おやぢの部屋2
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カテゴリ:オペラ( 217 )
WAGNER/Tristan und Isolde

Wolfgang Millgram(Ten)
Hedwig Fassbender(Sop)
Leif Segerstam/
Royal Swedish Opera Male Chorus
Royal Swedish Opera Orchestra
NAXOS/8.660152-54



この「おやぢの部屋2」の最初のアイテムが、レイフ・セーゲルスタムが指揮したスウェーデン王立歌劇場のメンバーによるヴァーグナーのオペラ合唱曲集でした。この、男の風上にも置けないようなファースト・ネームを持つ(それは「レイプ」)フィンランドの指揮者によるヴァーグナー、ちょっと今までにない風通しの良さを感じたので、この「トリスタン」の新録音も聴いてみる気になりました。
最近のオペラCDは、いろいろ複雑な状況の中にあるようです。何よりも、DVDの価格が下がってきたことにより、CDと変わらない、場合によってははるかに安い価格で、音だけではなく、映像も見ることが出来るようになったのは、オペラファンにとってはうれしいことです。正直、小さな文字のリブレットを見ながら(CDサイズになって、オペラの対訳は本当に読みづらくなりました)音だけで話を追うのは、かなり辛いものがあります。それが、音楽とドラマを同時に味わうという、本来オペラを鑑賞する時のあるべき姿が簡単に実現できるようになったのですから、まさにCDの存在価値自体が問われる事態となっているのです。
そうは言っても、全ての演奏に映像が付くわけではないのですから、これからも「音だけ」のオペラが無くなることはありません。要は、DVDなりでその作品の芝居の流れとセリフを頭に入れておきさえすれば、CDを聴いた時にはリブレットに頼らなくても言葉は分かりますし、それこそ、一つの固定された演出ではなく、自分の好きなような画面を想像することだって出来るようになるのですからね。正直、声は素晴らしいのに体格があまりに立派すぎたり、容貌が水準に達していない歌手などは、アップで見たくはありませんし。
そんなわけで、このスウェーデンのオペラハウスのプロダクション、演目は「トリスタン」、内容はすっかり頭に入っているものですから、「音だけ」で楽しむことにしましょう。まず、注目したいのは、第1幕で登場する合唱です。前のアルバムでもここの合唱団のレベルの高さは証明済みですが、ここで聴くことの出来る男声合唱も、とことん存在感のあるものでした。単にきれいにハモるという次元を超越した、その役(この場合は水夫たち)になりきるという、オペラの合唱のまさにあるべき姿です。
ひとつ、この演奏で特徴的なのが、第2幕が非常に短いということです。普通70分以上かかるものが、61分しかありません。これは、流れを最大限に重視するセーゲルスタムの音楽の作り方によるものなのでしょう。事実、前奏曲から続く、狩の角笛を描写した三連符の速いこと。これはまるで、少しでも早く邪魔者には遠くへ行ってもらいたいと願うイゾルデの、はやる気持ちを表しているかのように聞こえます。そして、さんざん待ちこがれたトリスタンが現れてからの段取りの良いこと。まさに、余計な手順は省いて、すぐにでもベッドへ直行したいという、若い恋人たちのノリです。そう、トリスタンのミルグラムこそ、ちょっとくたびれ気味の木偶の坊ですが、イゾルデ役のファスベンダーは、とてもしなやかでキビキビした、若さあふれるソプラノです(音だけだからこそ、そのような印象が際だつのかもしれません)。ですから、彼女が歌う「愛の死」は、重くドロドロしたものが一切感じられない、極めてピュアな輝きをもって迫ってきます。ありがちな年増の「王女」ではない、もっとピチピチしたイゾルデの姿が、そこにはありました。
オーケストラが、特に弦楽器に艶やかさが不足していると感じられたのは、あるいは、意識してアクの強さを押さえようとしたセーゲルスタムの配慮なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-22 19:44 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Le Nozze di Figaro






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnold-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4129(DVD)



ピーター・セラーズのプロダクション、最後にご紹介するのが「フィガロ」になってしまいました。今回の舞台は、ニューヨークの5番街にそびえ立つ「トランプタワー」です。日本でいえば「六本木ヒルズ」でしょうか、本当のお金持ちだけが住むことを許される高級マンション、その最上階、屋外テラス付きの一角が、アルマヴィーヴァの「お屋敷」です。そんな固有名詞は、序曲の部分で流れるフィルム画面(幕が開くとビデオの画面になります)でニューヨークの街中が流れ、その中でひときわ目立つあの全面ガラス張りの建物が出てきますから、すぐ分かります。ご存じでしょう?あの、女性下着の形をした(それは「トリンプタワー」)。これは、他の作品での荒廃したスラム(「ドン・ジョヴァンニ」)と、リゾート地のビーチ(「コシ・ファン・トゥッテ」)と同じように、その舞台となった場所の現地を撮影したもの、モーツァルトを「現代」に置き換えるためのパイプの役割を果たしています。
この「ダ・ポンテ三部作」、ほぼ同じ時期に収録されたものでしょうから、この「フィガロ」と、「コシ」で、キャストが交錯しているのが面白いところです。なんか、昼メロ(ニューヨークだと「ソープオペラ」)で、同じ役者が別のドラマに別の役で出ているような感じです。そもそもこのシリーズの歌手たちは、実力的には小粒、中にはとても使い物にはならないような貧弱な声の持ち主も混ざっているのは、声よりも演技を取った、セラーズの人選によるものなのでしょうか。そんな中で、最も安定した力を発揮していたのがフィガロ役のスタンフォード・シルヴァンですが、「コシ」ではドン・アルフォンソでしたね。 そんな風に、ケルビーノはフィオルディリージ、伯爵がグリエルモ、そしてなんと、マルチェリーナ役の人がデスピーナをやっていたのですから、すごいですね。もちろん、デスピーナは年増の若作りという完全なミスキャストですが、案外そこがねらいだったのかも。そういえば、スザンナ役の人もかなり高齢、第4幕でコンテッサに変装してしまうと、とてつもなくグロテスクでしたから、やはりこのあたりにはセラーズの意図が入っていると考えた方が良いのでしょう。
この作品の場合、時代設定こそぶっ飛んでいますが、その他のキャラクター設定は至って普通、スザンナはメイドですし、フィガロは執事みたいなものでしょうか。舞台装置も、他の2作のように最初から最後まで同じ場所を使うということはせず、しっかり幕ごとに原作通りの場所が用意されています。やはり「フィガロ」では大幅な読み替えは難しいのでしょうね。それだけではなく、ダ・ポンテが仕込んだ「毒」は当時の貴族階級にこそ最大の効き目があるように処方されていたものなのでしょうから、それをただ現代に移しただけではなんの力も持たなくなってしまいます。その意味で、この作品におけるセラーズのプランは、ややインパクトに欠けるという印象は免れません。合唱などは、演出の意図が徹底されなくてちょっと棒立ちの場面もありますし。
そうなってくると、音楽的な弱さがもろに前面に出てきてしまって、ちょっと辛い場面も。アントニオ役のように、芝居でも過剰に浮いている上に、歌もお粗末という人も現れて、最後まで緊張して見るというわけにはいきませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-28 22:22 | オペラ | Comments(2)
MOZART/Don Giovanni






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4119(DVD)



ピーター・セラーズ演出の「ダ・ポンテ三部作」がいかにユニークであるかは、このシリーズのDVDのジャケットを見ただけで分かります。印刷されている文字は、作曲者とオペラのタイトル、そしてこの演出家の名前が全て、そこには、指揮者やプリマ・ドンナの入り込む隙間など、用意されてはいないのですから。ここで、もしかしたら、この映像の作られ方も、チェックしておかなければいけないのかもしれません。もともとはステージ用に作られたプロダクションでしたが、この収録に当たってはテレビ撮影用にスタジオが使われています。ただ、良くあるような、音楽だけ先に録音して、それに合わせて演技をするというようなものではなく、普通のオペラハウスと同じように、指揮者とオーケストラがいて、きちんと「生」で歌っている模様が撮影されています。前にご紹介した「コシ」では歌手が客席の中に入って歌うという演出があってその全貌が分かるのですが、その状況はおそらく他の作品でも同じことなのでしょう。スタジオといっても、かなりの客が入るスペースがあって、オケピットも備わっているという、昔のNHKホール(「お笑い三人組」とか、やっていましたね)のような感じのところです。
さて、この「ドン・ジョヴァンニ」では、舞台はニューヨークのハーレム、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが黒人という設定です。もちろん、彼らは貴族などであるわけはなく、このあたりを縄張りにしているチンピラ、クスリはやるは、ピストルはぶっ放すはと、かなり危ないキャラ。この2人を演じているのが、ユージン・ペリーとハーバート・ペリーという、(たぶん)兄弟です。容姿も声も瓜二つ、このキャスティングは、単に話の中でお互いが入れ替わってドンナ・エルヴィラをだます時にリアリティを持たせるという以上の意味があるのは明らかです。この2人は原作のような主従関係ではなく、もっと固い絆で結ばれている「仲間」、もしかしたら、お互いの一部を共有しているほどのつながりを持った関係なのかもしれません。その感触は、ゾンビと化したドンナ・アンナの父により、マンホールの中に「分身」が身を沈められたあとのレポレッロの取り乱し方からも確認できるはずです。原作のように、主人が死んだら悔い改めて新たな道を求めるというような脳天気なことは起こりえない、やり場のない「暗さ」を造り出すのが、このセラーズの演出の目論見の一つなのかもしれません。そのエンディングで、合唱団員の女性が豊満な胸を披露してくれるのも、決して単なるサービスカットではないむね、ご承知おき下さい。
ここで、字幕にも注目してみましょう。これは輸入盤ですから英語の字幕しかないのですが、それでも、原作通りに歌われている元のイタリア語に対して、かなり演出に沿った読み替えが施されているのが分かります。もともとは「お屋敷」だったものが「俺のシマ」みたいに(事実、2幕の晩餐は路上に座ってマクドナルドのハンバーガーをかぶりつくというものですし、バンダはラジカセなのですから)。
音楽的には、例えば、現在では殆どカットされることの多い第2幕のウィーン版によるレポレッロとツェルリーナのデュエットが聴けるのは嬉しいものです。しかし、クレイグ・スミスの作り出す音楽は、それだけではなんの力も持たないとことん生ぬるいものに終始しています。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-25 20:06 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Così fan tutte






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4139(DVD)



1990年頃に制作されて殆ど「大騒ぎ」状態になった、ピーター・セラーズの演出によるモーツァルトのダ・ポンテ三部作は、以前LDで発売されていましたが、いつの間にか市場からは姿を消していました。これらの映像を見てみたいと思い、長年DVD化を心待ちにしていた人は多かったはずです。その願いがやっと叶って、晴れて全作品のボックスセットがリリースになりました。これは、よく売れるでしょうね(ベスト・セラーズって)。もちろん個別の分売もありますが、ここは女房を質に入れてでも(あ、もちろんこれは単なる比喩ですよ)全曲買いそろえて、この奇才がモーツァルト/ダ・ポンテから導き出したグロテスクなまでのメッセージを、心ゆくまで享受しようではありませんか。
まずは、最近何かとはまっている「コシ」です。舞台を現代に置き換えたセラーズのプラン、ここでは舞台は海辺にあるデスピーナの名前を冠したダイナーです。そう、良くアメリカ映画などに出てくるコーヒーや手作りのパイ、あるいはハンバーガーなどを食べさせてくれる手軽なレストランであるダイナー(トイレのドアに、モーツァルトと、コンスタンツェのシルエットがあるのが、おしゃれ)、オリジナルでは「小間使い」だったデスピーナは、そこのウェイトレスという設定になっています。そして、なぜかドン・アルフォンソはデスピーナの恋人で、このダイナーのオーナーになっているのです。そうなると、お屋敷のお嬢さんだったフィオルディリージとドラベッラは、このダイナーの常連客ということにならなければなりません。ですから、彼女らのフィアンセたちも、「変身」して現れる時には「アルバニアの貴族」ではなく、海辺にたむろしているパンク野郎ぐらいにならないことには、収拾がつかなくなってしまいます。
とりあえず、この弾けきった設定だけでも、充分に楽しむことが出来ます。何しろ、グリエルモとフェルランドが女の気を引こうと飲む「毒」は、店の中にあったケチャップとマスタード、そして、それを治療しに来る「お医者様」は、なんとシャーリー・マクレーン(ドン・アルフォンソが、そういうカンペを出すのです)というのですから。彼女が使うバッテリーには「ダイ・ハード」の文字があり、ブースター・ケーブルでつながれる先は、男どもの股間という、ちょっとしたくすぐりも交えられていますし。序曲の部分で映される海辺では、「ガンズ・ン・ローゼズ」のロゴが入ったTシャツを着た若者が見られるように、ここで敢えてその時代でなければ通用しないようなネタを仕込んでいるのが、セラーズのセンスなのでしょう。
しかし、そのような表面的なファッションにただ驚いているだけでは、セラーズの仕掛けた巧妙な罠には気づかないかもしれません。彼のプランにしたがって動いている人物を見ていると、最初男どもは、ただ変装して「同じ」相手を誘惑してみて、その結果どうなるかを試したかっただけなのが分かります。しかし、女どもは、そんな思惑を超えて、「別の」男に惚れてしまうという、予想外の結果が待っていました。ほんのいたずらで仕掛けたことが、冗談では済まないような展開になってしまったのです。ですから、「結婚式」の場では花嫁たちは本気でうろたえるしかなく、そのあとには、デスピーナたちのカップルをも巻き込んだ大パニックに陥るしか、道はなかったのです。「喜劇」で終わるはずのものを「悲劇」に変えてしまった、これはセラーズのとてつもない着眼点、そこからは、なぜ現代に設定を移さなければならなかったかという必然性までも見えては来ないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-21 17:39 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Das Rheingold







Bertrand de Billy/
Symphony Orchestra of the Gran Teatre del Liceu
OPUS ARTE/OA 0910 D(DVD)



ハリー・クプファーという、韓国料理のような(それは「クッパ」)演出家が、ダニエル・バレンボイムと組んで最初に「指環」を作り上げたのは、1988年のバイロイトでのことでした。このプロダクションは1992年まで上演され、その模様は91年(「ライン」)と92年(それ以外)の映像をDVDで見ることが出来ます。レーザー光線を多用した近未来を思わせる演出は大きな評判を得ることになるのですが、このコンビはそれに満足することなく、1996年には、バレンボイムのホームグラウンドであるベルリン国立歌劇場で、バイロイトとは全く異なる新たな演出が作り上げられることになるのです。この、ベルリンでのプロダクションを、スペイン、バルセロナのリセウ劇場で2004年に上演したものが、このDVDに収録されています。実は、このベルリン版は、2002年に日本での引っ越し公演を行っています。それこそお金も時間もなく、そしてこれが最も重要なのですが、配偶者の理解も得られず、実際にこの上演に接することが出来なかった人でも、「居ながらにして」この想像を絶する大規模なステージに触れることが出来るようになった幸運を、喜ぼうではありませんか。
同じクプファーの演出でも、ある種無機的なバイロイト版を見慣れた目には、最初のラインの水底のシーンからして、異様にデフォルメされたリアリティに驚かされることでしょう。ぬめぬめした岩肌を、ラインの乙女や本当に醜いアルベリッヒ(ギュンター・フォン・カンネン。この人の存在感には、圧倒されます)がよじ登っている様は、まるで大昔のト書きに忠実な演出を見ている錯覚に陥るほどです。しかし、岩の後ろでは怪しげにレーザーが光っていますから、これがそんな先祖返りでないことはその時点で明白になっています。そして、本当にすごいのは、第2場のニーベルハイムへ移動する場面転換の部分です。ヴォータン(ファルク・シュトルックマン)とローゲ(グレアム・クラーク)が実際に「地下」へ潜ったと思ったら、ステージ全体が迫り上がってきて、そこにはアクリル製の斜めのトンネルが設けられているのが見えます(バイロイトではこのトンネルは垂直なただのはしごでした)。この中をヴォータンたちが歩いていくわけですが、下に着く頃には、そのセットは途方もない高さまで迫り上がっています。このセット、奈落の深さやタッパが十分に確保されているベルリンや、このリセウでは完璧に機能していますが、舞台機構の貧弱な日本の劇場では、果たしてどうだったのでしょうか。そのトンネルの周りの、まるでハリウッドの近未来映画から持ってきたようなおどろおどろしいマニアックなディテールにも、目を見張らせられます。場が変わるとともに、人物の設定も変わり、あの醜かったアルベリッヒが、奪った黄金のせいでしょうか、紳士然としたいでたちになっています。と同時に、場面が確実に未来へ向けてのベクトルを放ち出していることが窺えるのは、「指環」全体を通じての大きなメッセージへの伏線なのでしょうか。
ただ、しばらくして気づくのは、装置自体は大きな変化を遂げていますが、歌手の動きなどの演出プランはほとんどバイロイトとは変わっていないということです。ラインの乙女が大股を開いてアルベリッヒを誘惑する仕草も、そのアルベリッヒがヴォータンたちにだまされてしまうあたりの茶番のような段取りも、そして、終幕の神々の意味不明なつたない演技も、基本的に同じものでした。いささか「装置に負けている」という印象があったのは、ただリセウの歌手たちの修練が足らないだけのことなのでしょうか。しかし、このオペラハウスのオーケストラに対しては、そのような言い訳は通りません。およそ迫力に乏しい金管や、美しくない部分が目立ってしまう木管は、ド・ビリーの指揮を論じる以前の問題です。
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by jurassic_oyaji | 2005-04-15 19:55 | オペラ | Comments(1)
MOZART/Die Zauberflöte

Susie LeBlanc(Sop)
Christoph Genz(Ten)
Stephan Genz(Bar)
Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
AMATI/AMI 2301/3(hybrid SACD)



クイケンによるモーツァルトのオペラは、今までACCENTレーベルから「コジ」(1992年)、「ドン・ジョヴァンニ」(1995年)、「フィガロ」(1998年)が出ていました。これらは、現在ではライセンスが例のBRILLIANTに移って、「モーツァルト全集」の中に収録されていますから、非常に安価に(オペラ1曲あたり1500円程度)入手出来るという、大穴のアイテムです(ダイアナはポール・アンカです)。今回、モーツァルトのメジャーオペラの中ではまだ録音されていなかった「魔笛」が、AMATIレーベルからSACDで出されました。そうなると、3枚組で7000円近く、これが普通の値段なのでしょうが、ずいぶん高いものに感じられてしまいます。
これは、2004年のボーヌ国際バロックオペラ音楽祭におけるライブ録音です。ワインで有名なこの町の中心にそびえる、12世紀に建てられたノートル・ダム教会で上演されたもののようですが、いったいどのような舞台装置が用いられたのか、興味があるところです。会場のせいか、オペラには珍しいとても残響のある録音、オリジナル楽器の柔らかな響きと相まって、とても居心地の良い音響空間が広がります。もちろん、その居心地の良さは、クイケンの真摯な演奏によるところも大きいはずです。音楽の流れを大切にした自然な表現は、ひところのオリジナル楽器による挑戦的な演奏とは全く無縁なもの、ここには、モダンとかオリジナルといった範疇を超えた「良い音楽」しか有りません。時代はここまで来たのですね。そんな流れに敢えて逆らおうとしているのか、元々いびつな表現しかできないのかは分かりませんが、いまだに自分勝手で不自然な演奏を「これがオリジナルだ」と主張している某○ノンクールあたりを信奉している愚かな人が増殖しているのは、理解に苦しむところです。
ただ、歌手陣は粒ぞろいというわけには行きませんでした。ザラストロのコルネリウス・ハウプトマンは、音程が定まらなくて苦しんでいるのがありあり。そして、最も失望させられたのはタミーノのクリストフ・ゲンツです。声自体は柔らかなのですが、あまりに弱々しすぎて、「王子」としての存在感がまるでありません。セリフが棒読みになってしまっているのも、この演目のようなジンクシュピールでは致命的な欠陥です。しかし、もう一人のゲンツ、パパゲーノ役のシュテファン・ゲンツはまさにハマリ役、生き生きとしたキャラクターを存分に出し切っています。たまにオーケストラに乗りきれないリズム感の鈍さは、ライブということで大見に見ましょう。最も安定しているのは、パミーナ役のスージー・ルブランでしょうか。そして、こんな少人数(1パート4人)でよくぞここまで充実した響きを出せるものだと驚かされた合唱のすばらしさも見逃せません。ただ、童子を歌っているテルツ少年合唱団のメンバーは悲惨です。もうこういう稚拙なレベルでは通用しない時代になっているということに、早く気づいて欲しいものです。
パパゲーナ役は、「フィガロ」でもバルバリーナを歌っていたマリー・クイケン、オーケストラのヴァイオリンパートにもサラ・クイケンとヴェロニカ・クイケンというように、「クイケン兄弟」の娘たちがレギュラーポジションを占めるようになった「時代」、もはや「オリジナル」に身構えること自体が「時代遅れ」になっているのです。
あ、もちろんグロッケンシュピールを使ってますよ。マスター。
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by jurassic_oyaji | 2005-04-09 19:58 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Götterdämmerung



Lothar Zagrosek/
Staatopernchor Stuttgart
Staatsorchester Stuttgart
TDK/TDBA-0057(DVD)



シュトゥットガルト州立劇場の「指環」、ついに「第3夜(ご存じでしょうが、この作品は序夜+3夜という数え方をします)」、「神々の黄昏」の登場です。「おやぢ」をはじめたときには、まさか「指環」全曲の映像のレビューを書けるようになるなど、考えてもみませんでした。それというのも、この数年、DVDが映像メディアとしてまさに成熟したものになってきたおかげ。そして、それに伴って、オペラなどのソフトが潤沢に供給され、スタンダードなレパートリーだけではなく、このような最先端のプロダクションまでが、日常的にリリースされるようになったのです。「演出の時代」と言われて久しい昨今のオペラ界、センセーションを起こした演出が、ほとんどタイムラグのない状態で、このように手軽に映像で実際に味わえるようになれば、その傾向はますます助長されることでしょう。
ここで「神々」の演出を手がけたのは、ペーター・コンヴィチュニーという「大物」です。以前彼の演出で非常に印象的だったのが、「トリスタン」、このタイトル・ロールが初めてステージに登場したとき、彼はなんとシェービング・クリームを顔に塗りたくって、ひげそりの真っ最中だったのです。そんなオマヌケな設定から、この場面でのトリスタンのイゾルデに対する無関心さは、非常に良く伝わってきます。そんな具合に、彼の演出の根底にあるのは、卑近な「わかりやすさ」、それによって、観客の関心をドラマに引きずり込む手法には、卓越したものがあります。
「神々」でも、その「わかりやすさ」の仕掛けは際だっています。一番笑えるのが、ジークフリートがグンターに扮してブリュンヒルデを手込めにしようとする場面、状況を理解したブリュンヒルデは、もうなすがままになるしかないと、着ていたネグリジェの裾をまくり上げ、自らぱんてぃをずりおろすのです。その脱いだぱんてぃを足首に巻き付けてよろよろ歩く姿の、なんと屈辱的なことでしょう。これが、いずれはジークフリートのたくらみだと知って、復讐を果たすためにハーゲンに弱点を教えるという動機なのだとしたら、これほど「わかりやすい」仕掛けもありません。ただ、演出に関しては様々な見方がありますから、各々の理解の範囲内で楽しめばよいことです。一つの答えを得ることは、演出家の本意ではないはずですから。
演奏に関しては、この劇場の合唱団のとてつもない力には驚いてしまいました。オペラの合唱に細かい表情を求めるのはそもそも無理があると普通は思われていますが、この合唱を聴いてしまうと、そんなものはただの言い訳にしか聞こえなくなってしまいます。そんなことを言っていていいわけがない、と思えるほど、この合唱団の作り出す表現の幅は膨大、あのピアニシモのすごさなどは、コンサート専門の合唱団だって、ちょっと出すことは出来ないほどです。
ソリストでは、同じプロダクションの「ワルキューレ」でフリッカを歌っていた、ヴァルトラウテ役のティチーナ・ヴォーンが出色です。神々の窮状をブリュンヒルデに伝えるためにやってくる、その陰からの声からして、ひときわ印象的なものです。そのブリュンヒルデを演じるルアナ・デヴォルは、まさに「怪演」、この役を「神の娘」ではなく、生身の「年増の女」ととらえたコンヴィチュニーのプランにこれほど合致したキャラクターは、実年齢でも60歳を超えているこのベテランをおいて他にはないと思えるほどです。
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by jurassic_oyaji | 2005-04-03 23:15 | オペラ | Comments(2)