おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 457 )
MOZART/46 Symphonies




Alessandro Arigoni/
Orchestra Filarmonica Italiana
MEMBRAN/203300-321



モーツァルトが作った「交響曲」というのは、いったい何曲あるのでしょうね。今時、最後の交響曲が「41番」だから「41曲」だなどという人は、いるはずがないでしょう。そもそも、この番号にしてもモーツァルト自身が付けた番号では決してないことはもはやよく知られた事実です。8歳の子供が「これは私の交響曲第1番だ」などと言っていたりしたら、かなりキモイものがありません?
最初にこの番号を付けたのが誰なのかは、私には分かりませんが、いずれにしても、そこにモーツァルトの意志が反映されていたことは全くあり得ません。研究が進むにしたがって、偽作であることが判明したり、新しい作品が発見されたりと、交響曲に限らずモーツァルトの作品目録自体が現在では大きな混乱のなかにあります。そもそも「交響曲」という概念すらも研究者によってさまざまな解釈がなされていますから、はっきり言って交響曲が何曲あるかなどということは誰にも分からない、と言うのが現状なのです(たとえば、クリストファー・ホグウッドの「交響曲全集」には全部で69曲の「交響曲」が収録されています)。
10枚組で1689円(税込み)という、とても信じられないような価格で出回っている、このアレッサンドロ・アリゴーニという人が指揮をした、トリノにある「フィラルモニカ・イタリアーナ」というオーケストラの全集には、46曲の交響曲が入っています。まあ、このあたりの数字が最近の標準的な解釈なのでしょう。ところが、ここでまた見慣れないものが。「交響曲第42番」とか、はては「交響曲第55番」などという「41番」が最後だと思っていた人を欺くような番号が見られるではありませんか。モーツァルトが最後の交響曲を作ってから亡くなるまでの3年間に10曲以上の交響曲を作っていたことが、最近になって明らかになったのでしょうか。もちろんそんなわけはなく、これは今まで番号を振られていなかった若い頃の作品に新たに番号を振ったもの、さっきの「55番」とは、一時偽作とされていた「K45b」のことだったのですね。実はこの番号、大分昔から密かに使われてはいたもののようで、現在でもまだ見かけることがあります。せっかくケッヘルが年代順になっているのに、こんな付け方をしてしまったのは大問題。どうしても付けたいのなら「7a番」とかにしてくれればよかったものを。
とにかく、そんな「裏番号」を知ることが出来たのが、このセットの一つの収穫でした。もちろん、それだけではありません。こんな値段ですから、ライナーノーツもなければ録音データも一切ありませんが、逆に全く先入観なしで聴くことができます。そこで聞こえてきたものは、近頃の主流である「ピリオド・アプローチ」には完全に背を向けた、いかにもおおらかなモーツァルトだったのです。人数は少なめでしょうが、弦楽器は思い切りビブラートをかけて歌いまくっています。なによりもすごいのが、まるでロッシーニのようなクレッシェンド。「39番」の序奏でティンパニのロールが華々しくフォルテシモまで迫ってきた時には、思わずスコアの間違いかと思ってしまったほどです。昔はこれが当たり前だったモーツァルトのちょっと懐かしい演奏様式、時代が巡ってそろそろ「揺り返し」が来ているのかもしれません。あまりにもおおらか過ぎて、アンサンブルに難があるのは、まあ演奏の勢いに免じて、許すことにしましょう。ただ、全てのリピート(繰り返し)を省いているのは、ちょっとさもしい気もしますが。メヌエット楽章までリピートがないと、まるで別の曲のように聞こえるから、不思議です。「41番」の第1楽章ではまるまる4小節抜けてますし(編集ミスでしょう)。ですから、いくら「40番」のテンポが異常に遅くても、曲を聴き終わるスピードは速くなるのです。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-24 19:31 | オーケストラ | Comments(0)
SHCHEDRIN/Piano Concerto No.5 STRAVINSKY/Firebird Suite


Denis Matsuev(Pf)
Mariss Jansons/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
SONY/82876703262001
(輸入盤)
ソニーレコード
/SICC-279(国内盤 11月2日発売予定)


SONYの品番の付け方が変わりましたね。まるでパソコンソフトのシリアルナンバーのようなこの脈絡のなさは、このレーベルが「SONY/BMG」という巨大なコングロマリットの一部になってしまったことと関係があるのでしょうか。
昨年12月、「ガスタイク」でのライブ録音、ストラヴィンスキーの「火の鳥」1919年版組曲と、シチェドリンのピアノ協奏曲第5番が収録されています。いずれも、オーケストラのとても美しい響きが存分に楽しめる仕上がり、安心して身を任せられる心地よさがあります。
「火の鳥」は、ヤンソンスにとっては初めての録音になるのでしょう。ここでもいつもながらの彼のクレバーさが光っており、新鮮な味わいをもたらしてくれました。「イントロダクション」冒頭のコントラバスのピチカートからして、妙な曖昧さのない小気味よいもの、続く管楽器のシンコペーションのやりとりも、明晰そのものです。全体的に遅めのテンポをキープして、たっぷりした「歌」を随所で聴かせてくれているのも嬉しいところ、「王女たちのロンド」でのオーボエ・ソロや、「子守歌」でのファゴット・ソロの味わい深さは聞きものです。
1932年生まれのロシアの作曲家、ロディオン・シチェドリンについては、ビゼーの「カルメン組曲」を打楽器と弦楽合奏という形に編曲したユニークな作品によって、ある程度知られているのではないでしょうか。交響曲から映画音楽まで、さまざまなジャンルで120曲以上の作品を世に送っており、現在でも精力的に作曲を行っている人です。ピアノ協奏曲は、2003年に「第6番」を作っていますが、ここで演奏されているのは「第5番」、1999年に作られ、ムストネンのピアノとサロネン指揮のロスアンジェルス・フィルによって初演されました。今まで録音が出た形跡はないので、おそらくこのCDが世界初録音となるのではないでしょうか。
さまざまな作曲技法上の変遷をたどってきたシチェドリンですが、このピアノ協奏曲第5番はかなり古典に回帰したオーソドックスなものです。楽章構成も、急-緩-急という昔からある協奏曲の形、すんなり心に入ってくる親しみやすさがあります。ただ、協奏曲とは言っても、この曲の場合ピアノ独奏の扱いはこれ見よがしの技巧をひけらかして華々しく目立たせる、といったものではなく、あくまでオーケストラと一体となって音楽を紡いでいく、といった趣が強くなっています。
全体を通して強調されているのが、継続されるビート、第1楽章ではまるで心臓の鼓動のような一定のリズムに支配されたシンプルな楽想に、まず惹き付けられるはずです。それを縫うようにして弦楽器によって奏でられるたっぷりとしたハーモニーも、魅力的です。ほんと、バイエルン放送交響楽団の弦楽器の、何と深みのあることでしょう。これなどは、先日ご紹介した日本の若いオーケストラでは絶対に出すことの出来ない味です。第2楽章では、冒頭にちょっとモーダルなピアノのカデンツが入り、弦楽器やオーボエ、トランペットなどが、息の長いフレーズをたっぷり歌い込みます。第3楽章は殆ど「常動曲」といった趣、ここでは、マツーエフのリズム感の良さが光ります。ひたすら16ビートが続く中で、時折三連符なども交えて、圧倒的なドライブ感を見せてくれています。
今の時代にほどよくマッチしたシチェドリンの音楽、もっと頻繁に演奏されても良いのではないでしょうか。モスバーガーのメニューにもなったことですし(それは「タンドリー」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-04 19:18 | オーケストラ | Comments(1)
BRAHMS/Symphony No.1




千秋真一/
R☆Sオーケストラ
キングレコード
/KICC-555


千秋真一という、全く無名の指揮者のデビューアルバムが、殆ど「ブーム」と呼んでも差し支えないほどの注目を集めています。まるで、3匹の子豚(それは「ブーフーウー」)。それを受けたこのアーティストに対する扱いがいかに破格であるかは、今月号の「レコード芸術」でのこのレコード会社の広告の一番最初にあったものが、1ページをまるまる使った、このアルバムの宣伝コピーだったという事からも分かります。さらに、このアルバムは通常のCD店のみならず、何と書籍を扱う本屋さんの店頭でも販売しているのですから、この指揮者のファンというのは、クラシック音楽の愛好家といった範疇では全くとらえることのできない、大きな広がりを見せていることを窺い知ることが出来ます。
千秋真一は、1981年生まれといいますからまだ24歳、指揮者としてはまだまだ「半人前」という年齢ですが、フランスで行われたあの権威ある「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝したあとにはトントン拍子にキャリアを重ね、今ではパリの「ルー・マルレ」という1875年に創設された歴史ある「非常勤」オーケストラ(音楽監督は最近東京都響常任指揮者に就任したジェイムズ・デプリースト)の常任指揮者を務めるまでになっているのですから、その実力は恐るべきものがあります。その彼が、指揮者としての確固たる資質を世に知らしめたのが、殆ど伝説的な報道をされたR☆S(「ライジングスター」と読みます)オーケストラとのデビューコンサートでした。彼は学生時代から学内のオーケストラを指揮して、そのカリスマ的な魅力は知られていたといいますが、そんな彼の下で演奏したいという才能溢れる若者、千秋の大学時代の友人のみならず、千秋の評判を聞きつけて参加した海外のコンクールでの優勝者などで結成されたのが、このオーケストラです。彼らは千秋とは絶対的な信頼関係で結ばれており、そのコンサートは各方面で絶賛されることとなったのです。
今回のアルバムには、そのコンサートのメインプログラム、ブラームスの交響曲第1番が収録されています。ただ、これは、そのデビューコンサートのライブ録音ではなく、新たにセッションを組んで録音されたものです。最近のオーケストラの録音状況を見てみると、日常的に行われているのは、経費を少しでも節減するためにコンサートをそのまま録音して製品にするという安直な道、今回のように、CDのためにわざわざホールを借り切って録音するという事自体が、経費には目をつぶっても、より完成度の高いものを届けたいという制作者の良心の表れ、そして、それを引き出したのが、他ならない千秋の並はずれた才能なのでしょう。もちろん、その才能の中には、この情報社会で通用するだけの外的な魅力(「ルックス」とも言う)も含まれているのは、言うまでもありません。ご覧下さい、このジャケットのポートレート、「繊細でいて粗野」という、それだけで惹き付けられるものがありません?(しかし、なぜ写真ではなくマンガ的なドローイングなのでしょう)
その演奏は、まさに若さに満ちた爽快なものでした。それは、一つのことを信じてそれに向かって邁進する、という、「大人」が忘れかけているものを思い出させてくれる魅力を存分に味わうことが出来るものです。弦楽器の人数がちょっと少なめのため、ブラームスには欠くことの出来ない深みのある響きが全く出ていないとしても、それを補って余りある「力」を、私達はここからは感じるべきでしょう。
カップリングが、ちょっとしたお遊びなのでしょうが、千秋がコンクールで課された「間違い探し」を実際に音にしたものです。これを聴けば、彼がいかに優れた耳を持っているかが分かります。凡人である私には、109小節目からのティンパニしか見つけることが出来なかったのですから。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-28 20:06 | オーケストラ | Comments(1)
MAHLER/Symphony No.1




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.137



ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団による「ピリオド・アプローチ」シリーズ、ついにマーラーの登場です。ガーデニングには欠かせません(それは「腐葉土」)。このような話題満載の輸入盤、ぜひ多くの人に買って頂きたい、という輸入元の心意気は、音を聴く前から伝わってきます。まず、外側に巻いてある「タスキ」。日本語によって演奏者や曲目が記載され、演奏に関する短いインフォメーションが付くという、例えばNAXOSあたりでは全てのものに付いている「オマケ」が、こういうことをあまりやらないこの業者(キングインターナショナル)のものに付いています。それだけではありません。今回は何とブックレットにまで日本語の解説が印刷されているのです。普通、こういう輸入盤のブックレットの場合、英語、ドイツ語、フランス語あたりが並んで掲載されているものは珍しくありませんが、そこに日本語が最初から印刷されている、というのは、私が知る限り非常に珍しい例です。先ほどのタスキには「Printed in Japan」と書いてあるので、おそらくこのブックレットだけは日本で印刷されて、日本の市場にしか出回らないものなのが、ちょっと残念ですが。最初からヨーロッパやアメリカのメーカーが日本語も印刷、さらにDVDではオペラの対訳に常に日本語が付く、という時代は果たして来るのでしょうか。
いずれにしても、そこまでして読んでもらいたいという、このノリントン自身によるライナーノーツは、確かに興味深いものがあります。今回特にマーラーの1番に「花の章」を加えて演奏していることへの彼のこだわりは、吉田さんという方のとても分かりやすい訳文によって的確に伝わってきます。しかし、現実にはこの「花の章」は、マーラー自身があえて初稿から取り除いたもの、ここでノリントンが行っている最終稿の中にこの楽章だけを挿入するという方法は、彼がライナーで述べている「この響きはマーラーが自ら指揮した時に耳にしたもの」という主張に対して少しばかりの矛盾を含むものであることは、否定できません。
もっとも、そのあたりのシビアな詮索は、この曲をあくまで「標題音楽」として捉えるというノリントンのアプローチを知ってしまえば、それほど重要なことではなくなることでしょう。事実、この演奏を聴くことによって、まさに目の前に具体的な情景が浮かんで来るという、ちょっと今までこの曲からは味わうことの出来なかった体験が得られるという面で、ノリントンの際だった「直感」のようなものは改めて評価出来るのではないでしょうか。その結果、1楽章あたりではまるで緊張感の伴わない、ほのぼのとした情感が喚起される場面があったとしても、それを指揮者が感じた作曲家からのメッセージとして受け入れるだけの度量の広さが、求められてくるのです。
それよりも、彼が「ピュア」だと信じて疑わないノンビブラートの弦楽器による冒頭のフラジオレットから、なぜこのような「濁った」響きが出てしまうのか、といったような点については、真剣に議論する必要はあるのではないでしょうか。もっと言えば、例えば最終楽章の練習番号42番から入ってくるビブラートをたっぷりかけたオーボエ・ソロの中には確かに存在する「歌」が、その前の41番から奏でられる弦楽器の中には、なぜその片鱗すらも見出すことができないのか、きちんと検証した上で、この時代の音楽に対する「ピリオド・アプローチ」の功罪を判断する姿勢が、私達に求められてはいないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-19 19:40 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.3(1873 version)




Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



前にご紹介したヴァーグナーの前奏曲集と同じジャケット、同じ品番、元々は別のアルバムだったものを一緒にしただけですから、一つのアイテムから2度レビューが書けるという、おいしさです。
ヴァーグナーの方は、昨年国内盤で再発されたのでそれほど珍しいものではなかったのですが、このブルックナーは初出のEMI盤はすでに廃盤、長らくリイシューが待たれていたものです。花粉症には必需品(それは「ティシュー」)。何よりも、このアルバムにはレアな魅力が2つもあります。まず、オリジナル楽器で演奏しているという事、そして「第1稿」である1873年版を使用しているという事です。
ノリントン自身、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズというオリジナル楽器のオーケストラとの一連の録音の最後の到達点として、このブルックナーを捉えていたのではないでしょうか。現在までに世に出た全ての交響曲の録音を網羅したディスコグラフィーを見てみても、オリジナル楽器で演奏されたものは、ヘレヴェッヘによる「7番」と、このアルバムしかないのですから、いかに貴重なものかが分かるはずです。この録音が行われた1995年には、オリジナル楽器はすでに単なるこけおどしではなく、新しい表現の地平をひらくものとして認知されるようになっていました。モーツァルトから始まったそのムーブメントは、ベートーヴェンという既存の権威の塊すらも根本から揺るがすほどの力を持っていたのでした。その「力」は、19世紀後半の音楽にも通用するはずだ、と考えたのがノリントン、しかしその結果は・・・。
確かに、ガット弦による弦楽器の暖かい響きや、ビブラートを廃したことによって生まれた木管の純正のハーモニーなどは、今までのブルックナー演奏では見られなかった美点ではありますが、やはり重量感が決定的に不足していた事は、このテーゼを受容する上での大きな障害となったのでしょう。いかに本来使われていた楽器だといっても、その重量感が出せない事には、現代のブルックナー市場で通用するには大きな困難が伴ったのです。彼の後継者は、その「響き」をとことん前面に押し出した2004年のヘレヴェッヘ1人だったという事実が、その事を端的に物語っています。そして、ノリントン自身もモダンオーケストラによるオリジナル楽器的表現へのアプローチという新たな道を歩み出す事となるのです。
もう1点、「第1稿」については、前者とは違った積極的な意味を見出す事が出来るでしょう。1970年代にレオポルド・ノヴァークによって完璧に整備されたブルックナーの異稿の世界、しかし、録音に関してはいまだに初稿が陰の存在である事に変わりはありません。このアルバムが出た時点で「第1稿」による録音は、普通に流通しているものに限れば1982年のインバル盤しかなかったのですから。例えば、通常演奏される「第3稿」との違いがもっとも際だっている第4楽章でのちょっと荒削りなパッセージの扱いなどは、「ブルックナーはこんな面白い事をやっているんだよ」と得意げになっているノリントンの姿が目に映るような生き生きとしたものです。第3楽章のスケルツォのトランペットの合いの手は、この稿だけで聴ける細かいリズムのパターンなのですが、それもことさらに現行版とは違う事を強調するわかりやすさがたまりません。最近ではナガノやノットによる演奏も出揃い、このノリントン盤もやっと「第1稿」の中での位置づけをきちんと語る事が出来るほどの時代とはなったのです。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-05 20:46 | オーケストラ | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphonies No.3 & No.4




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.133



ノリントンのメンデルスゾーンの交響曲選集のうちの3、4番、実は先日ご紹介した1、5番と同じ時期に発売になったのですが、何でも不良品が混ざっていることが発覚したために店頭に出て3時間後に全品回収、再プレスを行って、やっと良品が出回るようになったということです。急行でやったのでしょうか(それは「エクスプレス」)。このジャケット、指揮者の顔の半分だけがデザインされたものですが、それぞれ同じネガ(ではなく、最近ではデータでしょうか)の右と左を使ったもので、2枚並べるとちゃんとした顔が現れるようになっています。実際、そんな風にディスプレイしているところもあったというのに、とんだケチが付いてしまったものです。
今回、もっとも楽しみにしていたのは「4番(イタリア)」でした。この曲の持つ明るさと軽さが、まさにノリントンの芸風とピッタリ、さぞや軽快な「イタリア」が聴けるのではないかと思ったのです。しかし、第1楽章のテンポ設定はちょっと意外でした。全く当たり前のテンポ、これよりももっと軽やかに演奏している人はいくらでもいるのに、という当惑感を抱いてしまいました。ところが、この楽章の最後になって、ノリントンはとびっきりのサプライズを提供してくれました。475小節目の「Più animato poco a poco(少しずつ、より生き生きと)」という指示のある部分で、いきなりテンポを上げ、そのままエンディングになだれ込むということをやっているのです。今までのテンポは、ここを強調するための伏線だったのですね。厳密に言えば、「poco a poco」ですからこの解釈は楽譜に忠実な演奏とは言えませんが、ここで生まれるインパクトには、ちょっと凄いものがあります。これがあるうちは、ノリントンから目を離すことは出来ないでしょう。
しかし、そうは言っても、やはり彼の最近のアプローチには少し納得できないようなところもあるのは事実。前にも書いたように、ここでノリントンは弦楽器の人数を楽章によって増減させています。具体的には、3番では第3楽章、4番では第2楽章という、「ゆっくりした」楽章で、半分近くに減らす、ということをやっているのです。もちろん、これはノリントンの信念に基づき、「当時の習慣」を反映させたものなのでしょうが、前のアルバムと一緒に聴いてくると、どうもこれがあまりうまく機能していないように思えてなりません。今回は4番ではそこそこ室内楽的な透明な響きが出てはいるのですが、3番のような息の長いフレーズが続く場合が問題。演奏時間は1989年にオリジナル楽器のロンドン・クラシカル・プレイヤーズと録音した時より1分以上遅くなっていますので、モダン楽器を信じてたっぷり歌わせているのでしょうが、やはりこの人数の弦楽器がノンビブラートで演奏しているのでは、「しょぼさ」を隠すことは出来ません。説を曲げて、せめて人数を他の楽章と同じだけ確保しておけば、こんな情けないサウンドにはならないのに、と思ってしまうのですが、どうでしょう。
管のアンサンブルが非常に高いレベルにあるのはいつものこと、常にパートとして一体化したサウンドと表現が聴けるのは、このコンビが築き上げた最大の成果でしょう。しかし、前にも書いたように、時としてトゥッティの部分でもソリスティックな響きが顔を出し、必ずしも「ピュア」ではなくなっているのが、ちょっと気になるところです。今回は、なぜか金管のノリが悪い部分も多くみられますし。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-26 19:49 | オーケストラ | Comments(0)
WAGNER/Preludes



Jane Eaglen(Sop)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



ノリントンの10年ほど前の録音が2点、2枚合わせてロープライス1枚分(1390円)というお得な値段で再発になりました。オリジナル楽器によるヴァーグナーとブルックナーという、発表当時は「ついにここまで!」と話題になった注目アイテムです。
ヴァーグナーが録音されたのが1994年(ブルックナーは1995年)、1978年にノリントンによって作られたロンドン・クラシカル・プレイヤーズの、これは最後期の録音になるのでしょうか。この後、ノリントンが1998年にモダン・オーケストラであるシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者に就任したのに伴い、このオーケストラも解散、同じオリジナル楽器のオーケストラ、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収されてしまいます。
それまでにブラームスの交響曲までもオリジナル楽器で演奏、録音を終えていたノリントンにしてみれば、その方法論がヴァーグナーにまでたどり着くのは、ごく自然の流れだったことでしょう。そのあたりの意気込み、10年前にリアルタイムで聴くことがなかったこのアルバムから、遅ればせながら感じてみたいものです。
1曲目は「リエンツィ」序曲。これは、冒頭のトランペットのソロで、すでに「オリジナル」の世界へ入り込むことが出来ます。それはモダンオケからは決して聴くことの出来ない渋い音色です。それに続く木管が、やはりオリジナル特有の音程の悪さ、これはいかんともしがたいことなのでしょうか。しかし、ノリントンの持つ楽天的なグルーヴはこのような曲では存分に発揮され、最後の打楽器がたくさん加わるあたりではまさにノリノリントンの楽しさが伝わってきます。
ただ、このグルーヴは、次の「トリスタン」ではやや異質なものに感じられてしまいます。「前奏曲」のあまりの淡泊さ、奏法に起因するのでしょうか、「溜め」のない性急なフレーズの運びは、粘着質のヴァーグナーを至上のものと感じている向きからは、反発を食らうことでしょう。それは、「愛の死」では、イーグレンの圧倒的な歌に隠れて、それほど表に出ることはないのですが。
「マイスタージンガー」も、その「軽さ」といったら、殆ど爆笑ものです。しかし、ここで笑いが生まれるのは、いかに今まで「重苦しい」ヴァーグナーが世を席巻していたか、という証でもあるわけで、これはこれで、この「喜劇」の一面を表している解釈ではあるでしょうね。そこへ行くと、「ジークフリート牧歌」も、「パルジファル」前奏曲も、その「軽さ」は違和感を覚えるほどのものではありません。逆に「パルジファル」で、最後に冒頭のテーマが戻ってくる箇所の低弦のトレモロなどは、不気味さから言ったらちょっと捨てがたい味、その前後の緊張感も思わず引き込まれるものがあります。
10年後、この前奏曲をシュトゥットガルトで録音した時には、例えば木管の音程などの機能的な面は飛躍的に改善されていた反面、この緊張感はすっぽりとどこかへ行ってしまっていました。その結果「軽さ」がさらに募っているのは(演奏時間が1分以上短くなっています)、このアルバムでの他の曲の方向性を見ればある程度予想されたことなのでしょう。彼がヴァーグナーから最終的にどんな音楽を引き出したかったのか、快調に疾走する「ローエングリン」の第3幕の前奏曲は、その端的な回答なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-19 19:36 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies 7 8 9







Michael Gielen/
Rundfunkchor Berlin
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
EUROARTS/2050667(DVD)



最近はネットラジオがおおはやり、何しろバイロイト音楽祭などの生放送が、日本にいてもリアルタイムでイロイロト聴けてしまうのですからすごいものです。パソコン(と、ネット環境)さえ持っていればたとえ「リング」全曲を聴いたとしても、そのための費用は一切かからないというのがありがたいですね。ただ、こういう放送用の音源が後になってそのままCDになったときに、普通のCDと全く変わらない価格で販売される、というのには、「なんか変」とは感じられないでしょうか。確かに、昔はレコード会社が放送局と共同制作をして、それなりに手を加えた後に製品になったものですから納得は出来るのですが、最近出ているものは放送時に使った音源と全く同じもの。ラジオを通せばタダで聴けたものに、お金を払うというのは、ちょっと間違っているのではないか、とは思いません?確かに音のクオリティの違いはあるでしょう。しかし、同じようなケースでオペラの場合でしたら、音声はCD以上、映像もDVD、あるいはそれ以上の解像度の「ハイビジョン」が「タダ」で放送されているのですよ。しかも日本語字幕付きで。
そんな割り切れない思いを抱きながらも、日本では決して放送を通して見ることの出来ないようなプログラムがDVDになったとなれば、食指は動いてしまいます。なにしろ、今回のギーレンのベートーヴェンは、正価4490円のところがキャンペーン価格で1990円、これで3曲も入っていれば、まあリーズナブルだと許す気にもなれるでしょう。
音だけではなく映像でシンフォニーを鑑賞する時には、どうしても音楽以外の要素が目に入ってしまいます。この場合も、管楽器の首席奏者の違いとか、編成の違い、使っている楽器など、さまざまなものが気になってしまい、つい演奏に浸るのがおろそかになってしまいます。7番でソロを吹いているフルート奏者は、かなりお年を召した方、しかし、どぎついアイラインを引きまくったその念入りのメークには、思わず引いてしまいます。背中を丸めて、上目遣いに指揮者を眺める仕草はまさに「老婆」、こんなものはアップにして欲しくはありません。8番と9番になると、このポジションが別の人に変わります。この人もやはりかなりのお年の女性なのですが、こちらは殆どスッピンの潔さ、楽器も木管(パウエル?)で渋く決めています。そんな風にトップが変わっただけで、オーケストラ全体の音色まで変わるということが、映像付きではよく分かること、もっと目立つティンパニが違う8番と、7、9番では、勢いが全く違っていました。面白いのは、8番だけでピストン式のトランペットを使っていること。他の曲ではロータリーでしたので、ちょっと不思議です。
そんな中で、やはりギーレンの指揮の様子がつぶさに分かるというのは大きな収穫でした。彼のあの隙のない演奏が一体どのような指揮ぶりから生み出されているのか、納得できたような気がします。決して感情に振り回されることのない冷静さの中で、必要なところだけで見せるエモーションが、非常に効果的に見えました。
彼の場合、ベーレンライター版を使ったりはしていないのですが、9番第4楽章の例のホルンの不規則なシンコペーションのところだけ、自筆稿を採用していたのが、興味深いところです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-10 20:02 | オーケストラ | Comments(0)
PROKOFIEV/Romeo & Juliet




佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032



レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-01 19:23 | オーケストラ | Comments(0)
RIMSKI-KORSAKOV/Shéhérazade




Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG-ZAG/ZZT 050502



例えば、ノリントンあたりが推し進めている、モダン楽器のオーケストラによってオリジナル楽器の響きを追求するという試みとは全く正反対の方向からのアプローチ、という視点で、このインマゼールとアニマ・エテルナの演奏をとらえるのはどうでしょうか。もうすぐ「スター・ウォーズ」とか「宇宙戦争」も始まりますし(それは「ロードショー」)。つまり、オリジナル楽器を用いて、ロマンティックな情感を表現する、という試みです。フォルテピアノ奏者として、スタート時には確かにオリジナル楽器のフィールドにいたインマゼールですが、指揮者としての彼の音楽の方向は、もっと柔軟性に富んだものを目指しているのではないか、という気がずっとしていました。そこで選んだ曲目が、この「シェエラザード」という絢爛豪華な絵巻物の世界を描写した音楽であれば、そんなとらえ方もそれほど的外れではないように思えるのですが。
オリジナル楽器というのは、「古い楽器」という意味ではありません。「その曲が作られた当時の楽器」というのが、正しい概念、従って、リムスキー・コルサコフを演奏する時にバッハ時代の楽器を使う、というのではなく、あくまでリムスキー・コルサコフの同時代、19世紀後半に使われていたであろう楽器を使うのが当たり前の話になってきます。その頃になると、管楽器などは殆ど現代とは変わらない形になっています。ピッチも、現代と同じ、「シェエラザード」の冒頭もきちんと「ミ、シ、レ」と聞こえます。ただ、インマゼールがこだわったのは弦楽器の人数でした。ヴァイオリンは8人ずつでコントラバスが5人という、「現代」に比べたら殆ど半分しか居ないというあたりに、「オリジナル」の精神を貫こうということなのでしょう。
そんな少ない弦楽器ですから、たゆとうような大海原の描写などはとても無理、と思って聴いていると、どうしてどうしてなかなか健闘しているのには正直驚かされます。どうあがいても、もともとの「しょぼさ」を隠すことは出来ないのですが、それを何とか「根性」でカバーしようとしている意気込みが、とてもほほえましく思えます。ただ、やはりこの編成であれば、どうしても耳がいくのは管楽器の方でしょう。特にファゴットなど、現代とは微妙に違う音色を楽しむことが出来ます。さらに、打楽器から一風変わった響きが聞こえてきたのも嬉しいところです。第3楽章の「若い王子と王女」の中間部、リズミカルになる部分での小太鼓やトライアングルのちょっとオリエンタルな鄙びた音色は聴きものです。
カップリングの「だったん人の踊り」でも、そんな民族色がよく出た打楽器が大活躍しています。「最後の踊り」でのシンバルなどに特別な存在感を感じられるのも、この演奏ならではのことでしょう。
そのような、それこそモダンオケでも出すことの出来ないような多彩な響きをオリジナル楽器によって導き出した、という点では、この演奏は大いに評価できることでしょう。ところが、その響きをドライブして一つの表現に持っていくことが出来ないというのが、この指揮者なのです。以前のモーツァルトでもさらけ出した、これはインマゼールの最大の欠点、「だったん人」から生命感あふれるリズムを感じられることは、ついにありませんでした。せっかくのユニークなアプローチも、音楽としての確固たる全体像が見えてこないことには、なんにもなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-22 18:46 | オーケストラ | Comments(0)