おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 159 )
ZOFO Plays Terry Riley
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中越啓介(Pf)
Eva-Maria Zimmermann(Pf)
SONO LUMINUS/DSL-92189(CD, BD-A)




「惑星」で素晴らしい演奏を聴かせてくれたピアノ・デュオのチーム「ZOFO」の新しいアルバムです。ジャケットがUFOみたいですね。もちろんこのレーベルですから、普通のCDの他に2チャンネルとマルチチャンネルが収録されたBD-Aが入っています。2チャンネルの場合は24/192という最高のスペック、しかし、オリジナルの録音は24/352.8のDXDによる、7.1サラウンドです。
「惑星」での目の覚めるように爽快なテクニックの冴えが印象的だったチームが、今回はテリー・ライリーを取り上げた、というのに、まずかなりの違和感がありました。「ミニマル・ミュージックの始祖」として多くの人から崇められているライリーの音楽は、その代表作「in C」で見られるような、かなりの自由度を持ったおおらかなものだ、という印象は決して拭うことはできません。さらに、数少ないライリー体験の中でも、純正調に調律されたオルガンによる夜を徹しての即興演奏なども、彼のオリジナリティを象徴するものとして刷り込まれています。
しかし、ここで取り上げられている作品は、そのような「不確定」なものではなく、4手ピアノのためにしっかりとすべての音符が楽譜として「書かれて」いる音楽なのですよ。多くの「現代作曲家」と同じように、彼もついに「普通の」作曲家に成り下がってしまっていたのでしょうか。このデュオ・チームの日本人の方のメンバー中越さんが、「私が最初に体験したライリーの作品『in C』と、4手ピアノのための作品があまりにも違っていたので、本当に驚いた」と語っているぐらいですから、それは誰しもが感じていたことなのでしょう。
いつライリーがそのようなスタイルに「変わって」しまったのかはよく分かりませんが、このアルバムで演奏されているメインの作品が含まれる「The Heaven Ladder」という曲集の「第5巻」は、アメリカのピアニスト、サラ・カーヒルの委嘱によって作られました。最後に演奏されている「Cinco de Mayo(5月5日)」という曲に出会った彼らは、それを機会にライリー本人とコンタクトを取ることになり、ほかの曲も紹介してもらったということです。そのうちのいくつかは、ライリー自身が彼らのために「改訂」してくれたそうです。
そのような、オリジナルの「4手ピアノ」の他に、クロノス・クァルテットからの委嘱で作られた弦楽四重奏の編成だったものを、彼らが4手ピアノのために編曲したもの、さらには、彼ら自身が委嘱した作品なども、このアルバムには収録されています。
まるでピアソラのような、ほとんどできそこないのタンゴでしかない、かつてのライリーの面影などはどこにもない音楽の応酬の中に身を置くのは、なんとも居心地の悪い体験でした。例えば、同じ「The Heaven Ladder」シリーズでも、別のピアニスト、グローリア・チェンの委嘱で作られた「第7巻」に含まれる「Simone's Lullaby」などは、ほとんど「ラ・フォリア」と見まがうばかりの平易な変奏曲ですし、「G Song」というクロノスのための曲なども、まるでヒット・チューンのような感傷的な「歌」に過ぎません。ZOFOのために作られた「Praying Mantis Rag」に至っては、中国風の大道芸人でも出てきそうないとも軽快なラグタイム、良くこんな曲をまじめに演奏したものだ、と思わずにはいられません。
唯一の救いは、先ほどの「チンコ・デ・マイヨ」という、カタカナで書くとちょっとヒワイな曲です。基本、陽気なラテン音楽なのですが、真ん中の部分にかつてのライリーを思わせるような内部奏法を用いた静謐な部分を見つけることが出来ました。
録音は、いくらスペックがハイレゾでも、エンジニアの耳が悪ければどうしようもないという見本のようなもの、BD-Aでは差音でしょうか、ピアノの弦同士の干渉の結果出てくる音がとても耳障りです。あまりに解像度が高いので、聴こえなくてもいい音まで聴こえてしまうという悪例でしょう。CDの方が余計なものが聴こえない分、ストレスを感じません。

CD & BD-A Artwork © Sono Luminus, LLC.
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by jurassic_oyaji | 2015-09-29 22:53 | 現代音楽 | Comments(0)
The Lost Paladise
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Arvo Pärt
Robert Wilson
Günter Atteln(Dir)
ACCENTUS MUSIC/ACC20321DVD(DVD)




アルヴォ・ペルトの生誕80年記念アイテムは、このところ怒涛のようにリリースされています。とは言っても、中には前回の「ヨハネ受難曲」のように単にそんな風潮に便乗しただけのお手軽な抱き合わせリイシューもありますが、今回の映像は正真正銘2015年に制作されたことが証明されていますのでご安心ください。
ここで描かれているのは、まさに「最新」のペルトの姿でした。メインとなるのは2015年5月12日に行われた新作「アダム受難曲」の上演の模様です。と言っても、厳密にはこれは新作ではなく、今まであった「アダムの嘆き」と「タブラ・ラサ」、そして「ミゼレーレ」という3つの旧作に、新たに序曲として「セクエンツィア」という、これはこのために作られたものを加えて一つの作品にしたものなのです。そして、それを「舞台上演」という形にしたところが、一つの注目点でしょう。つまり、演奏会場の客席の後ろでオーケストラと合唱団が演奏を行い、それに合わせて正面のステージでアクターやダンサーが動く、というものです。さらに、照明もかなり力が入っていて、そこでの「光」が音楽とシンクロするさまは、ペルトを聴く時の新しい形となるかもしれません。その会場は、エストニアのタリンにある「ノブレスナー・ファウンドリー」という場所で、かつてソ連時代に潜水艦工場だったところです。ペルトのオーガニックな音楽は、きちんとしたコンサートホールではなく、このような「廃物利用」の方が似合います。
この上演の模様は、このレーベルからやはりDVDやBDになって10月末にリリースされる予定ですから、ご覧になってみてください。そして、その上演のいわば「メイキング」として作られたのが、このドキュメンタリーです。こちらも同じく10月末にリリース予定なのですが、それに先立ってNHK-BSで放送されてしまいました。ですから、まるで代理店から早めにサンプルをいただいた、みたいなノリで見てみることにしましょう。ただ、BSはもちろんHDの画像なのですが、パッケージとしてはBDが販売される予定がなくDVDだけのようですので、ご注意ください。
この上演で演出を担当したロバート・ウィルソンが、ペルトとともにサブタイトルにクレジットされています。彼は、1980年代にペルトの音楽と出合い、その特別さに深く感銘を受けたと言います。制作発表の記者会見のシーンでは、いわば「宗教曲」であるこの作品の「宗教」をどのように舞台に反映させるのか、という質問に対して、「宗教は政治と同じく人と人を引き裂くものだから、それを舞台に持ち込むつもりは毛頭ない」と言い切っています。これは、おそらくペルトの作品に「宗教性」を求める人にとっては、ちょっと物足りないと感じるのかもしれません。しかし、この立場を全面的に支持しているのが、ここで合唱とオーケストラの指揮を担当しているトヌ・カリユステです。「彼はテキストではなく、音楽そのものを理解しようとしている」と。
ここでは、そのほかに多くの人たちがコメントを寄せていますが、カリユステとともにペルトの多くの作品に関与してきたポール・ヒリアーの場合は、カリユステとはちょっと異なるスタンスであることもはっきり分かるのが興味深いところです。というか、ヒリアーは本当の意味でペルトの音楽やその技法を理解しているのか、ちょっと疑問を持ってしまいました。
エストニアから、場面がいきなり東京に変わったのには驚きました。これは2014年に「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞のために来日した時のショットでした。画面で見る東京の風景のなんと醜いことでしょう。それ以上に醜かったのは、授賞式でメダルを授与する人のなんとも尊大な態度。その仁王様のように大股を開いたいかにも「平民」を見下したような振る舞いも、しかし、ペルトは優しい心で許したのでしょう。そのまなざしは、次のとある神社でのシーンで幼稚園児と戯れる時のものと同じでした。

DVD Artwork © ACCENTUS Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2015-09-25 20:48 | 現代音楽 | Comments(0)
AMDAHL/Astrognosia & Æsop
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Dennis Storhøi(Narr)
Ingar Heine Bergby/
Nowegian Radio Orchestra
2L/2L-111-SABD(hybrid SACD, BD-A)




このレーベルの売りは、なんといっても音の良さ。かなり早い段階でPCM録音の最上位スペックである「DXD」を採用して、極限までのクリアさを追求していました。特に、合唱関係では、どれをとってもその澄み切った響きや細かいテクスチャーなどが味わえる素晴らしいものが揃っています。
もちろん、合唱だけではなくインスト関係でも多くのアルバムを生み出しています。ただ、そのほとんどは現代の作曲家による珍しい作品なのですが、音に関してはいつもとびきりの喜びを与えてくれるものの、その作品そのものの魅力はそれほどでもない、という、ちょっと贅沢な失望感を抱くことの方が多かったような気がします。まあ、これは単に趣味の問題なのでしょう。
今回は、ごく普通のシンフォニー・オーケストラを使った作品です。1942年に生まれたマグネ・アムダールというノルウェーの作曲家の作品が2曲収録されています。このアムダールという人は、幼少からピアノや作曲を学んだいわゆる「神童」で、オペラハウスの練習ピアニストのような、高度な音楽性が試される立場の仕事を長く経験していたそうです。主に劇音楽とかCM用の音楽といった、はっきりした用途を持った音楽づくりに携わっていたようですね。
1曲目は、「アストロノーシア」という、その名の通り「天体」を扱った作品です。とは言っても、有名なホルストの「惑星」とは違い、テーマとなっているのは「黄道十二宮」です。「みずがめ座」とか、そういった星座たちですね。そんな組曲、曲数が全部で12曲ではなく17曲になっているのは、十二宮を3つずつのグループに分け、それらの前後に「月」をモティーフにした曲を5曲置いたためです。何とも分かりやすい構成ですね。
それこそ「惑星」とか、あるいは映画音楽でも「ゼロ・グラビティ」のようなものを念頭に置いて聴いたら、そのサウンドのしょぼさにはがっかりさせられることでしょう。これは、あちらのような堂々と迫ってくるような壮大で分厚いオーケストレーションが施されたものでは全然なく、もっと室内楽的にソロ楽器や小さなアンサンブルを中心にしたようなアレンジがメインになっています。それはそれで、もう各々の楽器はとってもクリアに浮き上がって聴こえてきますから、録音的にはとても魅力的な仕上がりですから、何も文句はありませんが、「アストロ」なんたらというタイトル(そしてこのジャケット)のイメージとはかけ離れたものであることは承知しておいた方がいいでしょうね。それぞれの曲は全て2分にも満たない短いものですし。
曲想についても、なにかとてもこぢんまりとしたイメージが付いて回ります。なにしろ、先ほどの「月」がらみの曲が、統一性を持たせるためなのでしょう、すべて同じテーマに基づいて作られているのですが、それがサティの「ジムノペディ」なんですよ。別に悪い曲ではありませんが、あまりに閉塞的な感じというか、「月」には似つかわしくはないとは思いませんか?まあ、つきに(好きに)すればいいのですが。
他の星座の曲も、それなりに、「天体」ということを考えなければなかなかキャッチーで楽しめます。「ふたご座」なんかはチャイコフスキーのワルツそのものですし、「しし座」ではライオンの吠える声が聴こえてくるという分かりやすさです。なぜか「おとめ座」と「さそり座」が中国的なスケールで出来ているのも笑えます。「みずがめ座」は、トランペットが朗々と歌うジャズ・バラードですしね。
カップリングは、ノルウェー語によるナレーターが加わっての「イソップ寓話集」です。ノルウェー語ならではの不思議な語感を楽しむにはもってこいです。音楽は、もちろんこの作曲家ですから、何の緊張感もないユルさに支配されたものでした。
SACDではくっきりとした輪郭の音、BD-Aでは、そこにうっすらと肉付けされた音が聴けます。

SACD & BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2015-09-03 20:27 | 現代音楽 | Comments(0)
XENAKIS/L'Œuvre pour piano
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Raquel Camarhina(Sop)
Matteo Cesari(Fl)
Stéphanos Thomopoulos(Pf)
TIMPANI/1C1232




クセナキスのピアノ・ソロのための作品は、それほど多くはありません。それを全部網羅したはずの高橋アキの2005年の録音では、2000年に出版された「6つのシャンソン」という若いころの習作までが含まれていましたね。今回、クセナキスに関しては信頼のできるTIMPANIレーベルから、やはりピアノ作品集がリリースされた時には、それよりもっと前の習作、というか、ほとんど学生の課題のようなものまでが取り上げられていました。
いちおうTIMPANIからのリリースとはなっていますが、よく見てみると録音されたのは2010年のことで、それはパリ高等音楽院のレーベルが担当していたようですね。そんなところから、もちろん出版なんかはされていない、自筆稿までも手にすることが出来たのでしょう。なんでも、それらはオネゲルやミヨーのクラスで学んでいる頃のもので、楽譜には「先生」による「赤ペン」が入っているのだそうです。全部で30曲ほどの楽譜が残っていて、ここではその中から3曲を選んで、「3つの出版されていない小品」というタイトルで演奏されています。
ここで、例によって日本語インフォの間違いさがしです。これには幸い「帯」はついていないので、それほど問題にはならないでしょうが、インフォの方ではこの「3つの出版されていない小品」というタイトルが抜けているのですね。さらに「A R.」というタイトルの曲の表記が「ア・ル」ですって。これは普通にアルファベを読めばいいだけの話ですから「ア・エル」でしょうね。駅前にありますね(それは「アエル」)。さらに、フルーティストのラストネームが「チェザリーニ」になっていますが、「Cesari」はどう読んでも「チェーザリ」あたりですよね。
なぜ、こんな間違いをしたのかは、すぐわかりました。インフォを書いた人は、NMLでの曲順や表記をそのまま何の疑いもなく使ってしまっていたのです。
まあ、演奏に今までにないようなきらめくものがあれば、そんな間違いは些細なこととして許されるのですが、クセナキスの大規模なピアノ作品としては最初のものとなる1961年の作品「ヘルマ」には、唖然としてしまいました。あんたはまじめにクセナキスと対決しようとしてるのか、と、作曲家と同郷のピアニスト、トモプーロスに本気で詰め寄りたい気持ちです。誤解を恐れずに言うと、この曲はもしかしたら「音楽」ではないのかもしれません。「音楽」に用いられている楽器は使われていますが、これはそんなちまちましたものを超えた「音によるアート」なのですよ。ここで求められているのは、人間業では不可能と思われていることへの挑戦です。まずは、「いかに速く弾くか」ということが、最大の課題となってくるのです。それが成功した時のカオスからは、それこそ「音楽を超えた」高揚感が与えられるはずです。
それを、トモプーロスは「音楽」にしてしまいました。もちろん、クセナキス自身は後に次第に「音楽的」な作品を作るようにはなりますが、この1961年という年代では、そんなことは全然ありませんでした。彼は、この21世紀の聴衆に迎合して、その「時代様式」の解釈を完全に誤ってしまったのです。それを端的に表しているのが、演奏時間です。高橋悠治は7分28秒、高橋アキでも7分43秒で演奏していたものに、彼はなんと9分15秒もかけているのですね。それによって、音はきちんとそれぞれの役割を果たしていることがとてもよく分かるようになりますが、そんなものは当時のクセナキスが求めていたものではありません。しかも、この時間というのは、高橋兄妹が演奏しているところまでの部分を比較したもの、このピアニストは、その最後のクラスターを、ペダルを踏み続けて音が完全に減衰するまで45秒間演奏を終わろうとはしません。そんなところで「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」を気取ってどうするつもりなんだ、と、またもや詰め寄りたくなりましたよ。

CD Artwork © Timpani Records
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by jurassic_oyaji | 2015-08-22 20:20 | 現代音楽 | Comments(0)
PIGOVAT/Holocaust Requiem
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Anna Serova(Va, Vn)
Nicola Guerini/
Croatian Radio & Television Symphony Orchestra
NAXOS/8.572729




ボリス・ピゴヴァートという作曲家は1953年にウクライナのオデッサで生まれ、モスクワの音楽大学に入学、のちにイスラエルに渡りそこの市民権を得て、現在は国際的な活躍をしている方なのだそうです。あいにく、これまでに彼の作品に触れることは全くありませんでしたが、今回、その名も「ホロコースト・レクイエム」という、なんかとてつもない感動を呼びそうなタイトルの作品が収められたCDがリリースされたので、聴いてみることにしました。ちょっと気になるのが、日本盤のタイトルが「レクイエム『ホロコースト』」となっていること。これって、とてつもなくダサい感覚なのではないでしょうか。ブラームスの作品を「レクイエム『ドイツ』」というようなものですからね。どいつがそんなことを言ったんだ!
この「ホロコースト」は、「レクイエム」としてはかなり特異な形をとっていました。通常はこういうタイトルの曲では合唱とか歌のソリストが加わるものですが、ここにはそれが一切ありません。いえ、ピゴヴァートさんも最初は、最近の「レクイエム」にはよくあるように、昔からあるラテン語の通常文のテキストに現代のテキストを交えて、普通にソリストや合唱、さらにはナレーターも入るという編成で構想を練っていたのだそうです。しかし、やがてそのようなものは、この作品の音楽的なメッセージを損なうものだと判断し、声楽のパートは削除して、代わり人間の声に最も近いヴィオラのソリストを立てることにしたということです。なかなか潔い決断ですね。
その結果、曲は「Requiem aeternam」、「Dies irae」、「Lacrimosa」、「Lux aeterna」という、4つの楽章からなるヴィオラ協奏曲のようなものに仕上がりました。それぞれの楽章は、「レクイエム」になじんでいる人であれば別に歌詞がなくてもその内容はおおよその見当が付きますから、しっかり「音楽」に浸ることができるだろう、という目論見ですね。まずしっとり死者を悼んだ後に襲ってくる恐怖感、ひたすら涙を流すしかないものも、やがては永遠の希望に変わる、といった、非常に分かりやすい設計なのでしょう。
実際に聴いてみると、それは、そのような誰でも抱く期待を完璧に満たすものであったところに、まず良識あるリスナーは眉をひそめることでしょう。「Requiem aeternam」あたりでは、まだ音楽に対する真摯な心が伝わってくるような気がしていたものが、「Dies irae」になったとたん、それはなんとも底の浅いものに変わります。なにか、有名な「レクイエム」からアイディアをパクったように思えるのは、もちろんそれらの「お手本」であるグレゴリア聖歌のテーマを使っているからなのでしょうが、そこからは何とも画一的な「予定調和」の世界しか見えてはこないのです。「Lacrimosa」での執拗な「ラクリメ」の応酬も、いかにもな手口です。そして「Lux aeterna」に至って、この作曲家の正体が明らかになります。それまでは、例えば弦楽器のトーン・クラスターなどでリゲティの模倣を試みたり(もちろん、それは「本家」とは似ても似つかぬ志の低さでしかありませんが)して、精一杯自作を深刻ぶらせることに腐心していたものが、ここではストレートに彼自身の本来の資質が丸裸の状態にさらされているのですね。それは、毒にも薬にもならない、ただ甘ったるいだけで心に響くものは何もないという、使い捨ての音楽そのものです。
カップリングは、ソリストがヴィオラをヴァイオリンに持ち替えた「Poem of Dawn」という、「レクイエム」からは15年ほど経った2010年に作られたピースです。ここでは、さっきのようなある意味自作を飾りたてる必要のない分、その底の浅さは際立ちます。これは「ロシアのロマンティックな楽派」を継承したものなのだそうです。確かに、ここにはラフマニノフのようなテイストが満載、しかし、それを今やることに何の意味があるというのでしょう。富田勲に堕するには、ピゴヴァートさんはまだ若すぎます。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc
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by jurassic_oyaji | 2015-08-20 20:06 | 現代音楽 | Comments(0)
PENDERECKI/Magnificato, Kadisz
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Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir(by Henryk Wojnarowski)
Warsaw Boy's Choir(by Krysztof Kusiel-Moroz)
Warsaw Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572697




先日の新垣さんの本の中では、彼の依頼主であるS氏が交響曲第1番をペンデレツキのところに見せに行って断られた、というエピソードが語られています。S氏の本当の狙いはなんだったのかは触れられていません(というか、新垣さんにもわからない)が、もしかしたらS氏はただのミーハーではなく、かなり深いところでこの作曲家を捉えていたのかもしれません。新垣さんが作った「交響曲」の実物は聴いたことがありませんが、実際に聴いた人の言葉などから想像すると、マーラーやショスタコーヴィチの音楽を多分に「参考にして」作られたもののようですね。もちろん、その仕上がりは国内の音楽界では絶大な影響力を持っている自称作曲家の方でも絶賛するほどの巧妙なものだったのですが、ペンデレツキの最近の作品には、それと似たような作られ方をしたものが多いのですね。「交響曲第8番」などは、マーラーの作品だと言って聴かせても、知らない人だったら本気にするほどの音楽ですから。ですから、もしS氏にそこまでの認識があったとしたら、これは「同業者」としての会見となっていたはずです。「オレもあんたのマネをしてこんなのを作ってみたけど、売れそうかい?」みたいな話をした、とかね。まあ、そもそも本当に会ったのかどうかも分からないのですから、想像だけは思い切り派手に広げてみてもいいんじゃないでしょうか。
もう80歳を過ぎても、ペンデレツキは精力的に作曲活動を行っています。今年の3月には最新作の「トランペット協奏曲」が初演されていますしね。これは、今年の11月の再演の予定も決まっているそうです。そんなことが出来るのは、彼はまさに「今」の「現代音楽作曲家」に求められている作曲家としてのスキルを完璧に身につけているので、各方面からの作曲の委嘱が引きも切らないからにほかなりません。
今回のお馴染みのNAXOSの一連のペンデレツキの録音の最新アルバムで、いつものアントニ・ヴィットの演奏を聴いてみると、そんな「スキル」はかなり初期の段階から、彼の中にあったのでは、という気が猛烈にしてきました。もちろん、それは、作曲技法としての「スキル」ではなく、その時代の聴衆が求めているものを敏感に感じ取るという「スキル」です。おそらく彼は、自己の存在意義を徹底的に突き詰め、そこから真の音楽のあるべき姿を探るという孤高の「芸術家」というよりは、いかにして自分の作ったもので世の中の人たちが幸せになるかを追求するという「職人」タイプの作曲家なのでしょう。
NAXOSから出ている一連のアントニ・ヴィットの指揮によるペンデレツキの作品群のアルバムからは、もしかしたら意図的にそのような作曲家の内なる心をはっきりと示すことを目的にしているのではないかと思えるほどの、冴えたカップリングのセンスが感じられます。今回も同じやり方、1974年の「マニフィカート」と、2009年の「カディッシュ」を並べることによって、作曲家がそれぞれの時代に誰に向けて曲を作っていたのかがはっきりわかるはずです。
久しぶりに聴いた「マニフィカート」には、1966年に初演された、それこそ「前衛」のシンボルとも言える「ルカ受難曲」のようなテイストが、たびたび顔を出します。このあたりは、彼にとっては「前衛の総括」に余念がなかった時期になりますから、そのような少し前のスタイルもまだ取り入れつつ、それをいかにして同時代の嗜好に合わせていくのかという模索のあとなのでしょう。
そこで、同じヴィットによる「ルカ」の録音を聴きなおしてみるか、と聴いてみたら、そもそもこれ自体がしっかり聴衆を意識した曲作りをしていたことに気づきます。それはまさに、その時代の聴衆が求めていたものだったのです。
ごく最近の作品「カディッシュ」の3曲目の無伴奏男声合唱などは、「歌う人」の気持ちをとても大切にしたもの、さぞかし「需要」があることでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-07-02 21:13 | 現代音楽 | Comments(0)
REICH/Music for 18 Musicians
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Brad Lubman/
Ensemble Signal
HARMONIA MUNDI/HMU 907608




ライヒの「18人の音楽家のための音楽」の最新録音です。とは言っても、実際に録音されたのは2011年の3月9日から12日までの間、ということはあの「東日本大震災」が起きたまさにその時に録音されていたということになりますから、もう「大昔」です。もしかしたら、こういう音楽をリリースするのはためらわれるような何かが、当時はあったのでしょうか。
今ではライヒの古典的な「名曲」となったこの作品は、文字通り「18人」の演奏家が楽譜には指定されています。その内訳は2本のクラリネット(バス・クラリネット持ち替え)、4台のピアノ、6人の打楽器(3台のマリンバ、2台のシロフォン、1台のビブラフォン)、ヴァイオリン、チェロ、4人の女声(ソプラノ3人、アルト1人)です。これ以外にも、打楽器奏者はマラカスを演奏します。そんな演奏家たちがステージで並んでいるところをデザインしたのが、このアルバムのジャケットです。確かに18人分の「丸い頭」があって、ピアノが4台、木琴らしいものが6台あります。あとは、クラリネットの人は「棒」をくわえていますし、ヴァイオリンとチェロが持っている弓によって区別されているのも、芸が細かいですね。もちろん、ただ手を広げているだけの人はヴォーカルです。
ところが、今回のCDの「音楽家」の数を数えてみると、「アンサンブル・シグナル」というアメリカの若い演奏家が集まって2008年に設立された団体のメンバーが、楽器を演奏する人だけだと16人なので、エキストラで他の団体から応援が加わっているのですが、それが4人もいるのですよ。合計で「20人」ですね。ちょっと多すぎません?
ライヒ自身が加わった最初の録音(ECM/1976年)では、もちろん演奏家は18人しかいません。ところが、メンバー表を見てみるとヴァイオリン、チェロ、クラリネット奏者以外の人たちは、それぞれ別の楽器を演奏したりしているのですね。ライヒ自身もピアノとマリンバを演奏しています。なんと、ヴォーカルの人までピアノに「持ち替え」ていますよ。ということは、このあたりの楽器は、最初から最後まで同じ人が演奏するのではなく、途中で他の人に替わったりするということになりますね。確かに、ピアノなどはほぼ1時間にわたって延々と同じリズムで鍵盤をたたき続けているのでしょうから、そこで緊張を失って演奏が雑になってしまうことを避けるために、適宜「ローテーション」を行うのは必要なことかもしれません。それを、もっと「楽に」するために、もう2人加えたってかまわないじゃないか、という、今回の陣容なのでしょうね。休んでいる間はローションを塗って疲れを取ります。
余談ですが、そのECM盤は、当然初出はLPでしたが、CDの黎明期にいち早くCD化されています。ところが、この頃のCDはろくにマスタリングも行われていなかったものですから、この曲1曲が「トラック1」になっていました。一応連続して演奏されるようにはなっていますが、明らかに14の部分に分かれている音楽ですから、これは困ったものです。たしか、2003年に別の団体が演奏したものがHUNGAROTONからリリースされた時も、同じような途中で切れ目が入っていないマスタリングでしたね。しかし、今ではそのECM盤もリマスタリングが施されて、きちんと14のトラックに分かれています。もちろん、今回のCDもこの形、今までは漠然とビブラフォンのパターンで「セクション」が変わっていたのを認識していたのですが、これでその切れ目がはっきり目で見て分かるようになりました。
そうなってくると、トラック・ナンバーが変わったのを見て、それが新たな「フレーズ」の始まりだと分かり、それがどんどん「成長」していくさまを、つぶさに眺めることが出来るようになります。ここでは、そんな変わり目での演奏家たちの「仕切り直し」の気迫までがまざまざと伝わってくるという、新鮮な体験が味わえます。

CD Artwork © Harmonia Mundi USA
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by jurassic_oyaji | 2015-06-18 20:23 | 現代音楽 | Comments(0)
GORDON/Dystopia, Rewriting Beethoven’s Seventh Symphony
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David Robertson/
Los Angeles Philharmonic
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
CANTALOUPE/CA21105




このジャケットは何を描いているのか、最初はわかりませんでした。昔こういう「モアレ」の効果を使った絵本があったので、そのたぐいかな、と思ったのですが、よくよく見てみるとこれは超高層ビルに囲まれた「空」であることが分かりました。まさしく「Skyscraper」の的確な訳語「摩天楼」そのものの、「天」に「触れる」建物たちが林立した結果、空の形がこんな幾何学模様になってしまうであろうという未来都市の姿を見事に表したイラストです。
そして、それはそんな未来都市をテーマにした1956年生まれのアメリカの作曲家、マイケル・ゴードンの作品「ディストピア」とも見事に呼応しています。「ディストピア」という造語は、「理想郷」という意味で使われる「ユートピア」の反対語、理想とは程遠い凶暴さや混沌、やかましさなどがきわまった未来都市を表わしているのでしょう。これは2007年にロスアンジェルス・フィルからの委嘱によって作られたもので、その「現代都市」とはまさにロスアンジェルスそのものなのだと、作曲家は語っています。
ゴードンは、なんでも「ポスト・ミニマル」という、わけの分からないジャンルの作曲家としてカテゴライズされているそうです。作曲家自身はこの作品について、「協和音と不協和音の間にある灰色の領域の探求」と述べているようですね。
これは、2008年の1月に、ロスアンジェルス・フィルの本拠地ウォルト・ディズニー・コンサートホールで行われた世界初演のライブ録音です。演奏時間が30分ほどの大作で、基本的には「ミニマル」ならではのリズム・パターンが延々と続くだけのものですが、そんな長時間の鑑賞に耐えるだけの工夫があちこちに施されています。まず、リズムの要をなす低音パートに、「エレキベース」が加わっていることで、ただのオーケストラとはちょっと違う独特のグルーヴが生まれています。さらに、そのリズムを形作る打楽器の種類がとにかく多彩、それこそメシアンのような「異国風」の金属打楽器から、ラテン・パーカッションまで加わって派手に盛り上げます。
曲の構成も、そんなにぎやかな部分だけではなく、時にはすべてのリズムをなくして弦楽器だけでまるで雅楽のようなグリッサンドを繰り広げるなどという場面も用意されています。そのようなシーンでも、バックには常に「リズム」が感じられるのが不思議。時折チューブラー・ベルと一緒に聴こえてくる金管のアコードが、何か「救い」のように感じられます。
そして、23分ほど経った頃に始まるのが、弦楽器、木管楽器、金管楽器+ピッコロという3つのパートが織りなす見事なポリフォニーです。それらは次第に終結し、最後は「シ・レ♯・ミ・ファ♯」というベースの音型が何度も繰り返される中でカット・アウトというとてもクールなエンディングを迎えます。
もう1曲、2006年にボン・ベートーヴェン音楽祭からの委嘱によって作られた「ベートーヴェンの第7交響曲を書き直してみた」という作品は、「クール」というよりは「シュール」なアイディア満載の「迷作」です。なんでも、「この交響曲が演奏された時には、当時のお客さんは『宇宙で一番やかましい音楽』と感じたはずだ」という発想から、その「やかましさ」を現代のレベルでお客さんに体験してもらおうというコンセプトのようですから。
「元ネタ」と同じように4つの部分からできていて、それぞれの楽章のテーマがかなりはっきり示されます。「第1部」などは、「第1楽章」の冒頭の4小節を延々と繰り返すなかで、弦楽器のグリッサンドなどを絡み付かせるという陳腐そのもののアイディアです。もちろん、終楽章は予想通りの「タンタカ・タカタカ」という忙しいテーマの応酬。「換骨奪胎」を絵にかいたようなありきたりの作品です。こちらもノットとバンベルク交響楽団による初演のライブ録音、曲が終わると盛大なブーイングが飛び交うのは当然のことです。

CD Artwork © Cantaloupe Music
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by jurassic_oyaji | 2015-06-05 20:33 | 現代音楽 | Comments(0)
MESSIAEN/Des Canyons aux Étoiles
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Tzimon Barto(Pf), John Ryan(Hn)
Andrew Barclay(Xylorimba), Erika Öhman(Glo)
Christoph Eschenbach/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0083




ロンドン・フィルのレーベルのジャケットを飾るのは、このオーケストラのロゴにも使われている「★」のマーク。だからというわけではありませんが、今回はメシアンの「渓谷から星たちへ...」の最新録音です。地味な曲ながら、昔から録音には恵まれていましたね。
この作品は「アメリカ」にモティーフを求めたものとされています。メシアンとアメリカとは、なんというミスマッチ、という気がしませんか?もちろん、これはメシアンが「委嘱」を受けたから作られたもの、1976年にアメリカが「建国200年」を迎えるにあたって、ニューヨークの音楽界のお金持ちから作曲を依頼されたものです。メシアンは、アメリカの原風景である「渓谷」に目を付け、実際にアメリカのユタ州にある国立公園を訪れてその自然に圧倒され、この曲を作れという声を聴いたのだそうです(それは「警告」)。
作曲は1974年に完成し、その年に初演が行われ、世界中で絶賛を博しました。そして、1975年7月にはマリウス・コンスタンの指揮、イヴォンヌ・ロリオのピアノで初めてERATOに録音されました。その国内盤のLPが手元にありますが、そのライナーノーツでは、「メシアンの最新作」を初めて紹介する喜びが、興奮気味に書き連ねられています。そういう時代だったのですね。ただ、まだまだ情報不足の面は否めず、この中で使われている珍しい楽器の紹介もおそらくそのライターさん(当時の「現代音楽」のオーソリティ)は見たことはなかったのでしょう、「エオリフォーン(風力による楽器)」とか「ジェオフォーン(砂による楽器)」などと、とんでもないことがかかれています。「砂による楽器」なんて、いったいどんなものか興味がありますね。もちろん、現在ではそんなものはすぐネットで検索して現物の写真を見ることが出来ますから、今のライターさんが書くライナーにはそんなお粗末な間違いはあり得ません。

エオリフォーン(いわゆる「ウィンド・マシーン」)


ジェオフォーン(砂ではなく、パチンコ玉みたいなものを転がします)

ま、ネットを信用し過ぎて墓穴を掘る〇クソク・ジャパンのようなところもありますがね。

さらに、現在ではそのネットでこの曲が実際に演奏しているところまで見ることが出来ます。ご覧のように、編成が意外と小さいことに驚かされます。確かなデータによると、オーケストラの人数は41人で間に合うことになります。弦楽器が全部で13人しかいないのが、その最大の要因です。もう一つのいい加減なインフォを作っている〇MVのサイトにはこんな写真が載っていますから、すっかり騙されてしまうじゃないですか。

したがって、おそらく、コンスタン以後6つ目となる今回のエッシェンバッハの録音を聴くときには、初めてそんな特殊な編成を念頭に置いてそのサウンドをチェックできるようになりました。確かに、メシアンならではのティンパニやハープといった、普通のオーケストラでは定番の楽器を欠くオーケストレーションは、まずは打楽器のインパクトに圧倒されますが、この「少ない」弦楽器が妖艶に迫っているさまこそが、この作品に独特の味を与えていることに気づきます。
例えば、8曲目の「よみがえりしものとアルデバランの歌」という、ダ・カーポ・アル・フィーネ+コーダという形をとる瞑想的な曲では、そのビブラートたっぷりの弦楽器がベースとなったサウンドが、まるでオンド・マルトノのように聴こえてきます。
この曲はほとんど「トゥーランガリラ交響曲」の別バージョンであるかのような印象を与えられるように、この作品全体が壮大な「セルフ・パロディ」であることは明白ですが、それでも10曲目の「モリツグミ」で使われている「ド・ソ・ミ・ド」というシンプルそのもののモティーフには、確かに「アメリカ」のテイストが感じられます。こんなアホみたいな音列にも、彼にしかできない和声で彩ることで「メシアン」が出来上がるという、皮肉のようなものを感じるのは、間違ってますか?

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd
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by jurassic_oyaji | 2015-05-21 21:06 | 現代音楽 | Comments(0)
SCHNITTKE/3rd Symphony
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Vladimir Jurowski/
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 485(hybrid SACD)




ライプツィヒのコンサートホール、「ゲヴァントハウス」がリニューアル・オープンした時に委嘱されたのが、この「交響曲第3番」です。そのホールで1981年11月5日に、クルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によってまずは初演が行われました。
最初の録音は、1984年のロジェストヴェンスキー盤(MELODIYA)、さらにBISの全集として1989年にはエリ・クラスの指揮によって録音されました。それ以来、この曲が録音された形跡は見当たりませんから、この2014年のユロフスキによる録音が3番目のものになるのでしょう。
なんでも、この曲を演奏するためには「111人」のメンバーが必要なのだそうです。調べてみると、弦楽器は「16.16.12.12.10」管楽器は「4.4.4.4/6.4.4.1」、それにティンパニと、5人の打楽器奏者、さらには特殊楽器としてハープ(2台)、ピアノ、チェレスタ、チェンバロ、オルガン、エレキギター、エレキベースが加わります。これらを単純に加えれば、確かに「111」になりますね。特徴的なのは、エレキギターやエレキベース、これらは、シュニトケの他の作品ではおなじみですね。チェンバロも、聴いた感じではアンプを通して演奏しているようです。
委嘱元がドイツ音楽の伝統を育んできた古都ライプツィヒですから、この曲には「ドイツ音楽」、あるいは「オーストリア音楽」が数多くサンプリングされています。それは断片的なものであったり、あるいは単なる「雰囲気」としての引用だったりですが、そのようなものがごちゃ混ぜになったコラージュとして聴く者に届く、という手法は、やはりシュニトケの得意技ですね。
第1楽章の、まるでこの世の始まりのようなおごそかさは、間違いなくワーグナーの「指輪」のオープニング、つまり、「ラインの黄金」の最初の混沌の引用なのでしょう。ただ、それはもっともっと複雑な、音楽的な秩序さえ超えてしまうほどの「混沌」を形作っているものでした。その低音を支えているのがエレキベースというのが、何とも鮮やかな印象を与えています。
第2楽章は、そんなモヤモヤ感が一掃されたとてもさわやかな音楽、と言えば聞こえはいいのですが、ミエミエのモーツァルトの模倣には、逆にそんなさわやかさの陰に隠れているどす黒い「陰謀」を感じてしまいます。もちろん、こんなあざとさがシュニトケの最大の魅力であることは言うまでもありません。最初にフルートで演奏されるときにはニ長調だったものが、最後にピアノ・ソロで「ハ長調」で弾かれることによって、しっかり「元ネタ」までも紹介していますしね。さらに、この楽章ではチェンバロによってご当地ライプツィヒの巨匠バッハの模倣まで披露するというサービスぶりです。
第3楽章も、冒頭で何やらファンファーレらしきものが聴こえますが、これがリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」のパロディだとしたら、そのセンスには驚かざるを得ません。ここでもエレキベースと、そしてエレキギターが大活躍。もちろん、エレキギターはディストーションをかけた「ロック」ではなく、あくまでクラシックの「弦楽器」として扱われているあたりが「フツー」という感じはしますが。なにか、ベートーヴェンの「エグモント」の断片が聴こえてきたのは耳の錯覚でしょうか。
第4楽章はまさにマーラーのアダージョ楽章そのものです。それはとても澄み切った静謐な世界、と思っていられるのは最初のあたりだけ、次第に音楽はクラスターの様相を高めてきて、それはほとんどリゲティか、という濃厚なものに変わります。それが最後はフルート・ソロで終わるのは、もしかしたら「どんでん返し」のつもりだったのでしょうか。
そんな振幅の大きい、ある意味野蛮なサウンドが、このPOLYHYMNIAの録音ではかなり「お上品」なものになってしまっています。もっとマッシブな音を聴きたかったものです。

SACD Artwork © Deutschlandradio/Pentatone Music B.V.
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by jurassic_oyaji | 2015-04-06 20:45 | 現代音楽 | Comments(0)