おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 54 )
The Glenn Gould Bach Collection
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Glenn Gould(Piano, Harpsichord, Harpsipiano)
SONY/SIBC 129(DVD)



亡くなってもはや四半世紀以上経ったグレン・グールド、最近では、音だけでは物足りないのか、生前に残した映像(当たり前ですが)までもが、映像ソフトとして市販されるようになっています。カナダの放送局CBCの番組に出演した膨大なアーカイヴは、1992年にはレーザー・ディスク、そして昨年一斉にDVDとして市場を賑わしたのでした。
これは、そんな映像の中からグールドがバッハを演奏したものだけを集めた超お得なコンピレーションです。「動く」グールドが132分も収録されているというのに、価格は税込みでたったの2100円、1957年から1969年までの「歴史的」な映像を、たっぷり楽しむことにしましょう。
いかにも「時代」を感じさせるのが、1957年に演奏されたピアノ協奏曲第1番です。スタジオには当時のことですからかなり大きな編成のオーケストラが入っているのですが、なぜかハープやティンパニ、そしてバスドラムなどが、きっちり奏者付きで並んでいるのですよ。もちろん、この曲でこれらの楽器が使われることはありませんから、打楽器奏者などは何もしないでずっと立ちっぱなしなのですが、これはいったい何だったのでしょうね。
この中で、いろいろの意味で聴き応えのあったものは、1962年にたぶん同じ時に収録されたカンタータ第54番とブランデンブルク協奏曲第5番、そして「フーガの技法」のコントラプンクトゥス第4番です。グールドが演奏しているカンタータなんて、まさに珍品中の珍品ではないでしょうか。ここで彼は、指揮をしながら通奏低音として「ピアノ」を弾いているのですが、その音色がなんだかとてもチェンバロに似ているのに、まず驚かされます。見た目は全く普通のグランドピアノ(というか、セミコン)です。もしかしたら、この時代にはスタインウェイもモダンチェンバロを作っていたのか、などと思いを巡らしてクレジットを見てみると、そこには「ハープシピアノ」と書かれていましたよ。調べてみたら、これはグールドの造語で、普通のグランドピアノのハンマーのフェルトに何か金属を打ち込んで、チェンバロのような音を出せるように改造した楽器なのだそうです。ちょっと前にラヴェルの「子供と魔法」のところでご紹介した「ピアノ・リュテアル」と同じようなものなのでしょうね。録音のせいもありますが、チェンバロと言うよりはホンキー・トンク・ピアノのように聞こえてしまうのが難点です。
曲が始まると、ソリストがおもむろに歩いて現れるというクサい演出、それが、ラッセル・オバーリンだったのにはまたびっくりです。こんなところでお目にかかれるとは。アルト・ソロのための、アリアが2曲とその間のレシタティーヴォだけというコンパクトなカンタータ全曲を、おそらくこの時でしか実現できなかったような不思議なサウンドで味わう楽しみ、これだけでもう元を取ったような気になってしまいます。
しかし、そのあとに控えているのが、ジュリアス・ベーカーをソロに起用した「5番」なのですから、なんとも贅沢な話です。この頃のべーカーは、まさに脂の乗りきった旬のフルートを聴かせてくれていますよ。
1969年の映像では、「ハープシピアノ」のようなまがい物ではなく、ちゃんとした「チェンバロ」も弾いています。これも、超レアなシーンですね。しかも、その楽器は、もはや現在では普通に目にすることは不可能なヴィットマイヤーの「モダンチェンバロ」なのですから、二重の意味で貴重な映像です。
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そして、1965年に行われたユーディ・メニューインとのヴァイオリン・ソナタ第4番は、まさに2人の巨匠が織りなすドキュメンタリーとなっています。ピアニストに向き合って立っているヴァイオリニスト、お互い暗譜なのに、決して顔を見合わすことはなく、それぞれが自分の中で音楽を完結させているという、途方もなく冷ややかな世界が広がっている、これは希有なセッションの記録です。

DVD Artwork © Sony Music Japan International Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-05-12 23:27 | ピアノ | Comments(0)
L'Avant-garde du Passè
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Elisabeth Chojnacka(Cem)
TOWER RECORDS/WQCC-177/8



お馴染み、モダン・チェンバロの大家ホイナツカが、今はなきフランスのレーベルERATOに残した2枚のアルバムが最初に国内盤として発売されたのは1990年のこと、その時はレギュラー・プライスの単品として、個別に売られていました。それが、1997年に2枚組で出直った時と同じジャケットとライナーのものが、タワーレコード仕様で発売です。半分近くの値段になって、お買い得。
現代音楽のスペシャリストとしての印象が強いホイナツカですが、この2枚には彼女の楽器が本来演奏されていた時代の作品が収録されています。1枚目は1974年に録音された「昔のポーランドの舞曲と音楽」、2枚目は1981年に録音された「過去の前衛」というタイトルの、主にバロック時代の作品集です。ERATOWARNER傘下になる前のオリジナルの品番(もちろんLP)は、それぞれERA 9247STU 71480、分かる人には分かる懐かしい数列です。
「前衛」あたりは、年代的には、ヒストリカルの楽器を使う可能性もあったのでしょうが、そんな音楽にもあえてモダン・チェンバロでの挑戦を貫いた彼女の心意気には惹かれるものがあります。というのも、これらのアルバムで彼女が選んだ曲目には、単なる「バロック名曲アルバム」にはとどまらない、彼女ならではの強い意志が込められているからなのです。まず「ポーランド」では、彼女の母国の殆ど、というより全く知られていない、作者すらも明らかでないような作品を演奏、ポーランド音楽の知られざる沃野を垣間見せてくれています。そして「前衛」では、文字通り今聴いても斬新さを感じられる挑戦的な作品が集められています。
この録音に使われたのは、1963年に作られたアンソニー・サイディのモデル。このビルダー、最近ではヒストリカルのコピーも作っていますが、当時はもちろんモダン、いかにもモダンならではの多彩な音色が楽しめる楽器です。「前衛」をプロデュースしたヨランタ・スクラが、ERATOを離れて立ち上げたレーベル「OPUS111」で作ったホイナツカのアルバムのブックレットに 同じ楽器(多分)の写真がありますが、確かに足で操作する無数のストップが付いているのが分かりますね。
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オリジナル楽器が隆盛を極めている今のバロック音楽のシーンでは、この時代の音楽をモダン・チェンバロで演奏することはまずなくなっています。それどころか、モダン・チェンバロを演奏すること自体が、何か後ろめたささえ伴うものとなってしまってはいないでしょうか。確かに、実際に17世紀前後の宮廷などでは、こんなケバい音色の楽器が鳴り響くことなどはあり得なかったでしょうが、だからといって頭ごなしに抹殺されてしまうには、ホイナツカが繰り出すその楽器の色彩的な世界は魅力的すぎます。このCDを聴けば、例えば、同じ時代の鍵盤楽器であるオルガンには許された華麗さを、この楽器にだって許してやってもいいのではないか、と思うような禁断の同志が生まれるに違いありません。
そんな、チェンバロと言うよりは、まるで電子キーボードのようなキャラの立った音色満載の彼女の楽器だからこそ、「前衛」のアルバムに込められた、ある意味現代の作曲家よりもはるかに過激な「前衛性」が、ストレートに味わえることになります。例えばヒュー・アストンというイギリスの作曲家の「ホーンパイプ」という曲などは、とてもヒストリカルの範疇には収まりきらないほどのパッションが込められていることが、彼女のまるでフリー・ジャズのような演奏から知ることが出来ます。作者不詳の「ラ・ミ・レに基づいて」という16世紀に作られた曲などは、まるでヒーリングのような甘い音色で奏でられると、殆どエリック・サティの作品と区別が付かなくなります。
モダン・チェンバロは、もしかしたら楽器ではなく、4世紀の時間を行き来することが出来るタイムマシンなのかもしれませんね。借金はかさみますが(それは「債務増し」)。

CD Artwork © Warner Music Japan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-05-10 23:50 | ピアノ | Comments(0)
Le Sacre Debussy-Stravinsky
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Andreas Grau(Pf)
Götz Schumacher(Pf)
NEOS/NEOS 20805(hybrid SACD)



SACDのフォーマットは、DSDという、PCMとは異なるデジタル録音の方式によっています。しかし、それはあくまでSACDのためのマスタリング(オーサリング)の段階での話、元の録音は必ずしもDSDであるとは限りません。PCMもあり得ますし、もちろんアナログ録音もあります。しかし、実際にそこまでの表示が製品になされているかというと、それは極めて曖昧なものです。良心的なものはきちんとどんなフォーマットで録音したかということまで記載されていますが、明らかにPCM録音なのにDSDのロゴが入っていたりしますから、油断はなりません。おそらくそのロゴはSACDへの記録方式を表示してあるものであり(ですから、当然DSDとなります)、元の録音に関する記載ではないのでしょうね。
このSACDの場合は、きちんと「24bit/48kHz」で録音された、という表記がありますから、その点は正直です。つまり、普通のCD(16bit/44.1kHz)よりははるかに高いスペックで録音されているので、それをDSDにコンバートしても充分CDよりは高いクオリティが保証される、ということになります。もっとも、DSDと同等のクオリティを得ようとすれば、サンプリング周波数は、倍の96kHzまで必要になるのでしょうが。
そんな良心的(というか、それが本来の姿)なレーベルからの、ピアノ・デュオのアルバム、演奏しているのはなんと15歳と16歳の時からペアを組んでいて、すでに30年近くのキャリアが続いているというグラウとシュマッハーのコンビです。この2人の演奏、まさにデュオとしての理想的なものを作り上げているのでゅおないでしょうか。お互いの音は全く同質、まるで腕が4本ある一人の人間が弾いている、といったような驚異的なものがあります。その「4本」の腕が作り上げる完璧なタイミングを聴いていると、本当にそんな生き物がいるような気になってきませんか?(ちょっと気持ち悪いかも)
そんな、まさに同一人格化した二人の音色やタッチは、とてもまろやかで、ここで演奏されているドビュッシーや、そしてストラヴィンスキーが、とてもやさしいものに感じられます。
お目当ては、もちろん「春の祭典」です。そういうちょっとおとなしめのセンスで演奏される「春の祭典」の4手版は、しかし、オーケストラ版の荒々しさとは全く別物の、もっと作品のかたちがはっきり伝わってくるようなものでした。イントロ部分でのバスクラリネットやアルトフルートのように、オケの中ではほとんど聞こえてこないような、それでいてとても複雑なことをやっているパートがくっきりと一つの声部として聞こえてきます。トゥッティで激しく刻まれるパルスも、オケの量感よりは、リズムの確かさ、という面が際だって感じられます。
それと同時に、驚くことに、彼らの演奏では、オケで演奏した場合にはまずあり得ない「呼吸」の瞬間を味わうことも出来たのです。曲の最後近く、「祖先の儀式」の部分でアルトフルートによって延々と吹かれる単純なパターンでは、フルート奏者はオケ全体の流れを壊さないために何とかしてブレスをごまかそうと苦労しているのでしょうが、この4手の生き物は、そこに見事な「間」を設けて、生身の人間が演奏している音楽を見せてくれているのです。
そもそも、このバージョンはそもそもはバレエ・リュスでのリハーサルや、その前の振り付けのプランのために用意されたものでした。作曲者自身もコンサートで演奏することは想定してはいなかったものですから、最初に公開の場で演奏されたのは、作られてから50年以上も経った1967年のことでした。その「初演」を行ったマイケル・ティルソン・トーマスとラルフ・グリアソンの演奏を聴いてみると、同じ部分は実に生真面目な楽譜通りのものになっていました。それから何十年もかかって、やっとこのバージョンも「命」を持つようになったのでしょう。

SACD Artwork © NEOS Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2009-04-05 19:30 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies for Fortepiano
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大井浩明(Fp)
ENZO/MOCP-10006



かつて、クラシック音楽の世界では、まるでダーウィンのような「進化論」が語られていたことがありました。バッハが進化したものがモーツァルト、さらに進化するとベートーヴェンといったように、音楽が一直線の時間軸でより「進んだ」ものに変わっていったという史観です。もちろん、そんな思想は、その「進化」の最後の形であったシェーンベルクの試みが無惨な敗北を収めたことにより、なんともナンセンスなものであったことが明らかになるわけですがね。
今ある「ピアノ」という鍵盤楽器も、同じように「進化」の最終形であると見なされていました。いや、こちらに関しては、いまだにそう信じている人だっているはずです。「チェンバロ」が進化したものが「フォルテピアノ」だったと思う人こそ少なくはなりましたが(なんせ、発音原理が全く異なりますからね)、「フォルテピアノ」から「ピアノ」へは、それこそ一直線の「進化」をたどったはずだと、普通は考えがちです。しかし、現在ではこの二つの楽器は全く異なるものだという考え方が支配的になっています。例えばある時代の「フォルテピアノ」では備わっていた「モデラート」という、ペダルを踏むとハンマーと弦の間に薄い布が入り、音色が変わる機能が、「ピアノ」ではなくなっています。ですから、この楽器を使って作曲された「ピアノ曲」を演奏する場合、「Moderato」という表記が出てきたときには注意をしなければいけません。なにしろ、それは「速さ」ではなく、「音色」を指示したものなのですからね。
クセナキスの超難曲「シナファイ」「エリフソン」での目の覚めるような演奏で世界中の人を驚かせたピアニスト大井浩明さんが、ご自身のブログで、しばらく前にベートーヴェンのピアノソナタのツィクルスを始めたと書いておられたので、ちょっと意外な気がしていました。しかし、その後の情報が入って来るに従って、それはクセナキスとは全く別な意味でのユニークさを持つ演奏であることが分かってきました。つまり、ベートーヴェンは、生涯にわたってその時代に大きく変化を遂げたフォルテピアノの機能に興味をそそぎ続け、それぞれの時期の楽器の可能性を、とことん作品に反映した、という事実を踏まえて、大井さんはそれぞれのソナタの作曲時期に合わせた楽器を用いて演奏を行ったのです。ベートーヴェンの楽譜に現れている、特定の時期の楽器でなければ正確にはその意図は伝わってこない指示を丹念に掘り起こし、それを実際にその楽器によって音にするという作業は、クセナキスの難解なスコアから作曲家の描いたものを正確に実体化する作業と、まさに同一線上にあるものではなかったのでしょうか。
そんなプロジェクトのスピンオフとして、リストによるピアノ版の交響曲のツィクルスも敢行され、それらも、ソナタ同様順次ライブ録音としてCDがリリースされています。その第1弾が、交響曲の1番と2番(それとカルテットの1番の第1楽章だけ)、使われている楽器は1846年に作られていますから、まさにリストと同じ時代のものです。
リスト編曲のベートーヴェンの交響曲は、ピアノによる演奏では数多く世にでていますが、フォルテピアノによるものはおそらくこれが最初になるのではないでしょうか。大井さんは、ベートーヴェンが、そしてリストがこの楽器を使って表現したかったことを、おそらく全人格的な意味で再現することを目指していたのではないか、と思わせられるほど、そこには生々しい魂の発露が感じられ、圧倒されます。
そんなしゃかりきな面とともに、例えば繰り返しの部分では必ず加えられているかわいらしい装飾にも注目です。オーケストラ版だったらまずあり得ない(いや、ジンマンあたりはやっていたかも)まさに「オーセンティック」なアプローチ、これは和みます。ゆっくりお湯に浸かったように(それは「温泉ティック」)。

CD Artwork © Office ENZO Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-02-08 19:50 | ピアノ | Comments(0)
BERLIOZ/LISZT/Symphonie Fantastique
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François Duchable
TOWER RECORDS/QIAG-50005



仙台駅前、というよりは駅のすぐ隣にあったビルが取り壊されたと思っていたら、その跡地に突然「パルコ」が出来てしまいました。このようにして、地方都市は渋谷や池袋のファッションに否応なしに染まってしまうことになるのでしょうね。そこの8階には、今まで街中にあって、イマイチ雑然としたたたずまいだったタワー・レコードが、すっかりおしゃれな装いとなって引っ越してきていました。クラシックに関しては全く不十分な品揃えは以前のままですが、こんな風に容れものが変わると、いくらか違って見えてくるから不思議です。
クラシックを扱っているほんのわずかのスペースに行ってみると、まず目に付くのが先日のラトルの「幻想」。最新の注目盤ということで、大々的にディスプレイがなされています。そして、それに便乗したかのように、このリスト編曲のピアノ独奏版「幻想」も、その存在を主張していました。これはこのタワー・レコードの単独企画商品ですので、ここでしか手に入らないというもの、レアな曲目ですし、ジャケットのエロさにも惹かれて、つい手が伸びてしまいます(しかし、すごい絵ですね)。原盤はEMI、フランソワ・デュシャーブルによる1979年の録音です。そういえば、その日は土砂降りの雨でした。
リストがベートーヴェンの交響曲を全て(「第9」までも)ピアノ用に編曲を行っていたことは知っていましたが、「幻想」にもそんなバージョンがあったことは初めて知りました(そもそも、このCDを見つけた時に、デュシャーブルって指揮もやっていたのかな、と思ったぐらいですから)。こんな色彩的なオーケストレーションを持つ曲をピアノだけで演奏したら、さぞや淡泊なものに仕上がるだろうな、と、聴く前は思ってしまいました。しかし、実際に聴いてみると、この、いかにもフランスEMIらしい豊饒な音色に仕上がった録音とも相まって、そこにはオーケストラにはひけをとらないほどの豊かな音楽があったのです。
何よりも素晴らしいのは、その完璧なアンサンブルでしょうか。あくまで、ピアニストのテクニックが完璧である、という前提の上でのことになりますが、オーケストラのすべてのパートをたった一人で演奏するわけですから、そこには奏者によるタイミングやニュアンスの相違などは存在し得ません。ここでピアノを弾いているのは、あのヴィルトゥオーゾ・ピアニストのデュシャーブル、その「均質性」にはなんの遜色もありません。聴いたばかりのラトルの演奏では、弦楽器と管楽器が全く異なることをやっている部分などは、明らかにズレまくっていたものですが、ここではそんなハラハラさせられる部分は皆無です。
迫力だって、負けてはいません。例えば、第4楽章の「断頭台への行進」など、ラトル盤では明らかに指揮者と演奏者との方向性がかみ合わなかった結果、無惨にもへなちょこなものになってしまっていましたが、デュシャーブルのすべてのベクトルが揃えられた迷いのないアタックは、決然とした力となって迫ってきます。
そして、圧巻は第5楽章。多くの声部がとてつもない早さで絡み合う様は(実際、オーケストラの奏者はごまかさないことには弾けません)、壮観です。そこからは、楽器固有の音色までも感じ取ることは出来ないでしょうか。ここに不足しているものは、フルートとピッコロのグリッサンドや、E♭クラリネットの微妙にずれた音程という、ピアノでは決して演奏することの出来ないものだけです。
デュシャーブルの技巧の凄さは、参考までに聴いてみた「並のピアニスト」イディル・ビレットの演奏と比較すると歴然としています。こういう人は、退き際も潔いのかもしれません。彼は、2003年にはなんと51歳という若さで引退してしまったのですからね(なんでも、湖の中にピアノを2台放り込んだのだとか)。もっとも、最近ではまた演奏活動を再開したという噂もありますが。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-26 23:36 | ピアノ | Comments(1)
GODOWSKY/Strauss Transcriptions
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67626



「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス二世が亡くなったのは1899年、そして、その9年後の1908年から、第一次世界大戦が勃発する1914年まで、ウィーンに居を構えることになったのが、ポーランド生まれ、アメリカ国籍のピアニスト/作曲家ゴドフスキでした。この「三拍子の街」で、彼は誰でも知っているシュトラウスの名作を元にしたトランスクリプション「ヨハン・シュトラウスの主題による交響的変容-ピアノのための3つのワルツ・パラフレーズ」を作曲し、1912年に出版します。その「主題」は、「芸術家の生涯」、「酒、女、歌」という2つのワルツと、「こうもり」というオペレッタです。
いずれの曲も、オープニングはなんともおどろおどろしい、一体なにが始まるのだろうという濃厚な曲調です。そこから、まるで霧が晴れるように聴きなれたフレーズの断片が現れてきて、初めてこれがシュトラウスに由来している音楽なのだな、と気づく仕掛け、しかし、そこまで行ってしまえば、あとはワルツやオペレッタの世界に入っていくのは容易なことです。「変容」などという大層なタイトルから連想される難解な世界は、そこにはありまへんよう
3曲の中で最も楽しめたのは、やはり「こうもり」でした。序曲に現れるワルツのモチーフを基本テーマにして、そこにさまざまなモチーフが絡むという仕掛け。それがアデーレのアリアの前半と後半だったりしますから、かなりマニアック、ファンにはたまらないサービス精神まで感じることが出来ます。
おそらく、譜面づらは真っ黒けになっているのでしょうが、そんな難しさを全く感じさせないのがこのアムランの演奏です。本来は、そんな大変な楽譜に大汗かいて挑戦して、膨大な量の音符を音にする「苦行」の跡をみて感動をもぎ取る、といった趣の音楽なのかもしれません。しかし、彼の場合、必要な量の音符が、必要な時間の中に間違いなく収められているのは最初から当たり前のことだと思えてしまうほどの超絶技巧を備えているために、苦労の跡が全く見えず、逆に物足りなさを感じてしまうという、恐ろしく贅沢な不満が伴うことになります。
このジャケットに使われているクリムトの、いかにも「世紀末」といった雰囲気や、アール・デコ風のフォントのいかにも煌びやかなコンセプトは、ヨハン・シュトラウスを、まさにこのクリムトのようなデコラティヴなものに変えてしまったゴドフスキを端的にあらわしたものなのでしょう。しかし、それを演奏しているのがそんなアムランなのですから、今度はそんなけばけばしさがすっかり払拭されてしまって、なんともさっぱりした仕上がりになってしまっています。そんな、言ってみれば二重に仕掛けられた「トランスクリプション」の結果であるこのアルバム、はたしてクリムトのジャケットはこのCDにふさわしいものだったのでしょうか。
シュトラウスのトランスクリプションの他に、このアルバムではゴドフスキ自身の「三拍子」の曲も演奏されています。24曲から成る「仮面舞踏会」からの4曲と、30曲から成る「トリアコンタメロン」という、ボッカチオの「デカメロン」に触発されたタイトルを持つ曲集からの5曲です。これらはまさに、顔を合わせることはなかった「ワルツ王」への熱いオマージュとなっています。
最後に入っているのが、オスカー・シュトラウスという、シュトラウス一族とは全く関係のない作曲家(ラストネームのスペルはStrausと、sが一つ足りません)の「最後のワルツ」という曲です。実は、この楽譜は出版されていないため、ゴドフスキ自身の演奏によるピアノロールから復元されたものなのだそうです。それを行ったのが、アムランのお父さんのジル・アムラン。やはり、彼にはすごいバックボーンがあったのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-20 22:45 | ピアノ | Comments(0)
MESSIAEN/Vingt regards sur l'Enfant-Jésus
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Jaana Kärkkäinen(Pf)
ALBA/ABCD 226



今年は、ルロイ・アンダーソンと並んで、オリヴィエ・メシアンも生誕100年を迎えます。「大作曲家」メシアンと、ヒット曲ばかり書いていたアンダーソンとを同列に扱ったりすると、きっと不謹慎だと目くじらを立てる人もいるかもしれませんね。でも、全く同じ時代を生きていたのですから、この2人の間には、なにかは共通するものがあるのではないでしょうか。
その「共通するもの」というのは、どうやら「どの作品を聴いても、同じ人が作ったことがすぐ分かる」ということではないかという気がしませんか?アンダーソンのシンプルなメロディにちょっと粋なハーモニーをつけた、えもいわれぬあの感触は彼独特の世界。そして、メシアンにも、やはり聴いてすぐ感じられる彼独自の「色」があります。まさに彼にしか出せなかった色彩的な和声、それは、そのまわりを彩る鳥の声の模倣とあいまって、紛れもない彼のキャラクターを主張するものです。
「現代音楽」にはめっぽう定評のあるフィンランドのピアニスト、カルッカイネンが演奏する「20のまなざし」も、最初はそんな親しみやすいメシアンを存分に味わおう、という気持ちで聴き始めました。ところが、なんだかいつも聴いている「まなざし」とは様子が違います。まるで、ピアノという楽器で演奏しているのではないような、不思議な感覚に襲われたのです。最初のうち、それは非常に居心地の悪いものでした。いつもだったらまず味わえるはずのキラキラした音の粒の嵐が、全然感じられないのです。しばらく聴き続けているうちに、5曲目、「御子の御子を見るまなざし」あたりになった頃、そこからははっきり、オルガンの響きが生まれていることに気づきました。そう、その左手のアコードは、減衰するピアノの音ではなく、まるで管楽器のようにいつまで経っても同じ大きさを保っている、あのパイプオルガンそのものの響きだったのです。そして、その響きの中で奏でられる右手はと言えば、音色もタッチも全く別のキャラクター、オルガンでいえば別の鍵盤で全く異なるストップを鳴らしているという感じがするものでした。しばらくして始まる鳥の声の超絶技巧は、もはやオルガンさえも超えたシンセのプログラミングでしょうか。
これは、今までメシアンのピアノ曲を聴いていたときには全く味わうことの出来なかった感覚でした。彼女はスタインウェイのD-2741台で、まるでフルオルガンのような響きを作り出していたのです。いや、時にはそれはオーケストラにも匹敵する、とても10本の指だけで紡ぎ出しているとは思えないほどの多くの声部の饗宴にすら聞こえます。この作品のすぐ後に作られることになる巨大なオーケストラ曲「トゥーランガリラ交響曲」を彷彿とさせられるようなマッシヴなパッセージを至る所で感じたのは、まさに彼女の狙いに見事に嵌ってしまった結果なのでしょう。
2枚組CDの1枚目の終わり、11曲目「聖母の最初の聖体拝領」の後で、拍手の音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。これだけ完璧な演奏を成し遂げていたのが、生のコンサートの現場だったとは。この素晴らしいホールの音響まで見事に制御のうちに入れていた彼女は、なんという感覚の持ち主なのでしょうか。
ですから、2枚目のCDになったら、殆どその場に居合わせた聴衆の気持ちになりきって、この希有な体験を味わうことが出来ました。甘美な和声が心を打つ15曲目「幼子イエズスの口づけ」では、そのハーモニーの移ろいは、ひたすら平らな音の力として伝わってきます。鍵盤楽器特有の減衰感をまるで感じさせないその柔らかなタッチ、そこからは、音が淡いパステルカラーとなって、確かにメシアンの描いた暖かい「まなざし」が伝わってきます。
こちらでは、そんな体験まで味わうことが出来るんですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-23 20:12 | ピアノ | Comments(0)
CHOPIN/Piano Concertos 1&2
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Dang Thai Son(Fp)
Frans Brüggen/
Orchestra of the 18th Century
NIFC/NIFCCD 004



レーベル名のNIFCというのは、ポーランド語でNarodowy Instytut Fryderyka Chopinaつまり「フレデリック・ショパン協会」という団体の略号です。なんでも、ここでは「リアル・ショパン」というコンセプトで、歴史的な楽器によるショパンの作品の演奏を体系的に録音して発表するという事業も推し進めているようで、このCDもその成果の一端となっています。レタリングだけのシンプルなジャケットも共通していて、なかなか壮観です。もちろんこの「協会」は、ショパンの故郷ポーランドのものですから、あちこちに見慣れないポーランド語が踊っているのも、ちょっとしたカルチャーショックになるのかもしれません。なにしろ、ショパンのファースト・ネームがあのようなスペルだったとは、今まで知りませんでしたから(「協会」の名前は、おそらく格変化でしょうか、語尾が変わっていますから、純粋な名前の表記は「Fryderyk Chopin」になります)。
カルチャーショックといえば、ショパンが「歴史的な楽器」、つまり「ピリオド楽器」での演奏の対象となっている、というのも、盲点をつかれた感じです。確かにショパンは19世紀前半の人ですから、例えばマーラーなどよりはずっと前の時代、マーラーで「ピリオド・アプローチ」が行われているのであれば、当然その対象になってもおかしくはないことなのですね。
そこで、まずソリストの楽器には1849年に作られたというエラールのピリオド・ピアノが用いられました。ネジや消しゴムは付いてはいませんが(それは「プリペアド・ピアノ」)。そして、オーケストラは、ブリュッヘンの指揮による18世紀オーケストラという、「ピリオド」界の雄の登場です。1番、2番、それぞれ2005年と2006年に開催された「ショパンと当時のヨーロッパ音楽祭」でのコンサートでのライブ録音となっています。
想像していた通り、イントロのオーケストラの響きも、そしてピアノの音も、今まで聞いてきた「ショパン」の響きとは全く異なるものでした。特に、フォルテピアノのもっさりとした音色と、ちょっとたどたどしいタッチは、あの輝かしいショパン・ブランドからは大きな隔たりのあるもの、これはかなりショッキングな体験です。音域は88健と現代のピアノと変わりませんが、ピッチは半音低く、弦の張力が弱い分、シャープさが無くなっているのでしょう。もちろん、アクションの構造も全然異なっているのでしょうし。しかし、次第に聴き進むうちに、これは他の楽器に関しての「モダン」と「ピリオド」の違いが、この楽器にも端的に表れていることが分かってきます。多くの聴衆を相手にするために、ひたすら遠くまで聞こえる音を追求してきた「モダン」楽器、その課程で失われてしまったものが、やはりピアノの場合もあったのではないか、というごく当たり前の感慨が湧いてきます。ショパンが曲を作ったのがこのような楽器だとすれば、今のスタインウェイから出てくる音は、まるで作曲者の意図が反映されていないものになってしまっているのではないか、と。
もっとも、ピアニストにしてもオーケストラにしても、そのような違和感はおそらくかなり強烈なものであったのは想像に難くありません。特に2005年の第1番の演奏では、ことさらその「違い」に対する戸惑いが、演奏に現れているような気がします。例えば、第2楽章の弦楽器などは、あくまでノンビブラートで押し切ろうとしている結果、表現そのものがなにか硬直したものになっているのではないでしょうか。
2006年の演奏になると、ある意味開き直りのようなものが感じられ、演奏そのものに余裕が出てきます。頑なにノンビブラートにこだわらずとも、必要ならばかければ良いではないか、という思いが、ショパンに関しては湧き起こってきたのかもしれません。第3楽章では、まるで「幻想交響曲」のようなコル・レーニョを聴かせているのは、そんな余裕ゆえのユーモアの発露なのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-09 19:24 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Piano Concertos Complete
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Friedrich Gulda, 杉谷昭子(Pf)
Holst Stein, Gerard Oskamp/
Wiener Philharmoniker, Berliner Symphoniker
BRILLIANT/93653



ベートーヴェンのピアノ協奏曲「完全」全集。3枚組で2000円以下という、このレーベルならではのリーズナブルな価格設定です。「完全」というのは、ヴァイオリン協奏曲を作曲家自身がピアノ協奏曲に編曲したものが含まれた6曲の「全集」になっているからです。
ジャケットのクレジットを見ると、ライセンス元は「DECCA」となっています。自社制作も行っていますが、基本的にはこのレーベルは世界中の「死んだ」、あるいは「死にかけている」レーベルの音源を集めて発売するというスタンスをとっていますから、そんなところにかつての名門「DECCA」が登場しているというのは、一抹の寂しさを感じるものがあります。確かに、このレーベルはある意味「死んで」います。
1970年、ウィーンのゾフィエンザールで録音」という表記が、ジャケットに記されたデータのすべてなのですが、普通の5つの協奏曲が、そのDECCA原盤、何度となく繰り返しリリースされているグルダによる2度目の録音です。オーケストラはホルスト・シュタイン指揮のウィーン・フィル、エンジニアはゴードン・パリー、ジェームズ・ロックというそうそうたるメンバーです。正確には1970年6月と、1971年1月の2度のセッションで録音が完了したものでした。この頃は、ウィーンでのチーフ・プロデューサーだったジョン・カルショーはすでにDECCAを離れていましたから、プロデューサーはデイヴィッド・ハーヴェイです。
ここでのグルダは、かつて「ウィーンの三羽がらす」という、言ってみれば「ウィーン3大ピアニスト」のような大層な持ち上げ方をされていた評判を裏切らない、ごくまっとうな演奏に終始しています。ただ、今の時点で注意深く聴いてみると、そんなオーソドックスさの中にもグルダらしさを感じ取ることは可能でしょう。弾いている楽器はおそらくベーゼンドルファーでしょうが、そのちょっと甲高い音色が、まるでフォルテピアノのような感触を与えている部分が見られたりもするのです。また、オケと一緒の時にはしおらしく演奏していたものが、カデンツァになるとガラリとテイストが変わって、それまでの重々しさを捨てた軽やかな味が出てくるのも面白いところです。
もう1曲、ヴァイオリン協奏曲に由来する「ニ長調」のピアノ協奏曲については、ライセンスに関する情報は全く記載されていません(ナンセンス!)。演奏しているのが杉谷昭子(すぎたにしょうこ)さんという日本人、1947年生まれといいますから、もはやベテランのピアニストです。オーケストラがベルリン交響楽団、指揮はジェラルド・オスカンプという人です。この録音は1994年の4月に、ベルリンのシーメンス・ヴィラで行われたものです。元のレーベルはVERDI RECORDSという、まさに「死んだ」ところですが、1995年にはビクターエンタテインメントから国内盤もリリースされていました。これに先立つ1993年のセッションでは他の5曲も録音されており、それこそ「完全版」の全集として発売されています。ピアニスト、指揮者、そしてオーケストラが全て同じメンバーによる「6曲」の全集というのは、もしかしたら彼女のものが世界で初めてだったのかも。ですから、BRILLIANTも、少し前でしたらこちらの全集をそのまま使っていたところなのでしょうが、こんな贅沢なDECCAの音源が簡単に使えるというご時世になってしまっていたために、より知名度の高いアーティストでの全集が実現することになりました。
もちろん、この「ニ長調」を聴く限り、他の協奏曲の水準は到底DECCA盤には及ばないことがうかがえますから、それはありがたいことでした。ちなみに、この「ベルリン交響楽団」というのはザンデルリンクやインバルとの録音がたくさん残っている同じ名前の旧東ドイツの団体ではなく、1966年に旧西ベルリンに創設されたオーケストラです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-01 20:08 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Sonaten & Variationen
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Peter Waldner(Clavichord)
EXTRAPLATTE/EX-663-2



「クラヴィコード」という楽器のことは、ここで何度となく取り上げていますから、どんなものであるかというおおよそのイメージはお持ちになっていることでしょう。ほかの鍵盤楽器と異なるのは、弦を叩いたり(ピアノやフォルテピアノ)はじいたり(チェンバロ)するのではなく、金属片を弦に「押し当てる」ことによって音を出すという点です。従って、ピアノのような複雑なアクションを用いなくとも、鍵盤を叩く力によって音の大小を付けることが出来ますし、弦に当たった金属片はいわば「駒」に相当するわけですから、鍵盤によってそれを動かせばピッチを変えてビブラートのような効果を出すことも出来るという特徴を持っています。
ただ、この楽器は極めて小さな音しか出せませんから、現代の大きなホールでのコンサートに用いられることはまずありません。それこそちょっとしたお屋敷のサロンなどで、ごく近くでその演奏を聴く、といった特別な機会でもないことには、なかなか実際の生の音を聴くことは難しいでしょう。もちろん、私もまだ生クラヴィコードを聴いた経験はありません。
そんな珍しい楽器なので、どうしても接するのは録音を通して、ということになってしまいます。今まで数種類、この楽器を録音したCDを聴いた時には、その繊細さというものが強く伝わってきていたような気がします。なにしろ弦から発する「楽器としての音」以外にも、アクションなどがかなり派手な音をたてるもののようですから、そんなノイズを聴かせまいとすると、いきおい録音レベルを下げるとか、かなりオフマイクにせざるを得ないのでしょう。その結果、それは遠くの方でかすかに鳴っているような風にしか聞こえては来なかったのです。
ところが、このCDはどうでしょう。そんな楽器の音を、必要なものも必要でないものもまとめて味わってもらおう、という姿勢なのでしょうか、思い切り接近した位置のマイクでとらえられたその音は、現実にはまずあり得ないほどのものすごいものになっていました。言ってみれば、細かいところまでがまるで顕微鏡で拡大されたような音でしょうか。
そういう録音の元で演奏されているのが、モーツァルトのソナタや変奏曲です。しかも、クラヴィコーディスト(?)のヴァルトナーは、かなり豊かなパッションを演奏に込めたがる人のようですから、この楽器の特性をめいっぱい活用して、とてもダイナミックな表現(つまり、極端なクレッシェンドとディミヌエンド)を聴かせてくれています。イ短調のソナタ(K.310)でそれをやってくれるのですから、それはものすごいものがありますよ。まさに超異端の音楽、最初のフレーズの抑揚は、ピアノで演奏してもこれほどのものは表現できないのでは、と思えるほどの、まさに鬼気迫るもの、そのパターンでひたすら押しまくってきますから、正直聴かされる方としてはかなりの疲労を伴うものになってきます。
ただ、そんな疲労感は、ある瞬間を過ぎると快感のようなものに変わることもあります。そして、もしかしたらこんな「優雅」とか「典雅」といった言葉からは遙かに遠くにある演奏と、そして「音響」は、モーツァルト自身が聴いたとしたら、案外気に入ってしまうのではないか、という気持ちにもさせられてしまいます。2楽章あたりで味わえる、まるでマンドリンかリュートのような不思議な響きも魅力を誘うのでは。
「きらきら星変奏曲」はもっとラジカルです。特に、低音の細かい動きでの洗練とはほど遠いたどたどしさと、その時の音色の不均一さは、ほとんどエフェクターによるディストーションのようには聞こえないでしょうか。それは時代を超えて、例えばキース・エマーソンあたりにも通じようかという、躍動に満ちた音楽です。パワフルなロックのスピリットまでモーツァルトから引きだした、これはものすごい演奏(+録音)です。
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by jurassic_oyaji | 2008-05-24 19:37 | ピアノ | Comments(0)