おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 451 )
WAGNER/Preludes



Jane Eaglen(Sop)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



ノリントンの10年ほど前の録音が2点、2枚合わせてロープライス1枚分(1390円)というお得な値段で再発になりました。オリジナル楽器によるヴァーグナーとブルックナーという、発表当時は「ついにここまで!」と話題になった注目アイテムです。
ヴァーグナーが録音されたのが1994年(ブルックナーは1995年)、1978年にノリントンによって作られたロンドン・クラシカル・プレイヤーズの、これは最後期の録音になるのでしょうか。この後、ノリントンが1998年にモダン・オーケストラであるシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者に就任したのに伴い、このオーケストラも解散、同じオリジナル楽器のオーケストラ、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収されてしまいます。
それまでにブラームスの交響曲までもオリジナル楽器で演奏、録音を終えていたノリントンにしてみれば、その方法論がヴァーグナーにまでたどり着くのは、ごく自然の流れだったことでしょう。そのあたりの意気込み、10年前にリアルタイムで聴くことがなかったこのアルバムから、遅ればせながら感じてみたいものです。
1曲目は「リエンツィ」序曲。これは、冒頭のトランペットのソロで、すでに「オリジナル」の世界へ入り込むことが出来ます。それはモダンオケからは決して聴くことの出来ない渋い音色です。それに続く木管が、やはりオリジナル特有の音程の悪さ、これはいかんともしがたいことなのでしょうか。しかし、ノリントンの持つ楽天的なグルーヴはこのような曲では存分に発揮され、最後の打楽器がたくさん加わるあたりではまさにノリノリントンの楽しさが伝わってきます。
ただ、このグルーヴは、次の「トリスタン」ではやや異質なものに感じられてしまいます。「前奏曲」のあまりの淡泊さ、奏法に起因するのでしょうか、「溜め」のない性急なフレーズの運びは、粘着質のヴァーグナーを至上のものと感じている向きからは、反発を食らうことでしょう。それは、「愛の死」では、イーグレンの圧倒的な歌に隠れて、それほど表に出ることはないのですが。
「マイスタージンガー」も、その「軽さ」といったら、殆ど爆笑ものです。しかし、ここで笑いが生まれるのは、いかに今まで「重苦しい」ヴァーグナーが世を席巻していたか、という証でもあるわけで、これはこれで、この「喜劇」の一面を表している解釈ではあるでしょうね。そこへ行くと、「ジークフリート牧歌」も、「パルジファル」前奏曲も、その「軽さ」は違和感を覚えるほどのものではありません。逆に「パルジファル」で、最後に冒頭のテーマが戻ってくる箇所の低弦のトレモロなどは、不気味さから言ったらちょっと捨てがたい味、その前後の緊張感も思わず引き込まれるものがあります。
10年後、この前奏曲をシュトゥットガルトで録音した時には、例えば木管の音程などの機能的な面は飛躍的に改善されていた反面、この緊張感はすっぽりとどこかへ行ってしまっていました。その結果「軽さ」がさらに募っているのは(演奏時間が1分以上短くなっています)、このアルバムでの他の曲の方向性を見ればある程度予想されたことなのでしょう。彼がヴァーグナーから最終的にどんな音楽を引き出したかったのか、快調に疾走する「ローエングリン」の第3幕の前奏曲は、その端的な回答なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-19 19:36 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies 7 8 9







Michael Gielen/
Rundfunkchor Berlin
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
EUROARTS/2050667(DVD)



最近はネットラジオがおおはやり、何しろバイロイト音楽祭などの生放送が、日本にいてもリアルタイムでイロイロト聴けてしまうのですからすごいものです。パソコン(と、ネット環境)さえ持っていればたとえ「リング」全曲を聴いたとしても、そのための費用は一切かからないというのがありがたいですね。ただ、こういう放送用の音源が後になってそのままCDになったときに、普通のCDと全く変わらない価格で販売される、というのには、「なんか変」とは感じられないでしょうか。確かに、昔はレコード会社が放送局と共同制作をして、それなりに手を加えた後に製品になったものですから納得は出来るのですが、最近出ているものは放送時に使った音源と全く同じもの。ラジオを通せばタダで聴けたものに、お金を払うというのは、ちょっと間違っているのではないか、とは思いません?確かに音のクオリティの違いはあるでしょう。しかし、同じようなケースでオペラの場合でしたら、音声はCD以上、映像もDVD、あるいはそれ以上の解像度の「ハイビジョン」が「タダ」で放送されているのですよ。しかも日本語字幕付きで。
そんな割り切れない思いを抱きながらも、日本では決して放送を通して見ることの出来ないようなプログラムがDVDになったとなれば、食指は動いてしまいます。なにしろ、今回のギーレンのベートーヴェンは、正価4490円のところがキャンペーン価格で1990円、これで3曲も入っていれば、まあリーズナブルだと許す気にもなれるでしょう。
音だけではなく映像でシンフォニーを鑑賞する時には、どうしても音楽以外の要素が目に入ってしまいます。この場合も、管楽器の首席奏者の違いとか、編成の違い、使っている楽器など、さまざまなものが気になってしまい、つい演奏に浸るのがおろそかになってしまいます。7番でソロを吹いているフルート奏者は、かなりお年を召した方、しかし、どぎついアイラインを引きまくったその念入りのメークには、思わず引いてしまいます。背中を丸めて、上目遣いに指揮者を眺める仕草はまさに「老婆」、こんなものはアップにして欲しくはありません。8番と9番になると、このポジションが別の人に変わります。この人もやはりかなりのお年の女性なのですが、こちらは殆どスッピンの潔さ、楽器も木管(パウエル?)で渋く決めています。そんな風にトップが変わっただけで、オーケストラ全体の音色まで変わるということが、映像付きではよく分かること、もっと目立つティンパニが違う8番と、7、9番では、勢いが全く違っていました。面白いのは、8番だけでピストン式のトランペットを使っていること。他の曲ではロータリーでしたので、ちょっと不思議です。
そんな中で、やはりギーレンの指揮の様子がつぶさに分かるというのは大きな収穫でした。彼のあの隙のない演奏が一体どのような指揮ぶりから生み出されているのか、納得できたような気がします。決して感情に振り回されることのない冷静さの中で、必要なところだけで見せるエモーションが、非常に効果的に見えました。
彼の場合、ベーレンライター版を使ったりはしていないのですが、9番第4楽章の例のホルンの不規則なシンコペーションのところだけ、自筆稿を採用していたのが、興味深いところです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-10 20:02 | オーケストラ | Comments(0)
PROKOFIEV/Romeo & Juliet




佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032



レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-01 19:23 | オーケストラ | Comments(0)
RIMSKI-KORSAKOV/Shéhérazade




Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG-ZAG/ZZT 050502



例えば、ノリントンあたりが推し進めている、モダン楽器のオーケストラによってオリジナル楽器の響きを追求するという試みとは全く正反対の方向からのアプローチ、という視点で、このインマゼールとアニマ・エテルナの演奏をとらえるのはどうでしょうか。もうすぐ「スター・ウォーズ」とか「宇宙戦争」も始まりますし(それは「ロードショー」)。つまり、オリジナル楽器を用いて、ロマンティックな情感を表現する、という試みです。フォルテピアノ奏者として、スタート時には確かにオリジナル楽器のフィールドにいたインマゼールですが、指揮者としての彼の音楽の方向は、もっと柔軟性に富んだものを目指しているのではないか、という気がずっとしていました。そこで選んだ曲目が、この「シェエラザード」という絢爛豪華な絵巻物の世界を描写した音楽であれば、そんなとらえ方もそれほど的外れではないように思えるのですが。
オリジナル楽器というのは、「古い楽器」という意味ではありません。「その曲が作られた当時の楽器」というのが、正しい概念、従って、リムスキー・コルサコフを演奏する時にバッハ時代の楽器を使う、というのではなく、あくまでリムスキー・コルサコフの同時代、19世紀後半に使われていたであろう楽器を使うのが当たり前の話になってきます。その頃になると、管楽器などは殆ど現代とは変わらない形になっています。ピッチも、現代と同じ、「シェエラザード」の冒頭もきちんと「ミ、シ、レ」と聞こえます。ただ、インマゼールがこだわったのは弦楽器の人数でした。ヴァイオリンは8人ずつでコントラバスが5人という、「現代」に比べたら殆ど半分しか居ないというあたりに、「オリジナル」の精神を貫こうということなのでしょう。
そんな少ない弦楽器ですから、たゆとうような大海原の描写などはとても無理、と思って聴いていると、どうしてどうしてなかなか健闘しているのには正直驚かされます。どうあがいても、もともとの「しょぼさ」を隠すことは出来ないのですが、それを何とか「根性」でカバーしようとしている意気込みが、とてもほほえましく思えます。ただ、やはりこの編成であれば、どうしても耳がいくのは管楽器の方でしょう。特にファゴットなど、現代とは微妙に違う音色を楽しむことが出来ます。さらに、打楽器から一風変わった響きが聞こえてきたのも嬉しいところです。第3楽章の「若い王子と王女」の中間部、リズミカルになる部分での小太鼓やトライアングルのちょっとオリエンタルな鄙びた音色は聴きものです。
カップリングの「だったん人の踊り」でも、そんな民族色がよく出た打楽器が大活躍しています。「最後の踊り」でのシンバルなどに特別な存在感を感じられるのも、この演奏ならではのことでしょう。
そのような、それこそモダンオケでも出すことの出来ないような多彩な響きをオリジナル楽器によって導き出した、という点では、この演奏は大いに評価できることでしょう。ところが、その響きをドライブして一つの表現に持っていくことが出来ないというのが、この指揮者なのです。以前のモーツァルトでもさらけ出した、これはインマゼールの最大の欠点、「だったん人」から生命感あふれるリズムを感じられることは、ついにありませんでした。せっかくのユニークなアプローチも、音楽としての確固たる全体像が見えてこないことには、なんにもなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-22 18:46 | オーケストラ | Comments(0)
BARTOK/Concerto for Orchestra etc.

H.Kärkkäinen, P.Jumppanen(Pf)
L.Erkkilä, T.Ferchen(Perc)
Sakari Oramo/
Finnish Radio Symphony Orchestra
WARNER/2564 61947-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11883(国内盤)


「これがオラモ!?」と一瞬目を疑ってしまったのが、このジャケットのポートレートです。1998年にサイモン・ラトルの後継者としてバーミンガム市交響楽団の首席指揮者、さらに翌年には音楽監督に就任した時には、誰もその名前を知るものはいなかったというオラモですが、その頃ERATOからリリースされたアルバムからうかがい知れる風貌は、「オタクっぽいとっちゃん坊や」というものでした。眼鏡をかけたちょっと小太りのサエない男が、あの、飛ぶ鳥を落とす勢いでベルリン・フィルのシェフという玉の輿に乗った指揮者の後任とは、と、誰しもが思ったことでしょう。しかし、オラモのその後の活躍ぶりはご存じの通り、ERATOレーベルが消滅してしまった後でも、しっかりWARNERのメイン・アーティストとして安定した地位を獲得しています。さらに、2003年には、以前から准首席指揮者を務めていたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者に就任、複数のオーケストラの最高責任者という、「一流指揮者」の仲間入りを果たしたのです。そして、仕上げがヴィジュアル面での改造、眼鏡を取ったこの爽やかな「顔」が、これからのオラモの看板になっていくことでしょう。10月にはこのコンビで来日も予定されていますしね。
そんな「新生」オラモが取り上げたのが、バルトークです。指揮者によって様々に異なるイメージを与えてくれるバルトークですが、ここではなぜか、この爽やかな外見と全く違和感のない音楽が聞こえてきたのには、嬉しくなったものです。数々の演奏が市場を賑わしている「オーケストラのための協奏曲」、聞き所は満載ですが、ここでは決して熱くならない全体を見据えた視線がすがすがしく感じられます。「序章」でいきなり耳に入るフルートソロ(日本公演では、武満作品でソロを吹くペトリ・アランコでしょうか)の感触が、そんなすがすがしさを代弁しているようです。「対の遊び」では、ソロ(ソリ)を取っている管楽器よりも、まわりのパートの細かい「仕掛け」が手に取るように分かるという、絶妙なバランスがたまりません。「エレジー」も、タイトルから予想される「暗さ」とはあまり縁のない、各楽器の粒立ちの良さが光ります。ここで重要なソロを披露しているピッコロのちょっと不思議な音色も、聞き物です。「中断された間奏曲」では、例の、ショスタコーヴィチのテーマをからかったコミカルな部分と、ヴィオラのパートソロで始まるメランコリックな部分との対比が見事、それが最後にもう一度繰り返される時の緊張感も、なかなかのものです。そして「終曲」では、決して過剰に煽り立てることのない冷静さが、逆に巧まざる高揚感を招くという素敵な仕上がりになっています。
もう一つの「協奏曲」は、あの有名な「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」のバックに、控えめにオーケストラを上塗りしたという「二台のピアノと打楽器のための協奏曲」です。オリジナルの「ソナタ」の鋭角的なイメージに慣れている人にとっては若干物足りなさも伴うピアニストたちですが、それだからこそ、この「協奏曲」バージョンの持つキャラクター、すなわち、モノクロームの「ソナタ」に施された鮮やかな彩色という一面が、際だって伝わってくるのかもしれません。そして、このようなシチュエーションだからこそ、最終楽章のあまりに楽天的なテーマも、なぜか全面的に許されてしまうのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-17 09:08 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony 4 & Symphony 7




Philippe Herreweghe/
Royal Flemish Philharmonic
TALENT/DOM 2929 100(hybrid SACD)



まさにたった今、すみだトリフォニーホールでベートーヴェン連続演奏会の真っ最中のヘレヴェッヘとロイヤル・フランダース・フィルの、そのベートーヴェン全集の劈頭を飾るアルバムが手元に届きました。ヘレヴェッヘのベートーヴェンと言えば、1998年にHARMONIA MUNDIに録音した「第9」がありましたね。その時のオーケストラはオリジナル楽器の団体であるシャンゼリゼ管でしたが、今回は彼が音楽監督を務めるベルギーのモダン・オーケストラ、レーベルもベルギーのTALENTです。もちろん、ハワイではありません(それは「フラダンス」)。
このような、オリジナル楽器の団体と深い関係を持っていた指揮者とモダン・オーケストラという組み合わせでは、古くはジンマンとチューリッヒ・トーンハレ、最近ではノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団というコンビが注目されていましたね。いずれも、現代のオーケストラにオリジナル楽器特有の奏法を用いさせたり、一部の楽器はオリジナルそのものを使用したりして、古典派、ロマン派のレパートリーをよりその当時に近い形で演奏するという試みを行っていました。その結果、あまりにも恣意的で大方の賛同を得ることはついに叶わなかったジンマンのような失敗例はありますが、ノリントンたちのように、その確かな音楽性を以て、今まで誰もなしえなかった新鮮なベートーヴェン像を送り届けることに見事に成功した団体もあったのです。もちろん、ノリントンの場合でも、極端に従来とかけ離れたテンポ設定や、唐突な表現などには多少の違和感がなかったとは言えませんが、それは彼のもたらす生命力あふれるエモーションで充分にカバーできたことでしょう。
そして、今回のフランダースです。まず耳を惹くのは、ガット弦による弦楽器の美しさ。単に音色だけではなく、多くの弦楽器が同時に弾かれた時の「マス」としての存在感が、とても素敵。それは、オリジナル楽器の素朴さと、モダン楽器の華麗さの良いところだけをとって精製したような、独特の「フワフワ感」を持つものでした。管楽器も極力ビブラートを押さえて、見事にこの弦楽器との調和を保っています。そこへ、おそらくかなりオリジナルに近い楽器だと思われるティンパニが加わります。このティンパニ、その粗野な響きは「ピュア」な弦と管の中にあって、確かなアクセントとして機能しています。トゥッティでの華やかさはもちろんですが、例えば「4番」の第2楽章で少し堅めのバチを用いて叩かれるソロなどは、とても魅力的です。
ヘレヴェッヘの指揮は、以前ブルックナーで感じたものと同じ、至るところで彼の持ち味である流れるような「歌」を存分に楽しむことが出来ます。彼の合唱でのキャリアを持ち出すまでもなく、そこにあるのは人間の生理に逆らわない自然な音楽です。その好例は「7番」の第2楽章。「ミー、ミ、ミ、ミーミー」という無機的なテーマに、彼はなんという「歌」を込めているのでしょう。中間部の木管は、まるでよく訓練された合唱団のように、均質な響きで迫ってきます。ここには、モダン、オリジナル、といった範疇を超えた、真に「美しい」音楽が、最高の形で息づいています。
楽譜についてはライナーにはなんのコメントもありませんが、ベーレンライター版を用いているのは明らかです。個々の楽器の粒立ちが見事に聞こえてくる卓越した録音のおかげで、それは容易に確認することが出来ます。というより、ことさら言及しなくてもすでにこのエディションは心ある演奏家の間ではすでにスタンダードとなっているのだと受け止めるべきなのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-09 19:56 | オーケストラ | Comments(0)
LLOYD WEBBER/Phantasia

Sarah Chan(Vn)
Julian Lloyd Webber(Vc)
Simon Lee/
The London Orchestra
EMI/558043 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55730(国内盤 7月13日発売予定)


つい最近映画版「オペラ座の怪人」(あのオープニング、埃にまみれたセットはすごかったですね・・・「オペラ座の灰燼」)のサントラ盤をご紹介したばかりですが、これはその副産物のような企画です。2004年、この大ヒットミュージカルの映画化に当たって、その華麗なサウンドを担うべくコンサート・マスターのピーター・マニングの許に集結したロンドンの腕利きのオーケストラ・プレーヤーたちは、2005年2月、再び、今度は全く異なるアプローチの「オペラ座の怪人」を作り上げるために、スタジオに集まったのです。もちろん、指揮を担当したのは、サントラと同じサイモン・リー、そして、今回はソロとして「天才少女」サラ・チャンのヴァイオリンと、作曲者アンドリューの弟、ジュリアン・ロイド・ウェッバーのチェロが加わります。つまり、この「ファンタジア」という作品は、ヴァイオリンとチェロをそれぞれこのミュージカルの登場人物の2人、クリスティーヌとファントムに見立てた二重協奏曲という体裁を持つものなのです。ちなみに、この編曲を行ったのは、ハリウッドでオーケストレーターとして活躍しているジェフリー・アレクサンダー、アンドリュー自身は、魅惑的なメロディーを作り出す才能には長けていますが、このような「サウンド」を作り出す能力はありません。
オープニングは、映画でおなじみ、「Masquerade」のオルゴールバージョンです。そして、型どおりオーバチュアである「The Phantom of the Opera」の半音階のイントロへと続きます。ただ、ここでソリストたちが行っているのは、テーマに重ねてひたすら技巧的なパッセージを紡ぎ出すこと、あの心地よいメロディーに浸りきりたいというリスナーの望みには、しばし辛抱が伴うことになります。そのあとには、殆ど意味のないカデンツァまでも披露されるのですから。しかし、「Think of Me」、「Angel of Music」と続く頃には、甘く歌い上げるヴァイオリンやチェロの調べに酔えるだけの余裕も出てくることでしょう。「Don Juan」の無機的な全音音階にその空気が打ち破られるまでは。何しろ、このアレクサンダーの編曲はとても一筋縄ではいかない凝ったもの。オリジナルのミュージカルのことは出来れば忘れて欲しいと言わんばかりの、ひねくれた挿入と、そしてソリストたちの執拗なまでの技巧のひけらかしの連続です。
しかし、名曲「All I Ask You」ともなれば、いくら何でもコテコテに歌い上げないわけにはいきません。チェロはひとときラウルに成り代わったように、愛のデュエットが繰り広げられます。そのまま「Masquerade」に移ったあたりが「第2部」でしょうか、またもや2人のソロによる長大なカデンツァが披露されたあと、なんと聞こえてくるのは映画のために新たに作られた「Learn to Be Lonely」ではありませんか。最初からそこにいたような顔をして、しっかりその存在を主張するふてぶてしさは、ある意味見事です。「The Point of No Return」に続いて、エンディングは「The Music of the Night」、この、ファントムのクリスティーヌに寄せる思いのたけを綴った、悲しいほどに美しいナンバーが最後に控えているのは、このミュージカルのファンにも、そしてヴァイオリニストとチェリストのファンにも決して満足のいくことのない中途半端な編曲の罪滅ぼしにさえ感じられる、心を打つ配慮です。
カップリングの「ウーマン・イン・ホワイト組曲」では、そのようなストレスから離れて、この2004年に公開されたばかりの最新作のエキスが、ローレンス・ロマンの素直な編曲によって存分に楽しめることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-08 19:29 | オーケストラ | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphony No.1 & No.5




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.132



ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団のコンビ、今回はメンデルスゾーンに挑戦してくれました。声楽の入った「2番」を抜いた4曲を、ベートーヴェンの時のような「連番」ではなく、「1、5」と「3、4」というカップリングでリリースです。ここでは、あえて「売れ筋」の「3、4」を避けて、ちょっと渋い「1、5」を取り上げてみましょう。
ライナーを見て、ノリントンが面白いことをやっているのに気づきます。曲によってオーケストラのサイズを変えていて、その詳細をきちんと表示しているのです。それによると、「1番」では[VnI.VnII.Va.Vc.Cb][8.8.6.4.3]、「5番」では[14.14.12.10.8]、ただし、第3楽章のアンダンテでは[8.8.6.5.4]と小さくしているというのです。第3楽章で半分の弦楽器奏者が休むというのも珍しいことですが、それよりも第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同じ数だというところが、「現代」の編成に慣れた目には奇異に映ることでしょう。現在、世界中どこのコンサートホールでも見られる標準的な編成はこれよりも第1ヴァイオリンがもう2本増えた[16.14.12.10.8]という、いわゆる「16型」、人員がそろえられない地方オーケストラのように、それぞれのパートを2本ずつ減らした「14型」で我慢してもらっているところもありますが、第1ヴァイオリンが第2ヴァイオリンより人数が多くなっている点は変わりません。しかし、ノリントンは、メンデルスゾーンの当時のオーケストラの編成を反映した「オーセンティック」な道を取ります。あくまで第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは「対等」だという立場ですね。ですから、もちろん、ステージ上でもこの2つのパートはお互いに反対側に位置するという「当時の」スタイルになっています。ただ、コントラバスを、そんなときの定位置である向かって左奥を避けて、最後列に一列に並べるというのが、ノリントンのやり方です。
このノリントンのオーケストラ、そのアンサンブルはますます精密になってきました。それは、「5番」の第1楽章の最初、ちょっとした導入のあとの管楽器によるコラールを聴けば分かります。まるで一つの楽器のように完璧にそろえられたアインザッツとフレージングは、まさに神業です。その歌い方を聴いていると、それは、ノンビブラートの弦楽器と見事に呼応しているのも分かります。ダイナミックスの変化だけでインプレッションを表現しようとする「ノリントン流」が、ここまで徹底されるようになってきたのですね。そして、それに続く弦楽器の「ドレスデン・アーメン」の、まるで天国的な美しさはどうでしょう。後にこのメロディーが使われることになる「パルジファル」の世界を、ここから垣間見ることも出来るはずです。
ただ、確かにその澄み切ったアンサンブルは驚異的ではあるのですが、第3楽章のような長いフレーズをしっとり歌い上げるという場面では、このノンビブラートがやや物足りないものに思えてしまいます。というのも、ここでは木管はそれなりのビブラートで「普通に」歌っているので、同じフレーズを弦の「ノリントン流」で聴いてしまうと、いかにも素っ気なく聞こえてしまうのです。まるで、苦い薬をそのまま飲んだよう(それは「オブラート」)、このちょっとした「確執」が、「造反」につながらなければよいのですが。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-23 19:34 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphonie Nr.5



Christian Thielemann/
Münchner Philharmoniker
DG/477 5377
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1237(国内盤)


現在のミュンヘン・フィルの本拠地は、1985年に作られた「ガスタイク・ホール」。なんか、すごい匂いがしそうなところですが(それは「ガスタンク」)、2400人収容という、なかなか立派なコンサートホールです(もちろん、オルガンも付いています)。かつて、あのチェリビダッケがこのホールでこのオーケストラを指揮した映像が有名ですから、この、木材を多用した内部を持つホールは私たちには馴染みのあるものです。しかし、このCDのライナーにも写真が載っているのですが、いつも疑問に感じるのは、このホールが正確にはどういう形をしているのか、ということです。特にステージの形が、どんなアングルから見ても左右対称には見えません。レンズによるゆがみとも思ったのですが、どうもそうではなさそう、どこかにここの平面図でも掲載されてはいないでしょうか。
そのガスタイクで、2004年の10月に行われたのが、ティーレマンのミュンヘン・フィル音楽総監督就任記念のコンサートです。このCDは、その時に演奏されたもののライブ録音(もちろん、何回かの本番とリハーサルが適宜編集されています)です。
私が聴いたのは国内盤、そのコシマキには「このCDは長時間収録(8234秒)のため、一部のプレーヤーでは再生できないことがあります」という表示がありました。これには、3つの意味で驚かされました。まず、CDの収録時間がここまで伸びたのかという驚き、同時に、もしかしたら再生できないかもしれないような商品を堂々と販売しているメーカーの厚かましさに対する驚き、そして、普通だったらCD1枚に楽々収まるはずのブルックナーの5番にこれだけの時間を要しているという驚きです。前々任者のチェリビダッケが同じオケを振った録音が88分という突出して長い演奏時間を誇っていますが、一般的には70分台がまず妥当と思われるテンポなのですから。
しかし、スピーカーの左奥からとてつもないピアニシモのコントラバスのピチカートが聞こえてきたとき、そこには、ミュンヘン・フィルのメンバーが、この新しいシェフの元で、チェリビダッケあたりからたたき込まれたブルックナーについての美学を、思う存分開花させてくれるのではないかという予感のようなものを感じることが出来ました。それは、第1楽章の最初のテーマの広々とした歌い方によって、さらに現実のものとなります。第2楽章の不思議なリズムの重なり合いも、全く自然のたたずまいとして聴くことが出来ましたし、スケルツォでの生気あふれるアッチェレランドにも、作為的なものは全く感じられません。そして、長大なフィナーレでは、幾分冗長だと思えるようなまだ推敲の手が施されていないのでは、と思える場所をきちんと受け止められるだけの余裕すら感じることが出来ます。だからこそ、一番最後の殆ど「オマケ」に近いフレーズにさえ、確かな存在感を感じることも出来たのでしょう。そして、ここでは演奏時間から想像されるような「遅さ」は、全く感じられることはありませんでした。それどころか、このテンポだったからこそ、このガスタイクに輝かしく重厚な音を響き渡らせることが見事に成功したのでは、と思えるほど、それは納得のいくテンポだったのです。
一人一人の奏者の息づかいまではっきり受け取ることが出来るほどの優秀な録音によって、この、指揮者とオーケストラが幸運な船出を成し遂げた場の、いかにもブルックナーにふさわしい密度の高い音響空間は、このCDの中に確かに永遠の記録として残りました。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-16 19:47 | オーケストラ | Comments(2)
SHOSTAKOVICH/Symphony No.5




Mstislav Rostropovich/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO 0058



ロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏としては、1982年に手兵ナショナル交響楽団と録音したDG盤が有名ですね。個性的という点では他の追随を許さない、独自のこだわりに満ちたものでした。今回のロンドン交響楽団による新録音(2004年7月)も、基本的な設計は旧録音と変わることはないように見えます。しかし、そこは生身の人間ですから、細かいところでいろいろ違いが発見できて、興味は尽きません。
いずれの演奏でも、第1楽章の低弦によって導かれるヴァイオリンの最初のテーマに、まず驚かされることでしょう。そのすすり泣くようなテーマには、殆どビブラートがかけられていないのです。「殆ど」と言いましたが、旧盤では完全なノン・ビブラート、初めてこれを聴いたときの衝撃は、今でも覚えていますが、強烈な印象を伴うものでした。ただ、オーケストラの能力のせいなのか、録音(あまりに残響の多すぎる、ちょっと焦点の定まらない音でした)のせいなのかは分かりませんが、その効果がメッセージとして伝わるには少し無理があるような印象を受けたことも、また事実でした。それが、今回は適度の「甘さ」が込められていることにより、より納得できる形で受け止めることが出来るのではないでしょうか。前の演奏が人一人いない荒野だとすれば、今回はあくまで人の気配は残した「廃墟」と言ったイメージでしょうか。
第2楽章では、フレーズの終わりで思い切り大見得を切ってくれる潔さが魅力的です。その点では両者とも大きな違いはないように思えますが、ヴァイオリンのソロが出てくると、思わずのけぞってしまいます。ロンドン響のコンマス(「リーダー」ですね)ゴードン・ニコリッチが後半に見せる格別のルバートには、誰しもとびきりの脱力感を味わわないわけにはいかないことでしょう。これは、ショスタコーヴィチが元々込めていた、ちょっと引きつったユーモアとはかなり異質なキャラクター、まず間違いなくロストロポーヴィチのちょっと下品な資質のなせる業に違いありません。
第3楽章には、弦楽器がグリッサンドで上昇する部分があります。今回ここを特別ていねいに強調したことには、何か深い意味でもあるのでしょうか。確かに、普段は聞き流してしまうものが、一瞬耳をそばだてずにはいられない状況に陥るのは、確かです。
第4楽章だけは、前回に比べて演奏時間が1分以上長くなっています。その分、各フレーズの歌い方はよりていねいになっています。中でも印象的なのは「強制された喜び」を表現したであろうフレーズ。ここでロストロポーヴィチが行っているのは、この曲の最初で見せた「ノン・ビブラート」とは対照的な、たっぷりしたビブラートをかけながら極端なピアニシモを維持するという表現です。この部分、これほど緊張感あふれる、まるで青白い鬼火が漂うような演奏は、ちょっと他では聴けないものです。
これ1曲しか入っていないという、CDにしては今時珍しい収録時間の短さですが、これだけ中身が濃厚だともう充分に「得」をした気分になってしまいます。これは、余計なロスを取ったことに対するご褒美としてのお駄賃でしょう(ロス取る褒美賃)。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-11 19:44 | オーケストラ | Comments(0)