おやぢの部屋2
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カテゴリ:オペラ( 224 )
WAGNER/Auszüge aus "Der Ring des Nibelungen"



Ben Heppner(Ten)
Peter Schneider/
Staatskapelle Dresden
DG/00289 477 6003



ベン・ヘップナーの声を初めて聴いたときのことは、今でも忘れません。それは、「ヴァルトビューネ1999」、毎年、ベルリン・フィルがシーズンの締めくくりとしてベルリン郊外の野外音楽堂に何万人というお客さんを集めて行われるコンサートでした。毎年様々な趣向を凝らして開催されるそのコンサート、ジェームズ・レヴァインの指揮による1999年のテーマは「リヒャルト・シュトラウスとヴァーグナー」、そこで、ヴァーグナーの作品からローエングリンやヴァルター・フォン・シュトルツィンクのナンバーを歌っていたのが、ヘップナーだったのです。このような役を歌う歌手は力強くドラマティックな歌い方が要求され、特に「ヘルデン・テノール(英雄のテノール)」と呼ばれています(ちなみに、「メサイア」を歌うのは「ヘンデル・テノール」)。その当時、この呼び名にふさわしい歌手は殆どいなくなってしまっていた、というのが、私の抱いていた認識でした。ヴォルフガンク・ヴィントガッセンやジェームズ・キングはもはや過去の人、最も期待されていたルネ・コロも、すでに最盛期を過ぎた情けない声に変わってしまっていました。そこに現れたのが、このヘップナーです。大きな体からやすやすと発せられた輝きに満ちた声、待望久しい、真のヘルデン・テノールに出会えた事が実感できた瞬間でした。
ヘップナーは、1956年にカナダに生まれたといいますから、今年で50歳、歌手としてはまさに円熟の域を迎える年齢となっています。しかし、「トリスタン」や「マイスタージンガー」ではステージの経験もありDVDも出ているというのに、なぜか「リング」でのヘルデン・テノールのキャラ、ジークムントやジークフリートを演じた録音は今までありませんでした。そこへリリースされたのが、このヴァーグナーの「リング」からのハイライトです。まさに待望のアルバムと言えるでしょう。
ここでのヘップナーは、単にこの2つの役を演じ分けるだけの次元ではなく、その場に応じた的確な表現を見せるという、極めてクレバーな歌を聴かせてくれています。まず、「ヴァルキューレ」(もちろん、「リング」の中でも、「ラインの黄金」にはヘルデン・テノールの出番はありません)での、いかにも若く逞しい若者といったジークムントの姿はどうでしょう。彼の内に秘めた力強さが、ストレートに伝わってきます。そして、「リング」の中でも最も美しいナンバー「冬の嵐は去り」が、いささかの甘さもない毅然とした歌い方をされるのを聴く時、私達はこの歌の本質を知る事になるのです。このラブソングは、禁断の思いを実の妹に寄せる愛の歌、しかも、その愛が成就された末に生まれた子は、悲劇的な生涯をたどる事になるという、救いようのないものなのですから。
「ジークフリート」は、タイトル・ロールである「その子」の、言ってみれば成長の物語です。ミーメの許でノートゥンクを鍛えているのは、ただの乱暴者でしかない世間知らず、それが、ファフナーが姿を変えた大蛇を退治する事によって知恵を授かり、さらにブリュンヒルデに出会い愛に目覚めるという、まさに「変態」の課程が描かれていると言ってもいいでしょう。これをヘップナーは、粗野な音色と表現から始めて、次第に深みを加えていくという歌い方の変化によって、見事に表現しているのです。「神々の黄昏」での臨終のシーンも、息をのむ程の美しさです。
ヴェテラン、ペーター・シュナイダーが率いるドレスデン・シュターツカペレは、ヘップナーが演じきったこの壮大な悲劇を、まさに職人的な緻密さで支えています。その重心の低いサウンドは、華やかさを用心深く排斥し、深みを極める事に全てを捧げているかに見えます。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-10 20:49 | オペラ | Comments(0)
Vienna State Opera Gala





Baltsa, Gruberova, Kirchschlager,
Domingo, Hampson, Terfel, Botha and more
Ozawa, Mehta, Thielemann, Gatti, Welser-Möst/
Chorus and Orchestra of the Vienna State Opera
EUROARTS/2054928(DVD)



昨年2005年は、戦災にあったウィーン国立歌劇場が再建され、オペラの上演が再開されてから50年が経ったという記念すべき年だったのだそうです。そこで、それを祝ってガラ・コンサートが開かれることになりました。もちろん、会場は満席、「ガラガラ」になることはありませんでした。11月の5日に開催されたそのコンサートの模様が完全収録されたのが、このDVDです。3時間に及ぶその豪華な催しを、存分にお楽しみ下さい。残念なのは、これがNTSCという普通のテレビの規格だということです。もっとも、現在国内で出ているDVDは全てこの方式によるものなのですが、元々のソースの制作はオーストリア放送協会とNHKが共同で行ったもので、しっかりハイビジョンで収録されています。そして、これは先日NHKBSのハイビジョンチャンネルで放送されましたから、それなりの装置を持っている人であれば無料で(もちろん、システムに費やした資金は無視します)見ることが出来るだけでなく、HDに保存しておけば、将来市場に出回るであろう次世代ヴィデオディスクとして残すことも可能なわけです。ですから、それよりもはるかに画質の劣る(あくまでも、それなりの装置を持っている人に限りますが)ディスクをわざわざお金を出して買うことにどれほどの意味があるのか、という点については納得のいかない部分が残りますが。
しかし、この夢のようなステージを眼前にしては、そんな些細なことはどこかへ吹っ飛んでしまうはずです。指揮者だけで、現音楽監督の小澤征爾を始めとしてメータ、ティーレマン、ガッティ、ウェルザー=メストという超豪華メンバーが5人、歌手に至ってはドミンゴ、ターフェル、バルツァ、グルベローヴァ、ハンプソン等々、数えきれないほどの人達が出演しているのですからね。
コンサートの流れとしては、この歌劇場が再開された時に上演された6つの演目の一部を、5人の指揮者にそれぞれ指揮をさせる、というものです。ただ、小澤だけは特別扱い、まずオープニングで「序曲レオノーレ第3番」を演奏したあと、大トリとして「フィデリオ」の大詰めを指揮する、という、まさに「ホスト」の貫禄です。2番手のメータは「ドン・ジョヴァンニ」、ティーレマンだけ2曲で「薔薇の騎士」と「マイスタージンガー」、ガッティは「アイーダ」、ウェルザー=メストは「影のない女」という演目があてがわれています。
演奏はもちろんこの歌劇場のオーケストラ、別の場所では「ウィーン・フィル」と呼ばれている団体です。このようなトップクラスのオーケストラと歌手が一堂に会した場で最も重要になってくるのは指揮者の手腕でしょう。私が最も素晴らしいと思ったのは、映像を見るのはこれが初めてのガッティでした。担当の「アイーダ」で、オーケストラにも、そして歌手にも十分の自由さを与え、それでなおかつ全体を自分の音楽でまとめ上げるという力は凄いものです。自分の主張が空回りしていたティーレマンとは、まさに好対照でした。われらが小澤も、全体のまとまりにまでは気が回らないのがありあり、このつまらないオペラに聴き手の耳をそばだてさせられることは、ついに叶いませんでした。
歌手陣での最大の収穫はヨハン・ボータです。風貌に似合わぬ繊細この上ない歌唱は、まさに絶品でした。オクタヴィアンを歌ったキルヒシュラーガーの、ボーイッシュなのにセクシーというファッションも素敵ですね。
ステージの上には、それこそ1955年の舞台を踏んだ歌手たちが、「来賓」として座っていました。そんな殆ど伝説上の人達、誰も知っているわけはないと思っていたら、一人だけ、上手の出入り口のすぐ前に座って、出演者たちとオーバーアクションで握手を交わしているクリスタ・ルートヴィヒの姿が目に付きました。バーンスタインの指揮で、このオペラハウスでマルシャリンを歌っていたのはついこの間だと思っていたのに、彼女はもう引退していたのですね。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-24 19:52 | オペラ | Comments(0)
VERDI/La Traviata
Anna Netrebko(Sop)
Rolando Villazon(Ten)
Thomas Hampson(Bar)
Carlo Rizzi/Wiener Philharmoniker
DG/477 5936
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1274/5(国内盤 12月7日発売定予定)


今年8月のザルツブルク音楽祭でのライブ録音が、早くもCDになって登場です。「ニューイヤーコンサート」などとは異なり、オペラの場合は編集などに相当な時間がかかるはずなのに、こんな素早いリリース、らいぶ、無理をしたのではないでしょうか。
この公演は、日本のテレビなどでも大々的に紹介されていましたから、現地での評判はものすごいものだったことでしょう。なんと言っても、その評判の立役者はヴィオレッタ役のアンナ・ネトレプコ、人気に於いては、完全に彼女1人が独占したということは、多くの人が言及していましたね。指揮者が、予定されていたマルチェロ・ヴィオッティの急逝にともなってカルロ・リッツィに変わったのも、一つの話題でした。
ネトレプコとともに話題を呼んだのが、アルフレード役のヴィラゾンです。まさに美男美女と言い切って構わないこの組み合わせ、新しい世代のスーパースターの登場と、マスコミはこぞって煽り立てたのでした。初日の模様はORFによってテレビで生中継されたと言いますから、これをそのままDVDなどの映像で堪能できれば、ヴィジュアル的な醍醐味を味わうことができるのでしょうが、歌手の契約上の問題から、当分発売されることはないだろうというのは、CDショップのお兄さんの話、まあ、とりあえず音だけで、この公演の模様を楽しむことにしましょう。とは言っても、レコード会社の「スタジオ録音に近いものを提供したい」という良心のあらわれなのでしょうか、「ライブ」では当然あるはずのアリアの後の拍手などが、きれいさっぱりカットされているのには、ちょっと驚いてしまいました。前奏曲が始まるのと同時にステージの足音などが派手に聞こえてくるのですから、そんな小細工は殆ど意味のないものになってしまうのですがね。実際、これだけの会場の雰囲気がたっぷり入った録音から拍手だけが消えていると、逆にものすごく不自然なものに感じられてしまうから、不思議です。
その若い2人、ネトレプコの方にはもはやカリスマ的な風格さえ漂っているのはさすがです。なによりすごいのは、このオペラを彼女1人の力で仕切ってしまっているということです。「乾杯の歌」など、ちょっと軽めのテンポで始まったものを、彼女はものの見事に自分のテンポに持って行ってしまっているのですから、すでに指揮者すらも自分の支配下に置いているのが分かります。その突き抜けるような高音の力で、最後まで、まさにプリマドンナの貫禄を示し続けてくれました。ただ、相手役のヴィラゾンがちょっと「格」が違うのでは、と思わざるを得ないような出来だったのは、残念でした。独特の甘い声は魅力的ではあるのですが、いかんせん音楽的な「力」が決定的に不足しています。ネトレプコとのデュエットでは、とうとう最後までかみ合うことなく、情けなさだけが露呈してしまっていました。
私にとっては、この公演の最大の収穫はジェルモン役のハンプソンでした。今まで聴いてきたジェルモンとは全く異なる明るい声のバリトンは、ここで、思っても見なかったような強烈な存在感を示してくれたのです。圧巻は第2幕のヴィオレッタとの二重唱。本来は田舎ものの親父が無理難題をふっかけるというシチュエーションなのでしょうが、これをハンプソンの美声でやられると、とても優しく諭されているように思えてしまいます。この優しさがあったからこそ、ネトレプコのちょっとヒステリー気味の演技がきちんと意味を持つことが出来たのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-14 20:50 | オペラ | Comments(0)
MENDELSSOHN/Der Onkel aus Boston

Kate Royal(Sop)
Carsten Süß(Ten)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.221



ヘルムート・リリンクは1933年生まれだそうですから、もうすでに70歳を超えていたのですね。今でこそ、バッハのカンタータを全曲録音しようとしている人はたくさん出てきましたが、彼が世界初のカンタータ全集を録音した時には、まさに「偉業」と讃えられたものです。もちろん、この偉大な業績は、それ以後にどんな全集が現れようが、バッハ演奏史においては永遠に語り継がれていくことでしょう。最近のオリジナル楽器による演奏家の活躍なども視野に入れて、彼自身の演奏スタイルも柔軟に変えていくという、フットワークの自在さも見逃せません。
「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」の主宰者としてのリリンクは、最近ではバッハに限らない、幅広い作曲家の作品を取り上げ、その事によってバッハの裾野の広さを世に知らしめているような活動を展開しているように見えます。その、最も新しい成果が、この、メンデルスゾーンの知られざるオペラ「ボストンからの叔父」の蘇演です。最近何かと話題のモーツァルト同様、小さい頃から音楽の才能を発揮した早熟な(「ぼく、十(とお)からのおやぢ」)メンデルスゾーンが、これは14歳の時に作ったオペラということになります。当時の彼は、ベルリンの「ジンクアカデミー」で、有名なツェルターに作曲の指導を受けていたわけですが、この時期に3つの1幕もののオペラと、この3幕の作品を作っているのです。これらのオペラは、メンデルスゾーン家の内輪のコンサート(といっても、聴衆にはツェルターなどそうそうたるメンバーが名を連ねているのですが)で上演されただけで、その後は全く演奏されることはありませんでした。
この録音は、その、まさに180年ぶりの「再演」ということになります。ただ、この時期のドイツオペラに本来はあったはずの「セリフ」は一切カットされて、音楽のみが演奏されています。ブックレットの写真を見ると、ステージ上にオーケストラと合唱団、そして配役の扮装をしたソリストたちが並んでおり、舞台装置などは一切ない「コンサート形式」の上演であったことが分かります。トータルで1時間40分、まあ手頃な長さでしょう。
作品としての魅力は、なかなか捨てがたいものがあります。序曲の冒頭でホルンのコラールが聞こえてくるあたりは、まさに「ドイツオペラ」としての特色を出そうと意図したものなのかもしれません。幕の中で聴かれるバレエ音楽も、なかなか素敵なものです。特に、第2幕にある「大きなバレエ」では、木管楽器のソリスティックなアンサンブルが耳を楽しませてくれます。最近の「バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト」でのフルートのトップはヘンリク・ヴィーゼ、彼の伸びやかで輝かしい音色はとても魅力的です。
ただ、基本的には作曲の勉強の成果、といった趣をぬぐい去ることは出来ません。そこにあるのは、オリジナリティよりは、少し前の作曲様式の模倣、この作品の中にモーツァルトの「後宮」や「魔笛」と非常によく似たテイストを感じたとしても、それは致し方のないことなのでしょう。時折見え隠れするロマンティックな翳りが、メンデルスゾーン自身のものとしてきちんとした形になるには、もう少し時間が必要になってくるのです。
このオペラを完成させた年のクリスマスに、メンデルスゾーンは後に100年ぶりの蘇演を行うことになるバッハの「マタイ受難曲」の楽譜をプレゼントされます。その時点では、彼はこのオペラが180年後に初めて再演されることになろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-30 19:20 | オペラ | Comments(0)
Mozart The Supreme Decorator



D.Montague, E.Futral, M.Cullagh(Sop)
Charles Mackerras/
The Hanover Band
OPERA RARA/ORR 232



「モーツァルト、最高の装飾家」という、まさに来年のモーツァルト・イヤーに向けてのもろ企画アルバムです。もちろん、これはこういうことが大好きな指揮者のマッケラスが自ら監修にあたっており、これからうんざりするほど出てくるであろうどこぞの国の「○○に良く効くモーツァルト」などという便乗企画とは根本的に異なる次元の志を持ったものであることは、言うまでもありません。
モーツァルトが他の作曲家の作品をどのように「装飾」したか、という様子を実際に音で体験してもらおうという企画、しかしここで実現されているのは、単に曲を並べただけという安直なものではありませんでした。マッケラスは、ライナーノーツの中で、そのような曲、あるいは装飾が出来上がる課程でモーツァルトと関わりがあった人物たちのことを細かく述べてくれています。それによって、モーツァルトの素顔が自ずと浮き出てくる、という巧妙な仕掛けが、ここには施されているのです。その人物の1人が、当時ロンドンで活躍していた大バッハの末子、ヨハン・クリスティアン・バッハ、21歳年上のこの作曲家は、モーツァルトが唯一尊敬した同業者として、彼の手紙にはたびたび登場しています。そのバッハの「シリアのアドリアーノ」というオペラからのソプラノのためのアリアが、まずこのアルバムに登場します。最初にダイアナ・モンタギューによって歌われるのがオリジナルのバッハ・バージョン、そして、そのあとに続くのがマジェラ・カラフとエリザベス・フラトルによって歌われれう2通りのモーツァルト・バージョンです。ここでモーツァルトは、元からあったゆったりとした前奏をバッサリカットして、全く別の快活な部分を新たに挿入、それを導入として本来のアリアに入るという、実にかっこいい編曲を行っています。もちろん、フレーズの至るところにはセンスの良い「装飾」が施され、目の覚めるようなカデンツァが彩りを添えます。
そして、このようなバージョンを作るきっかけを与えたのが、もう1人の登場人物、その当時の恋人アロイジア・ウェーバーでした。健康食品も時としてお肌に悪いもの(それは「アロエじわ」)。やがてはこのアロイジアの妹であるコンスタンツェと結婚することになるのですが、この頃はオペラ歌手であった彼女に夢中だったモーツァルトの、「バッハさんのこんな曲があるんだけど、歌ってみない?君が歌えばもっと素敵になるように、ぼくがちょっと手を入れてみたんだ」みたいな、幸せそうな様子が目に浮かんではきませんか?
実は、このアルバムのコンセプトはもう一つあって、それは「パクリ屋としてのモーツァルト」。先ほどのクリスティアン・バッハの曲からアイディアを借りて、それを彼なりに展開させたという実例が2つほど紹介されています。そのうちの一つが、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロを独奏楽器としたコンチェルタンテの形を持つ「後宮」の中のコンスタンツェのアリアですが、確かにその前に聴かれるバッハの「シピオーネの慈悲」というオペラの中の曲とそっくりのアイディアが見られます。もちろん、これは敬愛する作曲家の良いところを積極的に自らの語法の中に取り入れるという、ポジティブな意味での「パクリ」ととらえるべきでしょう。
3人のソプラノは、いずれも清楚な歌い方で好感が持てます。私としては芯のある響きで一歩ぬきんでているフトラルの声がベストでしょうか。久しぶりに聴いたハノーヴァー・バンドの柔らかい響きともども、ホールの空気感まで見事に収めることに成功した録音の素晴らしさも光っています。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-10 19:35 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Don Giovanni








Charles Mackerras/
Orchestra of the Prague National Theatre
YONSEI/YDS-D1006(DVD)



来年2006年は、モーツァルトの生誕250年とかで、またまた大騒ぎの予感、と言うか、もうすでにその前哨戦は始まっています。それに便乗したのでもないのでしょうが、ほんの少し前、1991年のモーツァルトの没後200年(そんなのがありましたね)にちなんだイベントのDVDが、韓国の正体不明のレーベルからリリースされました。マッケラス指揮の「ドン・ジョヴァンニ」が2000円以下という値段で見られるのですからこれはお買い得「待ってました」とばかりに、つい手を出してしまいましたよ。
これは、このオペラが初演されたプラハ国立歌劇場での、記念すべき上演の模様が収録されたものです。プラハには3つほどオペラ劇場がありますが、いわゆる「スタヴォフスケー」と呼ばれるこの劇場は、この催しに合わせて8年間にわたる修復工事を行って、モーツァルト当時の美しい姿に再建されました。作曲者の没後200年にあたるこの年、チェコの大統領ヴァツラフ・ハヴェル臨席の下に行われたこの公演、指揮者のマッケラスがピットに現れてすぐ演奏されたのが、序曲ではなくチェコ国歌だったのには、ちょっと驚かされます。逆に、何の疑いもなくこのようなことが出来るこの国の人たちをちょっと羨ましくも思ったものです。ロイヤルボックスに立つだけで敬意を払えるような元首も、そこで演奏されるべき国歌も持たない私達の国は、何と精神的に貧しいのでしょう。
この歌劇場にとって、「ドン・ジョヴァンニ」は特別な演目であるに違いありません。ですから、ここでマッケラスが用いていたのは、かつてこの地で初演された形、「プラハ版」であることには重要な意味があります。したがって、第1幕でドン・オッターヴィオのアリアが歌われなくても、それで失望するのはお門違いというものです。もっとも、失望という点では、この由緒あるオペラハウスのオーケストラのあまりの酷さを体験してしまえば、他のことには寛容にならざるを得ないのでしょうが。録音の酷さも相まって、このオーケストラの音からはこのような晴れがましい席にふさわしい響きは全く聞こえては来ません。しかし、レポレッロ役のルジュク・ヴェレと、ドンナ・アンナ役のナジェジュダ・ペトレンコについては、そんな我慢をする必要がないほどの完成度の高さを見ることが出来るのは、せめてもの救いでしょうか。「カタログの歌」の引き締まった表現はちょっと聞きものです。ツェルリーナ役のアリス・ランドヴァーも、その美しい容姿はとことん魅力的です。
演出については多くを語りますまい。ドン・ジョヴァンニ役のアンドレイ・ベスチャスニーが、ジャージ姿でリンゴをかじりながら登場することに、何の意味があるというのでしょう。ドンナ・アンナの強姦のシーンが、まるで合意の下での行為のように見えてしまったり、騎士長との決闘でドン・ジョヴァンニ自身も傷を負うというちょっと変わった設定だったとしても、そこで抱く期待感はその後の平凡極まりない進行によって、見事に裏切られてしまうのですから。「地獄落ち」のシーンで意味もなく回転する回り舞台の醜悪なこと。
最も我慢できないのは、その演出をした人が誰なのかを全く知ることが出来ないDVDのパッケージの不親切さです。それだけではなく、音と映像は最初から最後までずれているという編集のお粗末さ、さらに時折見られるドロップアウトと、商品としての欠陥は目を覆うばかり。もう二度と、韓国製のDVDは買うものか、と、堅く心に誓う私でした。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-06 19:39 | オペラ | Comments(0)
The Phantom of the Opera










STYLEJAM/ZMBY-2301(DVD)


先日公開されたばかりの映画が、もうDVDになりました。すでにサウンドトラック盤はご紹介済み、もちろん、音楽的な内容はその時のものと変わる事はありません。あの時に、オペラの「ハイライト盤」と「全曲盤」について書きましたが、今回は言ってみれば映像も付いたオペラのDVDのようなものでしょうか。
ミュージカルとしての「オペラ座の怪人」は、もちろん音楽として非常に完成度の高いものです。これでもかというほどに贅沢に登場する極上のメロディ、それらが有機的に絡み合って、実際、下手なオペラをしのぐほどの感動を与えてくれるものです。しかし、ここで描かれているファントム、クリスティーヌ、そしてラウルを巡る愛という、ある意味完結した世界は、ガストン・ルルーの原作が持つ暗く猥雑な世界からは少し距離を置いたものでした。
この映画で監督のシュマッカーが最もこだわったのは、その原作の持つ世界観を取り戻す事だったのではないでしょうか。ミュージカルでは舞台作品という制約上、ある程度部分的に切り取った形でしか再現できなかったものを、映画の特性を最大限に使い切って、その細々とした設定をしっかり見せてくれている、というのが、今回の映画化の最大の功績だと思えるのです。それが最も良く現れているのが、オーバチュアの部分。ミュージカルでは、シャンデリアが上がっていく間に薄汚れたオークションの会場が豪華なオペラハウスに変わる、という、もちろんかなりインパクトのある場面転換があるのですが、この映画では、その上に、多くの人々でごった返す舞台裏の喧噪を事細かに描写してくれています。そこで私達が目にするのは、観客の目に触れないところで広がっている、まるで一つの独立した「町」ででもあるかのようなオペラ座の裏方。その入り組んだ迷路のような空間は、確かにファントムが誰の目に触れる事もなく出没できるという原作の描写が納得できるものになっています。
この作品、もちろんすでに劇場で何度も体験したものですから、今回、映像はパソコンのディスプレイで見、音はヘッドフォンで聴く、という究極のパーソナルな味わい方を試みてみました。そうすると、大画面とはまた違った魅力を発見する事になりました。最大の収穫は、映像のディーテイルが、劇場よりも鮮明に理解できたことです。意外かもしれませんが、劇場では時としてスクリーンの全体ではなく、ごく一部分しか見ていなかった事がはっきりしてしまったのです。今回は全体を見据えた上での細部という見方が出来、先ほどのような感想も生まれたのでしょう。
もう1点、音の面で、劇場のスピーカーは、特にサラウンド用のサブスピーカーのクオリティが意外に低い事がよく分かりました。ヘッドフォンで初めて聴けた生々しいSE、例えばファントムがバラの花びらをバラバラとちぎる音に込められた怨念などは、劇場のスピーカーからは決して聞き取る事が出来なかったものでした。
こんなすごい体験がご家庭で味わえるなんて、これは絶対お買い得。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-29 20:17 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Tristan und Isolde

Wolfgang Millgram(Ten)
Hedwig Fassbender(Sop)
Leif Segerstam/
Royal Swedish Opera Male Chorus
Royal Swedish Opera Orchestra
NAXOS/8.660152-54



この「おやぢの部屋2」の最初のアイテムが、レイフ・セーゲルスタムが指揮したスウェーデン王立歌劇場のメンバーによるヴァーグナーのオペラ合唱曲集でした。この、男の風上にも置けないようなファースト・ネームを持つ(それは「レイプ」)フィンランドの指揮者によるヴァーグナー、ちょっと今までにない風通しの良さを感じたので、この「トリスタン」の新録音も聴いてみる気になりました。
最近のオペラCDは、いろいろ複雑な状況の中にあるようです。何よりも、DVDの価格が下がってきたことにより、CDと変わらない、場合によってははるかに安い価格で、音だけではなく、映像も見ることが出来るようになったのは、オペラファンにとってはうれしいことです。正直、小さな文字のリブレットを見ながら(CDサイズになって、オペラの対訳は本当に読みづらくなりました)音だけで話を追うのは、かなり辛いものがあります。それが、音楽とドラマを同時に味わうという、本来オペラを鑑賞する時のあるべき姿が簡単に実現できるようになったのですから、まさにCDの存在価値自体が問われる事態となっているのです。
そうは言っても、全ての演奏に映像が付くわけではないのですから、これからも「音だけ」のオペラが無くなることはありません。要は、DVDなりでその作品の芝居の流れとセリフを頭に入れておきさえすれば、CDを聴いた時にはリブレットに頼らなくても言葉は分かりますし、それこそ、一つの固定された演出ではなく、自分の好きなような画面を想像することだって出来るようになるのですからね。正直、声は素晴らしいのに体格があまりに立派すぎたり、容貌が水準に達していない歌手などは、アップで見たくはありませんし。
そんなわけで、このスウェーデンのオペラハウスのプロダクション、演目は「トリスタン」、内容はすっかり頭に入っているものですから、「音だけ」で楽しむことにしましょう。まず、注目したいのは、第1幕で登場する合唱です。前のアルバムでもここの合唱団のレベルの高さは証明済みですが、ここで聴くことの出来る男声合唱も、とことん存在感のあるものでした。単にきれいにハモるという次元を超越した、その役(この場合は水夫たち)になりきるという、オペラの合唱のまさにあるべき姿です。
ひとつ、この演奏で特徴的なのが、第2幕が非常に短いということです。普通70分以上かかるものが、61分しかありません。これは、流れを最大限に重視するセーゲルスタムの音楽の作り方によるものなのでしょう。事実、前奏曲から続く、狩の角笛を描写した三連符の速いこと。これはまるで、少しでも早く邪魔者には遠くへ行ってもらいたいと願うイゾルデの、はやる気持ちを表しているかのように聞こえます。そして、さんざん待ちこがれたトリスタンが現れてからの段取りの良いこと。まさに、余計な手順は省いて、すぐにでもベッドへ直行したいという、若い恋人たちのノリです。そう、トリスタンのミルグラムこそ、ちょっとくたびれ気味の木偶の坊ですが、イゾルデ役のファスベンダーは、とてもしなやかでキビキビした、若さあふれるソプラノです(音だけだからこそ、そのような印象が際だつのかもしれません)。ですから、彼女が歌う「愛の死」は、重くドロドロしたものが一切感じられない、極めてピュアな輝きをもって迫ってきます。ありがちな年増の「王女」ではない、もっとピチピチしたイゾルデの姿が、そこにはありました。
オーケストラが、特に弦楽器に艶やかさが不足していると感じられたのは、あるいは、意識してアクの強さを押さえようとしたセーゲルスタムの配慮なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-22 19:44 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Le Nozze di Figaro






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnold-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4129(DVD)



ピーター・セラーズのプロダクション、最後にご紹介するのが「フィガロ」になってしまいました。今回の舞台は、ニューヨークの5番街にそびえ立つ「トランプタワー」です。日本でいえば「六本木ヒルズ」でしょうか、本当のお金持ちだけが住むことを許される高級マンション、その最上階、屋外テラス付きの一角が、アルマヴィーヴァの「お屋敷」です。そんな固有名詞は、序曲の部分で流れるフィルム画面(幕が開くとビデオの画面になります)でニューヨークの街中が流れ、その中でひときわ目立つあの全面ガラス張りの建物が出てきますから、すぐ分かります。ご存じでしょう?あの、女性下着の形をした(それは「トリンプタワー」)。これは、他の作品での荒廃したスラム(「ドン・ジョヴァンニ」)と、リゾート地のビーチ(「コシ・ファン・トゥッテ」)と同じように、その舞台となった場所の現地を撮影したもの、モーツァルトを「現代」に置き換えるためのパイプの役割を果たしています。
この「ダ・ポンテ三部作」、ほぼ同じ時期に収録されたものでしょうから、この「フィガロ」と、「コシ」で、キャストが交錯しているのが面白いところです。なんか、昼メロ(ニューヨークだと「ソープオペラ」)で、同じ役者が別のドラマに別の役で出ているような感じです。そもそもこのシリーズの歌手たちは、実力的には小粒、中にはとても使い物にはならないような貧弱な声の持ち主も混ざっているのは、声よりも演技を取った、セラーズの人選によるものなのでしょうか。そんな中で、最も安定した力を発揮していたのがフィガロ役のスタンフォード・シルヴァンですが、「コシ」ではドン・アルフォンソでしたね。 そんな風に、ケルビーノはフィオルディリージ、伯爵がグリエルモ、そしてなんと、マルチェリーナ役の人がデスピーナをやっていたのですから、すごいですね。もちろん、デスピーナは年増の若作りという完全なミスキャストですが、案外そこがねらいだったのかも。そういえば、スザンナ役の人もかなり高齢、第4幕でコンテッサに変装してしまうと、とてつもなくグロテスクでしたから、やはりこのあたりにはセラーズの意図が入っていると考えた方が良いのでしょう。
この作品の場合、時代設定こそぶっ飛んでいますが、その他のキャラクター設定は至って普通、スザンナはメイドですし、フィガロは執事みたいなものでしょうか。舞台装置も、他の2作のように最初から最後まで同じ場所を使うということはせず、しっかり幕ごとに原作通りの場所が用意されています。やはり「フィガロ」では大幅な読み替えは難しいのでしょうね。それだけではなく、ダ・ポンテが仕込んだ「毒」は当時の貴族階級にこそ最大の効き目があるように処方されていたものなのでしょうから、それをただ現代に移しただけではなんの力も持たなくなってしまいます。その意味で、この作品におけるセラーズのプランは、ややインパクトに欠けるという印象は免れません。合唱などは、演出の意図が徹底されなくてちょっと棒立ちの場面もありますし。
そうなってくると、音楽的な弱さがもろに前面に出てきてしまって、ちょっと辛い場面も。アントニオ役のように、芝居でも過剰に浮いている上に、歌もお粗末という人も現れて、最後まで緊張して見るというわけにはいきませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-28 22:22 | オペラ | Comments(2)
MOZART/Don Giovanni






Peter Sellars(Dir)
Craig Smith/
Arnord-Schönberg-Chor
Wiener Symphoniker
DECCA/071 4119(DVD)



ピーター・セラーズ演出の「ダ・ポンテ三部作」がいかにユニークであるかは、このシリーズのDVDのジャケットを見ただけで分かります。印刷されている文字は、作曲者とオペラのタイトル、そしてこの演出家の名前が全て、そこには、指揮者やプリマ・ドンナの入り込む隙間など、用意されてはいないのですから。ここで、もしかしたら、この映像の作られ方も、チェックしておかなければいけないのかもしれません。もともとはステージ用に作られたプロダクションでしたが、この収録に当たってはテレビ撮影用にスタジオが使われています。ただ、良くあるような、音楽だけ先に録音して、それに合わせて演技をするというようなものではなく、普通のオペラハウスと同じように、指揮者とオーケストラがいて、きちんと「生」で歌っている模様が撮影されています。前にご紹介した「コシ」では歌手が客席の中に入って歌うという演出があってその全貌が分かるのですが、その状況はおそらく他の作品でも同じことなのでしょう。スタジオといっても、かなりの客が入るスペースがあって、オケピットも備わっているという、昔のNHKホール(「お笑い三人組」とか、やっていましたね)のような感じのところです。
さて、この「ドン・ジョヴァンニ」では、舞台はニューヨークのハーレム、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが黒人という設定です。もちろん、彼らは貴族などであるわけはなく、このあたりを縄張りにしているチンピラ、クスリはやるは、ピストルはぶっ放すはと、かなり危ないキャラ。この2人を演じているのが、ユージン・ペリーとハーバート・ペリーという、(たぶん)兄弟です。容姿も声も瓜二つ、このキャスティングは、単に話の中でお互いが入れ替わってドンナ・エルヴィラをだます時にリアリティを持たせるという以上の意味があるのは明らかです。この2人は原作のような主従関係ではなく、もっと固い絆で結ばれている「仲間」、もしかしたら、お互いの一部を共有しているほどのつながりを持った関係なのかもしれません。その感触は、ゾンビと化したドンナ・アンナの父により、マンホールの中に「分身」が身を沈められたあとのレポレッロの取り乱し方からも確認できるはずです。原作のように、主人が死んだら悔い改めて新たな道を求めるというような脳天気なことは起こりえない、やり場のない「暗さ」を造り出すのが、このセラーズの演出の目論見の一つなのかもしれません。そのエンディングで、合唱団員の女性が豊満な胸を披露してくれるのも、決して単なるサービスカットではないむね、ご承知おき下さい。
ここで、字幕にも注目してみましょう。これは輸入盤ですから英語の字幕しかないのですが、それでも、原作通りに歌われている元のイタリア語に対して、かなり演出に沿った読み替えが施されているのが分かります。もともとは「お屋敷」だったものが「俺のシマ」みたいに(事実、2幕の晩餐は路上に座ってマクドナルドのハンバーガーをかぶりつくというものですし、バンダはラジカセなのですから)。
音楽的には、例えば、現在では殆どカットされることの多い第2幕のウィーン版によるレポレッロとツェルリーナのデュエットが聴けるのは嬉しいものです。しかし、クレイグ・スミスの作り出す音楽は、それだけではなんの力も持たないとことん生ぬるいものに終始しています。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-25 20:06 | オペラ | Comments(0)