おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 163 )
TARNOW/Theremin Sonatas
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Carolinea Eyck(Th)
Christopher Tarnow(Pf)
GENUIN/GEN 15363




以前こちらで聴いていた、いまや世界一のテルミン奏者として大活躍している1987年生まれのドイツの美人テルミニスト、キャロリナ・アイク(エイクとも表記)のソロアルバムです。クラシックのみならず、幅広いジャンルの音楽家とのコラボレーションを展開している彼女ですが、今回はいともまっとうなピアノとテルミンのために作られた「テルミン・ソナタ」です。
その曲を作り、ピアノで彼女と共演しているのが、1984年生まれのピアニスト、作曲家のクリストファー・タルノフです。これは、彼がキャロリナとの共同作業の中で作り上げた2曲の「ソナタ」と、2曲の「インテルメッツォ」の世界初録音のCDです。
それぞれの曲の正式なタイトルには、「テルミンとピアノのための」という言葉が入っています。ここでのピアノ(もちろん、タルノフ自身が演奏しています)は、単なる伴奏ではなく、どちらかというと「主役」を演じているのではというほどの存在感があります。「ソナタ」では、まずはピアノだけの演奏が延々と続き、そこにおもむろにテルミンが入ってくるという感じ、それからは、それぞれの楽器がお互いに目いっぱい主張しあうバトルが展開されています。
いずれの曲も、作風はドビュッシーやメシアンを思い起こさせるようなテイストの和声、というか、モードに支配されたもので、決して古典的な味わいではないものの、いわゆる「現代音楽」と言われていたような日常の音楽体験から遠く離れた要素は皆無で、安心して音に身を任せられる音楽です。それにしても、ピアノの音の多さには、それだけである種の快感が味わえます。
一方のテルミンは、もはやメソッドも、そして楽器そのものも、この楽器が世に出た時代のものからは大幅に様変わりしていることがはっきりわかります。世界初のテルミニストだったはずのクララ・ロックモアの演奏は非常に良い音で録音されたものが残っていますが、それを聴く限りでは例えば普通の弦楽器や管楽器と同じフレーズを演奏している時には「こんなプリミティブな楽器で、よくここまでやれるね」という、ほとんど憐憫の情しか感じられないものが、彼女から2世代ほど経たアイクの場合はもうそんなことは当たり前という境地にまで達するようになっているのですからね。
さらに、ここでは「単音」しか出せないはずのこの楽器から、なんと「2つの音」を同時に出しているという信じられないことを、彼女は「ソナタ」の中で行っています。これについては、CDの中にボーナストラックとして収録されている「Carolina Eyck on Composing for Theremin」という20分程度の映像が、その「謎」を解き明かしてくれています。
彼女は、SNSを多用して、このような映像を日常的に発信しており、これはその中の一つなのですが、ここでは彼女が実際に彼女の楽器「イーサーウェーヴ・プロ」を操りながら、様々な「企業秘密」を惜しげもなく公開しています(別に秘密にしなくてもいーさ)。そこで明らかにされているのが、「エフェクター」の存在です。彼女の足元には、ロック・ミュージシャンさながらのエフェクターがズラリと並び、テルミンの音をさらに豊かで多彩なものに変えているのですね。そんなエフェクターの中に「ハーモナイザー」もありました。これがあれば、単音に音程の異なる音を重ねることができるのです。さっきの「2つの音」は、これで4度や5度上の音を加えていたのですね。
そもそも、テルミンの原理を応用して、そこにキーボードを付けた楽器が「オンド・マルトノ」なのですが、彼女の演奏を聴いているとまるでそのオンド・マルトノとそっくりな音が聴こえてきます。彼女だったら、メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」のオンド・マルトノのパートでも、彼女の楽器でやすやすと弾ききってしまえるのではないか、という気がしてきました。もしかしたら、そう遠くない将来に、そんな面白いことをやってくれる日が来るかもしれませんね。

CD Artwork © Genuin Classics
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by jurassic_oyaji | 2016-01-02 20:39 | 現代音楽 | Comments(0)
HOSOKAWA/The Raven
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Charlotte Hellekant(MS)
川瀬賢太郎/
United Instruments of Lucilin
NAXOS/NYCC-27298




本来なら「日本作曲家選輯」シリーズの一環としてリリースされるはずの細川俊夫の作品がこんな体裁でリリースされたのは、このシリーズがついに終焉を迎えたのだという意味に受け取っていいのでしょうか。これでまた一つ、レコード業界の「良心」が潰え去りました。
今回は、日本語では「大鴉(おおがらす)」というタイトルになっている、2011年から2012年にかけて作曲された作品が収録されたアルバムです。うどんに一振り(それは「とおがらし」)。委嘱したのは現代音楽を専門に手掛けるルクセンブルクのアンサンブル「ユナイテッド・インストゥルメンツ・オブ・ルシリン」。2012年の3月17日に作曲家自身の指揮によりベルギーのブリュッセルで初演が行われました。その後、同年の10月25日にアムステルダムで行われた公演で指揮を任された川瀬賢太郎とこのアンサンブル、そして、初演の際のソリストでこの作品を献呈されているメゾ・ソプラノのシャルロッテ・ヘレカントは、2014年に東京の津田ホール(10月27日)と広島のアステールプラザ(10月30日)での日本公演を行いました。このCDは、広島での公演の前日と翌日、同じホールでのセッションで録音されたものです。
「大鴉」というのは、有名なエドガー・アラン・ポーの詩です。ある寒い夜、恋人を失って悲嘆にくれている男のもとに、一羽の大鴉が舞い込んできますが、それはただ一言「Nevermore」という言葉を発するだけ。そんな大鴉と対峙して、男は次第に妄想の世界に入っていく、という多くの示唆に富んだ内容を持っています。細川は、それをテキストにして、女声のソリストと12人の楽器奏者による「モノドラマ」を作り上げました。
元の詩が全部で18のスタンザ(連)で出来ていることから、メゾ・ソプラノが歌う部分も18に分かれています。そしてその間には、前奏あるいは間奏と位置付けられる楽器だけで演奏される部分が入ります。このパートは、その場の情景や心象を極めて雄弁に語っています。それは、もちろんテレビドラマに付けられるような底の浅いありきたりな音楽ではなく、もっと根源的に直接感覚に訴えてくるような種類の音楽です。もし、真の意味での「現代音楽」というものがまだ存在しているのであれば、それが持っている非調和の世界の行きついた最も幸福な帰結と言えるものでしょう。
曲全体の中で常に漂っているのは、もしかしたら風の音なのではないでしょうか。それは、最初は文字通り具体的な「ウィンド・マシーン」によってもたらされるものですが、やがてヴァイオリンのハーモニクスや、バスフルートのムラ息などに形を変えて同じような情景描写が担われます。その「風」が男の心の動きとともに振幅を増す時には、バスドラムや金管楽器が強烈にサポートしてくれます。
その、本来「男」が語っている詩を「歌って」いるメゾ・ソプラノは、最初のスタンザでは完全な「語り」として登場します。その最後の行で、それは「歌」としてのピッチとビブラートを持った声に変わります。しかし、続くスタンザではやはり「語り」に戻ってしまいます。そして、もう一度「歌」が現れるときには、それは紛れもない「能」の形を模倣したものになっていました。やがて、それは「能」のテイストもちつつも、ベル・カントとしてのクライマックスに達します。それが17番目のスタンザ。そのあとにアルトフルートで奏されるほとんど尺八のような音楽には、確かな落ち着きがありました。そして最後のスタンザの最後のシラブルが完全に「ささやき」となると、残るのはかすかな風の音だけ、最後に聴こえてくるのは南部鉄器で作られた風鈴でしょうか。
それにしても、全曲45分間が一つのトラックというのは、ちょっとありえません。これが、途中をトラックで切ると音が止まってしまうNMLのバグを配慮してのことだとしたら、本末転倒も甚だしいのでは。それと、曲の前にあるポーの詩の朗読は、全くの蛇足です。

CD Artwork © Naxos Japan, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-12-19 22:17 | 現代音楽 | Comments(0)
PENDERECKI/A sea of dream breathe on me...
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Olga Pasichnyk(Sop)
Ewa Marciniec(Alt)
Jarosław Bręk(Bar)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.573062




ペンデレツキは、オーケストラや室内楽のための作品の他にも、多くの声楽を伴う作品を作ってきました。ア・カペラの合唱曲もありますね。それらは、初期の作品「スターバト・マーテル」や「ルカ受難曲」のように、ほとんどがラテン語をテキストに用いているか、と思えるものでしたが、ごく最近になってそれ以外の言語でも曲を作るようになっています。そのターニング・ポイントと言えるのが、2005年に作られた「交響曲第8番」だったのでしょう。そこでは、ドイツ・ロマン派の詩人によるドイツ語によるテキストが使われていたのです。
おそらく、それは単にテキストの問題だけではなく、彼の音楽的な転換のポイントにもなっていたのではないでしょうか。それまでの、いわば「死語」であるラテン語で、ある意味日常生活からは超越していた世界にあったものが、日常の言葉を使うことによってその作品にある種の「具体性」が生じることは当然の成り行きです。実際、その「交響曲第8番」からは、例えばマーラーが持っていたようなまぎれもない直接的な感情が溢れ出ていました。それまでに信じられないほどの方向転換を行っていたこの作曲家は、晩年になってさらにその作風に対する舵を大きく切ったのです。
その流れに沿った新たな作品が、この、やはりオーケストラに独唱や合唱が加わった「夢の海は私に息吹を送った...」というタイトルの歌曲集です。ショパンの生誕200周年の記念行事のためにポーランドの国立フレデリック・ショパン協会の委嘱によって作られ、2011年の1月14日にワルシャワで初演されました。その時にはゲルギエフ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアが演奏を行っています。
今回のCDは、2012年10月に録音されたものです。もちろん、演奏は常連のヴィット指揮のワルシャワ・フィル、ソリストは初演の時とは全員入れ替わっていますが、合唱は初演と同じヘンリク・ヴォイナロフスキ指揮のワルシャワ・フィル合唱団です。
ここでペンデレツキが用いたテキストは、彼の母国語ポーランド語でした。ポーランドの詩人の作品が全部で22篇使われています。それが6曲、5曲、11曲がセットになって、3つの部分を形成しています。そうなると、音楽の中にも「8番」でのドイツ語とは別の、もっと「東ヨーロッパ」風の雰囲気が漂い始めます。いや、もはや「ヨーロッパ」も通り越した「東洋」までもが、その範疇には入っていることを見逃すことはできないはずです。確かに、ここにはハンガリーのバルトークや、さらには日本の武満、細川といった作曲家のエキスのようなものがふんだんに散らばっています。
第1部の冒頭曲が、まさにそんな「異国情緒」たっぷりのものでした。そこにあったのは武満の後期に見られる甘いフルート・ソロ、その武満や細川が得意とする雅楽のような倍音を持つ弦楽器、そして、バルトーク風のメロディ・ラインです。4曲目と5曲目でソプラノとバリトンのソロが入ってくると、そこにはまるでバルトークの「青ひげ」のような世界が広がってはいないでしょうか。
第2部になると、まるでウェーベルンのような静謐なサウンドの中に、無調的なソロが聴こえてきます。これも、今となっては何かノスタルジーを感じないわけにはいきません。このパートを締めくくる曲での合唱は、さらに強い郷愁をそそられるものでした。
第3部では、興味深いタイトルの「詩」が目に付きます。それは「レクイエム:ショパンのピアノ」という、ショパンへのオマージュが語られている4篇の詩です。もちろん、この作品全体の趣旨に沿ったテキストですが、音楽的にもショパンに対する回帰の情が反映されているのは間違いのないことでしょう。
ソリストも情感深い歌を聴かせてくれていますが、何よりも合唱の存在感が、この作品の魅力を作っています。最後にはなぜかラフマニノフの「晩祷」のような東方教会の響きが。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-12-05 21:44 | 現代音楽 | Comments(0)
PÄRT/Passacaglia
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Anne Akiko Meyers(Vn)
Elena Kashdan(Pf)
Kristjan Järvi/
MDR Leipzig Radio Symphony Orchestra & Chorus
NAïVE/V5425




クリスティアン・ヤルヴィとMDRライプツィヒ放送交響楽団による「サウンド・プロジェクト」の第4弾なのだそうです。前作では、ひどい編集ミスやクレジットの印刷ミスがあったのであらゆる手を使ってそれを関係者に知らせたのですが、完全に無視されてしまいました。そのような重大な「お客様の声」を全く重視していないのは、今回も性懲りもなくミスプリントを繰り返していることでも分かります。もうこのレーベルは終わっています。
間違っているのは、ソリストのアン・アキコ・マイヤースが参加している曲目のクレジットが、本当は「4曲目から6曲目」のはずなのに、「5曲目から7曲目」になっているのと、その「6曲目」の「フラトレス」のヴァイオリン・ソロが入ったバージョンが作られた年代です。曲目のリストでは(1977/1992)となっているのに、ライナーには「1977年のヴァイオリン・ソロと弦楽合奏のバージョン」と書いてあるのですから、いったいどちらを信じたらいいのでしょう。
ふつう、こういう間違いがあった物が市場に出た時には、こちらのようにひと言「お詫び」を入れるというのが社会常識なのですが、このレーベルと代理店はそれを怠っているか、あるいは、信じられないことですがこれらのミスに気が付かないのですから、最悪です。
ただ、そんな劣悪な会社ではなく、ごく普通の人でも、ペルトが作った「フラトレス」という曲のバージョンの多さには、様々な混乱を抱いてしまうはずです。最近はバーサンもいますし(それは「ウェイトレス」)。そもそも、ものの本ではオリジナル・バージョンとされる「弦楽五重奏と木管五重奏」という編成のものが、ペルトの楽譜を一手に扱っているウニフェルザールのカタログには見当たらないのですからね。そのカタログには、この曲のなんと17種類ものバージョンが載っているというのに。それ以外にも加藤訓子のマリンバ・バージョンもありますし。
指揮者のヤルヴィ一家は、ペルトとは家族ぐるみで親しく交際しているのだそうです。なんたって、このアルバムの中では唯一の「ティンティナブリ以前」の作品である「クレド」を1968年に初演したのがネーメ・ヤルヴィなのですからね。1992年に録音されたネーメ・ヤルヴィとフィルハーモニア管弦楽団とのCHANDOS盤(CHAN9134)では、ここでの息子のアルバムと同じ曲をその「クレド」を含めて4曲演奏しています。
しかし、その演奏と今回のアルバムの息子の演奏を比べてみると、ペルトの音楽に対する姿勢が全く異なっていることに驚かされます。いや、別に親子だからと言って同じような演奏をする必要などさらさらないのですけどね。というよりも、やはり息子としては親とは違うことをやって認めてもらいたい、あるいは長男のパーヴォと同等に扱ってもらいたいと思っているのかもしれませんね。頭髪に関してはこの二人に勝っているのですからいいのではないかとも思うのですが。
その違いは、演奏時間という分かりやすい数字ではっきりと示されています。つまり、どの曲でもクリスティアンの方がパーヴォに比べると極端にテンポが遅いのですよね。それに伴って、表現がかなり粘っこくなっています。言ってみればパーヴォの演奏は「現代風」、クリスティアンの演奏は「ロマンティック」でしょうか。正直、ただでさえ退屈なペルトの音楽でこんなことをやられると、聴いているうちに必要以上の安寧感に襲われてしまうのではないでしょうか。ちょっと寝不足気味の人だったら、確実に眠り込んでしまうことでしょう。
ここでは、「フラトレス」は2つのバージョンが演奏されています。ヴァイオリンのソロが入るものは、最初に長大なソロが加わっているので尺は長くなっているはずなのに、ソロの入らない弦楽合奏+打楽器のバージョンよりも演奏時間が短いのは、やはりソロが入ると相手に気を使ってそんなにテンポを遅く出来なかったせいなのでしょう。なんか、「小物」って感じがしません?

CD Artwork © Naïve
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by jurassic_oyaji | 2015-11-19 20:09 | 現代音楽 | Comments(0)
ZOFO Plays Terry Riley
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中越啓介(Pf)
Eva-Maria Zimmermann(Pf)
SONO LUMINUS/DSL-92189(CD, BD-A)




「惑星」で素晴らしい演奏を聴かせてくれたピアノ・デュオのチーム「ZOFO」の新しいアルバムです。ジャケットがUFOみたいですね。もちろんこのレーベルですから、普通のCDの他に2チャンネルとマルチチャンネルが収録されたBD-Aが入っています。2チャンネルの場合は24/192という最高のスペック、しかし、オリジナルの録音は24/352.8のDXDによる、7.1サラウンドです。
「惑星」での目の覚めるように爽快なテクニックの冴えが印象的だったチームが、今回はテリー・ライリーを取り上げた、というのに、まずかなりの違和感がありました。「ミニマル・ミュージックの始祖」として多くの人から崇められているライリーの音楽は、その代表作「in C」で見られるような、かなりの自由度を持ったおおらかなものだ、という印象は決して拭うことはできません。さらに、数少ないライリー体験の中でも、純正調に調律されたオルガンによる夜を徹しての即興演奏なども、彼のオリジナリティを象徴するものとして刷り込まれています。
しかし、ここで取り上げられている作品は、そのような「不確定」なものではなく、4手ピアノのためにしっかりとすべての音符が楽譜として「書かれて」いる音楽なのですよ。多くの「現代作曲家」と同じように、彼もついに「普通の」作曲家に成り下がってしまっていたのでしょうか。このデュオ・チームの日本人の方のメンバー中越さんが、「私が最初に体験したライリーの作品『in C』と、4手ピアノのための作品があまりにも違っていたので、本当に驚いた」と語っているぐらいですから、それは誰しもが感じていたことなのでしょう。
いつライリーがそのようなスタイルに「変わって」しまったのかはよく分かりませんが、このアルバムで演奏されているメインの作品が含まれる「The Heaven Ladder」という曲集の「第5巻」は、アメリカのピアニスト、サラ・カーヒルの委嘱によって作られました。最後に演奏されている「Cinco de Mayo(5月5日)」という曲に出会った彼らは、それを機会にライリー本人とコンタクトを取ることになり、ほかの曲も紹介してもらったということです。そのうちのいくつかは、ライリー自身が彼らのために「改訂」してくれたそうです。
そのような、オリジナルの「4手ピアノ」の他に、クロノス・クァルテットからの委嘱で作られた弦楽四重奏の編成だったものを、彼らが4手ピアノのために編曲したもの、さらには、彼ら自身が委嘱した作品なども、このアルバムには収録されています。
まるでピアソラのような、ほとんどできそこないのタンゴでしかない、かつてのライリーの面影などはどこにもない音楽の応酬の中に身を置くのは、なんとも居心地の悪い体験でした。例えば、同じ「The Heaven Ladder」シリーズでも、別のピアニスト、グローリア・チェンの委嘱で作られた「第7巻」に含まれる「Simone's Lullaby」などは、ほとんど「ラ・フォリア」と見まがうばかりの平易な変奏曲ですし、「G Song」というクロノスのための曲なども、まるでヒット・チューンのような感傷的な「歌」に過ぎません。ZOFOのために作られた「Praying Mantis Rag」に至っては、中国風の大道芸人でも出てきそうないとも軽快なラグタイム、良くこんな曲をまじめに演奏したものだ、と思わずにはいられません。
唯一の救いは、先ほどの「チンコ・デ・マイヨ」という、カタカナで書くとちょっとヒワイな曲です。基本、陽気なラテン音楽なのですが、真ん中の部分にかつてのライリーを思わせるような内部奏法を用いた静謐な部分を見つけることが出来ました。
録音は、いくらスペックがハイレゾでも、エンジニアの耳が悪ければどうしようもないという見本のようなもの、BD-Aでは差音でしょうか、ピアノの弦同士の干渉の結果出てくる音がとても耳障りです。あまりに解像度が高いので、聴こえなくてもいい音まで聴こえてしまうという悪例でしょう。CDの方が余計なものが聴こえない分、ストレスを感じません。

CD & BD-A Artwork © Sono Luminus, LLC.
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by jurassic_oyaji | 2015-09-29 22:53 | 現代音楽 | Comments(0)
The Lost Paladise
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Arvo Pärt
Robert Wilson
Günter Atteln(Dir)
ACCENTUS MUSIC/ACC20321DVD(DVD)




アルヴォ・ペルトの生誕80年記念アイテムは、このところ怒涛のようにリリースされています。とは言っても、中には前回の「ヨハネ受難曲」のように単にそんな風潮に便乗しただけのお手軽な抱き合わせリイシューもありますが、今回の映像は正真正銘2015年に制作されたことが証明されていますのでご安心ください。
ここで描かれているのは、まさに「最新」のペルトの姿でした。メインとなるのは2015年5月12日に行われた新作「アダム受難曲」の上演の模様です。と言っても、厳密にはこれは新作ではなく、今まであった「アダムの嘆き」と「タブラ・ラサ」、そして「ミゼレーレ」という3つの旧作に、新たに序曲として「セクエンツィア」という、これはこのために作られたものを加えて一つの作品にしたものなのです。そして、それを「舞台上演」という形にしたところが、一つの注目点でしょう。つまり、演奏会場の客席の後ろでオーケストラと合唱団が演奏を行い、それに合わせて正面のステージでアクターやダンサーが動く、というものです。さらに、照明もかなり力が入っていて、そこでの「光」が音楽とシンクロするさまは、ペルトを聴く時の新しい形となるかもしれません。その会場は、エストニアのタリンにある「ノブレスナー・ファウンドリー」という場所で、かつてソ連時代に潜水艦工場だったところです。ペルトのオーガニックな音楽は、きちんとしたコンサートホールではなく、このような「廃物利用」の方が似合います。
この上演の模様は、このレーベルからやはりDVDやBDになって10月末にリリースされる予定ですから、ご覧になってみてください。そして、その上演のいわば「メイキング」として作られたのが、このドキュメンタリーです。こちらも同じく10月末にリリース予定なのですが、それに先立ってNHK-BSで放送されてしまいました。ですから、まるで代理店から早めにサンプルをいただいた、みたいなノリで見てみることにしましょう。ただ、BSはもちろんHDの画像なのですが、パッケージとしてはBDが販売される予定がなくDVDだけのようですので、ご注意ください。
この上演で演出を担当したロバート・ウィルソンが、ペルトとともにサブタイトルにクレジットされています。彼は、1980年代にペルトの音楽と出合い、その特別さに深く感銘を受けたと言います。制作発表の記者会見のシーンでは、いわば「宗教曲」であるこの作品の「宗教」をどのように舞台に反映させるのか、という質問に対して、「宗教は政治と同じく人と人を引き裂くものだから、それを舞台に持ち込むつもりは毛頭ない」と言い切っています。これは、おそらくペルトの作品に「宗教性」を求める人にとっては、ちょっと物足りないと感じるのかもしれません。しかし、この立場を全面的に支持しているのが、ここで合唱とオーケストラの指揮を担当しているトヌ・カリユステです。「彼はテキストではなく、音楽そのものを理解しようとしている」と。
ここでは、そのほかに多くの人たちがコメントを寄せていますが、カリユステとともにペルトの多くの作品に関与してきたポール・ヒリアーの場合は、カリユステとはちょっと異なるスタンスであることもはっきり分かるのが興味深いところです。というか、ヒリアーは本当の意味でペルトの音楽やその技法を理解しているのか、ちょっと疑問を持ってしまいました。
エストニアから、場面がいきなり東京に変わったのには驚きました。これは2014年に「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞のために来日した時のショットでした。画面で見る東京の風景のなんと醜いことでしょう。それ以上に醜かったのは、授賞式でメダルを授与する人のなんとも尊大な態度。その仁王様のように大股を開いたいかにも「平民」を見下したような振る舞いも、しかし、ペルトは優しい心で許したのでしょう。そのまなざしは、次のとある神社でのシーンで幼稚園児と戯れる時のものと同じでした。

DVD Artwork © ACCENTUS Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2015-09-25 20:48 | 現代音楽 | Comments(0)
AMDAHL/Astrognosia & Æsop
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Dennis Storhøi(Narr)
Ingar Heine Bergby/
Nowegian Radio Orchestra
2L/2L-111-SABD(hybrid SACD, BD-A)




このレーベルの売りは、なんといっても音の良さ。かなり早い段階でPCM録音の最上位スペックである「DXD」を採用して、極限までのクリアさを追求していました。特に、合唱関係では、どれをとってもその澄み切った響きや細かいテクスチャーなどが味わえる素晴らしいものが揃っています。
もちろん、合唱だけではなくインスト関係でも多くのアルバムを生み出しています。ただ、そのほとんどは現代の作曲家による珍しい作品なのですが、音に関してはいつもとびきりの喜びを与えてくれるものの、その作品そのものの魅力はそれほどでもない、という、ちょっと贅沢な失望感を抱くことの方が多かったような気がします。まあ、これは単に趣味の問題なのでしょう。
今回は、ごく普通のシンフォニー・オーケストラを使った作品です。1942年に生まれたマグネ・アムダールというノルウェーの作曲家の作品が2曲収録されています。このアムダールという人は、幼少からピアノや作曲を学んだいわゆる「神童」で、オペラハウスの練習ピアニストのような、高度な音楽性が試される立場の仕事を長く経験していたそうです。主に劇音楽とかCM用の音楽といった、はっきりした用途を持った音楽づくりに携わっていたようですね。
1曲目は、「アストロノーシア」という、その名の通り「天体」を扱った作品です。とは言っても、有名なホルストの「惑星」とは違い、テーマとなっているのは「黄道十二宮」です。「みずがめ座」とか、そういった星座たちですね。そんな組曲、曲数が全部で12曲ではなく17曲になっているのは、十二宮を3つずつのグループに分け、それらの前後に「月」をモティーフにした曲を5曲置いたためです。何とも分かりやすい構成ですね。
それこそ「惑星」とか、あるいは映画音楽でも「ゼロ・グラビティ」のようなものを念頭に置いて聴いたら、そのサウンドのしょぼさにはがっかりさせられることでしょう。これは、あちらのような堂々と迫ってくるような壮大で分厚いオーケストレーションが施されたものでは全然なく、もっと室内楽的にソロ楽器や小さなアンサンブルを中心にしたようなアレンジがメインになっています。それはそれで、もう各々の楽器はとってもクリアに浮き上がって聴こえてきますから、録音的にはとても魅力的な仕上がりですから、何も文句はありませんが、「アストロ」なんたらというタイトル(そしてこのジャケット)のイメージとはかけ離れたものであることは承知しておいた方がいいでしょうね。それぞれの曲は全て2分にも満たない短いものですし。
曲想についても、なにかとてもこぢんまりとしたイメージが付いて回ります。なにしろ、先ほどの「月」がらみの曲が、統一性を持たせるためなのでしょう、すべて同じテーマに基づいて作られているのですが、それがサティの「ジムノペディ」なんですよ。別に悪い曲ではありませんが、あまりに閉塞的な感じというか、「月」には似つかわしくはないとは思いませんか?まあ、つきに(好きに)すればいいのですが。
他の星座の曲も、それなりに、「天体」ということを考えなければなかなかキャッチーで楽しめます。「ふたご座」なんかはチャイコフスキーのワルツそのものですし、「しし座」ではライオンの吠える声が聴こえてくるという分かりやすさです。なぜか「おとめ座」と「さそり座」が中国的なスケールで出来ているのも笑えます。「みずがめ座」は、トランペットが朗々と歌うジャズ・バラードですしね。
カップリングは、ノルウェー語によるナレーターが加わっての「イソップ寓話集」です。ノルウェー語ならではの不思議な語感を楽しむにはもってこいです。音楽は、もちろんこの作曲家ですから、何の緊張感もないユルさに支配されたものでした。
SACDではくっきりとした輪郭の音、BD-Aでは、そこにうっすらと肉付けされた音が聴けます。

SACD & BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2015-09-03 20:27 | 現代音楽 | Comments(0)
XENAKIS/L'Œuvre pour piano
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Raquel Camarhina(Sop)
Matteo Cesari(Fl)
Stéphanos Thomopoulos(Pf)
TIMPANI/1C1232




クセナキスのピアノ・ソロのための作品は、それほど多くはありません。それを全部網羅したはずの高橋アキの2005年の録音では、2000年に出版された「6つのシャンソン」という若いころの習作までが含まれていましたね。今回、クセナキスに関しては信頼のできるTIMPANIレーベルから、やはりピアノ作品集がリリースされた時には、それよりもっと前の習作、というか、ほとんど学生の課題のようなものまでが取り上げられていました。
いちおうTIMPANIからのリリースとはなっていますが、よく見てみると録音されたのは2010年のことで、それはパリ高等音楽院のレーベルが担当していたようですね。そんなところから、もちろん出版なんかはされていない、自筆稿までも手にすることが出来たのでしょう。なんでも、それらはオネゲルやミヨーのクラスで学んでいる頃のもので、楽譜には「先生」による「赤ペン」が入っているのだそうです。全部で30曲ほどの楽譜が残っていて、ここではその中から3曲を選んで、「3つの出版されていない小品」というタイトルで演奏されています。
ここで、例によって日本語インフォの間違いさがしです。これには幸い「帯」はついていないので、それほど問題にはならないでしょうが、インフォの方ではこの「3つの出版されていない小品」というタイトルが抜けているのですね。さらに「A R.」というタイトルの曲の表記が「ア・ル」ですって。これは普通にアルファベを読めばいいだけの話ですから「ア・エル」でしょうね。駅前にありますね(それは「アエル」)。さらに、フルーティストのラストネームが「チェザリーニ」になっていますが、「Cesari」はどう読んでも「チェーザリ」あたりですよね。
なぜ、こんな間違いをしたのかは、すぐわかりました。インフォを書いた人は、NMLでの曲順や表記をそのまま何の疑いもなく使ってしまっていたのです。
まあ、演奏に今までにないようなきらめくものがあれば、そんな間違いは些細なこととして許されるのですが、クセナキスの大規模なピアノ作品としては最初のものとなる1961年の作品「ヘルマ」には、唖然としてしまいました。あんたはまじめにクセナキスと対決しようとしてるのか、と、作曲家と同郷のピアニスト、トモプーロスに本気で詰め寄りたい気持ちです。誤解を恐れずに言うと、この曲はもしかしたら「音楽」ではないのかもしれません。「音楽」に用いられている楽器は使われていますが、これはそんなちまちましたものを超えた「音によるアート」なのですよ。ここで求められているのは、人間業では不可能と思われていることへの挑戦です。まずは、「いかに速く弾くか」ということが、最大の課題となってくるのです。それが成功した時のカオスからは、それこそ「音楽を超えた」高揚感が与えられるはずです。
それを、トモプーロスは「音楽」にしてしまいました。もちろん、クセナキス自身は後に次第に「音楽的」な作品を作るようにはなりますが、この1961年という年代では、そんなことは全然ありませんでした。彼は、この21世紀の聴衆に迎合して、その「時代様式」の解釈を完全に誤ってしまったのです。それを端的に表しているのが、演奏時間です。高橋悠治は7分28秒、高橋アキでも7分43秒で演奏していたものに、彼はなんと9分15秒もかけているのですね。それによって、音はきちんとそれぞれの役割を果たしていることがとてもよく分かるようになりますが、そんなものは当時のクセナキスが求めていたものではありません。しかも、この時間というのは、高橋兄妹が演奏しているところまでの部分を比較したもの、このピアニストは、その最後のクラスターを、ペダルを踏み続けて音が完全に減衰するまで45秒間演奏を終わろうとはしません。そんなところで「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」を気取ってどうするつもりなんだ、と、またもや詰め寄りたくなりましたよ。

CD Artwork © Timpani Records
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by jurassic_oyaji | 2015-08-22 20:20 | 現代音楽 | Comments(0)
PIGOVAT/Holocaust Requiem
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Anna Serova(Va, Vn)
Nicola Guerini/
Croatian Radio & Television Symphony Orchestra
NAXOS/8.572729




ボリス・ピゴヴァートという作曲家は1953年にウクライナのオデッサで生まれ、モスクワの音楽大学に入学、のちにイスラエルに渡りそこの市民権を得て、現在は国際的な活躍をしている方なのだそうです。あいにく、これまでに彼の作品に触れることは全くありませんでしたが、今回、その名も「ホロコースト・レクイエム」という、なんかとてつもない感動を呼びそうなタイトルの作品が収められたCDがリリースされたので、聴いてみることにしました。ちょっと気になるのが、日本盤のタイトルが「レクイエム『ホロコースト』」となっていること。これって、とてつもなくダサい感覚なのではないでしょうか。ブラームスの作品を「レクイエム『ドイツ』」というようなものですからね。どいつがそんなことを言ったんだ!
この「ホロコースト」は、「レクイエム」としてはかなり特異な形をとっていました。通常はこういうタイトルの曲では合唱とか歌のソリストが加わるものですが、ここにはそれが一切ありません。いえ、ピゴヴァートさんも最初は、最近の「レクイエム」にはよくあるように、昔からあるラテン語の通常文のテキストに現代のテキストを交えて、普通にソリストや合唱、さらにはナレーターも入るという編成で構想を練っていたのだそうです。しかし、やがてそのようなものは、この作品の音楽的なメッセージを損なうものだと判断し、声楽のパートは削除して、代わり人間の声に最も近いヴィオラのソリストを立てることにしたということです。なかなか潔い決断ですね。
その結果、曲は「Requiem aeternam」、「Dies irae」、「Lacrimosa」、「Lux aeterna」という、4つの楽章からなるヴィオラ協奏曲のようなものに仕上がりました。それぞれの楽章は、「レクイエム」になじんでいる人であれば別に歌詞がなくてもその内容はおおよその見当が付きますから、しっかり「音楽」に浸ることができるだろう、という目論見ですね。まずしっとり死者を悼んだ後に襲ってくる恐怖感、ひたすら涙を流すしかないものも、やがては永遠の希望に変わる、といった、非常に分かりやすい設計なのでしょう。
実際に聴いてみると、それは、そのような誰でも抱く期待を完璧に満たすものであったところに、まず良識あるリスナーは眉をひそめることでしょう。「Requiem aeternam」あたりでは、まだ音楽に対する真摯な心が伝わってくるような気がしていたものが、「Dies irae」になったとたん、それはなんとも底の浅いものに変わります。なにか、有名な「レクイエム」からアイディアをパクったように思えるのは、もちろんそれらの「お手本」であるグレゴリア聖歌のテーマを使っているからなのでしょうが、そこからは何とも画一的な「予定調和」の世界しか見えてはこないのです。「Lacrimosa」での執拗な「ラクリメ」の応酬も、いかにもな手口です。そして「Lux aeterna」に至って、この作曲家の正体が明らかになります。それまでは、例えば弦楽器のトーン・クラスターなどでリゲティの模倣を試みたり(もちろん、それは「本家」とは似ても似つかぬ志の低さでしかありませんが)して、精一杯自作を深刻ぶらせることに腐心していたものが、ここではストレートに彼自身の本来の資質が丸裸の状態にさらされているのですね。それは、毒にも薬にもならない、ただ甘ったるいだけで心に響くものは何もないという、使い捨ての音楽そのものです。
カップリングは、ソリストがヴィオラをヴァイオリンに持ち替えた「Poem of Dawn」という、「レクイエム」からは15年ほど経った2010年に作られたピースです。ここでは、さっきのようなある意味自作を飾りたてる必要のない分、その底の浅さは際立ちます。これは「ロシアのロマンティックな楽派」を継承したものなのだそうです。確かに、ここにはラフマニノフのようなテイストが満載、しかし、それを今やることに何の意味があるというのでしょう。富田勲に堕するには、ピゴヴァートさんはまだ若すぎます。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc
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by jurassic_oyaji | 2015-08-20 20:06 | 現代音楽 | Comments(0)
PENDERECKI/Magnificato, Kadisz
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Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir(by Henryk Wojnarowski)
Warsaw Boy's Choir(by Krysztof Kusiel-Moroz)
Warsaw Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572697




先日の新垣さんの本の中では、彼の依頼主であるS氏が交響曲第1番をペンデレツキのところに見せに行って断られた、というエピソードが語られています。S氏の本当の狙いはなんだったのかは触れられていません(というか、新垣さんにもわからない)が、もしかしたらS氏はただのミーハーではなく、かなり深いところでこの作曲家を捉えていたのかもしれません。新垣さんが作った「交響曲」の実物は聴いたことがありませんが、実際に聴いた人の言葉などから想像すると、マーラーやショスタコーヴィチの音楽を多分に「参考にして」作られたもののようですね。もちろん、その仕上がりは国内の音楽界では絶大な影響力を持っている自称作曲家の方でも絶賛するほどの巧妙なものだったのですが、ペンデレツキの最近の作品には、それと似たような作られ方をしたものが多いのですね。「交響曲第8番」などは、マーラーの作品だと言って聴かせても、知らない人だったら本気にするほどの音楽ですから。ですから、もしS氏にそこまでの認識があったとしたら、これは「同業者」としての会見となっていたはずです。「オレもあんたのマネをしてこんなのを作ってみたけど、売れそうかい?」みたいな話をした、とかね。まあ、そもそも本当に会ったのかどうかも分からないのですから、想像だけは思い切り派手に広げてみてもいいんじゃないでしょうか。
もう80歳を過ぎても、ペンデレツキは精力的に作曲活動を行っています。今年の3月には最新作の「トランペット協奏曲」が初演されていますしね。これは、今年の11月の再演の予定も決まっているそうです。そんなことが出来るのは、彼はまさに「今」の「現代音楽作曲家」に求められている作曲家としてのスキルを完璧に身につけているので、各方面からの作曲の委嘱が引きも切らないからにほかなりません。
今回のお馴染みのNAXOSの一連のペンデレツキの録音の最新アルバムで、いつものアントニ・ヴィットの演奏を聴いてみると、そんな「スキル」はかなり初期の段階から、彼の中にあったのでは、という気が猛烈にしてきました。もちろん、それは、作曲技法としての「スキル」ではなく、その時代の聴衆が求めているものを敏感に感じ取るという「スキル」です。おそらく彼は、自己の存在意義を徹底的に突き詰め、そこから真の音楽のあるべき姿を探るという孤高の「芸術家」というよりは、いかにして自分の作ったもので世の中の人たちが幸せになるかを追求するという「職人」タイプの作曲家なのでしょう。
NAXOSから出ている一連のアントニ・ヴィットの指揮によるペンデレツキの作品群のアルバムからは、もしかしたら意図的にそのような作曲家の内なる心をはっきりと示すことを目的にしているのではないかと思えるほどの、冴えたカップリングのセンスが感じられます。今回も同じやり方、1974年の「マニフィカート」と、2009年の「カディッシュ」を並べることによって、作曲家がそれぞれの時代に誰に向けて曲を作っていたのかがはっきりわかるはずです。
久しぶりに聴いた「マニフィカート」には、1966年に初演された、それこそ「前衛」のシンボルとも言える「ルカ受難曲」のようなテイストが、たびたび顔を出します。このあたりは、彼にとっては「前衛の総括」に余念がなかった時期になりますから、そのような少し前のスタイルもまだ取り入れつつ、それをいかにして同時代の嗜好に合わせていくのかという模索のあとなのでしょう。
そこで、同じヴィットによる「ルカ」の録音を聴きなおしてみるか、と聴いてみたら、そもそもこれ自体がしっかり聴衆を意識した曲作りをしていたことに気づきます。それはまさに、その時代の聴衆が求めていたものだったのです。
ごく最近の作品「カディッシュ」の3曲目の無伴奏男声合唱などは、「歌う人」の気持ちをとても大切にしたもの、さぞかし「需要」があることでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-07-02 21:13 | 現代音楽 | Comments(0)