おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 163 )
REICH/You Are(Variations)



Maya Beiser(Vc)
Grant Gershon/
Los Angeles Master Chorale
NONESUCH/7559-79891-2



スティーヴ・ライヒの最新作が届きました。2003年の「チェロ・カウンターポイント」と、2004年の「You Are(Variations)」です。2曲合わせても、収録時間が39分足らずというのは、最近のようにフォーマットの限界ギリギリまで詰め込もうというCDが多い中にあっては、ひときわ異彩を放っています。正直、70分、80分という長さは、聴き通すにはちょっと辛いと感じてしまうこともあるものですから、決して「長ければ良い」というものではないというのは、紛れもない真実です。音楽、特にクラシックの場合は、その価値は経済性と結びついた何かの単位に換算することなど、決して出来ないのですから。
ライヒの作品といえば、ひたすら決まったパターンを演奏し続けるという、どこか人間の情感に背いた要素が秘められているような印象を与えられるものであることは否定できません。逆に、そのような「クール」なものであったからこそ、それが魅力となって「ライヒを聴かない日はない」というほどのコアな支持者も得たのでしょう。今回のタイトル曲「You Are」では、基本的にはそのような行き方に変わりはないように見えます。決まったパルスに乗って、それぞれのパートだけを淡々と演奏している姿からは、感情の高まりといったエモーショナルなものは決して出てくるはずはないと、今までの彼の作品を数多く聴いてきた体験を持つものとしては当然思ってしまっていたはずです。しかし、意外なことに、ここからはかなり「濃い」情感をともなったメロディが聞こえてきたのです。もちろん、普通に「メロディ」といわれている流麗なものとはほど遠い形をしてはいますが、それは確かに音の高低の変化の中に確かな意味を見出すことの出来る知覚現象(なんという回りくどい表現)だったのです。全体で4つの部分に分かれていますが、それぞれが、殆どあの「交響曲」における「楽章」と変わらないほどの性格が与えられていた、というのも、今までのライヒの作品からはなかなか見つけにくかったものでした。スケルツォ的なシンコペーションが心地よい「第2楽章」、まるでラテン音楽のようなノリの「フィナーレ」、そして特筆すべきは「第3楽章」の殆どリリカルといって差し支えない美しさです。
そのような印象を与えられた要因に、「合唱」の参加が挙げられます。かなり初期の段階から、ライヒは人の声をアンサンブルの中に取り入れてきていました。ただ、それは殆ど楽器と同等の扱いであったため、「声」ではあっても決して「歌」として認識できるものではありませんでした。しかし、この作品の中で、ライヒはいつになく大規模な声楽を取り入れています。譜面づらは「voices」といういつもながらの表記ですが、ソプラノ3、アルト1、テナー2というパートは、それぞれ複数の歌手によって(ライナーには、ソプラノ、アルト、テナーとも6人のメンバーが記されています)しっかりとテキストにのっとったホモフォニックなフレーズが歌われれば、それは紛れもない「合唱」として認識されることになるのです。ただ、ここで演奏している人たちの、およそ「合唱」とはかけ離れた稚拙な歌い方からは、「合唱曲」としての完成度を期待するのは不可能です。この曲から、さらに極上のリリシズムを引き出すことを自ら放棄してしまったのは、作曲者が望んだことだったのでしょうか。
その点、1人の演奏者が、あらかじめ録音してある複数のパートと同時に演奏するという、いわば「ひとりア・カペラ」という発想の「カウンターポイント」シリーズの最新作「チェロ・カウンターポイント」では、なんの気負いもないチェリストの手から、ごく自然に「歌」が生まれるのを味わうことが出来ます。ここで聴かれるものは、ライヒの方法論が到達した「対位法」の一つの完成された姿。全部で8つの声部が絡み合い、そこから紡ぎ出される音楽は、確かに情感に訴えかけるものでした。3部構成となっている中間部で、「こんなに美しいライヒがあっていいものか」という感慨にふけることしばし。まさかこんな時代が来ようとは。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-19 19:16 | 現代音楽 | Comments(0)
OHM+/The Early Gurus of Electronic Music





Various Artists
ELLIPSIS ARTS/CD3690



「電子音楽の初期のグルたち」という美味しそうな(それは「グルメ」)タイトルを持つ、CD3枚、DVD1枚からなる膨大な音源と映像を集めたセットです。サブタイトルは「1948-1980」、1948年のピエール・シェッフェルから、1980年のブライアン・イーノまでの作品を、時系列を追って紹介するという体裁を取っています。
その前に、1948年以前に発明されていた電子楽器、「テルミン(1920)」と「オンド・マルトノ(1928)」を取り上げるのは、このセットの趣旨を理解すれば当然のことでしょう。なによりも、このジャケットのデザインを見てください。ディスク類とブックレットを収めた透明の箱の表面に印刷されているのは、そのテルミンの回路図なのですから。史上初の「テルミニスト」クララ・ロックモアの演奏する「感傷的なワルツ」(ソースとなったDELOSには正確な録音年代が記載されていませんでしたが、このブックレットのロバート・モーグのコメントで、「1976年頃」というのが初めて分かります)ほど、このアンソロジーを始めるのにふさわしいものもありません。
メシアンのオンド・マルトノ・アンサンブルのための「祈祷」に続いて、「ミュージック・コンクレート」の創始者であるシェッフェルの作品が収められているのも、制作者の意図の明確な反映でしょう。そう、彼の、「録音された生音を加工する」というサンプリングの方法論も、ここではしっかり「電子音楽」の範疇として捉えられているのです。全てのセットを聴いてみると、純粋な「電子音」だけで作られたものよりは、サンプリングによって生音を取り込んだものの方が多くなっているのも、このようなコンセプトのあらわれなのでしょう。
この膨大な作品群を聴き通して、さまざまなこと、今まで知らなかったような新しい事実を多く知ることが出来ました。電子音でバロックを演奏したのは、決してワルター・カーロスが最初ではなかったこと。サンプリング音を含め、多くの音を重ねて「音の雲」を作り出したのは、決して富田勲が草分けではなかったこと、そして、もっとも大きな収穫は、「電子音楽」というものも他の楽器による音楽と全く同様に、作り手の個性がそのまま作品に反映されるものだ、という、ある意味当たり前なことです。聴く前には、正直、同じようなテイストの羅列はちょっと辛いな、と思っていたのですが、どうしてどうして、そこには好奇心を刺激されて止まない魅力的な音楽の沃野が広がっていたのです。
そんな中で、ひときわ惹き付けられたのは、なんといってもシュトックハウゼンでしょう。几帳面な音の構成の中には、なぜ電子音を使わなければならなかったかという必然性が、はっきり現れています。日本人としてただ1人エントリーされている湯浅譲二も見逃せません。虫の音のような音源の選択は、「右脳」感覚の反映でしょうか。名前だけは聞いたことのあるホルガー・チューカイの、巧みなサンプリングによるエンタテインメントも楽しめます。衝撃的だったのは、ラ・モンテ・ヤングの2種類の周波数を持つ正弦波だけで作られた曲。常に同じ音が継続されて流れているだけなのですが、スピーカーの前で耳の位置を変えると、音の成分が微妙に異なって聞こえてくるのです。そして、最後にブライアン・イーノの、「ヒーリング」そのものといった音楽を体験する頃には、この1980年を境にして「電子音楽」自体にドラスティックな変貌があったことが理解されることでしょう。このアンソロジーが、なぜこの年のもので終わっているのか、その理由は明白です。
DVDの方は、インタビューあり、アニメーションありの2時間15分、これも、クララ・ロックモアで始まり、ロバート・モーグで終わるという構成には、深い意味が込められていると思わないわけにはいきません。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-16 20:59 | 現代音楽 | Comments(0)
PÄRT/Lamentate

The Hilliard Ensemble
Alexei Lubimov(Pf)
Andrey Boreyko/
SWR Stuttgart Radio Symphony Orchestra
ECM/476 3048
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2049(国内盤 11/23発売予定)


「テート・モダン」という現代美術館がロンドンにあります。イギリス最大の規模を誇るものですが、なんでも元々は発電所だった建物をそのまま使っているという、ユニークな設備なのだそうです。そこの「タービン・ホール」という、以前は発電用の「タービン」があった場所に、2002年にインドのボンベイ(現在は「ムンバイ」と言うのだそうですね)に生まれた世界的な彫刻家、アニッシュ・カプーアの「マルシャス」という作品が建造されました。そう、「製作」などという言葉ではとても言い表せない、まさに「建造」という言い方がピッタリするような巨大な作品が、この、かつてはタービンが設置されていた巨大な空間に出現したのです。長さ155メートル、高さ35メートル、スチールの骨組みに赤い塩ビのシートを貼り付けたこのオブジェは、長いトンネルの両端にまるでブラックホールへの入り口のような形をした開口部が一つは正面、一つは真下を向いて付いているという構造になっています。それを頭に巻き付けると「ターバン」になりますね。

この作品を前にして、ペルトはとてつもない衝撃を受けたと語っています。曰く「最初の印象は、まるでタイム・ワープして未来と現在が同時に見られるように、死んだ自分が生きている自分の肉体の前に立っている、というものだった。その瞬間、私は死ぬためにはなんの準備も出来ていないことに気づき、私に残された時間で何を成し遂げることが出来るのか、自らに問いたい気持ちになったのだ。(例によって、業者のインフォとは微妙に異なる表現であることに、ご注目下さい)」
このオブジェと、作者のカプーアへのオマージュとして作られた「ラメンターテ」は、ピアノ協奏曲という形をとっていて、全部で10の部分から成っています。最初の部分で、バスドラムの壮大な咆哮に乗って現れる金管のコラールは、この壮大なオブジェをイメージしたものなのでしょうか。次の「Spietato」では、普段のペルトではあまり味わうことのないような、半音階の連続に続く切迫した場面が繰り広げられます。しかし、その後の弦のフラジオレットやビブラフォンを背景にしたピアノソロでは、いつもながらの静謐なペルトが登場して、聴くものを安心させてくれます。リュビーモフの、まるで一つ一つの音を慈しんで魂を与えるような演奏には、思わず引き込まれてしまいます。そんな、落差の大きい表現も、この曲の特徴でしょう。最後の方の「Lamentabile」で聞こえてくる弦楽器もとても美しいもの、日頃首席指揮者ノリントンのもとで強いられている「ノンビブラート」の鬱憤を晴らすかのような、この甘い響きは、心を打ちます。
この曲の初演は、もちろんこの「タービン・ホール」で行われました。その時の写真がライナーに掲載されていますが、それは、この空間と見事にマッチした得難いイベントだったことでしょう。空間芸術である彫刻と、時間芸術である音楽との、希有なコラボレーションがそこでは確立していたはずです。もしかしたら、オーケストラの音はこのオブジェの中を通って、観客の後ろからも、少し時間をおいて聞こえてきたのかもしれませんね。そんな体験ができるサラウンド録音なども、聴いてみたいものです。
カップリングは、「エスペリオンXXI」のジョルディ・サヴァールの委嘱で作られた無伴奏合唱のための「ダ・パーチェム・ドミネ」。ドローンの上に音を置いていくという、もちろん中世の音楽を現代に蘇らせたペルトのルーティン・ワーク、アンサンブルではなく、大人数の合唱でも聴いてみたい気がします。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-19 22:14 | 現代音楽 | Comments(0)
ATAK006





高橋悠治
ATAK/ATAK006



ATAK」というのは、そのサイト(http://atak.jp/)の情報によると、「2002年に音楽家・渋谷慶一郎とモデル・mariaによってスタートした音楽を中心としたレーベル。メンバーに空間デザイナー、ウェブデザイナー、プログラマー等を擁しその活動は多岐に渡る。」というものだそうです。そのレーベルの最新作、高橋悠治の電子音楽を集めたこのアルバムも、いかにも「デザイナー」の発想がぎっしりと詰まった仕上がりになっています。まず、カタログ番号がそのままアルバムのタイトルになっているというのが、おしゃれですね。これだけでは全くアルバムの内容は分からないよう、と言ってもしょうがありません。それで押し通すというのが、「デザイナー」の感覚なのですから。そして、ジャケットもかなりの凝りよう、というか、「凝って」いるのか「手抜き」なのかは判然としないあたりが、やはり「デザイナー」たる所以なのでしょう、緑の地に白抜きの文字がある部分は実はCDの本体、紙ジャケットを切り抜いて、そこだけを見せるというやはりおしゃれなデザインです。もちろん、ライナーノーツのような余計なものは一切なく、曲目だけを書いたタックシールが、PP袋の外側に貼ってあるだけ、ちょっとこれはなくしてしまいそうで心配ですね。そして、最大の関心事、入手経路ですが、かなり大きなショップでも店頭には置かれていないようですから、サイトから入手するのが最も確実です。
このアルバムでは、高橋悠治の最新作から、「処女作」とも言える1963年の作品までを、たっぷり聴くことが出来ます。最初の6曲が、2005年の作品、冒頭の「gs-portrait」では、なんと高橋自身の肉声を聴くことが出来ます。彼の、ちょっと媚びたような語り口は、それだけでとても魅力的です。そして、この中では英語のテキストも語られているのですが、そのブロークンぶりも彼の持ち味、クセナキスの講演会で通訳を務めた時に「Is'nt it~」で始まる「否定疑問文」が当時の「楽壇」を賑わしたことがありますが、そんなことが懐かしく思い出されるような、そんな英語の語りです。「電子音」のパートは、決して冗長にならない、ごく切りつめられたフレーズが耳に残ります。その、ちょっと排他的なサウンドの中に、いかにも「悠治」というパーソナリティが感じられるのはなぜかと考えてみたら、これは、まさに彼の書く文章の持ち味そのものではないですか。慎重に言葉を選び、突き放すような一撃で完璧にメッセージを伝えるという彼の多くの文章にみられるテイスト、それが、この音楽と見事に符合していたのです。
1989年の作品「それと、ライラックを日向に」という、このアルバムの中では最も長い曲では、そんな、ある種無機的なものの中に、全く異なる要素を持つ部分が存在することが確認できるはずです。ここでも作曲者自身の肉声が聴けるのですが、カフカのテキストによるそのタイトルの部分が語られる時、周りの情景はとても懐かしい肉感的なものに変わります。日本語で語られる彼の言葉はとても素直で柔らかいもの、それは、変調を加えられたドイツ語の部分との、見事な対比を見せています。彼にとっては不本意かもしれませんが、ここには確かに人間の感情に背かない豊かな情感が波打っています。
そして、最後に収録されているのが、「幻の音源」とされていた1963年の「Time」という作品です。真鍋博のアニメのサントラとして作られたもの、何度もダビングを重ねたアナログテープ特有のハムやヒスノイズによって、いきなり40年前の世界に引きずり込まれ、まるで昔の白黒テレビの画面を見ているような錯覚に陥ってしまいますが、ここでの音源の選び方が、最新作と全く変わっていないことには、驚かされてしまいます。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-05 21:34 | 現代音楽 | Comments(0)
BOLCOM/Songs of Innocence and of Experience

Soloists
Choirs
Leonard Slatkin/
University of Michigan School of Music
Symphony Orchestra
NAXOS/8.559216-18



ソリストだけで13人、それに児童合唱を含む5つの合唱団と、リズム・セクションを持つシンフォニー・オーケストラという、総勢450人にもなろうかという、まるでマーラーの「8番」のような巨大な編成の音楽です。この作品は、アメリカの作曲家ウィリアム・ボルコムが、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩集に曲を付けたというものなのですが、そもそもボルコムがこの詩を知ってそれを音楽にしようと思い立ったのが、彼が17歳の時、そして、全曲が完成して初演されたのがそれから30年近くたった1984年だったといいますから、その作曲のスパンは半端ではありません。まるであのヴァーグナーの大作「ニーベルンクの指環」に勝るとも劣らない壮大な創作意欲の継続の賜物と言うべきでしょう。しかも、演奏時間が2時間17分、それだけで聴き通す気力などなくなってしまいそうになります。
しかし、実際のところ、殆ど「折に触れて」といったスタンスで作られた曲の数々は、せいぜい2分から3分程度の長さのコンパクトな仕上がり、聴き始めてみるとそんな身構える必要など全くないことに、すぐ気づくはずです。この曲のタイトルは「無垢と経験の歌」と訳されていますが、実際には「無垢の歌」と「経験の歌」という2つの部分からなっています。そして、それぞれの部分がさらに3つの部分と6つの部分に分かれていて、実際は「無垢~」は、「経験~」の半分ほどの長さしかありません。そこで、それぞれ3つの部分を3枚のCDに分けた結果、おのおのが40分から50分という、聴き通すには手頃な長さになっていますし。
この作曲家の持ち味は、様々なジャンルの音楽を分け隔てなく作品の中に取り込むという貪欲な姿勢です。したがって、この曲でも、最初にネイティブ・アメリカンの伝承歌のようなもので始まったかと思うと、その次に来るのは他人を排斥するような無調の音楽、そして、なんの脈絡もなくカントリー・アンド・ウェスタンが流れるといった節操のなさ。しかし、それも、これだけ開き直られると、有無をいわせぬ力となって迫ってきます。例えば武満徹のように、思い切りシリアスな「現代音楽」から、「死んだ男の残したものは」のようなフォークソング、さらには「燃える秋」などの最初からヒットチャート入りを目指した曲まで書き分けることが出来たような才能が、この人にも備わっていたのでしょう。ただ、ボルコムのユニークなところは、その全ての要素を一つの作品の中に盛り込んだところ。その結果、一見ごった煮のようなこの大作を虚心に聴くことによって、私たちは一人のアメリカ人が自己の中に持っている音楽の様々な側面を、一望の下に知ることとなるのです。彼の場合、最も根底にあるのはカントリーっぽいテイストではなかったのか、などと、勝手に想像できてしましまいます。そんな彼が、一番最後の曲「A Divine Image」では、初演当時に隆盛を極めたレゲエを導入したあたりが、この作曲家の好奇心のスゲエところなのでしょう。ですから、おそらく作曲時にはシェーンベルクの「シュプレッヒ・ゲザンク」を念頭に置いて作ったことは明らかな、メロディを持たない「語り」でまとめられたいくつかの曲も、もし彼が現在もう1度同じアイディアで作ろうとした時には、そこには間違いなく「ラップ」の要素が入ってくることでしょう。
オーケストラは、学生が主体なのでしょうが、この曲に欠かせない無意味に困難なパッセージを楽々と演奏しているのには感心させられます。合唱にも、大人数の割には、大味にならない緻密さがあります。ただ、問題なのがリズムセクション。「○○ポップス」によくあるゆるいビート、特に前のめり気味のベースが妙に「クラシック風」で、カントリーやロックの味が薄まってしまっています。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-17 19:10 | 現代音楽 | Comments(1)
MADERNA/Don Perlimplin



Roberto Fabbriciani(Fl)
Mauro Ceccanti/
Contempoartensemble
ARTS/47692-2



ノーノやリゲティと同世代のイタリアの作曲家ブルーノ・マデルナは、あるいは指揮者としての方がよく知られているのかもしれません。53歳という若さで亡くなってしまったのが惜しまれますが、もし存命であればもしかしたらコンポーザー/コンダクターとしては、あのブーレーズ以上のキャリアを築いていたかもしれませんね。そういえば、彼の弟子のシノポリもあっけない生涯でした。
マデルナが1962年に、国営放送RAIのためにラジオ用のオペラとして作った「ドン・ペルリンプリン」という作品を、実際に舞台で上演したもののライブ録音が登場しました。この曲のCDとしては、おそらく2枚目になるのではないでしょうか。原作は、スペインの文豪フェデリコ・ガルシア・ロルカの「ドン・ペルリンプリンがベリサと庭で恋をする話」という戯曲、それをヴィットリオ・ボディーニがイタリア語に直したもので、タイトルも「ドン・ペルリンプリン、あるいは愛と想像力の勝利」と変わっています(「あるいは~」というのが、いかにもオペラ・ブッファっぽくていいですね)。
主人公のドン・ペルリンプリンは、シャイな老人。広い屋敷で本に囲まれ、静かに暮らすことが無上の喜びでした。しかし、女中のマルコルファは、そんな主人を若くて美しいベリサという女性と結婚させようとします。ベリサも、ペルリンプリンの財産に惹かれ、結婚を承諾、お屋敷に住むことになります。ペルリンプリンはベリサの若い肉体に夢中になってしまいますが、ベリサの方はこの老人をペットのようにかわいがるだけ、彼女の愛の対象は、妄想の中に住む赤いマントの若い男だったのです。その事を知ったペルリンプリンは、妄想の男と同じ赤いマントに身を包み、仮面に顔を隠して庭でベリサの前に現れます。そこで彼は、彼女の目の前で自らの命を絶つのです。
まあ、梗概はこんな感じ、なかなか身につまされるお話ではあります。もちろん、この時代の「ゲンダイオンガク」界の先頭を走っていたマデルナのことですから、ここに単なる「オペラ」というイメージを求めるのは正しいことではありません。何しろ、当のペルリンプリンは、ステージに登場してはいるものの、一言も歌を歌ったりセリフをしゃべったりはしてはいないのですから。彼の「音楽」を担当するのはフルートソロの役目。フラッター・タンギングや、いかにも12音丸出しという完璧「60年代」のフレーズが、「Si?」とか「Perché?」といったセリフを表すということになります。それは、次に本物のセリフをしゃべる人が、「そう言ったんだね?」と確認することで、お客さんには分かるという仕組みになっています。このレーベルに多くの現代音楽のアルバムを録音しているファブリチアーニの超絶技巧が、ここでは一つの聞き物でしょう。それと同じように、ベリサの母親の心情も、サックス五重奏で奏でられます。
新婚夫婦の初夜の場面で、2人の妖精が現れてリズミカルな会話でエロティックな雰囲気を盛り上げるというのが、音楽的な一つの見せ場でしょうか。ここでは、テープによる「電子音楽」がバックに流れ、妖精のセリフが、「ヴォコーダー」のようなものを使って(初演当時はどのように処理していたのかは分かりませんが)、一人の人が同時に異なるピッチでしゃべっているような効果を出しています。もっとも、そんな扇情的な場面とは裏腹に、ベリサが寝たふりをしていたために、ペルリンプリンは思いを遂げることが出来なかったのですから、何ともかわいそう。
余白に入っている「衛星のためのセレナータ」も、ある程度の枠を決めて即興演奏を行うという、60年代のテイストにあふれたものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-06 23:13 | 現代音楽 | Comments(0)
XENAKIS/La légende d'Eer





Gerard Pape(Remix)
MODE/MODE 148



クセナキスが1978年にパリのポンピドゥー・センターのオープニングのために作ったテープ作品、「エールの伝説」が、新しいリミックスで登場しました。以前にもこの作品はCDで出ていたそうなのですが、あいにく私は聴いたことがありません。ですから、これが初めての「エール体験」となるので、以前のミックスと比較は出来ませんが、各チャンネルの分離が明確で、ヒスノイズのないクリアな音は、かなり高いクオリティのものであることはよく分かります。ただ、この作品のオリジナルは7チャンネルのテープを11個のスピーカーで再生するもの、しかも、演奏の際は作曲家自身がコンソールを操作したのでしょうから、それを他の人が2チャンネルにトラックダウンした時には、自ずと別のものが生まれることになります。機会があれば、別ミックスのCDも聴いてみたいものです。
建築家(ル・コルビュジュの弟子)でもあったクセナキスは、「建築と音楽のコラボレーション」という、とてつもないコンセプトを打ち立て、1958年のブリュッセル万博での「フィリップス館」で、それを実現させました。パヴィリオンの設計はもちろんクセナキス自身が行い、その中では光とシンクロさせたテープ音楽「コンクレPH」が演奏されます。そして、その音楽の中には、建築設計の時の数学的なデータが変換されて入っているという、ちょっと人間の知覚の限界を超えるような「仕掛け」が施されているのです。これが後に「ポリトープ」と呼ばれるようになり、1967年のモントリオール万博のフランス館では、テープではなく4つのオーケストラの生音が、パヴィリオンの中に響き渡ったのでした。
このポンピドゥー・センターで行われたものも、その「ポリトープ」の系譜に属するものですが、ここでは「ディアトープ」と、ビールを飲ませるフーゾク(それは「ビアソープ」)みたいに呼ばれています。連続する、全部で6つの部分から成る50分弱のテープ音楽、その中には、もちろん数学的な意味を持つ電子音も含まれていますが、多くは実際の楽器や「モノ」から出る音をサンプリングして、それに様々な加工を施すという、いわゆる「ミュージック・コンクレート」の手法が使われています。
最初の「第1部」では、およそクセナキスらしからぬ静謐な世界が広がっているのに、まず驚かされます。ここでは、虫の音のような非常に高い周波数の音が、微細音程で重なり合って、まるで脳の中枢に直接働きかけられるような、ちょっとアブない体験を味わえるかもしれません。「宇宙の始まり」といった趣でしょうか。それに続く部分は、徐々に音のスペクトルが低周波へシフト、水の音や石を擦り合わせる音といった「具体音」のクラスターが所狭しとスピーカーの間を踊り廻る生命力あふれるパートとなります。「第4部」あたりは、まるでディストーションのかかったギターのような暴力的な電子音が登場、殆どヘビメタの領域に入っていく感じすら。そして「第5部」は、かなりソフィストケートされた、まるでスティーヴ・ライヒのようなテイストに支配されます。最後の「第6部」は、「第1部」の再現、鳥のさえずりのようなリズムの単音が果てしなく繰り返され、全ては闇の中へと収束していきます。
本来は、もちろんおびただしい数のレーザー光やフラッシュライトが醸し出すイメージの中で聴かれる音楽、しかし、それはデータが残っていないために永遠に再現不能なものですから、逆に想像を働かせて音の海に身を任せるのも、ちょっと素敵な体験かもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-01 19:52 | 現代音楽 | Comments(0)
Live 1977





Steve Reich and Musicians
ORANGE MOUNTAIN MUSIC/OMM 0018



1971年に、ニューヨークのマンハッタンに設立された「ザ・キッチン」というアートセンターがあります。ビデオ・アートを中心に様々な芸術家に活動の場を提供するというものでしたが、スティーヴ・ライヒのような当時の最先端の音楽家もここの常連でした。ここで行われたコンサートの多くは、録音されて残っていたのですが、実はそのテープは倉庫にしまわれたままで、殆ど忘れ去られた状態にありました。それが3年前に「発見」され、この、70年代の生々しい息吹を伝える貴重な記録が、日の目を見ることになったのです。そんな、「フロム・ザ・キッチン・アーカイブス」の第2弾が、このCDです(「台所の、赤い顔をした美しくない女性」ではありませんよ)。
4日間にわたる「スティーヴ・ライヒと音楽家たち」のコンサートからピックアップされた5つの作品が、ここには収められています。「Six Pianos」(1973)、「Pendulum Music(振り子の音楽)」(1968)、「Violin Phase」(1968)、「Music for Pieces of Wood」(1973)そして「Drumming」(1971)のパート4という、いずれも彼の初期の作品ばかり、コンサートがあった1977年当時には、確かな評価を得ていたものなのでしょう。
いずれも、他のスタジオ録音ですでに聴くことが出来るものなのですが、私にとっては「Pendulum Music」が初体験でした。この作品は、他のものとは異なり、小さなパターンの正確な繰り返しというライヒ独自の手法を使っていない、ちょっとユニークなものです。ここで使われる「楽器」は、マイクとアンプとスピーカー。つまり、ケーブルで高いところからつるしたいくつかのマイクを「振り子」のように揺らし、床に設置してあるスピーカーの前を通過する時に発生するハウリングを再生するというものなのです。これは、まさにジョン・ケージの「偶然音楽」そのものではないですか。さらに、マイクが振れ始めた時が音楽の始まりで、それが自然に止まるのが音楽の終わり、という発想は、100台のメトロノームを、ゼンマイが切れるまで鳴らし続けるという、リゲティの「ポエム・シンフォニック」(1962)にインスパイアされたものであることは、容易に想像が付きます。もちろん、演奏するごとに異なるバージョンが披露されるというもの、楽譜にしたがって、ひたすら機械のように脇目もふらず演奏するものというライヒのイメージからはちょっと離れた、少し力の抜けた体験がもたらされることでしょう。
その、「ライヒらしい」曲でも、やはりライブとなるとそれなりのグルーヴが見えてくるのも面白いところです。「Drumming」のパート4は、実は全部ではなく後半から始まるのですが、DGにある1974年のスタジオ録音と比べてみると、各楽器のキャラの立ち方が全く違っています。特に、ボンゴの乗りまくったビートは、聴きものですよ。
この会場は、おそらく防音が不十分なのでしょう。外を走る車の音などのノイズがかなりやかましく聞こえてきます。しかし、これも、それこそジョン・ケージではありませんが、環境の自然音まで含めた上での音楽として味わうのも一興では。「Violin Phase」が、そんな環境音と一体化した世界を見せてくれています。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-26 19:23 | 現代音楽 | Comments(0)
SALONEN/Wing on Wing



Esa-Pekka Salonen/
Finnish Radio Symphony Orchestra
DG/477 5375
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1241(国内盤)


ロス・アンジェルス。フィルの音楽監督を務めるエサ・ペッカ・サロネンは、指揮者としてはもちろん高いレベルにランクされていますが、「作曲家」としてもかなりの実績を持っています。以前はSONYから自作自演盤がリリースされていましたが、他のアーティスト同様、彼もこのレーベルに見切りを付けた(付けられた?)ため、今回は移籍先のDGからのリリースです。2001年以降に作られた、オーケストラのための20分程度の長さの曲が3曲収録されています。
アルバムタイトルとなった「ウィング・オン・ウィング」という曲は、ロス・フィルの新しい演奏会場として作られた「ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール」のこけら落としのために作られた曲、このホールの「ヨットの帆が最大限に風をはらんだ」ような外観にちなんだ曲名が付けられているということです。決して、2人組のアイドルにちなんだものではありません(それは「ウィンク」)。その写真はジャケットにもありますが、ちょっとわかりにくいのでこちらでも用意してみました。
  

確かに、奇才フランク・ゲーリーの設計によるこの建物は、ひときわ異彩を放っています。通り一本隔てているのが、今までの演奏会場であった「ドロシー・チャンドラー・パヴィリオン」、こんな近くに引っ越せるのですから、これほど定期会員に配慮した会場変更もないでしょう。ここで、もう1枚、このホールの内部の写真(模型)をご紹介。

なんだか、サントリーホールによく似た感じだとは思いませんか?そう、この新しいホールの音響設計を担当したのは、サントリーホールとか、札幌の「キタラ」を手がけた豊田泰久さんなのです。このホールの音響は、各方面で絶賛を博していますが、それが日本人の手になるものだというのは、ちょっと嬉しいことですね。ホールが完成したのは200310月のこと、12月には、当時アシスタント・コンダクターを務めていた日本人指揮者、篠崎靖雄さんがここで定期演奏会を指揮されたという、やはり私たちにとっては嬉しい出来事があったわけですが、どういう事情があったのかは分かりませんが、こけら落としのために作られたはずのこの曲が演奏されたのは2004年の6月のことでした。
サロネンの曲には、本質的にはとても厳しい意志が内包されています。それは、とても切りつめられたモチーフの反復という、かなり「ミニマル」の要素が強いものであり、決して甘いメロディーに流されるようなことはありません。ただ、それが「音」として聴かれる時には、彼の卓越したオーケストレーションのスキルによって、殆ど映画音楽のような華麗なインパクトを与えるものに変わるというのが、彼の「手」なのでしょう。その結果、私たちは、ちょっと「どこかで聴いたことがある」という既視感に陥ることになります。この曲の場合は、それは武満でしょうか、ラヴェルでしょうか、はたまたメシアンでしょうか。2人のソプラノの装飾的なヴォカリーズは、華麗なサウンドの味付としての役割を担うもの、そして、一瞬アヴァン・ギャルドな印象を受ける男の声(設計者のF・ゲーリー)のサンプリングすらも、このサウンドに貢献するものでしかありません。
他の2曲の場合は、もっと直接的にサウンドの渦に飲み込まれるだけの迫力があります。それは、作曲家のメッセージを受け取るにはあまりに饒舌すぎると感じるのは、私だけでしょうか。あ、念のため、オーケストラはロス・フィルではなくフィンランド放送響です。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-18 19:56 | 現代音楽 | Comments(0)
BRUBECK/The Gate of Justice

Dave Brubeck Trio
Kevin Deas(Bas)
Alberto Mizrahi(Can)
Russel Gloyd/
Baltimore Choral Art Society
NAXOS/8.559414



デイヴ・ブルーベックというジャズ・ピアニスト、かなり有名な人だと思っていたのですが、クラシック・ファンの間では殆ど知られていないという事実を発見して、ちょっと驚いているところです。彼の代表作とも言える5拍子という変拍子を用いた「テイク・ファイブ」という曲は、ジャズ・インストとしては初めて100万枚を突破する売り上げを記録した大ヒット曲、現在ではブラスバンドあたりのレパートリーにもなっているというのに(ちなみに、1959年に作られたこの曲は、ブルーベックではなく、カルテットのメンバー、サックス奏者のポール・デスモンドが書いたものです)。この曲を含む「Time Out」というアルバムは、ジャンルを超えた永遠の名盤として、歴史に残るものです。

そんな風に、ブルーベックは、彼のカルテットを率いてジャズシーンで「クール・ジャズ」の大御所として名をなしたわけですが、同時に、ダリウス・ミヨーにも師事したという彼は、クラシックの分野でも作曲を行ってみようとしました。実際にバレエやミュージカルを含む数多くの作品が今までに完成しているのですが、そんな、彼の別の面を明らかにしてくれるのが、このアルバムです。1969年に作られた「ゲイト・オブ・ジャスティス」という曲、ユダヤ教の聖書だけではなく、前の年に暗殺されたキング牧師の言葉などをテキストに用いた一種のオラトリオです。そこには、クラシックだけではなく、ジャズ、ゴスペル、そしてポップスなどの要素も渾然一体となって取り入れられています。と聞くと、最近新録音の出た、あのバーンスタインの「ミサ」を思い起こす人がいるかもしれません。あの曲も、作られたのは1971年、そんな時代だったのでしょうね。
曲の規模も、楽器編成も、バーンスタインほど大規模なものではありませんが、この曲の場合ももちろん普通の「オラトリオ」とはかなり異なった様相を見せています。中心になるのは、混声合唱と2人のソリスト、そのうちの一人はテノールの音域をカバーするものですが、ここで歌っているのは「カントール」という肩書きの付いた、ある種の「司祭」のようなもの、ちょっと独特のだみ声を聞かせてくれています。もう一人のソリストはバス・バリトン、テキストの内容に即して、黒人によって歌われます。そして、バックにはこのアルバムにはなぜかなんのクレジットもないのですが、おそらくはホルンやチューバなども含んだビッグ・バンドが用いられています。そして、そこにブルーベック自身が参加するトリオ編成のコンボが加わります。
作品の構成はかなりヴァラエティに富むものになっています。始まりは例の「カントール」のソロによる、ちょっとヘブライ風のコブシのきいた曲。そこにいかにもクラシカルな合唱が入ってきますが、次第にリズミカルな要素が多いものになってきたかと思うと、かなり唐突に「もろジャズ」のピアノトリオが入ってくるといった具合です。しかし、全体的には「平和」とか「自由」といったメッセージを素直に受け取ることが出来るだけの高揚感を伴ったもの、不自然な押しつけがましさなどは皆無です。真ん中辺で歌われる、「Lord, Lord」という、ブルーベック夫人のアイオラの歌詞によるナンバーが、とてもキャッチーで心にしみます。「カントール」が、アンサンブルの中では完全に浮いているのと、合唱の特に女声パートに拙さが残るというわずかな欠点も、ジャズとクラシックとの融合が放つ、時を経ても充分に色あせない魅力を、決して妨げるものではありません。それにしても、録音当時すでに80歳を超えていたブルーベックのプレイの若々しいこと。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-14 21:31 | 現代音楽 | Comments(0)