おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 159 )
DURUFLÉ/Requiem
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Patricia Bardon(MS), Ashley Riches(Bar)
Tom Etheridge, Richard Gowers(Org)
Sstephen Cleobury/
The Choir of King's College, Cambridge
Orchestra of the Age of Enlightenment
CHOIR OF KING'S COLLEGE/KGS0016(hybrid SACD)




まさに、デュリュフレの没後30年にあたる、2016年の1月に録音された、「レクイエム」と、その他の合唱曲を集めたアルバムです。
今回のアルバムでの「売り」は、「ピリオド楽器による録音」だったのではないでしょうか。これは「世界初」の試みです。最近では例えばストラヴィンスキーなどの20世紀の作品までもその時代の楽器で演奏されることがありますから、いつかはこういうものが出てくるとは思っていました。確かにストラヴィンスキー同様、この「レクイエム」が作られた1940年代のオーケストラでは、現在とはかなり異なる楽器が使われていました。それが、第二次世界大戦を境にしてオーケストラの楽器は大幅に変わってしまっていたのです。弦楽器では、それまではガット弦を使った楽器だったものが、このあたりから徐々にスチール弦の楽器に変わります。そして、特にフランスのオーケストラに関して顕著だったことが、管楽器の変更です。つまり、戦前までは国ごとにオーケストラで使われる管楽器は細かいところで異なっていたものが、次第に全世界共通のものに変わっていったのです。例えば、木管パートの最低音を担う「ファゴット」という楽器は、フランスでは奏法も音色も全く異なる「バッソン」という楽器が使われていました。おそらく、初演当時のフランスのオーケストラでは、間違いなくこの「バッソン」が使われていたことでしょう。ですから、この初演の時の形で今回ピリオド楽器による録音が行われたのであれば、これは非常に画期的な試みということになります。
ところが、ここで使われているのは、1961年になって作曲家が改訂したオルガンと小オーケストラのためのバージョン(第3稿)だったのですよ。この頃になると、世界中のオーケストラの楽器は現在のものとほとんど変わらないものに変わってしまっています。フランスでは「バッソン」がまだ使われていたオーケストラもありましたが、この編成では木管楽器のパートは全てオルガンに置き換わっているのですから、何の意味もありません。つまり、この第3稿を使う限りは、ピリオド楽器を使ったとしてもそこからは「演奏された当時の様子を再現する」という意味は全く存在しなくなっているのです。
クロウベリーとキングズ・カレッジ合唱団は、「レクイエム」を1988年にもEMIに録音していて、その時も同じ第3稿を使っていましたから、彼らにしてはそれがベスト・チョイスなのでしょう。ただ、今回弦楽器にピリオド楽器(ガット弦でモダンピッチ)が使われていることで、このバージョンの欠陥はさらにはっきり表れてきたような気がします。ハイレゾ録音のせいもあるのでしょうが、その弦楽器とオルガンとがあまり溶け合っていないのですね。やはり、せっかくエンライトゥンメント管弦楽団を使ったのですから、ここはオリジナルの第1稿で演奏してほしかったと、切に思います。
ただ、そのガット弦によって得られる独特の音色感は、作曲家が望んだものであるかどうか、という点ではかなり疑問が残るものの、そういう本来の「ピリオド」という意味ではなく、ある種「特殊な音色」を求めたのであれば、それはなかなかの効果を上げていたのではないでしょうか。「Pie Jesu」でのガット弦のチェロのソロは、今まで聴いたことのない独特の雰囲気を醸し出していましたし、トゥッティでのトレモロも、とれもろ(とても)やわらかい響きになっていました。
合唱は、前回の録音同様、成人とトレブルとの間の音色の違いがとても気になります。その成人男声が、かなりレベルが落ちているのも残念です。前回は楽譜通りバリトン・ソロが入っていた部分は、今回はパート・ソロになっていました。
もう一つ、せっかくオーケストラが入ったのですから、「クム・ユビロ」もオリジナルのオーケストラ版で録音してくれればよかったのに。

SACD Artwork © The Choir of King's College, Cambridge
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by jurassic_oyaji | 2016-10-06 21:20 | 現代音楽 | Comments(0)
BACH/Markus-Passion
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Ulrike Eidinger(Sop), Ulrich Weller(CT)
Samir Bouadjadja(Ten), Lars Eidinger(Nar)
Peter Uehling/
Ensemble Wunderkammer
COVIELLO/COV 91605




バッハの「マルコ受難曲」の新しい録音が出ました。ある意味、この作品は単なる「素材」のようなものですから、それをどのように扱ってきちんとした曲にまとめるかというのは演奏家の裁量に任されているようなところがあります。ですから、新しい録音であれば、まずそのあたりの、この作品を演奏するにあたってのコンセプトが問われることになるのです。
今回の演奏者は「アンサンブル・ヴンダーカンマー」という名前の団体です。全く聞いたことのない名前ですがそれもそのはず、結成されたのは2014年という、つい最近のことなのだそうです。ただ、その時の形はこのような受難曲を演奏できるほどの規模の大きな(合唱も、このアンサンブルに含まれています)ものではなく、たった4人で集まって作られたごく小さなアンサンブルでした。その4人のピリオド楽器の演奏家たちの名前の中で、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者が「サラ・パール」という名前だったのに、ちょっと反応してしまいました。同じような名前のガンバ奏者がいたはずなのに、と記憶をたどってみると、それは「ヒレ・パール」というかなり有名な人でした。調べてみると、「サラ」はこの「ヒレ」の娘さんなのだそうです。以前やはりヒレが娘さんと共演していたアルバムでは、「マルテ」という子だったようですから、ヒレの娘さんでガンバ奏者になった人は2人いるということですね。「サラ」と「マルテ」は姉妹なのでしょう。
その他のメンバーは、チェンバロのミラ・ランゲ、チェロのマルティン・ゼーマン、そして指揮者でオルガニストのペーター・ユーリングです。このアンサンブルとして17世紀や18世紀の音楽、さらには現代の音楽まで幅広く演奏するとともに、今回のような編成にまで拡大してこのような曲に挑むこともあります。ここでは、ユーリングは中華料理(それは「ユーリンチ」)ではなく指揮に専念、残りの3人で通奏低音をきっちり固めたうえで、弦楽器は各パートそれぞれ1人という、最小限の編成になっています。もちろん、合唱が必要な時には、そのためのメンバーも集まってきます。ただ、彼らはプロではなく、アマチュアで日常的に活動を行っている人たちなのだそうです。
この「マルコ」の演奏では、おそらくディートハルト・ヘルマンによる修復稿を使って演奏されているのでしょう。エヴァンゲリストによる聖書朗読の部分は、レシタティーヴォで歌われるのではなく、ナレーターによって「朗読」されています。しかし、その部分で彼らが行っていることは、かなり衝撃的でした。ナレーターのバックでは、低音楽器たちが即興的に「音」を加えていたのですよ。最初のうちは単音のドローンのようなものだったのが、次第にその自由度はエスカレートしてきて、それは殆ど「20世紀音楽」的な刺激的な「音響」に変わっていきます。
確かに、これはこれで単に朗読だけを聴いているのよりははるかにイマジネーションが掻き立てられるものには仕上がっています。ただ、そこからは当然のことながらバッハの音楽は全く感じられません。事実、このような「朗読」のあとにコラールが歌われると、その二つの世界の間にはとても越えられない隔たりが存在していることがまざまざと感じられてしまいます。
しかも、そのコラールにしても、いかにもアマチュアの集まりだと思えるような、あまりに主体性のない歌い方には、当惑させられます。もし、これはそんな朗読のバックに合わせた恣意的な表現だとしたら、それは本末転倒というべきでしょう。
ソリストたちも、不思議な挙動に終始しています。ソプラノはかなりロマンティックな演奏で臨んでいるのに、カウンター・テナーの人は、まさに「前衛的」というよりははっきり言ってピッチも発声もかなり怪しげな歌い方だったりしますからね。
着眼点は面白いのですが、それが全体に浸透しなかったのが敗因でしょう。

CD Artwork © Coviello Classics
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by jurassic_oyaji | 2016-08-02 23:58 | 現代音楽 | Comments(0)
REICH/Sextet, Clapping Music
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LSO Percussion Ensemble
LSO LIVE/LSO5073(hybrid SACD)




このLSO LIVEというレーベルは、かなり初期の段階からハイレゾPCMやDSDで録音を行っていました。もちろん、その頃はSACDと同じフォーマットのDSD、つまり「DSD64」を採用していました。
今回の、2015年10月に録音された新しいアルバムでは、入手したものでは初めて、その録音フォーマットが「DSD128」と明記されていました。同じ年の1月に録音されたものではまだ「DSD」という表記しかありませんでしたから、その頃はまだ「DSD64」だったのでしょうね。いよいよこのレーベルもSACDを超える「ハイ・サンプリング・レート」を採用するようになったのでしょう。
そうなると、ハイレゾ音源の配信サイトでは、そのDSD128の音源が入手できるのではないか、という期待が高まるのですが、DSDを専門に扱っているサイトでも、DSD64しか扱っていませんでした。残念(もちろん、日本のサイトではDSDそのものがリリースされていません)。
スティーヴ・ライヒの初期の作品がLSO LIVEのようなレーベルから出るなんてちょっと意外な気がしますが、このオーケストラではマイケル・ティルソン・トーマスが首席指揮者だった時代(1990年代)から、ライヒの作品は良く演奏していたのだそうです。という情報は、このライナーノーツに掲載されている、首席打楽器奏者のニール・パーシーからのもの、その中で彼は、この、彼が中心になって打楽器パートだけで録音されたこのアルバムは、ライヒの80歳の誕生日のためのオマージュだと述べています。紅白ですね(それは「おまんじゅう」)。
そうですか、もう80歳になるのですか。ということは、この前のペンデレツキとは3つしか違わないということになるんですね。とてもそんな風には見えません。しかし、それぞれにジャンルの異なるアーティストからのリスペクトを受けている、という共通点はあります。ただ、ペンデレツキに関しては、それはかつての「前衛音楽」時代の作品のみに対するものなのですが、ライヒの方はすべての時代のもの、さらに、もしかしたらクラシックの人よりはロック、さらにはヒップ・ホップ系の人の方がよりシンパシーを持っているのではないか、というほど、境界を超えたところでの人気を誇っているような気がします。というより、彼の作品ははたして「クラシック」なのか、というもっと掘り下げたところでの問いかけも必要なのでしょう。
そう、ライヒの場合は、「クラシック」とか「現代音楽」といった枠にはめて議論されること自体が、あまりふさわしくはないのですよ。そこにとどまっているうちは、たとえばこちらのような見当違いの評価にさらされてしまうことは避けられません。
このアルバムで演奏されているのは、まずは有名な「Clapping Music」です。ライヒの出発点は最初期の「「ピアノ・フェイズ」に見られるような、2人の演奏家が全く同じ繰り返しの音型を同時に始めて、それを片方がほんの少しテンポを速めるために生じるズレを体験するという「フェイズ・シフト」の技法だったわけですが、この頃になると、その「ズレ」を生じさせる遷移的で不確定な部分がなくなって、いきなり音符一つ分シフトする、というやり方に変わっています。おそらく、この時点でライヒは「現代音楽作曲家」から「ジャンルを超えた作曲家」に変わったのではないでしょうか。
そんな、リズム感さえ良ければ、面倒くさいクラシックの音楽教育(「教育とは偏見を植え付けること」と高橋悠治が言ってました)を受けなくても演奏できる作品のあとに、もう少し複雑になった「Music
for Pieces of Wood」を経て、「Sextet」を聴きはじめる頃には、ライヒがこの1985年あたりにたどり着いた豊かなハーモニーを持つ一つの確かな成果を味わうことが出来ることでしょう。
期待していた録音は、ライブということでマイクのセットに問題があったのでしょう、「Music for Pieces of Wood」あたりでは変な干渉が起こっていてちょっとノイズっぽい音になってしまっています。これだったら、別にDSD128で聴く必要はありません。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra
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by jurassic_oyaji | 2016-07-16 21:11 | 現代音楽 | Comments(0)
Sämtliche Lieder für gemischten Chor a cappella
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Matthias Jung/
Sächsisches Vocalensemble
TACET/B 142(BD-A)




メンデルスゾーンの合唱曲は、オーケストラと一緒に演奏するものとか宗教曲など、多くの曲が知られています。なんと言っても合唱の付いた「交響曲」まであるのですから、彼の作品の中では合唱が持つ比重はかなり高いものになっています。でも、普通は「交響曲第2番」と呼ばれている「賛歌」は「交響曲」と「カンタータ」が合体したような作品ですから、本当は交響曲の中に参加させるのは反則のような気がします。たしかに、それまでに「合唱の入る交響曲」はありましたが、あちらとはだいぶ様子が違いますからね。
メンデルスゾーンが作った無伴奏の混声合唱のための合唱曲、いわゆる「パートソング」は、CD1枚に収まるぐらいの、せいぜい30曲程度しかありません。そんなアルバムが、かつてラーデマン指揮のRIAS室内合唱団が2007年に録音した超名演でリリースされていました。
その中に入っていたのはop.41の6曲、op.48の6曲、op.59の6曲、op.88の6曲、そしてop.100の4曲という、全28曲でした。演奏も素晴らしいし録音もよかったのですが、あいにく普通のCDでしたね。そこに、ほぼ同じ曲目で、さらにWoO(作品番号の付いていない=出版されていない作品)の2曲が加わった新しいアルバムが、なんとBD-Aでリリースされました。これは、一応サラウンドを前面に押し出した仕様になっていますが、このレーベルだったら録音はかなりのクオリティが期待できます。
しかし、これが実際に録音されたのは2005年だったことが、クレジットから分かりました。その時に普通のCDも出ていたんですね。つまり、ラーデマンより前に「全曲」のCDを出していたのでした。しかも、この時点ではWoOの2曲は「初録音」でした。今回は、新たにサラウンド・ミックスを行って、BD-Aでリイシュー、という形だったのですね。
まあ、そんな成り行きは、どうでもいいことで、実際にその音を聴いてみたら、とてもナチュラルで素晴らしいものだったので、まずは一安心でした。いや、そんな言い方では申し訳ないほどの、それこそ「2L」の録音にも匹敵するほどのクオリティの高さでした。ただ、その音の傾向は少し違っていて、あちらはとても瑞々しい、ある意味生々しい感じがしますが、こちらはもっと乾いて落ち着いたサウンドが聴けるようです。
そして、ここで歌っている合唱団が、そんな録音とぴったりマッチした落ち着きぶりを見せているのですよ。1996年に、ここでも指揮をしているマティアス・ユングによって創設された「ザクソン・ヴォーカル・アンサンブル」というのは、コアとなる21人のメンバーがいて、レパートリーによって柔軟にメンバーを増減させるという形をとっている合唱団なのだそうです(ここではメンバーは22人クレジットされています)。そして、彼らが最も力を入れているのがシュッツとバッハなのだそうです。すでにその2人の作曲家のCDも出しているそうです。
そんな彼らがメンデルスゾーンを歌うと、とても折り目正しい、まずは楽譜に忠実に歌おうという姿勢がはっきり感じられます。そして、その歌い方の端正なこと。特に男声が、あくまでアンサンブルに溶け込もうというフレキシブルな音色を持っているのが素敵です。テノールの高音はまるで女声のアルトのようですし、ベースも低音はしっかり出している上に、高音はしっかりテノールと溶け合っているという感じで、もう完全に彼らの声は合唱の中の本当の意味での「パート」になりきっているのです。
最後に収録されている「初録音」の2曲のうちの1曲は、メンデルスゾーンの先生のツェルターの70歳の誕生日のお祝いのために、あのゲーテが捧げた詩に作曲されたものです。ここでは、最初に重唱で合唱団の4人のメンバーによって歌われるのですが、それぞれの声はとても立派、芯があってピッチも正確です。そんな人たちが集まっているのですから、こんなすごい合唱が出来上がるのも当然ですね。

BD-A Artwork © TACET
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by jurassic_oyaji | 2016-07-05 23:13 | 現代音楽 | Comments(0)
Folk Songs of the World
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Cathy Berberian(MS)
Harold Lester(Pf)
SWR/SWR19010CD




20世紀半ばの「現代音楽」シーンで確かな輝きを放っていた歌手、キャシー・バーベリアンの、こんな貴重な放送音源がリリースされました。1978年にシュトゥットガルトのSWRのスタジオで録音された「Folk Songs of the World(世界の民謡)」というタイトルでまとめられた曲集です。
このCDのブックレットに寄せられているエッセイの最後に、キャシー・バーベリアンの公式サイトらしきもののURLがあったので覗いてみたら、その中のディスコグラフィーにはこの録音はなかったので、おそらくこれが初めて公にCDになったものなのでしょう。ついでに、同じサイトのバイオグラフィーを見てみると、彼女の生年月日まできちんと書いてありました。それによると、彼女が生まれたのは1925年7月4日なのだそうです。巷では1928年生まれという情報も見られますが、それは完全に否定されているようですね。
同時に、彼女が1950年に結婚したルチアーノ・ベリオと離婚したのは、1964年だったということも、ここで分かります。これも、1965年とか1966年といった紛らわしい情報を払拭するためには有益なデータでしょう。というのも、この1964年という年にベリオはキャシーが演奏することを前提とした「Folk Songs」という曲を作っているのですよね。これは、ほとんど知られていない世界中の民族音楽を集めて、ソリストはそれをそのまま歌い、そこにベリオがちょっと複雑な伴奏を付けたというものです。プライベートではパートナーシップを断ち切っても、仕事の上ではしっかり共同作業は行っていたという、二人の微妙な関係の表れということになりますね。実際に、11曲から成るこの曲集の中には、キャシーの先祖のアルメニアの歌や、彼女がSPレコードで知ったアゼルバイジャンの歌なども含まれていますから。
今回の1978年の「Folk Songs」は、タイトルこそ1964年のものと同じですが、その内容はずいぶん違っています。というか、別にこれは「作品」ではなく、彼女が集めた、主にクラシックの作曲家が編曲した世界中の「民謡」が22曲歌われているというだけの話です。そして、ここで彼女は16の国の言葉を駆使しているのです。その中には、ヨーロッパの言語だけではなく、中国語なども入っています。あいにく日本語はありませんが。
ただ、この中で、きちんと作曲家によって「編曲」された「作品」は、それほど面白くありません。バルトークとかラヴェル、さらにはハイドンとかベートーヴェンなどが手をかけた曲は、どうしてもその作曲家のテイストが前面に出てきて、キャシーの持ち味がなかなか生かされていないのでは、という気になってしまいます。中でもコープランドが採譜した子供の歌の「I Bought Me a Cat」などは、「猫を買った」から始まって「アヒル」、「ガチョウ」と続く中でだんだん動物が増えていき、最後には「女房」まで登場するというナンセンスな歌で、その時の動物たちの鳴き声がやはりだんだん増えていくというところが聴かせどころなのでしょうが、その鳴き声の部分が全然面白くないんですね。キャシーだったらありきたりの擬音ではなく、もっと高度なことをやってくれてもいいのに、という、まさに期待はずれの出来でした。
ですから、やはりおもしろかったのは、特に編曲者のクレジットが入っていない、クロアチアやブルガリアの民謡です。ここでは地声丸出しの発声で歌われていますから、普通には「民族唱法」と言うべきなのでしょうが、彼女がそれをやると俄然「現代音楽」の味が出てくるから不思議です。最後のトラックのアルメニアの歌「私の歌」では、さらに力が抜けた共感のようなものが感じられます。
でも、「ホルディリ・ディア」みたいなタイトルで知られるスイスのヨーデル「ルツェルンへの道」は、彼女だったらさぞやファルセットが決まると思っていたら、全然冴えないのが意外でした。なんでも歌えそうでも、こんなところに弱点があったようでる

CD Artwork © Naxos Deutschland Musik & Video Vertriebs-GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-06-30 20:32 | 現代音楽 | Comments(0)
BAUKHOLT/Ich muß mit Dir reden
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CIKADA
2L/2L-116-SABD(hybrid SACD, BD-A)




このアルバムで演奏されているのは、ドイツの作曲家、カロラ・バウクホルトという人の作品です。タイトルは曲名ではなく、アルバム全体のコンセプトなのでしょう。二人称の代名詞である「du」の3格の「dir」の頭文字が大文字なのはネイティヴの人にとってはすこし古臭く感じられるはずですから、「そなたと話さねばならぬ」でしょうか。べつにソナタが演奏されているわけではありませんが。
演奏しているのは、「チカーダ」という10人のメンバーが集まって1989年に作られたノルウェーのアンサンブルです。その内訳はフルート、クラリネット、弦楽四重奏、コントラバス、ピアノ、打楽器、そして指揮者です。「現代音楽」に特化したレパートリーで継続して演奏活動を行っていて、創設以来、メンバーは全く変わっていないのだそうです。
彼らとバウクホルトとの出会いは、2007年にケルンで行われたコンサート。実は、彼らはその2年ほど前からバウクホルトの作品を演奏していたのですが、そこで彼女の「Keil(くさび)」という2000年に作られた曲が演奏された時には、作曲者自身も含めてその周りの人たちは、この曲のことすらもほとんど忘れかけていたそうです。しかし、その演奏を聴いて、今までになかった新しい息吹が作品の中あることにに気づいて驚いてしまったのだそうです。
そして、2009年にはチカーダからバウクホルトに正式な委嘱のオファーが届きます。それに応えて2011年に作られた「Laufwerk(運転機関)」と、2013年に作られた「Sog(引き波)」、さらに、先ほどの「Keil」と、1995年の作品「Treibstoff (燃料)」の4つの作品が、ここでは演奏されています。委嘱作の2つは彼らの本来の編成で作られていますが、それ以前の作品ではヴァイオリンが1人少ない9人編成になっています。
いずれの作品も、ピアノはプリペアされていますし、管楽器も弦楽器も特殊な奏法が使われていて、サウンド自体がとても刺激的ですが、おそらく弦楽器奏者あたりが、「声」で参加しているシーンが時折現れます。それが、先日の「Song Circus」とは全く別の個性を発揮していて、何か温かさのようなものを感じさせてくれています。決して「聴きやすい」作品ではありませんが、この素晴らしい録音でそのような未知のサウンドに包まれているうちには、なにかとても新鮮な感情が心の中に湧き起ってくるはずです。騙されたと思って、そんな体験に身を委ねてみて下さい。
このパッケージには、いつもの通りSACDとBD-A(24/192)の両方が入っています。もちろん、今までの経験ではBD-Aの方がはるかに優れた音が聴けることが分かっているので、SACDはまず聴くことはなかったのですが、最近5.6MHzのDSDが聴ける環境が整ったので、比較の意味で2.8MHzのDSDであるSACDも聴いてみました。
聴き比べたのは、「Treibstoff」の冒頭部分、まるでタンゴのようなリズムを産み出すコントラバスに乗ってミニマルっぽいパルスが続くという音楽ですが、そこに先ほどの「声」によって「ツッツクツッ、ツッツクツッ」というヴォイパが加わっています。それが、BD-Aと5.6DSD(ダウンロード)でははっきり人の声と認識できるのですが、SACDではそれがよく分からないのですよ。この部分だけで、SACDはオリジナルの情報からの欠落がかなりあることが分かります。
それをさらに確認するために、同じレーベルのアイテムでもリリースされたのが2005年という、まだ24bit/48kHzのフォーマットで録音されていた音源をSACDにしたものの中の「Immortal Bach」のトラックを、ネットにサンプルがあった5.6DSDのファイルと比較してみたら、全然別物の音でした。つまり、24/48のPCMでさえ、DSDにトランスファーした際に5.6では受け継がれた情報が、2.8では欠損していた、ということになります。2.8DSDは24/48PCMよりも劣っていたのです。そしてそれは、ショルティの「指環」が、24/44.1のBD-Aの方がSACDよりいい音だったという事実と見事に合致するのです(あくまで、個人的な感想です)。

SACD & BD Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2016-06-16 20:44 | 現代音楽 | Comments(0)
Anatomy of Sound
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Song Circus
2L/2L-117-SABD(hybrid SACD, BD-A)




このジャケットの不気味なこと。一見、最近はやりの「羽根のない扇風機」のようですが、これは女性の顔の表皮を切り取ったら、その先は漆黒の闇だったという、まるでダリのようなシュールな世界ですね。あんなにしつこくはありませんが。このジャケットにだけ魅せられて、全く未知の演奏家と作曲家にもかかわらず、注文したものの、発売日は何度となく延期されてなかなか入手できないでいたアイテムです。それにしても、「サウンドの解剖学」などというタイトルも、とてもそそられるものですね。
やっと手元に届いて、その全貌が分かった時には、何ともとらえどころのない気がしました。演奏している「ソング・サーカス」というのは、リヴ・ルーネスダッテルという人が芸術監督を務め、彼女自身もメンバーであるノルウェーの女声アンサンブルの名前です。一応メンバーとして6人の名前がクレジットされています。演奏されている作品は、どちらもこれが初録音となるノルウェーの2人の作曲家による2つの作品、ルーベン・スヴェッレ・イェットセンの「Landscape with Figures」と、オーレ=ヘンリク・モーの「Persefone」です。そして、それぞれの曲には、「ソング・サーカス」とは別の人が「バトニスト」というクレジットで指揮を担当していることも分かります。「バトニスト」などという言葉は初めて聞きましたが、要は「棒振り」ですね。このように言うと、ただ棒を振って指示をしているだけのような、なにか機械的な作業のような感じがしてしまいます。そのような演奏家の布陣、そして曲目についてのかなり抽象的なコメントと、それだけの情報ではいったいどんな音楽がここから聴けるのかは全く想像できません。
イェットセンの作品のタイトルは、「Landscape with Figures(形のある風景)」という、全部で12の部分から成る45分ほどの大曲です。ここでは、「ソング・サーカス」のメンバーと一緒に、作曲者のイェットセン自身がエレクトロニクスで演奏に参加しています。具体的には電子音源や、録音された自然の音源などを適宜流すということ、それと、もしかしたらシンガーたちの声の変調にも関わっているのかもしれません。
ここでの「声」の扱いは、今となっては懐かしいかつての「前衛音楽」でよく見られたようなものでした。例えばリゲティの「アヴァンチュール」やべリオの「セクエンツァ」のように、それは決してメロディを歌い上げることはなく、単なる「音」として扱われているのです。それでも、これらの前世紀の作品にはまだかろうじて残っていた声帯を通して出てくる音(つまり「声」)をメインに使うという姿勢さえも、ここではきっぱり放棄され、口のまわりのあらゆる器官を総動員して出されるさまざまなパーカッシブな音の方を重視するというスタンスがとられます。これは、リゲティやべリオの時代には存在していなかった「ヴォイス・パーカッション」の影響もあるのかもしれません。
一応テキストらしいものは用意されているそうですが、それはおそらくあまり深く考える必要はないのではないでしょうか。聴く者は、あくまで「風景」と化した音の中を、バックに流れる具体音とともにさまよっていれば、これらの全く「意味」を剥奪された「声」の中から、逆に「声」にとって「言葉」、あるいは「意味」がいかに不可分のものであったかを悟るはずです。
この曲の終わりには、叩きつけるような雨音が聴こえてきます。それも、これまでにあった具体音と同じものか、と思っていると、全く切れ目なしに次の曲が始まっていました。その、モーの「Persefone」という作品は、5人の女声と、この前エシェンヴァルズの曲を聴いたときにも登場していた「ワイングラス」のために作られています(ということは、メンバーは1人外れる?)。こちらは、前の曲よりはもう少し「声」を大切にした作られ方がされていると感じるのは、おそらくそのワイングラスのピュアな響きのせいでしょう。

SACD & BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2016-06-14 21:06 | 現代音楽 | Comments(0)
PASQUINI/La Sete di Christo
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Francesca Aspromonte(Sop)
Francisco Fernández-Rueda(Ten)
Luca Cervoni(Ten)
Mauro Borgioni(Bar)
Alessandro Quarta/Concerto Romano
CHRISTOPHORUS/CHR 77398




キリストの受難をモティーフにした音楽作品はたくさんありますが(「トゥーランドット」とか・・・それは「女難」)、最も有名なものはバッハの「マタイ受難曲」のように聖書の福音書で語られた受難のシーンをそのままテキストにしたものでしょう。
それとは別に、新たに台本作家が作ったテキストによって受難を描いたというものも、別の流れとして重要な作品がたくさん残されています。その代表的なものはオペラの台本作家として有名なピエトロ・メタスタージオが1730年に書いた「La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo(我らが主イエスと・キリストの受難)」をテキストにした多くの作品群です。この台本は元々はアントニオ・カルダーラのために書かれたものですが、その後も多くの作曲家によって18世紀のみならず、19世紀になっても使われるという大ヒット作となりました。
今回の「La Sete di Christo(キリストの渇き)」というタイトルの受難オラトリオは、そのメタスタージオの台本よりも前、1689年に、ヘンデルのオペラ「セルセ」の台本の元になったものを作ったことで知られているニコロ・ミナートによって作られた台本に、ローマで活躍したイタリア・バロックの作曲家、ベルナルド・パスクィーニが作曲したものです。
ミナートの台本では登場人物は、ヴィルジネ(聖母マリア/ソプラノ)、ジョヴァンニ(聖ヨハネ/テノール)、ジュゼッペ(アリマテアのヨゼフ/テノール)、ニコデモ(バリトン)の4人のソリストですが、ニコデモ役の人はイエスとの「二役」を演じます。シチュエーションは、さっきのメタスタージオの場合の少し前、まさにキリストが亡くなる前後のシーンです。言ってみれば、有名な「スターバト・マーテル」のシーンの少し前になるのでしょう。
楽器編成は、ヴァイオリン2本とヴィオラに通奏低音というシンプルなものです。ただ、ここで演奏しているアレッサンドロ・クァルタ指揮のコンチェルト・ロナーノは、通奏低音に多くの楽器を使って、多彩な音色を追求しています。
曲は2つの部分に分かれていて、それぞれの最初には楽器だけでシンフォニアが演奏されます。第1部のシンフォニアは、本当に涙を誘うようなヴァイオリンのフレーズで始まり、それにカノン風に他の弦楽器が追いかけるというもの、これから起こる悲しい出来事を暗示しつつ、それぞれがそれから目をそらすことなく、一緒に悲しさに耐えていこうよ、といった感じでしょうか。
話の口火を切るのは聖母マリア、彼女たちはまさに処刑されようとしている十字架の下にいて、悲しみにくれています。そんな彼女の歌は、しかし、それを歌うソプラノのアスプロモンテの堂々たる歌い方によって、ある種の意志の強さが感じられるものでした。他の3人もそれに合いの手を入れます。
やがて、それぞれの出演者のソロ・アリアが始まると、各々の性格が音楽によって見事に際立つように作られていることが分かります。ヨハネとヨゼフは同じテノールですが、その声の質からして全然違います。ヨハネは少しやんちゃ、それに対してヨゼフはあくまでナイーヴ、ここでのチェルヴォーニはまさにうってつけのリリカルな歌を聴かせてくれます。ボルジォーニが歌うニコデモは、ちょっとにぎやかなキャラ、アリアもメリスマを多用した派手な音楽です。
曲のクライマックスは、なんと言っても第2部の最初、やはり悲しげなシンフォニアの後に無伴奏で歌われるイエスの「Sitio!(喉が渇いた!)」というレシタティーヴォでしょう。ここでのボルジォーネの一声には、皆が凍りつきます。そして、最後、聖母マリアの堂々たるダ・カーポ・アリア、「Piangi, Maria(マリアよ、泣きなさい)」の後奏で、最後のアコードが奏される直前の空白の時間の、なんと長かったことでしょう。そのパウゼは、この1時間を超える悲しみの物語を締めくくるための必然だと、クァルタは思ったのでしょうね。

CD Artwork © note 1 music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2016-05-07 21:23 | 現代音楽 | Comments(0)
MORAVEC/ Violin Concerto, Shakuhachi Quintet
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Maria Backmann(Vn), James Nyoraku Schlefer(Sh)
Stephen Gosling(Pf), Voxare String Quartet
Rossen Milanov/
Symphony in C
NAXOS/8.559797




1957年にアメリカで生まれた作曲家、ポール・モラヴェックの作品集です。チェコ語だと「モラヴェッツ」になるラストネームでもわかる通り、父親がチェコ系、そして母親がイギリス系という出自なのだそうです。
彼は幼少のころから聖歌隊のトレブル・パ-トを歌うことで、音楽と親しんでいましたが、そのころ衝撃を受けたのがテレビの「エド・サリヴァン・ショー」で見たビートルズだというのが、面白いですね。その後バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスといった「普通の」音楽との出会いもあり、ピアノのレッスンを受けるようになって、13歳で作曲を始めます。
現在では、アメリカを代表する作曲家として大活躍、オーケストラ作品や室内楽だけではなく、歌曲やオペラなど、あらゆるジャンルで膨大な作品を産み出しています。最新作はスティーヴン・キングの「シャイニング」を元にしたオペラで、今年の5月7日にミネソタのオペラハウスで初演されます。
今回のアルバムでは、彼の作品の中でも最も完成度の高いものとされている「ヴァイオリン協奏曲」がまず演奏されています。彼の場合、演奏家との出会いによって作品のインスピレーションがわいてくるケースが多いそうですが、この作品も、長年にわたって創造の源となってきたヴァイオリニストのマリア・バックマンのために作られています。黄色くはありません(それは「パックマン」)。もちろん、ここでも彼女がソロを担当しています。彼女の卓越した演奏技巧を前提として作られたこの協奏曲は、確かに高度のテクニックを必要とするものですが、彼女のよどみのないヴァイオリンによってとても魅力的に迫ってきます。モラヴェックの作風は、ごくオーソドックスで分かりやすい和声とメロディが基本、そこにジャズや、ほんの少しの「前衛的」なかけらを加えたような感じではないでしょうか。特にこのヴァイオリン協奏曲では、ブラームスあたりの重厚なテイストもいたるところに見られます。長大なカデンツァを挟んで、圧倒的な盛り上がりを見せるフィナーレは聴きごたえがあります。ここで共演している「Symphony in C」というのは、アメリカに3つしかないという「教育オーケストラ」、ここで学んだ才能が、各地のオーケストラの団員として活躍しています。
もう一人の、彼の作曲の源となった人物が、尺八奏者のジェームズ
如楽(にょらく) シュレファーです。彼はあの横山勝也氏などに師事、日本人以外ではほんの少しの人しか許されていない「大師範」の免状を与えられているのだそうです。また、彼は「虚心庵アーツ」という団体をアメリカに設立して、日本の楽器、ひいては日本の文化を世界中に広める活動を行っています。この「尺八五重奏曲」も、その「虚心庵アーツ」からの委嘱によって作られました。
ここでは、その如楽さんと「ヴォクサー弦楽四重奏団」(と読むのだと思います。少なくとも、このCDの帯やNMLで表記されている「ヴォザール」でないことだけは間違いありません)との共演です。曲の最初ではカルテットだけでいともロマンティックな音楽が演奏されますが、そこに尺八が加わるとガラッと曲想が変わる、というのが、モラヴェックならではのこの楽器との対峙の仕方だったのでしょう。あたかも「共演」していると見せかけて、音楽的には全く異質なものが最後まで互いに譲らない姿勢がありありと見て取れます。結局はやっぱり西洋楽器、あるいは西洋音楽の軍門に尺八は下ってしまう、という、まさに西洋人が見た和楽器という構図がミエミエの作品です。
あと2曲、ヴァイオリンとピアノのための小品が演奏されています。最後の「Everymore」という曲は、バックマンの結婚祝いに作ったものなのだそうです。これは1度聴いたら忘れられないこてこての「ポップ・チューン」、ビートルズがアイドルだった作曲家のルーツを見る思いです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2016-04-21 20:18 | 現代音楽 | Comments(0)
周/陳/Symphony 'Humen 1839'
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Darrell Ang/
New Zealand Symphony Orchestra
NAXOS/8.570611




1953年生まれの中国の作曲家周龍(ジョウ・ロン)の作品は、こちらで1回聴いたことがありました。西洋音楽に媚びることなく、中国人のアイデンティティを前面に押し出した立派な作品だったような気がします。今回は、その周の作品集です。ただ、タイトルの交響曲はもう一人、やはり1953年に生まれた妻である作曲家陳怡(チェン・イ)との共作です。この二人の共作というのは、これが唯一のものなのだそうです。
このタイトルにある「Humen」とは、「虎門」という広東省東莞市にある地区の名前です。下半身の名前ではありません(それは「肛門」)。そこで「1839年」に起きたのが、「アヘン戦争」という歴史の教科書には必ず出てくる中国(当時は「清」)とイギリスとの戦争の発端となった「アヘン焼却事件」です。イギリスが清に持ち込んだ大量のアヘンを、当時の大臣林則徐がすべて没収して虎門で焼却したという事件です。
この史実をモティーフにして、広東州の広州市出身である陳怡が、広東に伝わる民謡などを素材にして第1楽章を構成します。これが、いわばこの事件の背景となる街の雰囲気を提示する、という楽章になるのでしょう。しかし、それらのテーマは安直に民族性に訴えかけるようなものではなく、独特の作曲技法によってとても厳しい音楽となって、深いところで聴く者への心へ届くような形に仕上がっています。
第2楽章は、この事件のヒーローとして登場する林則徐のキャラクターを表現したものなのだそうです。まるでストラヴィンスキーの「春の祭典」のような複雑なリズムと厚ぼったいオーケストレーションに支配された前半は、彼の力強さの反映なのでしょう。しかし、後半はうって変わって透明性あふれるオーケストレーションによる、とてもリリカルな音楽が繰り広げられます。ここでは、それまでは決して表には出てこなかった「中国風」の情緒がたっぷり味わえます。
第3楽章に流れるのは、とても悲しげなテーマ。それは、この戦争に打ちひしがれた中国の人たちの悲しみが表現されたものなのでしょう。しかし、やはり後半になるとそれに打ち勝つ力のようなたくましさが現れます。そして、最後の楽章では、ご想像通り、戦争を乗り越えて力強く突き進む人たちを高らかに歌い上げる「感動的」な音楽となります。正直、それまでの音楽と比べてあまりに明るすぎるこの楽章には引いてしまいますが、確かに聴いていてとても心が湧きあがるのは事実です。もしかしたら、これはショスタコーヴィチの交響曲第7番(いわゆる「レニングラード」)から何らかの影響を受けているのではないか、と、全く根拠のないことを思い浮かべてしまいました。
この交響曲は広州交響楽団からの委嘱で作られ、2009年に初演されました。
周龍が単独で作曲に携わったあとの2曲は、もう少し抽象的なテーマが元になっています。シンガポール交響楽団からの委嘱によって作られ、この交響楽団によって2003年に初演された「The Rhyme of Taigu」は50歳のバースデイ・プレゼントとして妻陳怡に献呈されたのだそうです。「Taigu」というのは日本の太鼓のこと、実は、この作品は以前作られたクラリネット、ヴァイオリン、チェロと3人の日本の太鼓奏者のために作られた「Taigu Rhyme」という作品のコンセプトを継承しているもので、ここでは日本の太鼓ではなく、中国の古代の太鼓と、それによってもたらされたエネルギーと精神とを、西洋のオーケストラを使って再現したものなのだそうです。3つの部分に分けられる曲の中間部ではクラリネットやオーボエがあくまで中国風の奏法でしっとりとその「精神」を歌い上げますが、その前後では圧倒的なエネルギーが、リズミカルに表現されています。
もう一つの、カンザスシティ交響楽団からの委嘱によって作られ、2005年に初演された「The Enlightend」では、フルートの中国風奏法が聴きものです。いずれもこれが世界初録音、とても素晴らしい録音で、中国の「今」の音楽を伝えてくれています。

CD Artwork © Naxos Rights Us, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2016-03-29 23:28 | 現代音楽 | Comments(0)