おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 58 )
The Piano at the Carnival
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Anthony Goldstone(Pf)
DIVINE ART/DDA 25076




バンクーバー・オリンピックでさまざまな「感動」に浸れる人は幸せです。先日の女子フィギュアスケートなども、全国津々浦々でそんなドラマに「感動」のコメントを寄せられた人は数知らず、美しいことです。
ご存じのように、金メダルの期待を一身に背負ったあの選手が選んだ曲は、ショート・プログラムではハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」からの「ワルツ」、フリーではラフマニノフの「鐘」でしたね。「ワルツ」はともかく、「鐘」と聞いて一瞬あの合唱曲かな、と思ってしまいましたが、聞こえてきたのは有名なピアノのための前奏曲(op.3-2)をオーケストラ用に編曲したものでしたね。「ワルツ」の場合はもともとオーケストラ曲ですから、これがオリジナル、と思いきや、別の意味での「編曲」があったのは笑えます。
今回のCDは、フツーの「編曲」、「ワルツ」だけではなく「仮面舞踏会」全5曲をアレクサンドル・ドルハニャンという人がピアノ・ソロの曲に直したものです。本来は色彩豊かなオーケストラが演奏する曲ですから、それをピアノ1台だけで演奏するのではさぞや物足りないだろうな、とは、誰しもが考えることでしょう。しかし、ここではまさにピアノならではの魅力が生まれていたのですから、面白いものです。
もちろん、ソロ・ヴァイオリンが切々と哀愁に満ちたメロディを奏でる「ノクターン」や、やはりトランペットがソロで朗々と歌い上げる「ロマンス」のように、その息の長い旋律をピアノだけで表現するのは、ちょっと辛いな、と感じられる曲はあります。しかし、「ワルツ」などは、オーケストラではたくさんの楽器でやや重々しく聞こえてしまうものが、ここではいとも軽やかなフットワークに変わっています。
そして圧巻は、最後の「ギャロップ」です。いともひょうきんな曲想、なんと、最初のテーマはすべての音が半音でぶつかるというケッタイなものなのですが、実はこれをオーケストラで演奏するのは意外と難しいのです。実際には、フルート、オーボエ、クラリネットの、それぞれ2番奏者が本来の旋律を吹いて、1番奏者のその半音上の調で同じ旋律を吹いています。つまり、6人の奏者が、この微妙な音程をまさにアクロバットのように操って演奏するのですから、ピッタリ揃えることなどまず不可能なのですよ。それが、ピアノだったらどうでしょう。もう、しゃくにさわるぐらい完璧に、その音符を音にしていますよ。それもいとも軽やかなテンポで。
さらに、終わり近くに出てくるクラリネットのカデンツァも、指がもつれるぐらいの苦労をして吹いているものが、なんともすんなりと弾けてしまうのですからとても勝ち目はありません。そう、このピアノ版「仮面舞踏会」は、まさにオーケストラの奏者をあざ笑うためにあるのでは、とさえ思えてくる、小憎らしい編曲と、そして演奏なのです。
ところが、同じくオーケストラ曲をピアノ独奏用に編曲したものでも、ドボルジャークの「謝肉祭」(編曲はパウル・クレンゲル)となると全く様相が変わってしまうのですからまたまた面白いものです。先ほどまでの軽やかさはどこへ行ってしまったのか、いかにもモタモタした演奏でオケの持つ疾走感などは全く感じられないものになってしまっています。これなどは、多くの声部をコントロール出来なくなっている編曲上の問題なのかもしれませんね。
その他には、おそらくこのアルバムのメインであるシューマンの「謝肉祭」などとともに、ピアニスティックな名人芸が堪能できるものが揃っています。中でもシドニー・スミスという、19世紀後半に活躍した人の「ヴェルディの「仮面舞踏会」による華麗な幻想曲」が、聴き応えのあるパラフレーズでした。イチゴのスイーツではありませんよ(それは「パルフェ・ア・ラ・フレーズ」)。

CD Artwork © Divine Art Ltd
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by jurassic_oyaji | 2010-03-06 23:57 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Piano Concertos Nos.23 & 24
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内田光子(Pf)/
The Cleveland Orchestra
DECCA/478 1524



ピアニストの名前のあとにスラッシュが入っているのは、ここでは内田さんがオーケストラの指揮もしているのだ、という意味です。いわゆる「弾き振り」という、納豆みたいな(それは「挽き割り」)演奏スタイルですね。以前モーツァルトのピアノ協奏曲を全曲録音したときには、ジェフリー・テイトに指揮を任せていましたから、それから20年程の年月を経て新たなアプローチを展開してくれているのでしょうか。
この録音は、クリーヴランド管弦楽団の本拠地、セヴェランス・ホールで行われています。おそらく、コンサートとリハーサルのテイクをつなぎ合わせた「ほぼライブ」の録音なのでしょう。ピアノの音がオフ気味で、オケの中にとけ込んでいます。ブックレットの写真を見ると、内田さんは客席に背中を向けてオケの木管セクションあたりを正面にした座り方、これは弾き振りの標準的な配置ですね。ただ、同じ写真ではピアノの左手にヴァイオリンとチェロが座っていますから、おそらく右手にはヴァイオリンとヴィオラが来て、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが向かい合うという「対向型」の弦楽器配置になっているのでしょう。同じブックレットには、ウェルザー・メストが指揮台に立っている今のこのオケの集合写真が載っていますが、それは普通のファーストとセカンドがくっついている形ですから、この録音では内田さんの意向で対向型をとったのでしょうね。確かに、音を聴いてもセカンドが右側から聞こえてきます。
タイトルが上記のようになっていますから、当然イ長調の23番が先に演奏されているのだと思って最初から再生を始めたら、いきなりハ短調の暗い響きが聞こえてきたので一瞬何事かと思ってしまいました。なぜか、ジャケットの表示とは逆の順番で入っていたのですね。別にそんな気はなかったのでしょうが、何かびっくりさせられる思いです。
そんなある種の驚きは、そのハ短調の協奏曲のオケの導入の部分でも味わうことが出来ます。ここで、内田さんはなんと雄弁にオケに語らせていることでしょう。彼女は多少遅めのテンポ設定をとった上で、それは細かい表情を引き出そうとしています。短調ならではの、ちょっと濃すぎるほどの味付け、こちらの曲を頭に持ってきたのは、そんな、より思いの丈を込めた演奏を、まず聴いて欲しかったからだったのかもしれませんね。
第2楽章は明るい変ホ長調、しかし、ねっとり感は変わりません。ここではピアノが休んでいる間の木管楽器によるアンサンブルを存分に楽しむことにしましょうか。モーツァルトにしては珍しい、4種類の木管楽器が、さまざまの組み合わせで醸し出すゴージャスなサウンドは、シンフォニー・オーケストラの木管セクションならではの魅力です。
これが第3楽章になると、その粘り具合はさらに増します(やっぱり納豆だ)。停滞するギリギリの、いや、正直これではあまりにも遅すぎてフレーズが細切れになってしまっていると感じられなくもないテンポで、曲は重苦しく進みます。と、突然平行調の長調に転調して現れる木管のアンサンブルが、なんとも言えない開放感を与えてくれます。そして、その後がまたサプライズ。ここで内田さんは、バックの弦楽器を(おそらく)1本ずつにしてしまったのです。ピアノと5つの弦楽器だけの「ピアノ六重奏」、その透明なアンサンブルは、なんとも言えない爽やかさを放っていました。
イ長調の協奏曲も、アプローチは基本的に同じ、隅々までに内田さんのこだわりが反映された重厚なものでした。
でも、朝ご飯は塩鮭と焼き海苔があれば充分、その上に納豆なんてとても、という人には、ちょっと辛いかもしれませんね。

CD Artwork © Decca Music Group Limited
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by jurassic_oyaji | 2009-09-02 20:52 | ピアノ | Comments(0)
ANDERSON/25 Great Melodies as Originally Composed for Piano Solo
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白石光隆(Pf)
TAMAYURA/KKCC 3024



昨年はルロイ・アンダーソンの「100周年」、NAXOSあたりは全集をリリースしてボロイ儲けがあったことでしょう。今年になってもその余波はまだ続いていて、こんな「珍盤」の登場です。これは、アンダーソン自身が、数々の名曲をピアノ独奏用に「作曲」した25曲をすべて録音したものです。このCDと同じタイトルの楽譜が出版されたのは1978年のことでしたが、なぜか、だれもそれを録音しようとはしなかったのでしょう、これが「世界初録音」だ、と、帯には書かれています。この楽譜はこちらで簡単に手に入るようですから、実際に弾いてみるのも一興でしょう。
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オーケストラの演奏によるオリジナルを聴き慣れている耳には、このピアノ版はなかなか新鮮に感じられます。その一つの要因は、リズムの滑らかさでしょうか。これは実際に楽譜がそうなっているのか、あるいは演奏している白石さんの表現なのかは分かりませんが、例えば「シンコペイテッド・クロック」などではほんの少しスウィングが入っていて、ちょっとびっくりさせられるほどです。それは、テーマが始まって2小節目のことですが、2拍目がオーケストラ版ではアンダーソン自身の演奏も含めて均等に八分音符二つになっているのに、ここでは前の音符が少し長目になっているのですよね。ただ4小節目の、ウッドブロックのリズムが本当に「シンコペイト」しているところでは、なぜかきっちり8ビートになっているあたりが、アバウトいえばアバウトなのですが。
もう一つ、「ブルー・タンゴ」という、まさにタンゴそのもののリズムを持った曲でも、ここではまるでバルカローレのような優雅なたたずまいを見せています。とてもステップを踏んで元気よく踊ることは出来そうもない、それはまるで子守唄のようなしっとりとした味わい深いものです。そんな中から、彼ならではのメロディ・ラインの美しさが浮かび上がってきます。
しかし、やはりアンダーソンの曲ではオーケストラの楽器や、普通はオーケストラでは使われないような楽器の特徴的な使い方によって強烈な印象が与えられる、というのが最大の楽しみです。そうなってくるとこのピアノ版のあまりにストイックな生真面目さからは、軽い失望が生まれるのも事実です。3本のトランペット(コルネット)が活躍する「ラッパ吹きの休日」あたりは、それがもっとも顕著にあらわれたものではないでしょうか。「ソ・ド・ミ・ソ」とか「ソ・シ・レ・ファ」といった和音を、ある時は3人が同時に鳴らしたり、ある時は前の奏者が吹いた上に順次音を積み重ねて作っていくという面白さが、ピアノでは全く同じ形になってしまって、面白くも何ともありません。しかも、2回目にはダブルタンギングで1つの音符を4つに割って吹いているのも、ピアノ版には全く反映されていませんし。
また、「フィドル・ファドル」は「常動曲」のパロディ、大人数のヴァイオリンが一糸乱れず細かい音符を弾くのが魅力なのですが、ピアノではあまりにも簡単すぎてなんだか・・・。
「サンドペーパー・バレエ」での紙ヤスリをこする音や、「タイプライター」のキーボードをたたく音などは、これらの曲にはもはや欠かせない要因であることには誰しもが気づくに違いありません。このピアノ版は、自分で演奏しながらそんな本来の音を想像して楽しむ、そんな使われ方が最も分相応なのではないでしょうか。
ですから、CDで楽しむのだったら本来のオーケストラ版を聴く方がずっと楽しいに決まってます。その音を知っているからこそ、ピアノ版でもそれなりに楽しめることになるわけで、最初からこんな不完全なものを聴く必要などはさらさらないのではないでしょうか。「世界初録音」と言ってはいますが、これがこんなに長い間録音されなかったのには、至極当然な理由があったのですよね。

CD Artwork © King International Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-08-31 21:59 | ピアノ | Comments(0)
MUSSORGSKY/Pictures at an Exhibition
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Oleg Marshev(Pf)
Jan Wagner/
Odense Symphony Orchestra
DANACORD/DACOCD656



ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、オリジナルのピアノ曲としてよりは、モーリス・ラヴェルが編曲を行ったオーケストラの曲として聴かれることの方がはるかに多いのではないでしょうか。ただ、ラヴェルは、決してムソルグスキーが書いたピアノの楽譜に、そのままオーケストレーションを施したわけではありません。
ムソルグスキーが、友人の画家ガルトマン(「ハルトマン」という表記は誤り)の遺作の展覧会に触発されてピアノ独奏のための組曲を作ったのは1874年のことでした。しかし、楽譜が出版されたのは彼の死後、1886年だったのです。遺品の中からこの曲の楽譜を探し出して出版に尽力したのは、友人のリムスキー・コルサコフでした。ただ、彼はアカデミックな見地から、作曲家の自筆稿をよりノーマルな形に変えて出版してしまったのです。自筆稿にほぼ忠実な、いわゆる「原典版」が出版されるには、パーヴェル・ラムによる校訂(1931年)を待たなければなりませんでした。ラヴェルがクーセヴィツキーの委嘱によってボストン交響楽団のために編曲を行った1922年には、ですから、彼はリムスキー・コルサコフによる改訂版を元にする以外の選択肢はなかったのです。
リムスキー・コルサコフの改訂で最も目に付くのは、「ビドウォBydlo(ポーランド語で、『l』は『エル』ではなくひげが付いた『エウ』です」の冒頭の「pp poco a poco cresc.」という表記でしょう。自筆稿ではここは「ff」、最初からガンガン弾きまくれ、という指示になっています。ですから、「牛車が遠くから近づいてくる」というオーケストラ版で植えつけられているイメージは、作曲家のあずかり知らぬものだったのですね。もう1点、よく分かるのは「サミュエル・ゴールデンベルク」の最後の音、自筆稿は「ド・レ♭・シ♭・シ♭」ですが、リムスキー・コルサコフは「ド・レ♭・ド・シ♭」と変えてしまいました。ただ、この部分は指揮者の裁量で自筆稿の形に直して演奏するのが、最近の潮流のようです。
ただし、ラヴェルにしてもリムスキー・コルサコフ版を忠実にオーケストラ用に移し替えたわけではありません。「サミュエル・ゴールデンベルク」と「リモージュ」の間にあった「プロムナード」をカットしただけではなく、「古い城」の18小節目のあとに1小節加えたり、「殻を付けた雛」のコーダの前の2小節をカットしたりしています。
ピアノ版に関しても、ラムによる「原典版」は、決して自筆稿そのものではありませんでした。1975年に自筆稿のファクシミリが出版されると、それにしたがったさらに精緻な「原典版」も出版されることになります。その最も分かりやすい違いは、「古い城」の15小節目の右手の最後の「ソ♯」の音の長さ、ラム版は八分音符ですが、自筆稿は四分音符です(面白いことに、リムスキー・コルサコフ版は八分音符なのに、ラヴェル版でコール・アングレによって奏されるそのフレーズの頭は、四分音符になっています)。
現在では、この曲を演奏するときにリムスキー・コルサコフ版を使うピアニストはまずいません。例えば1955年のVOXへの録音で、リムスキー・コルサコフ版を使っていたブレンデルは、1987年のPHILIPS盤では原典版を使っています。もちろん、2009年に録音を行ったこのCDのオレグ・マルシェフも原典版。しかし、彼はラム版に準拠した演奏を行っています。キーシンなどは、2001年の録音でも自筆稿に準拠しているというのに。
ピアノ版と一緒にラヴェル版が入っているのがこのCDの特徴ですが、ここで演奏しているジャン・ワグネル指揮のデンマークのオーケストラ、オーデンセ交響楽団は、なんと、ラヴェルがカットした「殻を付けた雛」のコーダ前の2小節を復活しているのです。ストコフスキーの編曲などでは見られるこの形、ラヴェル版で実際に録音しているは、極めてレアなサンプルです。これあ、貴重。

CD Artwork © Donacord
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by jurassic_oyaji | 2009-07-18 20:56 | ピアノ | Comments(2)
The Glenn Gould Bach Collection
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Glenn Gould(Piano, Harpsichord, Harpsipiano)
SONY/SIBC 129(DVD)



亡くなってもはや四半世紀以上経ったグレン・グールド、最近では、音だけでは物足りないのか、生前に残した映像(当たり前ですが)までもが、映像ソフトとして市販されるようになっています。カナダの放送局CBCの番組に出演した膨大なアーカイヴは、1992年にはレーザー・ディスク、そして昨年一斉にDVDとして市場を賑わしたのでした。
これは、そんな映像の中からグールドがバッハを演奏したものだけを集めた超お得なコンピレーションです。「動く」グールドが132分も収録されているというのに、価格は税込みでたったの2100円、1957年から1969年までの「歴史的」な映像を、たっぷり楽しむことにしましょう。
いかにも「時代」を感じさせるのが、1957年に演奏されたピアノ協奏曲第1番です。スタジオには当時のことですからかなり大きな編成のオーケストラが入っているのですが、なぜかハープやティンパニ、そしてバスドラムなどが、きっちり奏者付きで並んでいるのですよ。もちろん、この曲でこれらの楽器が使われることはありませんから、打楽器奏者などは何もしないでずっと立ちっぱなしなのですが、これはいったい何だったのでしょうね。
この中で、いろいろの意味で聴き応えのあったものは、1962年にたぶん同じ時に収録されたカンタータ第54番とブランデンブルク協奏曲第5番、そして「フーガの技法」のコントラプンクトゥス第4番です。グールドが演奏しているカンタータなんて、まさに珍品中の珍品ではないでしょうか。ここで彼は、指揮をしながら通奏低音として「ピアノ」を弾いているのですが、その音色がなんだかとてもチェンバロに似ているのに、まず驚かされます。見た目は全く普通のグランドピアノ(というか、セミコン)です。もしかしたら、この時代にはスタインウェイもモダンチェンバロを作っていたのか、などと思いを巡らしてクレジットを見てみると、そこには「ハープシピアノ」と書かれていましたよ。調べてみたら、これはグールドの造語で、普通のグランドピアノのハンマーのフェルトに何か金属を打ち込んで、チェンバロのような音を出せるように改造した楽器なのだそうです。ちょっと前にラヴェルの「子供と魔法」のところでご紹介した「ピアノ・リュテアル」と同じようなものなのでしょうね。録音のせいもありますが、チェンバロと言うよりはホンキー・トンク・ピアノのように聞こえてしまうのが難点です。
曲が始まると、ソリストがおもむろに歩いて現れるというクサい演出、それが、ラッセル・オバーリンだったのにはまたびっくりです。こんなところでお目にかかれるとは。アルト・ソロのための、アリアが2曲とその間のレシタティーヴォだけというコンパクトなカンタータ全曲を、おそらくこの時でしか実現できなかったような不思議なサウンドで味わう楽しみ、これだけでもう元を取ったような気になってしまいます。
しかし、そのあとに控えているのが、ジュリアス・ベーカーをソロに起用した「5番」なのですから、なんとも贅沢な話です。この頃のべーカーは、まさに脂の乗りきった旬のフルートを聴かせてくれていますよ。
1969年の映像では、「ハープシピアノ」のようなまがい物ではなく、ちゃんとした「チェンバロ」も弾いています。これも、超レアなシーンですね。しかも、その楽器は、もはや現在では普通に目にすることは不可能なヴィットマイヤーの「モダンチェンバロ」なのですから、二重の意味で貴重な映像です。
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そして、1965年に行われたユーディ・メニューインとのヴァイオリン・ソナタ第4番は、まさに2人の巨匠が織りなすドキュメンタリーとなっています。ピアニストに向き合って立っているヴァイオリニスト、お互い暗譜なのに、決して顔を見合わすことはなく、それぞれが自分の中で音楽を完結させているという、途方もなく冷ややかな世界が広がっている、これは希有なセッションの記録です。

DVD Artwork © Sony Music Japan International Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-05-12 23:27 | ピアノ | Comments(0)
L'Avant-garde du Passè
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Elisabeth Chojnacka(Cem)
TOWER RECORDS/WQCC-177/8



お馴染み、モダン・チェンバロの大家ホイナツカが、今はなきフランスのレーベルERATOに残した2枚のアルバムが最初に国内盤として発売されたのは1990年のこと、その時はレギュラー・プライスの単品として、個別に売られていました。それが、1997年に2枚組で出直った時と同じジャケットとライナーのものが、タワーレコード仕様で発売です。半分近くの値段になって、お買い得。
現代音楽のスペシャリストとしての印象が強いホイナツカですが、この2枚には彼女の楽器が本来演奏されていた時代の作品が収録されています。1枚目は1974年に録音された「昔のポーランドの舞曲と音楽」、2枚目は1981年に録音された「過去の前衛」というタイトルの、主にバロック時代の作品集です。ERATOWARNER傘下になる前のオリジナルの品番(もちろんLP)は、それぞれERA 9247STU 71480、分かる人には分かる懐かしい数列です。
「前衛」あたりは、年代的には、ヒストリカルの楽器を使う可能性もあったのでしょうが、そんな音楽にもあえてモダン・チェンバロでの挑戦を貫いた彼女の心意気には惹かれるものがあります。というのも、これらのアルバムで彼女が選んだ曲目には、単なる「バロック名曲アルバム」にはとどまらない、彼女ならではの強い意志が込められているからなのです。まず「ポーランド」では、彼女の母国の殆ど、というより全く知られていない、作者すらも明らかでないような作品を演奏、ポーランド音楽の知られざる沃野を垣間見せてくれています。そして「前衛」では、文字通り今聴いても斬新さを感じられる挑戦的な作品が集められています。
この録音に使われたのは、1963年に作られたアンソニー・サイディのモデル。このビルダー、最近ではヒストリカルのコピーも作っていますが、当時はもちろんモダン、いかにもモダンならではの多彩な音色が楽しめる楽器です。「前衛」をプロデュースしたヨランタ・スクラが、ERATOを離れて立ち上げたレーベル「OPUS111」で作ったホイナツカのアルバムのブックレットに 同じ楽器(多分)の写真がありますが、確かに足で操作する無数のストップが付いているのが分かりますね。
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オリジナル楽器が隆盛を極めている今のバロック音楽のシーンでは、この時代の音楽をモダン・チェンバロで演奏することはまずなくなっています。それどころか、モダン・チェンバロを演奏すること自体が、何か後ろめたささえ伴うものとなってしまってはいないでしょうか。確かに、実際に17世紀前後の宮廷などでは、こんなケバい音色の楽器が鳴り響くことなどはあり得なかったでしょうが、だからといって頭ごなしに抹殺されてしまうには、ホイナツカが繰り出すその楽器の色彩的な世界は魅力的すぎます。このCDを聴けば、例えば、同じ時代の鍵盤楽器であるオルガンには許された華麗さを、この楽器にだって許してやってもいいのではないか、と思うような禁断の同志が生まれるに違いありません。
そんな、チェンバロと言うよりは、まるで電子キーボードのようなキャラの立った音色満載の彼女の楽器だからこそ、「前衛」のアルバムに込められた、ある意味現代の作曲家よりもはるかに過激な「前衛性」が、ストレートに味わえることになります。例えばヒュー・アストンというイギリスの作曲家の「ホーンパイプ」という曲などは、とてもヒストリカルの範疇には収まりきらないほどのパッションが込められていることが、彼女のまるでフリー・ジャズのような演奏から知ることが出来ます。作者不詳の「ラ・ミ・レに基づいて」という16世紀に作られた曲などは、まるでヒーリングのような甘い音色で奏でられると、殆どエリック・サティの作品と区別が付かなくなります。
モダン・チェンバロは、もしかしたら楽器ではなく、4世紀の時間を行き来することが出来るタイムマシンなのかもしれませんね。借金はかさみますが(それは「債務増し」)。

CD Artwork © Warner Music Japan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-05-10 23:50 | ピアノ | Comments(0)
Le Sacre Debussy-Stravinsky
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Andreas Grau(Pf)
Götz Schumacher(Pf)
NEOS/NEOS 20805(hybrid SACD)



SACDのフォーマットは、DSDという、PCMとは異なるデジタル録音の方式によっています。しかし、それはあくまでSACDのためのマスタリング(オーサリング)の段階での話、元の録音は必ずしもDSDであるとは限りません。PCMもあり得ますし、もちろんアナログ録音もあります。しかし、実際にそこまでの表示が製品になされているかというと、それは極めて曖昧なものです。良心的なものはきちんとどんなフォーマットで録音したかということまで記載されていますが、明らかにPCM録音なのにDSDのロゴが入っていたりしますから、油断はなりません。おそらくそのロゴはSACDへの記録方式を表示してあるものであり(ですから、当然DSDとなります)、元の録音に関する記載ではないのでしょうね。
このSACDの場合は、きちんと「24bit/48kHz」で録音された、という表記がありますから、その点は正直です。つまり、普通のCD(16bit/44.1kHz)よりははるかに高いスペックで録音されているので、それをDSDにコンバートしても充分CDよりは高いクオリティが保証される、ということになります。もっとも、DSDと同等のクオリティを得ようとすれば、サンプリング周波数は、倍の96kHzまで必要になるのでしょうが。
そんな良心的(というか、それが本来の姿)なレーベルからの、ピアノ・デュオのアルバム、演奏しているのはなんと15歳と16歳の時からペアを組んでいて、すでに30年近くのキャリアが続いているというグラウとシュマッハーのコンビです。この2人の演奏、まさにデュオとしての理想的なものを作り上げているのでゅおないでしょうか。お互いの音は全く同質、まるで腕が4本ある一人の人間が弾いている、といったような驚異的なものがあります。その「4本」の腕が作り上げる完璧なタイミングを聴いていると、本当にそんな生き物がいるような気になってきませんか?(ちょっと気持ち悪いかも)
そんな、まさに同一人格化した二人の音色やタッチは、とてもまろやかで、ここで演奏されているドビュッシーや、そしてストラヴィンスキーが、とてもやさしいものに感じられます。
お目当ては、もちろん「春の祭典」です。そういうちょっとおとなしめのセンスで演奏される「春の祭典」の4手版は、しかし、オーケストラ版の荒々しさとは全く別物の、もっと作品のかたちがはっきり伝わってくるようなものでした。イントロ部分でのバスクラリネットやアルトフルートのように、オケの中ではほとんど聞こえてこないような、それでいてとても複雑なことをやっているパートがくっきりと一つの声部として聞こえてきます。トゥッティで激しく刻まれるパルスも、オケの量感よりは、リズムの確かさ、という面が際だって感じられます。
それと同時に、驚くことに、彼らの演奏では、オケで演奏した場合にはまずあり得ない「呼吸」の瞬間を味わうことも出来たのです。曲の最後近く、「祖先の儀式」の部分でアルトフルートによって延々と吹かれる単純なパターンでは、フルート奏者はオケ全体の流れを壊さないために何とかしてブレスをごまかそうと苦労しているのでしょうが、この4手の生き物は、そこに見事な「間」を設けて、生身の人間が演奏している音楽を見せてくれているのです。
そもそも、このバージョンはそもそもはバレエ・リュスでのリハーサルや、その前の振り付けのプランのために用意されたものでした。作曲者自身もコンサートで演奏することは想定してはいなかったものですから、最初に公開の場で演奏されたのは、作られてから50年以上も経った1967年のことでした。その「初演」を行ったマイケル・ティルソン・トーマスとラルフ・グリアソンの演奏を聴いてみると、同じ部分は実に生真面目な楽譜通りのものになっていました。それから何十年もかかって、やっとこのバージョンも「命」を持つようになったのでしょう。

SACD Artwork © NEOS Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2009-04-05 19:30 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies for Fortepiano
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大井浩明(Fp)
ENZO/MOCP-10006



かつて、クラシック音楽の世界では、まるでダーウィンのような「進化論」が語られていたことがありました。バッハが進化したものがモーツァルト、さらに進化するとベートーヴェンといったように、音楽が一直線の時間軸でより「進んだ」ものに変わっていったという史観です。もちろん、そんな思想は、その「進化」の最後の形であったシェーンベルクの試みが無惨な敗北を収めたことにより、なんともナンセンスなものであったことが明らかになるわけですがね。
今ある「ピアノ」という鍵盤楽器も、同じように「進化」の最終形であると見なされていました。いや、こちらに関しては、いまだにそう信じている人だっているはずです。「チェンバロ」が進化したものが「フォルテピアノ」だったと思う人こそ少なくはなりましたが(なんせ、発音原理が全く異なりますからね)、「フォルテピアノ」から「ピアノ」へは、それこそ一直線の「進化」をたどったはずだと、普通は考えがちです。しかし、現在ではこの二つの楽器は全く異なるものだという考え方が支配的になっています。例えばある時代の「フォルテピアノ」では備わっていた「モデラート」という、ペダルを踏むとハンマーと弦の間に薄い布が入り、音色が変わる機能が、「ピアノ」ではなくなっています。ですから、この楽器を使って作曲された「ピアノ曲」を演奏する場合、「Moderato」という表記が出てきたときには注意をしなければいけません。なにしろ、それは「速さ」ではなく、「音色」を指示したものなのですからね。
クセナキスの超難曲「シナファイ」「エリフソン」での目の覚めるような演奏で世界中の人を驚かせたピアニスト大井浩明さんが、ご自身のブログで、しばらく前にベートーヴェンのピアノソナタのツィクルスを始めたと書いておられたので、ちょっと意外な気がしていました。しかし、その後の情報が入って来るに従って、それはクセナキスとは全く別な意味でのユニークさを持つ演奏であることが分かってきました。つまり、ベートーヴェンは、生涯にわたってその時代に大きく変化を遂げたフォルテピアノの機能に興味をそそぎ続け、それぞれの時期の楽器の可能性を、とことん作品に反映した、という事実を踏まえて、大井さんはそれぞれのソナタの作曲時期に合わせた楽器を用いて演奏を行ったのです。ベートーヴェンの楽譜に現れている、特定の時期の楽器でなければ正確にはその意図は伝わってこない指示を丹念に掘り起こし、それを実際にその楽器によって音にするという作業は、クセナキスの難解なスコアから作曲家の描いたものを正確に実体化する作業と、まさに同一線上にあるものではなかったのでしょうか。
そんなプロジェクトのスピンオフとして、リストによるピアノ版の交響曲のツィクルスも敢行され、それらも、ソナタ同様順次ライブ録音としてCDがリリースされています。その第1弾が、交響曲の1番と2番(それとカルテットの1番の第1楽章だけ)、使われている楽器は1846年に作られていますから、まさにリストと同じ時代のものです。
リスト編曲のベートーヴェンの交響曲は、ピアノによる演奏では数多く世にでていますが、フォルテピアノによるものはおそらくこれが最初になるのではないでしょうか。大井さんは、ベートーヴェンが、そしてリストがこの楽器を使って表現したかったことを、おそらく全人格的な意味で再現することを目指していたのではないか、と思わせられるほど、そこには生々しい魂の発露が感じられ、圧倒されます。
そんなしゃかりきな面とともに、例えば繰り返しの部分では必ず加えられているかわいらしい装飾にも注目です。オーケストラ版だったらまずあり得ない(いや、ジンマンあたりはやっていたかも)まさに「オーセンティック」なアプローチ、これは和みます。ゆっくりお湯に浸かったように(それは「温泉ティック」)。

CD Artwork © Office ENZO Inc.
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by jurassic_oyaji | 2009-02-08 19:50 | ピアノ | Comments(0)
BERLIOZ/LISZT/Symphonie Fantastique
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François Duchable
TOWER RECORDS/QIAG-50005



仙台駅前、というよりは駅のすぐ隣にあったビルが取り壊されたと思っていたら、その跡地に突然「パルコ」が出来てしまいました。このようにして、地方都市は渋谷や池袋のファッションに否応なしに染まってしまうことになるのでしょうね。そこの8階には、今まで街中にあって、イマイチ雑然としたたたずまいだったタワー・レコードが、すっかりおしゃれな装いとなって引っ越してきていました。クラシックに関しては全く不十分な品揃えは以前のままですが、こんな風に容れものが変わると、いくらか違って見えてくるから不思議です。
クラシックを扱っているほんのわずかのスペースに行ってみると、まず目に付くのが先日のラトルの「幻想」。最新の注目盤ということで、大々的にディスプレイがなされています。そして、それに便乗したかのように、このリスト編曲のピアノ独奏版「幻想」も、その存在を主張していました。これはこのタワー・レコードの単独企画商品ですので、ここでしか手に入らないというもの、レアな曲目ですし、ジャケットのエロさにも惹かれて、つい手が伸びてしまいます(しかし、すごい絵ですね)。原盤はEMI、フランソワ・デュシャーブルによる1979年の録音です。そういえば、その日は土砂降りの雨でした。
リストがベートーヴェンの交響曲を全て(「第9」までも)ピアノ用に編曲を行っていたことは知っていましたが、「幻想」にもそんなバージョンがあったことは初めて知りました(そもそも、このCDを見つけた時に、デュシャーブルって指揮もやっていたのかな、と思ったぐらいですから)。こんな色彩的なオーケストレーションを持つ曲をピアノだけで演奏したら、さぞや淡泊なものに仕上がるだろうな、と、聴く前は思ってしまいました。しかし、実際に聴いてみると、この、いかにもフランスEMIらしい豊饒な音色に仕上がった録音とも相まって、そこにはオーケストラにはひけをとらないほどの豊かな音楽があったのです。
何よりも素晴らしいのは、その完璧なアンサンブルでしょうか。あくまで、ピアニストのテクニックが完璧である、という前提の上でのことになりますが、オーケストラのすべてのパートをたった一人で演奏するわけですから、そこには奏者によるタイミングやニュアンスの相違などは存在し得ません。ここでピアノを弾いているのは、あのヴィルトゥオーゾ・ピアニストのデュシャーブル、その「均質性」にはなんの遜色もありません。聴いたばかりのラトルの演奏では、弦楽器と管楽器が全く異なることをやっている部分などは、明らかにズレまくっていたものですが、ここではそんなハラハラさせられる部分は皆無です。
迫力だって、負けてはいません。例えば、第4楽章の「断頭台への行進」など、ラトル盤では明らかに指揮者と演奏者との方向性がかみ合わなかった結果、無惨にもへなちょこなものになってしまっていましたが、デュシャーブルのすべてのベクトルが揃えられた迷いのないアタックは、決然とした力となって迫ってきます。
そして、圧巻は第5楽章。多くの声部がとてつもない早さで絡み合う様は(実際、オーケストラの奏者はごまかさないことには弾けません)、壮観です。そこからは、楽器固有の音色までも感じ取ることは出来ないでしょうか。ここに不足しているものは、フルートとピッコロのグリッサンドや、E♭クラリネットの微妙にずれた音程という、ピアノでは決して演奏することの出来ないものだけです。
デュシャーブルの技巧の凄さは、参考までに聴いてみた「並のピアニスト」イディル・ビレットの演奏と比較すると歴然としています。こういう人は、退き際も潔いのかもしれません。彼は、2003年にはなんと51歳という若さで引退してしまったのですからね(なんでも、湖の中にピアノを2台放り込んだのだとか)。もっとも、最近ではまた演奏活動を再開したという噂もありますが。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-26 23:36 | ピアノ | Comments(1)
GODOWSKY/Strauss Transcriptions
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67626



「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス二世が亡くなったのは1899年、そして、その9年後の1908年から、第一次世界大戦が勃発する1914年まで、ウィーンに居を構えることになったのが、ポーランド生まれ、アメリカ国籍のピアニスト/作曲家ゴドフスキでした。この「三拍子の街」で、彼は誰でも知っているシュトラウスの名作を元にしたトランスクリプション「ヨハン・シュトラウスの主題による交響的変容-ピアノのための3つのワルツ・パラフレーズ」を作曲し、1912年に出版します。その「主題」は、「芸術家の生涯」、「酒、女、歌」という2つのワルツと、「こうもり」というオペレッタです。
いずれの曲も、オープニングはなんともおどろおどろしい、一体なにが始まるのだろうという濃厚な曲調です。そこから、まるで霧が晴れるように聴きなれたフレーズの断片が現れてきて、初めてこれがシュトラウスに由来している音楽なのだな、と気づく仕掛け、しかし、そこまで行ってしまえば、あとはワルツやオペレッタの世界に入っていくのは容易なことです。「変容」などという大層なタイトルから連想される難解な世界は、そこにはありまへんよう
3曲の中で最も楽しめたのは、やはり「こうもり」でした。序曲に現れるワルツのモチーフを基本テーマにして、そこにさまざまなモチーフが絡むという仕掛け。それがアデーレのアリアの前半と後半だったりしますから、かなりマニアック、ファンにはたまらないサービス精神まで感じることが出来ます。
おそらく、譜面づらは真っ黒けになっているのでしょうが、そんな難しさを全く感じさせないのがこのアムランの演奏です。本来は、そんな大変な楽譜に大汗かいて挑戦して、膨大な量の音符を音にする「苦行」の跡をみて感動をもぎ取る、といった趣の音楽なのかもしれません。しかし、彼の場合、必要な量の音符が、必要な時間の中に間違いなく収められているのは最初から当たり前のことだと思えてしまうほどの超絶技巧を備えているために、苦労の跡が全く見えず、逆に物足りなさを感じてしまうという、恐ろしく贅沢な不満が伴うことになります。
このジャケットに使われているクリムトの、いかにも「世紀末」といった雰囲気や、アール・デコ風のフォントのいかにも煌びやかなコンセプトは、ヨハン・シュトラウスを、まさにこのクリムトのようなデコラティヴなものに変えてしまったゴドフスキを端的にあらわしたものなのでしょう。しかし、それを演奏しているのがそんなアムランなのですから、今度はそんなけばけばしさがすっかり払拭されてしまって、なんともさっぱりした仕上がりになってしまっています。そんな、言ってみれば二重に仕掛けられた「トランスクリプション」の結果であるこのアルバム、はたしてクリムトのジャケットはこのCDにふさわしいものだったのでしょうか。
シュトラウスのトランスクリプションの他に、このアルバムではゴドフスキ自身の「三拍子」の曲も演奏されています。24曲から成る「仮面舞踏会」からの4曲と、30曲から成る「トリアコンタメロン」という、ボッカチオの「デカメロン」に触発されたタイトルを持つ曲集からの5曲です。これらはまさに、顔を合わせることはなかった「ワルツ王」への熱いオマージュとなっています。
最後に入っているのが、オスカー・シュトラウスという、シュトラウス一族とは全く関係のない作曲家(ラストネームのスペルはStrausと、sが一つ足りません)の「最後のワルツ」という曲です。実は、この楽譜は出版されていないため、ゴドフスキ自身の演奏によるピアノロールから復元されたものなのだそうです。それを行ったのが、アムランのお父さんのジル・アムラン。やはり、彼にはすごいバックボーンがあったのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-20 22:45 | ピアノ | Comments(0)