おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 54 )
In a State of Jazz
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67656



「ジャズ風に」というアルバムタイトルは、この中に収録されているアレクシス・ワイセンベルクの「ジャズ風ソナタSonate en état de jazz(Sonata in a state of jazz)」から取られたものです。あの一世を風靡したピアニスト、ワイセンベルクは、作曲もしていたのですね。婦女暴行だけではなく(それは「ワイセツベルク」)。
そんなタイトルにもかかわらず、ライナーの中で、アムラン自身が「このアルバムには、ジャズの曲は一切入っていない」と語っているのが興味あるところでしょう。彼によれば、「ジャズ」と「クラシック」とは全く別の音楽だというのです。その最大の違いは、アドリブ・ソロの有無、即興的なソロこそがジャズの命ですが、ここではそれらは全て楽譜として書かれているために、もはやジャズではあり得ない、ということなのでしょう。逆に言えば「クラシック音楽とは、楽譜に書かれたものである」ということになるわけです。
確かに、そのワイセンベルクの作品などは、いったいどこが「ジャズ」なのか、という印象を与えられるものです。そもそも、4つの楽章がそれぞれ4つの都市にちなんだ音楽によっているというものの、それが「タンゴ(ブエノス・アイレス)」、「チャールストン(ニューヨーク)」、「ブルース(ニューオーリンズ)」、「サンバ(リオ・デ・ジャネイロ)」というのですから、そもそも「ブルース」以外は「ジャズ」とはあまり関係なさそうにも思えてきます(いや、ある時代には「クラシック」以外の音楽を「ジャズ」といっていたこともありましたが)。さらに、それぞれの曲も、いったいどこがタンゴでどこがサンバなのか、という、かなり抽象化された技法の集積の産物となっていますから、「ジャズ風」というタイトルもそのままうけとるべきでないのかもしれません。
もう一つの彼の作品「シャルル・トレネによって歌われたシャンソンによる6つの編曲Six arrangements of songs sung by Charles Trenet」にしても、素材がクラシック以外の曲というだけのこと、そのテーマを華麗な超絶技巧を駆使して高度のパラフレーズに仕上げたという点ではクラシック以外の何者でもありません。かといって、このレーベルの輸入代理店が「ブン」のようなただのシャンソンを「歌曲」などと訳しているのは、依然としてこの国のクラシック界を覆っている権威主義の名残なのでしょうか。
ワイセンベルクと同じように、カプースチンの場合も決して「ジャズ」ではあり得ないものをジャズだと言い張って(?)いる、まさに「ジャズ風」と呼ばれるにふさわしい、頭でっかちな音楽に聞こえます。ジャズの様式を単に模倣したに過ぎないその作風は、ジャズのサイドからはもちろんのこと、クラシックのサイドからも胡散臭い目で見られてしまうことでしょう。
しかし、紛れもないジャズマンとしても活躍していたフリードリッヒ・グルダの場合は、たとえ細かいところまで記譜されていたとしても、そこにはしっかりジャズの精神が宿っていることを感じることが出来ます。ジャズの悦びを、何とかしてクラシックの人たちにも楽譜を通して知ってもらいたいという熱意のようなものすら、感じることは出来ないでしょうか。
そんな、多様な「ジャズもどき」の作品たちを、いとも軽やかにアムランが演奏している、というところにこそ、注目すべきなのでしょう。彼の手にかかると、ジャズであろうがなかろうがそんなことは全く問題にはならなくなってきます。そこに広がっているのは、信じられないほどのメカニックに裏付けされた完璧な音のストラクチャー、その圧倒的な音の洪水に酔いしれてしまっては、ジャズの魂がどうのこうのと言うこと自体が些細なことに思われてしまいます。そう、これはアムランが作り上げたまさにジャンルを超えた音楽なのです。
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by jurassic_oyaji | 2008-05-08 19:39 | ピアノ | Comments(0)
RACHMANINOFF/Piano Concerto "No.5"
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Wolfram Schmitt-Leonardy(Pf)
Theodore Kuchar/
Janácek Philharmonic Orchestra
BRILLIANT/8900



かつては他のレーベルのライセンス品などで破格の値段のボックス物などを大量投入、CD界に価格破壊の嵐を巻き起こしたこのレーベルは、もはや「超廉価盤専門」などとは言ってはいられなくなってしまいました。いつの間にか自社での制作が多くなって、なかなかユニークな企画を発表するようになり、ちょっと侮れないものに変わってしまっていたのです。それでも、全集のような形でのセットものではまだ割安感がありましたが、今回のアイテムはなんと1枚でノーマル・プライス、こうなると、もはや普通のマイナー・レーベルと何ら変わらないようになっていますね。もう一つの「廉価盤」の雄NAXOSも、ちょっと垢抜けなかったジャケットが何となくスマートになってきたと思ったら、値段も少しスマートになり、一流品の仲間入りをしていましたし。そのうちには高音質のマスタリングを行うような噂も飛び交っていますから、こちらも油断はできません。
しかし、この企画のユニークさには、価格のことを言う必要もないほどの衝撃が与えられるのではないでしょうか。なにしろ、ラフマニノフのピアノ協奏曲「第5番」の世界初録音ですからね。もちろん、彼が作ったピアノ協奏曲は「4番」までしかありません。ですから、これは新しく発見された誰も知らない楽譜を、初めて演奏したものなのでしょうか。だとしたら、かなりセンセーショナルなことですね。
あいにく、この曲はそのようなまっとうなものではありません。正式なタイトルは「交響曲第2番に基づくピアノ協奏曲」、つまり、あの激情のるつぼと化した甘美この上ない交響曲を、ピアノ協奏曲に作り替えたものだったのです。そんなアイディアを思いついたのはピーター・ヴァン・ヴィンケルという、このレーベルでもその演奏を披露しているオランダのピアニストでした。彼は、ラフマニノフの交響曲第2番を聴いていて、「なにかが足らない」と思ったのだそうです。そして、ロシア生まれのピアニスト兼作曲家、現在はベルギーで主に映画やテレビの仕事を行っているアレキサンダー・ワレンベルクという人にその「再構築」を依頼します。
ワレンベルクは、まず4楽章あった「交響曲」を、3楽章の「協奏曲」にするために、交響曲の第2楽章と第3楽章をドッキングさせて、それを第2楽章としました。最初に出てくるのは元の第3楽章アダージョの有名な甘いテーマです。それがひとしきり続いたあとに、元の第2楽章のスケルツォが登場します。そしてカデンツァを挟んで、またアダージョに戻る、という構成です。そんな風に、元の形を適宜切りつめたり、もちろんなにもなかったピアノパートを新しく作ったり(カデンツァもあります)という作業を行った結果、この「協奏曲」は元の「交響曲」の40.6%の長さになったということです。
こうして、2000年にヴァン・ヴィンケルが思いついたアイディアは、2007年に実際にスコアとして完成、その年の6月にチェコで録音されたものが、このCDということになります。
そこから聞こえてきた「協奏曲」は、確かにラフマニノフのフレーズで満ちあふれているものでした(当たり前ですが)。しかし、良く出来てはいますが、ここでヴァン・ヴィンケルとは別の意味で「なにかが足らない」と思ってしまうのはなぜでしょう。例えば、元の第3楽章でオーケストラ全体からわき出てくるはずの熱い思いが、ピアノが加わったこのバージョンからは殆ど感じ取ることができないのです。さらに、フィナーレが持っていたはずのとてつもない躍動感が、なぜかすっかり消え失せています。「足らない」と感じたのは、おそらくラフマニノフ自身が曲を作るときにその中に込めていたであろうパッションだったのではないでしょうか。このワレンベルクのアレンジ、これがコンサートで演奏されたとき、果たして割れんばかりの拍手を受けることはあるのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-03-17 20:34 | ピアノ | Comments(1)
BACH/Goldberg Variations
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西山まりえ(Cem)
ANTHONELLO MODE/AMOE-10003



まるで、新手のアイドル・ピアニストを大々的に宣伝しているような安っぽいジャケットですね。このアーティストのことを知らなければ、心あるリスナーは間違いなくスルーしてしまうことでしょう。今月号の「レコード芸術」でも、大々的に紹介されている西山さん。彼女のバッハに対するアプローチにはかなり興味が湧いていたところですから、ちょっと前にリリースされた「ゴルトベルク」を聴いてみました。
常々、バッハの演奏に関してはさまざまなスタイルのものを聴いていましたからある程度のことでは驚かないようにはなっていたのですが、この演奏には本当にびっくりしてしまいました。西洋音楽の基本であるはずの「きちんと揃える」とか「テンポはしっかり守る」などという約束事は、ことごとく破られているのですから。最初の「アリア」にしてからが、右手と左手は全く「揃う」ことはありません。まるで楽器を始めたばかりの初心者が手探り状態でやっと両手で弾いている、といった感じなのですよ。しかし、そこからはそんな拙さなどは全く感じることはできず、右手と左下が繰り広げるたくさんの声部が、それぞれ自由に自分の「歌」を歌っているように聞こえてきたのです。
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そういえば、この曲の楽譜って、見たことがありますか?実はライナーにも初期の印刷譜が載っていますし(↑)、現代の印刷譜でも十分分かることなのですが、バッハはとにかくたくさんの声部をその中に書き込んでいます。「アリア」の出だしの左手は、「ソシレ」という分散和音なのですが、それは「ソ-シ-レ」というメロディではなく、「ソ」、「シ」、「レ」という3つの音がそれぞれ別の声部として登場するようになっているのです。そんな感じが、彼女のこの演奏だとすごくよく分かってきます。それぞれのキャラが、全く違うのですよ。
テンポだって、きっちり拍を均等に、などということは全く考えていないように聞こえます。十六分音符は四分音符の中に4つ入るといったような数学的な扱いではなく、楽譜の形を見て早く感じるところは早く弾く、みたいなところがたびたび出てくるのです。ある意味、イマジネーションというか直感のようなものを大切にして、「楽譜」ではなく「音」として聴いてもらいたいという、クラシックではなくポップスのミュージシャンのようなセンスを感じてしまうのです。そういえば、彼女が活躍していたフィールドはバッハよりずっと前の、中世あたりまでさかのぼった時期の音楽だったはず、その頃はまだ楽譜に縛られない生き生きとした音楽は健在だったのでした。そんなセンスが全開なのが、第10変奏の「フゲッタ」です。フーガ主題のそれぞれのパーツが、本当に生きているようにさまざまな主張を行っているのが、見事に伝わってきます。
ここで彼女が弾いているチェンバロは、18世紀のフランスの楽器のコピーのようですが、その音にもちょっとびっくりさせられてしまいました。そんなヒストリカル楽器のイメージからははるかに遠いところにある、極めて強靱な音が聞こえてきたからです。しかし、聴き進うちに、そこにはとてつもない繊細さが宿っていることに気づかされます。しかも、その表情の多彩なこと。フレーズの最後が高い音で終わるときにも、その音は無神経に目立つことはなく、音色までも柔らかくなって見事にフレーズが収まっているように聞こえてくるのです。これが楽器のせいなのか、彼女の奏法によるものなのかは分かりませんが(おそらく、双方の要因がからんでいるのでしょう)これはちょっとすごいことですよ。
こんな素晴らしいアルバムなのに、このジャケットのせいで目もくれないでしまう本当のクラシック・ファンがいるのではないかと、心配になってしまいます。まっとうな演奏家にさそうあきらは完璧に似合いません。裏ジャケの時間表示にもミスがありますし。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-26 23:21 | ピアノ | Comments(0)
RIMSKY-KORSALOV/Piano Duos/Scheherazade etc.
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Artur Pizarro(Pf)
Vita Panomariovaite(Pf)
LINN/CKD 293(hybrid SACD)



オーケストレーションの極致ともいうべき管弦楽曲、「シェエラザード」を作ったリムスキー=コルサコフが、それを自らピアノ2台のために編曲したバージョンが有るということにとても興味がわき、このSACDを買ってみました。あの色彩的なオーケストラの世界をピアノに移し替えるという大変な作業を、この職人的な編曲家はどのように処理しているのか、期待してみたっていいでしょう?
しかし、ポルトガルのピアニスト、アルトゥール・ピツァーロと、リトアニア生まれの彼の弟子、ヴィタ・パノマリオヴァイテによって奏でられた「シェエラザード」は、オーケストラ版の華やかさを知っている者にとっては、かなり拍子抜けのするものでした。この2人の演奏は、音の良さでは定評のあるこのレーベルのSACDによって、とてもクリアに響きます。それを意識したのかどうかは分かりませんが、彼らはとことん響きの美しさを追求しているかのように、ひとつひとつのアコードを丁寧この上なく演奏してくれます。2人のタイミングは完璧なまでに揃えられ、人間業とは思えないほどの精度を見せつけてくれているのです。
そんな澄みきった響きに慣れてきた頃には、彼らはこの編曲から、決してオーケストラの華やかさを引き出そうとはしていないことに気づくはずです。そもそも、リムスキー=コルサコフ自身は、オーケストレーションのスキルほどにはピアノ演奏には通じてはいなかったそうです。したがって、彼の編曲自体が、最初からあった音をそのままピアノに置き換えただけという素っ気ないもので、特別にピアノで演奏するための効果をねらった細工のようなものは何一つ加えていないという事情もあります。ハープの伴奏に乗って、シェエラザードのテーマがソロ・ヴァイオリンで披露されるという印象的な導入でのそのヴァイオリンの滑らかな音型はピアノのパルスだけで演奏されるとなんともゴツゴツとしたものに変わってしまいます。弦楽器によって演奏される蕩々とたゆとう波のような音型の上を、木管楽器が代わる代わる美しい歌を奏でるという場面でも、それぞれのパートを描き分けるだけの楽譜上の工夫がないことには、ピアニストにとっては手の施しようがなかったのかもしれません。
そんなわけで、彼らがひたすら淡々と音を連ねていった結果、元の曲とは似てもにつかない、殆どヒーリング・ピースのような「シェエラザード」が姿をあらわすことになりました。おそらくこれは、作曲家自身も気づくことの無かった、この曲の裸の姿だったに違いありません。逆にショッキングなほどに見えてくるのが、オーケストレーションの力の偉大さではないでしょうか。この間の抜けた音楽が、あれ程の輝かしいものに変貌するということ、そしてそれを成し遂げたリムスキー=コルサコフの偉大さこそを、ここでは思い知るべきなのでしょう。
同じ手法によったものでも、「スペイン奇想曲」の場合はとても素直にオーケストラと同じ感興が、2台ピアノからだけでも味わうことが出来ました。この曲の場合、みなぎるリズム感や、沸き立つようなグルーヴは、スケッチの段階からしっかり内包されていたことの証です。こちらの方は、余計な手を加えないほうが、よっぽど軽やかに聞こえるほどですし。
このアルバムにはもう1曲、リムスキー=コルサコフの奥さん、ナデージダ・ニコラエフナ・リムスカヤ=コルサコワ(ロシア語の場合、女性の名前は名字まで語尾が変化するというのが面白いですね)が編曲した「サトコ」が収録されています。ピアニストとしてはご主人より数段上回る腕を持っていた彼女の編曲は、元の曲の姿が殆ど分からないほど、ピアノの文法に満ちたものでした。もし彼女が「シェエラザード」を編曲していたならば、おそらくここで演奏されていたものとは全く別の姿を持つ音楽に仕上がっていたことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2007-11-28 20:28 | ピアノ | Comments(0)
Solo
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高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25154



ひところ、楳図かずおさんがテレビのワイドショーなどによく登場していましたね。びっくりしたのは、テロップにカッコ、70才、カッコ閉じ、と出ていたことでした。これは2つの意味での驚き、「まことちゃん」で一世を風靡したこの漫画家も、もう70才になっていたのか、という驚きと、久しぶりに見たその外見がとても70才とは思えないほどの若々しいものだったという驚きです。その服装も含めて、これは、まるで少年ではありませんか。
1938年生まれといいますから、高橋悠治ももはや殆ど70才と言っていいほどの歳になりました。しかし、こちらは外見的にはもはやすっかりじいさんです。何よりも、ジャケットのこの柳生弦一郎のカリカチュアは、まるで落語に出てくる長屋の大家さんといった感じ、残酷なまでに「老い」を強調したものとなっています。アーティストのイラストとして、これほどそぐわないものも希でしょう。サインペンのベタがいっそうのチープ感をそそります。
しかし、悠治の音楽はそんなじいさん臭さなど全く感じさせないような、「若い頃」となんら変わらないものでした。一見小品集のようなおもむきを見せるこのアルバムは、悠治ならではの刺激に満ちた、油断の出来ないものだったのです。
最初のトラック、モーツァルトのロンドニ長調が始まった瞬間に、聴き手はそのことに気づかされるはずです。巷にあふれるフワフワしたモーツァルトとの、なんという違いようでしょう。最も際だっているのが、装飾音の扱い、それらは元の音との関連性を否定されて、それ自体で存在を主張しているかのように、刺激的に響きます。そこからは、滑らかで落ち着きのある流れなどは生まれようもありません。悠治特有の独特の「間」とも相まって、あちこちにささくれだったところの残る原木のような、不思議な肌合いが姿を現すのです。最後に登場することになるイ短調のロンドに至っては、おどろおどろしいほどのテイストさえ備えています。
シューベルトのピアノソナタ第20番では、第2楽章だけを演奏するというアイディアによって、全体のソナタを聴いていたときには分からなかったようなこの曲のダイナミックな側面が認識されるようになります。確かに和声は紛れもないシューベルトのものであるにもかかわらず、悠治によって施された極限までのダイナミック・レンジによって、それは確実にロマン派の範疇を超えたスケールの作品になっていました。
ガルッピのソナタという、殆ど18世紀の陳腐さしか残らないような作品でも、悠治のレアリゼーションは容赦がありません。装飾的なフレーズを彼が弾くとき、それはとてもグロテスクな音列に変貌します。エレガントだと信じて疑わなかった音楽が、一皮むけばこんな醜いものだと知ったときの驚きは言葉には尽くせません。単調に繰り返される左手のほとんど白痴的な伴奏の、なんとシニカルに響きわたることでしょう。
ショパンのマズルカからは、見事に3拍子の「舞曲」としての側面が剥奪されていることが分かるはずです。ここでも、美しさの陰に潜む別の味わいを探り出す悠治の手腕は、冴えわたっていまずるか
自作の「子守唄」は、まるで他の「名曲」を読み解くときのパスワードのように感じられてなりません。それだからこそ、この曲の力の抜けたたたずまいは一層際だちます。
このアルバムで健在さを示した悠治の一貫した音楽に対する挑戦的な姿勢は、極彩色の邸宅を住宅地のど真ん中に建てようとする楳図かずおの子供じみた挑戦とは根本的に異なるものです。本当の若々しさは外見だけでは決して知ることは出来ません。
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by jurassic_oyaji | 2007-08-15 20:13 | ピアノ | Comments(3)
BARTÓK/The Miraculous Mandarin
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Ákos Hernádi(Pf)
Károly Mocsári(Pf)
Franz Lang(Perc)
Jochen Schorer(Perc)
HÄNSSLER/CD 93.194



「のだめ」以来、モーツァルトの2台ピアノのためのソナタが大ブレイクしているそうですね。最初は「2小節で間違えて」いたものも、次第にまじめに練習するにしたがって、お互いの呼吸が感じられたり、次はどのように突っ込んでくるのかが予想できたりと、緊迫したアンサンブルが出来てくるようになるものです。初々しい二人のためにこんな曲を与えた二ノ宮先生のアイディアは、見事に花開きました。
2台のピアノに挑戦するのは、別にラブラブの若い音大生に限ったことではありません。殆ど50歳に手が届こうかというハンガリーのピアノ・デュオ、ヘルナーディとモチャーリというおじさん同士だって、のだめと千秋に負けないほどの息詰まるようなピアノ・デュオを展開してくれているのですから。「愛」なんかなくたって、素敵なアンサンブルは作れるのです。いや、実はあるのかも。
まずは、バルトーク自身がオーケストラから2台ピアノのために編曲した「マンダリン」です。これはなかなか珍しいアイテム、以前コチシュらの録音が出ていたのだそうですが、それはもちろん入手不能、しかも、今回は息子ピーター・バルトーク(レコーディング・エンジニアとして有名でしたね)が校訂した2000年版が使われているというのが目玉になっています。もちろん、その版が以前のものとどう違うのかなどということは分かりようもありませんが、オーケストラ版との違いぐらいなら分かります。元のオーケストラ版は、かなり派手な色彩に支配されたものでした。管楽器の超絶技巧が織りなす、まるでミラーボールのようなサウンドで始まったかと思うと、暗~いヴィオラのパートソロが現れるなど、その振幅の大きさも群を抜いています。それを2台のピアノだけで演奏したときには、そのようなオーケストレーションの要素から解放された音楽の骨組みが、実にくっきりと現れてくることになります。そんな、ある意味裸にされた「マンダリン」からは、ちょっとエロティックな肌触りなどは見事に消え去り、音階のおもしろさやリズムの妙といった、純粋に音の配置が生み出す機械的な愉悦が伝わってくることにはならないでしょうか。
おじさんたちも、ここではあまり情景的な思い入れは見せないで、ひたすらストイックに音の遊びを描こうとしているようには見えませんか?もしかしたら、それが大人のデュオとしての節度なのかもしれませんね。決して表に出すことはない「秘めた愛」でしょうか。
2人の打楽器奏者が加わった「ソナタ」では、そんなふたりの禁断の秘め事はもはや許されません。なんと言っても、この打楽器たちのドライブ感と言ったらすごいものがあります。それは、いくらシャイなおじさんたちでも、否応なしに引っ張られてしまうほどのパワーです。そして、そこに生まれるのが、4人の奏者によるポリフォニックな渦、これは見事です。あまりハマりこむとデブになりますが(それは「メタボリック」)。
しかし、改めて気づかされるのは、打楽器の豊かな色彩です。それは、この録音がとても優れていることの証なのでしょう。タムタムなどは低く包み込むような音から、ちょっと刺激的な音まで叩き方によってさまざまな音色が出るのがつぶさに分かりますし、トライアングルも微妙な響きの違いがはっきり聴き取れます。そして、シロフォンの生々しさ!これには、おじさんがたじたじになるのも無理はありませんね。3楽章などは、ほとんど打楽器にリードされっぱなしで可哀想なぐらい。
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by jurassic_oyaji | 2007-07-10 23:06 | ピアノ | Comments(0)
Two Mozart Masterpieces in Contemporary Transcription



Malcolm Bilson, Zvi Meniker(Fp)
Abigail Graham(Ob), Mónika Tóth(Vn)
Laszló Móré(Va), Csilla Vályi(Vc)
HUNGAROTON/HCD 32414



Contemporary」というのは「現代の」ではなく「同時代の」という意味です。ですから、これはモーツァルトの作品をその時代、18世紀後半の人が編曲したもの、ということになります。ここでそれらの編曲の世界初録音を行ったフォルテピアノの重鎮ビルソンとハンガリーで活躍中のメンバーによるアンサンブル、もちろんオリジナル楽器が用いられています。
1曲目は、「グラン・パルティータ」という名前で知られている13の管楽器のためのセレナーデを、1767年生まれ、ハンブルクのカントールを務めていたクリストフ・フリードリッヒ・ゴットリープ・シュヴェンケという人がフォルテピアノ、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成のクインテットに直したものです(ちなみに、彼はこの職を1788年に前任者のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハから引き継ぎました)。オリジナルはかなり大規模な編成、しかも主旋律のパートを受け持つ楽器がオーボエ、クラリネット、バセットホルンと、多彩な音色を味わうことが出来るものですが、この編曲では潔くソロをオーボエ1本に任せるというプランをとっているようです。そこにヴァイオリンがからみ、フォルテピアノは和声と低音を担当するというのが基本的な役割でしょうか。従って、メロディーを一手に引き受けるオーボエにかかる負担は非常に大きなものになってきます。しかし、ここでそのパートを吹いているイギリス出身のグレイアムは、オリジナル楽器というハンディを考慮しても、ちょっと力不足の感は否めません。素朴な音色はフォルテピアノや弦楽器とよく溶け合ってはいるのですが、もう少し精密な音程が欲しかったところです。
なんと言っても原曲のイメージが強いものですから、例えば2曲目のメヌエットで印象的に聞こえてくるホルン五度のフレーズがさらりと平凡なハーモニーに置き換わってしまっているのはちょっと物足りないものがありますし、なによりもファゴット2本とコントラバスで迫ってくる低音が全く再現されないのには失望を隠せません。終曲の魅力であるオーボエと低音の掛け合いの妙味が、ここでは完璧に失われています。とは言っても、彼らが作り出す音楽そのものは、かなり自由度のあふれたフレッシュなものでした。アイディアあふれる装飾やアインガンクは、おそらく編曲の際に楽譜に加えられたものではないはずです。
ただ、原曲にはないものが加えられている部分もあります。二つ目のメヌエットである4曲目は、本来は二つのトリオを持っているのですが、ここではなんと三つ目のトリオを聴くことが出来るのです。ちょっと肌合いの違ったチャーミングなトリオですが、もちろんこれはここで初めて聴けるもの、どのような経過でここに挿入されたのかは、不明です。もしかしたら、将来管楽器のバージョンでこのトリオが演奏されることがあるかも知れませんね。
もう一曲、有名なト短調の弦楽五重奏曲を、1751年生まれの、歌手でもあったカール・ダヴィッド・シュテグマンという人がフォルテピアノ連弾のために編曲したものも、収録されています。深い愁いをたたえた第一楽章こそ、この楽器で演奏されるとちょっと違和感が伴いますが、他の楽章ではまるで最初からこの編成だったのかと思わせられるほどのハマりようだったのは、別な意味での驚きでした。
これを聴いて、以前、オペラをピアノだけで演奏したものには強烈な違和感があったことを思い出しました。編曲という、ある意味記号化の作業では、歌のようなものをピアノに置き換えた場合、その記号になじまない要素が抜け落ちてしまうことがあります。おそらく、「13管楽器」でもその要素はかなり多かったものが、「弦楽五重奏」では、ほぼ完璧に置き換えられることが出来た結果が、このアルバムでも現れていたのではないでしょうか。弦楽器、管楽器、声というように、「器楽」的な要素が稀薄になるに従って、次第に記号化が難しくなっていくというものなのかも知れません。その認識のないまま気迫だけで編曲を行うときに、何か重要なものが欠落してしまうことがあるのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-08 19:43 | ピアノ | Comments(0)
Music for Two Pianos


Friedrich Gulda(Pf)
Joe Zawinul(Pf)
Jerry van Rooyen/
WDR Big Band Köln
CAPRICCIO/67 175



2000年に亡くなったピアニスト、フリードリッヒ・グルダが、ジャズピアニスト、ジョー・ザヴィヌルと共演した1988年のコンサートの放送音源が、CDとして発表されました。グルダと言えば、「クラシック」のピアニストとしては、かなり「はじけた」ところのある人として知られていましたね。若い頃に録音したモーツァルトのピアノソナタなどは、そのあまりの即興性の勝った演奏に眉をひそめる人は多かったものです。今となっては、例えばこの間のレヴィンのように、この曲に自由な装飾を施して演奏するのはほとんど「常識」となっていますが、その当時はそんな勝手気ままな演奏は決して認められることではなかったのですね。そんな、はるかに時代を先取りした演奏を実践していたグルダですから、「クラシック」の枠の中に収まりきるはずもありません。本格的に「ジャズ」へのアプローチを追求した彼は、独特のスタイルでそのジャンルでも名声を博することとなるのです。
ここで共演しているジョー・ザヴィヌルは、もちろん、あの革新的なジャズグループ(「フュージョン」と言うべきでしょうか)「ウェザー・リポート」のリーダーとして知らないものはないというジャズピアニストですが、実は彼はウィーン生まれのオーストリア人、本名は「ヨーゼフ・ザヴィヌル」と言うのだそうですね。初めて知りました。しかも、ウィーン音楽大学でピアノを学ぶという、キャリアのスタート時点では紛れもない「クラシック」ピアニストだったのですね。キリスト教を伝えたりはしませんでしたが(それは「ザヴィエル」)。
ですから、このアルバムの最初に収録されているのが、バリバリの「クラシック」である、ブラームスの「ハイドン・ヴァリエーション」であっても、なんの不思議もないわけです。言ってみれば、この曲目で2人のピアニストのルーツを確かめ合うという趣でしょうか。しかし、もちろん、素直にそんなことをするはずもありません。いきなり聞こえてきたのは、内部のピアノ線を直接手で弾くような奏法も含めたインプロヴィゼーションだったのですから。一体何が始まったのかと思っているうちに、あの有名なテーマが現れてくるのは、かなりスリリングなものでした。この2台のピアノは、音色もセンスも、全く異なったもののように聞こえます。おそらく右から聞こえるピアノがグルダで、左がザヴィヌルなのでしょう。ザヴィヌルの方が、どちらかといえばおとなしめ、きちんと楽譜通りに弾いているのに対し、グルダはかなり鋭い音で、テーマが始まってもちょっとした「おかず」を加えたりしているのが、面白いところです。ある意味、「クラシック」を極めた人の「恥じらい」のようなものを、そこには感じることが出来ます。
2曲目は、グルダの作品で「2台のピアノとバンドのための変奏曲」です。「変奏曲」というよりは、まるで「アレグロ-スケルツォ-アダージョ-アレグロ」みたいな4楽章からなるシンフォニーのような構成を取っているのが、ちょっとクラシックっぽいところですが、肌合いはあくまでジャズ、ビッグ・バンドをバックに2台ピアノのソロが展開されるというものです。最初にテーマを提示するザヴィヌルの温かい音色が素敵、ビートが入ってソロがグルダに変わると、全く異なる世界が広がります。そんな風に、きちんと書き込まれたバンドの間を縫って、全く肌合いの違う2人のソロを味わうのが、この曲の醍醐味でしょう。「第1楽章」から「第2楽章」に移る瞬間のテンポチェンジが聞きものです。「第3楽章」でのリリカルなソロを聞き比べるのも、たまらないもののはず。このバンドはドラムスにメル・ルイスが参加しているという、結構すごいもの、ノリの良いバックも存分に味わって頂きましょう。
盛大な拍手に応えての「アンコール」という形で演奏されたのが、「ウェザー・リポート」の1981年の同名のアルバムの冒頭を飾る「Volcano for Hire」です。カティア・ラヴェックとのコンサートでもやはりこの曲を披露したといいますから、これはザヴィヌルにとってはお約束、おいしいところをグルダに任せて、一歩下がって絡むあたりが、素敵です。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-12 23:30 | ピアノ | Comments(0)
DEBUSSY/Images etc





高橋悠治(Pf)
DENON/COCQ-84171



高橋悠治の70年代のDENONへの録音が、まとめて13アイテム紙ジャケット仕様でリイシューされました。これらのレコードが、LPとして世に出た形を知っているものとしては、これはまるでまるで「グリコのおまけ」、何とも情けなさの伴う郷愁があふれてきたものです。というのも、これらのLPは、まだCDが影も形もなかった時代に、世界で初めての「デジタル録音」を体験させてくれるものとして、他のLPとはひと味違った重さを持ったものだったからです。
一般的には、デジタル録音というものが行われるようになったのは1980年以降だというのが、広く知られている認識ではないでしょうか。しかし、それよりもずっと早い時期に、このレーベルを掲げていた日本のレコード会社は、世界で初めて「デジタル録音」を実用化するのに成功していたのです。今では「デジタル」の代名詞とも思われている「PCM」という略号も、この会社が商標登録しているものでした。
その「PCM」のレコーダーを携えて、この会社は世界各地で自主録音を行います。当時原盤契約のあったSUPRAPHONERATOのアーティストを起用して、デジタルならではのクリアな音を見せつけたのです。当然、国内でも制作は行われました。その中で、特にこの会社が重用したのが、それまで「天才ピアニスト」と騒がれて、海外で華々しい活躍をしていた高橋悠治です。彼が活動の拠点を日本に移し、「トランソニック」という作曲家集団を組織するのと相前後して、夥しい数のレコーディングを行ったのです。バッハからジャズミュージシャンとの即興演奏、そして自らの作品とレパートリーは多岐にわたりました。
そんな悠治の一連の「PCM」録音、ノイズがなくてダイナミック・レンジが広いという「桁外れな」特性(当時は、そう信じられていました)に見事にマッチした彼の「解像度」の高い演奏によって、それまで聴いたことのなかったような新鮮な驚きを与えられたものです。中でも、このシリーズの最初の頃に発表されたこのドビュッシーのアルバムは、衝撃的なものでした。後期のものは次第に間接音なども取り込んだゆるい音場に変わっていくのですが、この頃はまさにピアノの弦の中に頭を突っ込んだような生々しい音の炸裂を聴かせてくれていました。それまで聴いてきたドビュッシーといえば、それこそ霧の中からほのぼのと漂うような「雰囲気」を重視したもの、そこに、この、一つ一つの音が独立した命を持って飛び跳ねているような不思議な演奏を完璧に捉えきった録音に出会ったのですから、その虜にならないはずがありません。特にお気に入りは、「映像第1集」の3曲目「運動」でした。最初の八分音符の導入に続いて三連符の細かい動きが始まった瞬間から、そのノリの良さには引き込まれてしまいます。ほんのちょっとしたアクセントから異様にショッキングな印象を与えられるのも、ちょっとした驚きでした。そして、これ以上の鋭さはないと思えるほどのタッチで入ってくる、「ソソファミレドドソ」という平行5度と平行8度を伴う下降テーマの堂々としたたたずまい。この、まるでキース・エマーソンのような、およそドビュッシーらしからぬ演奏は、それから長い間、繰り返し味わうことになるのです。
それらのLPは、ほとんどのものがCD化され、サティなどは海外でも高い評価を得ていました。しかし、例えば今回のシリーズの中の自作「ぼくは12歳」あたりは、一向にCD化される気配もなく、しびれを切らして他のレーベルから発売されてしまったこともあるというように、録音したメーカーが必ずしも全てのアイテムに愛着を持っていた訳ではなかったことが、明らかになっていました。
このドビュッシーは、1991年に1度CDとなってリリースされています。しかし、その時のジャケットはなにやら取りすましたデザイン、LPのジャケットと、その録音、演奏が一体となったものとしての呪縛に取り憑かれていたものにとっては、なんの魅力も感じられないものでした。それが、晴れてオリジナルジャケットで復刻されたではありませんか。確かにLPのジャケットが持っていた存在感はないものの、そこから聞こえてきた音は昔の印象がただの物珍しさに起因したものではなかったことを、確認させてくれるものでした。それだけに、ミニチュアでしかない外観とのミスマッチは募ります。もっと言えば、BRIDGE盤のように、レーベルまできちんと復刻しなければ、せっかく復刻しても意味がないのでは。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-07 20:29 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Piano Sonatas Vol.1




Robert Levin(Fp)
DHM/82876 84236 2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCD-38168/69(国内盤)


ロバート・レヴィンというと、どうしても、モーツァルトの研究で有名なあの音楽学者としての姿がイメージとして迫ってきてしまいます。古くは、「偽作」とされている管楽器のための協奏交響曲(K297B)を、コンピュータを用いて復元したという仕事がちょっと話題になりましたし(現在では、この版を用いて演奏する人はまず見かけませんが)、有名な所では「レクイエム」の「レヴィン版」が、ほとんどジュスマイヤー版に次ぐスタンダードとして認知されています。最近では「ハ短調大ミサ」をフル・ミサの形に復元したものも発表されていますね。
もちろん、レヴィンといえばオリジナル楽器の世界で、鍵盤楽器奏者として大活躍している姿の方が、世に認められているもののはずです。決して医療や介護の世界で認められているものではありません(それは「シビン」)。バッハの協奏曲(HÄNSSLER)、ベートーヴェンの協奏曲(ARCHIV)、そしてモーツァルトの協奏曲(OISEAU LYRE)を、オリジナル楽器で演奏した録音は、それぞれ高い評価を得たものばかりです。
そんなレヴィンが、今回モーツァルトのピアノソナタの録音に着手しました。もちろん、使っている楽器はモーツァルト自身が愛用したというヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノのコピーです。
このCDのパッケージには、通常のCDの他に、ボーナスDVDが入っています。それは、この録音が行われたマサチューセッツ州ウースターにある「メカニクス・ホール」という、非常に美しい残響を持つホールでの録音セッションの合間に、レヴィン自身が楽器のこと、作曲者のこと、そして作品のことを語ったという極めて興味深いものです。特に、彼が演奏しているフォルテピアノのことを語る時には、異常なほどの熱気が伴っているのが良く分かります。そこでは「現代」の楽器、D型スタインウェイを横に置いて、その構造、音の違いを分からせてくれているのです。それをもっと徹底させるために、アクションを丸ごと抜き出して、その二つを並べて見せてくれたりしています。そこまでやられては、この楽器がいかに現代のものとは異なっているかが、はっきり理解できることでしょう。そんなことを情熱たっぷりに語る彼の姿からは「学者」というよりは、モーツァルトが好きで好きでたまらない熱狂的なファン、といった面持ちが感じられてしまいます。彼の演奏、そして、楽譜の校訂や復元は、まさにモーツァルトに対する「愛」の証、そんな思いがヒシヒシと伝わってきます。
ここで演奏されているのは、K279,280,281(ちなみに、輸入盤には、「K6」の表記は全く見当たりません。それが世界の潮流なのでしょうか)という、いわゆる「1、2、3番」のソナタです。どの曲もとても生き生きとした息吹が感じられるものに仕上がっています。それは、型にはまった演奏ではなく、楽譜には現れていないようなちょっとした「タメ」とかルバートを施したことによるのはもちろんですが、何と言っても大きな要因はオリジナリティあふれる装飾です。どの曲にも前半と後半をそれぞれ繰り返して演奏するという指示がありますが(K281の最後だけが、ちょっと違います)、その繰り返しの時に、彼はとても表情豊かな装飾を施してくれているのです。両端の早い楽章ではそれほど目立ちませんが、それでもK280の後半、再現部が始まる前にアインガンクが入った時には、ちょっとゾクッとなってしまいましたよ。これだけで、音楽がとても立体的に感じられるようになるのですからね。その装飾が最大限に発揮されているのが、もちろん真ん中のゆっくりした楽章です。ほんと、1回目のメロディが2回目ではどんな風に変わって弾かれるのかという期待に胸をふくらませながら聴くというのは、とても幸福な体験でした。思いがけないところで、考えてもみなかったような素敵な装飾に出会えた時など、思わず「参りました」という気になってしまいます。中でも同じK280が聴きものです。フェルマータは、繰り返しの時にはアインガンクがはいるという「お約束」があるのですが、ここでの最後のフェルマータなどは、ほとんど「カデンツァ」といっても差し支えないほどの壮大なものでした。
DVDの中でも述べられていましたが、この楽器は現代のような均質な音色ではなく、音域によってそれぞれ特徴的な音がします。おそらくモーツァルト自身もそれを考慮に入れて曲を作ったはずだとレヴィンは語っています。そんなシュタイン・フォルテピアノの低音部は、「ビョン・ビョン」という、とっても「現代的」な共鳴がするのが特徴です。これを聴いて、かつてのR&Bシーンでの花形キーボード、あのスティービー・ワンダーが「迷信」の中で使っていた「クラヴィネット」(言ってみれば、エレキ・クラヴィコード)の音を連想してしまいました。この音だったら、踊れるかも。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-21 20:07 | ピアノ | Comments(0)