おやぢの部屋2
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カテゴリ:フルート( 207 )
BACH/Die Flötensonaten




福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021


京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-27 19:40 | フルート | Comments(0)
KOECHLIN/Chamber Music with Flute




Tatjana Ruhland(Fl)
Yaara Tal(Pf)
HÄNSSLER/CD 93.157



このレーベルではおなじみ、シュトゥットガルト放送交響楽団で、木管の「顔」として首席フルート奏者を努めているタティアナ・ルーランドが中心になったアルバム、ケックランの様々な楽器とのアンサンブル曲を演奏しています。その相方、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者などは、もちろんこのオーケストラのメンバーです。
パリ音楽院でマスネとフォーレに学んだシャルル・ケックランは、しかし、そのようなフランスの流れにはとどまらない、広範な作曲技法を模索することになります。ある人に言わせれば、まるであのストラヴィンスキーのように、作風のバリエーションは豊富だとか。彼の手法はグレゴリオ聖歌や教会旋法から、12音技法にまでおよんだということです。テレビ番組も作りましたし(それは「カックラキン」)。
ここで聴かれる小さな曲たちの中にも、そんな技法の片鱗は窺えます。師フォーレの作品などでもおなじみの、実際にフルートを学ぶ学生のための初見課題として作られたほんの2分足らずの「小品」なども、いかにも流れるような情緒たっぷりのメロディーが最後まで続くかと思わせて、最後にいきなり突拍子もないパッセージが現れるのですから、それこそ「初見」で演奏した学生は面食らったことでしょうね。「2本のフルートのためのソナタ」なども、明らかに12音技法が使われている曲です。ただ、それだけに終わらない、魅力的な一面をきちんと保っているのは、見事です。「フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ」では、最後の楽章に現れるのは、まるでドイツ・ロマン派のようなテーマ、しかもそれが「フーガ」という古典的な手法で展開されるのですから、驚かされます。
楽器の組み合わせにも、ケックランのユニークさは現れています。フルート、ホルン、ピアノという、ちょっとミスマッチっぽい編成の「2つのノクターン」は、予想に反してホルンとフルートが見事に溶け合った素敵なサウンドを聴くことが出来ます。ただ、中には本当のミスマッチも。映画好きのケックランが、1937年に亡くなった美人女優ジーン・ハーローを偲んで作ったという「ジーン・ハーローの墓碑銘」という曲では、フルートにアルト・サックスとピアノという組み合わせを取っているのですが、これを聴くと、この新参者の楽器がいかにフルートと似つかわしくないか、いや、もっと言えば、この暴力的で無神経な音はそもそもクラシック音楽とはなじまないものなのだということが如実に分かってしまいます。
神戸の国際フルートコンクールでも入賞(上位入賞ではありませんが)したというルーランドは、先日ご紹介したハンガリーのフルーティストとは比べようもない、洗練された演奏を聴かせてくれています。特に、高音の抜けるような響きはとことん魅力的、いまいち内向的なケックランの音楽に、確かな華やかさを与えてくれています。もう一人、同じオーケストラから参加しているフルーティスト、クリスティーナ・ジンガーと一緒に演奏している曲では、明らかに存在感に違いがあるのが分かります。ただ、このような輝かしい音は、現在のシェフ、ノリントンがこのオーケストラから引き出そうとしているある種禁欲的な音色とは、若干相容れないものであるのは明らかです。そのあたりを、この首席奏者はどのように折り合いを付けているのか、あるいは密かに火花を散らしあっているのか、もうしばらく様子を見ていたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-19 19:15 | フルート | Comments(0)
DVORÁK, SCHUBERT, FRANCK/Flute Works




János Bálint(Fl)
Zoltán Kocsis(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32280



ドヴォルジャークのソナチネ、シューベルトの「しぼめる花による序奏と変奏」そしてフランクのソナタという、フルート界では馴染みのあるプログラムのアルバムです。もっとも、ドヴォルジャークとフランクはもともとはヴァイオリンのための曲をフルート用にアレンジしたものです。演奏しているフルーティストは、ヤーノシュ・バリントという、歌も歌えそうな(それは「バリトン」)名前の方、1961年生まれの中堅で、ハンガリー国立フィルの首席奏者を務めています。楽器は、日本の「パール」を使っているそうです。そしてピアノが、そのハンガリー国立フィルの音楽監督、つまり指揮者としての活躍も最近ではめざましいゾルタン・コチシュです。
ドヴォルジャークのソナチネでは、まず、誰が編曲をした楽譜なのか、というのが問題になります。かつてはランパルによるものが主流でしたが、これはちょっと地味、というか、ヴァイオリンパートをそのままフルートに置き換えただけのものなので、最近ではゴールウェイによるもっとフルートが目立つ編曲の方が人気があるようになっています。ここでバリントが選んだのが、アラン・マリオン版、初めて聴くものですが、基本的にはランパル版と殆ど変わらないもののようです。その編曲の選択からも分かるように、バリントの演奏はとても堅実というか、はっきり言ってかなり地味、終始コチシュのピアノが主導権を握っているという印象はぬぐえません。
シューベルトになると、その印象はさらに強まります。もちろんこれはオリジナルのフルートとピアノのデュオですから、フルートパートもかなり技巧的、どう吹いてもフルートが「勝てる」場面はいくらでもあるのですが、それがことごとくピアノに「負けて」しまっています。そもそも最初のテーマの歌い方からして、ピアノの序奏でコチシュが放つ細やかなニュアンスが、全くフルートに受け継がれないという具合で、表現における力の差が歴然としているものですから。まあ、それはそれで「フルートのオブリガートが付いたピアノソロ」といった趣を楽しむのも、一興かもしれません。
フランクの場合は、ライナーの表記に誤りがあります。「ロベール・カサドシュによる編曲」とあるのは間違いで(確かにピアノパートの校訂は行っていますが)、フルートパートの編曲をしたのはランパルです。ただ、ここでバリントは、第4楽章のカノンのテーマを、最初は1オクターブ下げて演奏しています。途中から唐突にオクターブ上げるのも異様なのですが、ただでさえ目立たないフルートをこんなに埋没させてしまうなんて、この人はどこまで卑屈なのでしょう。
主役はフルートであるはずのアルバムですが、聴き終わってみると、久しぶりに味わったコチシュのピアノばかりが印象に残ってしまいました。フルートの伴奏に徹しているところもありますが、いざソロがまわってきた時の生き生きとした弾けようには圧倒されます。言ってみれば、格の違う演奏家と組んでしまったフルーティストの悲劇、でしょうか。
録音場所が、ブダペストの「フェニックス・スタジオ」、どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、瀬尾和紀さんがNAXOSホフマンの協奏曲を録音したところでした。別になんの関係もありませんが。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-15 19:33 | フルート | Comments(0)
Mirror of Eternity



Wissam Boustany(Fl)
Volodymyr Sirenko/
National Symphony Orchestra of Ukraine
QUARTZ/QTZ 2015



「永遠の鏡」というタイトルのこのアルバム、レバノンの作曲家Houtaf Khoury(なんと読むのでしょう)が作った同名の曲の他に、ハチャトゥリアンのフルート協奏曲と、ウクライナのスタンコヴィッチという人の「室内交響曲第3番」(実質的にはフルート協奏曲)の3曲が収められています。演奏しているのは、レバノン生まれで、現在はロンドンを中心に活躍しているフルーティスト、ウィッサム・ブースタニーと、ウクライナ生まれの指揮者シレンコに率いられたウクライナ国立交響楽団という、ローカリティあふれる顔ぶれになっています。レバノン、ウクライナ、そしてハチャトゥリアンのアルメニアと、いずれもヨーロッパとアジアの境目に位置する国々の、特異な民族性を持った音楽たち、それを、西洋音楽に慣らされてしまった耳へのひとときの刺激剤としてこのアルバムを求めたのであれば、あなたはここで聴くことの出来るとてつもないメッセージに、殆ど圧倒されてしまうことでしょう。そう、まさに私自身が、とりわけハチャトゥリアンに込められた「思い」の大きさに、呆然となっているところです。
原曲はヴァイオリンのための協奏曲を、ランパルのためにフルート用に書き直したこの曲については、機会があって殆ど全てのCDを聴いてきました。そのような下地を持っていたところにこの演奏を聴いたわけですが、その第2楽章には、いまだかつてこの曲からは味わったことのない「悲しみ」の世界が広がっていたのです。最初のフルートソロによるテーマ、それは確かにメランコリックな趣を持つものではありますが、ここでブースタニーが吹いているような、まるですすり泣きを思わせる表現をとっている人など、誰もいません。オーケストラも、中間部のヴィオラによる長いパートソロを聴いてみて下さい。これほど心にしみる重い演奏は、決してヨーロッパの洗練されたオーケストラからは聴くことは出来ないでしょう。そのパートソロが終わって、また現れるフルートソロが、さらに「悲しみ」を助長するもの、フレーズの一つ一つが、まるで針のように心に突き刺さってきます。
しかし、この重苦しい「悲しみ」は、続く第3楽章のダンスによって、ものの見事に「解放」されるのです。それはまるで勝利の宴のような華やかさをもって、真の喜びをもたらしてくれるものです。こんなプログラム、おそらく作曲者自身も意図していたものではなかったことでしょう。そもそもオリジナルのヴァイオリンではなく、フルートだったからこそ、あのような悲痛な響きを醸し出すことが出来たのでしょうから。
ブースタニーのフルートは、決して洗練されたものではなく、華やかさという点では難がありますが、このような深い表現を実現させる「技」には、卓越したものがあります。さらに、レバノンとウクライナの作曲家の曲の場合では、西洋音楽ではあまり使われることのないビブラートや音色のバリエーションが、とても豊か、そして、民族楽器を思わせる高いレジスターでの安定ぶりには、舌を巻く他はありません。それは、テクニックだけではなく、彼の中に流れる「血」のなせる業、西洋の洗練を追い求めることを至上の目的としている私たち日本人が、もしかしたら忘れてしまっていたことを思い出させてくれるものなのかもしれませいよう
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by jurassic_oyaji | 2005-05-09 20:24 | フルート | Comments(0)
French Flute Music




Patrick Gallois(Fl)
Lydia Wong(Pf)
NAXOS/8.557328



前作のモーツァルトの協奏曲では、今までになかったような型破りな演奏を披露してくれたガロワですが、今回はオーソドックスな「フランス音楽」のアルバムを録音してくれました。もちろん「オーソドックス」だと思っているのは、一部のフルート演奏家及び愛好家だけなのかもしれませんが。というのも、ここに収録されている曲は、プーランクはともかく、ピエール・サンカンやアンリ・デュティユーのソナチネなどは、フルーティストのレッスンには必ず登場する「名曲」ではあるのですが、一般の音楽愛好家が好んで聴いているといった意味での名曲では決してないのです。「勉強したことがあるから」という流れで、リサイタルなどで取り上げる演奏家も多いことでしょうが、大体そういうところに聴きに行くのは限られた「フルート社会」の人たちだけでしょうから、そのような場で真に音楽的な演奏など、生まれるはずもありません。
もちろん、ここでガロワが披露しているものは、そんな硬直したありきたりの演奏であるわけはありません。ある種「お約束」が支配しているこれらの曲から、彼は見違えるばかりの生き生きとした音楽を引き出してくれているのですから。それは、よく言われる「フランス音楽のエスプリ」などというようなちょっと甘ったるい印象を与える語彙で括られるようなものではなく、「魂のほとばしり」とでも言えるほどのもっと逞しいものなのです。それは、例えばプーランクのソナタの最初のテーマの橋渡しに用いられている上昇スケールを、テンポの中でさらりと聴かせるという「普通の」演奏によく見られる扱いではなく、ことさらその中に意味を見出すことを要求するような、一瞬停滞するかのような表現からも、感じ取ることが出来るはずです。
最後のトラックに収録されているのが、ピエール・ブーレーズの「ソナチネ」であることが、このアルバムの価値をさらに高めることになっています。1946年という、「現代音楽」が最も尖った様相を見せていた時代の産物を、このような「名曲」の中に折り込むというプログラミング自体が、すでに「事件」なのですから。実際、この曲の録音で現在入手可能なものは、ブーレーズの「身内」とも言えるソフィー・シェリエのものぐらい(あいにく、聴いたことはありませんが)、いわゆる「名演奏家」によるものは皆無です(シュルツ盤は廃盤になっています)。ですから、そこに、ガロワの演奏が加わった意義は小さくはないはずです。手元に1969年録音のニコレの演奏によるWERGOのLPがあったので、久しぶりに聴き直してみたのですが、それはこの年月が作品に与えた充分な醸成期間であったことをはっきりと物語るものでした。とても複雑なこの曲のスコア、特にダイナミックスには細かい指定があるのですが、ニコレの場合音符を追うのに精一杯で、とてもそこまでは手が回らないという感じなのに、ガロワはまさに余裕を持ってそれらの指定を忠実に音にしているのです。ちょっと意外かもしれませんが、実はこういう現代曲でのガロワの楽譜に対する忠実さには、定評があります。その自信に満ちたしなやかな演奏からは、「ブーレーズ」を、甲高い声がいやだからと(それは「ネーネーズ」)ちょっと敬遠していた人でもすんなり入り込んでいける、確かな魅力が伝わってきます。始まってちょっとしたあたりの、ピアノのトリルに乗った「Très modéré, presque lent」の部分のフルートの美しいこと。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-07 19:43 | フルート | Comments(0)
BACH/Suites for Solo Vc, Partita for Solo Fl





藤井香織(Fl)
ビクターエンタテインメント/VICC-60441


フルーティスト藤井香織は、まだ芸大在学中の1999年に、彼女のビクターへのファースト・アルバムとして、バッハの「無伴奏チェロ組曲」のフルート版を録音していました。その時に演奏したのは1番から4番まで、それから6年の月日を経て、ここに残りの5番と6番を録音、晴れて全組曲をリリースしたことになります。さらにここにはもう1曲、オリジナルのフルート・ソロのための名曲、無伴奏パルティータが収録されています。ここではたと気づいたのですが、シュミーダーによるバッハ作品目録(BWV)では、無伴奏チェロ組曲のあとにこのパルティータが置かれており、この3曲はBWV1011,1012,1013と、見事な連番になっていたのですね。もちろん、この番号自体にはなんの意味もないのですが、これはちょっとした盲点でした。
前のアルバムを紹介したときには、担当者に「香織ちゃん」などと呼ばれてしまっていた彼女ですが、ご覧ください、このジャケットを。まさに黄金の楽器を携えたセレブ、といった趣ではないでしょうか。これからは地上デジタル(それは「テレビ」)。さらに、裏ジャケットには別のアングルの、胸の谷間もあらわなセクシー・ショットも披露されていますので、ぜひ、店頭で手にとってご覧になることをお勧めします。
しかし、もし、外見だけの興味でこのアルバムを買ってしまった人は、そのようなスケベ心を根底から恥じることになってしまうことでしょう。この演奏には紛れもなく、一人のフルーティストの真摯な姿が反映されているのですから。それは、1曲目の「5番」冒頭の、限りなく深い「C」の低音を聴くだけで、明らかになります。この曲をフルート用に編曲したパウル・マイゼンがライナーに寄せている「バッハが要求している暗い響き、ほとんど悲劇的と言ってもいい音色」という言葉が完璧に具現化されたものが、そこにはあったのです。続く十六分音符の、終始ビブラートを抑えた禁欲的な響き、それはまさに、フルートの華やかな音色とは一線を画した、ほとんど魂の叫びと言っても良いものです。ここからは、バッハがこの曲に込めた思いが、楽器(チェロ→フルート)や時代様式(バロック→現代)の違いなど軽く飛び越えて、明瞭に伝わってきます。
「6番」になって、その表情がガラリと変わるのも、素敵です。この一見軽やかな、しかしフルートで演奏するには多くの技術的な困難を伴う曲を、彼女はいともさりげなく、目の覚めるような技巧を持って吹ききっていたのです。
そして、フルートのためのパルティータ。もちろん、あまたのフルーティストがこぞって演奏しているものですから、比較対象には事欠きません。そこで彼女がこの曲に込めたアイデンティティは、とことんモダンフルートにこだわるアプローチでした。アルマンドの最後の「A」の高音の、なんと艶やかなことでしょう。サラバンドの息づかいの、なんとおおらかなことでしょう。
そんな、ほとんど欠点など見つけることは出来ないとさえ思われる演奏ですが、聴いていて心地よい音程が維持できていないと感じられる瞬間が幾度となくあったのは、彼女にもこれからの課題がまだ残っているということでしょうか。それがクリアできれば、ジュネーブ国際音楽コンクールで予選落ちをするようなことはないはずです。
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by jurassic_oyaji | 2005-04-04 19:31 | フルート | Comments(0)
French Connection


Emmanuel Pahud(Fl)
Paul Meyer(Cl)
Eric Le Sage(Pf)
EMI/557948 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55720(国内盤 4月20日発売予定)


昔こんなタイトルの映画がありましたね。確か、その映画が評判になっていた時に「フレンチ・コレクション」というパロディのタイトルでアルバムを出したアーティスト(某キングス・シンガーズ)がいましたが、今回のアーティスト(だか、プロデューサーだか)には、それほどのセンスは備わっていなかったのでしょう。しかし、そんなベタなセンスを補ってあまりあるほどの、これは聴き応えのあるアルバムです。
「レ・ヴァン・フランセ」としてアンサンブル活動を行っているフルートのエマニュエル・パユとクラリネットのポール・メイヤーが中心になり、オーボエのフランソワ・メイヤーとピアノのエリック・ル・サージュが適宜加わるという、まさに気心の知れた仲間による演奏、これが、楽しくないはずがありません。アルバムを聴き終わったとき、このグループの名前「フランスの風」のような、一陣の爽やかさが吹き込んできたのを、誰しも感じるはずです。「フランスの風邪」はちょっと勘弁してほしいものですが。
そんな爽やかさを引き出したのは、最初と最後に、まるで表紙のように収録されているショスタコーヴィチのかわいらしい「ワルツ」なのかもしれません。アトウミャンという人が、フルート、クラリネットとピアノのために編曲した、ともに2分足らずの小品ですが、彼の「ジャズ組曲」などにみられるようなとことんキャッチーな味わいが、力の抜けた二人の管楽器奏者によって、いっそう穏やかなテイストをもって私たちを包み込んでくれます。特に、最後の方の第4番のワルツでは、パユは本来の指定楽器であるピッコロではなく、フルートによって同じ音域を(高すぎて出ないところは、もちろん下げて)吹いているために、その脱力感は際だっています。
本編の方には、ヴィラ・ロボス、フローラン・シュミット、ミヨー、ジョリヴェ、そして、初めて聞いたモーリス・「エマニュエル」という人の、なかなか聴くことの出来ない珍しい曲が並んでいます。このエマニュエルさんの作品、3楽章から成るフルート、クラリネットとピアノのためのソナチネなのですが、その最初と最後の楽章に「メリーさんの羊」そっくりのテーマが出てきて、なかなか和めます。しかし、おそらく最大の聴きものは、フルートとクラリネットだけで演奏されるジョリヴェのソナチネではないでしょうか。ここで終始聴くことの出来る、パユのレゾン・デートルともいえる「スーパー・ピアニシモ」は、まさに絶品です。世界中を探しても、こんな音を出せるフルーティストはほかにはいないのではないかと思わせられるほどの、独特なソノリテ、パユの奏でる音は、「フルート」という楽器を超えた、別の次元の響きを運んできてくれています。もしかしたら、彼はもはや「フルーティスト」ですらなくなっているのかもしれません。そう、私がこのアルバムの価値を認めながらも、無条件で身をゆだねることが出来なかったのは、彼の「フルーティスト」としての魅力が伝わってこなかったからなのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-03-18 19:09 | フルート | Comments(0)