おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 455 )
BRAHMS/Symphony No.1




千秋真一/
R☆Sオーケストラ
キングレコード
/KICC-555


千秋真一という、全く無名の指揮者のデビューアルバムが、殆ど「ブーム」と呼んでも差し支えないほどの注目を集めています。まるで、3匹の子豚(それは「ブーフーウー」)。それを受けたこのアーティストに対する扱いがいかに破格であるかは、今月号の「レコード芸術」でのこのレコード会社の広告の一番最初にあったものが、1ページをまるまる使った、このアルバムの宣伝コピーだったという事からも分かります。さらに、このアルバムは通常のCD店のみならず、何と書籍を扱う本屋さんの店頭でも販売しているのですから、この指揮者のファンというのは、クラシック音楽の愛好家といった範疇では全くとらえることのできない、大きな広がりを見せていることを窺い知ることが出来ます。
千秋真一は、1981年生まれといいますからまだ24歳、指揮者としてはまだまだ「半人前」という年齢ですが、フランスで行われたあの権威ある「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝したあとにはトントン拍子にキャリアを重ね、今ではパリの「ルー・マルレ」という1875年に創設された歴史ある「非常勤」オーケストラ(音楽監督は最近東京都響常任指揮者に就任したジェイムズ・デプリースト)の常任指揮者を務めるまでになっているのですから、その実力は恐るべきものがあります。その彼が、指揮者としての確固たる資質を世に知らしめたのが、殆ど伝説的な報道をされたR☆S(「ライジングスター」と読みます)オーケストラとのデビューコンサートでした。彼は学生時代から学内のオーケストラを指揮して、そのカリスマ的な魅力は知られていたといいますが、そんな彼の下で演奏したいという才能溢れる若者、千秋の大学時代の友人のみならず、千秋の評判を聞きつけて参加した海外のコンクールでの優勝者などで結成されたのが、このオーケストラです。彼らは千秋とは絶対的な信頼関係で結ばれており、そのコンサートは各方面で絶賛されることとなったのです。
今回のアルバムには、そのコンサートのメインプログラム、ブラームスの交響曲第1番が収録されています。ただ、これは、そのデビューコンサートのライブ録音ではなく、新たにセッションを組んで録音されたものです。最近のオーケストラの録音状況を見てみると、日常的に行われているのは、経費を少しでも節減するためにコンサートをそのまま録音して製品にするという安直な道、今回のように、CDのためにわざわざホールを借り切って録音するという事自体が、経費には目をつぶっても、より完成度の高いものを届けたいという制作者の良心の表れ、そして、それを引き出したのが、他ならない千秋の並はずれた才能なのでしょう。もちろん、その才能の中には、この情報社会で通用するだけの外的な魅力(「ルックス」とも言う)も含まれているのは、言うまでもありません。ご覧下さい、このジャケットのポートレート、「繊細でいて粗野」という、それだけで惹き付けられるものがありません?(しかし、なぜ写真ではなくマンガ的なドローイングなのでしょう)
その演奏は、まさに若さに満ちた爽快なものでした。それは、一つのことを信じてそれに向かって邁進する、という、「大人」が忘れかけているものを思い出させてくれる魅力を存分に味わうことが出来るものです。弦楽器の人数がちょっと少なめのため、ブラームスには欠くことの出来ない深みのある響きが全く出ていないとしても、それを補って余りある「力」を、私達はここからは感じるべきでしょう。
カップリングが、ちょっとしたお遊びなのでしょうが、千秋がコンクールで課された「間違い探し」を実際に音にしたものです。これを聴けば、彼がいかに優れた耳を持っているかが分かります。凡人である私には、109小節目からのティンパニしか見つけることが出来なかったのですから。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-28 20:06 | オーケストラ | Comments(1)
MAHLER/Symphony No.1




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.137



ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団による「ピリオド・アプローチ」シリーズ、ついにマーラーの登場です。ガーデニングには欠かせません(それは「腐葉土」)。このような話題満載の輸入盤、ぜひ多くの人に買って頂きたい、という輸入元の心意気は、音を聴く前から伝わってきます。まず、外側に巻いてある「タスキ」。日本語によって演奏者や曲目が記載され、演奏に関する短いインフォメーションが付くという、例えばNAXOSあたりでは全てのものに付いている「オマケ」が、こういうことをあまりやらないこの業者(キングインターナショナル)のものに付いています。それだけではありません。今回は何とブックレットにまで日本語の解説が印刷されているのです。普通、こういう輸入盤のブックレットの場合、英語、ドイツ語、フランス語あたりが並んで掲載されているものは珍しくありませんが、そこに日本語が最初から印刷されている、というのは、私が知る限り非常に珍しい例です。先ほどのタスキには「Printed in Japan」と書いてあるので、おそらくこのブックレットだけは日本で印刷されて、日本の市場にしか出回らないものなのが、ちょっと残念ですが。最初からヨーロッパやアメリカのメーカーが日本語も印刷、さらにDVDではオペラの対訳に常に日本語が付く、という時代は果たして来るのでしょうか。
いずれにしても、そこまでして読んでもらいたいという、このノリントン自身によるライナーノーツは、確かに興味深いものがあります。今回特にマーラーの1番に「花の章」を加えて演奏していることへの彼のこだわりは、吉田さんという方のとても分かりやすい訳文によって的確に伝わってきます。しかし、現実にはこの「花の章」は、マーラー自身があえて初稿から取り除いたもの、ここでノリントンが行っている最終稿の中にこの楽章だけを挿入するという方法は、彼がライナーで述べている「この響きはマーラーが自ら指揮した時に耳にしたもの」という主張に対して少しばかりの矛盾を含むものであることは、否定できません。
もっとも、そのあたりのシビアな詮索は、この曲をあくまで「標題音楽」として捉えるというノリントンのアプローチを知ってしまえば、それほど重要なことではなくなることでしょう。事実、この演奏を聴くことによって、まさに目の前に具体的な情景が浮かんで来るという、ちょっと今までこの曲からは味わうことの出来なかった体験が得られるという面で、ノリントンの際だった「直感」のようなものは改めて評価出来るのではないでしょうか。その結果、1楽章あたりではまるで緊張感の伴わない、ほのぼのとした情感が喚起される場面があったとしても、それを指揮者が感じた作曲家からのメッセージとして受け入れるだけの度量の広さが、求められてくるのです。
それよりも、彼が「ピュア」だと信じて疑わないノンビブラートの弦楽器による冒頭のフラジオレットから、なぜこのような「濁った」響きが出てしまうのか、といったような点については、真剣に議論する必要はあるのではないでしょうか。もっと言えば、例えば最終楽章の練習番号42番から入ってくるビブラートをたっぷりかけたオーボエ・ソロの中には確かに存在する「歌」が、その前の41番から奏でられる弦楽器の中には、なぜその片鱗すらも見出すことができないのか、きちんと検証した上で、この時代の音楽に対する「ピリオド・アプローチ」の功罪を判断する姿勢が、私達に求められてはいないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-19 19:40 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.3(1873 version)




Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



前にご紹介したヴァーグナーの前奏曲集と同じジャケット、同じ品番、元々は別のアルバムだったものを一緒にしただけですから、一つのアイテムから2度レビューが書けるという、おいしさです。
ヴァーグナーの方は、昨年国内盤で再発されたのでそれほど珍しいものではなかったのですが、このブルックナーは初出のEMI盤はすでに廃盤、長らくリイシューが待たれていたものです。花粉症には必需品(それは「ティシュー」)。何よりも、このアルバムにはレアな魅力が2つもあります。まず、オリジナル楽器で演奏しているという事、そして「第1稿」である1873年版を使用しているという事です。
ノリントン自身、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズというオリジナル楽器のオーケストラとの一連の録音の最後の到達点として、このブルックナーを捉えていたのではないでしょうか。現在までに世に出た全ての交響曲の録音を網羅したディスコグラフィーを見てみても、オリジナル楽器で演奏されたものは、ヘレヴェッヘによる「7番」と、このアルバムしかないのですから、いかに貴重なものかが分かるはずです。この録音が行われた1995年には、オリジナル楽器はすでに単なるこけおどしではなく、新しい表現の地平をひらくものとして認知されるようになっていました。モーツァルトから始まったそのムーブメントは、ベートーヴェンという既存の権威の塊すらも根本から揺るがすほどの力を持っていたのでした。その「力」は、19世紀後半の音楽にも通用するはずだ、と考えたのがノリントン、しかしその結果は・・・。
確かに、ガット弦による弦楽器の暖かい響きや、ビブラートを廃したことによって生まれた木管の純正のハーモニーなどは、今までのブルックナー演奏では見られなかった美点ではありますが、やはり重量感が決定的に不足していた事は、このテーゼを受容する上での大きな障害となったのでしょう。いかに本来使われていた楽器だといっても、その重量感が出せない事には、現代のブルックナー市場で通用するには大きな困難が伴ったのです。彼の後継者は、その「響き」をとことん前面に押し出した2004年のヘレヴェッヘ1人だったという事実が、その事を端的に物語っています。そして、ノリントン自身もモダンオーケストラによるオリジナル楽器的表現へのアプローチという新たな道を歩み出す事となるのです。
もう1点、「第1稿」については、前者とは違った積極的な意味を見出す事が出来るでしょう。1970年代にレオポルド・ノヴァークによって完璧に整備されたブルックナーの異稿の世界、しかし、録音に関してはいまだに初稿が陰の存在である事に変わりはありません。このアルバムが出た時点で「第1稿」による録音は、普通に流通しているものに限れば1982年のインバル盤しかなかったのですから。例えば、通常演奏される「第3稿」との違いがもっとも際だっている第4楽章でのちょっと荒削りなパッセージの扱いなどは、「ブルックナーはこんな面白い事をやっているんだよ」と得意げになっているノリントンの姿が目に映るような生き生きとしたものです。第3楽章のスケルツォのトランペットの合いの手は、この稿だけで聴ける細かいリズムのパターンなのですが、それもことさらに現行版とは違う事を強調するわかりやすさがたまりません。最近ではナガノやノットによる演奏も出揃い、このノリントン盤もやっと「第1稿」の中での位置づけをきちんと語る事が出来るほどの時代とはなったのです。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-05 20:46 | オーケストラ | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphonies No.3 & No.4




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.133



ノリントンのメンデルスゾーンの交響曲選集のうちの3、4番、実は先日ご紹介した1、5番と同じ時期に発売になったのですが、何でも不良品が混ざっていることが発覚したために店頭に出て3時間後に全品回収、再プレスを行って、やっと良品が出回るようになったということです。急行でやったのでしょうか(それは「エクスプレス」)。このジャケット、指揮者の顔の半分だけがデザインされたものですが、それぞれ同じネガ(ではなく、最近ではデータでしょうか)の右と左を使ったもので、2枚並べるとちゃんとした顔が現れるようになっています。実際、そんな風にディスプレイしているところもあったというのに、とんだケチが付いてしまったものです。
今回、もっとも楽しみにしていたのは「4番(イタリア)」でした。この曲の持つ明るさと軽さが、まさにノリントンの芸風とピッタリ、さぞや軽快な「イタリア」が聴けるのではないかと思ったのです。しかし、第1楽章のテンポ設定はちょっと意外でした。全く当たり前のテンポ、これよりももっと軽やかに演奏している人はいくらでもいるのに、という当惑感を抱いてしまいました。ところが、この楽章の最後になって、ノリントンはとびっきりのサプライズを提供してくれました。475小節目の「Più animato poco a poco(少しずつ、より生き生きと)」という指示のある部分で、いきなりテンポを上げ、そのままエンディングになだれ込むということをやっているのです。今までのテンポは、ここを強調するための伏線だったのですね。厳密に言えば、「poco a poco」ですからこの解釈は楽譜に忠実な演奏とは言えませんが、ここで生まれるインパクトには、ちょっと凄いものがあります。これがあるうちは、ノリントンから目を離すことは出来ないでしょう。
しかし、そうは言っても、やはり彼の最近のアプローチには少し納得できないようなところもあるのは事実。前にも書いたように、ここでノリントンは弦楽器の人数を楽章によって増減させています。具体的には、3番では第3楽章、4番では第2楽章という、「ゆっくりした」楽章で、半分近くに減らす、ということをやっているのです。もちろん、これはノリントンの信念に基づき、「当時の習慣」を反映させたものなのでしょうが、前のアルバムと一緒に聴いてくると、どうもこれがあまりうまく機能していないように思えてなりません。今回は4番ではそこそこ室内楽的な透明な響きが出てはいるのですが、3番のような息の長いフレーズが続く場合が問題。演奏時間は1989年にオリジナル楽器のロンドン・クラシカル・プレイヤーズと録音した時より1分以上遅くなっていますので、モダン楽器を信じてたっぷり歌わせているのでしょうが、やはりこの人数の弦楽器がノンビブラートで演奏しているのでは、「しょぼさ」を隠すことは出来ません。説を曲げて、せめて人数を他の楽章と同じだけ確保しておけば、こんな情けないサウンドにはならないのに、と思ってしまうのですが、どうでしょう。
管のアンサンブルが非常に高いレベルにあるのはいつものこと、常にパートとして一体化したサウンドと表現が聴けるのは、このコンビが築き上げた最大の成果でしょう。しかし、前にも書いたように、時としてトゥッティの部分でもソリスティックな響きが顔を出し、必ずしも「ピュア」ではなくなっているのが、ちょっと気になるところです。今回は、なぜか金管のノリが悪い部分も多くみられますし。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-26 19:49 | オーケストラ | Comments(0)
WAGNER/Preludes



Jane Eaglen(Sop)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



ノリントンの10年ほど前の録音が2点、2枚合わせてロープライス1枚分(1390円)というお得な値段で再発になりました。オリジナル楽器によるヴァーグナーとブルックナーという、発表当時は「ついにここまで!」と話題になった注目アイテムです。
ヴァーグナーが録音されたのが1994年(ブルックナーは1995年)、1978年にノリントンによって作られたロンドン・クラシカル・プレイヤーズの、これは最後期の録音になるのでしょうか。この後、ノリントンが1998年にモダン・オーケストラであるシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者に就任したのに伴い、このオーケストラも解散、同じオリジナル楽器のオーケストラ、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収されてしまいます。
それまでにブラームスの交響曲までもオリジナル楽器で演奏、録音を終えていたノリントンにしてみれば、その方法論がヴァーグナーにまでたどり着くのは、ごく自然の流れだったことでしょう。そのあたりの意気込み、10年前にリアルタイムで聴くことがなかったこのアルバムから、遅ればせながら感じてみたいものです。
1曲目は「リエンツィ」序曲。これは、冒頭のトランペットのソロで、すでに「オリジナル」の世界へ入り込むことが出来ます。それはモダンオケからは決して聴くことの出来ない渋い音色です。それに続く木管が、やはりオリジナル特有の音程の悪さ、これはいかんともしがたいことなのでしょうか。しかし、ノリントンの持つ楽天的なグルーヴはこのような曲では存分に発揮され、最後の打楽器がたくさん加わるあたりではまさにノリノリントンの楽しさが伝わってきます。
ただ、このグルーヴは、次の「トリスタン」ではやや異質なものに感じられてしまいます。「前奏曲」のあまりの淡泊さ、奏法に起因するのでしょうか、「溜め」のない性急なフレーズの運びは、粘着質のヴァーグナーを至上のものと感じている向きからは、反発を食らうことでしょう。それは、「愛の死」では、イーグレンの圧倒的な歌に隠れて、それほど表に出ることはないのですが。
「マイスタージンガー」も、その「軽さ」といったら、殆ど爆笑ものです。しかし、ここで笑いが生まれるのは、いかに今まで「重苦しい」ヴァーグナーが世を席巻していたか、という証でもあるわけで、これはこれで、この「喜劇」の一面を表している解釈ではあるでしょうね。そこへ行くと、「ジークフリート牧歌」も、「パルジファル」前奏曲も、その「軽さ」は違和感を覚えるほどのものではありません。逆に「パルジファル」で、最後に冒頭のテーマが戻ってくる箇所の低弦のトレモロなどは、不気味さから言ったらちょっと捨てがたい味、その前後の緊張感も思わず引き込まれるものがあります。
10年後、この前奏曲をシュトゥットガルトで録音した時には、例えば木管の音程などの機能的な面は飛躍的に改善されていた反面、この緊張感はすっぽりとどこかへ行ってしまっていました。その結果「軽さ」がさらに募っているのは(演奏時間が1分以上短くなっています)、このアルバムでの他の曲の方向性を見ればある程度予想されたことなのでしょう。彼がヴァーグナーから最終的にどんな音楽を引き出したかったのか、快調に疾走する「ローエングリン」の第3幕の前奏曲は、その端的な回答なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-19 19:36 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies 7 8 9







Michael Gielen/
Rundfunkchor Berlin
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
EUROARTS/2050667(DVD)



最近はネットラジオがおおはやり、何しろバイロイト音楽祭などの生放送が、日本にいてもリアルタイムでイロイロト聴けてしまうのですからすごいものです。パソコン(と、ネット環境)さえ持っていればたとえ「リング」全曲を聴いたとしても、そのための費用は一切かからないというのがありがたいですね。ただ、こういう放送用の音源が後になってそのままCDになったときに、普通のCDと全く変わらない価格で販売される、というのには、「なんか変」とは感じられないでしょうか。確かに、昔はレコード会社が放送局と共同制作をして、それなりに手を加えた後に製品になったものですから納得は出来るのですが、最近出ているものは放送時に使った音源と全く同じもの。ラジオを通せばタダで聴けたものに、お金を払うというのは、ちょっと間違っているのではないか、とは思いません?確かに音のクオリティの違いはあるでしょう。しかし、同じようなケースでオペラの場合でしたら、音声はCD以上、映像もDVD、あるいはそれ以上の解像度の「ハイビジョン」が「タダ」で放送されているのですよ。しかも日本語字幕付きで。
そんな割り切れない思いを抱きながらも、日本では決して放送を通して見ることの出来ないようなプログラムがDVDになったとなれば、食指は動いてしまいます。なにしろ、今回のギーレンのベートーヴェンは、正価4490円のところがキャンペーン価格で1990円、これで3曲も入っていれば、まあリーズナブルだと許す気にもなれるでしょう。
音だけではなく映像でシンフォニーを鑑賞する時には、どうしても音楽以外の要素が目に入ってしまいます。この場合も、管楽器の首席奏者の違いとか、編成の違い、使っている楽器など、さまざまなものが気になってしまい、つい演奏に浸るのがおろそかになってしまいます。7番でソロを吹いているフルート奏者は、かなりお年を召した方、しかし、どぎついアイラインを引きまくったその念入りのメークには、思わず引いてしまいます。背中を丸めて、上目遣いに指揮者を眺める仕草はまさに「老婆」、こんなものはアップにして欲しくはありません。8番と9番になると、このポジションが別の人に変わります。この人もやはりかなりのお年の女性なのですが、こちらは殆どスッピンの潔さ、楽器も木管(パウエル?)で渋く決めています。そんな風にトップが変わっただけで、オーケストラ全体の音色まで変わるということが、映像付きではよく分かること、もっと目立つティンパニが違う8番と、7、9番では、勢いが全く違っていました。面白いのは、8番だけでピストン式のトランペットを使っていること。他の曲ではロータリーでしたので、ちょっと不思議です。
そんな中で、やはりギーレンの指揮の様子がつぶさに分かるというのは大きな収穫でした。彼のあの隙のない演奏が一体どのような指揮ぶりから生み出されているのか、納得できたような気がします。決して感情に振り回されることのない冷静さの中で、必要なところだけで見せるエモーションが、非常に効果的に見えました。
彼の場合、ベーレンライター版を使ったりはしていないのですが、9番第4楽章の例のホルンの不規則なシンコペーションのところだけ、自筆稿を採用していたのが、興味深いところです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-10 20:02 | オーケストラ | Comments(0)
PROKOFIEV/Romeo & Juliet




佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032



レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-01 19:23 | オーケストラ | Comments(0)
RIMSKI-KORSAKOV/Shéhérazade




Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG-ZAG/ZZT 050502



例えば、ノリントンあたりが推し進めている、モダン楽器のオーケストラによってオリジナル楽器の響きを追求するという試みとは全く正反対の方向からのアプローチ、という視点で、このインマゼールとアニマ・エテルナの演奏をとらえるのはどうでしょうか。もうすぐ「スター・ウォーズ」とか「宇宙戦争」も始まりますし(それは「ロードショー」)。つまり、オリジナル楽器を用いて、ロマンティックな情感を表現する、という試みです。フォルテピアノ奏者として、スタート時には確かにオリジナル楽器のフィールドにいたインマゼールですが、指揮者としての彼の音楽の方向は、もっと柔軟性に富んだものを目指しているのではないか、という気がずっとしていました。そこで選んだ曲目が、この「シェエラザード」という絢爛豪華な絵巻物の世界を描写した音楽であれば、そんなとらえ方もそれほど的外れではないように思えるのですが。
オリジナル楽器というのは、「古い楽器」という意味ではありません。「その曲が作られた当時の楽器」というのが、正しい概念、従って、リムスキー・コルサコフを演奏する時にバッハ時代の楽器を使う、というのではなく、あくまでリムスキー・コルサコフの同時代、19世紀後半に使われていたであろう楽器を使うのが当たり前の話になってきます。その頃になると、管楽器などは殆ど現代とは変わらない形になっています。ピッチも、現代と同じ、「シェエラザード」の冒頭もきちんと「ミ、シ、レ」と聞こえます。ただ、インマゼールがこだわったのは弦楽器の人数でした。ヴァイオリンは8人ずつでコントラバスが5人という、「現代」に比べたら殆ど半分しか居ないというあたりに、「オリジナル」の精神を貫こうということなのでしょう。
そんな少ない弦楽器ですから、たゆとうような大海原の描写などはとても無理、と思って聴いていると、どうしてどうしてなかなか健闘しているのには正直驚かされます。どうあがいても、もともとの「しょぼさ」を隠すことは出来ないのですが、それを何とか「根性」でカバーしようとしている意気込みが、とてもほほえましく思えます。ただ、やはりこの編成であれば、どうしても耳がいくのは管楽器の方でしょう。特にファゴットなど、現代とは微妙に違う音色を楽しむことが出来ます。さらに、打楽器から一風変わった響きが聞こえてきたのも嬉しいところです。第3楽章の「若い王子と王女」の中間部、リズミカルになる部分での小太鼓やトライアングルのちょっとオリエンタルな鄙びた音色は聴きものです。
カップリングの「だったん人の踊り」でも、そんな民族色がよく出た打楽器が大活躍しています。「最後の踊り」でのシンバルなどに特別な存在感を感じられるのも、この演奏ならではのことでしょう。
そのような、それこそモダンオケでも出すことの出来ないような多彩な響きをオリジナル楽器によって導き出した、という点では、この演奏は大いに評価できることでしょう。ところが、その響きをドライブして一つの表現に持っていくことが出来ないというのが、この指揮者なのです。以前のモーツァルトでもさらけ出した、これはインマゼールの最大の欠点、「だったん人」から生命感あふれるリズムを感じられることは、ついにありませんでした。せっかくのユニークなアプローチも、音楽としての確固たる全体像が見えてこないことには、なんにもなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-22 18:46 | オーケストラ | Comments(0)
BARTOK/Concerto for Orchestra etc.

H.Kärkkäinen, P.Jumppanen(Pf)
L.Erkkilä, T.Ferchen(Perc)
Sakari Oramo/
Finnish Radio Symphony Orchestra
WARNER/2564 61947-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11883(国内盤)


「これがオラモ!?」と一瞬目を疑ってしまったのが、このジャケットのポートレートです。1998年にサイモン・ラトルの後継者としてバーミンガム市交響楽団の首席指揮者、さらに翌年には音楽監督に就任した時には、誰もその名前を知るものはいなかったというオラモですが、その頃ERATOからリリースされたアルバムからうかがい知れる風貌は、「オタクっぽいとっちゃん坊や」というものでした。眼鏡をかけたちょっと小太りのサエない男が、あの、飛ぶ鳥を落とす勢いでベルリン・フィルのシェフという玉の輿に乗った指揮者の後任とは、と、誰しもが思ったことでしょう。しかし、オラモのその後の活躍ぶりはご存じの通り、ERATOレーベルが消滅してしまった後でも、しっかりWARNERのメイン・アーティストとして安定した地位を獲得しています。さらに、2003年には、以前から准首席指揮者を務めていたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者に就任、複数のオーケストラの最高責任者という、「一流指揮者」の仲間入りを果たしたのです。そして、仕上げがヴィジュアル面での改造、眼鏡を取ったこの爽やかな「顔」が、これからのオラモの看板になっていくことでしょう。10月にはこのコンビで来日も予定されていますしね。
そんな「新生」オラモが取り上げたのが、バルトークです。指揮者によって様々に異なるイメージを与えてくれるバルトークですが、ここではなぜか、この爽やかな外見と全く違和感のない音楽が聞こえてきたのには、嬉しくなったものです。数々の演奏が市場を賑わしている「オーケストラのための協奏曲」、聞き所は満載ですが、ここでは決して熱くならない全体を見据えた視線がすがすがしく感じられます。「序章」でいきなり耳に入るフルートソロ(日本公演では、武満作品でソロを吹くペトリ・アランコでしょうか)の感触が、そんなすがすがしさを代弁しているようです。「対の遊び」では、ソロ(ソリ)を取っている管楽器よりも、まわりのパートの細かい「仕掛け」が手に取るように分かるという、絶妙なバランスがたまりません。「エレジー」も、タイトルから予想される「暗さ」とはあまり縁のない、各楽器の粒立ちの良さが光ります。ここで重要なソロを披露しているピッコロのちょっと不思議な音色も、聞き物です。「中断された間奏曲」では、例の、ショスタコーヴィチのテーマをからかったコミカルな部分と、ヴィオラのパートソロで始まるメランコリックな部分との対比が見事、それが最後にもう一度繰り返される時の緊張感も、なかなかのものです。そして「終曲」では、決して過剰に煽り立てることのない冷静さが、逆に巧まざる高揚感を招くという素敵な仕上がりになっています。
もう一つの「協奏曲」は、あの有名な「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」のバックに、控えめにオーケストラを上塗りしたという「二台のピアノと打楽器のための協奏曲」です。オリジナルの「ソナタ」の鋭角的なイメージに慣れている人にとっては若干物足りなさも伴うピアニストたちですが、それだからこそ、この「協奏曲」バージョンの持つキャラクター、すなわち、モノクロームの「ソナタ」に施された鮮やかな彩色という一面が、際だって伝わってくるのかもしれません。そして、このようなシチュエーションだからこそ、最終楽章のあまりに楽天的なテーマも、なぜか全面的に許されてしまうのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-17 09:08 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony 4 & Symphony 7




Philippe Herreweghe/
Royal Flemish Philharmonic
TALENT/DOM 2929 100(hybrid SACD)



まさにたった今、すみだトリフォニーホールでベートーヴェン連続演奏会の真っ最中のヘレヴェッヘとロイヤル・フランダース・フィルの、そのベートーヴェン全集の劈頭を飾るアルバムが手元に届きました。ヘレヴェッヘのベートーヴェンと言えば、1998年にHARMONIA MUNDIに録音した「第9」がありましたね。その時のオーケストラはオリジナル楽器の団体であるシャンゼリゼ管でしたが、今回は彼が音楽監督を務めるベルギーのモダン・オーケストラ、レーベルもベルギーのTALENTです。もちろん、ハワイではありません(それは「フラダンス」)。
このような、オリジナル楽器の団体と深い関係を持っていた指揮者とモダン・オーケストラという組み合わせでは、古くはジンマンとチューリッヒ・トーンハレ、最近ではノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団というコンビが注目されていましたね。いずれも、現代のオーケストラにオリジナル楽器特有の奏法を用いさせたり、一部の楽器はオリジナルそのものを使用したりして、古典派、ロマン派のレパートリーをよりその当時に近い形で演奏するという試みを行っていました。その結果、あまりにも恣意的で大方の賛同を得ることはついに叶わなかったジンマンのような失敗例はありますが、ノリントンたちのように、その確かな音楽性を以て、今まで誰もなしえなかった新鮮なベートーヴェン像を送り届けることに見事に成功した団体もあったのです。もちろん、ノリントンの場合でも、極端に従来とかけ離れたテンポ設定や、唐突な表現などには多少の違和感がなかったとは言えませんが、それは彼のもたらす生命力あふれるエモーションで充分にカバーできたことでしょう。
そして、今回のフランダースです。まず耳を惹くのは、ガット弦による弦楽器の美しさ。単に音色だけではなく、多くの弦楽器が同時に弾かれた時の「マス」としての存在感が、とても素敵。それは、オリジナル楽器の素朴さと、モダン楽器の華麗さの良いところだけをとって精製したような、独特の「フワフワ感」を持つものでした。管楽器も極力ビブラートを押さえて、見事にこの弦楽器との調和を保っています。そこへ、おそらくかなりオリジナルに近い楽器だと思われるティンパニが加わります。このティンパニ、その粗野な響きは「ピュア」な弦と管の中にあって、確かなアクセントとして機能しています。トゥッティでの華やかさはもちろんですが、例えば「4番」の第2楽章で少し堅めのバチを用いて叩かれるソロなどは、とても魅力的です。
ヘレヴェッヘの指揮は、以前ブルックナーで感じたものと同じ、至るところで彼の持ち味である流れるような「歌」を存分に楽しむことが出来ます。彼の合唱でのキャリアを持ち出すまでもなく、そこにあるのは人間の生理に逆らわない自然な音楽です。その好例は「7番」の第2楽章。「ミー、ミ、ミ、ミーミー」という無機的なテーマに、彼はなんという「歌」を込めているのでしょう。中間部の木管は、まるでよく訓練された合唱団のように、均質な響きで迫ってきます。ここには、モダン、オリジナル、といった範疇を超えた、真に「美しい」音楽が、最高の形で息づいています。
楽譜についてはライナーにはなんのコメントもありませんが、ベーレンライター版を用いているのは明らかです。個々の楽器の粒立ちが見事に聞こえてくる卓越した録音のおかげで、それは容易に確認することが出来ます。というより、ことさら言及しなくてもすでにこのエディションは心ある演奏家の間ではすでにスタンダードとなっているのだと受け止めるべきなのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-09 19:56 | オーケストラ | Comments(0)