おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 476 )
MAHLER/Symphony No.8


Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Boys Choir
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.550533/34



このレーベル、本当に最近の躍進ぶりはめざましいものです。それを象徴しているのが、ジャケットのデザインの変化。左上にあるロゴマークがかつては黒字だったものが、今では青い背景に白抜きという粋なものに変わってきています。ほんのワンポイントですが、この違いはかなり大きなもの。これだけで、今までの垢抜けない印象がいっぺんに変わってしまうのですからね。そう思いませんか?
マーラーの交響曲をずっとクリムトのジャケットで出してきたヴィットですが、今までの「3、4、5、6番」ではまだ「白抜き」にはなっていません。それは、彼が2000年まで音楽監督を務めていたカトヴィツェのポーランド国立放送交響楽団との録音なのですが、今回の「8番」は2002年からの彼のポストを提供してくれたワルシャワ国立フィルとのもの、まるでよりランクの高いオーケストラとの演奏を記念するかのような、このジャケットの扱いです(たかがデザインで、そこまで・・・)。しかも、今回のクリムトの「花嫁」はより官能度がアップしていますし(そんなおやぢではいかんのう)。
このコンビでの演奏では、すでに「ルカ受難曲」を聴いています。あの時に受けた知的な印象は、ここでも健在でした。おそらくヴィットという人はこのような大編成の入り組んだスコアを音にするということにかけては並はずれたセンスを持っているのだということが、今回もまざまざと感じられることになります。
そんな指揮者の力量を余すところなく録音として伝えることに成功したエンジニアの力に、まず、驚いてしまいます。数多くのソリストや2群の合唱、そしてオルガンまで入った大編成のオーケストラというとてつもない音響を、彼らは全く濁らせることなくCDに収めてくれました。そのやり方は、まるでジオラマのようにパートごとの遠近感を持たせるという方法でした。例えば、第2部の練習番号77番からの「やや成熟した天使たち」の場面では、ソロヴァイオリン、その奥のオーケストラ、そして合唱、さらにはアルトのソロが、それぞれ程良い距離感を保ってあるべき場所から聞こえてくるという、非常にスマートな音場設定をとっているのです。その結果お互いが全く別のことをやっているという究極のポリフォニーを、マーラーが意図したとおりの分離の良さで味わうことが出来ることになったのです。
ヴィットの指揮は、予想通りクレバーなものでした。それは、もしかしたら「マーラーらしさ」からはほど遠い表現なのかも知れません。第2部の冒頭あたりからの管楽器の美しすぎるほど澄みきった響きを聴くに付け、そんな思いは募ります。淡々とした流れを突然断ち切るファーストヴァイオリンのフレーズ(練習番号14番)が、あまりに冷静なのにも驚かされます。しかし、それは決して不快な思いを抱かせるものではありませんでした。それどころか、非常によく訓練された合唱ともども、このオーケストラは極めて精緻でなおかつ見晴らしのよい世界を見せてくれていたのです。それは、それこそジャケットのクリムトのような「くどさ」とは全く無縁の心地よい世界のように感じられるものでした。
ところが、肝心のソリストたちがことごとくそんな世界をめちゃめちゃにしてしまっています。中でも「懺悔する女」のエヴァ・クウォシンスカが最悪。とてもソリストとは思えない稚拙な歌は指揮者の意図を汲む余裕などあろうはずもなく、見事にその場を台無しにしています。テノールのティモシー・ベンチも、この曲に要求される芯の太さが全くない悲惨なキャラ、彼らの尽力で、数多くの今までの「名演」がその存在を脅かされるという事態は、幸いにも避けられることとなりました。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-29 20:18 | オーケストラ | Comments(0)
STRAVINSKY/Le Sacre du Printemps*, Mavra


Soloists
Péter Eötvös/
Junge Deutsce Philharmonie*
Göteborgs Symfoniker
BMC/BMC CD 118



ストラヴィンスキーの「春の祭典」と「マヴラ」をカップリングしたという、いかにもエトヴェシュらしいアルバムです。特に「マヴラ」などという作品、私にとっては初めて聴くもので、なかなか興味を惹かれるものでした。眠たくなることもありませんでしたし(「マクラ」、ですね)。
まず、「春の祭典」。もはやオーケストラのレパートリーとして「古典」ともなってしまったこの作品、まさに「名曲」として、さまざまな演奏家がさまざまなアプローチを試みたものが、山のように出回っています。そんな中にあってこのエトヴェシュの演奏は、作品から一定の距離を置いてあまり深い思い入れは込めず、スコアから音楽としてのメッセージを出来る限り伝えようとしているように思えます。このような姿勢の演奏、かつてブーレーズが1963年にフランス国立放送管弦楽団と行った時にはセンセーショナルなほどの物議をかもしたものですが、今となっては数多くのスタイルの一つに過ぎなくなっています。
エトヴェシュの場合、若いメンバーで構成されたオーケストラということもあって、その直截さは際立っています。冒頭のファゴットソロのなんの屈託もない明るさを聴くだけで、それは分かることでしょう。各楽器の鮮明な聞こえ方は、それこそブーレーズの比ではありません。普通はまず聞こえてくることのないアルトフルートが、こんなにはっきり聞こえる演奏など、初めてです。余計な思い入れが皆無なのは、「若い娘たちの踊り」のシンコペーションのパルスが、いともあっさり演奏されていることでも分かります。このエネルギッシュな部分をこんな風に演奏されると、エトヴェシュがこの曲から引き出そうとしたものは、粗野な力ではなく、もっと洗練された美しさなのではないかという思いが浮かんでくるほど、そしてそれは、第2部の冒頭を支配している透明な情景を味わう時、さらに現実味を帯びてくるのです。
1922年に初演された「マヴラ」は、作曲者が「新古典主義」の時代に入った時期の作品とされています。これは、彼の作った数少ない「オペラ」のひとつ。そもそもこの曲は1921年に聴いたチャイコフスキーの「眠りの森の美女」のロンドン初演に触発されて作られたと言いますから、その中にはベタなロシア民謡がふんだんに盛り込まれています。その上で、チャイコフスキーやグリンカのロシアオペラ、そして、もっと昔のイタリアのオペラ・ブッファのパロディという体裁を取っているという、何ともハチャメチャな作品です。台本にしても、そもそもタイトルの「マヴラ」というのが、登場人物の若い兵士が、恋仲の娘に頼まれて女装した時の名前なのですからね。前にこの家にいた料理人が死んでしまったので、その代わりということで召使いの振りをしてやってきた「マヴラ」、しかし、家の中に誰もいないと思って髭を剃り始めたら、母親が帰ってきたので彼女(彼)は窓から飛び降りる、という、どこかで聞いたことのあるようなストーリーです。あいにくライナーにはあらすじだけで対訳は載っていないため、細かい状況までは分かりませんが、歌手たちの大げさな歌い方の陰に潜むアイロニーは十分に伝わってきます。それを可能にしたのは、何と言っても手兵イェテボリ交響楽団の管楽器メンバーから軽妙な洒脱さと、シニカルなまでの冷徹さを引きだしたエトヴェシュの力でしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-22 19:13 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Symphonie No.2

Christine Schäfer(Sop)
Michelle DeYoung(MS)
Pierre Boulez/
Wiener Singverein, Wiener Philharmoniker
DG/00289 477 6004
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1292(国内盤)


ブーレーズとウィーン・フィルが共演した衝撃的な映像を見たのは、一体何年前になるのでしょう。その時の曲目はバルトークの「マンダリン」、あまりこういう曲には馴染みのないオーケストラのメンバーが、ブーレーズの指揮に必死になって食らいついているという感じがヒシヒシと伝わってくる、まさに指揮者とオケとの「対決」といった様相を呈していたスリリングなものでした。おっとりした馬に、がむしゃらに鞭を当てている騎手、といった趣でしたね。
そんなブーレーズも、いつの間にか齢80を超えてしまい、紛れもない老境へと入ってきていました。このジャケットの写真を見ると、そんな感慨がとみに湧いてくることを抑えるわけにはいきません。かつてのあの鋭い眼光は一体どこへ行ってしまったのか、そのうつろな瞳の中には、もはや他人を威圧するような輝きはありません。その様な印象が、今回演奏されているマーラーの2番でもしっかり「音」となって感じることが出来てしまうのですから、人間、外見ほど重要なものはありません(外見といえば、昔の写真を見ると彼は禿頭を隠そうとしていませんでした。しかし、いつの頃からか頭頂はたわわな髪に覆われるようになっており、それが今では見事な白髪に、一体何があったというのでしょう)。
第1楽章の冒頭を飾り、その後も何度となく繰りかえされる嵐のようなモティーフの、なんと「ドラマティック」なことでしょう。しかし、それはうわべだけのよそよそしいもの、その中には真の「激しさ」が決定的に欠けていることを感じることは出来ないでしょうか。そこには、自らの意志でオーケストラを鼓舞している姿は全く見られません。そのあとに続く対照的に穏やかな部分が、何ともソフトでメロウなのも、ただウィーン・フィルのいつもの歌い方をなすがままにさらけ出しているというだけのこと、それは、なんのテンションも感じられない、ただ美しいだけの弱々しいものでしかないのです。このセッションでの乗り番のソロフルートはシュルツ、もはやかつての輝きを失ったその暗めの音程は、そんな演奏を象徴しているかのように聞こえます。
「原光」でデヤングが歌い始めると、そんな慎ましやかな風景が一転して華やかなものに変わります。湯気を上げるヤキソバのよう(それは「ペヤング」)。この場ではもう少し抑制して欲しいと思わずにはいられないその奔放な(というより、音程の定まらない)メゾソプラノの毒気にあてられたように、心細げに寄り添うオーケストラの情けなさったら。
しかし、ソプラノ(シェーファーは、逆におとなし過ぎ)や合唱が参加し、様々な場面が交錯する最後の楽章になると、この老人は天性のバランス感覚を駆使して、かなり雄弁なドラマを作り上げてくれました。バンダの金管との絶妙のからみなど、見事としかいいようがありませんし、特に後半の合唱が加わってからの集中力には感嘆せずにはいられません。もちろん、信じがたいほどのピュアな響きを提供してそれをなし得た合唱の力量も称賛に値します。「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るという、希有な体験を味わわせてくれたブーレーズ、やはりただの老人ではありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-12 20:41 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.4




Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901921



ブルックナーの交響曲の中では最も人気があり、演奏頻度も高い「ロマンティック」ですが、そのカタログに初めてオリジナル楽器によって演奏されたものが加わりました。ヘレヴェッヘ率いるシャンゼリゼ管弦楽団という、「7番」でも同じ試みで大成功を収めたコンビ、ここではどのようなものを披露してくれているのでしょう。
使用した楽譜は、残念ながら「オリジナル」である1874年の第1稿ではありませんでした。ここでヘレヴェッヘが用いたのは最も一般的な1878年(第1~第3楽章)と1880年(第4楽章)のいわゆる「第2稿」の中でもさらに一般的な「ノヴァーク版」です。同じように、オリジナル楽器でブルックナー(3番)を演奏していたノリントンがあくまで「第1稿」にこだわったのとは対照的、ヘレヴェッヘの場合はより洗練された形になった物の中から美しさを引き出そうという姿勢なのかも知れません。
そんな「美しさ」を極めようとする意志は、第1楽章の冒頭のホルンソロからすでに感じることが出来ます。弦楽器のトレモロに乗って現れるそのホルンの音色は、よくある威圧的な雰囲気など全く感じられない、まるで雲の間から差し込む一条の光のような柔らかな輝きを持っていたのです。それに続く木管のユニゾンも、特にフルートの素朴な音色に支配されて、とてもまろやかな響きを醸し出していました。もしかしたら、それは微妙なピッチのズレによってもたらされたある種の曖昧さに由来するものだったのかも知れませんが。
そんな、金管と木管とでは微妙に求めているものが異なるアンバランス感の中で、音楽は進んでいきます。金管のトゥッティでも、決して「咆哮」にはならない爽やかさが、耳に心地よく響きます。鼻にも心地よいことでしょう(それは「芳香剤」)。それは、あるいは高音成分の多いガット弦の音色がブレンドされることによって実現した響きなのかも知れません。
弦楽器がパートソロを披露する場面が多く現れる第2楽章になると、1212、9、8、6という少なめの編成とも相まって、大編成のモダン楽器を聴き慣れた耳には若干の違和感が伴うかもしれません。正直、最初のチェロパートのテーマには、深みというものが全く欠けているという印象を誰しもが持ってしまうはずです。このような表現を認めるか否かというところが、ある意味素朴すぎるオリジナル楽器での演奏が一般的になるかどうかの決め手になることでしょう。中程で出てくるヴィオラのパートソロも事情は同じなのですが、そこでは響きの貧しさを補ってあまりある程の繊細な表情を見せることに成功しているのを思えば、ヘレヴェッヘのアプローチにはまだまだ捨てがたいものがあることも分かるはずです。
第3楽章になると、その様な小さな編成はフットワークの良さに変わり、わくわくするような躍動感が生まれています。「狩りのテーマ」があちこちから聞こえてくるシーンでは、そのやりとりの間に生まれるちょっとスリリングな「ズレ」が、作り込まれたものではない、即興的な味を出しています。
そしてフィナーレも、押しつけがましいところなど全く見せずに、進んでいきます。そこからは、ブルックナーの持つ「くどさ」に辟易している人にも受け入れられるような、確かな「美しさ」が伝わってくることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-06 20:03 | オーケストラ | Comments(0)
BRAHMS/Symphony No.2, Haydn Variations




Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.135



最近とみに円熟度を増したといわれているギーレン、このブラームスでも、懐の深いゆったりとした音楽を聴かせてくれています。第1楽章の第2主題など、とても細やかな情感が宿っていて、心が熱くなってしまいます。確かに、かつてのギーレンではこんな体験はあまり味わえなかったのでは。もちろん、それは老成して丸くなるのとは別のことです。現に、彼の持ち味である精密なリズム感は、ここでも健在です。例えば、第2楽章の終わり近くに現れる四分の四拍子と八分の十二拍子が同時に進行している部分(つまり、2拍子と3拍子が同時進行)での、その2対3のリズムの処理の見事さには、思わず舌を巻いてしまう程ですから。
ただ、第3楽章のちょっと重たいリズムの運びには、少し抵抗を感じてしまいます。正確なリズムではあるのですが、遊びが少ない分いかにも鈍重な印象を与えられてしまいます。もっとも、ギーレンのことですからこれは意識して「鈍くさいブラームス」を演出した結果なのかも知れませんが。
特に第4楽章などでの、「ここぞ」という場面でのティンパニの威力には驚かされます。殆どバランスを無視したかに見えるその大きな音は、確かにとてつもないアクセントとして、効果的に聞こえます。ただ、録音会場が異なるカップリングの「ハイドン・バリエーション」では、ティンパニはそんなに目立ってはいませんから、これは単なるホールの特性なのかもしれませんね。こちらの方でも、その卓越したリズム感は光っています。第5変奏のシンコペーションとヘミオレなど、見事としか言いようがありません。
ところで、オーケストラの楽譜の世界では、だいぶ前から「原典版」というものが注目されていました。水戸黄門ですね(それは「ご意見番」)。現在使われている楽譜が、必ずしも信頼の置けるものではないということで、自筆稿や初期の写譜、あるいは出版稿などを比較検討してより作曲家が書いたものに近い形の楽譜を作るというのが、「原典版」の思想です。それが、急にブレイクしてしまったのは、ご存じベートーヴェンの交響曲での「ベーレンライター版」です。原典版を作る作業というのは本来地味な仕事の積み重ねですから、それを成し遂げるにはかなりの時間がかかるものなのですが、この仕事を担当したジョナサン・デル・マーは、ほんの4、5年の間に全ての交響曲の原典版(元の形は大判のスコアと校訂報告)を作り上げてしまいました。さらに程なくして安価なポケットスコアまで全て出版されるに及んで、「ベーレンライター版」は殆ど一般名詞として世の音楽愛好家の間に浸透することになったのです。
ブラームスの場合は、ピアノ曲の原典版で有名なヘンレ社の手によって、個人全集の刊行が進行中です(実は、ベートーヴェンについても、ボンのベートーヴェン・アルヒーフとの共同作業で出版が計画されているのですが、交響曲は1番と2番が出ただけで、べーレンライターと、そしてブライトコプフに先を越されてしまいました)。現在までの刊行状況はこちらを見て頂ければ分かりますが、交響曲はまだ3番までしか出ていません。その3番にしてもポケットスコアが出るのはまだ先の話だとか。
2番が出たのが2001年ですから、今回のギーレンの演奏が録音された2005年には、使おうとすればこのヘンレ版を使うことは出来たのでしょうが、この、いつも使用楽譜の版をきちんと表記してくれているレーベルのブックレットには「ブライトコプフ版」とあります。どうやら、ブラームスの「ヘンレ版」が、ベートーヴェンの「ベーレンライター版」のような扱いを受けるには、まだまだ時間がかかりそうな気配です。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-29 20:58 | オーケストラ | Comments(0)
Fantasista! MOZART





Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-1



昨年のゴールデンウィークのさなかに東京で開催された「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンLa Folle Journée au Japon(日本の熱狂の日)」という音楽祭は、3日間で30万人以上のお客さんが集まったという、まさに「クラシックにあるまじき」(Yさん)盛況でした。酸っぱいですが(ラッキョウの日?)。クラシックといえば、ごく一部のマニアしか聴いていない音楽と思われがちですが、料金を安くしたり親しみやすい仕掛けを施すなどして敷居を低くすれば、人は集まるものだということを、この音楽祭は見事に証明してくれました。昨年はベートーヴェンが中心となったプログラムでしたが、2回目となる今年のテーマ作曲家はモーツァルト、ただでさえ生誕250年で盛り上がっているのですから、今回も5月3日から6日までの開催期間中は、有楽町の東京国際フォーラムの周辺はお祭りのような「熱狂」のにぎわいを見せることでしょう。
そんな、「モーツァルト・イヤー」と、「熱狂の日」という2大イベントを見据えて、ここぞとばかりに多くのコンピレーションが発売されているのは、ご存じの通りです。しかし、それらのものはお決まりの「癒しのモーツァルト」といった路線、いかにもお手軽な企画のように見えてしまって、本当のモーツァルト・ファン、本当のクラシック・ファンは見向きもしないのではないかと思われてなりません。
そんな、殆どクズ同然のアイテムの中にあって、このBOXは一本芯の入った企画が光っていて、なかなか手応えがありそうな感触がありました。タワーレコードとNAXOSの共同企画による10枚組のCD(それで2500円!)、それは単にモーツァルトの作品を並べるというだけではなく、そのモーツァルトに影響を与えたり、あるいは影響を与えられたりしたという周辺の作曲家までも含めた、大きな視野に立ったものだったのです。これだったら、かなりうるさいクラシックファンにも受け入れられるのでは。
1枚目から5枚目まではモーツァルトの生涯に即して、幼少時代から晩年までをコンパクトに紹介するものになっています。器楽曲だけではなく、オペラや声楽曲をバランスよく配しているのも好ましいものです。もちろん、それぞれの曲は1曲もしくは1楽章まるまる収録されていて、フェードアウトなどはかかってはいませんよ。
6枚目から8枚目までは、モーツァルトを巡る「過去、現在、未来」の作曲家たちの作品です。彼の伝記には必ず登場するエピソードが、「初めて聴いた多声部の曲を、その場で楽譜に書いた」というものですが、その現物、アレグリの「ミゼレーレ」を収録するのは、「過去」には欠かせないことです。そして「現在」になると、あのサリエリの登場です。映画「アマデウス」で、あまりにも偏ったイメージが浸透してしまったこの才能溢れる作曲家の作品、いざ聴こうと思ってもなかなか探すのは大変ですが、それがこんなに手軽に楽しめるのもすごいことです。「未来」は、彼の曲を素材にした作品。その中でもリストが「レクイエム」をピアノ用に編曲したものがあったなんて、初めて知りましたよ。こうなると、もはやマニアの世界と言ってもいいでしょう。
9枚目と10枚目は、20世紀半ばの演奏家達による、有無を言わせぬ名演集です。NAXOSの誇るヒストリカル音源を駆使して、今の小振りになってしまった演奏家達からは決して得ることの出来ない、まさに「巨匠」の音楽が堪能できることでしょう。ランドフスカがモダンチェンバロで弾いた「トルコ行進曲」なんて、他の企画では絶対あり得ない選曲でしょうね。そう、ここには、構成と選曲を担当した山尾敦史さんのこだわりが隅々にまでに溢れていて、決して安直に流れることはないのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-27 18:10 | オーケストラ | Comments(2)
BEETHOVEN/Sinfonia No 9


Roberto Minczuk/
Coro da Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
Coral Paulistano
Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 212



この前聴いた時にとてもハッピーな気分にさせてくれたサン・パウロ交響楽団の、今回は「第9」です。指揮者があの時とは別の人、ミンチュクと読むのでしょうか、なんでも「ジョビン・シンフォニコ」という彼のファースト・アルバムで2004年のグラミー賞のラテン部門を受賞したそうです。ボサノバの父、ジョビンの曲をシンフォニックに演奏したものなのでしょう。ガラス製の(それは「シビン」)。「ラテン」にかけては、筋金入りのセンスを持っているのだ、と見ました。
しかし、意外なことに、楽譜に関しては割と無頓着だと思われていたこのオーケストラが、今回はしっかり「ベーレンライター版」を使って演奏していましたよ。これは、この指揮者の意向なのでしょうか。ただ、よくある使い方なのですが、全ての部分できちんとこの楽譜に従うのではなく、あまりにも違和感がありそうなところは従来の楽譜で演奏するという、折衷的なことをやっています。具体的には、第4楽章のマーチのあとのオーケストラの部分が終わって合唱が入る前のホルンのリズムと、最後にカルテットが入る時の歌詞です。ですから、彼がこの楽譜を使ったのは、ひとえに第1楽章の真ん中よりちょっと後、この楽章の最大の盛り上がりを導くトランペットのリズムで、従来よりも音符の数が増えて派手になっているのが気に入ったからなのでは、などと考えたくもなってしまいます。実際、この部分は、他の演奏で何度も聴いていたはずなのに、つい油断してびっくりさせられたぐらい、そのビートには熱いものがこもっていました。それは、ここぞとばかりに吹き込んだトランペット奏者の「血」のなせる技だったのでしょうか。
ですから、指揮者が変わったからといって、オーケストラのノリはこの前のアルバムと何ら変わるところはありません。全てのフレーズが、生き生きとしたラテンの感覚で磨かれて輝いているさまを、ここでも大いに堪能することが出来ます。中でも特筆すべきはティンパニ。かなり柔らかめのマレットを使っているのでしょうか、全体を包み込むようなその巨大な音は、まさにラテンパーカッションのようなエネルギーあふれるものです。これがフィーチャーされた第2楽章は、この世のものとも思えないほどのにぎやかさを醸し出しています。
そして、声楽陣が参加した第4楽章では、また新たな魅力が加わっています。そもそも、低弦によるレシタティーヴォが、深刻さなど微塵も感じられない脳天気な歌い方で始まった時から、この楽章がお祭り騒ぎの様相を呈することは予想できていたのです。その同じ旋律を歌うバス歌手の、なんという色っぽさ、殆ど「もっと楽しい歌を歌おうぜ、イェーイ」といった趣です。続く合唱も元気いっぱい、一人一人の声も大きそうですし、それがまとまった時の迫力もすごいものです。特に、男声の力強さには圧倒されてしまいます。二重フーガでの高音Aで始まるテーマをこれほど迷いなく歌える合唱団など、なかなかありません。
実は、これはライブ録音、終わりに近づくにつれてオーケストラも合唱もギンギンに燃え上がり、白熱の演奏が繰り広げられます。お客さんも、さぞ盛り上がっていたことでしょう。しかし「ジャジャジャジャ、ジャン」と全曲が終わった瞬間、耳を疑うようなことが起こりました。Dのユニゾンの「オーケストラ・ヒット」のあと、なんと、そこには2秒ほどの静寂があったのです。そして、そのあとに起こった割れんばかりの拍手、その中には「ピーピー」という指笛まで混じっていましたよ。きちんと「静寂」を受け止めた上でのこの大騒ぎ、ラテンは深いです。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-21 20:56 | オーケストラ | Comments(0)
TCHAIKOVSKY/Symphony No.6, Serenade for Strings




Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907394



「悲愴」と「弦楽セレナーデ」という、贅沢なカップリングです。ガッティならではの贅肉のないチャイコフスキー、存分に楽しむことにしましょう。最近はなかなか口に出来ませんが(それは「鯨肉」)。
「悲愴」の冒頭、不気味な低弦が左奥から聞こえてきた時、このオーケストラの配置を思い出しました。最近ロンドン交響楽団のライブに行った時も、やはり同じようなチェロとコントラバスがステージ下手に位置する「両翼」配置を体験したばかり、ロンドンではこの並び方が一般的になっているのでしょうか。ですから、この暗い序奏から、次の提示部の最初あたり、ヴァイオリンはお休みでもっぱらヴィオラが主導権を握っている部分では、ステージの奥だけで演奏が行われていることになります。そこから次第に前の方のヴァイオリンが加わり、段々音が客席に近づいて来るというのは、まさに映画のクローズアップの手法ではありませんか。チャイコフスキーの時代にはこういう配置しかなかったのでしょうから、もしかしたら彼はそこまで計算してオーケストレーションを考えたのでは、などと想像してしまうほど、スペクタクルな音場が、この配置のロイヤル・フィルから聴き取ることが出来ましたよ。
そうこうしているうちに、音楽の方は、甘く美しい第2主題が始まります。しかし、ここはガッティの持ち味であるさっぱりした歌い口が最大限に発揮されることになります。ベタベタと甘すぎることは決してない、楽譜の指示を忠実に守っていれば、その音からは自然にエモーションがわき出てくるはず、という姿勢が、非常に心地よく感じられます。その上で、演奏者個人の感情は大事にしようというスタンスは、この前の「4番」と同じことです。提示部の最後のp3つで始まるクラリネットのソロが、そんな場面、この楽章で唯一見られる「甘さ」でしょうか。それに続くp6つという有名な指示も、バスクラリネットの殆ど「気配」に等しい超弱音が、見事な緊張感を産んでいます。
ですから、それに続く展開部のサプライズも素晴らしい効果を上げるとともに、ここでのガッティのギアチェンジの鮮やかさにも舌を巻くことになるのです。それまでの少し気取った態度から一転して、尋常ではない早さでオーケストラを煽りまくる指揮者。こういうところに、私達は新鮮な感情の高ぶりをおぼえるのでしょう。そのあたりのさじ加減の絶妙さが、ガッティの最大の魅力です。
第2楽章の5拍子のワルツのあっさり感、第3楽章のマーチの冷静な高揚感も素敵です。フィナーレでは、やはり両翼配置が最大の効果を上げる場面が最初に訪れます。
弦楽セレナーデでも、甘ったるさを期待する人は肩すかしを食らうに違いない、引き締まった世界が展開されています。第1楽章序奏のコラールからして、その粘着性など微塵もないかなり早めのテンポからは、今まで聞いたことのないような、まるでオルガンのように和音の変わり目がはっきりした音楽を感じることが出来るはずです。第2楽章のワルツも、その素っ気なさから聞こえてくるのは、幾通りにも変化するテーマと、そのまわりの旋律が織りなす、まるで一編のドラマです。第3楽章のエレジーも、「臭さ」を排除することによって安っぽいムード・ミュージックとは無縁のしっかりとした構成を持つに至りました。そしてフィナーレ、1楽章のコラールに又戻ることが必然として感じられる、計算し尽くされた歩みが、そこにはあります。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-17 19:53 | オーケストラ | Comments(1)
BEETHOVEN/Abertura Coriolano, Sinfonias 1,4




John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 210



長いことCDと付き合ってきましたが、クラシックでブラジル製のCDなんて、初めて見ましたよ。ジャケットはポルトガル語表記、「ベートーヴェン」はもちろん分かるのですが、「Abertura Coriolano」とはいったい何なのでしょう。そもそも、オーケストラの名前からして分かりません。どこかの都市にあるオーケストラのようですが、「サオ・パウロ」なんてところ、ありましたっけ(「棹、入ろ」なんちゃって・・・あぶない、あぶない)?
慌ててブラジルの地図を出してみたら、それは「サン・パウロ」のことでした。そうか、「Ã」の上のヒゲがポイントだったのですね。そう言えば、ブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスの作品に、「サン・セバスティアンのミサMissa São Sebastião」というのがありましたね。その「サン」だったのですよ。
その、サン・パウロ交響楽団の演奏で「Abertura Coriolano」が始まった時、それは「コリオラン序曲」であることが分かりました。しかし、その演奏は、そんなベートーヴェンの曲名よりは、ポルトガル語で表記されてあったものの方がはるかにふさわしく思えるほど、「ブラジル風」のものだったのには、驚いてしまいました。なんといっても最初のアコードの決めからして、まるでラテン・オルケスタでもあるかのような明るく軽やかな響きが聞こえてきたのですからね。そのあとに続くちょっと憂いを秘めたテーマ、これは小気味よいリズムの刻みにのって、まるでけだるいボサノヴァのよう。そう、これはまさにブラジル人によるブラジル人のためのベートーヴェンだったのです。この序曲は、そんな彼らのスタンスをたちどころに聴く人に伝える格好の「ツカミ」となっています。ここで彼らのブラジル・ワールドへ引き込まれたが最後、もはやどっぷりサンバの国のベートーヴェンを堪能しなければいけないカラダになってしまいますよ。
交響曲の1番と4番という、ある種軽めの選曲も、そんな彼らのアプローチには相応しいものだったのでしょう。早めのテンポでグイグイ引っ張っていく1番のフィナーレなど、まるでリオのカーニバルのようなにぎやかさが醸し出されています。
4番の場合ですと、随所に現れるシンコペーションに、いかにもラテンの趣が感じられます。それは、ベートーヴェンが緊張感を高めようと用いたシンコペーションとはちょっと肌合いの異なる、もっと「ダンス」の要素が勝ったもの、思わず踊り出したくなるようなそのリズムは、ヨーロッパのオーケストラでは絶対に出せないものに違いありません。第2楽章のようなしっとりしたところでも、合いの手に入る楽器のなんと積極的でリズミカルなことでしょう。ほんと、「チャッチャ、チャッチャ」という刻みがこれほど生命力を持って聞こえてきたことなど、初めての体験です。
このところのベートーヴェン演奏のシーンは、やれオリジナル楽器だ、やれ原典版だ(ブライトコプフ新版というのが、そろそろ出始めていますね)と、より「オーセンティック」な方向を求めることが主流となっています。そこへ現れた、ひたすらマイペースのこのサン・パウロ交響楽団、演奏者一人一人が肩の力を抜いて楽しんでいる顔が目に浮かぶようです。こんな音楽が聴けるのなら、もう少し生きていても良いな、そんな「勇気」すらも与えてくれたCDでした。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-29 19:49 | オーケストラ | Comments(2)
OHKI/Symphony No.5 "HIROSHIMA"




湯浅卓雄/
新日本フィルハーモニー交響楽団
NAXOS/8.557839J



かつて、「大木正興(おおき まさおき)」という有名な音楽評論家がいました。テレビやラジオでクラシック番組の解説をしていた非常に特徴のある顔としゃべり方をした方ですが、いかにも親しみやすい語り口の裏に姿をのぞかせていた陳腐な知識のひけらかしには、鼻持ちならないものをおぼえた記憶があります。もちろん、その様な人の業績が今日まで伝えられることは決してなく、今では誰も知る人もいない過去の人になってしまっています。
今回の「大木正夫」は、発音こそ似ていますが全くの別人、常に確固たる主張を持って生きていた、本物の音楽家です。1901年生まれ、という事は、「椰子の実」の大中寅二(1896年生まれ)や「春の海」の宮城道雄(1894年生まれ)などといったまさに日本の作曲界の創生期を担った人たちに限りなく近い位置を占めていたということになります。
おそらく、知名度としては、生前はそれこそ大木正興と間違えられてしまうほどで、決して高いものではありませんでした。というのも、彼が活躍していた場が例えば「労音」といった、左翼的な基盤を持ったところが中心だったせいなのかも知れません。やはり現金払いでなければ(それは「ローン」)。彼の代表作であるカンタータ「人間をかえせ」にしても、演奏されていたのは「コンサート」ではなく、「集会」のような趣を持ったものだったのではなかったのでしょうか。ある種プロバガンダのような性格をその中に見つけ出してしまわれれば、まっとうな音楽作品としての評価を得ることは極めて難しくなるのは、この国でのいわば「掟」です。
その様な作曲家の姿勢の、まさに先鞭を付けたものと位置づけられているこの交響曲第5番「ヒロシマ」、しかし、そこにあったものは、単に原爆の惨状を訴えるという表面的なメッセージにとどまらない、まさに「音楽」としての確かな訴えかけを持った極めて完成度の高い作品としての姿だったのです。特に、その独特のオーケストレーションの妙味は、作られた時代を考えると驚異的ですらあります。バルトークやストラヴィンスキーといった当時の「最先端」の音楽からの技法を取り入れただけではなく、弦楽器のハーモニックスを、まるでクラスターのように重ねると言った、まさに時代を超えた技法までものにしているのですから。ただ、そこで重要になってくるのが、本当に伝えたいものは古典的な手法に頼るという基本姿勢です。彼が敬愛したというベートーヴェンにも通じるようなテーマの設定によって、そこからは、誰でも一義的なメッセージは読み取ることが出来る程の明快さが生まれます。それと同時に、それらを覆う前衛的な仕掛けによって、それは単なる社会的な訴えかけを超えた「音楽」あるいは「芸術」といった次元にまで昇華しているのです。
そんな巧妙な二面性は、もしかしたら、作られて50年以上経った今だからこそ、その中に見出すことが出来たのかも知れません。今回が初録音となった湯浅卓雄の、実にキレの良いスマートな演奏も、1950年代では決してなし得なかったものであったに違いありません。
もう1曲、戦前の「日本狂詩曲」という作品は、うってかわって、いわば「右寄り」の趣さえ持とうかという、ナショナリズム礼讃の脳天気な曲です。しかし、この当時の作曲家としては、外国に負けないだけの自国の資産を信じて疑わなかったことは事実です。その様な、どんな状況にあっても強固な信念に基づいて音楽を作った大木正夫、その真摯な態度に、心を打たれないわけがありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-21 19:45 | オーケストラ | Comments(2)