おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 161 )
LEGRAND/Concertos
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Michel Legrand(Pf)
Henri Demarquette(Vc)
Mikko Franck/
Orchestre Philharmonique de Radio France
SONY/88985393722


ミシェル・ルグランといえば、まずは「シェルブールの雨傘」というミュージカル映画の音楽を作った人として、広く知られています。さらに、彼自身もジャズ・ピアニストとして大活躍、クラシックのアーティストと共演したこんなアルバムも作っています。
それだけではなく、彼はかつてクラシックのピアニストとしても、サティのアルバムを出したり、さらにはなんと指揮者として、シンフォニーオーケストラの指揮台に立っていたことだってありました。フォーレとデュリュフレの「レクイエム」がカップリングされたアルバムなどもリリースしていましたね。
そして、今回は「クラシックの作曲家」として、自らの作品を世に問うアルバムまで作ってしまったのです。今年85歳を迎えた老人とはとても思えない、エネルギッシュな姿勢ですね。
ただ、ルグラン自身はもともとパリのコンセルヴァトワールでナディア・ブーランジェに師事していたのですから、「クラシックの作曲家」としての素養は十分にあったはずです。ジャズへの道に進んだのちも、いつの日かクラシックの作品で勝負したいという願望は持ち続けていたのでしょうね。そんな夢が、やっと叶ったことになります。
「ピアノ協奏曲」は、ミシガン州カラマズーで1991年から開催されている「ギルモア国際キーボード・フェスティバル」の2016年のファイナル・コンサートのために、そこのホスト・オーケストラであるカラマズー交響楽団からの委嘱で作られました。この音楽祭はクラシックだけではなくジャズやポップスのアーティストも参加する幅広いジャンルを誇っています。ルグランはそこで文字通りジャンルを超えた作品を披露することになったのですね。彼はまずジャズマンとして、自身のトリオによるステージを5月8日に行います。そして、5月14日のファイナル・コンサートのトリを、レイモンド・ハーヴェイ指揮のカラマズー交響楽団をバックに、彼自身のピアノ・ソロによって務めました。もちろん、そこで世界初演されたのは彼のピアノ協奏曲です。
そして、同じ年の9月に、今度はパリで、ミッコ・フランク指揮のフランス放送フィルとの共演で録音されたのが、このCDです。3つの楽章、演奏時間30分という、真正面からクラシックに取り組んだ「シリアス」な作品です。
その第1楽章は、ルグランの「速弾き」のソロがフィーチャーされた、目くるめく豪華な仕上がりになっていました。曲の感じはラヴェルのピアノ協奏曲によく似ています。打楽器のパルスをきっかけに繰り広げられるそのテクニックは軽やかそのもの、それはまさにジャズ・ピアニストの持つヴィルトゥオージティです。
第2楽章は型どおりのリリカルな曲想です。ここで興味を引くのはそのオーケストレーション。ピアノ・ソロが厚ぼったく和声づけされた美しいテーマを歌う時に、弦楽器がぴったりユニゾンでそれに合わせているのですね。かつてハービー・ハンコックがクインシー・ジョーンズのアルバムに参加していた時に、彼のアドリブ・ソロを採譜したものを弦楽器でハーモナイズして重ねるということをやっていましたが、これはそんな、クラシックの作曲家ではまず使わないような手法です。
第3楽章では、大胆に「無調」のテイストが導入されています。クラシック界では死に絶えた技法が、こんな形で蘇るのはとても新鮮です。
2012年に着想されたという「チェロ協奏曲」は、ここで演奏しているドマルケットのために作られました。こちらは、普通の3つの楽章の後に、まず「ソナタ」というタイトルの楽章が続きます。ここでは、なんと指揮者のフランクが指揮台から降りてピアノのところまで行って、チェロとのデュエットを披露するという「仕掛け」が施されています。それが終わると指揮者は何事もなかったようにまた指揮台に戻り、美しすぎる最後の楽章に入る、というぶっ飛んだ構成です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment France

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by jurassic_oyaji | 2017-04-04 23:15 | 現代音楽 | Comments(0)
GENZMER/Works for Mixture Trautonium
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Peter Pichler(Mixturtrautonium)
Jan Kahlert, Tschinge Krenn(Volkstrautonium)
Manfred Manhart(Pf, Cond)/
Orchestra
PALADINO/pmr 0081


第一次世界大戦後、テクノロジーをベースにした「電子楽器」が次々と発明されました。1920年にロシアで誕生した「テルミン」、その流れを汲んで1928年にフランスで作られた「オンド・マルトノ」、そして同じころにドイツで発明されたのが「トラウトニウム」です。
それはプロシアの文化大臣が1928年にベルリンに設立した「ラジオ実験センター(Rundfunkversuchsstelle)」のエンジニア、フリードリヒ・トラウトヴァインが中心になって開発された電子楽器です。そこでは作曲家のパウル・ヒンデミットも協力していました。そして1930年にヒンデミットの「3つのトラウトニウムのための7つのトリオ」という作品が作曲者自身ともう2人のピアニストによって演奏されて、この楽器は初めて公の前に姿を現したのです。この楽器には鍵盤はなく、オンド・マルトノのような「リボン・コントローラー」で音階やグリッサンドを操作します。
この時に演奏に加わっていた、ヒンデミットの生徒のオスカル・ザラは、その後もこの楽器と関わり続けます。翌年にはドイツの電機メーカーTELEFUNKENとの共同開発によって出来上がったコンパクトな「フォルクストラウトニウム」という商品が販売され200台ほど売れたのだそうです。
ザラは、この楽器を多くの場所で演奏、さらには映画音楽にも携わります。最も有名なものはヒッチコックの「鳥」のサントラに使われた、鳥の大群の効果音でしょう。さらに彼は、この楽器を高機能のものへと改良することに情熱を注ぎました。オシレーターやバンドパス・フィルター、エンヴェロープ・ジェネレーターなどのモジュールも組み込み、リボンも2段装備して、2声部での演奏も可能にしました。これが「ミクストゥーアトラウトニウム」という楽器です。これはまるでモーグのモジュール・シンセサイザーのような外観ですね。それに対して、さっきのフォルクストラウトニウムはミニモーグそっくり。これは単なる偶然なのでしょうか。
そしてもう一人、この楽器の魅力に取りつかれた人がいました。それが、やはりヒンデミットの生徒だった作曲家、ハラルド・ゲンツマーです。ゲンツマーはザラからのサジェスチョンを受けながら、この楽器のための作品を数多く残したのです。
しかし、オスカル・ザラは、弟子を育てるということは全く行わなかったため、彼が2002年に亡くなった後はこの楽器の奏法を習得していた人は誰もいなくなってしまったのです。そんな時に、全くの独学で、この楽器の奏法をマスターしていたのが、このアルバムの演奏家、ペーター・ピヒラーです。彼は多数の楽器を演奏できるだけでなく、作曲家、編曲家としても活躍しています。彼が使っている楽器は、上の写真のドイツの「トラウトニクス」というところで作られたカスタムメイドの楽器です。
彼は、この写真のように楽器と同時にミキサーも操作して、それぞれの声部の音を左右に振り分けたり、リバーブをかけたりしています。そのようにして録音されたゲンツマーの作品から聴こえてきたこの楽器の音からは、大戦間の古色蒼然としたノスタルジーなどは全く感じることはできません。そこには、最新のデジタル・シンセサイザーをも凌駕する新鮮なサウンドがありました。
中でも衝撃的だったのが、1958年に作られた「電子楽器のためのダンス組曲」です。これは、そもそもはザラのスタジオでテープに音を重ねて作られたものです(その音源によるLPは、1972年にERATOからリリースされました)。
それを、ピヒラーは1台のミクストゥーアトラウトニウムと2台のフォルクストラウトニウムでライブ演奏ができるように書き換えました。これはもう、「電子音」がまさに「踊って」いるかのような新鮮な音楽です。4つの曲で出来ていますが、最後の「Ostinato accelerando」などは、その「オスティナート」がまるで低音のリフのようで、今のダンス・シーンでも立派に通用するほどのポップな作品です。

CD Artwork © paladino media gmbh

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by jurassic_oyaji | 2017-03-30 20:54 | 現代音楽 | Comments(0)
LIGETI/Concertos
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Christian Potéra(Vc)
Joonas Ahonen(Pf)
Baldur Brönnimann/
BIT20 Ensemble
BIS/SACD-2209(hybrid SACD)


リゲティの最新アルバム、作曲順に「チェロ協奏曲」、「室内協奏曲」、「メロディエン」、そしてと「ピアノ協奏曲」、という、「協奏曲」の形態をとった作品が演奏されています。リゲティのアルバムは、つい最近こちらのロト盤を聴いたばかりなのに、またまた新録音の登場です。なんで今頃?と思ったら、去年2016年はリゲティ没後10年という記念年だったのでした。どちらのアルバムも確かに去年のうちにリリースされていましたね。
両方のアルバムに共通しているのが、「室内協奏曲」です。「室内」というぐらいですから、編成も室内楽的で、5声部の弦楽器はそれぞれ一人ずつしかいません。ロトたちはそこでは木管五重奏の作品を録音していたので、編成的には全て「室内楽」ということになります。でも、今回は普通に「協奏曲」というタイトルが付けられている作品が2曲演奏されていますから、普通のサイズのオーケストラと独奏楽器、という編成なのかな、と思ってしまいますよね。しかし、それは名ばかりのことで、そんな「協奏曲」でも、弦楽器は5本しか使われてはいないのです。言ってみれば「一つのパートに一人の奏者」となりますね。これって、ちょっと前まで世の中で騒がれていた「OVPP」ではありませんか。ピコ太郎じゃないですよ(それは「PPAP」)。いや、どちらも「一発屋」という点では同じことでしょうか。
いや、考えてみれば、リゲティが世に知られるようになったのは、まだYoutubeなどがなかった時代に、「動画」によってその作品が多くの人の間に広まったからだ、という見方だってできなくはありませんから、「一発屋」という点ではリゲティその人も当てはまるのではないでしょうか。その「動画」というのは、ご存知「2001年宇宙の旅」というスタンリー・キューブリックの映画です。公開されたのは1968年ですから、もう少しで「公開50周年」を迎えることになりますね。この中で、キューブリックは「映画音楽」としてリゲティの作品を何曲も使っていました。それらはまさに、当時の最新の「現代音楽」ばかりでした。なんせ、公開の1年前にミュンヘンで演奏されたばかりの「レクイエム」の音源を、この映画のとても重要な場面でのライトモティーフとして使っているぐらいですから、キューブリックのリゲティに対する嗅覚には驚くほかはありません。この映画のクライマックスともいうべきボウマン船長のトリップのシーンは、「アトモスフェール」を聴いてもらうために作ったのではないか、とさえ思えてきますからね。
今となっては、この映画でリゲティの曲が使われていなければ(当初は、別の作曲家に新曲を作らせるつもりでした)、彼の作品はごく一部のマニア以外にここまで広く知られることはなかったと断言することが出来ます。そんな「2001年~」で使われた曲のようなテイストを色濃く残しているのが、このアルバムの最初の3曲ではないでしょうか。「チェロ協奏曲」などは、まさに「アトモスフェール」の小型版、といった感じです。
しかし、リゲティは次第にこのようなクラスターを主体にした作風を変えていきます。そして、ここで最後に収録されている「ピアノ協奏曲」では、例えばミニマル・ミュージックの影響などを受けたとされる作風を見せていますし、第4楽章では武満徹が使った音列まで登場します。しかし、全体としてはバルトークなど、彼が作曲家としてスタートした時にモデルとした作曲家の影響が見て取れます。それは、「ムジカ・リチェルカータ」という、初期のピアノ曲集にとてもよく似たテイスト。つまり、リゲティは一回りして「過去の自分」に戻っていたとは言えないでしょうか。
キューブリックが1999年公開の「アイズ・ワイド・シャット」で、この「ムジカ・リチェルカータ」からの曲を使ったのも、それで頷けます。彼は、本物の「リゲティおたく」だったのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB

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by jurassic_oyaji | 2017-02-28 23:53 | 現代音楽 | Comments(0)
LOHSE/Hieronymus Bosch Triptychon
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Christoph Maria Moosmann(Org)
Robert Hunger-Bühler(Voice)
Aldo Brizzi/
Bamberger Symphoniker
NEOS/11604(hybrid SACD)


15 世紀のオランダの画家、ヒエロニムス・ボッシュの「七つの大罪と四終 」という作品にインスパイアされた曲なのだそうです。その絵の現物はこれ。
真ん中に大きな円が描かれていますが、これは人間の「眼」を描いたものなのでしょう。「瞳孔」中にいるのはイエス・キリスト一人です(同行する弟子はいません)。その周りは7つに分割されていて、それぞれに「大罪」を現す絵が描かれています。さらに、その外側にはもう4つの円があって、それが「四終」と呼ばれる、人間の最後の出来事です。左上は「死」、右上は「最後の審判」、左下は「地獄」、右下は「天国」です。
その「七つの大罪」と「四終」に、もう一つ、さっきのイエス・キリストのすぐ下に書かれている文字も、この音楽のモティーフになっています。そこには「Cave cave Dominus videt」と書かれているのですね。それは「気をつけよ、気をつけよ、神は見たまう」という意味です。だから、「眼」の中に書かれているのですね。
この三つのモティーフを使って「三部作」を完成させたのは、1943年に生まれたドイツの作曲家、ホルスト・ローゼです。作曲をヘルムート・エーダーとベルトルト・フンメルに師事したそうで、その作品は多岐にわたっています。多くの詩人の歌詞による声楽曲を始め、実験的な劇場音楽や舞踊音楽、さらには哲学や神話、絵画などとのとのコラボレーションによるアンサンブルやオーケストラの作品など、膨大なものです。
とりあえず、このアルバムを聴く限りでは、彼の作風は、あくまでドイツの「正統的」な流れを汲むもので、決して聴きやすいとは言えませんが、昨今の軟弱な「現代音楽」に慣らされた耳には、適度の緊張感が与えられるものであるような印象を受けました。
ローゼは、まず1989年に、オルガン独奏のために「七つの大罪」を元に7つの曲から成る作品を完成させます。それは、先ほどのキリストの真下にある「憤怒」から始まって、反時計回りに「虚栄」、「淫欲」、「怠惰」、「大食」、「貪欲」、「嫉妬」の順に曲が並んでいます。それぞれが2分ほどの短いものですが、そこにはとても切りつめられた極限的な表現が見られます。そこでは、オルガンの機能を最大限に発揮させたダイナミック・レンジと、多彩な音色が駆使されています。「怠惰」では、鐘の音の連打が聴こえますが、ここで使われているオルガンには、そのようなストップが備わっているのですね。さらに、この録音が行われたロッテンブルクの大聖堂には、祭壇の向かい側に設置された大オルガンの他に、祭壇の右上の壁面に設置されたクワイヤ・オルガン、さらに、持ち運びできる小さなチェスト・オルガンと、全部で3つのオルガンがあって、この録音ではそれらをすべてシンクロさせて演奏されていますから、その表現力はハンパではありません。
音楽としては、ボッシュの絵の持つニヒルな側面ではなく、もっと暖かい視点を感じることが出来ます。「淫欲」の音楽からは、なにか恍惚感のようなものが感じられてしまいます。
「四終」では、大オーケストラとオルガンの共演が楽しめます。これは、1997年の初演の時のライブ録音、バンベルク交響楽団のホームグラウンド、「ヨーゼフ・カイルベルト・ザール」には、立派なオルガンが備えられていますが、それが大活躍です。この曲では「Sinfonia da Requiemのような」という注釈がついています。最後の「天国」の楽章は、そんな「救い」の音楽になっていて、エンディングのリコーダー・ソロが不思議な魅力を醸し出しています。
最後の2012年に作られた「Cave cave Dominus videt」は、ミヒャエル・ヘルシェルという人が書いたそのイエスの言葉に対する問いかけから始まるテキストが、ナレーターによって朗読され、そのバックにオルガンが流れる、という作品です。
いずれも、これが世界初録音(「四終」以外は初演ではありません)、SACDならではの精緻な音色が堪能できます。

SACD Artwork © NEOS Music GmbH

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by jurassic_oyaji | 2017-02-25 20:44 | 現代音楽 | Comments(0)
KANNO/Symphony No.1 "The Border"
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藤岡幸夫/
関西フィルハーモニー管弦楽団
DENON/COGQ-103(hybrid SACD)


菅野祐悟さんといえば、映画やドラマの音楽ではおそらく今一番良い仕事をしている作曲家だとゆうごとが出来るのではないでしょうか。「MOZU」の音楽を聴いたときには、圧倒されてしまいました。そんなに大げさなしぐさではないのに、一瞬ですべての世界を変えられるような力を持っている人だな、と思いましたね。それと同時に、決して音楽がでしゃばらないという点を非常にわきまえているのだ、とも感じました。ですから、おそらく最新作であろう「東京タラレバ娘」の音楽を彼が担当しているのは知っていたのに、最初の数回分はそれが全く聴こえてきませんでした。最近ではやっと聴こえてくるようになりましたが、それ自体は非常にシンプルなのに、それだけで全体の雰囲気を作り出しているんですよね。たしか、武満徹もそんな映画音楽を作りたい、みたいなことを言っていたのではないでしょうか。
そんな菅野さんの初めての「交響曲」、全体は古典的な「交響曲」そのままのフォルムを持っていました。そしてその4つの楽章も、かっちりと作り上げられた堂々たる第1楽章、少し軽妙な第2楽章、ゆったりとして抒情的な第3楽章、そして圧倒的な迫力で締めくくるフィナーレいう、まさに「交響曲」のパーツとしての性格を持っています。しかも、第1楽章などは紛れもない「ソナタ形式」で作られていますから、これは次第にその本来の枠を超えて肥大化してしまい、最近ではペンデレツキのようにいったいどこが「交響曲」なんだ、と思えるようなものまでが作られるようになってしまった「交響曲」の世界では、きっちりとそのあるべきフォーマットを押さえているという、まさに「交響曲」の原点に帰ったものとなっているのです。
そのように外枠を決めてしまえば、あとは稀代のメロディ・メーカーでもあり、卓越したオーケストレーターでもある菅野さんにとっては、現代人の耳にとっても十分なインパクトを与える「交響曲」を作り上げることなど、たやすいことだったのではないでしょうか。
ドラマ音楽のクライアントは様々なことを要求してきますから、それに応えるための引き出しを菅野さんはたくさん持っていることは容易に想像できます。その中には、単に美しく響く曲調だけではなく、今では見捨てられてしまった前衛的な作曲技法とか、もちろん、ジャズやラテン音楽といった「非クラシック」のジャンルの音楽も含まれていることでしょう。この「交響曲」を作るにあたっては、菅野さんはそんな「素材」を惜しげもなくひっぱり出してきて、作品全体に深みを持たせています。
菅野さん自身は、タイトルの「Border」の意味を「意識と無意識の境界線」という難解な言葉で語っていますが、もしかしたら音楽的にはクラシック的な要素と、それ以外、例えば頻出する「無調」や「ジャジー」、あるいは「ミニマル」といった要素との境界を意味しているのでは、とも思えるのですが、どうでしょう?いずれにしても、これは、まさにそんなさまざまな要素が混在している「現代」でなければ作ることのできない、紛れもないマスターワークです。
ブックレットでは、あの前島秀国さんが、詳細な「楽曲解説」を著しています(ここでも、先ほどいくつかのタームをその中から引用させていただいています)。その的確な解説は、間違いなくこの作品を正当に鑑賞する際の指針となることでしょう。今ではあまり見ることのなくなった「〇小節からの第1主題は・・・」みたいな表現も、なにか懐かしさを感じます。ただ、ここまで書くのなら、音楽の時系列を「小節」ではなく「〇分○秒」で表示してほしかったように思います。これはマンフレート・ホーネックなども、自分の録音を解説する時に使っている手法。なんせ、聴いている人はスコアは持っていないのですからね。これだと、単に「おれはスコアも読めるんだぞ」という自慢に見えてしまいますし(笑)。

SACD Artwork © Nippon Columbia Co., Ltd.

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by jurassic_oyaji | 2017-02-11 20:51 | 現代音楽 | Comments(0)
LIGETI/Chamber Music
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François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 26



ロトの指揮する「レ・シエクル」のメンバーが集まって室内楽を演奏しえくれたアルバムです。しかし、それが全てリゲティの作品ばかり、というのが不思議ですね。今まで、このオーケストラは作曲された当時の楽器を使ってその頃の音楽を再現する、というのが基本的な姿勢だったはずなのに。
それについては、ロト自身がブックレットの中のインタビューで、答えを述べているようです。ロト自身はこれまでに多くのリゲティのオーケストラ作品を、別のオーケストラで演奏していて、リゲティ本人とも交流がありました。そこで、リゲティが人を魅了するものが、その色彩感のあり方だと気づき、そこに自分のオーケストラで演奏することの意義を見出した、というのですね。このあたりはあまりに抽象的で、いまいち、よく分かりませんが、彼は「レ・シエクル」の方法論をリゲティに応用することに、大きな魅力を感じたことは確かなようです。
ですから、今回は今まであったようなそれぞれの使用楽器についてのクレジットは一切ありません。ただ、ブックレットの中のメンバーがそれぞれの楽器を持っている写真によると、ファゴットはフランス風のバソン、ホルンも今では珍しいフランス式のピストンのついた楽器であることだけはかろうじて分かります。ですから、めざとくそれを見つけた日本の代理店は、サイトのコメントで、管楽器の奏者がフランス風の楽器を使って「今や絶滅寸前の19世紀的なフレンチ・サウンドを聴かせ」ていることに驚いているようですね。しかし、それはさっきのロトの話からは全くの見当はずれの指摘であることが分かります。さらにロトは話の続きで、この、管楽器を多用したレパートリーを演奏するにあたって、「20世紀の音楽は、管楽器によって情感を強烈に表現できるようになった」と言い切っていますからね。
そもそも、ここで演奏されている「6つのバガテル」はハンガリー、「10の小品」はスウェーデン、そして「室内協奏曲」はウィーンでそれぞれ初演されていて、「フレンチ・サウンド」とは無縁のもの、ロトはもっと深いところでこのオーケストラの可能性を信じ、新しい挑戦を企てたのではないでしょうか。
ということで、ここで取り上げられたリゲティの作品は、まずは管楽器ばかりが使われている木管五重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、バソン、ホルン)のための曲が2つです。その、1953年に作られた「6つのバガテル」と、1968年に作られた「木管五重奏のための10の小品」とでは、作曲家の作風がまるで別人のように異なっていることには、誰しも驚かされるでしょう。「バガテル」はもちろんピアノ曲の「ムジカ・リチェルカータ」の中の曲を編曲したもの、音の選び方こそ先鋭的ですが、音楽自体は民族色の濃い、まさにバルトークの亜流です。そして、「10の小品」は、ウィーンに亡命後、当時の最先端の「現代音楽」に接してからの作品です。「10の小品」ではその偶数番号の曲で木管五重奏のそれぞれのメンバーがソリスティックに活躍するように作られていますが、そこでのメンバーのうまさには舌を巻きます。
「室内協奏曲」は1970年の作品。木管五重奏からファゴットが抜けてバス・クラリネットが加わった5人の管楽器に、トロンボーンと弦楽5部、さらにキーボードが2人(ピアノとチェンバロ)入った13人で演奏されます(さらに、ロトが指揮をしています)。この曲も技巧的なパッセージは数知れず、4曲目などはとても人間業とは思えません。チェンバロ奏者はハルモニウムかハモンド・オルガンも弾くように指定されていますが、ここではハモンド・オルガンが使われています。この曲の中で唯一和みが感じられる2曲目の静かな音楽のバックに流れるその楽器の音は、いかにも未来的、ここで19世紀のハルモニウムではなく20世紀のハモンドを選んだロトが目指したものは、やはりただの懐古趣味ではありませんでした。

CD Artwork © Actes Sud

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by jurassic_oyaji | 2017-01-26 20:39 | 現代音楽 | Comments(0)
BERIO:Sinfonia, MAHLER/BERIO:10 Frühe Lieder
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Matthias Goerne(Bar)
The Synagy Vocals
Josep Pons/
BBC Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMC 902180



2003年に亡くなったイタリアの「現代」作曲家、ルチアーノ・べリオの、マーラーがらみの2つの作品です。メインは1968年に作られた(1969年に改作)「シンフォニア」、そして、前プロとして、マーラーの歌曲集「若き日の歌」を、ベリオがオーケストラ伴奏に編曲したバージョンから10曲が演奏されています。
その「若き日の歌」は、マーラーが3巻に分けて出版した14曲から成るピアノ伴奏の歌曲集です。ただ、第1巻と、2、3巻との間には作曲の時期が少し空いています。その後半の2、3巻では、テキストはすべてドイツの民謡詩集「子供の不思議な角笛」から採られています。ベリオはそれらから全くランダムな曲順で選んで1986年に5曲、1987年に6曲のオーケストラ編曲版を作りました。ただ、オリジナルの第1巻の2曲目「思い出」だけは、2度編曲を行っていますから、実際に編曲されたマーラーの曲は10曲となります。このCDでは、その「思い出」は1986年版が使われています。
ただ、6番目に演奏されているオリジナルでは第1巻の3曲目「ハンスとグレーテ」のテキストが、ブックレットのクレジットでは「子供の不思議な角笛から」となっていますが、これは誤りです。この曲はもっと早い時期に作られたものを改作したもので、マーラー自身が歌詞を書いています。もちろん、日本の代理店ごときがそのことに気づくはずもありません。この曲、実は彼の「交響曲第1番」の第2楽章の元ネタとなっていますね。
ベリオの編曲は、もちろん「現代」作曲家とは言っても例えばハンス・ツェンダーがシューベルトの「冬の旅」に対して施したような過激な改変は全くなく、至ってまっとうなものでした。ただ、やはり随所にベリオならではの味が見出せます。そんなオーケストラをバックに、ゲルネは多彩な音色を駆使してとてもドラマティックな歌を聴かせてくれています。
そして、今ではほとんどベリオの代表作となっている「シンフォニア」です。考えてみれば、もう作られてから半世紀も経っているんですね。そんな歴史の「篩(ふるい)」にかけられて、いまだに色褪せない魅力を誇っている名作です。オーケストラの中に8人の歌手が混ざるというユニークな編成が取られていますが、そもそもは「スウィングル・シンガーズ」がそのパートを歌うことを想定して作られたものでした。この団体、今でもイギリスで同じ名前で活躍していますが、この曲が作られた頃のグループはまだ創設されたフランスが本拠地でした。バッハの曲を「ダバダバ」と歌っていた頃ですね。
もちろん、ニューヨーク・フィルが行った初演にも彼らが参加していますし、それ以後もこのグループ、あるいはイギリスでリーダーのウォード・スウィングルが新たに作った別の「スウィングル」という名前の入った団体が、この作品には必ず出演していたのではないでしょうか。
しかし、その後は全く別のアンサンブルでも、この曲のこのパートを任されるようになっていました。そして、今回のアルバムで起用されているのが「ザ・シナジー・ヴォーカルズ」という、花輪クンの執事(それは「ヒデジー」)みたいな名前の団体でした。このグループは、1996年にロンドン交響楽団がスティーヴ・ライヒの「テヒリーム」(1981)を演奏する時に設立されたそうですが、その中心メンバーは当時の「スウィングル・シンガーズ」のメンバーだったミカエラ・ハスラムでした。時代が巡って、また同じ遺伝子を持つ団体にお鉢が回ってきた、ということでしょうか。
この曲の聴きどころは、なんと言っても第3楽章の、マーラーの交響曲第2番の第3楽章をベースにした壮大なコラージュのシーンでしょう。何度も聴いていますが、そこに引用されている曲にはいまだに「なんだったかな~」と思ってしまって、しばらく頭から離れないものがありますね。それが、ベリオがこの曲に仕掛けた罠なのでしょう。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.

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by jurassic_oyaji | 2017-01-24 23:30 | 現代音楽 | Comments(0)
ADAMS/Scheherazade.2
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Leila Josefowicz(Vn)
David Robertson/
St. Louis Symphony
NONESUCH/7559-79435-1




アメリカの作曲家ジョン・クーリッジ・アダムズ(今までは「ジョン・アダムズ」だけでよかったのですが、最近「ジョン・ルーサー・アダムズ」という、似たような名前で似たような作風の作曲家も活躍しているので、ミドルネームが必要です)の最新作です。ニューヨーク・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、シドニー響の3つのオーケストラからの共同委嘱によって作られ、2015年の3月26日にアラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルによって初演されたばかりの曲が、もうCDになってしまいました。ヴァイオリン・ソロは、初演と同じリーラ・ジョゼフォビッツです。彼女はアダムズの曲を数多く演奏しているパートナーで、この作品でもお互いに意見を出し合って作曲を進めるという共同作業が行われていたそうです。
アダムズが取り上げたモティーフはアラビアン・ナイトの世界です。同じくアラビアン・ナイトを題材とした有名なリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」を意識していたことは間違いないのでしょうが、もちろんその作品のコピーでもなければパロディでもありません。全く新しい視点で、現代的な問題意識までも盛り込んで作り上げたのだ、という意志を明確にするために、タイトルは「シェエラザード・バージョン2」。元ネタから大きくアップデートされていることを強調しているのでしょうね。
サブタイトルも付いていて、それは「Dramatic Symphony for Violin and Orchestra」というものです。「交響曲」ということで、全体は4つの楽章から出来ています。そして、その中には「ドラマティック」の要素があるのだぞ、ということを分からせるために、それぞれの楽章には「賢く若い女性のお話-信じていた人たちから追いかけられる」、「宿望(ラブシーン)」、「シェエラザードと髭面の男たち」、「脱走、戦い、聖域」というタイトルが付けられています。これを見ただけで、安直なテレビドラマのシーンが浮かんでくるようですね。もちろん、作曲家としてはこれはあくまで解釈への一つの可能性としての指針を示してるのだ、と思いたいものです。
ヴァイオリンが常にシェエラザード役で登場するのは、リムスキー・コルサコフと同じアイディアですが、アダムズはそれに加えてアラブ世界を想起させるアイコンとして、「ツィンバロン」をフィーチャーしました。「真田丸」に出てくる衣装(それは「陣羽織」)ではなく、ハンガリーが起源で、中東方面で広くそのヴァリエーションを見ることが出来る、言ってみればグランドピアノの弦を叩いて音を出す楽器です。ハンガリーの作曲家コダーイがオペラ「ハーリ・ヤーノシュ」の中で使って、広く知られるようになりましたね。
ここでツィンバロンを演奏しているのは、アメリカの打楽器奏者のチェスター・イングランダー。彼は普通のオーケストラの中の打楽器だけではなく、ツィンバロンのスペシャリストとして知られていて、アメリカ中のオーケストラが、この楽器が必要な時には彼を呼んでいます。
そんな、いかにもアラブっぽいサウンドに導かれて、「交響曲」は始まります。作曲家自身のコメントによるとここではシベリウス、プロコフィエフ、バルトーク、そしてベルクなどの先人の技法が見られるそうですが、確かにヴァイオリン・ソロの書法はベルクのヴァイオリン協奏曲を思わせるものがあります。そして、第1楽章の混沌とした気配はシベリウスでしょうか。第3楽章や第4楽章のバーバリズムや変拍子はバルトークなのかもしれません。しかし、第2楽章の甘い雰囲気を醸し出す和声はもしかしたらメシアンあたりが起源なのかもしれませんし、全体になんとなくラヴェルの「ダフニスとクロエ」のモティーフが顔を出しているような気がしないでもありません。
いずれにしても、他の「現代作品」と同様、この曲が広く世界中のオーケストラで頻繁に演奏されるということは、きっとないでしょうね。

CD Artwork © Nonesuch Records Inc.
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by jurassic_oyaji | 2016-12-17 20:39 | 現代音楽 | Comments(0)
NIIGAKI/Symphony -Litany-
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新垣隆/
東京室内管弦楽団
DECCA/UCCD1443




2年以上も前に勃発したあの「佐村河内事件」のようなことは、クラシック音楽の歴史の中ではそれほど珍しいことではありません。クライスラーやベルリオーズが、日頃自分たちの作品に否定的な評論家たちを欺くために、別人の名前で作品を発表し、それがその評論家たちに絶賛されるさまを見てひそかにほくそ笑んでいた、というのは、よく知られたエピソードです。
あの「交響曲」の場合は、佐村河内氏は完全に社会から抹殺されてしまいましたが、実際にそれを作った作曲家は、「ある意味被害者」的な扱いを受けて何の咎も受けなかったばかりではなく、それがきっかけとなって瞬く間に「人気作曲家」の地位を獲得してしまいました。その背景には、件の「交響曲」が、作品としては感動を呼びうるすぐれたものだった、という受け取られ方があったからかもしれません。そのような評価は、偽作の事実を見抜けず、その「交響曲」をべた褒めして赤っ恥をかいた「評論家」たちの格好の言い訳になったのです(そんなんでいいわけ?)。
その作曲家が、このたび他人から強要されてではなく、自分の意志で新たな交響曲を作ったのだそうです。そのタイトルは「連祷」。そこに、かつてその作曲家が作らされた「交響曲」の当初のタイトル「現代典礼」との関連性を感じるのは、単なる錯覚でしょうか。
作曲家が自ら綴ったものによると、この新しい交響曲「連祷」は、「前作」同様、広島(さらに長崎)の原爆がモティーフとなっている上に、同じ原子力による惨禍である原発への思いも込められているのだそうです。従って、その作品はまず広島で初演され、その後東京で再演された後、福島でも演奏されました。その、福島でのコンサートのライブ録音が、このCDです。
この新しい交響曲を作るように強く勧めたのが、広島のさるアマチュア・オーケストラなのだそうです。このオーケストラは以前の「交響曲」も演奏していて、贋作に関しても好意的な見解を持っていたのでしょう。「今度こそ、あなたの手でぜひ同じような『感動』を与えてください」とでも言ったのでしょうか。
しかし、作曲家は、以前その著書の中で、「私が行ったことのいちばんの罪は、人々を陶酔させ、感覚を麻痺させるいわば音楽のもつ魔力をうかうかと使ってしまったことです」とまで言っているのですよ。そこまで言われても、そのような作られ方をされた「交響曲」を崇めていた人たちが実際にいたことに驚いてしまいますが、そんな言葉を真に受けてまた「罪」を重ねてしまった作曲家の方が、その何倍も悪質であることは明白でしょう。
いや、もしかしたら、作曲家はその「罪」に真摯に向き合い、まっさらな気持ちで新たな創作に邁進していたのかもしれません。それがまっとうな人間の行いですよね。ですから、まずはきちんとその「成果」に対峙するのが、やはりリスナーとしての道でしょう。
しかし、そんな思いとは裏腹に、作曲家は全然懲りていなかったようですね。いや、逆にその「魔力」こそが自分の最大の武器だと悟ったのでしょうか、そこには聴いていて恥ずかしくなるような「陶酔感」がてんこ盛りだったのですよ。実は、前の「交響曲」は全く聴いたことはないのですが、聴いた人の話ではどうやら過去の作曲家のいいとこ取りみたいな感じのようでした。「連祷」でも、聴こえてくるのはシューマンだったりブラームスだったり、ちょっとひねったところではシベリウスだったり、「元ネタ」がはっきり分かるものばかり、さらに、先ほどの作曲家の言葉の中にあったのが、「大木正夫の交響曲第5番『HIROSHIMA』」へのオマージュですが、それは「オマージュ」などという可愛げのあるものではなく、ほとんど「借用」に等しいものなのではないでしょうか。
やはり、作曲家として一度味わってしまった快感は、なかなか断ち切ることはできないものなのでしょうか。悲しいことです。

CD Artwork © Universal Music LLC
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by jurassic_oyaji | 2016-12-13 23:01 | 現代音楽 | Comments(0)
RZEWSKI/The People United Will Never Be Defeated!
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Igor Levit(Pf)
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ジェフスキの「不屈の民変奏曲」に、また新しいアイテムが加わりました。これで、この作品のアルバムは10種類を超えたことになります。ただ、今までリリースされていたのは、ほとんどがマイナーレーベルからのものでしたし、ピアニストもアムランなどを除けばそれほど広く知られている人ではありませんでした。
しかし、レコーディングまでは行わなくても、リサイタルで取り上げている人はもっとたくさんいることでしょう。2014年の6月にウィーンのムジークフェラインザールで行われる予定だったマウリツィオ・ポリーニのリサイタルが、急なアクシデントのためにキャンセルされた時に、急遽その代役を務めたイゴール・レヴィットもそんな一人です。リサイタル当日にオファーを受けて急遽ウィーンに飛んだ彼は、その時に演奏されるはずだったシューマンやショパンの曲に代わって、ベートーヴェンの後期のソナタ2曲と、この「不屈の民」を演奏したのです。ベートーヴェンはともかく、ポリーニが弾く「名曲」を期待していたお客さんは面食らったことでしょうね(チケット代は払い戻されたのだそうです)。
そんな事件で一躍有名になったレヴィットは、1987年にロシアに生まれた天才少年でした。その音楽の才能を伸ばすため、8歳の時に家族とともにドイツに移って音楽教育を受けています。小さなころから各地のコンクールで入賞、2004年には浜松国際ピアノアカデミーコンクールでも第1位を獲得しています。2012年には、ソニー・クラシカルと専属アーティスト契約を結び、翌年にはベートーヴェンの後期ピアノソナタ集のアルバムでメジャー・デビュー、2014年にはバッハのパルティータ集をリリース、そして、2015年にリリースされたのが、そのいわくつきの「不屈の民」と、バッハの「ゴルトベルク」、ベートーヴェンの「ディアベリ」がカップリングされた「3大変奏曲集」です。
そして、つい最近、その3曲がそれぞれ単売されるようになりました。これで、「不屈の民」のアルバムがソニーという超メジャーからリリースされることになり、単なる「現代音楽」を超えた「名曲」となってしまいました。
まず、今まで出ていたこの曲のCDと決定的に違うのは、音の良さです。やはり「現代音楽」にはなにか先鋭的なイメージがあるようで、妙にギスギスした音のものが多かったような気がします。今回はまず録音された場所が、こちらでも使われていた旧東ドイツのラジオスタジオです。非常にくせのない音響を誇っているようで、とてもふくよかな響きが感じられます。そして、レコーディング・エンジニアが名匠アンドレアス・ノイブロンナー(TRITONUS)ですから、芯のある、それでいて繊細な音を味わうことが出来ます。
なんせ、急に頼まれたリサイタルで演奏したぐらいですから、そもそもレヴィットはこの作品には愛着があったのでしょう。この難しい曲の音符は、隅から隅まできっちり磨き上げられていて、胸のすくような鮮やかさ、しかし、それぞれの音にはとても暖かみがこもっています。そして、時折聴こえるピアニシモの繊細なこと。この曲には、こんな「名曲」たる要素が、すでにしっかり宿っていたことを実感させられるような演奏でした。何しろ、テーマからして「おれたちは負けない!」というようなこけおどしの感じが全くない、いとも爽やかなものでしたからね。
それが、最後のテーマの前に出てくる「Improvisation」になると、足音や楽器を叩く音などを交えた過激なものに変わります。そんな落差も楽しめる素晴らしい演奏です。
蛇足ですが、これは「即興と主題」と表記された最後のトラックではなく、その前の第36変奏のトラックの途中、2分ごろから聴こえてきます。

ごく最近こんなのがあったばかり。CDの黄昏を目前に控えて、こういう「不良品」があふれかえってきたのは、あきれかえった事態です。というか、配信でもそのまま間違えてるし。


CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2016-12-08 20:15 | 現代音楽 | Comments(4)