おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 466 )
TAVENER/The Protecting Veil



Raphael Wallfisch(Vc)
Justin Brown/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222881-203(hybrid SACD)



以前クリスマスアルバムをご紹介したロイヤル・フィルのバジェット・シリーズ(とは言っても、サラウンド・レイヤー付きのSACDという立派なもの)、まさに玉石混淆のラインナップなのですが、その中に「癒しの帝王」タヴナーの名前がタイトルになったものがあったので、とりあえず曲名も見ずに買ってみたら、これが輝くばかりの「玉」でした。
ジョン・タヴナーといえば、このサイトでもお馴染み、瞑想的な曲調の合唱曲がよく知られています。しかし、ここで演奏されているのは、独奏チェロと弦楽合奏のための「奇蹟のヴェール」というインスト曲です。1987年にスティーヴン・イッサーリスのために作られたもので、2年後にはロンドンの「プロムス」で初演されています。そして、1991年には、イッサーリスによる世界初録音が行われました(VIRGIN)。その後、このような現代曲には珍しく、多くのチェリストがこの曲を取り上げるようになり、1996年にヨー・ヨー・マがSONYに録音するに及んで、一躍「有名曲」となってしまったのです。ラファエル・ウォールフィッシュによるこのCDは1994年の録音、おそらく、イッサーリスに次いで録音されたものでしょう。
タイトルの「奇蹟のヴェール」というのは、コンスタンチノープルを聖母マリアがヴェールで覆って、サラセン軍の攻撃から守ったというギリシャ正教での故事に基づいています。切れ目なく続く8つの部分から成るこの曲は、まるでイコンを順番に眺めていくような構成が取られており、最初と最後がこの「奇蹟のヴェール」、そして、その間に聖母マリアの生涯を描いた6つのイコンが置かれています。そう、まるであのムソルグスキーの「展覧会の絵」のような体裁を持っているのですが、そこでの「プロムナード」に相当するのが、「鐘のテーマ」です。それまでの瞑想的な曲調が、この、殆どクラスターといってもいい弦楽器の高い音の密集した和音の激しい刻みで断ち切られ、聴き手はそこで新たな風景を求める、という仕掛けです。その他にも、以前聴いた「徹夜祷」でも触れた彼の律儀な仕掛けは、その「鐘のテーマ」に続くFEという短9度の下降跳躍音型にも込められています。このパターンが登場するたびに、下の音Eのあとの音が一つずつ増えていって、最後に出てきた時には8つの音が揃うことになります。その最後の音から、この曲全体の「メインテーマ」が再現されて、一瞬の沈黙の後に次のイコンに移る、ということが、場面転換のたびに繰り返されているのです。
8つの「イコン」は、とてもヴァラエティに富んだものです。「受胎告知」や「キリストの復活」のような明るくリズミカルなものから、まさに「癒し」の極地、無伴奏のチェロだけで奏でられる瞑想的な「キリストの架刑と聖母の嘆き」まで、その振幅の広い組み合わせは、飽きることがありません。このチェロ独奏のあとでは、「鐘のテーマ」さえ穏やかなものに変わっています。そして、なんといってもハイライトは最後から一つ前の「聖母の死」でしょう。独奏チェロによって繰り返される同じテーマは、最初はドローンに乗ってほのかにたゆとうていたものが、次のシーンではいきなり不協和音で彩られ、それが最後には輝かしいばかりのハーモニーに包まれていくさまは、まさに感動的です。これは、まるで重厚なギリシャ正教の聖歌を聴いているような体験、このようなインスト曲の中にも、タヴナーの合唱曲の魅力は秘められていたのですね。
それにしても、全く休みなく演奏し続ける独奏チェリストの集中力は、大変なものだと感服させられます。ここでのウォールフィッシュも、最初から最後まで緊張感を保った演奏を聴かせてくれています。何でも、ライブでは譜面をめくる余裕さえないため、ちゃんとそのための人が横に付くのだとか。でも、とても難しい譜面ですから、その人は3年間練習したといいます(譜めくり3年)。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-06 21:55 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony 9


Stanislaw Skrowaczewski/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Saarbrüken Radio Symphony Orchestra
OEHMS/OC 525
(輸入盤)
BMGジャパン/BVCO-37424
(国内盤)


現役最高齢を誇っていた指揮者のジャン・フルネが引退してしまったということで、今年の8月に83歳を迎えるヴォルフガング・サヴァリッシュがめでたくこの栄誉を担うことになりました。そして、そのほんの一月あとの2番手に付けているのが、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキということになります。最近、やっとの思いでN響との共演を果たしたサヴァリッシュにはいかにも衰えてしまった印象を与えられたものですが、スクロヴァチェフスキの場合、この最新アルバムを聴く限り、彼の中にはそんな年齢など感じさせない青年のような若々しさが、いまだに宿っていることに気づかずにはいられません。
早い話が、楽譜の選択です。スクロヴァチェフスキがここで使っているのは、あのベーレンライター版、この年齢になってしまえば、普通は守りに入ってしまい、早々新しい楽譜など使いたがらないものですが、彼の場合は違います。しかも、よくある折衷的な使い方ではなく、デル・マーの校訂に忠実に従って、ちょっと不自然なところもしっかり楽譜通りに演奏しているという徹底ぶり、これは、この指揮者が今までの長いキャリアの中で別の楽譜を使って演奏してきたことを思えば、素晴らしいことです。
ちなみに、この版についてはジャケットでもライナーでも何も触れられてはいません。ジンマンあたりから始まった、まるで一つのブランドのようにこれ見よがしに表記されていたという「ブーム」も、出版されて10年も経てば収まってしまったということなのでしょうか。特にコメントがなくても、この楽譜を使うことがごく普通のことになったということなのであれば、それはそれで歓迎できる状況です。ただ、実は、この楽譜の敵役として「いけない楽譜」とされてきたブライトコプフ版にしても、最近、ペータース版で名をあげたペーター・ハウシルトなどの手によって新版が完成しており、それを用いた録音も、そろそろ出てくることでしょう。そうなった時に、きちんと差別化を図る意味でも、版についてははんきり表示しておいて欲しいものです。
スクロヴァチェフスキの演奏、最初から最後まで、まるで鋼のような強い意志で支配されているそのドライヴ感には、圧倒されるものがあります。特に、第2楽章のアップテンポで押しまくる迫力には小気味よささえ感じることが出来ます。ただ、第3楽章では、それが逆に流れを損なう無骨な力となってしまい、この楽章の持つ柔らかい感じが失われてしまっているのが、ちょっと残念です。後半の、木管楽器がテーマを演奏して、その間に弦楽器の装飾的なフレーズが流れていくという場面でも、そのゴツゴツした弦楽器だけが目立ってしまって、木管の流れるようなテーマを消してしまっているように見受けられました。
声楽が入ってくるフィナーレでは、合唱の素晴らしさが光ります。最初のうちはそれほどの魅力は感じられないのですが、テノール・ソロで始まるマーチが終わり、長いオーケストラの間奏が、例の不思議なシンコペーションのホルン(これが、ベーレンライター版の特徴)で終わったあとに出てくる「Freude schöner~」の迫力には、度肝を抜かれてしまいます。その前の流れから、指揮者に煽られてしゃかりきになって演奏しているオーケストラの上を軽く飛び越えて、おそろしく存在感のある合唱がそこにはありました。時として、ベートーヴェンはなぜここに声楽を持ってきたのか分からなくなるようなただの「叫び」でしかないようなものが多い中、この合唱は、確かにここに存在する意味を主張していたのです。
その点、ソリストたちは相変わらずの苦労ばかり多くて訴えるものの少ないスコアに、辟易しているように見えます。アンネッテ・ダッシュのような人が、こういうことをやっていてはいけません。
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by jurassic_oyaji | 2006-02-22 22:00 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Oboe Concertos



Marcel Ponseele(Ob)
寺神戸亮(Vn)
Ensemble Il Gardellino
ACCENT/ACC 24165



先日話に出たコープマンのオーケストラにも参加していたバロック・オーボエの名手、マルセル・ポンセールのソロアルバムです。こういったオリジナル楽器のフィールドではしばしばお目に掛かることが出来るこのオーボエ奏者は、最初に耳にした時から、そのあまりの音程の良さに驚かされていたものでした。それまで私が聴いていたその時代のオーボエの音は、確かに素朴な音色ではあってもそれと同時に我慢がならないほどのいい加減な音程で演奏されていたもの、それは、半ばこの楽器の宿命と思っていただけに、彼の演奏にはまさに目から鱗が落ちる思いだったのです。最近のこういう団体での管楽器セクションでは、もはや以前のようなとんでもない音程の持ち主は殆ど見かけられないようになってきています。まさに「やれば出来るじゃん」という感じ。ここに来るまでには、彼のようなある意味「天才」の存在が必要だったに違いありません。フルートの分野でも、彼の同僚ハーツェルツェットあたりが、そんな役割を果たしていたのでしょう。もはやスティーヴン・プレストンの時代ではなくなっているのです。
実は、殆どアンサンブルの中でしか彼の演奏を聴いたことはありませんでしたから、ここでのソロには、さらに驚かされてしまいました。まず、オーボエの音色が、実にしっとりとした深い響きを伴ったものに対する驚きです。彼自身が制作したというその楽器からは、極論すればモダン・オーボエをしのぐほどの豊かな音楽性が伝わってきたのです。そして、もう一つの驚きは、緩徐楽章に於ける意外なほどの素っ気なさです。例えば、BWV1053aのシシリアーノでの、流れるようなリズムに乗った滑らかな歌いぶりはどうでしょう。この時代の音楽を専門に扱っている演奏家が好んで取っている「くさい」表現とは一線を画した、実に見晴らしの良い音楽を、この楽器に於けるトップランナーは見せてくれていたのです。妙にこねくり回さなくてもしっかり伝わってくるものはあることを、彼は身をもって教えてくれているのですね。同じような表現は、断片しか存在していなかった協奏曲を復元したBWV1059Rのアダージョ楽章でも見られます。ジョシュア・リフキンが、カンタータ156番のシンフォニアを転用したこの楽章、なんのことはない、ヴァイオリン協奏曲(フルートで演奏することもあります)として知られているBWV1056のクラヴィーア協奏曲のアダージョ楽章と同じものなのですが、この「有名な」曲からも、素直な表現の美しさを存分に味わうことが出来ます。
最後に、とっておきの驚きが。なんと、このバッハ・アルバムの中に、マーラーの音楽がカップリングされていたのです。「リュッケルトの詩による歌曲」として知られる曲集の中の、「私はこの世に見捨てられ」という、メゾソプラノの歌手によって歌われるオーケストラ伴奏の歌曲が、このバロックアンサンブルの編成で演奏されています(編曲はポンセール自身)。原曲で大活躍するコール・アングレを想定して、ここではオーボエ・ダ・カッチャ(もちろん、彼が作った楽器だっちゃ)をフューチャー、BWV1060aのドッペル・コンチェルトで見事な共演を披露していた寺神戸亮のヴァイオリンと絡みつつ、マーラーをバロック時代の楽器で演奏するという、ちょっとあぶない、しかし魅力的な試みが、私達を魅了しないわけがありません。肝心のメゾソプラノのソロが、殆ど目立たないチェロによって演奏されることにより、原曲とは全く様相を異にする世界が広がります。しかし、その先にある風景は、マーラーが見ていたものと何ら変わるところがない、というのが、驚き以外のなんであるというのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-02-13 19:47 | オーケストラ | Comments(0)
BARTÓK/Concerto for Orchestra




Christoph Eschenbach/
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1072-5(hybrid SACD)



かつて、オーマンディの時代には、COLUMBIARCAという当時の2大レーベル(現在では、SONY-BMGというものに統合されてしまいましたが)にまたがっておびただしい数の録音を行い、オールマイティな力を見せつけてきたフィラデルフィア管弦楽団ですが、そのあとのムーティ、そしてサヴァリッシュの時代になると、膨大な経費を要する大オーケストラの録音というものがレコード会社からは敬遠されるようになり、ついにはその頃の所属レーベルであったEMIから、「解雇」されてしまうという事態に陥ってしまうのです。ですから、2003年に音楽監督に就任したエッシェンバッハは、今までこのオーケストラと演奏したCDをリリースしていなかったという、ちょっと信じがたいような状況の中にあったのです。
そして、待望のニューリリースは、なんと、フィンランドのマイナーレーベルであるONDINEからなされたというのも、昔日の栄光を知るものにはちょっと意外な事であるかも知れません。しかし、まずは自主制作盤ではないものが世に出て、これからも継続してのリリースが予定されている事を素直に喜びたいものです。
昨今の事情を考えれば当然ですが、この録音もセッションによるものではなく、通常のコンサートをライブ収録したものです。そしてそれは、2005年の5月に行われた、第二次世界大戦終了から60年が経った事を記念するコンサートでした。このコンサートは、その戦争の際にファシズムによってもたらされた悲劇に真っ向から目を向けていこうという強い意志が込められたものになっています。ここで取り上げられた3人の作曲家は、いずれも望まない形で祖国を離れなければなりませんでしたし、そのうちの一人、ギデオン・クラインは、アウシュヴィッツで25歳の若さで命を絶たれているのです。
マルティヌーが1943年に作った「リディツェ追悼」は、1942年の6月にプラハ西部のリディツェという小さな町で起こったナチによる虐殺を追悼するものです。不気味な雰囲気を醸し出す冒頭の部分とは裏腹に、曲の大半は極めて澄みきった「美しい」シーンで占められています。それだからこそ、邪悪なモティーフが際立って聴くものの注意を惹くのでしょう。本当の哀しみは、やりきれないほどの美しさの中にこそ、潜んでいるのかも知れません。
1941年にテレジンの収容所に送られたクラインが1944年に作った弦楽三重奏のための曲を、1990年にチェコの作曲家サウデクが弦楽合奏用に編曲したものが、「弦楽のためのパルティータ」です。ディヴェルティメント風の軽快な楽章に挟まれた真ん中の楽章が、モラヴィアの民謡をテーマとしたゆったりとした変奏曲、それがどんな思いを反映したものかは、明らかでしょう。
そして、バルトークが1943年に完成させた有名な「オケコン」も、その第3楽章の「エレジー」に同じ思いを読み取るのは容易な事です。ここで聞こえてくるピッコロのソロは、日本人メンバーである時任和夫さんによるもの、深い響きの中に、確かな「意志」を感じる事は出来ませんか?この流れからは、次の楽章の中で唐突に出現するヴィオラの甘いメロディーにも、別な意味を感じ取れるのではないでしょうか。
図らずも、1940年代のほんのわずかの期間に作られたこの3曲を並べて演奏したエッシェンバッハの思いは、間違いなく私達に伝わってきました。このような確かな意味のあるものをリリースするという姿勢、もしかしたら大量の音源制作が難しくなってしまった時代だからこそ、可能になったのかも知れません。そんな、確かな価値を感じる事が出来るアルバムです。
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by jurassic_oyaji | 2006-02-01 19:52 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Violin Concerto, Double Concertos

Midori Seiler(Vn)
Xenia Löffler(Ob)
Raphael Alpermann(Cem)
Stephan Mai/
Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 901876



バッハの作品は非常に厳格で重々しいものである、という言い方は、かつては良く耳にしたものです。何と言っても「音楽の父」ですから、そこには権威あるクラシック音楽のまさに源を担っている、神聖で犯しがたいものが存在する、といった評価ばっはりが強調されていた時代が、確かに存在していたのですね。しかし、おそらくバッハ本人にしても迷惑だったに違いないその様なイメージは、このところはかなり陰を潜めるようになってきたのは嬉しいことです。何しろ、彼ときたら、2人の奥さんとの間に20人もの子供をもうけたというほどの「情熱家」なのですから、そんな堅苦しい人物であったわけがありません。
そんな、格式張らないバッハの姿を味わいたいのなら、このアルバムなどはまさにうってつけではないでしょうか。ここからは、ベルリン古楽アカデミーのメンバーが、バッハの音楽を心から楽しんで演奏している様子が活き活きと伝わってきます。
そもそも、ここで選ばれている曲自体が、ある種の「軽さ」を持っているものでした。この4曲の協奏曲たちは、現在では「チェンバロ協奏曲」とカテゴライズされていますが、本来は弦楽器や管楽器のための協奏曲だったものを作り直したという出自を持っているのです。このような「再利用」は、カンタータなど、彼の他の作品でも見られる常套手段、それだけで、「厳格」とは正反対のちょっとさもしいイメージがわき起こってはきませんか?
1曲目のBWV1052は、元のヴァイオリン協奏曲の形にもどしたものです。ここでソロを取っているミドリ・ザイラーが、エマニュエル・バッハによって編曲されたチェンバロ協奏曲などを参考にして、ソロパートを修復したということです。彼女のイマジネーションあふれる演奏は聴きもの、特にカデンツァの見事さには圧倒されてしまいます。
2曲目はBWV1062、有名なニ短調の2つのヴァイオリンのための協奏曲(BWV1043)を、ハ短調に直したものです。この曲の場合、独奏楽器がヴァイオリンからチェンバロに変わったことにより、原曲が持っていたある種の粘着質の部分がさっぱりと消え去ったことに気づかされるに違いありません。特に第2楽章など、2台のチェンバロの対話は思い切り即興性を発揮したバトルのように聞こえてしまいます。
3曲目のBWV1057は、なんとブランデンブルク協奏曲第4番(BWV1049)の作り替え、ヴァイオリンと2本のリコーダーという元の編成から、リコーダーはそのまま残してヴァイオリンをチェンバロに変えた、というものです。ここでは、各楽器の役割分担が少し変わっている、というのも興味深いところです。
最後のBWV1060は、すでに、ヴァイオリンとオーボエという、修復された元の形の方がよく知られるようになっているのではないでしょうか。ここでも、ザイラーのかなりアグレッシブなヴァイオリンに、ちょっとおっとりしたレフラーのオーボエがからんで、なかなか良い味を出しています。
厳寒の続く季節ですが、このアルバムに誘われて春が近づいてきたよう。温かい、爽やかな演奏ですよ。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-20 20:09 | オーケストラ | Comments(0)
DVORAK/Symphonies Nos. 8 & 9




Charles Mackerras/
Prague Symphony Orchestra
SUPRAPHON/SU 3848-2



昨年80歳を迎えた長老マッケラスが、プラハのスメタナホールでプラハ交響楽団を指揮した演奏会のライブ録音です。出来るだけノイズが入らないように、演奏途中で人が出入りする事がないよう、「ドアはしっかり閉めたな?」と確認がされたと聞いています。この演奏会が行われたのは、2005年の9月13日、プログラムはドヴォルジャークの「自然の王国」と、交響曲第8番と第9番の3曲でしたが、ここには交響曲だけが収録されています。ただ、ライブ録音とはいっても録音の日付が11日から13日までとなっていますから、リハーサルの模様も録音しておいて、本番のテイクで問題があったところを差し替えて編集するという、「ライブ盤」には欠かせない処置が施されているのでしょう。
お客さんが入った本番と、客席には誰もいないリハーサルとでは、当然音の響き方が異なってきますから、それを繋いだ時に違いが分からないようにするのは、エンジニアの腕の見せ所になってくるわけです。ところが、このCDの場合、「8番」の第2楽章で、今まで少しぼやけた音だったものが、急にくっきりした音に変わって、そこで、別のテイクを繋いだことがはっきり分かる場所があります。なかなか難しいものですね。
いや、別に、そんな些細なことに目くじらを立てる必要もないでしょう。録音そのものは、演奏が行われたスメタナホールの美しい響きが存分に味わえる、素晴らしいものに仕上がっています。おそらくワンポイントに近いマイクアレンジなのでしょう、オーケストラの音と残響がほどよく混じり合った、潤いのある音です。特に美しいのは、艶やかな弦の響き。力で説得するのではない、ホールの響きを信頼して楽に弾いている感じが好ましく聞こえてきます。
マッケラスは、ここで2つの交響曲の性格をかなり際立たせているように見えます。例えば、「8番」では、ことさら「甘さ」が強調されているのが、ポルタメントたっぷりに歌い上げる第2楽章のヴァイオリン・ソロや、今時珍しい「演歌的」な第3楽章のヴァイオリンのテーマの処理で感じることが出来るでしょう。それに対して「9番」の方はもっと都会的、フィナーレの金管によるファンファーレなどからは、停滞を許さないスマートさが見て取れるはずです。有名な第2楽章でも、ソロを取る管楽器たちは決して感傷におぼれることのない、ある種の冷徹さを感じさせてくれています。しかし、そこはチェコのオーケストラです。ビブラートのたっぷりかかったホルンやクラリネットを聴いてしまえば、やはり根っこには独特の泥臭さがあることも、やはり感じないわけにはいかないのです。
楽譜を吟味することで知られているマッケラスが、ここでちょっと面白いことをやっています。彼は基本的には批判校訂版であるスプラフォン版を用いて演奏しているのですが、1ヵ所だけ、非常に目立つ形でそのスプラフォン版では採用されなかった自筆稿のヴァリアントを用いているところがあるのです。それは、第4楽章の後半、頭のチェロのテーマが戻ってくるところなのですが、そのスコアでは256小節目の最後の音「H」を、自筆稿にある「C」で演奏しているのです。この音は次の小節の最初の音「H」とタイでつながっていますから、普通はシンコペーションとして認知されるもの(楽章の最初に出てくるのもこの形)ですが、「C」になることによって、全く別なアウフタクトが出現することになります(こちらに譜例があります)。
この有名な曲、一体何枚のCDが出ているのか私には分かりませんが、こんな演奏をしているのはコンスタンティン・シルヴェストリ(1958)とニコラウス・アーノンクール(1998)以外に知りません(もう一人、ライブでは下野竜也が同じことをやっていました)。この「自筆稿版」、もしかしたら、これからじわじわと市民権を得ていくのかも知れませんね。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-18 20:39 | オーケストラ | Comments(0)
TCHAIKOVSKY/Symphony No.4, Capriccio Italien




Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907393



ガッティとロイヤル・フィルのHARMONIA MUNDI USAへの2番目の録音が出ました。以前はBMG系列のCONIFERからマーラーなどをリリースしていたこのコンビ、実は前作のチャイコフスキーの5番では、カップリングの「ロメオとジュリエット」が、まだこのBMG時代のものだったのですが、今回の4番では、「イタリア奇想曲」も含めて、全て、この新天地でのプロダクションとなっています。
その、このレーベルへのデビュー盤、チャイコフスキーの5番は、以前聴いたマーラーの5番があまりに素晴らしかったので大いに期待したのですが、どうもあまりピンとくるものがなく、聴いてはみたもののここにレビューを書けるほどのものではありませんでした。一つには、あの曲が持っているある種の「重さ」が、ちょっとこの指揮者にはなじまない面があったのかもしれません。
その点、この「4番」は、彼の特質がよく出た、非常に見晴らしの良い仕上がりとなっていて、なかなか楽しんで聴くことが出来ました。まず、彼らが取っている楽器の配置がちょっとユニークなものです。弦楽器は、いわゆる「両翼」という、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが向かい合って座るもの、チェロがファーストの隣に来て、本来はその後ろにコントラバスが来るものが、彼らの場合は最後列に横一列に並んでいます。そして、ホルンが、木管楽器のすぐ後ろの列にやはり1列に並ぶというのも、ヨーロッパのオケとしては珍しい配置です。つまり、普通だと右か左のどちらかから聞こえてくるホルンが、真ん中から聞こえてくることになります。この曲のように、ホルンが大活躍する場面が多いものでは、この配置が非常に効果的になってきます。何しろ、冒頭からこのホルンのファンファーレですからね。
ところが、このホルンのあとに同じ形でトランペットと木管が入ってくると、そこでちょっと面白いことが起こります。その前のホルンの流れとは全く別の、1段階高いところにギアチェンジして、シフトアップした状態で音楽が進んでいくのです。これは、この楽章の至るところで見られるガッティの仕掛け、特に、小節の一番最後の拍は常に短めに処理されて、殆ど前のめりになっているかのような音楽の運びは、スリリングとも言える高揚感を与えてくれます。これがあるからこそ、ほんのたまに出てくる穏やかな部分を、とても気持ちよく感じることが出来るのでしょう。しかし、それも束の間、そんなしばしの平穏も、そのあとに襲ってくるアッチェレランドによって、元の緊張感溢れる世界に引き戻されるのです。
第2楽章になると、オーボエソロによるテーマの、あまりの淡泊さに驚かされることになります。しかし、これは前の楽章からの流れでは、決して違和感のあるものではありません。それどころか、淡々と流れるかに見えてその中には余計なセンチメンタリズムを極力廃した、意志の強ささえ垣間見ることが出来ることでしょう。しかし、最後に出てくるファゴットのソロには、それだけ拒絶してもやはり残っている「本音」のような甘さが漂っているという仕掛け、これで心を打たれない人はいないのではないでしょうか。
そんな具合に、適度にコントロールされたスマートなチャイコフスキー、これは「4番」だからこそなし得た成果でしょう。「イタリア奇想曲」では、さらにラテン的な情感が素直に発揮されていて、より心地よいものに仕上がっています。押しつけがましくてくどい演奏が嫌いな人にはねがってぃもない、爽やかな演奏です。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-14 19:39 | オーケストラ | Comments(0)
BARTOK/Music for Strings, Percussion and Celesta



Christian Ostertag(Vn)
Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.127



「バーデン・バーデン&フライブルクSWR交響楽団」というよりは、未だに「南西ドイツ放送交響楽団」という言い方の方がぴんと来る、このオーケストラは、もちろん、南西ドイツ放送付属の3つのオーケストラのうちの一つです。ハンス・ロスバウト、エルネスト・ブールといった、「現代音楽」ファンにはお馴染みの指揮者が首席指揮者を務め、「ドナウエッシンゲン音楽祭」という、まさに現代音楽のメッカで華々しい活躍をしてきたこのオーケストラには、何と言っても現代音楽で培ってきた精緻な演奏が期待されています。かつての首席指揮者、現在でも常任客演指揮者として密接な関係にあるミヒャエル・ギーレンは、そんなオーケストラの力をここで存分に発揮してくれました。
ギーレンとこのオーケストラとの演奏で忘れられないのは、ブルックナーの交響曲第4番の第1稿の録音(INTERCORD/1994年)です。現在では殆ど演奏されることのない、この若書きの、言ってみれば「怖いもの知らず」といった趣さえ漂う版は、オーケストラにとっては、とてつもない難所がいくつもあって実際に演奏しようとすると多くの困難が伴うものです。特に、最終楽章の最後の部分などは4拍子と5拍子が入り乱れての「ポリリズム」の饗宴、とても楽譜通りに演奏することなど不可能に思えるほどのものです。実際、数種類出ているこの版の録音で、ここをきちんと演奏しているものは殆どありません。その中にあって、このギーレンたちは、信じがたいほどのリズム感とアンサンブル能力でもって、この部分から、正確に演奏した時にのみ味わえる「モアレ効果」を出現させてくれたのです。焼そばの中には出現して欲しくありませんが(それは「モヤシ」)。そう、ギーレンの演奏が私達をとらえる最大の要因は、まさにその完璧なリズム感なのです。
このアルバムでギーレンが取り上げたのはバルトーク、リズムが大きな要素となっている彼の作品では、そのギーレンの特質は間違いなく大きな魅力となってきます。それが最大限に発揮されているのが「弦チェレ」の、特にリズミカルな2、4楽章ではないでしょうか。2楽章は、意表を衝いてかなりあっさりしたテンポで淡々と始まります。過剰なアクセントや極端な切迫感などはその中には全くないにもかかわらず、深いところから確かに迫ってくるグルーヴ、これは、まさにきちんとしたリズムが背景にあるからこそできる芸当に他なりません。楽譜に忠実に演奏しているだけなのに、そこからはさまざまな衝撃が実体のある訴えかけとなって伝わって来るという、ある意味「おしゃれ」な演奏、こんな素敵なものは、力ずくで無意味なアクセントをでっち上げている○ーノンクールあたりでは味わえるわけがありません。
4楽章も、最初の部分がシンコペーションの効いた軽やかなダンスがずっと続いていることなど、この演奏を聴くまで感じたことはありません。今まで、情緒的な側面に気を取られて、いかに基本的なリズムをおろそかにしていた演奏が多かったかということが、図らずも露呈されてしまったわけです。ギーレンのすごいところは、そのようなある意味冷徹な処理を取っているにもかかわらず、歌うべきところではしっかり歌っているということです。この4楽章でも、その対比がどれだけ音楽を深みのあるものにしていることか。
「ヴァイオリン協奏曲第1番」では、うってかわって叙情的な面が強調されています。これも、作曲家のメッセージを真摯に受け取った結果でしょう。そして、まるで同じ作曲家のオペラ「青髭公の城」のようなテイスト満載の「管弦楽のための4つの小品」で見られる、ナイフのように鋭い表現こそは、まさにギーレンの真骨頂と言えるのではないでしょうか。「プレリュード」の冒頭で聞こえてくるフルートソロのひんやりするほどの不気味さはどうでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-05 20:13 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies 1&2




Giovanni Antonini/
Kammerorchester Basel
OEHMS/OC 605(hybrid SACD)



ベートーヴェンの交響曲といえば、かつては極めて崇高な音楽として捉えられていたものでした。この9つの曲を演奏する前には、数週間滝に打たれて精神を清め、身も心も浄化されたところで、初めて音を出すことが許される、というのが冗談に聞こえないほどの厳しさが要求されていたのです。9番目の曲などは、冬場に演奏されることが多いわけですから、体が震えるほどの思いでしょうね(「寒気の歌」)。
最近になって、このベートーヴェンの交響曲を取り巻く状況は劇的な変化を遂げました。その引き金は、オリジナル楽器(最近、さる「古楽」の専門家が書いた本を読んでいたら、「本当は『オリジナル楽器』と呼びたいのだが、紙面の都合で『古楽』と書かせてもらう」という一節がありました。いい加減、『古楽』とか『古楽器』といった言い方、やめませんか)による演奏の隆盛と、「原典版」の刊行です。この2つの出来事が表裏一体となって、今まで一つの「型」として崇められていたベートーヴェン像は跡形もなく崩れ去り、作曲家が作品に込めた通りのメッセージを、演奏家が自身の感受性を通して聴衆に届けるという、真の音楽のあり方が許されるようになったのです。
そんな状況の最も新しい成果が、この、「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」という、極めて挑戦的な音楽を仕掛けることで知られているグループのリーダー、アントニーニが指揮した1、2番で聴くことが出来ます。演奏しているバーゼル室内管弦楽団は、バロックなどではオリジナル楽器を使うことがあるそうですが、ここでは基本的にモダン楽器(ピッチもモダン・ピッチです)が使われています。もちろん、可能な限りの「ピリオド・アプローチ」は施されています。モダン楽器ならではの木管の滑らかな響きは、ガット弦による弦楽器と見事に溶け合い、とても爽やかな印象を与えてくれます。そこに、ちょっと粗野な金管とティンパニが加わることによって、音色に格段の変化がもたらされるという、異質なものの併存である「オリジナル」的な処理が、見事に効果を発揮しています。
一方、「原典版」を用いた成果が殆どショッキングなほど現れているのが、1番の第3楽章、スケルツォの11小節目です。

 従来版

 原典版

従来版(上)と、原典版(下)を比べてみて下さい。従来版では2拍目からfの指示ですが、原典版では1拍目からすでにfになっています。この違いは、このCDのようにきちんと楽譜通りに演奏されたものを聴いてみると、はっきり分かるはずです。リズム感が全く異なって、まるで別の音楽になっていることに気づくことでしょう。今まで聴いてきたものはいったい何だったのか、もしかしたら、「まさにこれこそが、ベートーヴェンが伝えたかったものなんだ!」と叫んでしまう人もいるかもしれないほどの衝撃です。というのも、今までに出ていた「原典版」による演奏で、ここまで徹底して楽譜の指示に従っていたものは殆どなかったからなのです。あのノリントンなどは、「ベーレンライター版」(譜例はヘンレ版ですが、中身は同じです)と謳っているにもかかわらず、この部分は従来版の指示で演奏しているのですから。
そんな、斬新な気迫は認めつつも、この「1番」に関しては、急にpにしたものを、徐々にふくらませてfまで持っていくというように、まるで、あのアーノンクールのように表情の付け方に一本調子なところがあって、音楽的な習熟度がいまひとつな感は否めませんでした。ところが、それから半年後に録音された「2番」では、その変な「クセ」は見事になくなり、とても心地よい自然なフレージングが出来るようになっているのですから、ちょっと驚いてしまいます。ですから、この「2番」は、とても完成度の高い、素晴らしい演奏に仕上がっています。第2楽章の柔らかい弦楽器の響きも、先ほどのノリントンの金科玉条である「ノンビブラート」からは決して生まれ得ない、豊かなものでした。ピリオド・アプローチの第1世代であるアーノンクール、第2世代であるノリントンを超えたところで、第3世代のアントニーニが花を開きかけている、と言ったら、褒めすぎでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-21 20:35 | オーケストラ | Comments(1)
MOZART/46 Symphonies




Alessandro Arigoni/
Orchestra Filarmonica Italiana
MEMBRAN/203300-321



モーツァルトが作った「交響曲」というのは、いったい何曲あるのでしょうね。今時、最後の交響曲が「41番」だから「41曲」だなどという人は、いるはずがないでしょう。そもそも、この番号にしてもモーツァルト自身が付けた番号では決してないことはもはやよく知られた事実です。8歳の子供が「これは私の交響曲第1番だ」などと言っていたりしたら、かなりキモイものがありません?
最初にこの番号を付けたのが誰なのかは、私には分かりませんが、いずれにしても、そこにモーツァルトの意志が反映されていたことは全くあり得ません。研究が進むにしたがって、偽作であることが判明したり、新しい作品が発見されたりと、交響曲に限らずモーツァルトの作品目録自体が現在では大きな混乱のなかにあります。そもそも「交響曲」という概念すらも研究者によってさまざまな解釈がなされていますから、はっきり言って交響曲が何曲あるかなどということは誰にも分からない、と言うのが現状なのです(たとえば、クリストファー・ホグウッドの「交響曲全集」には全部で69曲の「交響曲」が収録されています)。
10枚組で1689円(税込み)という、とても信じられないような価格で出回っている、このアレッサンドロ・アリゴーニという人が指揮をした、トリノにある「フィラルモニカ・イタリアーナ」というオーケストラの全集には、46曲の交響曲が入っています。まあ、このあたりの数字が最近の標準的な解釈なのでしょう。ところが、ここでまた見慣れないものが。「交響曲第42番」とか、はては「交響曲第55番」などという「41番」が最後だと思っていた人を欺くような番号が見られるではありませんか。モーツァルトが最後の交響曲を作ってから亡くなるまでの3年間に10曲以上の交響曲を作っていたことが、最近になって明らかになったのでしょうか。もちろんそんなわけはなく、これは今まで番号を振られていなかった若い頃の作品に新たに番号を振ったもの、さっきの「55番」とは、一時偽作とされていた「K45b」のことだったのですね。実はこの番号、大分昔から密かに使われてはいたもののようで、現在でもまだ見かけることがあります。せっかくケッヘルが年代順になっているのに、こんな付け方をしてしまったのは大問題。どうしても付けたいのなら「7a番」とかにしてくれればよかったものを。
とにかく、そんな「裏番号」を知ることが出来たのが、このセットの一つの収穫でした。もちろん、それだけではありません。こんな値段ですから、ライナーノーツもなければ録音データも一切ありませんが、逆に全く先入観なしで聴くことができます。そこで聞こえてきたものは、近頃の主流である「ピリオド・アプローチ」には完全に背を向けた、いかにもおおらかなモーツァルトだったのです。人数は少なめでしょうが、弦楽器は思い切りビブラートをかけて歌いまくっています。なによりもすごいのが、まるでロッシーニのようなクレッシェンド。「39番」の序奏でティンパニのロールが華々しくフォルテシモまで迫ってきた時には、思わずスコアの間違いかと思ってしまったほどです。昔はこれが当たり前だったモーツァルトのちょっと懐かしい演奏様式、時代が巡ってそろそろ「揺り返し」が来ているのかもしれません。あまりにもおおらか過ぎて、アンサンブルに難があるのは、まあ演奏の勢いに免じて、許すことにしましょう。ただ、全てのリピート(繰り返し)を省いているのは、ちょっとさもしい気もしますが。メヌエット楽章までリピートがないと、まるで別の曲のように聞こえるから、不思議です。「41番」の第1楽章ではまるまる4小節抜けてますし(編集ミスでしょう)。ですから、いくら「40番」のテンポが異常に遅くても、曲を聴き終わるスピードは速くなるのです。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-24 19:31 | オーケストラ | Comments(0)