おやぢの部屋2
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カテゴリ:現代音楽( 159 )
ROSING-SCHOW/Alliages
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Helen Gjerris(MS), Jeanette Balland(Sax)
Mathias Reumert(Perc), Jesper Sivebreak(Guit)
Andreas Borrengaard(Acc), Asbjørn Nørgaard(Va)
Hélèna Navasse, Svend Melbye(Fl)
DACAPO/8.226580




デンマークの作曲家、ニルス・ロシング=スコウの小規模な編成による作品を集めたアルバムです。1954年に生まれたロシング=スコウは、コペンハーゲン大学の音楽学科を経て王立音楽アカデミーで作曲を学びますが、その後のフランスでのクセナキスのユーピック・アトリエにおける体験が、彼の作風に大きな影響を与えることになりました。ちなみにユーピック(UPIC)とはタブレットで線を描いて音楽を作りだすコンピューターのことで、現金が送れない郵便物ではありません(それは「ユーパック」)。
このアルバムのタイトル「Alliages(合金)」は、ここで演奏されている2つの作品のタイトルでもありますが、そんなフランス的なものと、北欧的な資質の「融合」という作曲家自身のスタイルをあらわすタームという意味も持っているのでしょう。
その「合金」の「1」は2010年に作られた、テナー・サックスとアコーディオンのための作品です。この2つの楽器は付かず離れずというスタンスと取り合いながら、ある時は緊張感あふれる時間を共有し、ある時はもっと開放された軽やかな時間も提供してくれています。ここで、録音としての空間の処理が非常にユニークに感じられるのは、アコーディオンの音像を左右に広々と設定しているために、まるで2つの楽器で演奏されているように聴こえてしまうからなのでしょうか。というか、ちょっと一人の演奏者とは思えないようなところもあるので、もしかしたら多重録音のような気もするのですが、それは知りようがありません。ここでは、アコーディオンの「空気抜き」の音までもが音素材として扱われていますね。
もう一つの「合金」は、なぜか「1」より前の2008年に作られたのにタイトルは「2」となっています。こちらはアコーディオンとヴィオラという組み合わせ、「1」よりもリズミカルな部分が多く、それぞれの楽器が何か真剣勝負を挑んでいるような切迫感があります。それとは別に、互いに寄り添った「ホモフォニック」な部分が挟まって、対比を見せています。
フルートのための作品も2つ。まずは、2014年に行われたカール・ニルセン国際フルートコンクールのセミ・ファイナルでの課題曲(ファイナルの課題曲は当然ニルセンの協奏曲)として作られた「...aus atem...(...息によって...)」というソロ・フルートのための曲です。まるで尺八のようなムラ息の多い音色などが要求されている、単なるテクニックではなくもっと根源的なスキルが問われる作品です。多くの現代奏法が用いられていますが、それらにきちんとした意味を持たせられるかどうかが、審査の上でのポイントになっていたのではないでしょうか。武満の「Voice」にも匹敵するほどの深みを持った作品です。
もう1曲は1991年の「Ritus(儀式)I」です。こちらは打楽器奏者とのデュオ、最初はビブラフォンやグロッケンのような鍵盤系とフルートがまったりとモーダルなフレーズで絡み合い、呪術的な雰囲気を醸し出しますが、フルートの高音のパルスを合図に、ノリのいいドラムが登場、狂ったように激しいお祭りの踊りが始まります。
声のための作品も収められています。2007年に作られた「Nanu(熊)」というのは、グリーンランド語のタイトルで、音楽もグリーンランドの素材が用いられています。声といっしょにアルト・サックスがリズミカルな合いの手を入れ、バックでは打楽器奏者が「石」を叩いて軽やかなビートを刻んでいます。
2013年に作られた「Three Simple Songs」では、3人のデンマークの詩人のテキストによる、ほとんど断片のように切り詰められた「歌」が歌われます。これは、作曲家の若い時代に出会った「シンプル」な様式の音楽の回顧なのだそうです。
ここで伴奏をしていたギターによる「Lines」という、この言葉にさまざまの意味を持たせた3つの曲から成るやはり2013年の作品も聴くことが出来ます。パーカッシブな速弾きがあったかと思うと、グレゴリアン・チャントの引用があったりと、興味の尽きない音楽です。

CD Artwork © Dacapo Records
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by jurassic_oyaji | 2015-04-03 21:11 | 現代音楽 | Comments(0)
KANNO/Light, Water, Rainbow...
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小川典子(Pf)
BIS/SACD-2075(hybrid SACD)




菅野由弘さんは、1953年生まれ、東京藝術大学の修士課程を1980年に卒業されています。現在は早稲田大学の教授を務められ、「基幹理工学部表現工学科」というところで研究室を主宰されています。作曲家としては、とても幅広いジャンルでの作品を発表しています。それは「芸術音楽」にはとどまらず、映画やドラマの音楽にまで及んでいます。「Nコン」の課題曲まで作っているんですね。
このアルバムでは、小川典子さんのピアノで、その小川さんからの委嘱作品などを中心に聴くことができます。タイトルにもある「光の粒子」、「水の粒子」、「虹の粒子」という3つの作品が、その委嘱作、これらはミューザ川崎シンフォニーホールとの共同委嘱で作られたもので、2009年、2010年、2011年にそのホールで開催された小川さんのリサイタルでそれぞれ初演されています。
この「粒子三部作」では、日本の「原始的」な発音体がピアノと一緒に演奏されるという画期的な試みが行われているのだそうです。それはピアノが作り出す西洋音楽の倍音の中に、それとはまったく異なる体系の音源を加えて、全く新しい音響を作り出しているのだとか。そのために用意されたのは、「南部鈴」、「明珍火箸」、「歌舞伎オルゴール」というそれぞれ日本独自のサウンドを生み出す音源です。「南部鈴」は岩手県の名産、鋳鉄による鈴で、独特の澄み切った音を奏でます。「明珍火箸」というのも、やはり鉄でできた箸(そう言えば「火箸」の現物にはしばしの間お目にかかっていないなぁ)です。2本の箸が糸でつながっていますから、その糸をつまんで振れば箸同士がぶつかって音が出ます。そして、「歌舞伎オルゴール」という、古典芸能のアイテムにしては何ともショッキングなネーミングが印象的な「楽器」は、仏教での読経の際に使われる「キン」という丸い小さな鐘を、大きさの異なるいくつかのものを並べて固定したものです。歌舞伎ではこれで虫の鳴き声などを表現するのだそうです。
そんな、言ってみれば西洋音楽と日本の伝統工芸品のコラボレーションは、確かにサウンド的にはそれなりの効果は感じられますが、それが音楽としてどうなのか、という疑問は残ります。というのも、このあたりの彼の作風は、もはや確固としたスタイルが出来上がってしまっているために、そこにいくら「チーン」とか「カーン」という異質な音が入っても、それ自体には何の変化をもたらしてはいないように思えてしまうのですよ。その彼のスタイルというのは、ほとんどドビュッシーかと思われるようなフレーズが、とても細かい音(それが「粒子」なのでしょうか)によって紡がれるというもの。しかも、そのフレーズには見事なまでの整合性があって、きっちり先が見通せるというプリミティブなところがあるのですね。正直、この作品群からはただ時間を音符で埋めているという「現象」しか感じることはできませんでした。
この「三部作」の前後に作られた「天使のはしご」(2006年)と「月夜の虹」(2012年)という作品では、ピアノやトイ・ピアノの音をリング・モジュレーターで変調しています。これは、大昔のプログレ・ロックの常套手段でしたね。それはそれで懐かしさは感じるものの、「それで?」という感はぬぐえません。それよりも、武満徹の没後10周年のために作られた「天使のはしご」では、その武満からの引用よりは、彼がよく引用していたドビュッシーや、さらにその「元ネタ」のワーグナーまでが聴こえてくるのには、笑ってしまいました。
このアルバムの中では、最後に演奏されている、1985年に押井守の「天使のたまご」というアニメのために作られた「天使のための前奏曲」というほんの3分ほどのピアノ・ソロが、もっとも心を打たれるものでした。この、シンプルさの中に秘められた油断できないモードに見られるような閃きを、この作曲家はいつの間にかなくしてしまっていたのではないでしょうか。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2015-03-29 20:12 | 現代音楽 | Comments(0)
XENAKIS/Pléïades, Rebonds
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加藤訓子(Per)
LINN/CKD 595(hybrid SACD)




今までは、このレーベルにペルトやライヒといった「ミニマリスト」たちの打楽器作品を録音していた加藤訓子さんが、ついにクセナキスに挑戦してくれました。今回も加藤さん自身の日本語によるライナーノーツが読めるというのも、楽しみです。ただ、このライナー、一部に編集ミスがありますから、ご注意を。
ここで彼女が選んだ曲は、「プレイアデス」と「ルボン」です。「ルボン」は一人の打楽器奏者のための作品ですが、「プレイアデス」はストラスブール・パーカッション・アンサンブルという、6人の打楽器奏者のグループのために作られたものですから、当然一人では演奏することはできません。そこは、ライヒなどではすっかり常套手段となった多重録音で、一人で6人分のパートを演奏しています。これがまず驚異的。ライヒのような単純なフレーズの繰り返しならいざ知らず、クセナキスのもう真っ黒けになるほどたくさんの音符にまみれていて、1回演奏するだけで死にそうになる楽譜を、ひたすら前の自分の録音を聴きながらもう5回も演奏するなんて、気の遠くなるような作業なのではないでしょうか。
彼女は、そんなとんでもないことを難なくやり遂げただけではなく、その「映像」まで作ってしまいました。それが、SACDと一緒にパックされているDVDです。ここでは、なんと「6人」の「動く」加藤さんがこの難曲を演奏している様子を見ることが出来るのです。それは、なんともスリリングな体験でした。もちろん、音はSACDで聴けるものと全く同じものですが、それぞれの加藤さんはそれにきっちりシンクロさせてカメラの前で演奏しています(たまに音とずれていたりしているのはご愛嬌)。それを6人分撮影して、さらにそれらを合成、おそらく、こちらの方が録音よりも数倍手間がかかる作業だったのではないでしょうか。
その、横一列に並んだ加藤さんたちは、彼女たちのトレードマークであるキャミソール姿で、肩から先の腕を露出させています。その12本の腕が、クセナキスのスコアに従って微妙にズレながら激しく動き回る様子は、まるで一編のダンス、そのダイナミックな動きには思わず見入ってしまいます。特に、最後の「Peaux」という、皮を張った太鼓類を演奏するパートでは、まるで和太鼓を叩く時のようにむき出しの腕を高く挙げるポーズが思いっきりセクシー。和太鼓奏者たちがなぜ褌いっちょうで演奏しているのかが分かったような気がします。この曲の最後近くで、6人が完全にユニゾンになるところなどは、見ものですよ。
こんなものを見てしまうと、音だけのSACDでは物足りない気になってしまいます。音自体は、SACDの方が格段に繊細な音で、音色の違いなどがはっきり聴き分けられるものなのですが、トータルの情報量としては映像の方が圧倒的に多くなっています。打楽器の場合は、このような「肉体」とのコラボレーションで、与えられる印象はさらに強烈になって行くのでしょう。
ここでDVDになっているのは、「プレイアデス」の4つの曲の中の2番目から4番目の3曲だけです。それぞれに扱う楽器が異なっているので映像も作りやすいのでしょうが、1曲目の「Mélanges」はそれらの楽器が全部登場しますから、それを6人分並べるのは大変だったのでしょう。
もう1つの作品、「ルボン」は、聴いただけではとても一人で演奏しているとは思えないほどのたくさんの打楽器が使われています。あんな映像を見てしまうと、これも多重録音かも、などと勘繰られてしまいそうですが、もちろん加藤さんは一人で演奏しているはずです。というか、この作品は彼女にとっての一つの「目標」なのだそうですね。これを完璧に演奏できるプレーヤーになりたいと、常々思っているのだとか。これをDVDで見られたら、彼女の本当の凄さが分かるのかもしれません。もちろん、映像はパンツ姿(それは「ズボン」)。

SACD Artwork © Linn Records
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by jurassic_oyaji | 2015-03-25 20:41 | 現代音楽 | Comments(0)
ADAMS/Become Ocean




Ludovic Morlot/
Seattle Symphony
CANTALOUPE/CA21101




今年のグラミー賞で、クラシックの「現代音楽」の部門での受賞作となったのが、このアルバムです。このレーベルを扱っている国内の代理店ではここぞとばかりにそれをセールスに結び付けようと血眼になっていることでしょう。
この「Become Ocean(大いなる海に成れ)」という曲を作った人はジョン・アダムズという作曲家。実は、もう一つのクラシックのカテゴリー「最優秀管弦楽演奏賞」で受賞した曲の作曲家も同じ名前ですが、この二人は全くの赤の他人です。「Become Ocean」は「ジョン・ルーサー・アダムズ」ですが、もう一人は「ドクター・アトミック」などで有名な「ジョン・クーリッジ・アダムズ」と、ミドルネームが違っています。なんという紛らわしさ。
1953年生まれの「ルーサー」は(ちなみに「クーリッジ」は1947年生まれ)カリフォルニア芸術大学で作曲を学んだ、「クーリッジ」と同じく「ミニマリスト」という範疇で呼ばれる作曲家です。この、ジョン・ケージのメゾスティックス(何行かの単語を少しずらしながら重ね上げ、そこを縦に読んで新たな単語を生み出すというかなりマゾヒスティックな一種の言葉遊び)からタイトルを引用したという「Become Ocean」という作品は、2013年にここで演奏しているシアトル交響楽団とその音楽監督のルドヴィック・モルローからの委嘱によって作られました。その年の6月にシアトルで初演され、翌年5月にはカーネギー・ホールでも演奏されています。そして、2014年のピューリッツァー賞の音楽部門を受賞しました。
タイトルを聞いただけで、ドビュッシーの「海」あたりが頭をよぎります。しかし、なんたってピューリッツァー賞ですから、そんな分かりやすいことなんかやるわけはないな、と、ふつうは思うはずでが、そのオープニングときたら、雰囲気がそのドビュッシーそっくりでした。
さらに、それからの展開は、常に何か規則的な音型が続いているのだけれども、いつの間にかそれが少しずつ変わっていってそのうちまったく別の音型になってしまうという、まさにスティーヴ・ライヒそのもののような音楽になるというところで、ある意味「型にはまった」ものに安住している感は否めません
ただ、ライヒとは違った、広々としたフレーズと和声で描かれる世界は、かなり魅力的ではあります。もちろん、それは、例えばハリウッドの映画音楽(たとえば「ゼロ・グラビティ」)のようなテイストを持っていることで、真のオリジナリティからはかなり遠いところにあることは否定できないでしょう。
したがって、この作品でそれまでにない特別なものを見出すとすれば、それは、とてもユニークな時間軸の設定、というものではないでしょうか。この曲の実際の演奏時間は42分2秒。まあ、限りなく42分ちょうどに近い長さです。そして、その時間軸の中では、きっちり14分ごとに音が無くなる部分があって、さらにその途中のちょうど真ん中、7分のところにピークが来ています。つまり、無音の状態から7分かけてクライマックスを作り、そこからさらに7分かけて無音状態に戻る、というパターンが正確に3回繰り返されているのですね。おそらく、このことによって作曲家は「波」を描写しているつもりなのでしょう。しかし、そのあまりに正確な時間の歩みには、何か人間業を超えた「力」を感じないわけにはいきません。
そう、この曲を作るにあたっては、間違いなくコンピューターが使用されているのでしょう。それも、クセナキスの時代のものではなく、今では「非クラシック」の分野で日常的に使われているDTMの世界です。ですからそれは完成した時にはその音源によって「音」はきっちり聴くことができるようになっているはずです。それを、80人以上の生身の人間に演奏させているということが、もしかしたらピューリッツァーなりグラミーの審査員のお眼鏡にかなったのかもしれません。アメリカというのは、そういうところです。
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by jurassic_oyaji | 2015-02-11 22:58 | 現代音楽 | Comments(0)
SKJELBRED/Waves & Interruptions
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Erik Raude(Perc)
Ida Bryhn(Va)
Tom Ottar Andreassen(Fl)
Thomas Kjekstad(Guit)
2L/2L-103-PABD(BD-A)




この2Lというレーベルの品番は、数字のあとにSACDなら「SACD」、LPなら「LP」と、それをあらわす文字を入れるというわかりやすいものです。さらに同じ音源をSACDとBD-Aの2種類のディスクとして同じパッケージに入れて発売した時の品番は「SABD」でした。確かに、両方とも入っているぞ、という気持ちがとてもよく伝わってくる品番ですね。そして、BD-Aを一本立ちさせた、今回のようなパッケージでは、「PABD」という文字が付いていました。これは、「Pure Audio Blu-ray Disc」の略なのでしょうね。
もちろん、2Lのことですから、ここでのスペックは24bit/192kHzという、BD-Aの規格としては最高位のものでした。元のDXDが24bit/352.8kHzですから、これでオリジナルの録音にかなり近いものを再生できるようにはなっているのではないでしょうか。やはりこれからはBD-Aだ、というのが2Lの当座の結論なのだ、と思いたいものです。
今回は、ビョルン・ボルスタ・シェルブレードという、1970年生まれのノルウェーの作曲家の作品を集めたアルバムです。雨傘とは関係ありません(それは「シェルブール」)が、こんな顔をした人、去年の今頃世間を騒がせていた「あの作曲家」になんとなく雰囲気が似ていませんか?

その「作曲家」も含めて、現代の作曲家というものは「自分の作品」に関しては饒舌な人が多いのではないでしょうか。作曲の意図を的確に伝えたいという思いからなのでしょうが、それを述べている文章自体がかなり難解だったりしますから、その効果はいまいちのことが多いものです。というか、彼らはなにか無理をして語りたがる傾向があるのだと思うのは、単なる偏見でしょうか。
その点、このシェルブレードさんは、このアルバム中のそれぞれの作品については何一つコメントを寄せてはいない、という潔さです。いや、それは単に作曲家が音楽を言葉にすることが出来ない、というだけのことなのかもしれませんが。
ここでは、「2001年から2013年までの間に作られた」とされる6つの曲が録音されていますが、それぞれがいったい何年に作られたか、という基本的なデータまで省かれているというのも、ちょっと不思議な感じです。そのぐらいは書いておいたっていいのでは、とは思いませんか?
そのうちの5曲には、マリンバやビブラフォン、あるいはクロタルといった「鍵盤打楽器」がフィーチャーされていて、それを演奏しているアイリク・ラウデという人がメインのアーティストとしての扱いです。
この人の奏でるマリンバは、普通は「木琴」と呼ばれるはずのこの楽器から、想像もできないほどの幅広い可能性を引き出していました。たくさんの音符を、人間業とは思えないほどの速さで弾きまくることなどはすでに当たり前(低音部と高音部を同時に弾いている時に、腕が5メートルぐらいに伸びていると感じるのは、左右いっぱいに音場が広がっているせいでしょう)、なにより心にしみるのは、弓を使ってとても滑らかなエンヴェロープを聴かせてくれている部分でしょう。なんという繊細さ。彼はこの楽器から、まるで「雅楽」のような味まで出しているのですからね。
そこに、曲に応じて様々なスタイルで絡んでいるのが、ヴィオラ、フルート、ギターの3つの楽器です。ヴィオラは1人だけで演奏する曲も与えられていますが、それがまさにヴァイオリンでもチェロでもないヴィオラという楽器である必然性が存分に感じられるものでした。同じことを表現するのに、フルーティストは、C管、アルト・フルート、バス・フルートの3種を使い分けなければいけなかったというのに。そしてギターは、自分自身では強い主張を持たない分、フルートの「影」としての存在感を見せつけていました。
作品?これらの「演奏」を成立させるのに、この作曲家がどれだけの貢献をしていたのか、さっきの顔写真から「邪推」するほど不謹慎ではないつもりですが・・・。もちろん、録音に関しては、その貢献度は作曲家の比ではありません。

BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2015-02-03 23:38 | 現代音楽 | Comments(0)
PENDERECKI/The Complete Symphonies
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Soloists
Krzysztof Penderecki/
The Choir of the Podlasie Opera and Philharmonic in Bialystok
The Polish Sinfonia Iuventus Orchestra
DUX/DUX 0947




ペンデレツキが今までに作った交響曲をすべて録音していたのは、アントニ・ヴィットだけだったのでしょう。彼はNAXOSで1998年から2006年までの間にカトヴィツェ放送交響楽団とワルシャワ・フィルの2つのオーケストラによって「全集」を完成させました。2012年にはそれをまとめたボックスもリリースされています。おそらく、これが最初で最後の全集だと思っていたら、2013年になってなんと作曲家が自ら指揮をした全集が登場したではありませんか。これはある意味ショッキングなことでした。なんたってまだまだこれからも作曲活動は続けていけるはずの年齢なのに、ここで自ら「全集」を作ったということは、もはやこれ以上はこのジャンルでの新作は期待するな、というメッセージと誰しもが受け止めるはずですからね。
ですから、彼が後世に残した「交響曲」は全部で「7曲」ということになりました。なぜか、最後の交響曲が「8番」なのは、「6番」がまだ「作曲中」だからです。しかし、これも、こんな全集を出してしまっては、もはやそれが完成することは決してないでしょう。
ヴィットの場合は、全集を完成させるのに8年かかりましたが、ペンデレツキは2010年の9月から2012年の11月までですから、ほぼ丸2年で完成してしまったことになります。
最後の「8番」が完成したのは2005年で、その直後の2006年にヴィットが録音したのですが、2007年になって、作曲家はこの曲を改訂してしまいます。ご存知のように、この曲は交響曲というよりはオーケストラ伴奏による歌曲集といった趣が強いのですが、その12曲あった「歌曲」に3曲追加して15曲にしたのです。ですから、現在このバージョンが聴けるのはペンデレツキ盤しかないはずです。
今回の全集では、演奏しているオーケストラは「ポーランド青年交響楽団」という団体だけ。録音もかなりすっきりした音に仕上がっていて、これはもうまさに、「ロマンティスト」ペンデレツキの面目躍如といった感じの、誰にも好かれる「名曲仕様」の作られ方になっています。
しかし、そんな中でも1973年に作られた「1番」だけは、他の交響曲とははっきり異なる作風を示しています。このボックスのライナーによると、この作品はペンデレツキにとっては「アヴァン・ギャルドに対する総括」という意味を持っていたのだそうです。つまり、この曲を作ったことによって、それまでの「アヴァン・ギャルド」な作風とは完全に手を切って、新たな「ロマンティック」な作風への「転換」を図ったのだ、と、本人が語っていたというのですよ。いやあ、うすうす感じてはいましたが、まさか本人がここまではっきり自らの「変節」を語っていたとは。
ですから、この全集で注目すべきは、そんなペンデレツキが指揮者として、言ってみれば「切り捨てた」はずの過去の自分とどのように対峙するのか、という点なのではないでしょうか。そこで、その「1番」を、ヴィットが1999年に録音したものと、今回の自演盤とで聴き比べてみると、やはりその違いは歴然たるものがありました。ヴィット盤ではバンバン感じられた、まるで背筋が凍りつくような不気味さが、自演盤では全く姿を消しているのです。さらに、もっと重要な、楽譜そのものを変えている部分まで見つかりました。それは曲全体のエンディング。ヴィットによるオリジナル(だと思います)では、最後に残るのはラチェットとバスドラムという音程を持たない打楽器だけのはずなのに、自演盤ではそのバスドラムに重なってコントラバスが明確な「A」の音を出しているのですね。もはやロマンティストとなってしまったペンデレツキにとっては、たとえ自作でも音程(=調性)が定かではない終わり方をするのは許せなかったのでしょうか。そんな作曲家の傲慢さこそが、最も許してはいけないもののはずなのに。

CD Artwork © DUX Recording Producers
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by jurassic_oyaji | 2015-01-30 20:55 | 現代音楽 | Comments(0)
SIMPSON/A Crown of Stars, SCHNITTKE/Requiem
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Lisa Edwards-Burrs(Sop)
Joseph Dietrich(Ten)
Gisèle Becker/
Cantate Chamber Singers
The Maryland State Boychoir
ALBANY/TROY1358




シュニトケの「レクイエム」の新しい録音ということで入手したCDですが、ここではどちらかというとメインはカップリングの「A Crown of Stars」という世界初録音の作品だったようです。これは、アメリカの作曲家アンドリュー・アール・シンプソンが、ここで演奏しているカンターテ・チェンバー・シンガーズの委嘱によって作曲したもので、2006年にこの合唱団による世界初演が行われています。
タイトルの「星の冠」とは、ギリシャ神話に登場するバッカス(ディオニソス)とアリアドネの物語に由来したものです。この二人は、あのリヒャルト・シュトラウスのオペラ、「ナクソス島のアリアドネ」でもおなじみですね。アリアドネは恋人のテセウスと一緒にナクソス島に逃げてきますが、なぜかテセウスは彼女をおいたままにして島から去ってしまいます。「ナクソス」というのは有名なレコード会社ですが、そこの女子社員もこんな風にカレシに逃げられてしまうものなのでしょうか。ちょっと縁起の悪い社名ですね。しかし、アリアドネの場合は、そこにやってきたバッカスとまた恋に落ち、結婚してしまうのですから、本当はその女子社員もカレシを裏切って他のオトコに走っていたんですよ。
と、「まちがいギリシャ神話」に脱線しましたが、そのアリアドネがバッカスと結婚する時にプレゼントされ、「ありがとね」と受け取ったものが、この「星の冠」だったのですね。ジャケットに使われているフランスの画家、ウスターシュ・ル・シュウールの「バッカスとアリアドネ」という絵画の中で、男が女の頭上に掲げているのが、その現物です。なんでも、これがアリアドネの死後には天に昇って「かんむり座」になったのだとか。ロマンティックですね。

そう、この作品はサブタイトルが「3部から成る結婚オラトリオ」とあるように、結婚を賛美するというおめでたい曲だったのですよ。それをよりによって死者を悼む「レクイエム」とカップリングさせるという神経は、ユニークというか、理解不能というか。
ピアニストやオルガニストとしても活躍している1967年生まれの作曲家のシンプソンには、オペラや室内楽から映画音楽、さらにはフォーク・ミュージックまで、多方面の作品があります。この作品の制作にあたっては、古典文学者である妻の協力によって、古代ギリシャ語から翻訳されたテキストなどを用いているのだそうです。
彼の音楽は、クラシックの範疇には収まらないさまざまのジャンルがルーツになっているようですので、2人のソリスト、混声合唱、児童合唱、13人のミュージシャンによるアンサンブルから成るこの作品では、まず「ディキシーランド・ジャズ」で始まったからと言って驚く必要はありません。というか、オープニングでいきなりそんなインパクトを与えた割には、それ以後は、例えばジョン・ラッターやボブ・チルコットのようなありがちの音楽が続きます。それなりのメッセージが受け止められるものも有りますが、なにかよそよそしい感じが付きまとうのは、演奏している合唱団のスキルのせいなのでしょう。そんな中で、第1部の最後に置かれた児童合唱のピース「Will There Be Any Stars in My Crown?」が、伝承曲のような素朴な味を出していましたね。
そして、お目当てのシュニトケの「レクイエム」が始まると、それはやはり今まで聴いていた「星の冠」とはちょっと次元の異なるものであることに気づきます。こちらも言ってみれば「なんでもあり」の音楽には違いないのですが、やはり「格」が違うというか、放射される「情念」のようなものが根本から違っていることを痛感させられます。合唱団も、同じ団体とは思えないような緻密さ(それでもかなり雑ではありますが)を見せていますし。この作品はもう何度も聴いていたのに、例えば「Sanctus」でのエレキ・ベースの巧妙な使い方などには、改めて感心させられます。

CD Artwork © Albany Records
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by jurassic_oyaji | 2015-01-28 20:48 | 現代音楽 | Comments(0)
BERIO/Sinfonia, Calmo, Ritirata Notturna
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Verpi Räisänen(MS), Mirjam Solomon, Annika Fuhrmann(Sop)
Jutta Seppinen, Pasi Hyökki(Alt)
Simo Mäkinen, Paavo Hyökki(Ten)
Taavi Oramo, Sampo Haapaniemi(Bas)
Hannu Lintu/Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE 1227-5(hybrid SACD)




フィンランド放送交響楽団とともにリゲティメシアンと、前世紀の音楽を牽引してきた作曲家の作品を録音してきたリントゥが、今回はベリオのアルバムを作ってくれました。これらの、もはや「現代音楽」とは言えないほど多くの聴衆を獲得している作品たちに、リントゥはまた斬新なアプローチを見せてくれるのでしょうか。
ここで彼が取り上げたベリオの作品は、もはや「古典」と言っても構わないほどの人気を誇る1969年の作品「シンフォニア」をメインに、1970年代の「夜警の行進」と「カルモ」という3つでした。このうちの「夜警」は、ボッケリーニの作品(弦楽五重奏曲Op30-6の最後の楽章)をそのままオーケストラのために編曲(オーケストレーション)して、そこにさらに11の変奏を続けた一種の「変奏曲」ではあるのですが、これの日本語タイトルが、例によって意味不明。なぜ「4つの変奏」なのでしょう。

どうやら、これを作った人(販売元のNaxos Japanから依頼された「帯職人」)は、オリジナルのタイトル「Quattro versioni originali della Ritirata Notturna di Madrid di L. Boccherini」にある「versioni」を「variation」と読み違えてしまったのでしょう。「誤訳」というのも恥ずかしいほどのお粗末な話ですね。これは本当は「4つの版」、べリオはこのオーケストラ版のほかに、あと3つの「版」を作った、ということなのでしょうね。
これは、まるで「ボレロ」のように、聴こえるか聴こえないほどのスネア・ドラムに導かれて「11の変奏」が展開されるというものですが、ラヴェルと違うのは真ん中で盛り上がった後は、また最初のような静けさを目指してだんだん小さな音になっていく、という点です。一見、単なる古典的なオーケストレーションのようで、それこそ「聴こえるか聴こえないほど」のあり得ない和声が各所に潜んでいますから、油断は禁物です。そんなことにサラッと気づかせてくれるリントゥは、さすがです。
次の「カルモ」は、べリオの友人であったブルーノ・マデルナの死を悼んで作られたものです。これは、「あの時代」のテイストが満載の「難解な」音楽ではありますが、メゾ・ソプラノ・ソロのライサネン(これも、帯の日本語表記はウソ)のふくよかで温かい声からは、「今の時代」ならではの包容力が伝わってくるはずです。もちろん、その中からは、作曲家が目指したであろう鋭角的なメッセージも受け止めることは可能です。
「シンフォニア」は、ご存知のようにニューヨーク・フィルからの委嘱によって作られたものですが、作曲者はソリスト群としてスウィングル・シンガーズを想定していました。ですから、彼らが演奏する時にはそれぞれマイクを持って歌っていますし、オーケストラの中には「電子チェンバロ」や「電子オルガン」などといった電子楽器も含まれています。ピエール・ブーレーズが1984年に録音した時には、スウィングル・シンガーズは初演当時とはメンバーも替わり、名前も「ニュー・スウィングル・シンガーズ」となっていましたが、おそらく彼らは、例えば武満の「ノヴェンバー・ステップス」での横山・鶴田チームのように、この曲が演奏される時には必ずソリスト群として登場していたのでしょう。確か、1995年に東京で開催された「ブーレーズ・フェスティバル」でこの曲が演奏された時にも、彼らが参加していたはずです。
しかし、現在では他のソリストでもこのパートが任されるようになってきました。このSACDで歌っているのは、いわゆる「合唱団」ではなく、この録音のために集まった人たちなのでしょう。聞いたことのない名前ばかりだな、と思ったら、その中にパシ・ヒョッキが「アルト」として参加していました。こちらで紹介していた「ソプラニスタ」ですね。ちなみに、もう一人のアルトのユッタ・セッピネンという人は女性です。お化粧をしなくても美しい人ですね(それは「スッピンね」)。

SACD Artwork © Ondine Oy
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by jurassic_oyaji | 2015-01-26 21:16 | 現代音楽 | Comments(0)
HOSOKAWA/Orchestral Works・2
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Jun Märkl/
Royal Scottish National Orchestra
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.573276




先日の「第1集」に続いての、NAXOSレーベルからの細川俊夫のオーケストラのための作品集です。しかし、このジャケットは、これを見てワーグナーの「リング」なのではないか、などと思ってしまう人もいるのではないかと心配してしまうような、ミスリーディングを呼びかねないデザインです。細川が「リング」に触発されて作った作品なのかな?とかね。この人の場合、何かに「触発」されて曲を作ることが多いようですから、ありえないことではありません。しかし、その気になってよく見ると、そのリングの内側には水面が描かれているように思えてきませんか。

おそらく、この安野光雅の「だまし絵」のように、このリングの真ん中に円筒形の鏡をおけば、そこには広大な海原が広がっていることでしょう(うそですからね)。この場合は、それが丸くつながっていますから、まさにここに収録されている「Circulating Ocean 循環する海」という作品のタイトルに呼応することになるのです。
このタイトルを聞いて、以前同じ曲が、それこそ「海」をテーマにした代表作である、ドビュッシーの「海」とカップリングされていたアルバムを聴いていたことを思い出しました。そんなに昔のことではないのに、もう別の録音が、しかも同じレーベルから出るなんてさすがは世界的な作曲家、と思ってしまいましたよ。ところが、良く見てみるとこれは全く同じ音源でした。確かに、バック・インレイには「過去にリリースされています」という但し書きがありましたね。まあ、こういうことはよくあるのでそれほど腹は立ちませんが、それを「世界初録音」と言っているのは、ちょっとおかしくないですか?確かに、前のCDが出た時点では間違いなく「初録音」だったのでしょうが、今回はリイシューなのですから、もう「初録音」とは言う資格はなくなっているのではないでしょうか。そのいい例が「新人賞」と呼ばれるもの。これは、どんな人でも1回しかもらえないのですからね。
「第1集」でも感じたことですが、この作曲家の技法はどうやらすっかりこのようなひたすら時の流れに身を任すというスタイルに固まって来たようですね。いつ始まったのかも、そして、いつ終わったのかも分からないような、まるで常に流れている時間のほんの一部だけを切り取って来たのではないか、と思えるような作り方は、それだからこそ永遠に続いて行く自然の営みを的確に描ききることが出来るのでしょう。2005年に作られた「循環する海」を最初に聴いた時には、そんな、あまりにも作り手の主体性が感じられないやり方に一抹の不安を抱いたものですが、こうして最近の作品を並べてみることによって、そんなやり方の本当に目指すものがやっと理解出来たような気がします。
構造的には2007年に弦楽四重奏のために作られた「Blossoming 開花」と同じものである2011年のオーケストラ曲「Blossoming II 開花 II」で見られた、ポリフォニーによるテーマの模倣のようなものも、2009年に作られた「Woven Dreams 夢を織る」でははっきりした外形を消滅させています。そして、さっきの「海」にはまだ残っていた色彩的な和声感は、「夢~」ではほとんど姿を消しています。それは、あたかも和声の持つ先入観からは自由になった原初的な表現のみによって、心の深いところにまで迫ることのできるスキルを手に入れたかのように思える変化です。
もしかしたら、「海」でそのように感じたのは、演奏している団体が異なっていたからなのかもしれません。かなり響きがブレンドされているような録音も、その印象を強くさせるものだったのでしょう。つまり、ここでは「海」が「世界初録音」のアルバムからの「引用」であったことが重要な意味を持っているのでした。ですから、先ほどのようなアルバムの表示は、このアルバム自体のコンセプトにも背いていることになります。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-11-28 20:37 | 現代音楽 | Comments(0)
REICH/Radio Rewrite
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Jonny Greenwood(Guit)
Vicky Chow(Pf)
Alan Pierson/
Alarm Will Sound
NONESUCH/7559-79547-0




スティーヴ・ライヒの最新作を含むニュー・アルバムです。ここでは、こちらでペンデレツキとの親密なコラボレーションを披露していたレディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドが、大きな役割を果たしています。
まずは、グリーンウッド自身の演奏による、1987年の作品、「エレクトリック・カウンターポイント」です。これは、加藤訓子さんによる打楽器バージョンを、こちらで聴いていましたね。もちろん、グリーンウッドはオリジナル通りのギターで演奏していますが、初演者のパット・メセニーによって録音されたもの(↓)と比べてみると、演奏時間が3つの部分とも全く同じであることに驚かされます(I:6:51, II:3:21, III:4:29)。

これは、多重録音で各パートを重ねて作られるものですから、あるいはグリーンウッドはメセニー盤をサンプリングしてクリックを用意していたのかもしれませんね。加藤さんの場合は、ほんの少し時間が違いますから、そこまではやらなかったのかも。ただ、そのような全く同じテンポで全く同じ楽譜を使っていても、ここでのグリーンウッドの「演奏」は、メセニーとは完璧に異なっています。それは、使っている楽器が同じ「エレクトリック」ギターであってもその語り口が全く別物であることが最大の要因なのでしょう。かたや、ジャズ風の端正なセミアコ、かたやエフェクターを駆使したギンギンのソリッド・ギターですし、いかにミニマルなフレーズといえどもジャズとロックとでは自ずと表現は変わってくるのは当然のことです。どちらが良いかというのではなく、どちらのジャンルでもライヒの音楽は通用してしまうということなのでしょう。もちろん、加藤さんのような「クラシカル」なアプローチもあるわけです。
もう一つグリーンウッドが果たした「役割」は、今回の最新作「レディオ・リライト」のモティーフとして、ライヒがグリーンウッドのバンド「レディオヘッド」の音楽を用いていることです。ライナーノーツでは、これはルネッサンス期の「定旋律ミサ」と同じ発想だ、というようなことが述べられていますが、まあ確かに精神としてはかなり近いものがあるのかもしれません。要は、誰でも知っているメロディを、作品のモティーフの中にしのばせるという手法ですね。そして、ここでの「定旋律」が、レディオヘッドの2つの作品、「Jigsaw Falling into Place(2007)」と「Everything in Its Right Place(2000)」です。2012年に、ロンドン・シンフォニエッタからの委嘱によって作られたこの曲は、急-緩-急-緩-急と、2つのキャラクターをもつ5つの部分が交互に現れますが、その「急」の部分に「Jigsaw~」、「緩」の部分に「Everything~」が使われています。確かに、「急」の部分は同じコード進行の上で「変奏」が行われているのは良く分かりますが、「緩」の方はちょっと分かりにくいですね。というか、この2曲はクラシック・ファンにとっては必ずしも「誰でも知っている」とは言えないものでしょうから、そもそも元のテーマが分からないところで聴くのは辛いものがあるかもしれません。それよりも、もはやそんなことまでしないことには先に進めなくなっているライヒのある意味行き詰まりが感じられる方が、もっと辛いことなのかもしれません。
もう1曲の「ピアノ・カウンターポイント」は、先ほどの加藤さんのアルバムに収録されている「シックス・マリンバ・カウンターポイント」と全く同じプラン、ライヒの「シックス・ピアノズ」という1973年の作品を、2011年に「ロンドン・スティーヴ・ライヒ・アンサンブル」のピアニスト、ヴィンセント・コーヴァーが独奏者+録音テープのために編曲したものです。こちらは、ライヒ自身が参加した1974年の録音に比べて半分近くの長さになってメリハリがくっきりした分、オリジナルが持っていた、なんとも言い難い不思議な変容の妙は、見事に消え去っています。それが「今」のライヒの受容の実態だとしたら、辛さはさらに募ります。もはや、古典的な「ミニマル」の需要はなくなってしまったのでしょうか。

CD Artwork © Nonesuch Records Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-11-14 20:28 | 現代音楽 | Comments(0)