おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:オーケストラ( 471 )
Fantasista! MOZART





Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-1



昨年のゴールデンウィークのさなかに東京で開催された「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンLa Folle Journée au Japon(日本の熱狂の日)」という音楽祭は、3日間で30万人以上のお客さんが集まったという、まさに「クラシックにあるまじき」(Yさん)盛況でした。酸っぱいですが(ラッキョウの日?)。クラシックといえば、ごく一部のマニアしか聴いていない音楽と思われがちですが、料金を安くしたり親しみやすい仕掛けを施すなどして敷居を低くすれば、人は集まるものだということを、この音楽祭は見事に証明してくれました。昨年はベートーヴェンが中心となったプログラムでしたが、2回目となる今年のテーマ作曲家はモーツァルト、ただでさえ生誕250年で盛り上がっているのですから、今回も5月3日から6日までの開催期間中は、有楽町の東京国際フォーラムの周辺はお祭りのような「熱狂」のにぎわいを見せることでしょう。
そんな、「モーツァルト・イヤー」と、「熱狂の日」という2大イベントを見据えて、ここぞとばかりに多くのコンピレーションが発売されているのは、ご存じの通りです。しかし、それらのものはお決まりの「癒しのモーツァルト」といった路線、いかにもお手軽な企画のように見えてしまって、本当のモーツァルト・ファン、本当のクラシック・ファンは見向きもしないのではないかと思われてなりません。
そんな、殆どクズ同然のアイテムの中にあって、このBOXは一本芯の入った企画が光っていて、なかなか手応えがありそうな感触がありました。タワーレコードとNAXOSの共同企画による10枚組のCD(それで2500円!)、それは単にモーツァルトの作品を並べるというだけではなく、そのモーツァルトに影響を与えたり、あるいは影響を与えられたりしたという周辺の作曲家までも含めた、大きな視野に立ったものだったのです。これだったら、かなりうるさいクラシックファンにも受け入れられるのでは。
1枚目から5枚目まではモーツァルトの生涯に即して、幼少時代から晩年までをコンパクトに紹介するものになっています。器楽曲だけではなく、オペラや声楽曲をバランスよく配しているのも好ましいものです。もちろん、それぞれの曲は1曲もしくは1楽章まるまる収録されていて、フェードアウトなどはかかってはいませんよ。
6枚目から8枚目までは、モーツァルトを巡る「過去、現在、未来」の作曲家たちの作品です。彼の伝記には必ず登場するエピソードが、「初めて聴いた多声部の曲を、その場で楽譜に書いた」というものですが、その現物、アレグリの「ミゼレーレ」を収録するのは、「過去」には欠かせないことです。そして「現在」になると、あのサリエリの登場です。映画「アマデウス」で、あまりにも偏ったイメージが浸透してしまったこの才能溢れる作曲家の作品、いざ聴こうと思ってもなかなか探すのは大変ですが、それがこんなに手軽に楽しめるのもすごいことです。「未来」は、彼の曲を素材にした作品。その中でもリストが「レクイエム」をピアノ用に編曲したものがあったなんて、初めて知りましたよ。こうなると、もはやマニアの世界と言ってもいいでしょう。
9枚目と10枚目は、20世紀半ばの演奏家達による、有無を言わせぬ名演集です。NAXOSの誇るヒストリカル音源を駆使して、今の小振りになってしまった演奏家達からは決して得ることの出来ない、まさに「巨匠」の音楽が堪能できることでしょう。ランドフスカがモダンチェンバロで弾いた「トルコ行進曲」なんて、他の企画では絶対あり得ない選曲でしょうね。そう、ここには、構成と選曲を担当した山尾敦史さんのこだわりが隅々にまでに溢れていて、決して安直に流れることはないのです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-04-27 18:10 | オーケストラ | Comments(2)
BEETHOVEN/Sinfonia No 9


Roberto Minczuk/
Coro da Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
Coral Paulistano
Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 212



この前聴いた時にとてもハッピーな気分にさせてくれたサン・パウロ交響楽団の、今回は「第9」です。指揮者があの時とは別の人、ミンチュクと読むのでしょうか、なんでも「ジョビン・シンフォニコ」という彼のファースト・アルバムで2004年のグラミー賞のラテン部門を受賞したそうです。ボサノバの父、ジョビンの曲をシンフォニックに演奏したものなのでしょう。ガラス製の(それは「シビン」)。「ラテン」にかけては、筋金入りのセンスを持っているのだ、と見ました。
しかし、意外なことに、楽譜に関しては割と無頓着だと思われていたこのオーケストラが、今回はしっかり「ベーレンライター版」を使って演奏していましたよ。これは、この指揮者の意向なのでしょうか。ただ、よくある使い方なのですが、全ての部分できちんとこの楽譜に従うのではなく、あまりにも違和感がありそうなところは従来の楽譜で演奏するという、折衷的なことをやっています。具体的には、第4楽章のマーチのあとのオーケストラの部分が終わって合唱が入る前のホルンのリズムと、最後にカルテットが入る時の歌詞です。ですから、彼がこの楽譜を使ったのは、ひとえに第1楽章の真ん中よりちょっと後、この楽章の最大の盛り上がりを導くトランペットのリズムで、従来よりも音符の数が増えて派手になっているのが気に入ったからなのでは、などと考えたくもなってしまいます。実際、この部分は、他の演奏で何度も聴いていたはずなのに、つい油断してびっくりさせられたぐらい、そのビートには熱いものがこもっていました。それは、ここぞとばかりに吹き込んだトランペット奏者の「血」のなせる技だったのでしょうか。
ですから、指揮者が変わったからといって、オーケストラのノリはこの前のアルバムと何ら変わるところはありません。全てのフレーズが、生き生きとしたラテンの感覚で磨かれて輝いているさまを、ここでも大いに堪能することが出来ます。中でも特筆すべきはティンパニ。かなり柔らかめのマレットを使っているのでしょうか、全体を包み込むようなその巨大な音は、まさにラテンパーカッションのようなエネルギーあふれるものです。これがフィーチャーされた第2楽章は、この世のものとも思えないほどのにぎやかさを醸し出しています。
そして、声楽陣が参加した第4楽章では、また新たな魅力が加わっています。そもそも、低弦によるレシタティーヴォが、深刻さなど微塵も感じられない脳天気な歌い方で始まった時から、この楽章がお祭り騒ぎの様相を呈することは予想できていたのです。その同じ旋律を歌うバス歌手の、なんという色っぽさ、殆ど「もっと楽しい歌を歌おうぜ、イェーイ」といった趣です。続く合唱も元気いっぱい、一人一人の声も大きそうですし、それがまとまった時の迫力もすごいものです。特に、男声の力強さには圧倒されてしまいます。二重フーガでの高音Aで始まるテーマをこれほど迷いなく歌える合唱団など、なかなかありません。
実は、これはライブ録音、終わりに近づくにつれてオーケストラも合唱もギンギンに燃え上がり、白熱の演奏が繰り広げられます。お客さんも、さぞ盛り上がっていたことでしょう。しかし「ジャジャジャジャ、ジャン」と全曲が終わった瞬間、耳を疑うようなことが起こりました。Dのユニゾンの「オーケストラ・ヒット」のあと、なんと、そこには2秒ほどの静寂があったのです。そして、そのあとに起こった割れんばかりの拍手、その中には「ピーピー」という指笛まで混じっていましたよ。きちんと「静寂」を受け止めた上でのこの大騒ぎ、ラテンは深いです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-04-21 20:56 | オーケストラ | Comments(0)
TCHAIKOVSKY/Symphony No.6, Serenade for Strings




Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907394



「悲愴」と「弦楽セレナーデ」という、贅沢なカップリングです。ガッティならではの贅肉のないチャイコフスキー、存分に楽しむことにしましょう。最近はなかなか口に出来ませんが(それは「鯨肉」)。
「悲愴」の冒頭、不気味な低弦が左奥から聞こえてきた時、このオーケストラの配置を思い出しました。最近ロンドン交響楽団のライブに行った時も、やはり同じようなチェロとコントラバスがステージ下手に位置する「両翼」配置を体験したばかり、ロンドンではこの並び方が一般的になっているのでしょうか。ですから、この暗い序奏から、次の提示部の最初あたり、ヴァイオリンはお休みでもっぱらヴィオラが主導権を握っている部分では、ステージの奥だけで演奏が行われていることになります。そこから次第に前の方のヴァイオリンが加わり、段々音が客席に近づいて来るというのは、まさに映画のクローズアップの手法ではありませんか。チャイコフスキーの時代にはこういう配置しかなかったのでしょうから、もしかしたら彼はそこまで計算してオーケストレーションを考えたのでは、などと想像してしまうほど、スペクタクルな音場が、この配置のロイヤル・フィルから聴き取ることが出来ましたよ。
そうこうしているうちに、音楽の方は、甘く美しい第2主題が始まります。しかし、ここはガッティの持ち味であるさっぱりした歌い口が最大限に発揮されることになります。ベタベタと甘すぎることは決してない、楽譜の指示を忠実に守っていれば、その音からは自然にエモーションがわき出てくるはず、という姿勢が、非常に心地よく感じられます。その上で、演奏者個人の感情は大事にしようというスタンスは、この前の「4番」と同じことです。提示部の最後のp3つで始まるクラリネットのソロが、そんな場面、この楽章で唯一見られる「甘さ」でしょうか。それに続くp6つという有名な指示も、バスクラリネットの殆ど「気配」に等しい超弱音が、見事な緊張感を産んでいます。
ですから、それに続く展開部のサプライズも素晴らしい効果を上げるとともに、ここでのガッティのギアチェンジの鮮やかさにも舌を巻くことになるのです。それまでの少し気取った態度から一転して、尋常ではない早さでオーケストラを煽りまくる指揮者。こういうところに、私達は新鮮な感情の高ぶりをおぼえるのでしょう。そのあたりのさじ加減の絶妙さが、ガッティの最大の魅力です。
第2楽章の5拍子のワルツのあっさり感、第3楽章のマーチの冷静な高揚感も素敵です。フィナーレでは、やはり両翼配置が最大の効果を上げる場面が最初に訪れます。
弦楽セレナーデでも、甘ったるさを期待する人は肩すかしを食らうに違いない、引き締まった世界が展開されています。第1楽章序奏のコラールからして、その粘着性など微塵もないかなり早めのテンポからは、今まで聞いたことのないような、まるでオルガンのように和音の変わり目がはっきりした音楽を感じることが出来るはずです。第2楽章のワルツも、その素っ気なさから聞こえてくるのは、幾通りにも変化するテーマと、そのまわりの旋律が織りなす、まるで一編のドラマです。第3楽章のエレジーも、「臭さ」を排除することによって安っぽいムード・ミュージックとは無縁のしっかりとした構成を持つに至りました。そしてフィナーレ、1楽章のコラールに又戻ることが必然として感じられる、計算し尽くされた歩みが、そこにはあります。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-04-17 19:53 | オーケストラ | Comments(1)
BEETHOVEN/Abertura Coriolano, Sinfonias 1,4




John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 210



長いことCDと付き合ってきましたが、クラシックでブラジル製のCDなんて、初めて見ましたよ。ジャケットはポルトガル語表記、「ベートーヴェン」はもちろん分かるのですが、「Abertura Coriolano」とはいったい何なのでしょう。そもそも、オーケストラの名前からして分かりません。どこかの都市にあるオーケストラのようですが、「サオ・パウロ」なんてところ、ありましたっけ(「棹、入ろ」なんちゃって・・・あぶない、あぶない)?
慌ててブラジルの地図を出してみたら、それは「サン・パウロ」のことでした。そうか、「Ã」の上のヒゲがポイントだったのですね。そう言えば、ブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスの作品に、「サン・セバスティアンのミサMissa São Sebastião」というのがありましたね。その「サン」だったのですよ。
その、サン・パウロ交響楽団の演奏で「Abertura Coriolano」が始まった時、それは「コリオラン序曲」であることが分かりました。しかし、その演奏は、そんなベートーヴェンの曲名よりは、ポルトガル語で表記されてあったものの方がはるかにふさわしく思えるほど、「ブラジル風」のものだったのには、驚いてしまいました。なんといっても最初のアコードの決めからして、まるでラテン・オルケスタでもあるかのような明るく軽やかな響きが聞こえてきたのですからね。そのあとに続くちょっと憂いを秘めたテーマ、これは小気味よいリズムの刻みにのって、まるでけだるいボサノヴァのよう。そう、これはまさにブラジル人によるブラジル人のためのベートーヴェンだったのです。この序曲は、そんな彼らのスタンスをたちどころに聴く人に伝える格好の「ツカミ」となっています。ここで彼らのブラジル・ワールドへ引き込まれたが最後、もはやどっぷりサンバの国のベートーヴェンを堪能しなければいけないカラダになってしまいますよ。
交響曲の1番と4番という、ある種軽めの選曲も、そんな彼らのアプローチには相応しいものだったのでしょう。早めのテンポでグイグイ引っ張っていく1番のフィナーレなど、まるでリオのカーニバルのようなにぎやかさが醸し出されています。
4番の場合ですと、随所に現れるシンコペーションに、いかにもラテンの趣が感じられます。それは、ベートーヴェンが緊張感を高めようと用いたシンコペーションとはちょっと肌合いの異なる、もっと「ダンス」の要素が勝ったもの、思わず踊り出したくなるようなそのリズムは、ヨーロッパのオーケストラでは絶対に出せないものに違いありません。第2楽章のようなしっとりしたところでも、合いの手に入る楽器のなんと積極的でリズミカルなことでしょう。ほんと、「チャッチャ、チャッチャ」という刻みがこれほど生命力を持って聞こえてきたことなど、初めての体験です。
このところのベートーヴェン演奏のシーンは、やれオリジナル楽器だ、やれ原典版だ(ブライトコプフ新版というのが、そろそろ出始めていますね)と、より「オーセンティック」な方向を求めることが主流となっています。そこへ現れた、ひたすらマイペースのこのサン・パウロ交響楽団、演奏者一人一人が肩の力を抜いて楽しんでいる顔が目に浮かぶようです。こんな音楽が聴けるのなら、もう少し生きていても良いな、そんな「勇気」すらも与えてくれたCDでした。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-03-29 19:49 | オーケストラ | Comments(2)
OHKI/Symphony No.5 "HIROSHIMA"




湯浅卓雄/
新日本フィルハーモニー交響楽団
NAXOS/8.557839J



かつて、「大木正興(おおき まさおき)」という有名な音楽評論家がいました。テレビやラジオでクラシック番組の解説をしていた非常に特徴のある顔としゃべり方をした方ですが、いかにも親しみやすい語り口の裏に姿をのぞかせていた陳腐な知識のひけらかしには、鼻持ちならないものをおぼえた記憶があります。もちろん、その様な人の業績が今日まで伝えられることは決してなく、今では誰も知る人もいない過去の人になってしまっています。
今回の「大木正夫」は、発音こそ似ていますが全くの別人、常に確固たる主張を持って生きていた、本物の音楽家です。1901年生まれ、という事は、「椰子の実」の大中寅二(1896年生まれ)や「春の海」の宮城道雄(1894年生まれ)などといったまさに日本の作曲界の創生期を担った人たちに限りなく近い位置を占めていたということになります。
おそらく、知名度としては、生前はそれこそ大木正興と間違えられてしまうほどで、決して高いものではありませんでした。というのも、彼が活躍していた場が例えば「労音」といった、左翼的な基盤を持ったところが中心だったせいなのかも知れません。やはり現金払いでなければ(それは「ローン」)。彼の代表作であるカンタータ「人間をかえせ」にしても、演奏されていたのは「コンサート」ではなく、「集会」のような趣を持ったものだったのではなかったのでしょうか。ある種プロバガンダのような性格をその中に見つけ出してしまわれれば、まっとうな音楽作品としての評価を得ることは極めて難しくなるのは、この国でのいわば「掟」です。
その様な作曲家の姿勢の、まさに先鞭を付けたものと位置づけられているこの交響曲第5番「ヒロシマ」、しかし、そこにあったものは、単に原爆の惨状を訴えるという表面的なメッセージにとどまらない、まさに「音楽」としての確かな訴えかけを持った極めて完成度の高い作品としての姿だったのです。特に、その独特のオーケストレーションの妙味は、作られた時代を考えると驚異的ですらあります。バルトークやストラヴィンスキーといった当時の「最先端」の音楽からの技法を取り入れただけではなく、弦楽器のハーモニックスを、まるでクラスターのように重ねると言った、まさに時代を超えた技法までものにしているのですから。ただ、そこで重要になってくるのが、本当に伝えたいものは古典的な手法に頼るという基本姿勢です。彼が敬愛したというベートーヴェンにも通じるようなテーマの設定によって、そこからは、誰でも一義的なメッセージは読み取ることが出来る程の明快さが生まれます。それと同時に、それらを覆う前衛的な仕掛けによって、それは単なる社会的な訴えかけを超えた「音楽」あるいは「芸術」といった次元にまで昇華しているのです。
そんな巧妙な二面性は、もしかしたら、作られて50年以上経った今だからこそ、その中に見出すことが出来たのかも知れません。今回が初録音となった湯浅卓雄の、実にキレの良いスマートな演奏も、1950年代では決してなし得なかったものであったに違いありません。
もう1曲、戦前の「日本狂詩曲」という作品は、うってかわって、いわば「右寄り」の趣さえ持とうかという、ナショナリズム礼讃の脳天気な曲です。しかし、この当時の作曲家としては、外国に負けないだけの自国の資産を信じて疑わなかったことは事実です。その様な、どんな状況にあっても強固な信念に基づいて音楽を作った大木正夫、その真摯な態度に、心を打たれないわけがありません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-03-21 19:45 | オーケストラ | Comments(2)
TAVENER/The Protecting Veil



Raphael Wallfisch(Vc)
Justin Brown/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222881-203(hybrid SACD)



以前クリスマスアルバムをご紹介したロイヤル・フィルのバジェット・シリーズ(とは言っても、サラウンド・レイヤー付きのSACDという立派なもの)、まさに玉石混淆のラインナップなのですが、その中に「癒しの帝王」タヴナーの名前がタイトルになったものがあったので、とりあえず曲名も見ずに買ってみたら、これが輝くばかりの「玉」でした。
ジョン・タヴナーといえば、このサイトでもお馴染み、瞑想的な曲調の合唱曲がよく知られています。しかし、ここで演奏されているのは、独奏チェロと弦楽合奏のための「奇蹟のヴェール」というインスト曲です。1987年にスティーヴン・イッサーリスのために作られたもので、2年後にはロンドンの「プロムス」で初演されています。そして、1991年には、イッサーリスによる世界初録音が行われました(VIRGIN)。その後、このような現代曲には珍しく、多くのチェリストがこの曲を取り上げるようになり、1996年にヨー・ヨー・マがSONYに録音するに及んで、一躍「有名曲」となってしまったのです。ラファエル・ウォールフィッシュによるこのCDは1994年の録音、おそらく、イッサーリスに次いで録音されたものでしょう。
タイトルの「奇蹟のヴェール」というのは、コンスタンチノープルを聖母マリアがヴェールで覆って、サラセン軍の攻撃から守ったというギリシャ正教での故事に基づいています。切れ目なく続く8つの部分から成るこの曲は、まるでイコンを順番に眺めていくような構成が取られており、最初と最後がこの「奇蹟のヴェール」、そして、その間に聖母マリアの生涯を描いた6つのイコンが置かれています。そう、まるであのムソルグスキーの「展覧会の絵」のような体裁を持っているのですが、そこでの「プロムナード」に相当するのが、「鐘のテーマ」です。それまでの瞑想的な曲調が、この、殆どクラスターといってもいい弦楽器の高い音の密集した和音の激しい刻みで断ち切られ、聴き手はそこで新たな風景を求める、という仕掛けです。その他にも、以前聴いた「徹夜祷」でも触れた彼の律儀な仕掛けは、その「鐘のテーマ」に続くFEという短9度の下降跳躍音型にも込められています。このパターンが登場するたびに、下の音Eのあとの音が一つずつ増えていって、最後に出てきた時には8つの音が揃うことになります。その最後の音から、この曲全体の「メインテーマ」が再現されて、一瞬の沈黙の後に次のイコンに移る、ということが、場面転換のたびに繰り返されているのです。
8つの「イコン」は、とてもヴァラエティに富んだものです。「受胎告知」や「キリストの復活」のような明るくリズミカルなものから、まさに「癒し」の極地、無伴奏のチェロだけで奏でられる瞑想的な「キリストの架刑と聖母の嘆き」まで、その振幅の広い組み合わせは、飽きることがありません。このチェロ独奏のあとでは、「鐘のテーマ」さえ穏やかなものに変わっています。そして、なんといってもハイライトは最後から一つ前の「聖母の死」でしょう。独奏チェロによって繰り返される同じテーマは、最初はドローンに乗ってほのかにたゆとうていたものが、次のシーンではいきなり不協和音で彩られ、それが最後には輝かしいばかりのハーモニーに包まれていくさまは、まさに感動的です。これは、まるで重厚なギリシャ正教の聖歌を聴いているような体験、このようなインスト曲の中にも、タヴナーの合唱曲の魅力は秘められていたのですね。
それにしても、全く休みなく演奏し続ける独奏チェリストの集中力は、大変なものだと感服させられます。ここでのウォールフィッシュも、最初から最後まで緊張感を保った演奏を聴かせてくれています。何でも、ライブでは譜面をめくる余裕さえないため、ちゃんとそのための人が横に付くのだとか。でも、とても難しい譜面ですから、その人は3年間練習したといいます(譜めくり3年)。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-03-06 21:55 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony 9


Stanislaw Skrowaczewski/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Saarbrüken Radio Symphony Orchestra
OEHMS/OC 525
(輸入盤)
BMGジャパン/BVCO-37424
(国内盤)


現役最高齢を誇っていた指揮者のジャン・フルネが引退してしまったということで、今年の8月に83歳を迎えるヴォルフガング・サヴァリッシュがめでたくこの栄誉を担うことになりました。そして、そのほんの一月あとの2番手に付けているのが、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキということになります。最近、やっとの思いでN響との共演を果たしたサヴァリッシュにはいかにも衰えてしまった印象を与えられたものですが、スクロヴァチェフスキの場合、この最新アルバムを聴く限り、彼の中にはそんな年齢など感じさせない青年のような若々しさが、いまだに宿っていることに気づかずにはいられません。
早い話が、楽譜の選択です。スクロヴァチェフスキがここで使っているのは、あのベーレンライター版、この年齢になってしまえば、普通は守りに入ってしまい、早々新しい楽譜など使いたがらないものですが、彼の場合は違います。しかも、よくある折衷的な使い方ではなく、デル・マーの校訂に忠実に従って、ちょっと不自然なところもしっかり楽譜通りに演奏しているという徹底ぶり、これは、この指揮者が今までの長いキャリアの中で別の楽譜を使って演奏してきたことを思えば、素晴らしいことです。
ちなみに、この版についてはジャケットでもライナーでも何も触れられてはいません。ジンマンあたりから始まった、まるで一つのブランドのようにこれ見よがしに表記されていたという「ブーム」も、出版されて10年も経てば収まってしまったということなのでしょうか。特にコメントがなくても、この楽譜を使うことがごく普通のことになったということなのであれば、それはそれで歓迎できる状況です。ただ、実は、この楽譜の敵役として「いけない楽譜」とされてきたブライトコプフ版にしても、最近、ペータース版で名をあげたペーター・ハウシルトなどの手によって新版が完成しており、それを用いた録音も、そろそろ出てくることでしょう。そうなった時に、きちんと差別化を図る意味でも、版についてははんきり表示しておいて欲しいものです。
スクロヴァチェフスキの演奏、最初から最後まで、まるで鋼のような強い意志で支配されているそのドライヴ感には、圧倒されるものがあります。特に、第2楽章のアップテンポで押しまくる迫力には小気味よささえ感じることが出来ます。ただ、第3楽章では、それが逆に流れを損なう無骨な力となってしまい、この楽章の持つ柔らかい感じが失われてしまっているのが、ちょっと残念です。後半の、木管楽器がテーマを演奏して、その間に弦楽器の装飾的なフレーズが流れていくという場面でも、そのゴツゴツした弦楽器だけが目立ってしまって、木管の流れるようなテーマを消してしまっているように見受けられました。
声楽が入ってくるフィナーレでは、合唱の素晴らしさが光ります。最初のうちはそれほどの魅力は感じられないのですが、テノール・ソロで始まるマーチが終わり、長いオーケストラの間奏が、例の不思議なシンコペーションのホルン(これが、ベーレンライター版の特徴)で終わったあとに出てくる「Freude schöner~」の迫力には、度肝を抜かれてしまいます。その前の流れから、指揮者に煽られてしゃかりきになって演奏しているオーケストラの上を軽く飛び越えて、おそろしく存在感のある合唱がそこにはありました。時として、ベートーヴェンはなぜここに声楽を持ってきたのか分からなくなるようなただの「叫び」でしかないようなものが多い中、この合唱は、確かにここに存在する意味を主張していたのです。
その点、ソリストたちは相変わらずの苦労ばかり多くて訴えるものの少ないスコアに、辟易しているように見えます。アンネッテ・ダッシュのような人が、こういうことをやっていてはいけません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-02-22 22:00 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Oboe Concertos



Marcel Ponseele(Ob)
寺神戸亮(Vn)
Ensemble Il Gardellino
ACCENT/ACC 24165



先日話に出たコープマンのオーケストラにも参加していたバロック・オーボエの名手、マルセル・ポンセールのソロアルバムです。こういったオリジナル楽器のフィールドではしばしばお目に掛かることが出来るこのオーボエ奏者は、最初に耳にした時から、そのあまりの音程の良さに驚かされていたものでした。それまで私が聴いていたその時代のオーボエの音は、確かに素朴な音色ではあってもそれと同時に我慢がならないほどのいい加減な音程で演奏されていたもの、それは、半ばこの楽器の宿命と思っていただけに、彼の演奏にはまさに目から鱗が落ちる思いだったのです。最近のこういう団体での管楽器セクションでは、もはや以前のようなとんでもない音程の持ち主は殆ど見かけられないようになってきています。まさに「やれば出来るじゃん」という感じ。ここに来るまでには、彼のようなある意味「天才」の存在が必要だったに違いありません。フルートの分野でも、彼の同僚ハーツェルツェットあたりが、そんな役割を果たしていたのでしょう。もはやスティーヴン・プレストンの時代ではなくなっているのです。
実は、殆どアンサンブルの中でしか彼の演奏を聴いたことはありませんでしたから、ここでのソロには、さらに驚かされてしまいました。まず、オーボエの音色が、実にしっとりとした深い響きを伴ったものに対する驚きです。彼自身が制作したというその楽器からは、極論すればモダン・オーボエをしのぐほどの豊かな音楽性が伝わってきたのです。そして、もう一つの驚きは、緩徐楽章に於ける意外なほどの素っ気なさです。例えば、BWV1053aのシシリアーノでの、流れるようなリズムに乗った滑らかな歌いぶりはどうでしょう。この時代の音楽を専門に扱っている演奏家が好んで取っている「くさい」表現とは一線を画した、実に見晴らしの良い音楽を、この楽器に於けるトップランナーは見せてくれていたのです。妙にこねくり回さなくてもしっかり伝わってくるものはあることを、彼は身をもって教えてくれているのですね。同じような表現は、断片しか存在していなかった協奏曲を復元したBWV1059Rのアダージョ楽章でも見られます。ジョシュア・リフキンが、カンタータ156番のシンフォニアを転用したこの楽章、なんのことはない、ヴァイオリン協奏曲(フルートで演奏することもあります)として知られているBWV1056のクラヴィーア協奏曲のアダージョ楽章と同じものなのですが、この「有名な」曲からも、素直な表現の美しさを存分に味わうことが出来ます。
最後に、とっておきの驚きが。なんと、このバッハ・アルバムの中に、マーラーの音楽がカップリングされていたのです。「リュッケルトの詩による歌曲」として知られる曲集の中の、「私はこの世に見捨てられ」という、メゾソプラノの歌手によって歌われるオーケストラ伴奏の歌曲が、このバロックアンサンブルの編成で演奏されています(編曲はポンセール自身)。原曲で大活躍するコール・アングレを想定して、ここではオーボエ・ダ・カッチャ(もちろん、彼が作った楽器だっちゃ)をフューチャー、BWV1060aのドッペル・コンチェルトで見事な共演を披露していた寺神戸亮のヴァイオリンと絡みつつ、マーラーをバロック時代の楽器で演奏するという、ちょっとあぶない、しかし魅力的な試みが、私達を魅了しないわけがありません。肝心のメゾソプラノのソロが、殆ど目立たないチェロによって演奏されることにより、原曲とは全く様相を異にする世界が広がります。しかし、その先にある風景は、マーラーが見ていたものと何ら変わるところがない、というのが、驚き以外のなんであるというのでしょう。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-02-13 19:47 | オーケストラ | Comments(0)
BARTÓK/Concerto for Orchestra




Christoph Eschenbach/
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1072-5(hybrid SACD)



かつて、オーマンディの時代には、COLUMBIARCAという当時の2大レーベル(現在では、SONY-BMGというものに統合されてしまいましたが)にまたがっておびただしい数の録音を行い、オールマイティな力を見せつけてきたフィラデルフィア管弦楽団ですが、そのあとのムーティ、そしてサヴァリッシュの時代になると、膨大な経費を要する大オーケストラの録音というものがレコード会社からは敬遠されるようになり、ついにはその頃の所属レーベルであったEMIから、「解雇」されてしまうという事態に陥ってしまうのです。ですから、2003年に音楽監督に就任したエッシェンバッハは、今までこのオーケストラと演奏したCDをリリースしていなかったという、ちょっと信じがたいような状況の中にあったのです。
そして、待望のニューリリースは、なんと、フィンランドのマイナーレーベルであるONDINEからなされたというのも、昔日の栄光を知るものにはちょっと意外な事であるかも知れません。しかし、まずは自主制作盤ではないものが世に出て、これからも継続してのリリースが予定されている事を素直に喜びたいものです。
昨今の事情を考えれば当然ですが、この録音もセッションによるものではなく、通常のコンサートをライブ収録したものです。そしてそれは、2005年の5月に行われた、第二次世界大戦終了から60年が経った事を記念するコンサートでした。このコンサートは、その戦争の際にファシズムによってもたらされた悲劇に真っ向から目を向けていこうという強い意志が込められたものになっています。ここで取り上げられた3人の作曲家は、いずれも望まない形で祖国を離れなければなりませんでしたし、そのうちの一人、ギデオン・クラインは、アウシュヴィッツで25歳の若さで命を絶たれているのです。
マルティヌーが1943年に作った「リディツェ追悼」は、1942年の6月にプラハ西部のリディツェという小さな町で起こったナチによる虐殺を追悼するものです。不気味な雰囲気を醸し出す冒頭の部分とは裏腹に、曲の大半は極めて澄みきった「美しい」シーンで占められています。それだからこそ、邪悪なモティーフが際立って聴くものの注意を惹くのでしょう。本当の哀しみは、やりきれないほどの美しさの中にこそ、潜んでいるのかも知れません。
1941年にテレジンの収容所に送られたクラインが1944年に作った弦楽三重奏のための曲を、1990年にチェコの作曲家サウデクが弦楽合奏用に編曲したものが、「弦楽のためのパルティータ」です。ディヴェルティメント風の軽快な楽章に挟まれた真ん中の楽章が、モラヴィアの民謡をテーマとしたゆったりとした変奏曲、それがどんな思いを反映したものかは、明らかでしょう。
そして、バルトークが1943年に完成させた有名な「オケコン」も、その第3楽章の「エレジー」に同じ思いを読み取るのは容易な事です。ここで聞こえてくるピッコロのソロは、日本人メンバーである時任和夫さんによるもの、深い響きの中に、確かな「意志」を感じる事は出来ませんか?この流れからは、次の楽章の中で唐突に出現するヴィオラの甘いメロディーにも、別な意味を感じ取れるのではないでしょうか。
図らずも、1940年代のほんのわずかの期間に作られたこの3曲を並べて演奏したエッシェンバッハの思いは、間違いなく私達に伝わってきました。このような確かな意味のあるものをリリースするという姿勢、もしかしたら大量の音源制作が難しくなってしまった時代だからこそ、可能になったのかも知れません。そんな、確かな価値を感じる事が出来るアルバムです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-02-01 19:52 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Violin Concerto, Double Concertos

Midori Seiler(Vn)
Xenia Löffler(Ob)
Raphael Alpermann(Cem)
Stephan Mai/
Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 901876



バッハの作品は非常に厳格で重々しいものである、という言い方は、かつては良く耳にしたものです。何と言っても「音楽の父」ですから、そこには権威あるクラシック音楽のまさに源を担っている、神聖で犯しがたいものが存在する、といった評価ばっはりが強調されていた時代が、確かに存在していたのですね。しかし、おそらくバッハ本人にしても迷惑だったに違いないその様なイメージは、このところはかなり陰を潜めるようになってきたのは嬉しいことです。何しろ、彼ときたら、2人の奥さんとの間に20人もの子供をもうけたというほどの「情熱家」なのですから、そんな堅苦しい人物であったわけがありません。
そんな、格式張らないバッハの姿を味わいたいのなら、このアルバムなどはまさにうってつけではないでしょうか。ここからは、ベルリン古楽アカデミーのメンバーが、バッハの音楽を心から楽しんで演奏している様子が活き活きと伝わってきます。
そもそも、ここで選ばれている曲自体が、ある種の「軽さ」を持っているものでした。この4曲の協奏曲たちは、現在では「チェンバロ協奏曲」とカテゴライズされていますが、本来は弦楽器や管楽器のための協奏曲だったものを作り直したという出自を持っているのです。このような「再利用」は、カンタータなど、彼の他の作品でも見られる常套手段、それだけで、「厳格」とは正反対のちょっとさもしいイメージがわき起こってはきませんか?
1曲目のBWV1052は、元のヴァイオリン協奏曲の形にもどしたものです。ここでソロを取っているミドリ・ザイラーが、エマニュエル・バッハによって編曲されたチェンバロ協奏曲などを参考にして、ソロパートを修復したということです。彼女のイマジネーションあふれる演奏は聴きもの、特にカデンツァの見事さには圧倒されてしまいます。
2曲目はBWV1062、有名なニ短調の2つのヴァイオリンのための協奏曲(BWV1043)を、ハ短調に直したものです。この曲の場合、独奏楽器がヴァイオリンからチェンバロに変わったことにより、原曲が持っていたある種の粘着質の部分がさっぱりと消え去ったことに気づかされるに違いありません。特に第2楽章など、2台のチェンバロの対話は思い切り即興性を発揮したバトルのように聞こえてしまいます。
3曲目のBWV1057は、なんとブランデンブルク協奏曲第4番(BWV1049)の作り替え、ヴァイオリンと2本のリコーダーという元の編成から、リコーダーはそのまま残してヴァイオリンをチェンバロに変えた、というものです。ここでは、各楽器の役割分担が少し変わっている、というのも興味深いところです。
最後のBWV1060は、すでに、ヴァイオリンとオーボエという、修復された元の形の方がよく知られるようになっているのではないでしょうか。ここでも、ザイラーのかなりアグレッシブなヴァイオリンに、ちょっとおっとりしたレフラーのオーボエがからんで、なかなか良い味を出しています。
厳寒の続く季節ですが、このアルバムに誘われて春が近づいてきたよう。温かい、爽やかな演奏ですよ。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-01-20 20:09 | オーケストラ | Comments(0)