おやぢの部屋2
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カテゴリ:フルート( 212 )
Nordic Spell





Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499



「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-09 19:53 | フルート | Comments(0)
Flautissimo




Dóra Seres(Fl)
Emese Mali(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32299



ベルリン・フィルの首席奏者を長く務めたフルーティスト、カールハインツ・ツェラーが亡くなったそうですね。以前、彼の昔のアルバムをご紹介した時に、最近のフルーティストの粒の小ささを嘆いたことがありましたが、本当に近頃は「これぞ」という人にはお目にかかることが出来ません。
このアルバム、ミュシャをあしらったジャケットと、「World Premiere Recording」という文字に誘われて買ってしまいました。ただ、曲目はフルート関係者には馴染みのものばかり、どこが「世界初録音」なのか、という疑問は残ります。
ドーラ・シェレシュというハンガリーの若いフルーティスト、1980年生まれといいますから、まだ25才、それでハンガリー放送交響楽団の首席奏者を務めているのですから、音楽的には申し分のないものを持っているのでしょう。2001年に開催された「プラハの春国際コンクール」で1位を獲得したのを始め、その受賞歴には輝かしいものがあります。同じ年に神戸で行われた国際フルートコンクールでも2位に入賞しています。その神戸のコンクールには、このサイトではお馴染みの瀬尾和紀さんも出場、その彼でさえ6位入賞ですから、その実力は確かなものなのでしょう。さらに2003年のブダペスト国際フルートコンクールでも優勝、その時の「お祝い」ということで録音されたのが、このアルバムなのです。
確かに、その経歴からも分かるように、彼女のフルートが高い水準にあることは、最初のムーケの「フルートとパン」を聴けばよく分かります。輝かしくムラのない音色は、まず上位入賞に欠かせないものです。そして、流れるように正確なテクニック、もちろん超絶技巧を思わせる華やかさも充分に備えていることも必要でしょう。1曲目の「パンと羊飼い」は、それで軽々と乗り切ることが出来ます。しかし、2曲目の「パンと鳥たち」になると、それを超えた次元での「味」が欲しくなってきます。それは、先ほどのツェラーやゴールウェイを知っているものにとっては、この曲には絶対あって欲しいもの、つまり、この2番目のトラックで、早くも不満が噴出するという、若手フルーティストにとっては過酷な状況に陥ってしまうのです。
次のフランセの「ディヴェルティメント」では、何よりも瀬尾さんのアルバムが前に立ちはだかっています。メカニカルな面では遜色はないものの、例えば2曲目の「ノットゥルノ」あたりでは、彼女の歌い方が淡泊になっとるの、というのがもろに露呈されてしまいます。さらに、ここではピアニストのあまりの消極性も。
フェルトのソナタでは、コンディションもあるのでしょうが、リズムに乗り切れていないもたつきがちょっと気になってしまいます。これは、リーバーマンのソナタの第2楽章でも見られること、もしかしたら、これは彼女のクセなのかも知れません。それとも、ひょっとしたらランパルのまね?
結局、「世界初録音」のものなど、どこにもありませんでした。考えられるのは、これが彼女にとっての「初めての録音」ということ。これから数多くの録音を行っていくはずだから、この「初録音」は貴重なものですよ、という意味なのでしょうか。そんな意味でこの言葉を使って欲しくはありませんし、何よりもこれが「最後の録音」にならないように、祈るのみです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-15 21:00 | フルート | Comments(0)
Music in Sanssouci



Hans Martin Linde(Fl.tr.)
Johannes Koch(Va.d.g.)
Hugo Ruf(Cem)
DHM/82876 69998 2



この、まるでDGの「Originals」みたいなデザインのジャケット、DEUTSCHE HARMONIA MUNDIの昔のカタログの復刻版のシリーズです。斜めになっているのが、オリジナルのLPジャケットというわけですね。その中で目についたのが、このアイテム、「サン・スーシでの音楽」というタイトルが付いたこのジャケットには、確かに見覚えがあります。それもそのはず、家へ帰って探してみたら、この元のLPの国内盤が見つかりました。しばらく会っていなかった友人に久しぶりに再会したような気分です。
タイトルの通り、ここに収められているのは、プロシャ王フリードリッヒ大王が、1740年にポツダムに建設した宮殿、「サン・スーシ」で演奏されたであろう曲です。音楽や学問(「算数師」ね)に造詣が深く、自らもフルートを巧みに演奏したというフリードリッヒ大王の許には、彼のフルートの師でもあり、音楽理論家でもあったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツや、大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハなどが集まり、宮殿では毎夜のようにコンサートが開かれていたのです。
オリジナル楽器による演奏の、まさに第1世代と位置づけられるフルート奏者ハンス・マルティン・リンデが中心になったこのアルバムでは、当然のことながら、大王がたしなんだフルートの曲、クヴァンツ、エマニュエル・バッハ、ゲオルク・ベンダ、そして大王自身のソナタを聴くことが出来ます。しかし、そのような「王のサロン」の再現を味わうという興味の他に、私たちにとっては、これが録音された1961年当時のオリジナル楽器へのアプローチがどんなものであったかという、ある意味「資料」としての価値を見逃すわけにはいきません。
事実、最近のオリジナル楽器の演奏を聴き慣れた耳には、この演奏はとても奇異に映ることでしょう。トラヴェルソ(バロック・フルート)はビブラートを思い切りかけて、低音もしっかり倍音を乗せるという、モダンフルートと全く変わらない奏法を貫いているのですから。さらに、チェンバロの音色も何か硬質な感じ、プレクトラムで「はじく」という軽やかさが全く感じられません。手元にある昔のLPには、きちんと楽器のデータが掲載されているのですが、それを見てみたら、チェンバロは「ノイペルト」、あの、オリジナル楽器とは縁もゆかりもないチェンバリスト、カール・リヒターが愛用した「モダン・チェンバロ」ではありませんか(最近でこそ、このメーカーも「ヒストリカル」を作るようになっていますが、1960年当時は「モダン」しか作っていなかったはずです)。トラヴェルソは一応18世紀の楽器のようですが、とりあえず木管でありさえすればいい(音程があまりに良すぎるので、もしかしたらキーがたくさんついた楽器かもしれません)、当時の奏法を研究したり、ヒストリカル・チェンバロが一般的に出回るのには、もう少し待たなければいけなかったという、そんな時代だったのですね。モダン・チェンバロとバランスを取るために、繊細なトラヴェルソから無理をして大きな音を出そうと頑張っているのがありありと分かるちょっと涙ぐましい演奏、こういうものが現実に「音」となって残っていて、この過渡的な時代を生々しく体験できるのですから、これは何物にも代え難い貴重な「記録」です。ただ、それには欠くことの出来ない楽器のデータが、このCDにはどこにも見当たらないのはなぜでしょう。LPにはなかった録音データはきちんと載っているのですから、楽器のデータだけを外したのは合点がいきません。もし、「オリジナル」を謳うために故意にモダンチェンバロを使っていることを隠蔽したのであれば、これほど情けないことはありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-27 20:06 | フルート | Comments(0)
FANTAISIE




Emily Beynon(Fl)
上野真(Pf)
CRYSTON/OVCC-00014



ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの日本制作による2枚目のソロアルバムです。レーベル名が1枚目と微妙に違っていますが、もちろんこれは実体は全く同じ、なんでも管楽器関係ではこのようなサブレーベルを使用するということです。
1枚目での、まさにソリストの顔に泥を塗りまくっていた粗悪なピアニストのことが念頭にありますから、このアルバムでも最大の関心事は、伴奏者の良否になってしまうのは、致し方ないことなのでしょう。しかし、ご安心下さい。昨年このレーベルからリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューをしたピアニスト上野真は、そんな確かなテクニックをひけらかすこともなく、しっかりソリストに寄り添った、絶妙な伴奏を聴かせてくれていました。録音会場のせいなのか、楽器のせいなのかは分かりませんが、そのピアノの音色もとてもソフトなもので、それはしっかりバイノンのフルートと溶け合っていたのです。
例えばフォーレの「子守歌」というよく知られている曲で、ソリストと伴奏者との間の的確なバランスを見て取ることが出来ることでしょう。このシンプルなメロディーに込められた様々な仕掛けを、バイノンはていねいに掘り起こしていきます。それはちょっとしたルバートであったり、あるいは意識されないほどの音色の変化であったりするのですが、そこから導き出される、それこそ「ファンタジー」あふれる音楽はどうでしょう。それを支えるゆりかごのようなピアノの音型が、決してフルートに媚びることなく、冷徹なほどのビートをキープしているからこそ、それは際だって聴き手に伝わってくるのでしょう。
先日ルーランドで聴いたケックランの作品が、あのアルバムとは全くダブらない曲目で収録されているのも、嬉しいことです。ここで聴けるのは、「ソナタ」と「14の小品」。「ソナタ」で広がる霧の中のような世界は、バイノンの信じられないようなピアニシモでリアリティあふれるものになりました。ほんと、この人のピアニシモは、どんな弱い音でもしっかり生命力が宿っているのですからすごいものです。現実には、他のオーケストラの首席奏者クラスでも、ただ「弱い」だけで、完全に「死んだ」音しか出せないプレーヤーの、何と多いことでしょう。もう一つ、屈託のないテイストが心地よい「小品」では、彼女の低音の豊かな響きを満喫することにしましょう。最後から2番目の「葬送行進曲」というタイトルの曲が、日本の子守歌のように聞こえるのも、ご愛敬。
今回のアルバムの選曲は、一見するとかなり脈絡のないもののように思えます。サン・サーンスの「白鳥」や、ラヴェルの「ハバネラ」のような「名曲」があったかと思うと、ケックランのようなかなりコアなレパートリーが入っていたり、一体どういう聴衆に向けて作られたのか分からなくなるような曲の配列になっています。今、クラシック音楽の作り手が一様に抱えているターゲットの設定の難しさと言う問題が、図らずも露呈してしまった形で、結局どっちつかずのものになってしまったという印象は免れません。その結果、収録時間は80分近くになってしまい、フルートも、そしてバイノンも大好きな私でさえ、一気に聴き通すのはかなり辛いものがあったことを白状しなければなりません。これだけのアーティストが用意されていながら、それを用いて芯の通った密度の高いアルバムひとつ作ることが出来ないのが、今のクラシック界なのです。ポン・デ・ライオンには芯はありませんが(それは「ミスド」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-13 19:47 | フルート | Comments(2)
CIMAROSA, MOLIQUE, MOSCHELES/Wind Concertos


Mathieu Dufour(Fl)
Alex Klein(Ob)
Paul Freeman/
Czech National Symphony Orchestra
CEDILLE/CDR 90000 080



風をいっぱいに受けた帆船がジャケットに描かれているとはいっても、これは「風の協奏曲」というアルバムタイトルではありません。「Wind」というのは、フルネームは「Wood Wind」で、「木管楽器」という意味、ですから、もちろんこのアルバムは「木管楽器のための協奏曲」ということになり、フルートとオーボエのための協奏曲が収録されています。ソリストは、録音が行われた2003年には、揃ってシカゴ交響楽団の首席奏者だったフルートのマテュー・デュフーと、オーボエのアレックス・クレインです。ちなみに、クレインは2004年にこのポストを去っています。
バロックの時代には、管楽器のための協奏曲はたくさん作られていますが、ロマン派の時代になると、協奏曲の主役はもっぱらピアノとヴァイオリンに限られてしまった感があります。事実、「シューマンのフルート協奏曲」とか「ブラームスのオーボエ協奏曲」なんて、聞いたことがありませんものね。なんと言っても、ソリストとしてこの時代の技巧に富んだ音楽を託されるには、管楽器にはちょっと荷が重いという一面があったのかもしれません。確かに、フルートなどが現代の楽器と同じような低音から高音までムラのない響きと、輝かしい音色を獲得できるようになったのはごく最近のこと、その始まりとなったベームの楽器が完成を見たのは19世紀も半ばを過ぎてからのことだったのですから。従って、本当の意味での技巧的な管楽器の協奏曲が作られるようになるのは、20世紀に入ってから、さらに、「ソリスト」として独り立ち出来る管楽器演奏家が出てくるのは、その世紀の殆ど終わりに近づいた頃だったのです。
しかし、そんな管楽器にとっては「不毛」の時代でも、確かに可能性を信じて曲を残してくれていた人はいました。このアルバムで聴くことが出来るヴィルヘルム・ベルンハルト・モリックという、手品師みたいな名前(それは「マリック」)の作曲家の作品も、そんな愛好家の渇きを癒してくれるような素晴らしいフルート協奏曲です。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるような短調の第1楽章では、デュフーの力強い低音と、揺るぎのないテクニックで、ヴァイオリンに勝るとも劣らない多彩な表現を見せてくれています。そして、何よりも美しいのが第2楽章、甘く歌われるテーマは、まさに「ロマン派」、そして、そのテーマが回想される部分のソット・ヴォーチェは絶品です。第3楽章のロンドも、3つのテーマが入り乱れて楽しませてくれます。もう一人、同じ時代のこちらはピアノ関係で有名なイグナツ・モシェレスの「コンチェルタンテ」は、ソロがオーボエとフルート、まるでヴァーグナーを思わせる半音進行の前半と、ベル・カントのオペラのような後半の対比が素敵です。いずれの曲でも、デュフーとクレインは肩の力の抜けたファンタジーあふれる音楽を聴かせてくれています。
時代的にはもう少し早くなるドメニコ・チマローザの、有名な2本のフルートのための協奏曲を、ここではフルートとオーボエの二重協奏曲として聴くことが出来ます。ソロ楽器のアンサンブルにはいささかの崩れもないのですが、この曲に関しては鈍い反応のオーケストラとも相まって、ちょっと他の2人の曲ほどの生気が感じられなかったのが、残念です。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-02 19:54 | フルート | Comments(0)
BACH/Die Flötensonaten




福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021


京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-27 19:40 | フルート | Comments(0)
KOECHLIN/Chamber Music with Flute




Tatjana Ruhland(Fl)
Yaara Tal(Pf)
HÄNSSLER/CD 93.157



このレーベルではおなじみ、シュトゥットガルト放送交響楽団で、木管の「顔」として首席フルート奏者を努めているタティアナ・ルーランドが中心になったアルバム、ケックランの様々な楽器とのアンサンブル曲を演奏しています。その相方、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者などは、もちろんこのオーケストラのメンバーです。
パリ音楽院でマスネとフォーレに学んだシャルル・ケックランは、しかし、そのようなフランスの流れにはとどまらない、広範な作曲技法を模索することになります。ある人に言わせれば、まるであのストラヴィンスキーのように、作風のバリエーションは豊富だとか。彼の手法はグレゴリオ聖歌や教会旋法から、12音技法にまでおよんだということです。テレビ番組も作りましたし(それは「カックラキン」)。
ここで聴かれる小さな曲たちの中にも、そんな技法の片鱗は窺えます。師フォーレの作品などでもおなじみの、実際にフルートを学ぶ学生のための初見課題として作られたほんの2分足らずの「小品」なども、いかにも流れるような情緒たっぷりのメロディーが最後まで続くかと思わせて、最後にいきなり突拍子もないパッセージが現れるのですから、それこそ「初見」で演奏した学生は面食らったことでしょうね。「2本のフルートのためのソナタ」なども、明らかに12音技法が使われている曲です。ただ、それだけに終わらない、魅力的な一面をきちんと保っているのは、見事です。「フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ」では、最後の楽章に現れるのは、まるでドイツ・ロマン派のようなテーマ、しかもそれが「フーガ」という古典的な手法で展開されるのですから、驚かされます。
楽器の組み合わせにも、ケックランのユニークさは現れています。フルート、ホルン、ピアノという、ちょっとミスマッチっぽい編成の「2つのノクターン」は、予想に反してホルンとフルートが見事に溶け合った素敵なサウンドを聴くことが出来ます。ただ、中には本当のミスマッチも。映画好きのケックランが、1937年に亡くなった美人女優ジーン・ハーローを偲んで作ったという「ジーン・ハーローの墓碑銘」という曲では、フルートにアルト・サックスとピアノという組み合わせを取っているのですが、これを聴くと、この新参者の楽器がいかにフルートと似つかわしくないか、いや、もっと言えば、この暴力的で無神経な音はそもそもクラシック音楽とはなじまないものなのだということが如実に分かってしまいます。
神戸の国際フルートコンクールでも入賞(上位入賞ではありませんが)したというルーランドは、先日ご紹介したハンガリーのフルーティストとは比べようもない、洗練された演奏を聴かせてくれています。特に、高音の抜けるような響きはとことん魅力的、いまいち内向的なケックランの音楽に、確かな華やかさを与えてくれています。もう一人、同じオーケストラから参加しているフルーティスト、クリスティーナ・ジンガーと一緒に演奏している曲では、明らかに存在感に違いがあるのが分かります。ただ、このような輝かしい音は、現在のシェフ、ノリントンがこのオーケストラから引き出そうとしているある種禁欲的な音色とは、若干相容れないものであるのは明らかです。そのあたりを、この首席奏者はどのように折り合いを付けているのか、あるいは密かに火花を散らしあっているのか、もうしばらく様子を見ていたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-19 19:15 | フルート | Comments(0)
DVORÁK, SCHUBERT, FRANCK/Flute Works




János Bálint(Fl)
Zoltán Kocsis(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32280



ドヴォルジャークのソナチネ、シューベルトの「しぼめる花による序奏と変奏」そしてフランクのソナタという、フルート界では馴染みのあるプログラムのアルバムです。もっとも、ドヴォルジャークとフランクはもともとはヴァイオリンのための曲をフルート用にアレンジしたものです。演奏しているフルーティストは、ヤーノシュ・バリントという、歌も歌えそうな(それは「バリトン」)名前の方、1961年生まれの中堅で、ハンガリー国立フィルの首席奏者を務めています。楽器は、日本の「パール」を使っているそうです。そしてピアノが、そのハンガリー国立フィルの音楽監督、つまり指揮者としての活躍も最近ではめざましいゾルタン・コチシュです。
ドヴォルジャークのソナチネでは、まず、誰が編曲をした楽譜なのか、というのが問題になります。かつてはランパルによるものが主流でしたが、これはちょっと地味、というか、ヴァイオリンパートをそのままフルートに置き換えただけのものなので、最近ではゴールウェイによるもっとフルートが目立つ編曲の方が人気があるようになっています。ここでバリントが選んだのが、アラン・マリオン版、初めて聴くものですが、基本的にはランパル版と殆ど変わらないもののようです。その編曲の選択からも分かるように、バリントの演奏はとても堅実というか、はっきり言ってかなり地味、終始コチシュのピアノが主導権を握っているという印象はぬぐえません。
シューベルトになると、その印象はさらに強まります。もちろんこれはオリジナルのフルートとピアノのデュオですから、フルートパートもかなり技巧的、どう吹いてもフルートが「勝てる」場面はいくらでもあるのですが、それがことごとくピアノに「負けて」しまっています。そもそも最初のテーマの歌い方からして、ピアノの序奏でコチシュが放つ細やかなニュアンスが、全くフルートに受け継がれないという具合で、表現における力の差が歴然としているものですから。まあ、それはそれで「フルートのオブリガートが付いたピアノソロ」といった趣を楽しむのも、一興かもしれません。
フランクの場合は、ライナーの表記に誤りがあります。「ロベール・カサドシュによる編曲」とあるのは間違いで(確かにピアノパートの校訂は行っていますが)、フルートパートの編曲をしたのはランパルです。ただ、ここでバリントは、第4楽章のカノンのテーマを、最初は1オクターブ下げて演奏しています。途中から唐突にオクターブ上げるのも異様なのですが、ただでさえ目立たないフルートをこんなに埋没させてしまうなんて、この人はどこまで卑屈なのでしょう。
主役はフルートであるはずのアルバムですが、聴き終わってみると、久しぶりに味わったコチシュのピアノばかりが印象に残ってしまいました。フルートの伴奏に徹しているところもありますが、いざソロがまわってきた時の生き生きとした弾けようには圧倒されます。言ってみれば、格の違う演奏家と組んでしまったフルーティストの悲劇、でしょうか。
録音場所が、ブダペストの「フェニックス・スタジオ」、どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、瀬尾和紀さんがNAXOSホフマンの協奏曲を録音したところでした。別になんの関係もありませんが。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-15 19:33 | フルート | Comments(0)
Mirror of Eternity



Wissam Boustany(Fl)
Volodymyr Sirenko/
National Symphony Orchestra of Ukraine
QUARTZ/QTZ 2015



「永遠の鏡」というタイトルのこのアルバム、レバノンの作曲家Houtaf Khoury(なんと読むのでしょう)が作った同名の曲の他に、ハチャトゥリアンのフルート協奏曲と、ウクライナのスタンコヴィッチという人の「室内交響曲第3番」(実質的にはフルート協奏曲)の3曲が収められています。演奏しているのは、レバノン生まれで、現在はロンドンを中心に活躍しているフルーティスト、ウィッサム・ブースタニーと、ウクライナ生まれの指揮者シレンコに率いられたウクライナ国立交響楽団という、ローカリティあふれる顔ぶれになっています。レバノン、ウクライナ、そしてハチャトゥリアンのアルメニアと、いずれもヨーロッパとアジアの境目に位置する国々の、特異な民族性を持った音楽たち、それを、西洋音楽に慣らされてしまった耳へのひとときの刺激剤としてこのアルバムを求めたのであれば、あなたはここで聴くことの出来るとてつもないメッセージに、殆ど圧倒されてしまうことでしょう。そう、まさに私自身が、とりわけハチャトゥリアンに込められた「思い」の大きさに、呆然となっているところです。
原曲はヴァイオリンのための協奏曲を、ランパルのためにフルート用に書き直したこの曲については、機会があって殆ど全てのCDを聴いてきました。そのような下地を持っていたところにこの演奏を聴いたわけですが、その第2楽章には、いまだかつてこの曲からは味わったことのない「悲しみ」の世界が広がっていたのです。最初のフルートソロによるテーマ、それは確かにメランコリックな趣を持つものではありますが、ここでブースタニーが吹いているような、まるですすり泣きを思わせる表現をとっている人など、誰もいません。オーケストラも、中間部のヴィオラによる長いパートソロを聴いてみて下さい。これほど心にしみる重い演奏は、決してヨーロッパの洗練されたオーケストラからは聴くことは出来ないでしょう。そのパートソロが終わって、また現れるフルートソロが、さらに「悲しみ」を助長するもの、フレーズの一つ一つが、まるで針のように心に突き刺さってきます。
しかし、この重苦しい「悲しみ」は、続く第3楽章のダンスによって、ものの見事に「解放」されるのです。それはまるで勝利の宴のような華やかさをもって、真の喜びをもたらしてくれるものです。こんなプログラム、おそらく作曲者自身も意図していたものではなかったことでしょう。そもそもオリジナルのヴァイオリンではなく、フルートだったからこそ、あのような悲痛な響きを醸し出すことが出来たのでしょうから。
ブースタニーのフルートは、決して洗練されたものではなく、華やかさという点では難がありますが、このような深い表現を実現させる「技」には、卓越したものがあります。さらに、レバノンとウクライナの作曲家の曲の場合では、西洋音楽ではあまり使われることのないビブラートや音色のバリエーションが、とても豊か、そして、民族楽器を思わせる高いレジスターでの安定ぶりには、舌を巻く他はありません。それは、テクニックだけではなく、彼の中に流れる「血」のなせる業、西洋の洗練を追い求めることを至上の目的としている私たち日本人が、もしかしたら忘れてしまっていたことを思い出させてくれるものなのかもしれませいよう
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by jurassic_oyaji | 2005-05-09 20:24 | フルート | Comments(0)
French Flute Music




Patrick Gallois(Fl)
Lydia Wong(Pf)
NAXOS/8.557328



前作のモーツァルトの協奏曲では、今までになかったような型破りな演奏を披露してくれたガロワですが、今回はオーソドックスな「フランス音楽」のアルバムを録音してくれました。もちろん「オーソドックス」だと思っているのは、一部のフルート演奏家及び愛好家だけなのかもしれませんが。というのも、ここに収録されている曲は、プーランクはともかく、ピエール・サンカンやアンリ・デュティユーのソナチネなどは、フルーティストのレッスンには必ず登場する「名曲」ではあるのですが、一般の音楽愛好家が好んで聴いているといった意味での名曲では決してないのです。「勉強したことがあるから」という流れで、リサイタルなどで取り上げる演奏家も多いことでしょうが、大体そういうところに聴きに行くのは限られた「フルート社会」の人たちだけでしょうから、そのような場で真に音楽的な演奏など、生まれるはずもありません。
もちろん、ここでガロワが披露しているものは、そんな硬直したありきたりの演奏であるわけはありません。ある種「お約束」が支配しているこれらの曲から、彼は見違えるばかりの生き生きとした音楽を引き出してくれているのですから。それは、よく言われる「フランス音楽のエスプリ」などというようなちょっと甘ったるい印象を与える語彙で括られるようなものではなく、「魂のほとばしり」とでも言えるほどのもっと逞しいものなのです。それは、例えばプーランクのソナタの最初のテーマの橋渡しに用いられている上昇スケールを、テンポの中でさらりと聴かせるという「普通の」演奏によく見られる扱いではなく、ことさらその中に意味を見出すことを要求するような、一瞬停滞するかのような表現からも、感じ取ることが出来るはずです。
最後のトラックに収録されているのが、ピエール・ブーレーズの「ソナチネ」であることが、このアルバムの価値をさらに高めることになっています。1946年という、「現代音楽」が最も尖った様相を見せていた時代の産物を、このような「名曲」の中に折り込むというプログラミング自体が、すでに「事件」なのですから。実際、この曲の録音で現在入手可能なものは、ブーレーズの「身内」とも言えるソフィー・シェリエのものぐらい(あいにく、聴いたことはありませんが)、いわゆる「名演奏家」によるものは皆無です(シュルツ盤は廃盤になっています)。ですから、そこに、ガロワの演奏が加わった意義は小さくはないはずです。手元に1969年録音のニコレの演奏によるWERGOのLPがあったので、久しぶりに聴き直してみたのですが、それはこの年月が作品に与えた充分な醸成期間であったことをはっきりと物語るものでした。とても複雑なこの曲のスコア、特にダイナミックスには細かい指定があるのですが、ニコレの場合音符を追うのに精一杯で、とてもそこまでは手が回らないという感じなのに、ガロワはまさに余裕を持ってそれらの指定を忠実に音にしているのです。ちょっと意外かもしれませんが、実はこういう現代曲でのガロワの楽譜に対する忠実さには、定評があります。その自信に満ちたしなやかな演奏からは、「ブーレーズ」を、甲高い声がいやだからと(それは「ネーネーズ」)ちょっと敬遠していた人でもすんなり入り込んでいける、確かな魅力が伝わってきます。始まってちょっとしたあたりの、ピアノのトリルに乗った「Très modéré, presque lent」の部分のフルートの美しいこと。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-07 19:43 | フルート | Comments(0)