おやぢの部屋2
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カテゴリ:オペラ( 208 )
BIZET/Docteur Miracle
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Marie-Bénédicte Souquet, Isabelle Druet(Sop)
Jérôme Billy(Ten), Pierre-Yves Pruvot(Bar)
Samuel Jean/
Orchestre Lyrique de Re()gion Avignon Provance
TIMPANI/1C1204




クセナキスのオーケストラ作品の全集はなかなか先に進まないで立ち消えになりそうな気配のTIMPANIレーベルですが、本来の役割であるフランスの隠れた作品の紹介ではまだまだ頑張っているようです。しばらく新譜を見かけないなと思っていたら、どうやら日本の代理店が替わったみたいですね。そのためにリリースが滞っていたのでしょう。
そこで、新しく代理店になったのが、ナクソス・ジャパンなのだそうです。ここは、自社製品でなくてもしっかり帯解説を付けてくれたりしていますから、これにも期待したのですが、あいにくなにもありませんでした。そこまでは手が回らなかったのでしょうか。
この「ミラクル博士」というのは、ビゼーが18歳の時に作ったという「オペレッタ」、あるいはフランスですので「オペラ・コミーク」と言われるジャンルの作品です。まあ、ビゼー晩年(といっても36歳)の有名な「オペラ」である「カルメン」も実は「オペラ・コミーク」なのですが、物語の内容も音楽のスケールも、大きく異なっています。すでに録音もありますし、実際に日本で上演されたこともありますが、おそらく今まで普通に聴かれたことはまずない、極めて珍しい作品です。
そんな珍しいものですから、この代理店が誇る「帯職人」の手によってせめてあらすじだけでも読めるようにしてほしかったなと、切に思います。
とりあえず、出演者は女性二人、男性二人の4人だけです。それは、地方の司法官(名前は明らかにされていません)とその妻ヴェロニク、その娘のロレット、そして、彼女が愛している兵士のシルヴィオ。ただ、ヴェロニクは今までに4人の夫と死別していて、現在の夫に対しても死んでくれることを望んでいるという、ちょっとアブナい人。ロレットも、義父からは別の男との結婚を迫られているという、問題を抱えた家族構成です。そこで、シルヴィオは醜いコックに変装して毒入りのオムレツを作って司法官に食べさせ、今度はどんな病気でも治せる「ミラクル博士」という、ラテン語しかしゃべれない医者に変装して現れ、最後はめでたくロレットと結婚するという、ドタバタ喜劇なのでしょう。
音楽は、その前の年に作られたハ長調の交響曲のような、古典的なテイストに包まれています。全体的になんか「小さくまとまっている」という感じがしますね。序曲からして、ある意味荒唐無稽な物語にしてはきっちりと作られていますし、途中で短調に変わるなど「深み」を演出する意図は感じられます。その中で、のべつトライアングルのにぎやかなロールを鳴らし続けているのは、「喜劇」としての軽さを演出したいという気持ちの表れなのでしょうが、変に浮き上がって全体の方向性が散漫になってしまっています。
地のセリフを入れても、全体で1時間ちょっとという非常にコンパクトな作品ですので、気軽に楽しむことはできるでしょう。「アリア」とは言えないほどの素朴なソロ・ナンバーもありますが、メインはアンサンブル、軽妙なやり取りが、とてもあっさりした音楽によってすんなり入ってきます。最後あたりの、オムレツを食べるシーンでの「オムレツの四重唱」などは、笑いのツボをしっかり押さえていてほほえましく感じられます。
4人の歌手はそれぞれに魅力的ですが、シルヴィオ役のテノールの人は、もっと伸びやかな歌い方だとさらに魅力が増したのではないでしょうか。その人の演じているニセ医者がタイトルになっているのですが、これを「ミラクル博士」と訳してしまうと、なんだか近未来のマッド・サイエンティストの物語のように思えてしまいませんか?これからは、そのまま「ドクター・ミラクル」と呼んだ方がいいと思いま~す!
幕開けの三重唱の中で、一瞬「ハバネラ」の断片が聴こえてきたのにはびっくりしました。こんなところに「カルメン」の萌芽があったなんて。


CD Artwork © Timpani
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by jurassic_oyaji | 2014-01-27 00:18 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Der Fliegende Holländer, DIETSCH/Le Vaisseau Fantôme
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Evgeny Nikitin(Hol), Russel Braun(Troïl)
Ingela Brimberg(Senta), Sally Matthews(Minna)
Eric Cutler(Georg), Bernard Richter(Magnus)
Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre Grenoble
NAïVE/V 5349




ワーグナー・イヤーの幕切れになって、こんなすごいものがリリースされました。まずは、「さまよえるオランダ人」の初稿版です。これは、2004年に世界で初めて録音されたブルーノ・ワイル盤(DHM/82876 64071 2)に続くものになるのでしょう。
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この初稿は、自筆稿が残っているだけで、出版はされていません。1843年にドレスデンで初演された時には、すでに改訂されていて、「ゼンタのバラード」(世良公則ではありません・・・それは「アンタのバラード」)のキーが歌手の都合に合わせてイ短調からト短調に下げられたり、登場人物の名前や設定が変わったりしていました。
そしてもう一つ、ここにはそのワーグナーの作品とともに、ワーグナーが最初にこれをパリのオペラ座で上演したいと思った時に、支配人のレオン・ピレーに提出したフランス語の台本のスケッチをもとに、ポール・フーシェとベネディクト=アンリ・レヴォワルが作った台本に、オペラ座の合唱指揮者ピエール=ルイ・ディエチュが作曲、1842年にオペラ座で初演された、その名も「幽霊船」というオペラの世界初録音がカップリングされているのです。ワーグナーはこのスケッチに対する報酬500フランをもらっただけで、作曲を依頼されることはありませんでした。頭にきたワーグナーは、わずか10日間で彼の「オランダ人」の台本を完成させてしまいました。そして、1842年にはスコアも完成するのですが、当然パリで上演されることはなかったのです。
同じスケッチを使っていながら、この二つの作品は音楽も、そして物語も全く異なる様相を呈しています。ディエチュという人は、今でこそ完璧に忘れ去られていますが、なんせオペラ座から作曲の依頼を受けたというのですから、「オペラ座」向けの作曲のノウハウは熟知していたはずです。序曲なども、同じ嵐の描写でもワーグナーみたいに空虚5度などという「前衛的」なものは使わず、ごくごくまっとうな波しぶきを表現していますしね。そして最後にはなんともノーテンキなドンチャン騒ぎで幕開けを用意するという分かりやすさです。
物語は、ワーグナー版の「ゼンタのバラード」に相当する「ミンナのバラード」で始まりますが、あちらのような深刻なものではない素朴な民謡調、ミンナにはもちろんアリアもありますが、それはコロラトゥーラを多用したとことん技巧的なものです。そういう派手なことが、オランダ人(こちらは「トロイル」)のアリアにも使われているのですから、いかにお客さんを楽しませることに腐心しているかがわかります。そう、これはまさにそういうエンターテインメント(もちろん上流階級向けの)なのです。
と、音楽的には聴衆の好みに合わせたとことんコンサバなものなのですが、その分ストーリーとしてはワーグナーの台本よりも納得のいくものに仕上がっているな、という気がします。その最大の理由は、エリック(この初稿では「ゲオルク」)のキャラ設定の違いでしょうか。ディエチュ版では「マグヌス」という名前になっていますが、彼は婚約者であるミンナ(ゼンタ)がトロイル(オランダ人)になびいてしまっても、エリックのようにしつこく「ストーカー行為」をすることはなく、黙って身を引くという「大人」として描かれているのですからね。やはり「女は奪うものだ」というワーグナー自身の性癖からは、こういう人物像は出てこないのでしょうか。それは晩年のハンス・ザックスまで待たなければいけません。
この2つの作品を並べて聴いてみると、ミンコフスキはなんだかディエチュ版の方にシンパシーを感じているのではないか、と思えるようなところがあります。というか、ワーグナーにも少なからず登場するコンサバな音楽(ダーラント、いや、ドナルドが絡んだ部分など)の扱いが、何かぎこちないのですよね。そういうところをディエチュのようにあけっぴろげになれないあたりが、ワーグナーの難しさなのでしょう。

CD Artwork © NAÏVE
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by jurassic_oyaji | 2013-12-21 21:51 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Die Zauberflöte
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Pavol Breslik(Tamino), Kate Royal(Pamina)
Dimitry Ivashchenko(Sarastro), Ana Durlovski(KdN)
Michael Nagy(Papageno), Regula Mühlemann(Papagena)
Robert Carsen(Dir)
Simon Rattlee/
Rundfunkchor Berlin(by Simon Halsey)
Berliner Philharmoniker
BERLINER PHILHARMONIKER/BPH130012(BD)




1967年にカラヤンによって創設されたザルツブルク・イースター音楽祭は、カラヤンの手兵ベルリン・フィルがオペラを演奏するというコンセプトで、今日までベルリン・フィルの音楽監督の指揮によって継続されてきました。しかし、昨年、様々な問題があって、ベルリン・フィルはこの音楽祭から完全に撤退することになったのだそうです。そして新たに、今年、2013年からバーデン・バーデンで、同じくイースターの期間に音楽祭を開催することになりました。そのオープニングを飾ったのが、サイモン・ラトルとベルリン・フィルによる「魔笛」の、新演出による公演です。それは期間中に4回上演されましたが、その最後の2回分を収録、編集した映像が、発売になりました。実はこの映像にはNHKも共同制作として加わっていたために、これ自体はすでにBSで全曲放送されていたのですが、それは千秋楽、4月1日だけのライブ映像でした。
このBDのボーナス・トラックにはベルリン・フィルのライブ映像の配信サイト「デジタル・コンサートホール」でインタヴュアーとして登場しているホルンの団員のサラ・ウィリスが、演出家やバックステージのスタッフにインタヴューしている映像が入っていますから、これもBSでは決して見られないものです。そして、これはきのうの「禁断」に書いたことですが、このBDはBSよりもはるかにいい音で聴くことが出来ます。
ラトルにとっては、これがこのオペラの初体験だということですが、そんな「初めて」ならではの恐れを知らない果敢なアプローチが随所に見られます。まずは、かなり自由な装飾の挿入、最初の3人の侍女のトリオで、最後に長々とカデンツァが入っていたのにはびっくりしましたね。それに続いて出てくるパパゲーノは、パンパイプではなくて「鍵盤ハーモニカ」を吹いています。きちんと「G」の鍵盤にテープを貼って、間違えないようにしているのがご愛嬌。もちろん、彼が渡される「グロッケンシュピール」は、チェレスタではなくキーボードグロッケンシュピールが使われています。先ほどのバックステージ紹介で、ピットの中にシードマイヤーの現物が確認できました。フルートと共にこの作品では重要な意味を持っている楽器だということでしょう、最後の大団円の時には、この楽器が華々しくフィーチャーされていましたね。
そして、ラトルの音楽は、テンポの大胆な変化で、今まで聴き慣れたモーツァルトとは一味違うものを見せてくれています。先ほどの3人の侍女のトリオでは、始まりがやたらと遅いテンポだと思っていると、次第にアッチェレランドをかけてダイナミックに畳みこむような表現に変わっていったりしています。モノスタトスのアリアの途中でも、いきなりブレーキがかかって驚かされたりします。それらの「小技」は、確かにこの作品の新たな一面を知らせてくれるものではありますが、「そこまでするの?」という場面もなくはありませんね。
ロバート・カーセンの演出も、やはりある種の「読み替え」なのでしょう。ただ、夜の女王や侍女たちの位置づけは、いまいち納得がいかないものでした。気持ちは分かりますが、どうにも整合性が取れないのですね。まあ、基本的にすべての人が仲良くなるというノーテンキなプロットだ、ということで、無理やり理解するしかありません。
部分的には、なかなか秀逸なところも見られます。3人の童子の扱いもその一つ。パミーナとパパゲーノがそれぞれ自殺を図ろうという場面で3人が現れる時には、その時の歌い手と同じ衣装、という意匠は気がきいてます。そのあとの方の場面で、パパゲーナの姿を見つけた時の一人の少年の表情はなんとも言えません。それに続くパパゲーノとパパゲーナのデュエットのアイディアは、涙が出るほど素敵でした。

BD Artwork © Berlin Phil Media GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-12-11 20:18 | オペラ | Comments(0)
FOREVER/Unforgettable Songs from Vienna, Broadway and Hollywood
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Diana Damrau(Sop)
David Charles Abell/
Royao Liverpool Philharmonic Orchestra
ERATO/6026662 0




ダムラウの最新のソロアルバムは、当然のことながらERATOレーベルからリリースされました。何しろ、VIRGIN時代と品番の付け方が同じですから、彼女には「移籍した」というような意識は全くないに違いありません。今までのアルバム同様、グレードの高いものが、また出来上がりました。
今回の彼女のレパートリーは、タイトルのコピー通りウィーン(オペレッタ)、ブロードウェイ(ミュージカル)、そしてハリウッド(映画音楽)という3つの街がテーマです。オペレッタはともかく、「映画音楽」がクラシックの歌手にとっては必ずしも相性の良いものでないことが、この前のデセイで露呈されてしまったばかりですから、ここでのダムラウにも少なからぬ不安の念がよぎります。
しかし、それは全くの杞憂でした。彼女はデセイのように曲に媚びて歌い方を変えるようなさもしいことはせずに、自身の武器であるベル・カントを前面に出して、果敢に曲に立ち向かっていたのです。
まずは、オペレッタのセクションです。カールマンやレハール、そしてヨハン・シュトラウス二世などのよく知られたナンバーを、ダムラウは時にユーモラスなしぐさを交えながら、堂々たる歌いぶりでこれらの「王道」を格調高く制覇します。それはまさに彼女にしてみれば余裕の世界でしょう。声はもちろん、なんたって、ドイツ語のディクションが違いますからね。1曲だけ、レハールの「メリー・ウィドー」からの有名な「Lippen schweigen」では相手役としてローランド・ヴィリャゾンが加わりますが、この人のとんでもないドイツ語に比べたら、なおさらです。
そして、「ミュージカル」が始まります。まずは、「マイ・フェア・レディ」から、「Would't It Be Lovely」はドイツ語で、「I Could Have Danced All Night」は英語で歌われます。ドイツ語で歌うと、まるでオペレッタのように聴こえますし、もちろん英語では微妙にそれからは離れたミュージカルっぽい感じが漂います。同じ作品から、そんな二通りの味わい、というよりは「可能性」を、ダムラウは見事に引き出してくれています。
続いては、ソンドハイムの「スウィニー・トッド」から、ジョアンナが歌う「Green Finch and Linnet Bird」を、これもドイツ語で歌います。ガーシュウィンの「Summertime」は英語でとてもドラマティックに、そして圧巻はロイド・ウェッバーの「Wishing You Were Somehow Here Again」。ご存知、「オペラ座の怪人」の中の、クリスティーヌのアリアですね。そう、ダムラウによって、それはまさに「ナンバー」あるいは「ショーストップ」というよりは、「アリア」と呼ぶにふさわしい、オペレッタ、いや文字通り「オペラ」として歌われるに値するだけの「芸術性」を持ったものであることがはっきりわかります。
そんな、ひょっとしたら作曲した人でさえ予想しなかったほどのとても含蓄の深い歌い方は、「映画音楽」のセクションに入っても満載でした。「オズの魔法使い」からの「Over the Rainbow」は、あまたのカバーを超えるものとして強烈に迫ってきます。そのエンディングでのsotto voceの繊細さにも、圧倒されるはずです。そして、「スノーマン」からの「Walking in the Air」こそは、最大の収穫でした。この曲からこんなダイナミックなドラマを引き出す可能性があったなんて、思ってもみませんでした。
アルバムの最初と最後を、「ヴォカリーズ」でくくるというのも卓越したアイディアです。ちなみに、エンディングのフレデリク・シャスランの、2008年に作られたオペラ「嵐が丘」からのヴォカリーズは、これが世界初録音だそうです。
ここで歌われているミュージカルや映画音楽は、よくある、クラシック歌手がほんの片手間に演奏してみました、みたいなものとは完全に別物です。クラシックと全く同じ、作曲家の思いを最高に表現するすべを小手先に頼らず真剣に追求した成果が、ここにはありました。それが感動を呼ばないわけがありません。

CD Artwork © Erato/Warner Classics, Warner Music UK Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2013-11-27 20:01 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/The Colón Ring
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Jukka Rasilainen(Wotan)
Linda Watson(Brünhilde)
Stig Andersen(Siegmund)
Daniel Sumegi(Fasolt, Hunding, Hagen)
Valentina Carrrasco(Dir)
Roberto Paternostro/
Teatto Colón Orchestra and Chorus
C MAJOR/713104(BD)




201111月に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにあるオペラハウス「テアトロ・コロン」で上演された、ワーグナーの「リング」の映像です。これは、普通に演奏すれば4日間、正味14時間かかる作品を、たったの6時間15分に縮めて一晩で上演したというものなのです。「そんなものは『リング』ではない」というワグネリアンの声が聞こえてきそうですが、そもそもこのアイディアは、ワーグナー教の総本山、バイロイト音楽祭の総帥カタリーナ・ワーグナーが提案したものなのです。
実際のところ、この作品はあまりに長すぎるというのは、作曲者自身も分かっていたのでしょう。初めて聴く人にとっては4日目にもなってくると、1日目にどんなことがあったのか、普通は憶えていないはずでしょうから、ワーグナーはそういう人のために、物語の中で「前回までのあらすじ」をやっているのですよ。例えば、「神々の黄昏」序幕の3人のノルンのシーンなどは、まさにそんな部分、一回で上演するのだったらこんなものは全く必要ありません。
実際にこの「短縮」作業を行ったのはコルト・ガルベンという人です。そこでは、ガルベン自身が冗長だと感じた部分も容赦なくカットされ、めでたく半分以下にカットされた「短縮版」が出来上がりました。さらに、ダニエル・スメギが一人で3役を演じているように、キャストの使い回しも可能になり、大幅な経費節減も。
その結果、神々族の中でもどうでもいいキャスト、ドンナーやフローの出番は丸ごとなくなっています。もちろんノルンたちも。ただ、エルダまでカットしたのは、ちょっと問題。そんな風に「ちょっとそれはないだろう」というところもたくさんありますが、それでも極力流れを損なわず、ストーリーの勘所は押さえていたのではないでしょうか。
そんなことよりも、ヴァレンティーナ・カラスコの演出には、先日亡くなったパトリス・シェローが30年以上前にバイロイトで行ったこの作品の「読み替え」に匹敵するほどの衝撃を受けました。彼女が設定した舞台は1970年代の軍事政権下の「アルゼンチン」、その暗黒時代に横行していた幼児誘拐事件を盛り込んで、この作品の最大のモチーフである「黄金」を、「こども」に置き換えたのですね。アルベリヒがラインの乙女(というか、ここでは「おばさん」)から奪ったものは生まれて間もない赤ん坊、ニーベルハイムで行われていることは、幼児の誘拐と母親の拷問という設定です。当然、巨人族が略奪したのは小さな子どもたち、彼らはファフナーの洞窟のそばの檻に入れられています(これが、みんなすごくかわいいんですよね)。そして、大詰めでは、その子たちはみんな両親のもとに帰ってくるのです。時系列はデタラメですが、これは感動ものですよ。
実は、この演出家はカタリーナがキャンセルしたために急遽呼ばれた人、そんなゴタゴタ(短縮版のパート譜は手作業で作成、それが間違いだらけだったので、指揮者が怒って帰ってしまうシーンとか)をつぶさに記録したメイキング映像のほうが、もしかしたらもっと感動を呼ぶかもしれません。ジークムント役の歌手が病気で出演出来なくなったので、もしかしたら自分が出られるのではないかと思った控え(シャドー、ですね)の歌手が、結局別の代役(この人、ハナ肇そっくり)が来ることになって願いはかなわなかったというような「悲哀」あふれる裏話も満載です。
ちなみに、ヴォータンとフリッカは、ちょっと時代が違いますが、ペロン大統領とエヴィータがモデルになっています。これはすぐに分かったのですが、このメイキングでそのことがしっかり確認できました。ということは、このヴォータンを「ビデラ将軍」としたレビューを音楽雑誌に執筆した「音楽学者」は、せっかくのこのメイキング映像を見ていなかったのでしょうね。これは恥かしいミステイク

BD Artwork © C Major Entertainment GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-10-14 22:18 | オペラ | Comments(0)
The Verdi Album
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Jonas Kaufmann(Ten)
Pier Giorgio Morandi/
Orchestra dell'Opera di Parma
SONY/88765492002




今まではDECCAというか、UNIVERSALの専属アーティストだったカウフマンは、SONYに「移籍」したようですね。シュリーマンではありません(それは「遺跡」)。せっかく、今まではかつてのDECCAの血を引くエンジニアによる素晴らしい音を楽しめたというのに、レーベルが変わってしまったら音まで変わってしまうのかもしれないと、ちょっと不安になりました。ところが、クレジットを見てみるとエンジニアのフィリップ・サイニーだけではなく、エグゼキュティブ・プロデューサーやレコーディング・プロデューサーまで、DECCA時代とほとんど同じ人が名を連ねているではありませんか。そういうことだったのですね。レーベル、つまりレコード会社が自前の録音スタッフを抱えて独自のサウンドを聴かせていたという時代は、とっくの昔に終わっていたのですよ。今ではそのような「現場」の仕事は外部のスタッフに任せて、レーベルは単にそれを販売する「権利」を有するだけという、文字通り「レーベル=ラベル」という意味しかなくなっているのですね。あ、これはあくまでUNIVERSALとかSONYといった「メジャー・レーベル」での話ですが。
というわけで、もちろん「ヴェルディ・イヤー」がらみでリリースされた(「Verdi200」というロゴが見えますね)カウフマンのニューアルバムでは、2008年にDECCAからリリースされたアルバムの中で歌われていたヴェルディのナンバーとは、同じオペラでもしっかり別の曲が収録されているという、理にかなった心配りがなされていました。
今回取り上げられているオペラは11作、その中には前のアルバムでは歌われていた「ラ・トラヴィアータ」は含まれていませんから、カウフマンのCDでのレパートリーはヴェルディのオペラ全26作中12作ということになります。モーツァルトやワーグナーで彼の歌に接していた人は、この数字に少し驚いてしまうことでしょう。あのカウフマンが、いつの間にかイタリア・オペラのスターにもなっていたのですからね。「ルイーザ・ミラー」や「群盗」といった、かなりコアな作品までクリアしてますし。
そこでまず、「名刺代わり」といった感じで始まるのが、ヴェルディのテノールのナンバーでは一番有名な「リゴレット」からのマントヴァ侯爵のカンツォーネ「La donna è mobile」です。これが、全然ヴェルディらしくありません。正確には、この時期のヴェルディらしくありません。「ズンチャッチャ」というノーテンキなリズムに乗って歌われる陽気な歌は、パヴァロッティあたりのとびきり明るい声にこそ映えるもので、カウフマンのくそまじめなキャラとは相容れないものです。
続く、こちらも定番、「アイーダ」からのラダメスのロマンツァ「Celeste Aida」などでも、イタリアオペラのファンにとっては最後のハイB♭では思い切り張った声で大見得を切ってほしいところでしょうが、それは聴衆に対するサービスではあっても、必ずしも作品の求めるものではないと考えているカウフマンは、その音をsotto voceで終わらせています。
カウフマンは、この中で「ヴェルディらしさ」を表現するために、ちょっとしたテクニックを使っています。それは、ピッチをほんの少し高めにとると同時に、要所に「泣き」を入れることです。ワーグナーなどでは決して使うことのないこの「小技」、しかしそれは、何かよそよそしさが感じられるものです。仕方なく相手に合わせた、という感じでしょうか。
ですから、彼がそのままの姿で妥協をせずに歌えるのは、後期の「オテッロ」あたりなのでしょう。ヴェルディが初めてそれまでの「番号オペラ」からの決別を成し遂げた、真にドラマティックなこの作品の中でこそ、カウフマンは彼自身のドラマを演じることが出来たのではないでしょうか。
相変わらず期待を裏切らない素晴らしい録音ですが、時折オーケストラが無神経な演奏をしているのが鼻に付きます。日頃オペラの伴奏をしているオケのはずなのに。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2013-09-28 20:57 | オペラ | Comments(0)
LLOID WEBBER/Jesus Christ Superstar
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Tim Minchin(Juda)
Melanie C(Maria)
Ben Forster(Jesus)
Laurence Connor(Dir)
UNIVERSAL/61126570(BD)




先日の映画版に続いて、やはり最近BDが発売になった「ライブ・アリーナ・ツアー」版のBDです。このプロダクションは、この作品がミュージカルとしてイギリスで上演されてから40年経ったことを記念して、イギリス全土のアリーナで上演されたものです。ここでは、201210月5日に、バーミンガム・ナショナル・インドア・アリーナで行われたライブが収録されています。
この作品は、そもそもは「ロック・アルバム」として、音楽的にも、ストーリー的にも完結しているものでした。ですから、最初は「ライブ」として、アメリカのアリーナで公演を行っていたものが、ついには「ミュージカル」としてブロードウェイにまで進出することになったという「過去」を持っています。したがって、この「ライブ・アリーナ・ツアー」は、まさにこの作品の原点に返ったものだと言えるのでしょう。とは言っても、いまさらただの「ライブ」を行っても、ミュージカルや映画をすでに体験してしまった観客には物足りませんから、例のロイヤル・アルバート・ホールでの「オペラ座の怪人」を手掛けたローレンス・コナーなどのスタッフによって、アリーナを使った限りなくミュージカルに近いライブが実現する事になりました。
「オペラ座」同様、セットなどは組まない代わりに、やはり巨大なLEDスクリーンを後ろに設置して、視覚的な演出に備えます。ただ、それは単に背景を映す、といったような使い方ではなく、もろロック・コンサートのような、様々なメッセージを持った映像が映し出されることになります。そのスクリーン、そしてステージ上で描かれているのは、まさに現代、インターネットや携帯電話がさりげなく登場する社会で、イエスはやはり格差社会の中での、底辺階級のカリスマとして描かれます。ピラトなどは分別ある裁判所の判事といった役回りになっていますね。そうなると、ヘロデ王の位置づけが気になるところですが、これはテレビの人気番組の司会者でした。真っ赤なタキシードに身を包んだ、いかにも「業界人」という読み替えは見事なもんだ。みのもんた
実は、映画を含めて、今までに何度となくこの作品に接してきた中で、演奏が「ライブ」だったことは一度もありませんでした。「生」のミュージカルでも、歌以外のパートはすべて「カラオケ」でしたからね。今回は、演奏メンバーがステージの上にいる、というのが、その「ライブ」という意味を具現化しているものでしょう。上手と下手に組まれたヤグラの中に、10人のバンドのメンバーが並び、「生」で演奏している姿を見ているだけで、確かに「ライブ」ならではのグルーヴを感じることが出来ます。時にはギターがステージまで出てきてユダとセッションをするなどということもあったりしますから、もう最高。
ですから、この公演に関してはミュージカル的な意味での「演出」は、それほど重要なことではなくなってきます。音楽がすべてを語っている中では、どんなぶっ飛んだ設定でもそのメッセージは間違いなく伝わってくる、というのが、そもそものこの作品の最大のメリットだったのですからね。
そんな、ある意味「演出」の呪縛から解放されたキャストたちは、最大限に「アーティスト」としての音楽的な主張を届けているように見えます。そんなキャストの中に、スパイス・ガールズのメラニー・Cがマリア役で登場していたのには驚きました。彼女の歌は変に「芝居」がかっていない分、ストレートな感情が伝わってきます。タトゥーに十字架があったので、この公演用のメークだと思ったら、そうではなく本物でした。「女力」などという漢字のタトゥーも、ミュージカルでは許されないでしょうが、「ライブ」では逆に威力を発揮しています。
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BD Artwork © Universal Studios Home Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2013-09-22 21:36 | オペラ | Comments(0)
VERDI
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Plácido Domingo(Bar)
Pablo Heras-Casado/
Orquesta de la Comunitat Valenciana
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このドミンゴの最新のソロ・アルバムのジャケットは、ドミンゴがヴェルディのコスプレをしているというものでした。これで、シルクハットの「つば」がもう少し曲がっていれば、はっとするほど完璧なのですが。それと、ショールの結び方まで同じにしている割には、ドミンゴだと「手ぬぐい」みたいに見えるのは、なぜでしょう。
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そんな恰好をしていますから、これはヴェルディのアリア集だということはすぐ分かります。なんせ「ヴェルディ・イヤー」ですから、そんなものは別に珍しくもなんともないのですが、ここではドミンゴが「バリトン」のロールを歌っているところに注目です。
え?バリトン?なんと言っても「三大テノール」の一人として、オペラやクラシック音楽には全く関心のない人にまで知られているという知名度を誇っているドミンゴですから、彼の職業は「テノール歌手」に決まっている、と言われそうですね。しかし、実は彼は最初からテノールだったわけではありません。彼の声はもともとはバリトン、そこからテノールに「転向」したのですね。それは別に珍しいことではなく、知り合いでも学生時代はバリトンやバスのパートを歌っていた合唱団員が、社会人になってからテノールに転向したという例はいくつも聞いています(その逆で、年を取ってテノールからバリトンに転向した人も知っていますが、それは単に高い声が出なくなっただけです)。
ですから、ドミンゴの声は、テノールとは言ってもただ高い声を華やかに聴かせるというのではなく、もっと落ち着いた音色でしっとりと伝わってくる、というものではなかったでしょうか。そういう音色なので、彼のレパートリーはヴェルディやプッチーニのみならず、ワーグナーにまで及ぶことになったのです。いわゆる「ヘルデン・テノール」という、ワーグナーのテノールのロールに要求される強靭なキャラクターは、しっかりとした低音があってこそのものなのです(そういう意味で、クラウス・フローリアン・フォークトあたりは決して「ヘルデン」ではありえません)。
そんなドミンゴが、最近元のバリトンを歌い始めるようになりました。いや、実はかなり昔、30年以上も前に出たユニセフあたりのチャリティLPのようなものの中で、彼はこのCDでも歌っている「ドン・カルロ」の中の「ロドリーゴの死」というデュエットを、テノールのドン・カルロとバリトンのロドリーゴを同時に(もちろん多重録音)歌っていたのですね。もちろん、この時にはドン・カルロの方がメインで、ロドリーゴはあくまで「お遊び」だったのですが、それを、今回はテノールは別の人をちゃんと立てて、ロドリーゴを本気で歌っているのです。
こちらでも述べられている通り、バリトンという声域自体、ヴェルディによって開拓されたものでした。彼の全オペラの中では、テノールよりもバリトンが重要な役を担っているものの方が多くなっています。70歳を超えたドミンゴが、さらなるレパートリーを求めてバリトンの役を歌い始めても、おかしくはありません。このアルバムは、そんな最近のドミンゴの挑戦のまさに集大成というべきものなのでしょう。
確かに、「マクベス」や「シモン・ボッカネグラ」のタイトル・ロールなどは、堂々たる歌い方でそんな挑戦が見事に結実したことをうかがわせるものでした。ただ、「ラ・トラヴィアータ」のジェルモンのように、今まで数多くの名バリトンたちの名演に触れてきたものでは、何か物足りなさを感じてしまいます。まるで、左利きの人が無理をして右手でお習字をしているようなもどかしさがあるのですね。細かすぎるブレスが、その「いずさ」をさらに助長しているような気がします。
バックのスペインのオーケストラは、なにか野性的なリズム感でヴェルディ特有のシンコペーションをグル―ビーに演奏しています。ただ、「ロドリーゴの死」のように、歌の合いの手がぶっきらぼうになっているのが、かなり気になります。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2013-09-16 19:50 | オペラ | Comments(0)
Jesus Christ Superstar
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Ted Neeley(Jesus)
Carl Anderson(Juda)
Yvonne Elliman(Maria)
Norman Jewison(Dir)
UNIVERSAL/61125533(BD)




アンドリュー・ロイド=ウェッバーとティム・ライスが1970年に発表したコンセプト・アルバムを元に、1971年にブロードウェイでミュージカルとして上演された「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、今でもミュージカルの古典として全世界で上演され続けています。一方、ミュージカルとは全く関係なく、1973年にやはりアルバムを元に、ノーマン・ジューイソンによって映画も製作されました。今年は、その映画化から「40周年」の年にあたっているため、それを記念して待望のBDがリリースされることになりました。
実は、この映画のHDマスターはすでにかなり前に作られていて、NHKBSでしっかり「ハイビジョン」で放送されたことがありました。ただ、当時はまだ我が家はBDに録画できる環境にはなく、放送されたときにリアルタイムで見たハイビジョンの画面の美しさに対して、それを録画したDVDのあまりのしょぼさにがっかりしたものでした。それから何年かたち、こんなタイミングでやっと初BD化となりました。喜びもひとしおです。
ただ、なぜか国内盤では、この映画版は2012年の「アリーナ・ツアー」の「特別版」BDの、「抱き合わせ」としてしか入手できません。まあ、この最新のプロダクションにも興味はありましたし、日本盤の場合はきちんと日本語の字幕もついていますからこれを買ってもよかったのですが、ネット通販のユーザーコメントによると、この字幕はなんと「劇団四季」で用いられた岩谷時子の訳がそのまま流用されているそうなのですよ。確かに、「劇団四季」の「ジーザス」は、特に「ジャポネスク・バージョン」という大胆な読み替えを施した演出こそは称賛に値するものですが、その訳詞は原語に慣れているものにとってはとんでもなく醜悪なものでしたから、これを買っても何のメリットもありません。しかも、価格は輸入盤を別々に買った方がずっと安いというのですから、これは迷うことなく輸入盤を選択です。なんせ、1973年の映画を見て以来の「ジーザス歴」40年、音楽も歌詞もすべて頭に入っていますから、字幕なんて見なくても存分に楽しめますし。
BDで改めて見直した画面は、修復もしっかり行われているのでしょう、傷一つない、まるでついさっき撮影されたもののようでした。ジューイソンがこだわったイスラエルの砂漠でのロケも、おそらくDVDではその意味が伝わらないのでは、と思えるほどの、それこそ砂粒の一つ一つまでもが明らかになっている映像には、感動を覚えずにはいられません。
ご存知のように、この映画が、ステージでのミュージカル版と最も異なっているのが、オープニングとエンディングの演出です。バスに乗ってやってきたクルーが、砂漠の真ん中で始めたのは映画の撮影、そう、これは物語全体が「劇中劇」となっている構造です。ところが、最後のシーンではジーザス役のテッド・ニーリーだけはバスに乗り込むことはありません。うつろなまなざしでためらうようにバスに乗るユダ役のカール・アンダーソンとマリア役のイヴォンヌ・エリマン、この、絶対映画でしかなしえない演出こそが、この作品の最大の魅力なのではないでしょうか。
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今回、初めてオリジナルのコンセプト・アルバム(MCA/MCAD2-11542)を聴いてみたら、アレンジと、そしてオーケストレーションが映画と全く同じだったことを知りました。アルバムのクレジットではロイド=ウェッバー自身が指揮とオーケストレーションも担当していますし、MOOGのシンセも演奏しています。ということは、映画版でも演奏メンバーはほぼ同じだったのかもしれませんね。エンドロールには「指揮者」としてアンドレ・プレヴィンがクレジットされているだけ、この時期にはプレヴィンはロンドン交響楽団の音楽監督のポストにあり、映画音楽からは完全に足を洗っていたはずですが、これはいったいなんだったのでしょう。

BD, CD Artwork © Universal Studios Home Entertainment, MCA Records Inc.
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by jurassic_oyaji | 2013-09-14 19:11 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Così fan tutte
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Miah Persson(Fiordiligi), Angela Brower(Dorabella)
Adam Plachetka(Guglielmo), Rolland Villazón(Ferrando)
Mojca Erdmann(Despina), Alessandro Corbelli(Don Alfonso)
Yannick Nézet-Séguin/
Vocalensemble Rastatt, Chamber Orchestraof Europe
DG/00289 479 0641




DGの「第2次(笑)」モーツァルト・オペラ・ツィクルスは、前回の第1弾、「ドン・ジョヴァンニ」が2011年7月の録音でしたが、今回の「コシ」は2012年の7月、どうやら1年に1作というペースで制作が行われているようですね。どこぞのワーグナー・ツィクルスのように3年かそこらで全曲録音みたいな乱暴な作り方ではないようです。基本的に、バーデン・バーデンでのコンサート形式の上演を録音するという点だけは統一されていても、指揮者、オーケストラ、ソリストは毎回異なる、というコンセプトだったように記憶しています。
ということで、今回はなんと録音スタッフも別のクルーが担当することになりました。音のコンセプトが狂うのはそれほど気にしないのでしょうか。前回はノイブロンナー率いる「トリトヌス」でしたが、今回はDG御用達の「エミール・ベルリナー・スタジオ」のチーフ・エンジニア、ライナー・マイラードがトーンマイスターを務めています。
ただ、指揮者は前回と同じネゼ・セガンでした。もしかしたら、ダ・ポンテ三部作だけは同じ指揮者で、ということなのでしょうか。ソリストでは、共通しているのは、ヴィリャソンとエルトマンだけです。どちらも、前回ではあまり芳しくありませんでしたから、どうなることでしょう。
ネゼ・セガンの、まさに痒いところに手が届くような丁寧な指揮ぶりは、オーケストラがマーラー室内管からヨーロッパ室内管に替わっても変わりませんでした。歌では表現できないところまで、オーケストラが補って、とても豊かな「物語」が紡がれているなあ、という驚きが、いたるところでありました。オーケストラのメンバーも名人ぞろい、クラリネットなどは何度も素晴らしいオブリガートを聴かせてくれていましたし、フルートも目立ちはしないまでも要所ではきっちりと華やかなサウンドの立役者となっていました。
通奏低音にチェンバロではなくフォルテピアノを使うというやり方も、今では殆ど常識となっているようですね。ここでは、レシタティーヴォだけではなく、アンサンブルやアリアの時にも自由なフレーズを入れたりして、さらに重要な役割を担っています。
ソリストで一番感心したのは、前回は見事にハズレだったヴィリャソンです。アリアはともかく、アンサンブルがとても素晴らしいのですよ。この作品はアリアよりもアンサンブルの方がより目立つ作られ方をしているため、アンサンブルがきれいに決まるととてもうれしくなるものですが、ここでヴィリャソンがアンサンブル加わると、見事にその「臭み」が消えて、柔らかい音色だけが前面に出て全体がとてもまろやかな響きになるのですね。正直、彼がこれほど自分を消してアンサンブルに貢献できる人だとは思っていませんでしたから、これはとんだ拾いものです。
デスピーナ役のエルトマンは、相変わらずのキャパシティの狭さが露呈されてしまっています。特に、医者や結婚仲介人に「変装」した時の演技が、聴いていて恥かしくなるようなヘタさ加減、一生懸命やっているのでしょうが、それが表に出てしまってはいけません。
この作品は、演出を楽しみたいので、映像はたくさん観ましたが音だけのCDはあまり聴いたことがありません。今回は、リブレットを見ながらかなり集中して聴いてみましたが、そこで意外な発見もありました。同じスワッピングでも、ドラベッラとグリエルモのチームと、フィオルディリージとフェランドのチームとでは、音楽の扱いがまるで違うのですね。それは重さの違い、前者、つまり簡単にやってしまう方はレシタティーヴォ・セッコなのに、なかなか踏み切れない後者ではレシッティーヴォ・アッコンパニャートになっているのですからね。こんなことは、演出に目が行っていると聴き逃してしまいそう。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-09-06 20:46 | オペラ | Comments(0)