おやぢの部屋2
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カテゴリ:フルート( 218 )
Concertos for Flute and Orchestra



Wolfgang Schulz(Fl)
Ola Rudner/
Haydn Orchestra
CAMERATA/CMCD-28097



収録されているのはシャミナードの「コンチェルティーノ」、ユーの「ファンタジー」、そしてイベールとフランセのフルート協奏曲という、フルートの世界ではよく知られた作品ばかりです。しかし、なぜか、フランセの協奏曲は今まで私の知る限り正規の録音として出ていたものはマニュエラ・ヴィースラーによるBIS盤しかありませんでした。

       CD-529

ですから、今回のシュルツの録音は、そんなカタログの穴を埋めるものとして、渇望されていたものに違いありません。その上、ユーも、オーケストラ伴奏の形は、私にとっては初めての経験です。というより、この曲が本来はオーケストラとフルート独奏の編成で作られたものだとゆーことも、今回初めて知ることが出来ました。事実、この全く新しい響きで迫ってくる「ファンタジー」は、このアルバムでの何よりの収穫となりました。まず、最初のオーケストラだけによる序奏を聴くだけで、この曲が独特の雰囲気をみなぎらせたものであることがはっきり分かります。これは、無機的なピアノ伴奏では決して味わうことの出来ないものでした。その様なさまざまな彩りに覆われて、今まで演奏会用の退屈なピースでしかないと思っていたものが、一つの聴き応えのある作品であることを知った喜びは、格別のものがあります。
そんな風に、バックを務める「ハイドン・オーケストラ」というイタリアの団体は、スウェーデンの指揮者ルードナーのもとで、単なる伴奏に終わらない確かな主張を繰り広げています。イベールの協奏曲でもことさらオケのパートを聴いているのでなくても、今まで気づかなかったようなフレーズがあちこちから聞こえてきて、新しい魅力に気づかされることが何度あったことでしょう。
ただ、もしかしたら、シュルツのフルートにそれほど惹き付けられるものがなかったために、他のパートに耳が行ってしまった、というだけのことだったのかもしれません。ご存じ、このウィーン・フィルの首席奏者は、その強烈な個性でもって、ウィーン・フィル自体の音さえも変えてしまったほどのフルーティストです。複数の首席奏者を持つこのオーケストラでも、彼が乗っている時にははっきりそれが聞き分けられるほどの「目立つ」音の持ち主でした。しかし、その音は力強くは華麗ではあっても、柔軟さや繊細さとはちょっと距離を置いたものであることも事実なのです。さらに、音楽の作り方もいわば力ずくで相手を圧倒させるという趣味の勝ったもの、ですから、イベールの最後の楽章などは、変に力の入ったあまり美しくない側面ばかりが目立ってしまいます。
そんな彼が、まさに軽妙洒脱のかたまりのようなフランセの協奏曲を演奏するのですから、そこにはちょっと戯画的な光景が広がることを避けるわけにはいきません。言ってみれば、「ヒロシ」のように、そこにいるだけでふわっとしたおかしさがこみ上げてくる、といった「お笑い」とは最も遠いところにある、「俺がこんだけ一生懸命やっているんだから、おめーら笑えよ!」みたいな芸人(誰とは言いませんが)に近いテイストを、彼の演奏の中に感じてしまうのです。フランセでたびたび顔を出す「粋な」フレーズが、まるで説教をたれるようなくそ真面目なスタンスで冗談を言っているように思えてしまって、ちっとも「おかしく」ないのです。これは、お笑い芸人としては、かなり恥ずかしいことなのではないでしょうか。あ、もちろん、シュルツはお笑いではなく、フルーティストですがね。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-15 22:36 | フルート | Comments(0)
MOZART/Concertos for Winds

Jacob Slagter(Hr)
Emily Beynon(Fl)
Gustavo Núñez(Fag)
Alexei Ogrintchouk(Ob)
Concertgebouw Chamber Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 079(hybrid SACD)



モーツァルト・イヤーの幕開けに相応しい、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の木管楽器の首席奏者4人が、このオーケストラのメンバーからなる室内アンサンブルをバックにモーツァルトの協奏曲を演奏したというアルバムです。ホルンのスローターは協奏曲第1番、フルートのバイノンも第1番、そして、ファゴットのヌニェスとオーボエのオグリンチェクは、それぞれただ1曲しかない協奏曲を演奏しています。アンサンブルの弦楽器の編成は5、5、4、3、1という(もちろんプルトではなく、本数)かなり小さなものです。コンサートマスターのクレジットはありますが、特に指揮者は立ててはいません。
まず聞こえてくるのが、さる節約番組でお馴染みのホルン協奏曲第1番のイントロです。この優雅なテーマから、あの貧相な食事を連想させるというのは、まさに究極のジョーク、この曲を選んだ番組のスタッフのセンスには脱帽です。それはともかく、ここでこのオケが仕掛けている自発的な音楽にも、また脱帽させられてしまったのは、ちょっと迂闊でした。これは、指揮者がいないのだから、オケはソリストのバックを淡々と務めるだけなのだろうと思っていた私の完全な誤算、もちろん、それはとても嬉しい誤算でした。下手な指揮者が仕切るよりもずっとしなやかな、ソリストとオケがそれぞれを主張しつつ、緊密なアンサンブルを作り上げるという理想的な協奏曲の姿が、そこにはあったのですから。
そのホルン協奏曲では、軽快なテンポに乗って、スローターのまろやかな音色のホルンが縦横に駆けめぐります。華やかさこそないものの、しっかりとアンサンブルに溶け込んだ演奏は、堅実さがもたらす頼もしさを味わわせてくれます。
そのスローターは、他の曲ではオケの中で吹いてくれています。ですから、2曲目のフルート協奏曲では、普段だったら気にもとめないホルンのフレーズが、とても魅力的に聞こえてきたものです。そんな贅沢な(こんな少人数なのに、弦楽器のまろやかな音色はどうでしょう)バックに乗って聞こえてきたバイノンのフルートは、これも予想を裏切られる驚きを伴っていました。ここで私が初めて体験した彼女のモーツァルトには、ソロで見せてくれる華麗なイメージとはちょっと異なる、渋い世界が広がっていたのです。言うまでもなく、これも、心地よい裏切り、ロマンティックな演奏からは一線を画したその禁欲的なテイストからは、ある種の厳しささえ漂う強靱なメッセージが伝わってきました。モダン楽器によるモーツァルトの、一つの解答がここには見られるはずです。
そこへ行くと、ファゴットのヌニェスの音楽は、もう少し楽天的、この楽器の持つ明るいキャラクターを存分に示してくれるような演奏です。第3楽章での、バックのオケをも巻き込んだノリの良さったら。
最後は、オーボエのオグリンチェク。この人も確かなパッションを秘めている、と見ました。特に第2楽章のたっぷりした歌い上げは惹き付けられます。たまに自分の世界に入り込みすぎて周りが見えなくなるような時があっても、まわりの仲間たちがしっかりそれをフォローしてくれるのですから、なんの心配も要りません。そう、そんな火花を散らすようなやりとりまでもがしっかりと収録されているこのセッション、スタジオ録音ではあっても、ライブの緊張感にドライブされた素晴らしいものに仕上がっていますよ。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-01 19:23 | フルート | Comments(0)
La flûte à la parisienne



前田りり子(Fl.tr.)
市瀬礼子(Va. d. G.)
Robert Kohnen(Cem)
ALQUIMISTA/ALQ-0012



「パリのフルート音楽-華麗なるロココの饗宴-」というタイトル、ジャケットではパールのネックレスにシースルーの薄衣をまとったアーティストが、いかにも「有閑マダム」といった憂いを帯びたまなざしを投げかけていれば、そこにはある種倦怠感をともなった妖艶な世界が広がっていると思ってしまうことでしょう。しかし、そのジャケット写真の中で、飴色の素朴な輝きを持つトラヴェルソが、いかにも所在なげにその場違いな姿を主張していることに気づいた人は、このアルバムがただの華麗さを見せびらかしているものではないことにも、また気づくはずです。ブックレットの中には録音現場の写真が掲載されていますが、そこで見られるアーティストは、先ほどの「マダム」のイメージなど微塵も感じさせない、半袖のカットソーにパンツという軽快ないでたち、おそらく、こちらの姿の方が、このアルバムの活き活きとした音楽を伝えるには相応しいものに違いありません。
前田りり子さんという名前は、「バッハ・コレギウム・ジャパン」によるバッハのカンタータ全集の録音の中で、たびたび目にしていたものでした。もはや、オリジナル楽器の演奏者というものが、日本に於いてもさほど珍しくなくなってきた音楽状況の中で、さりげなく、メンバーの一人として名を連ねていた、という印象。というよりは、殆ど日本人によるこの団体が世界的にも評価されている、その一翼を至極当然のように担っているという印象でした。
このアルバムで、彼女のソロを聴くに及んで、今さらながら昨今のオリジナル楽器が到達したレベルの高さには、驚いてしまいます。クイケン、ハーツェルツェットという、現在望みうる最高のトラヴェルソ奏者の薫陶を受けた彼女は、それらの師をも凌駕するほどのテクニックと音楽性を、存分に披露してくれていたのです。
ここで取り上げられているのは、18世紀半ばのパリのサロンを彩ったさまざまな作曲家、ルクレール、ブラヴェ、ボワモルティエ、ブラウン、ラモーといった人たちの曲。彼女は、それぞれの個性を充分に吹き分けているだけではなく、そこに、もっと踏み込んでさながら現代でも十分通用するほどのメッセージを込めているようにすら、思えてきます。なかでも、ミシェル・ブラヴェの1740年のソナタで見られる生気あふれる表現からは、もはや「サロン」などという範疇を超えた深みのある主張を感じないわけにはいきません。終楽章の華麗な変奏も、見事なテクニックに裏打ちされて聴くものを惹き付けています。ここで特筆すべきは、共演者によるサポートの大きさでしょう。超ベテランのコーネンは言わずもがな、ガンバの市瀬礼子さんの深いニュアンスは、どれほど曲に陰影を与えることに貢献していることでしょう。実際、ガンバのほんのちょっとした表情で曲全体がガラッと趣を変えてしまう瞬間が、何度あったことか。
そんな3人のスリリングとも言えるアンサンブルが最大限に発揮されているのが、ジャン・フィリップ・ラモーのコンセールです。それぞれの楽器が繰り出す、殆どインプロヴィゼーションとも思えるような自由なフレーズたち、彼女たちが作り出す音楽は、とっくに「ロココ」などを飛び越えた宇宙を作り上げています。もちろんハワイにとどまっていることもありません(それは「ロコモコ」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-10 20:46 | フルート | Comments(0)
MOZART/Flute Concertos


Severino Gazzelloni(Fl)
Bruno Canino(Cem)
山岡重信/
カメラータ・アカデミカ東京
BMG
ジャパン/BVCC-37456/57


先日、テレビでバッハの「ロ短調ミサ」の演奏会の模様を見ました。それは、バッハが晩年を過ごしたライプチッヒの、その彼の職場であるトマス教会でのもの。そこで演奏していたのは、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバー、もちろん、全員モダン楽器を使っています。このミサ曲の中には、フルートによるオブリガートが入るナンバーがいくつかあります。その中の一つ、「グローリア」の4曲目、「Domine Deus」で、その女性奏者のソロが始まった時、私はしばし、そこで何が起こっているのか把握できなくなってしまいました。確かにそれはフルートという楽器によって演奏されているのですが、出てきた音はおよそフルートとは異なったものだったのです。最近はもっぱらオリジナル楽器で演奏されたものを聴く事が多くなってしまいましたからなおさらなのでしょうが、フルートが本来持っていたはずのまろやかな音色はそこからは全く聴き取ることは出来ませんでした。
もしかしたら、そこで聞こえてきた音は、モダンオーケストラの中でのフルートとしては、理想的なものだったのかもしれません。木管楽器の中で唯一リードを持たないフルートという楽器は、どうしても他の楽器よりはバランス的に弱いものと受け取られがち、現実に、そのような処理を施す作曲家もいます。しかし、実際のモダンフルートは、そんな柔なものではないことは、この楽器の卓越した奏者であれば知っています。それは、リード楽器とも充分に拮抗しうる強さを持った楽器なのですから。現代のオーケストラでは、そのような意識を持って精進した結果、この女性奏者のようなとてつもなく張りのある音を獲得したフルーティストが、求められるようになっているのです。
しかし、バッハに関しては、もっと柔らかい音で、それこそトラベルソのような感触の演奏を、同じモダン楽器を使って行える人もいます。それだけ、この楽器の表現の幅が大きいという事なのでしょう。
セヴェリーノ・ガッツェローニという往年のフルーティストが、1973年と1975年に来日した際に日本人のスタッフの手によって録音された2枚のLPが、この度CDとなって復刻されました。この30年前の録音を改めて聴いた時に、先ほどのフルートという楽器の持つ表現力の大きさというものを、はからずも再確認させられることになろうとは。
ガッツェローニという人は、同じ時代の新しい作品にかけては定評のあったフルーティストです。「現代音楽」シーンで、彼によって命を吹き込まれた作品は数知れません。そのような、特殊な奏法や敢えてカンタービレを廃した表現がつい表に出てしまうという彼の印象からは、ここで演奏しているモーツァルトやヘンデルはやや期待はずれ、というか、あまりにも真摯な「フルーティスト」が前面に現れているので驚いてしまうほどです。それは、フルートという楽器をとことん鳴らし切ったもの、そこからは、さっきのバッハとは違った意味でこの楽器の可能性を最大限に追求したプレイヤーの姿を見ることが出来るのです。その魅力を最もよく味わえるのが低音域。よくある、倍音を沢山加えて無理矢理響きを作るものではなく、殆ど基音しか含まれていないような恐ろしく純粋な音にもかかわらず、豊かな響きが発散されているという低音です。彼が、これほどの素晴らしい音の持ち主だったとは、「現代音楽」だけを聴いていたのでは到底分からないことでした。
ただ、細かい音符の処理には難があったり、華麗さにはほど遠いテクニックであるのが、残念なところ。もちろん、その「響きすぎる」音は、例えばヘンデルあたりでは、昨今の趣味とは全くかけ離れているため、広く受け入れられることはないでしょう。このような、ある種「モンスター」がいたことの記録としてのみ、手元に置いておく価値を見いだせるはずです。あるいはペットとしてとか(それは「ハムスター」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-02 20:43 | フルート | Comments(0)
BACH/A Flauto Traverso




Benedek Csalog(Fl tr)
Miklós Spányi(Cvcd, Fp)
RAMÉE/RAM 0404



このジャケット、ちょっと素敵ですね。というか、実はこの写真がいったい何なのか、すぐには分からないというのが粋です。足が3本ある鍵盤楽器のようにも見えますが、しかし、それにしてもこのメカニカルは姿はいったい・・・。これは、店頭でCDを手に取ってみても、分かりません。つまり、裏側を見てみても、やはり同じような写真があるだけなのです。そこで、好奇心にひかれてCDを購入、シールを破ってデジパックを期待しながら開いてみるのですが、やはりそこにも同じ角度の写真しかありません。さらにもう1度開いてみて、初めてこの物体を上から写した画像が目にはいる、という、込み入ったことを、このアルバムの制作者はやっていたのでした。このデザインも含めて、企画からプロデュースをやっているのが、バロック・ヴァイオリン奏者のライナー・アルント、彼のこだわりに満ちたアルバム作りは、ちょっと魅力的です。
ベネデク・チャログ(フルート)と、ミクローシュ・シュパーニ(キーボード)というハンガリーのアーティストを起用して作られたバッハのフルート・ソナタ集、まず、ここでは伴奏楽器としての鍵盤楽器の選択に、そのこだわりを大いに感じることが出来ることでしょう。バッハの時代の伴奏用の鍵盤楽器といえば、まずチェンバロがもっとも一般的なのでしょうが、ここでは現在のピアノの前身であるフォルテピアノと、ちょっと面白い発音メカニズムを持つクラヴィコードが使われています。クラヴィコードでは、鍵盤の先に付いた「タンジェント」と呼ばれる金属片が弦を持ち上げる(ちょうど「駒」のような働きになります)ことによって音が発せられます。ですから、鍵盤を叩く力がそのまま音の大きさに反映され、さらにその鍵盤を動かすことによって、ある種のビブラート(ベーブンクと呼ばれます)までかけることが出来るのです。これが、弦をはじいたり(チェンバロ)、叩いたり(フォルテピアノ)する時間がほんの一瞬で、それ以後はなんの操作を加えることの出来ない他の楽器との大きな違いになります。
そんなクラヴィコードの特質を最大限に生かした演奏を、前半のホ長調とホ短調のソナタで聴くことが出来ます。この楽器のオーソリティであるシュパーニは、チェンバロとは全く異なった次元の豊かな表情を見せてくれています。音量の変化が音色の違いとなり、これもまた表情豊かなチャログのトラヴェルソと相まって、ちょっと今まで味わったことのないカラフルなバッハの世界を体験することが出来ることでしょう。特にホ短調の最後の楽章など、アイディア満載の大きなスケールを感じることが出来ます。音色も、バロックを彩った雅な音、というよりは、まるで20世紀にシンセサイザーで作られたような肌触り。これはちょっと不思議なものです。元来クラヴィコードはとても小さな音しか出ないので、コンサートなどでその微妙なニュアンスを体験するのは難しいものですが、このような録音だとそれは難なく叶えられます。そのためか、常に同じピッチの共鳴音が聞こえるのは、まあ我慢することにしましょう。
後半は伴奏がフォルテピアノに変わります。この2曲はオブリガート・チェンバロのためのものですから、ちょっと弱々しい感じのクラヴィコードよりはこちらの方が適していると考えたのでしょう。これもまた、聴き慣れたチェンバロとも、そして現代のピアノとも全く異なる音色と表現力、ただ、この場合バランス的にトラヴェルソが弱く聞こえてしまうのがちょっと残念でした。
先ほどのジャケットの写真、実は18世紀後半に作られた羅針盤なのだそうです。そんな昔に作られて、現代でも十分通用するメカニズムという意味で、このアルバムを飾っていたのでしょうか。裸身盤だと良かったのに(なんだそれ)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-04 19:40 | フルート | Comments(0)
MOZART/FLute Concertos



Sharon Bezaly(Fl)
Juha Kangas/
Ostrobothnian Chamber Orchestra
BIS/BIS-SACD-1539(hybrid SACD)



ハイブリッドSACD仕様、しかも、「日本語解説」が付いている上に、豪華総天然色の、分厚いこのレーベルの完全カタログ同梱されていて1400円前後のバジェット・プライスという、信じられないような価格設定になっている、BISの「お姫様」シャロン・ベザリーのニュー・アルバムです。ただ、「日本語解説」と聞いて、この前のノリントンの「巨人」のようにブックレット自体に日本語が印刷されていることを期待したのは、間違いでした。あの時と同じ輸入業者なのですが、このレーベルに関してはそこまでの力が及ばなかったのでしょう、「タスキ」の裏側にちょっと長めのインフォが付いているだけ、という程度にとどまっていました。こういうものを、普通は「日本語解説」とは呼びません。
ベザリーを最初に聴いたのは、1999年4月に録音されたモーツァルトのフルート四重奏曲でした。なかなか清潔な演奏、音もきれいだしテクニックも確かなのに、なんの訴えかけも感じられないのには、失望したものです。それから丸6年、2005年の4月に録音されたこの協奏曲集では、彼女のモーツァルトはどのような変化を見せていることでしょう。
まず、最初に気づくのは、その録音の不思議なバランスです。決して大人数ではないオーケストラの音は眼前に大きく広がっている(そのために、弦楽器の粗さがかなり目立ちます)というのに、肝心のソロ・フルートの音像がはるか後ろに定位しているのです。これは、前作でのアホの協奏曲でも見られた録音ポリシーなのですが、あくまで主役はフルートであるモーツァルトの曲でなぜもっとソロを前面に出さないのか、理解に苦しむ措置です。あるいは、これが「サラウンド」で聴く時のベストポジションなのでしょうか。もしそうだとしたら、それはエンジニアの考え違いでしょう。少なくとも演奏を通じて聴衆に何かを訴えたいと思っているアーティストであれば、このような扱いを受けて黙っているはずはない、と、私は確信します。
したがって、ただでさえ主張の乏しいベザリーの演奏からは、このような音場ではますますそのメッセージを受け取るのは困難になってきます。そこにあるのはひたすら肌触りよく流れる心地よい音のつながり、その中から作曲者がこれらの曲に込めたであろう、ある種の緊張感を探し出すことは不可能です。6年前にはあまり見られなかった、音符をあとからふくらますという彼女の趣味は、これをさらに助長しています。音の頭が明確でないために、例えばニ長調の協奏曲の有名なロンド主題は、



のように聞こえるという、大変みっともないことになってしまいました。
ところで、このアルバムで使われているカデンツァは、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホが作ったものです(いえ、誰も「カレシ、アホ」なんて言ってません)。先ほどもちょっと触れた協奏曲など、彼女の「才能」を高く評価しているアホは、多くの作品を彼女のために作っています。その流れから出てきたこれらのカデンツァ、実は、私はこれを聴きたいためだけに、このアルバムを買ったようなものなのです。これと同じようなケースで、以前、シュニトケがギドン・クレメルのために書いたベートーヴェンの協奏曲のためのカデンツァは本当に衝撃的なものでしたから、ここでもそんな斬新なものを期待したって、良いではありませんか。しかし、聞こえてきた多くのカデンツァは、平凡極まりない陳腐なものでした。それこそいにしえのドンジョンあたりのものと何ら変わらないテイスト、いったいどこに「作曲家」としてのアホのアイデンティティがあるというのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-28 14:01 | フルート | Comments(0)
Nordic Spell





Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499



「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-09 19:53 | フルート | Comments(0)
Flautissimo




Dóra Seres(Fl)
Emese Mali(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32299



ベルリン・フィルの首席奏者を長く務めたフルーティスト、カールハインツ・ツェラーが亡くなったそうですね。以前、彼の昔のアルバムをご紹介した時に、最近のフルーティストの粒の小ささを嘆いたことがありましたが、本当に近頃は「これぞ」という人にはお目にかかることが出来ません。
このアルバム、ミュシャをあしらったジャケットと、「World Premiere Recording」という文字に誘われて買ってしまいました。ただ、曲目はフルート関係者には馴染みのものばかり、どこが「世界初録音」なのか、という疑問は残ります。
ドーラ・シェレシュというハンガリーの若いフルーティスト、1980年生まれといいますから、まだ25才、それでハンガリー放送交響楽団の首席奏者を務めているのですから、音楽的には申し分のないものを持っているのでしょう。2001年に開催された「プラハの春国際コンクール」で1位を獲得したのを始め、その受賞歴には輝かしいものがあります。同じ年に神戸で行われた国際フルートコンクールでも2位に入賞しています。その神戸のコンクールには、このサイトではお馴染みの瀬尾和紀さんも出場、その彼でさえ6位入賞ですから、その実力は確かなものなのでしょう。さらに2003年のブダペスト国際フルートコンクールでも優勝、その時の「お祝い」ということで録音されたのが、このアルバムなのです。
確かに、その経歴からも分かるように、彼女のフルートが高い水準にあることは、最初のムーケの「フルートとパン」を聴けばよく分かります。輝かしくムラのない音色は、まず上位入賞に欠かせないものです。そして、流れるように正確なテクニック、もちろん超絶技巧を思わせる華やかさも充分に備えていることも必要でしょう。1曲目の「パンと羊飼い」は、それで軽々と乗り切ることが出来ます。しかし、2曲目の「パンと鳥たち」になると、それを超えた次元での「味」が欲しくなってきます。それは、先ほどのツェラーやゴールウェイを知っているものにとっては、この曲には絶対あって欲しいもの、つまり、この2番目のトラックで、早くも不満が噴出するという、若手フルーティストにとっては過酷な状況に陥ってしまうのです。
次のフランセの「ディヴェルティメント」では、何よりも瀬尾さんのアルバムが前に立ちはだかっています。メカニカルな面では遜色はないものの、例えば2曲目の「ノットゥルノ」あたりでは、彼女の歌い方が淡泊になっとるの、というのがもろに露呈されてしまいます。さらに、ここではピアニストのあまりの消極性も。
フェルトのソナタでは、コンディションもあるのでしょうが、リズムに乗り切れていないもたつきがちょっと気になってしまいます。これは、リーバーマンのソナタの第2楽章でも見られること、もしかしたら、これは彼女のクセなのかも知れません。それとも、ひょっとしたらランパルのまね?
結局、「世界初録音」のものなど、どこにもありませんでした。考えられるのは、これが彼女にとっての「初めての録音」ということ。これから数多くの録音を行っていくはずだから、この「初録音」は貴重なものですよ、という意味なのでしょうか。そんな意味でこの言葉を使って欲しくはありませんし、何よりもこれが「最後の録音」にならないように、祈るのみです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-15 21:00 | フルート | Comments(0)
Music in Sanssouci



Hans Martin Linde(Fl.tr.)
Johannes Koch(Va.d.g.)
Hugo Ruf(Cem)
DHM/82876 69998 2



この、まるでDGの「Originals」みたいなデザインのジャケット、DEUTSCHE HARMONIA MUNDIの昔のカタログの復刻版のシリーズです。斜めになっているのが、オリジナルのLPジャケットというわけですね。その中で目についたのが、このアイテム、「サン・スーシでの音楽」というタイトルが付いたこのジャケットには、確かに見覚えがあります。それもそのはず、家へ帰って探してみたら、この元のLPの国内盤が見つかりました。しばらく会っていなかった友人に久しぶりに再会したような気分です。
タイトルの通り、ここに収められているのは、プロシャ王フリードリッヒ大王が、1740年にポツダムに建設した宮殿、「サン・スーシ」で演奏されたであろう曲です。音楽や学問(「算数師」ね)に造詣が深く、自らもフルートを巧みに演奏したというフリードリッヒ大王の許には、彼のフルートの師でもあり、音楽理論家でもあったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツや、大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハなどが集まり、宮殿では毎夜のようにコンサートが開かれていたのです。
オリジナル楽器による演奏の、まさに第1世代と位置づけられるフルート奏者ハンス・マルティン・リンデが中心になったこのアルバムでは、当然のことながら、大王がたしなんだフルートの曲、クヴァンツ、エマニュエル・バッハ、ゲオルク・ベンダ、そして大王自身のソナタを聴くことが出来ます。しかし、そのような「王のサロン」の再現を味わうという興味の他に、私たちにとっては、これが録音された1961年当時のオリジナル楽器へのアプローチがどんなものであったかという、ある意味「資料」としての価値を見逃すわけにはいきません。
事実、最近のオリジナル楽器の演奏を聴き慣れた耳には、この演奏はとても奇異に映ることでしょう。トラヴェルソ(バロック・フルート)はビブラートを思い切りかけて、低音もしっかり倍音を乗せるという、モダンフルートと全く変わらない奏法を貫いているのですから。さらに、チェンバロの音色も何か硬質な感じ、プレクトラムで「はじく」という軽やかさが全く感じられません。手元にある昔のLPには、きちんと楽器のデータが掲載されているのですが、それを見てみたら、チェンバロは「ノイペルト」、あの、オリジナル楽器とは縁もゆかりもないチェンバリスト、カール・リヒターが愛用した「モダン・チェンバロ」ではありませんか(最近でこそ、このメーカーも「ヒストリカル」を作るようになっていますが、1960年当時は「モダン」しか作っていなかったはずです)。トラヴェルソは一応18世紀の楽器のようですが、とりあえず木管でありさえすればいい(音程があまりに良すぎるので、もしかしたらキーがたくさんついた楽器かもしれません)、当時の奏法を研究したり、ヒストリカル・チェンバロが一般的に出回るのには、もう少し待たなければいけなかったという、そんな時代だったのですね。モダン・チェンバロとバランスを取るために、繊細なトラヴェルソから無理をして大きな音を出そうと頑張っているのがありありと分かるちょっと涙ぐましい演奏、こういうものが現実に「音」となって残っていて、この過渡的な時代を生々しく体験できるのですから、これは何物にも代え難い貴重な「記録」です。ただ、それには欠くことの出来ない楽器のデータが、このCDにはどこにも見当たらないのはなぜでしょう。LPにはなかった録音データはきちんと載っているのですから、楽器のデータだけを外したのは合点がいきません。もし、「オリジナル」を謳うために故意にモダンチェンバロを使っていることを隠蔽したのであれば、これほど情けないことはありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-27 20:06 | フルート | Comments(0)
FANTAISIE




Emily Beynon(Fl)
上野真(Pf)
CRYSTON/OVCC-00014



ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの日本制作による2枚目のソロアルバムです。レーベル名が1枚目と微妙に違っていますが、もちろんこれは実体は全く同じ、なんでも管楽器関係ではこのようなサブレーベルを使用するということです。
1枚目での、まさにソリストの顔に泥を塗りまくっていた粗悪なピアニストのことが念頭にありますから、このアルバムでも最大の関心事は、伴奏者の良否になってしまうのは、致し方ないことなのでしょう。しかし、ご安心下さい。昨年このレーベルからリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューをしたピアニスト上野真は、そんな確かなテクニックをひけらかすこともなく、しっかりソリストに寄り添った、絶妙な伴奏を聴かせてくれていました。録音会場のせいなのか、楽器のせいなのかは分かりませんが、そのピアノの音色もとてもソフトなもので、それはしっかりバイノンのフルートと溶け合っていたのです。
例えばフォーレの「子守歌」というよく知られている曲で、ソリストと伴奏者との間の的確なバランスを見て取ることが出来ることでしょう。このシンプルなメロディーに込められた様々な仕掛けを、バイノンはていねいに掘り起こしていきます。それはちょっとしたルバートであったり、あるいは意識されないほどの音色の変化であったりするのですが、そこから導き出される、それこそ「ファンタジー」あふれる音楽はどうでしょう。それを支えるゆりかごのようなピアノの音型が、決してフルートに媚びることなく、冷徹なほどのビートをキープしているからこそ、それは際だって聴き手に伝わってくるのでしょう。
先日ルーランドで聴いたケックランの作品が、あのアルバムとは全くダブらない曲目で収録されているのも、嬉しいことです。ここで聴けるのは、「ソナタ」と「14の小品」。「ソナタ」で広がる霧の中のような世界は、バイノンの信じられないようなピアニシモでリアリティあふれるものになりました。ほんと、この人のピアニシモは、どんな弱い音でもしっかり生命力が宿っているのですからすごいものです。現実には、他のオーケストラの首席奏者クラスでも、ただ「弱い」だけで、完全に「死んだ」音しか出せないプレーヤーの、何と多いことでしょう。もう一つ、屈託のないテイストが心地よい「小品」では、彼女の低音の豊かな響きを満喫することにしましょう。最後から2番目の「葬送行進曲」というタイトルの曲が、日本の子守歌のように聞こえるのも、ご愛敬。
今回のアルバムの選曲は、一見するとかなり脈絡のないもののように思えます。サン・サーンスの「白鳥」や、ラヴェルの「ハバネラ」のような「名曲」があったかと思うと、ケックランのようなかなりコアなレパートリーが入っていたり、一体どういう聴衆に向けて作られたのか分からなくなるような曲の配列になっています。今、クラシック音楽の作り手が一様に抱えているターゲットの設定の難しさと言う問題が、図らずも露呈してしまった形で、結局どっちつかずのものになってしまったという印象は免れません。その結果、収録時間は80分近くになってしまい、フルートも、そしてバイノンも大好きな私でさえ、一気に聴き通すのはかなり辛いものがあったことを白状しなければなりません。これだけのアーティストが用意されていながら、それを用いて芯の通った密度の高いアルバムひとつ作ることが出来ないのが、今のクラシック界なのです。ポン・デ・ライオンには芯はありませんが(それは「ミスド」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-13 19:47 | フルート | Comments(2)