想が浸透した現代においては、まず見られることはない形態なのです。
 この演奏に先だって、ノリントンはステージであるレクチャーを行っていました。彼の演奏のポリシーを述べたものなのですが、その中でこの編成に関しては「時には、普段の倍ぐらいのサイズの、怪物のような編成もあった」と述べていました。つまり、現代の大きなコンサートホールで演奏するときには、このぐらいのものも必要である、と。普通「倍管」で補強されたオーケストラでは、ピアノの部分ではもちろん管楽器をダブらせることはしませんが、弦楽器はそのままです。しかし、ここからが彼の最もユニークなところなのですが、彼はそこで弦楽器も減らしてしまうのです。この曲だと、第1楽章の序奏は全員で演奏しています。しかし、柔らかい第1主題では、弦楽器の一部の人が休んでいるのです。そして、フォルテの部分になったら、また全員で弾く、といった具合です。これは、現代の大きなオーケストラでモーツァルトを演奏するときの、一つの明確な解答に違いありません。
 そして、ノンビブラートは完全に徹底されていました。それによって本当に「ピュア」な響きが出たかどうかは疑問ですが、このオーケストラがここまで指揮者に従順になれたことの方が、驚きです。しかし、現代はこれほどまでの柔軟性も必要とされる時代なのでしょう。かつては「フランスもの」も「ドイツもの」もきちんと演奏できることが要求されたものです。それに加えて、「ピリオド・アプローチ」まで備えることが、もしかしたら今では当たり前になっているのでしょう。こういうことをやっているときのN響は、いつになく楽しんで演奏しているように見えます。フィナーレの最後のアコードで、ノリントンが半回転ターンをして客席を向くというパフォーマンスも、全く自然なものに見えるから不思議です。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-11 23:01 | 禁断 | Comments(0)
Breitkopf Urtext - ed. by Peter Hauschild
 Sオケのベル・アップ(弦楽器もそう言うのかな?)、かっこよかったですね。原作の構図をそのまま実写でやってくれたものですから、感動してしまいましたよ。いや、実際に音が付いている中であれをやられてはほとんどツボにはまりきり、危うく涙が出そうになってしまうほどでした。演奏者とお客さんが一体となって、「このまま演奏が終わってしまうのがもったいない」と思わせられるような、一生に何回あるかどうかという演奏を実際に体験しているような「雰囲気」、まさかテレビドラマで作り上げることが出来るとは。マジで、こんな演奏会に出会ってみたい、そして、こんな演奏をしてみたいと思ってしまいましたよ。
 先々週から悩み続けていたパパゲーノのアリア、今回は登場しませんでしたが、どうやら使われていた音源が特定できたようです。あれからさらにモダン楽器に絞っていくつかまだ持っていなかった音源を入手して聴いてみたところ、グロッケンを使っていてテンポがほぼ同じものがやっと見付かったのです。それは、1972年録音、サヴァリッシュ指揮のバイエルン州立歌劇場の演奏、パパゲーノを歌っているのはワルター・ベリーです。やはり、この頃グロッケン(バチで叩くもの)とチェレスタを併用して演奏するというやり方はかなり一般的だったようで、同じくミュンヘンで1981年に録音されたハイティンク盤も、前はグロッケンシュピールだけだと思っていたのですが注意深く聞いてみるとチェレスタと一緒に弾いていることが分かりました。サヴァリッシュの場合は、第1幕のフィナーレにやはりグロッケンシュピールが出てくるところでは、なんと右手のメロディがチェレスタで、左手の和音をグロッケンということをやっているので、はっきり分かります。たかがグロッケンでこれだけマニアックに聞き比べをやることになったのも、「のだめ」のお陰、サイトの方のコンテンツも、さらに精度の高いものに仕上げることが出来ましたよ。
 しかし、このサヴァリッシュの録音、ドラマのBGMに限りなく近いのですが、テンポがごくわずか遅くなっていますし、先週楽譜で示した部分もちょっと違っています。ところが、この歌の2番(歌詞は同じ)では、まさにBGM通りの歌い方になっているではありませんか。しかし、BGMのあのイントロは1番のものです。そこで、試しにCDでの1番のイントロに2番の歌をつなげて時間を測ってみました。そうしたら、これがまさにぴったり、BGMと寸分違わないものだったのですよ。本当にそんなことをしたのかどうかは分かりませんが、現象的にはこうやって出来たものが、ドラマからは流れてきているのです。うーむ、深い!
 もう一つ、気になっているのはベートーヴェンの指揮者用スコア。お気づきでしょうが、「7番」で千秋が自分で持っていたのは小豆色の表紙のベーレンライター版でした。しかし、ミルヒから指揮者を受け継いだときに、一緒にスコアも譲り受けた形になったのですが、それが青い表紙のブライトコプフ版なのです。しかも、今日の映像でそれは「2277」という、「旧版」であることが分かります。実は、ブライトコプフでも最新の原典版は出版されていて、ペーター・ハウシルトの校訂によるものが「5237」という番号で簡単に手に入るようになっています。なぜ、ミルヒはあえて「旧版」を選んだのか、そして、1度はベーレンライター版を使っていた千秋がなぜそれをすんなり受け入れたのか、それは謎です。というのも、ミルヒが自分がAオケで指揮をするために用意していて、大河内くんに託した「第9」のスコアは、紛れもないベーレンライター版だったのですからね。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-06 23:17 | 禁断 | Comments(0)
Tristan + Isolde
 連休2日目、ポイントもまだ1回分残っていますから映画でも見てこようと思ったのですが、調べてみると今やっているものの中には見たいと思えるものがほとんどありませんでした。やたらと多いのが日本映画、でも、これはわざわざ劇場で見るほどのものではないように思えるものばかり、「三丁目」が凄すぎましたから、失望するに決まっています。そうなってくると、見たいのは「トリスタンとイゾルデ」しかありません。しかし、これはもはや一日一回の敗戦処理シフト、夜の6時の回しかありません。仕方がありません、暗い道を利府に向かうことにしましょう。
 チケットを買おうと思ったら、「○の○番以外は全部空いてます」ですって、私の前に来た人は一人しかいなかったということですね。そこまでになっていましたか。結局、そのシアターには10人ちょっとしか座っていない状態で、映画は始まりました。私は最後列のど真ん中、まるで独り占めしているような感じでしたね。
 原題が「Tristan + Isolde」というのには笑えました。まあ、もっとも「Tristan and Isolde」では同じ題材のオペラと全く一緒になったしまうので、それを避けた結果なのでしょうか。確かに、この映画はオペラとは全く別のプロットで成り立っていますから、それはよく分かります。
 トリスタン、イゾルデはともかく、オペラでお馴染みの人名や地名が続々登場するのは、ちょっと気持ちの良いものでした。おそらく、今このシアターの中にいる人で、そんな名前を知っている人は私以外にはいないだろう、というようなある種優越感のようなものですね。鼻持ちならないクラヲタぶりです。ただ、「マルケ王」は「マーク」でしたし、「ブランゲーネ」も「ブラーニャ(だったかな?)」、メロートの設定も微妙に違っていましたね。いずれにしても、オペラの中ではもっぱら説明的に歌われている細かいストーリーが、きちんと映像となって描かれているのは興味深いものでした。トリスタンとイゾルデのそもそもの出会いもここでははっきり理解することが出来ます。それだからこそ、マルケ王の后となったあとの「究極の不倫」が現実味を帯びてくるのでしょう。ほんと、王といちゃついているときのイゾルデを見るトリスタンの気持ちは、痛いほどよく伝わってきますよ。ですから、その様な、ある意味生々しい感情を包み込むために、オペラでは「媚薬」というシチュエーションを用意したのではないか、などと思えてしまいます。そうすれば、あからさまな「不倫」は登場させなくても、「薬のせい」で逃げることが出来ますからね。
 アイルランドとチェコでロケをしたという映像は、とことん暗めの色調でとても美しいものでした。国と国との争いに翻弄される恋人たちの悲哀や、ストーリーを彩る細かい駆け引きがていねいに描かれていて、とても納得のいくプロットでした。戦闘シーンなどはあまり好きではないのですが、ここではそれすらも渋いタッチで見応えのあるものに仕上がっていたのでは。アン・ダッドリーの音楽も、控えめでとてもセンスのよいものでした。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-04 23:16 | 禁断 | Comments(0)