おやぢの部屋2
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カテゴリ:フルート( 215 )
MOZART/Flute Concertos


Severino Gazzelloni(Fl)
Bruno Canino(Cem)
山岡重信/
カメラータ・アカデミカ東京
BMG
ジャパン/BVCC-37456/57


先日、テレビでバッハの「ロ短調ミサ」の演奏会の模様を見ました。それは、バッハが晩年を過ごしたライプチッヒの、その彼の職場であるトマス教会でのもの。そこで演奏していたのは、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバー、もちろん、全員モダン楽器を使っています。このミサ曲の中には、フルートによるオブリガートが入るナンバーがいくつかあります。その中の一つ、「グローリア」の4曲目、「Domine Deus」で、その女性奏者のソロが始まった時、私はしばし、そこで何が起こっているのか把握できなくなってしまいました。確かにそれはフルートという楽器によって演奏されているのですが、出てきた音はおよそフルートとは異なったものだったのです。最近はもっぱらオリジナル楽器で演奏されたものを聴く事が多くなってしまいましたからなおさらなのでしょうが、フルートが本来持っていたはずのまろやかな音色はそこからは全く聴き取ることは出来ませんでした。
もしかしたら、そこで聞こえてきた音は、モダンオーケストラの中でのフルートとしては、理想的なものだったのかもしれません。木管楽器の中で唯一リードを持たないフルートという楽器は、どうしても他の楽器よりはバランス的に弱いものと受け取られがち、現実に、そのような処理を施す作曲家もいます。しかし、実際のモダンフルートは、そんな柔なものではないことは、この楽器の卓越した奏者であれば知っています。それは、リード楽器とも充分に拮抗しうる強さを持った楽器なのですから。現代のオーケストラでは、そのような意識を持って精進した結果、この女性奏者のようなとてつもなく張りのある音を獲得したフルーティストが、求められるようになっているのです。
しかし、バッハに関しては、もっと柔らかい音で、それこそトラベルソのような感触の演奏を、同じモダン楽器を使って行える人もいます。それだけ、この楽器の表現の幅が大きいという事なのでしょう。
セヴェリーノ・ガッツェローニという往年のフルーティストが、1973年と1975年に来日した際に日本人のスタッフの手によって録音された2枚のLPが、この度CDとなって復刻されました。この30年前の録音を改めて聴いた時に、先ほどのフルートという楽器の持つ表現力の大きさというものを、はからずも再確認させられることになろうとは。
ガッツェローニという人は、同じ時代の新しい作品にかけては定評のあったフルーティストです。「現代音楽」シーンで、彼によって命を吹き込まれた作品は数知れません。そのような、特殊な奏法や敢えてカンタービレを廃した表現がつい表に出てしまうという彼の印象からは、ここで演奏しているモーツァルトやヘンデルはやや期待はずれ、というか、あまりにも真摯な「フルーティスト」が前面に現れているので驚いてしまうほどです。それは、フルートという楽器をとことん鳴らし切ったもの、そこからは、さっきのバッハとは違った意味でこの楽器の可能性を最大限に追求したプレイヤーの姿を見ることが出来るのです。その魅力を最もよく味わえるのが低音域。よくある、倍音を沢山加えて無理矢理響きを作るものではなく、殆ど基音しか含まれていないような恐ろしく純粋な音にもかかわらず、豊かな響きが発散されているという低音です。彼が、これほどの素晴らしい音の持ち主だったとは、「現代音楽」だけを聴いていたのでは到底分からないことでした。
ただ、細かい音符の処理には難があったり、華麗さにはほど遠いテクニックであるのが、残念なところ。もちろん、その「響きすぎる」音は、例えばヘンデルあたりでは、昨今の趣味とは全くかけ離れているため、広く受け入れられることはないでしょう。このような、ある種「モンスター」がいたことの記録としてのみ、手元に置いておく価値を見いだせるはずです。あるいはペットとしてとか(それは「ハムスター」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-02 20:43 | フルート | Comments(0)
BACH/A Flauto Traverso




Benedek Csalog(Fl tr)
Miklós Spányi(Cvcd, Fp)
RAMÉE/RAM 0404



このジャケット、ちょっと素敵ですね。というか、実はこの写真がいったい何なのか、すぐには分からないというのが粋です。足が3本ある鍵盤楽器のようにも見えますが、しかし、それにしてもこのメカニカルは姿はいったい・・・。これは、店頭でCDを手に取ってみても、分かりません。つまり、裏側を見てみても、やはり同じような写真があるだけなのです。そこで、好奇心にひかれてCDを購入、シールを破ってデジパックを期待しながら開いてみるのですが、やはりそこにも同じ角度の写真しかありません。さらにもう1度開いてみて、初めてこの物体を上から写した画像が目にはいる、という、込み入ったことを、このアルバムの制作者はやっていたのでした。このデザインも含めて、企画からプロデュースをやっているのが、バロック・ヴァイオリン奏者のライナー・アルント、彼のこだわりに満ちたアルバム作りは、ちょっと魅力的です。
ベネデク・チャログ(フルート)と、ミクローシュ・シュパーニ(キーボード)というハンガリーのアーティストを起用して作られたバッハのフルート・ソナタ集、まず、ここでは伴奏楽器としての鍵盤楽器の選択に、そのこだわりを大いに感じることが出来ることでしょう。バッハの時代の伴奏用の鍵盤楽器といえば、まずチェンバロがもっとも一般的なのでしょうが、ここでは現在のピアノの前身であるフォルテピアノと、ちょっと面白い発音メカニズムを持つクラヴィコードが使われています。クラヴィコードでは、鍵盤の先に付いた「タンジェント」と呼ばれる金属片が弦を持ち上げる(ちょうど「駒」のような働きになります)ことによって音が発せられます。ですから、鍵盤を叩く力がそのまま音の大きさに反映され、さらにその鍵盤を動かすことによって、ある種のビブラート(ベーブンクと呼ばれます)までかけることが出来るのです。これが、弦をはじいたり(チェンバロ)、叩いたり(フォルテピアノ)する時間がほんの一瞬で、それ以後はなんの操作を加えることの出来ない他の楽器との大きな違いになります。
そんなクラヴィコードの特質を最大限に生かした演奏を、前半のホ長調とホ短調のソナタで聴くことが出来ます。この楽器のオーソリティであるシュパーニは、チェンバロとは全く異なった次元の豊かな表情を見せてくれています。音量の変化が音色の違いとなり、これもまた表情豊かなチャログのトラヴェルソと相まって、ちょっと今まで味わったことのないカラフルなバッハの世界を体験することが出来ることでしょう。特にホ短調の最後の楽章など、アイディア満載の大きなスケールを感じることが出来ます。音色も、バロックを彩った雅な音、というよりは、まるで20世紀にシンセサイザーで作られたような肌触り。これはちょっと不思議なものです。元来クラヴィコードはとても小さな音しか出ないので、コンサートなどでその微妙なニュアンスを体験するのは難しいものですが、このような録音だとそれは難なく叶えられます。そのためか、常に同じピッチの共鳴音が聞こえるのは、まあ我慢することにしましょう。
後半は伴奏がフォルテピアノに変わります。この2曲はオブリガート・チェンバロのためのものですから、ちょっと弱々しい感じのクラヴィコードよりはこちらの方が適していると考えたのでしょう。これもまた、聴き慣れたチェンバロとも、そして現代のピアノとも全く異なる音色と表現力、ただ、この場合バランス的にトラヴェルソが弱く聞こえてしまうのがちょっと残念でした。
先ほどのジャケットの写真、実は18世紀後半に作られた羅針盤なのだそうです。そんな昔に作られて、現代でも十分通用するメカニズムという意味で、このアルバムを飾っていたのでしょうか。裸身盤だと良かったのに(なんだそれ)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-04 19:40 | フルート | Comments(0)
MOZART/FLute Concertos



Sharon Bezaly(Fl)
Juha Kangas/
Ostrobothnian Chamber Orchestra
BIS/BIS-SACD-1539(hybrid SACD)



ハイブリッドSACD仕様、しかも、「日本語解説」が付いている上に、豪華総天然色の、分厚いこのレーベルの完全カタログ同梱されていて1400円前後のバジェット・プライスという、信じられないような価格設定になっている、BISの「お姫様」シャロン・ベザリーのニュー・アルバムです。ただ、「日本語解説」と聞いて、この前のノリントンの「巨人」のようにブックレット自体に日本語が印刷されていることを期待したのは、間違いでした。あの時と同じ輸入業者なのですが、このレーベルに関してはそこまでの力が及ばなかったのでしょう、「タスキ」の裏側にちょっと長めのインフォが付いているだけ、という程度にとどまっていました。こういうものを、普通は「日本語解説」とは呼びません。
ベザリーを最初に聴いたのは、1999年4月に録音されたモーツァルトのフルート四重奏曲でした。なかなか清潔な演奏、音もきれいだしテクニックも確かなのに、なんの訴えかけも感じられないのには、失望したものです。それから丸6年、2005年の4月に録音されたこの協奏曲集では、彼女のモーツァルトはどのような変化を見せていることでしょう。
まず、最初に気づくのは、その録音の不思議なバランスです。決して大人数ではないオーケストラの音は眼前に大きく広がっている(そのために、弦楽器の粗さがかなり目立ちます)というのに、肝心のソロ・フルートの音像がはるか後ろに定位しているのです。これは、前作でのアホの協奏曲でも見られた録音ポリシーなのですが、あくまで主役はフルートであるモーツァルトの曲でなぜもっとソロを前面に出さないのか、理解に苦しむ措置です。あるいは、これが「サラウンド」で聴く時のベストポジションなのでしょうか。もしそうだとしたら、それはエンジニアの考え違いでしょう。少なくとも演奏を通じて聴衆に何かを訴えたいと思っているアーティストであれば、このような扱いを受けて黙っているはずはない、と、私は確信します。
したがって、ただでさえ主張の乏しいベザリーの演奏からは、このような音場ではますますそのメッセージを受け取るのは困難になってきます。そこにあるのはひたすら肌触りよく流れる心地よい音のつながり、その中から作曲者がこれらの曲に込めたであろう、ある種の緊張感を探し出すことは不可能です。6年前にはあまり見られなかった、音符をあとからふくらますという彼女の趣味は、これをさらに助長しています。音の頭が明確でないために、例えばニ長調の協奏曲の有名なロンド主題は、



のように聞こえるという、大変みっともないことになってしまいました。
ところで、このアルバムで使われているカデンツァは、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホが作ったものです(いえ、誰も「カレシ、アホ」なんて言ってません)。先ほどもちょっと触れた協奏曲など、彼女の「才能」を高く評価しているアホは、多くの作品を彼女のために作っています。その流れから出てきたこれらのカデンツァ、実は、私はこれを聴きたいためだけに、このアルバムを買ったようなものなのです。これと同じようなケースで、以前、シュニトケがギドン・クレメルのために書いたベートーヴェンの協奏曲のためのカデンツァは本当に衝撃的なものでしたから、ここでもそんな斬新なものを期待したって、良いではありませんか。しかし、聞こえてきた多くのカデンツァは、平凡極まりない陳腐なものでした。それこそいにしえのドンジョンあたりのものと何ら変わらないテイスト、いったいどこに「作曲家」としてのアホのアイデンティティがあるというのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-28 14:01 | フルート | Comments(0)
Nordic Spell





Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499



「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-09 19:53 | フルート | Comments(0)
Flautissimo




Dóra Seres(Fl)
Emese Mali(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32299



ベルリン・フィルの首席奏者を長く務めたフルーティスト、カールハインツ・ツェラーが亡くなったそうですね。以前、彼の昔のアルバムをご紹介した時に、最近のフルーティストの粒の小ささを嘆いたことがありましたが、本当に近頃は「これぞ」という人にはお目にかかることが出来ません。
このアルバム、ミュシャをあしらったジャケットと、「World Premiere Recording」という文字に誘われて買ってしまいました。ただ、曲目はフルート関係者には馴染みのものばかり、どこが「世界初録音」なのか、という疑問は残ります。
ドーラ・シェレシュというハンガリーの若いフルーティスト、1980年生まれといいますから、まだ25才、それでハンガリー放送交響楽団の首席奏者を務めているのですから、音楽的には申し分のないものを持っているのでしょう。2001年に開催された「プラハの春国際コンクール」で1位を獲得したのを始め、その受賞歴には輝かしいものがあります。同じ年に神戸で行われた国際フルートコンクールでも2位に入賞しています。その神戸のコンクールには、このサイトではお馴染みの瀬尾和紀さんも出場、その彼でさえ6位入賞ですから、その実力は確かなものなのでしょう。さらに2003年のブダペスト国際フルートコンクールでも優勝、その時の「お祝い」ということで録音されたのが、このアルバムなのです。
確かに、その経歴からも分かるように、彼女のフルートが高い水準にあることは、最初のムーケの「フルートとパン」を聴けばよく分かります。輝かしくムラのない音色は、まず上位入賞に欠かせないものです。そして、流れるように正確なテクニック、もちろん超絶技巧を思わせる華やかさも充分に備えていることも必要でしょう。1曲目の「パンと羊飼い」は、それで軽々と乗り切ることが出来ます。しかし、2曲目の「パンと鳥たち」になると、それを超えた次元での「味」が欲しくなってきます。それは、先ほどのツェラーやゴールウェイを知っているものにとっては、この曲には絶対あって欲しいもの、つまり、この2番目のトラックで、早くも不満が噴出するという、若手フルーティストにとっては過酷な状況に陥ってしまうのです。
次のフランセの「ディヴェルティメント」では、何よりも瀬尾さんのアルバムが前に立ちはだかっています。メカニカルな面では遜色はないものの、例えば2曲目の「ノットゥルノ」あたりでは、彼女の歌い方が淡泊になっとるの、というのがもろに露呈されてしまいます。さらに、ここではピアニストのあまりの消極性も。
フェルトのソナタでは、コンディションもあるのでしょうが、リズムに乗り切れていないもたつきがちょっと気になってしまいます。これは、リーバーマンのソナタの第2楽章でも見られること、もしかしたら、これは彼女のクセなのかも知れません。それとも、ひょっとしたらランパルのまね?
結局、「世界初録音」のものなど、どこにもありませんでした。考えられるのは、これが彼女にとっての「初めての録音」ということ。これから数多くの録音を行っていくはずだから、この「初録音」は貴重なものですよ、という意味なのでしょうか。そんな意味でこの言葉を使って欲しくはありませんし、何よりもこれが「最後の録音」にならないように、祈るのみです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-15 21:00 | フルート | Comments(0)
Music in Sanssouci



Hans Martin Linde(Fl.tr.)
Johannes Koch(Va.d.g.)
Hugo Ruf(Cem)
DHM/82876 69998 2



この、まるでDGの「Originals」みたいなデザインのジャケット、DEUTSCHE HARMONIA MUNDIの昔のカタログの復刻版のシリーズです。斜めになっているのが、オリジナルのLPジャケットというわけですね。その中で目についたのが、このアイテム、「サン・スーシでの音楽」というタイトルが付いたこのジャケットには、確かに見覚えがあります。それもそのはず、家へ帰って探してみたら、この元のLPの国内盤が見つかりました。しばらく会っていなかった友人に久しぶりに再会したような気分です。
タイトルの通り、ここに収められているのは、プロシャ王フリードリッヒ大王が、1740年にポツダムに建設した宮殿、「サン・スーシ」で演奏されたであろう曲です。音楽や学問(「算数師」ね)に造詣が深く、自らもフルートを巧みに演奏したというフリードリッヒ大王の許には、彼のフルートの師でもあり、音楽理論家でもあったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツや、大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハなどが集まり、宮殿では毎夜のようにコンサートが開かれていたのです。
オリジナル楽器による演奏の、まさに第1世代と位置づけられるフルート奏者ハンス・マルティン・リンデが中心になったこのアルバムでは、当然のことながら、大王がたしなんだフルートの曲、クヴァンツ、エマニュエル・バッハ、ゲオルク・ベンダ、そして大王自身のソナタを聴くことが出来ます。しかし、そのような「王のサロン」の再現を味わうという興味の他に、私たちにとっては、これが録音された1961年当時のオリジナル楽器へのアプローチがどんなものであったかという、ある意味「資料」としての価値を見逃すわけにはいきません。
事実、最近のオリジナル楽器の演奏を聴き慣れた耳には、この演奏はとても奇異に映ることでしょう。トラヴェルソ(バロック・フルート)はビブラートを思い切りかけて、低音もしっかり倍音を乗せるという、モダンフルートと全く変わらない奏法を貫いているのですから。さらに、チェンバロの音色も何か硬質な感じ、プレクトラムで「はじく」という軽やかさが全く感じられません。手元にある昔のLPには、きちんと楽器のデータが掲載されているのですが、それを見てみたら、チェンバロは「ノイペルト」、あの、オリジナル楽器とは縁もゆかりもないチェンバリスト、カール・リヒターが愛用した「モダン・チェンバロ」ではありませんか(最近でこそ、このメーカーも「ヒストリカル」を作るようになっていますが、1960年当時は「モダン」しか作っていなかったはずです)。トラヴェルソは一応18世紀の楽器のようですが、とりあえず木管でありさえすればいい(音程があまりに良すぎるので、もしかしたらキーがたくさんついた楽器かもしれません)、当時の奏法を研究したり、ヒストリカル・チェンバロが一般的に出回るのには、もう少し待たなければいけなかったという、そんな時代だったのですね。モダン・チェンバロとバランスを取るために、繊細なトラヴェルソから無理をして大きな音を出そうと頑張っているのがありありと分かるちょっと涙ぐましい演奏、こういうものが現実に「音」となって残っていて、この過渡的な時代を生々しく体験できるのですから、これは何物にも代え難い貴重な「記録」です。ただ、それには欠くことの出来ない楽器のデータが、このCDにはどこにも見当たらないのはなぜでしょう。LPにはなかった録音データはきちんと載っているのですから、楽器のデータだけを外したのは合点がいきません。もし、「オリジナル」を謳うために故意にモダンチェンバロを使っていることを隠蔽したのであれば、これほど情けないことはありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-27 20:06 | フルート | Comments(0)
FANTAISIE




Emily Beynon(Fl)
上野真(Pf)
CRYSTON/OVCC-00014



ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの日本制作による2枚目のソロアルバムです。レーベル名が1枚目と微妙に違っていますが、もちろんこれは実体は全く同じ、なんでも管楽器関係ではこのようなサブレーベルを使用するということです。
1枚目での、まさにソリストの顔に泥を塗りまくっていた粗悪なピアニストのことが念頭にありますから、このアルバムでも最大の関心事は、伴奏者の良否になってしまうのは、致し方ないことなのでしょう。しかし、ご安心下さい。昨年このレーベルからリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューをしたピアニスト上野真は、そんな確かなテクニックをひけらかすこともなく、しっかりソリストに寄り添った、絶妙な伴奏を聴かせてくれていました。録音会場のせいなのか、楽器のせいなのかは分かりませんが、そのピアノの音色もとてもソフトなもので、それはしっかりバイノンのフルートと溶け合っていたのです。
例えばフォーレの「子守歌」というよく知られている曲で、ソリストと伴奏者との間の的確なバランスを見て取ることが出来ることでしょう。このシンプルなメロディーに込められた様々な仕掛けを、バイノンはていねいに掘り起こしていきます。それはちょっとしたルバートであったり、あるいは意識されないほどの音色の変化であったりするのですが、そこから導き出される、それこそ「ファンタジー」あふれる音楽はどうでしょう。それを支えるゆりかごのようなピアノの音型が、決してフルートに媚びることなく、冷徹なほどのビートをキープしているからこそ、それは際だって聴き手に伝わってくるのでしょう。
先日ルーランドで聴いたケックランの作品が、あのアルバムとは全くダブらない曲目で収録されているのも、嬉しいことです。ここで聴けるのは、「ソナタ」と「14の小品」。「ソナタ」で広がる霧の中のような世界は、バイノンの信じられないようなピアニシモでリアリティあふれるものになりました。ほんと、この人のピアニシモは、どんな弱い音でもしっかり生命力が宿っているのですからすごいものです。現実には、他のオーケストラの首席奏者クラスでも、ただ「弱い」だけで、完全に「死んだ」音しか出せないプレーヤーの、何と多いことでしょう。もう一つ、屈託のないテイストが心地よい「小品」では、彼女の低音の豊かな響きを満喫することにしましょう。最後から2番目の「葬送行進曲」というタイトルの曲が、日本の子守歌のように聞こえるのも、ご愛敬。
今回のアルバムの選曲は、一見するとかなり脈絡のないもののように思えます。サン・サーンスの「白鳥」や、ラヴェルの「ハバネラ」のような「名曲」があったかと思うと、ケックランのようなかなりコアなレパートリーが入っていたり、一体どういう聴衆に向けて作られたのか分からなくなるような曲の配列になっています。今、クラシック音楽の作り手が一様に抱えているターゲットの設定の難しさと言う問題が、図らずも露呈してしまった形で、結局どっちつかずのものになってしまったという印象は免れません。その結果、収録時間は80分近くになってしまい、フルートも、そしてバイノンも大好きな私でさえ、一気に聴き通すのはかなり辛いものがあったことを白状しなければなりません。これだけのアーティストが用意されていながら、それを用いて芯の通った密度の高いアルバムひとつ作ることが出来ないのが、今のクラシック界なのです。ポン・デ・ライオンには芯はありませんが(それは「ミスド」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-13 19:47 | フルート | Comments(2)
CIMAROSA, MOLIQUE, MOSCHELES/Wind Concertos


Mathieu Dufour(Fl)
Alex Klein(Ob)
Paul Freeman/
Czech National Symphony Orchestra
CEDILLE/CDR 90000 080



風をいっぱいに受けた帆船がジャケットに描かれているとはいっても、これは「風の協奏曲」というアルバムタイトルではありません。「Wind」というのは、フルネームは「Wood Wind」で、「木管楽器」という意味、ですから、もちろんこのアルバムは「木管楽器のための協奏曲」ということになり、フルートとオーボエのための協奏曲が収録されています。ソリストは、録音が行われた2003年には、揃ってシカゴ交響楽団の首席奏者だったフルートのマテュー・デュフーと、オーボエのアレックス・クレインです。ちなみに、クレインは2004年にこのポストを去っています。
バロックの時代には、管楽器のための協奏曲はたくさん作られていますが、ロマン派の時代になると、協奏曲の主役はもっぱらピアノとヴァイオリンに限られてしまった感があります。事実、「シューマンのフルート協奏曲」とか「ブラームスのオーボエ協奏曲」なんて、聞いたことがありませんものね。なんと言っても、ソリストとしてこの時代の技巧に富んだ音楽を託されるには、管楽器にはちょっと荷が重いという一面があったのかもしれません。確かに、フルートなどが現代の楽器と同じような低音から高音までムラのない響きと、輝かしい音色を獲得できるようになったのはごく最近のこと、その始まりとなったベームの楽器が完成を見たのは19世紀も半ばを過ぎてからのことだったのですから。従って、本当の意味での技巧的な管楽器の協奏曲が作られるようになるのは、20世紀に入ってから、さらに、「ソリスト」として独り立ち出来る管楽器演奏家が出てくるのは、その世紀の殆ど終わりに近づいた頃だったのです。
しかし、そんな管楽器にとっては「不毛」の時代でも、確かに可能性を信じて曲を残してくれていた人はいました。このアルバムで聴くことが出来るヴィルヘルム・ベルンハルト・モリックという、手品師みたいな名前(それは「マリック」)の作曲家の作品も、そんな愛好家の渇きを癒してくれるような素晴らしいフルート協奏曲です。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるような短調の第1楽章では、デュフーの力強い低音と、揺るぎのないテクニックで、ヴァイオリンに勝るとも劣らない多彩な表現を見せてくれています。そして、何よりも美しいのが第2楽章、甘く歌われるテーマは、まさに「ロマン派」、そして、そのテーマが回想される部分のソット・ヴォーチェは絶品です。第3楽章のロンドも、3つのテーマが入り乱れて楽しませてくれます。もう一人、同じ時代のこちらはピアノ関係で有名なイグナツ・モシェレスの「コンチェルタンテ」は、ソロがオーボエとフルート、まるでヴァーグナーを思わせる半音進行の前半と、ベル・カントのオペラのような後半の対比が素敵です。いずれの曲でも、デュフーとクレインは肩の力の抜けたファンタジーあふれる音楽を聴かせてくれています。
時代的にはもう少し早くなるドメニコ・チマローザの、有名な2本のフルートのための協奏曲を、ここではフルートとオーボエの二重協奏曲として聴くことが出来ます。ソロ楽器のアンサンブルにはいささかの崩れもないのですが、この曲に関しては鈍い反応のオーケストラとも相まって、ちょっと他の2人の曲ほどの生気が感じられなかったのが、残念です。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-02 19:54 | フルート | Comments(0)
BACH/Die Flötensonaten




福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021


京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-27 19:40 | フルート | Comments(0)
KOECHLIN/Chamber Music with Flute




Tatjana Ruhland(Fl)
Yaara Tal(Pf)
HÄNSSLER/CD 93.157



このレーベルではおなじみ、シュトゥットガルト放送交響楽団で、木管の「顔」として首席フルート奏者を努めているタティアナ・ルーランドが中心になったアルバム、ケックランの様々な楽器とのアンサンブル曲を演奏しています。その相方、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者などは、もちろんこのオーケストラのメンバーです。
パリ音楽院でマスネとフォーレに学んだシャルル・ケックランは、しかし、そのようなフランスの流れにはとどまらない、広範な作曲技法を模索することになります。ある人に言わせれば、まるであのストラヴィンスキーのように、作風のバリエーションは豊富だとか。彼の手法はグレゴリオ聖歌や教会旋法から、12音技法にまでおよんだということです。テレビ番組も作りましたし(それは「カックラキン」)。
ここで聴かれる小さな曲たちの中にも、そんな技法の片鱗は窺えます。師フォーレの作品などでもおなじみの、実際にフルートを学ぶ学生のための初見課題として作られたほんの2分足らずの「小品」なども、いかにも流れるような情緒たっぷりのメロディーが最後まで続くかと思わせて、最後にいきなり突拍子もないパッセージが現れるのですから、それこそ「初見」で演奏した学生は面食らったことでしょうね。「2本のフルートのためのソナタ」なども、明らかに12音技法が使われている曲です。ただ、それだけに終わらない、魅力的な一面をきちんと保っているのは、見事です。「フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ」では、最後の楽章に現れるのは、まるでドイツ・ロマン派のようなテーマ、しかもそれが「フーガ」という古典的な手法で展開されるのですから、驚かされます。
楽器の組み合わせにも、ケックランのユニークさは現れています。フルート、ホルン、ピアノという、ちょっとミスマッチっぽい編成の「2つのノクターン」は、予想に反してホルンとフルートが見事に溶け合った素敵なサウンドを聴くことが出来ます。ただ、中には本当のミスマッチも。映画好きのケックランが、1937年に亡くなった美人女優ジーン・ハーローを偲んで作ったという「ジーン・ハーローの墓碑銘」という曲では、フルートにアルト・サックスとピアノという組み合わせを取っているのですが、これを聴くと、この新参者の楽器がいかにフルートと似つかわしくないか、いや、もっと言えば、この暴力的で無神経な音はそもそもクラシック音楽とはなじまないものなのだということが如実に分かってしまいます。
神戸の国際フルートコンクールでも入賞(上位入賞ではありませんが)したというルーランドは、先日ご紹介したハンガリーのフルーティストとは比べようもない、洗練された演奏を聴かせてくれています。特に、高音の抜けるような響きはとことん魅力的、いまいち内向的なケックランの音楽に、確かな華やかさを与えてくれています。もう一人、同じオーケストラから参加しているフルーティスト、クリスティーナ・ジンガーと一緒に演奏している曲では、明らかに存在感に違いがあるのが分かります。ただ、このような輝かしい音は、現在のシェフ、ノリントンがこのオーケストラから引き出そうとしているある種禁欲的な音色とは、若干相容れないものであるのは明らかです。そのあたりを、この首席奏者はどのように折り合いを付けているのか、あるいは密かに火花を散らしあっているのか、もうしばらく様子を見ていたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-19 19:15 | フルート | Comments(0)