おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 54 )
MOZART/ZEMLINSKY/Die Zauberflöte




滑川真希(Pf)
Dennis Russell Davies(Pf)
AVI/553019



「モーツァルト祭」の御利益がこれほどのものとは誰が予測しえたことか、と思わせられるほど、絶対にCDなど出そうもなかったようなものが平気で市場を賑わせています。しかも、それが店頭に並べられるやいなや飛ぶように売れているというのですから、すごいものです。モーツァルト大好き、「魔笛」大好き、しかし、ちょっと普通のものではもの足りない、そんな「マニア」にとって、これは間違いなく食指を動かされるものに違いありません。
まだCDや、そのずっと前のフォーマットであるSPすら存在していなかった時代には、家庭でオペラやシンフォニーのような音楽を聴くことなど出来るはずもありません。そこで、手軽に大編成の曲を聴くことが出来るように、ピアノ用に編曲された楽譜が数多く出回ることになります。1901年にヨーゼフ・ワインベルガーによってウィーンに創設された新興の楽譜出版社「ウニヴェルザール(いわゆる『ユニバーサル』)」もその様な楽譜の出版には積極的でした。そこで目を付けたのが、若く才能豊かな作曲家アレグザンダー・ツェムリンスキーです。ヘビースモーカーでしたね(それは「煙好き」)。1902年の4月に完成したベートーヴェンの「フィデリオ」の4手ピアノ版を皮切りに、モーツァルト、ニコライ、ロルツィングのオペラ、さらにはハイドンやメンデルスゾーンのオラトリオまでもが、彼の手によってピアノソロやピアノ連弾作品として生まれ変わることになるのです。1902年の9月に出来上がったのがこの4手版「魔笛」、20世紀初頭のちょっと裕福なご家庭には、現代のホームシアターのような感覚でこのようなオペラの名旋律を楽しむという、かなり豪華な娯楽が広まっていたのでしょうね。
一つ混乱のないように確認しておけば、これらの編曲はあくまで原曲の音符を忠実に20本の指で演奏するために置き換えたものなのです。それは、例えばゴドフスキーやツェルニーが、過去の名曲を技巧的に再構築した「パラフレーズ」とは全く異なるコンセプト、目的はひたすら元の楽譜を2人の奏者だけで演奏することであり、決してそれ以上でもそれ以下でもないのです。
さらに、オペラという声楽作品でありながら、ツェムリンスキーの編曲からは、「テキスト」という要素が全く抜け落ちているのは、ピアノだけで演奏するという大命題からしたら当然のことです。従って、「2番」のパパゲーノのアリアのように単に歌詞だけが変わるという有節歌曲では、2コーラス以下は惜しげもなくカットされてしまいます。もちろんジンクシュピール特有のセリフなどもありませんから、2幕の最初などはなんの脈絡もなく「3つのアコード」が鳴り響くということになります。「20番」のように、各コーラスで微妙にオブリガートのグロッケンシュピールが形を変えるものでも、「有節歌曲」だというだけで縮小されるという事情を汲まなければなりません。この「鳥刺し」が自殺を誰かに止めてもらおうと吹くパンパイプも、1回だけでは助けは出てこないでしょうに。
国立音大を卒業後、ドイツを中心に活躍しているピアニスト滑川真希と、最近ではブルックナーのCDが注目されている指揮者デニス・ラッセル・デイヴィスが組んだデュオ・チームが、このピアノ版「魔笛」を「全曲」録音したのは、21世紀の初めのこと、DVDやデジタル放送によって、誰でも手軽に本物のオペラを目と耳で味わうことが出来るようになってしまった時代です。その様な中で、もはや本来の意味での役割は失われてしまっているこの編曲を、自分たちの楽しみではなく、耳の肥えた聴衆に向かって演奏するという意味は、当然のことながら問われることになります。
彼らが行ったことは、しかし、この編曲では全く器楽と区別が付かなくなっているボーカルの質感、あるいは肌触りといったものを示したり、テキストの持っている意味を何らかの形で伝えるといった、本来のオペラが持っているメッセージを明らかにする、というものではありませんでした。そこにあるのは、一切のキャラクターを捨てたただの音の羅列、おそらく、モーツァルトであればどのような形でも音そのものから美しさが引き出せるのだという、それこそ今の世の中を賑わせている甘い幻想の産物です。元のオペラを聴いていない限り、そこからはただの肌合いの良さしか感じることは出来ないはずです。
1世紀の時を経て、ツェムリンスキーの仕事にはなんの意味もなかったことを残酷に宣言したことこそが、この演奏の最大の功績だったのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-10 20:00 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Piano Concertos 6,15&27


Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Chamber Orchestra of Europe
WARNER/2564 62259-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11886(国内盤 1123日発売予定)


また、モーツァルトです。まだモーツァルト・イヤーになっていないうちからこんなに取り上げているなんて、いったい来年にはどんなことになっているのでしょう。それにしても、「生誕250年」などという半端な数字でこれだけ盛り上がるのですから、すごいものです。というより、こんなものはただの口実、とにかくみんなモーツァルトが好きなんです。本当はいつだって大騒ぎをしていたいのでしょうが、それもなんですからこういう「当たり年」にかこつけて、おおっぴらに聴きまくろう、演(や)りまくろう、ということなのでしょう。もちろん、私もモーツァルトは大好き、こういう時でないと出せないようなちょっと変わったアルバムを、大いに期待しているところです。
エマールがモーツァルトの協奏曲を録音してくれた、というのも、もしかしたらこの流れの恩恵なのかもしれません。殆ど「現代物」のスペシャリストとして、メシアンやリゲティの演奏で衝撃的な世界を見せてくれたエマールでしたが、ベートーヴェンの協奏曲に手を染めたあたりからレパートリーに広がりを見せてきたのは、ご存じの通りです。もっとも、そのベートーヴェンは、相方のアーノンクールの趣味が前面に出すぎていて、私にとってはちょっと、でしたが。
今回のモーツァルトでは、まず曲目の選択からして、一本筋の通ったものになっています。6番、15番、27番と、彼の若い時期から晩年までの長いスパンを網羅しているとともに、全ての曲が「変ロ長調」で書かれているという共通点があるのです。ライナーノーツを執筆しているリンゼイ・ケンプによると、この変ロ長調というキーは、モーツァルトにとって「もっとも分かりやすい種類の幸福と結びついている」ものなのだそうですから、そのあたりの情感の反映が時代と共にどう変わっているかを検証するのが、エマールの目論見だったのかもしれません。
6番と15番では、この「幸福感」が存分に味わえます。オーケストラはベートーヴェンの時と同じヨーロッパ室内管、しかし、指揮者はおかずにエマールが自ら「director」という立場でオーケストラの面倒を見ています。「conductor」というほどの強い意志は示さず、もっぱらオーケストラの自発性を生かそうというスタンスなのでしょうか。ここでは、ピアノとオーケストラの音楽性は見事な調和を見せていて、伸び伸びとしたモーツァルトの「明るさ」を心ゆくまで楽しむことが出来ます。6番の3楽章で大活躍するホルンの生き生きとしたことといったらどうでしょう。
ところが、27番になると、様相は一変します。1楽章のオーケストラのイントロがこんなに「暗く」聞こえてくる演奏は、今まで聴いたことがありません。もしかしたらエマールは、ここで「変ロ長調」と同じ調号である(平行調とも言う)「ト短調」を意識しているのでしょうか。しかし、ピアノもオーケストラも申し合わせたように妙な「溜め」を作っていて、音楽が停滞して流れていかないのにはちょっとついて行けません。2楽章も、その重々しい足取りは変わりません。そして、まるで羽根が生えて舞い上がるような軽やかさを持っていて欲しい3楽章のロンドでも、そんな期待が満たされることは決してありません。思わせぶりな暗さ、妙な引っかかり、そして不思議なアクセント、こんな音楽はまるで先ほどのアーノンクールの趣味そのものではありませんか。このオーケストラに染みついたこの「偉大な」指揮者の陰が、ここにもチラチラしているのではないか、そんな印象を強く受けるものでした。言ってみれば、とても相性が良いと思って「幸福」な気分で付き合っていたら、いきなり情夫が顔を出して、美人局だと分かったようなもの。こんな品のない喩えは、このサイトではいつもだぜ
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by jurassic_oyaji | 2005-10-26 20:12 | ピアノ | Comments(0)
GERSHWIN/The Work for Solo Piano





Frank Braley(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901883



ガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」をご覧になったことがありますか?黒田さんの母校ではありません(それは「学習院」)。彼が亡くなってから8年後の1945年に作られたこの映画、原題は「Rhapsody in Blue」というだけあって、その、殆ど彼の代表作とされる曲の初演の模様が、一つのハイライトになっていましたね。何しろ、実際にこの曲をガーシュインに依頼し、自らのオーケストラを指揮して初演を行ったポール・ホワイトマンが「ヒムセルフ」で出演しているのですから、リアリティがあります。ただ、その場面では、かなり大人数の「シンフォニー・オーケストラ」がステージに乗っていましたが、実は初演の時の編成はピアノソロにジャズのビッグバンドだったのですから、これは決して真実の姿を伝えるものではありません。ホワイトマン本人が出演しているからといって、だまされてはいけません。
いくらジャズのバンドであれ、この初演の時のスコアすらガーシュイン自身が書いたものではなく、あのグローフェによるものだというのは、よく知られていることです。そもそも彼はショービズの世界の売れっ子作曲家、ピアノの譜面は書けますが、「オーケストレーション」というちまちました仕事は、そちらの専門の人に任してしまえばそれで済むような立場にあった人なのです。これは、現代のショービズ界でも同じこと、あのヒットメーカー、アンドリュー・ロイド・ウェッバーも、デヴィッド・カレンという有能なオーケストレーターを抱えていれば、自らはそのようなスキルがなくても、自在に華麗なサウンドを作り上げることは出来るのです。「レクイエム」などという、紛れもない「クラシック」の曲を持っていながらロイド・ウェッバーが決してクラシックの作曲家と呼ばれることはないのと同様に、ジョージ・ガーシュインも生涯「クラシック」の作曲家ではありませんでした。もちろん、それは、作曲家本人がそのように望んでいたこととは全く別の次元の話です。
俊英フランク・ブラレイがこのガーシュイン・アルバムで見せてくれたものは、まさにそのような「非クラシック」の作曲家としてのガーシュインの姿でした。オープニングでいきなり聞こえてくる、彼の代表的なミュージカル「ポーギーとベス」の冒頭を飾る「ジャスボ・ブラウンのブルース」は、そんな「ショービズの世界へようこそ!」というブラレイからのメッセージなのかもしれません。そして、ガーシュイン自身によってピアノ・ソロに編曲された「ラプソディー・イン・ブルー」が続きます。これこそが、ホワイトマンやグローフェによって渋々まとわされた「クラシック」の衣をかなぐり捨てた、この曲の真の姿なのかもしれません。控えめにスイングするブラレイのピアノからは、そんな開放感が伝わってくるようです。
次のトラック、1932年に出版された「ソング・ブック」こそは、このアルバムのメインと言っても差し支えないでしょう。これは1918年にアル・ジョンソン(彼も映画には本人役で出演していましたね)によって歌われ、最初の大ヒットとなった「スワニー」を始めとした18曲のヒット・チューンのオンパレードです。もちろん、編曲はガーシュイン自身ですが、注目したいのはその中にあふれるファンタジー、元の曲をそのまま聴かせるのではなく、そこから自由に広がるアイディアが、いかにもスマートです。
後半には、ウィリアム・ドリーによって編曲された「パリのアメリカ人」(この曲をクラシックと思う人はいないでしょう)に続いて、「前奏曲」とか「即興曲」といったタイトルのピースが収められています。イタリア語の表情記号まで伴った、いかにも「クラシック」っぽいものですが、聞いてみれば「ソング」と何ら変わらないスタイルとテイスト、彼は、どこまで本気で「クラシック」の作曲家になりたがっていたのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-01 20:46 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Piano Concertos Nos.3&4


Yefim Bronfman(Pf)
David Zinman/
Tonhalle Orchestra Zurich
ARTE NOVA/82876 64010 2
(輸入盤)
BMGファンハウス/BVCE-38087
(国内盤 5月25日発売予定)


ブロンフマンというピアニスト、昨年11月にはゲルギエフとともに来日したウィーン・フィルとの共演で、大きな話題を呼びましたね。最近、その模様がテレビで放送されたものを見る機会がありましたが、会場での聴衆の熱狂ぶりはものすごいものでした。大きな体でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をいとも易々と演奏する様もさることながら、アンコールでスカルラッティのソナタという、非常にかわいらしい曲を軽やかに弾いていた姿が、私にはとても印象的でした。そういえば、あのホロヴィッツもスカルラッティを好んで演奏していましたから、ブロンフマンも、この世紀のヴィルトゥオーゾのようにこの愛らしい曲にテクニックを超えたところでの愛着を感じているのかもしれませんね。
そのブロンフマンが、ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレというコンビをバックにベートーヴェンのピアノ協奏曲を録音しました。最近のこの指揮者の実績を考えると、これはあまり相性が良さそうな組み合わせではあるとは思えません。果たして、どんなことになるのでしょう。
そんなある意味「負」の予感は、「第3番」の冒頭のハ短調の分散和音が弦楽器によって奏でられたとき、見事に的中してしまったことを実感しないわけにはいきませんでした。例によって、当人たちは「オリジナル楽器」のポリシーを込めたつもりでやっているであろう、一つ一つの音を無愛想に短く切るという演奏、もちろん、彼らだけでそういうことをやっている分にはなんの問題もないのですが、そこにブロンフマンの洗練されたピアノが入ってくると、それは瞬時に色あせた安っぽい表現に見えてくるのです。このピアニストが紡ぎ出す、ムラのない音色や、輝かしい響き、そのバックとして、このような素っ気ない表現、そして、ビブラートをかけないで弾かれるガット弦の甲高い音色や、ゲシュトップがかかったナチュラル・ホルンのちょっとひなびた響きほど、ふさわしくないものはありません。「第4番」のフィナーレでは、弦楽器の導入に続いてソロのチェロだけを伴うピアノソロが入ります。最初にこの部分を聞いたときには、私のリスニングルームの外を、バイクでも走っていったのかという錯覚に陥ってしまいました。それほどこの華麗なピアノが鳴り響いている中では異質な音色でしかない「オリジナル」っぽいチェロの響き、このミスマッチを、私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。
例えば第3番の第2楽章などでは、ジンマンは見事なまでにピアノをサポートして、一体となった美しい音楽を作り上げています。しかし、オーケストラが前面に出て来る楽章では、その違和感は拭いようがありません。ジンマンは、ブロンフマンをソリストに選んだ時点で、それまでのかたくなな姿勢を改めるか、あるいは自らの意向に忠実なフォルテピアノの演奏家を新たに指名するか、どちらかの道を選ぶべきだったのです。そうしていれば、価格の安さしかじんまん(自慢)出来ないようなアルバムにはならなかったはずです。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-12 19:29 | ピアノ | Comments(0)