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カテゴリ:現代音楽( 162 )
GORDON/Dystopia, Rewriting Beethoven’s Seventh Symphony
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David Robertson/
Los Angeles Philharmonic
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
CANTALOUPE/CA21105




このジャケットは何を描いているのか、最初はわかりませんでした。昔こういう「モアレ」の効果を使った絵本があったので、そのたぐいかな、と思ったのですが、よくよく見てみるとこれは超高層ビルに囲まれた「空」であることが分かりました。まさしく「Skyscraper」の的確な訳語「摩天楼」そのものの、「天」に「触れる」建物たちが林立した結果、空の形がこんな幾何学模様になってしまうであろうという未来都市の姿を見事に表したイラストです。
そして、それはそんな未来都市をテーマにした1956年生まれのアメリカの作曲家、マイケル・ゴードンの作品「ディストピア」とも見事に呼応しています。「ディストピア」という造語は、「理想郷」という意味で使われる「ユートピア」の反対語、理想とは程遠い凶暴さや混沌、やかましさなどがきわまった未来都市を表わしているのでしょう。これは2007年にロスアンジェルス・フィルからの委嘱によって作られたもので、その「現代都市」とはまさにロスアンジェルスそのものなのだと、作曲家は語っています。
ゴードンは、なんでも「ポスト・ミニマル」という、わけの分からないジャンルの作曲家としてカテゴライズされているそうです。作曲家自身はこの作品について、「協和音と不協和音の間にある灰色の領域の探求」と述べているようですね。
これは、2008年の1月に、ロスアンジェルス・フィルの本拠地ウォルト・ディズニー・コンサートホールで行われた世界初演のライブ録音です。演奏時間が30分ほどの大作で、基本的には「ミニマル」ならではのリズム・パターンが延々と続くだけのものですが、そんな長時間の鑑賞に耐えるだけの工夫があちこちに施されています。まず、リズムの要をなす低音パートに、「エレキベース」が加わっていることで、ただのオーケストラとはちょっと違う独特のグルーヴが生まれています。さらに、そのリズムを形作る打楽器の種類がとにかく多彩、それこそメシアンのような「異国風」の金属打楽器から、ラテン・パーカッションまで加わって派手に盛り上げます。
曲の構成も、そんなにぎやかな部分だけではなく、時にはすべてのリズムをなくして弦楽器だけでまるで雅楽のようなグリッサンドを繰り広げるなどという場面も用意されています。そのようなシーンでも、バックには常に「リズム」が感じられるのが不思議。時折チューブラー・ベルと一緒に聴こえてくる金管のアコードが、何か「救い」のように感じられます。
そして、23分ほど経った頃に始まるのが、弦楽器、木管楽器、金管楽器+ピッコロという3つのパートが織りなす見事なポリフォニーです。それらは次第に終結し、最後は「シ・レ♯・ミ・ファ♯」というベースの音型が何度も繰り返される中でカット・アウトというとてもクールなエンディングを迎えます。
もう1曲、2006年にボン・ベートーヴェン音楽祭からの委嘱によって作られた「ベートーヴェンの第7交響曲を書き直してみた」という作品は、「クール」というよりは「シュール」なアイディア満載の「迷作」です。なんでも、「この交響曲が演奏された時には、当時のお客さんは『宇宙で一番やかましい音楽』と感じたはずだ」という発想から、その「やかましさ」を現代のレベルでお客さんに体験してもらおうというコンセプトのようですから。
「元ネタ」と同じように4つの部分からできていて、それぞれの楽章のテーマがかなりはっきり示されます。「第1部」などは、「第1楽章」の冒頭の4小節を延々と繰り返すなかで、弦楽器のグリッサンドなどを絡み付かせるという陳腐そのもののアイディアです。もちろん、終楽章は予想通りの「タンタカ・タカタカ」という忙しいテーマの応酬。「換骨奪胎」を絵にかいたようなありきたりの作品です。こちらもノットとバンベルク交響楽団による初演のライブ録音、曲が終わると盛大なブーイングが飛び交うのは当然のことです。

CD Artwork © Cantaloupe Music
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by jurassic_oyaji | 2015-06-05 20:33 | 現代音楽 | Comments(0)
MESSIAEN/Des Canyons aux Étoiles
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Tzimon Barto(Pf), John Ryan(Hn)
Andrew Barclay(Xylorimba), Erika Öhman(Glo)
Christoph Eschenbach/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0083




ロンドン・フィルのレーベルのジャケットを飾るのは、このオーケストラのロゴにも使われている「★」のマーク。だからというわけではありませんが、今回はメシアンの「渓谷から星たちへ...」の最新録音です。地味な曲ながら、昔から録音には恵まれていましたね。
この作品は「アメリカ」にモティーフを求めたものとされています。メシアンとアメリカとは、なんというミスマッチ、という気がしませんか?もちろん、これはメシアンが「委嘱」を受けたから作られたもの、1976年にアメリカが「建国200年」を迎えるにあたって、ニューヨークの音楽界のお金持ちから作曲を依頼されたものです。メシアンは、アメリカの原風景である「渓谷」に目を付け、実際にアメリカのユタ州にある国立公園を訪れてその自然に圧倒され、この曲を作れという声を聴いたのだそうです(それは「警告」)。
作曲は1974年に完成し、その年に初演が行われ、世界中で絶賛を博しました。そして、1975年7月にはマリウス・コンスタンの指揮、イヴォンヌ・ロリオのピアノで初めてERATOに録音されました。その国内盤のLPが手元にありますが、そのライナーノーツでは、「メシアンの最新作」を初めて紹介する喜びが、興奮気味に書き連ねられています。そういう時代だったのですね。ただ、まだまだ情報不足の面は否めず、この中で使われている珍しい楽器の紹介もおそらくそのライターさん(当時の「現代音楽」のオーソリティ)は見たことはなかったのでしょう、「エオリフォーン(風力による楽器)」とか「ジェオフォーン(砂による楽器)」などと、とんでもないことがかかれています。「砂による楽器」なんて、いったいどんなものか興味がありますね。もちろん、現在ではそんなものはすぐネットで検索して現物の写真を見ることが出来ますから、今のライターさんが書くライナーにはそんなお粗末な間違いはあり得ません。

エオリフォーン(いわゆる「ウィンド・マシーン」)


ジェオフォーン(砂ではなく、パチンコ玉みたいなものを転がします)

ま、ネットを信用し過ぎて墓穴を掘る〇クソク・ジャパンのようなところもありますがね。

さらに、現在ではそのネットでこの曲が実際に演奏しているところまで見ることが出来ます。ご覧のように、編成が意外と小さいことに驚かされます。確かなデータによると、オーケストラの人数は41人で間に合うことになります。弦楽器が全部で13人しかいないのが、その最大の要因です。もう一つのいい加減なインフォを作っている〇MVのサイトにはこんな写真が載っていますから、すっかり騙されてしまうじゃないですか。

したがって、おそらく、コンスタン以後6つ目となる今回のエッシェンバッハの録音を聴くときには、初めてそんな特殊な編成を念頭に置いてそのサウンドをチェックできるようになりました。確かに、メシアンならではのティンパニやハープといった、普通のオーケストラでは定番の楽器を欠くオーケストレーションは、まずは打楽器のインパクトに圧倒されますが、この「少ない」弦楽器が妖艶に迫っているさまこそが、この作品に独特の味を与えていることに気づきます。
例えば、8曲目の「よみがえりしものとアルデバランの歌」という、ダ・カーポ・アル・フィーネ+コーダという形をとる瞑想的な曲では、そのビブラートたっぷりの弦楽器がベースとなったサウンドが、まるでオンド・マルトノのように聴こえてきます。
この曲はほとんど「トゥーランガリラ交響曲」の別バージョンであるかのような印象を与えられるように、この作品全体が壮大な「セルフ・パロディ」であることは明白ですが、それでも10曲目の「モリツグミ」で使われている「ド・ソ・ミ・ド」というシンプルそのもののモティーフには、確かに「アメリカ」のテイストが感じられます。こんなアホみたいな音列にも、彼にしかできない和声で彩ることで「メシアン」が出来上がるという、皮肉のようなものを感じるのは、間違ってますか?

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd
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by jurassic_oyaji | 2015-05-21 21:06 | 現代音楽 | Comments(0)
SCHNITTKE/3rd Symphony
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Vladimir Jurowski/
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 485(hybrid SACD)




ライプツィヒのコンサートホール、「ゲヴァントハウス」がリニューアル・オープンした時に委嘱されたのが、この「交響曲第3番」です。そのホールで1981年11月5日に、クルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によってまずは初演が行われました。
最初の録音は、1984年のロジェストヴェンスキー盤(MELODIYA)、さらにBISの全集として1989年にはエリ・クラスの指揮によって録音されました。それ以来、この曲が録音された形跡は見当たりませんから、この2014年のユロフスキによる録音が3番目のものになるのでしょう。
なんでも、この曲を演奏するためには「111人」のメンバーが必要なのだそうです。調べてみると、弦楽器は「16.16.12.12.10」管楽器は「4.4.4.4/6.4.4.1」、それにティンパニと、5人の打楽器奏者、さらには特殊楽器としてハープ(2台)、ピアノ、チェレスタ、チェンバロ、オルガン、エレキギター、エレキベースが加わります。これらを単純に加えれば、確かに「111」になりますね。特徴的なのは、エレキギターやエレキベース、これらは、シュニトケの他の作品ではおなじみですね。チェンバロも、聴いた感じではアンプを通して演奏しているようです。
委嘱元がドイツ音楽の伝統を育んできた古都ライプツィヒですから、この曲には「ドイツ音楽」、あるいは「オーストリア音楽」が数多くサンプリングされています。それは断片的なものであったり、あるいは単なる「雰囲気」としての引用だったりですが、そのようなものがごちゃ混ぜになったコラージュとして聴く者に届く、という手法は、やはりシュニトケの得意技ですね。
第1楽章の、まるでこの世の始まりのようなおごそかさは、間違いなくワーグナーの「指輪」のオープニング、つまり、「ラインの黄金」の最初の混沌の引用なのでしょう。ただ、それはもっともっと複雑な、音楽的な秩序さえ超えてしまうほどの「混沌」を形作っているものでした。その低音を支えているのがエレキベースというのが、何とも鮮やかな印象を与えています。
第2楽章は、そんなモヤモヤ感が一掃されたとてもさわやかな音楽、と言えば聞こえはいいのですが、ミエミエのモーツァルトの模倣には、逆にそんなさわやかさの陰に隠れているどす黒い「陰謀」を感じてしまいます。もちろん、こんなあざとさがシュニトケの最大の魅力であることは言うまでもありません。最初にフルートで演奏されるときにはニ長調だったものが、最後にピアノ・ソロで「ハ長調」で弾かれることによって、しっかり「元ネタ」までも紹介していますしね。さらに、この楽章ではチェンバロによってご当地ライプツィヒの巨匠バッハの模倣まで披露するというサービスぶりです。
第3楽章も、冒頭で何やらファンファーレらしきものが聴こえますが、これがリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」のパロディだとしたら、そのセンスには驚かざるを得ません。ここでもエレキベースと、そしてエレキギターが大活躍。もちろん、エレキギターはディストーションをかけた「ロック」ではなく、あくまでクラシックの「弦楽器」として扱われているあたりが「フツー」という感じはしますが。なにか、ベートーヴェンの「エグモント」の断片が聴こえてきたのは耳の錯覚でしょうか。
第4楽章はまさにマーラーのアダージョ楽章そのものです。それはとても澄み切った静謐な世界、と思っていられるのは最初のあたりだけ、次第に音楽はクラスターの様相を高めてきて、それはほとんどリゲティか、という濃厚なものに変わります。それが最後はフルート・ソロで終わるのは、もしかしたら「どんでん返し」のつもりだったのでしょうか。
そんな振幅の大きい、ある意味野蛮なサウンドが、このPOLYHYMNIAの録音ではかなり「お上品」なものになってしまっています。もっとマッシブな音を聴きたかったものです。

SACD Artwork © Deutschlandradio/Pentatone Music B.V.
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by jurassic_oyaji | 2015-04-06 20:45 | 現代音楽 | Comments(0)
ROSING-SCHOW/Alliages
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Helen Gjerris(MS), Jeanette Balland(Sax)
Mathias Reumert(Perc), Jesper Sivebreak(Guit)
Andreas Borrengaard(Acc), Asbjørn Nørgaard(Va)
Hélèna Navasse, Svend Melbye(Fl)
DACAPO/8.226580




デンマークの作曲家、ニルス・ロシング=スコウの小規模な編成による作品を集めたアルバムです。1954年に生まれたロシング=スコウは、コペンハーゲン大学の音楽学科を経て王立音楽アカデミーで作曲を学びますが、その後のフランスでのクセナキスのユーピック・アトリエにおける体験が、彼の作風に大きな影響を与えることになりました。ちなみにユーピック(UPIC)とはタブレットで線を描いて音楽を作りだすコンピューターのことで、現金が送れない郵便物ではありません(それは「ユーパック」)。
このアルバムのタイトル「Alliages(合金)」は、ここで演奏されている2つの作品のタイトルでもありますが、そんなフランス的なものと、北欧的な資質の「融合」という作曲家自身のスタイルをあらわすタームという意味も持っているのでしょう。
その「合金」の「1」は2010年に作られた、テナー・サックスとアコーディオンのための作品です。この2つの楽器は付かず離れずというスタンスと取り合いながら、ある時は緊張感あふれる時間を共有し、ある時はもっと開放された軽やかな時間も提供してくれています。ここで、録音としての空間の処理が非常にユニークに感じられるのは、アコーディオンの音像を左右に広々と設定しているために、まるで2つの楽器で演奏されているように聴こえてしまうからなのでしょうか。というか、ちょっと一人の演奏者とは思えないようなところもあるので、もしかしたら多重録音のような気もするのですが、それは知りようがありません。ここでは、アコーディオンの「空気抜き」の音までもが音素材として扱われていますね。
もう一つの「合金」は、なぜか「1」より前の2008年に作られたのにタイトルは「2」となっています。こちらはアコーディオンとヴィオラという組み合わせ、「1」よりもリズミカルな部分が多く、それぞれの楽器が何か真剣勝負を挑んでいるような切迫感があります。それとは別に、互いに寄り添った「ホモフォニック」な部分が挟まって、対比を見せています。
フルートのための作品も2つ。まずは、2014年に行われたカール・ニルセン国際フルートコンクールのセミ・ファイナルでの課題曲(ファイナルの課題曲は当然ニルセンの協奏曲)として作られた「...aus atem...(...息によって...)」というソロ・フルートのための曲です。まるで尺八のようなムラ息の多い音色などが要求されている、単なるテクニックではなくもっと根源的なスキルが問われる作品です。多くの現代奏法が用いられていますが、それらにきちんとした意味を持たせられるかどうかが、審査の上でのポイントになっていたのではないでしょうか。武満の「Voice」にも匹敵するほどの深みを持った作品です。
もう1曲は1991年の「Ritus(儀式)I」です。こちらは打楽器奏者とのデュオ、最初はビブラフォンやグロッケンのような鍵盤系とフルートがまったりとモーダルなフレーズで絡み合い、呪術的な雰囲気を醸し出しますが、フルートの高音のパルスを合図に、ノリのいいドラムが登場、狂ったように激しいお祭りの踊りが始まります。
声のための作品も収められています。2007年に作られた「Nanu(熊)」というのは、グリーンランド語のタイトルで、音楽もグリーンランドの素材が用いられています。声といっしょにアルト・サックスがリズミカルな合いの手を入れ、バックでは打楽器奏者が「石」を叩いて軽やかなビートを刻んでいます。
2013年に作られた「Three Simple Songs」では、3人のデンマークの詩人のテキストによる、ほとんど断片のように切り詰められた「歌」が歌われます。これは、作曲家の若い時代に出会った「シンプル」な様式の音楽の回顧なのだそうです。
ここで伴奏をしていたギターによる「Lines」という、この言葉にさまざまの意味を持たせた3つの曲から成るやはり2013年の作品も聴くことが出来ます。パーカッシブな速弾きがあったかと思うと、グレゴリアン・チャントの引用があったりと、興味の尽きない音楽です。

CD Artwork © Dacapo Records
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by jurassic_oyaji | 2015-04-03 21:11 | 現代音楽 | Comments(0)
KANNO/Light, Water, Rainbow...
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小川典子(Pf)
BIS/SACD-2075(hybrid SACD)




菅野由弘さんは、1953年生まれ、東京藝術大学の修士課程を1980年に卒業されています。現在は早稲田大学の教授を務められ、「基幹理工学部表現工学科」というところで研究室を主宰されています。作曲家としては、とても幅広いジャンルでの作品を発表しています。それは「芸術音楽」にはとどまらず、映画やドラマの音楽にまで及んでいます。「Nコン」の課題曲まで作っているんですね。
このアルバムでは、小川典子さんのピアノで、その小川さんからの委嘱作品などを中心に聴くことができます。タイトルにもある「光の粒子」、「水の粒子」、「虹の粒子」という3つの作品が、その委嘱作、これらはミューザ川崎シンフォニーホールとの共同委嘱で作られたもので、2009年、2010年、2011年にそのホールで開催された小川さんのリサイタルでそれぞれ初演されています。
この「粒子三部作」では、日本の「原始的」な発音体がピアノと一緒に演奏されるという画期的な試みが行われているのだそうです。それはピアノが作り出す西洋音楽の倍音の中に、それとはまったく異なる体系の音源を加えて、全く新しい音響を作り出しているのだとか。そのために用意されたのは、「南部鈴」、「明珍火箸」、「歌舞伎オルゴール」というそれぞれ日本独自のサウンドを生み出す音源です。「南部鈴」は岩手県の名産、鋳鉄による鈴で、独特の澄み切った音を奏でます。「明珍火箸」というのも、やはり鉄でできた箸(そう言えば「火箸」の現物にはしばしの間お目にかかっていないなぁ)です。2本の箸が糸でつながっていますから、その糸をつまんで振れば箸同士がぶつかって音が出ます。そして、「歌舞伎オルゴール」という、古典芸能のアイテムにしては何ともショッキングなネーミングが印象的な「楽器」は、仏教での読経の際に使われる「キン」という丸い小さな鐘を、大きさの異なるいくつかのものを並べて固定したものです。歌舞伎ではこれで虫の鳴き声などを表現するのだそうです。
そんな、言ってみれば西洋音楽と日本の伝統工芸品のコラボレーションは、確かにサウンド的にはそれなりの効果は感じられますが、それが音楽としてどうなのか、という疑問は残ります。というのも、このあたりの彼の作風は、もはや確固としたスタイルが出来上がってしまっているために、そこにいくら「チーン」とか「カーン」という異質な音が入っても、それ自体には何の変化をもたらしてはいないように思えてしまうのですよ。その彼のスタイルというのは、ほとんどドビュッシーかと思われるようなフレーズが、とても細かい音(それが「粒子」なのでしょうか)によって紡がれるというもの。しかも、そのフレーズには見事なまでの整合性があって、きっちり先が見通せるというプリミティブなところがあるのですね。正直、この作品群からはただ時間を音符で埋めているという「現象」しか感じることはできませんでした。
この「三部作」の前後に作られた「天使のはしご」(2006年)と「月夜の虹」(2012年)という作品では、ピアノやトイ・ピアノの音をリング・モジュレーターで変調しています。これは、大昔のプログレ・ロックの常套手段でしたね。それはそれで懐かしさは感じるものの、「それで?」という感はぬぐえません。それよりも、武満徹の没後10周年のために作られた「天使のはしご」では、その武満からの引用よりは、彼がよく引用していたドビュッシーや、さらにその「元ネタ」のワーグナーまでが聴こえてくるのには、笑ってしまいました。
このアルバムの中では、最後に演奏されている、1985年に押井守の「天使のたまご」というアニメのために作られた「天使のための前奏曲」というほんの3分ほどのピアノ・ソロが、もっとも心を打たれるものでした。この、シンプルさの中に秘められた油断できないモードに見られるような閃きを、この作曲家はいつの間にかなくしてしまっていたのではないでしょうか。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2015-03-29 20:12 | 現代音楽 | Comments(0)
XENAKIS/Pléïades, Rebonds
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加藤訓子(Per)
LINN/CKD 595(hybrid SACD)




今までは、このレーベルにペルトやライヒといった「ミニマリスト」たちの打楽器作品を録音していた加藤訓子さんが、ついにクセナキスに挑戦してくれました。今回も加藤さん自身の日本語によるライナーノーツが読めるというのも、楽しみです。ただ、このライナー、一部に編集ミスがありますから、ご注意を。
ここで彼女が選んだ曲は、「プレイアデス」と「ルボン」です。「ルボン」は一人の打楽器奏者のための作品ですが、「プレイアデス」はストラスブール・パーカッション・アンサンブルという、6人の打楽器奏者のグループのために作られたものですから、当然一人では演奏することはできません。そこは、ライヒなどではすっかり常套手段となった多重録音で、一人で6人分のパートを演奏しています。これがまず驚異的。ライヒのような単純なフレーズの繰り返しならいざ知らず、クセナキスのもう真っ黒けになるほどたくさんの音符にまみれていて、1回演奏するだけで死にそうになる楽譜を、ひたすら前の自分の録音を聴きながらもう5回も演奏するなんて、気の遠くなるような作業なのではないでしょうか。
彼女は、そんなとんでもないことを難なくやり遂げただけではなく、その「映像」まで作ってしまいました。それが、SACDと一緒にパックされているDVDです。ここでは、なんと「6人」の「動く」加藤さんがこの難曲を演奏している様子を見ることが出来るのです。それは、なんともスリリングな体験でした。もちろん、音はSACDで聴けるものと全く同じものですが、それぞれの加藤さんはそれにきっちりシンクロさせてカメラの前で演奏しています(たまに音とずれていたりしているのはご愛嬌)。それを6人分撮影して、さらにそれらを合成、おそらく、こちらの方が録音よりも数倍手間がかかる作業だったのではないでしょうか。
その、横一列に並んだ加藤さんたちは、彼女たちのトレードマークであるキャミソール姿で、肩から先の腕を露出させています。その12本の腕が、クセナキスのスコアに従って微妙にズレながら激しく動き回る様子は、まるで一編のダンス、そのダイナミックな動きには思わず見入ってしまいます。特に、最後の「Peaux」という、皮を張った太鼓類を演奏するパートでは、まるで和太鼓を叩く時のようにむき出しの腕を高く挙げるポーズが思いっきりセクシー。和太鼓奏者たちがなぜ褌いっちょうで演奏しているのかが分かったような気がします。この曲の最後近くで、6人が完全にユニゾンになるところなどは、見ものですよ。
こんなものを見てしまうと、音だけのSACDでは物足りない気になってしまいます。音自体は、SACDの方が格段に繊細な音で、音色の違いなどがはっきり聴き分けられるものなのですが、トータルの情報量としては映像の方が圧倒的に多くなっています。打楽器の場合は、このような「肉体」とのコラボレーションで、与えられる印象はさらに強烈になって行くのでしょう。
ここでDVDになっているのは、「プレイアデス」の4つの曲の中の2番目から4番目の3曲だけです。それぞれに扱う楽器が異なっているので映像も作りやすいのでしょうが、1曲目の「Mélanges」はそれらの楽器が全部登場しますから、それを6人分並べるのは大変だったのでしょう。
もう1つの作品、「ルボン」は、聴いただけではとても一人で演奏しているとは思えないほどのたくさんの打楽器が使われています。あんな映像を見てしまうと、これも多重録音かも、などと勘繰られてしまいそうですが、もちろん加藤さんは一人で演奏しているはずです。というか、この作品は彼女にとっての一つの「目標」なのだそうですね。これを完璧に演奏できるプレーヤーになりたいと、常々思っているのだとか。これをDVDで見られたら、彼女の本当の凄さが分かるのかもしれません。もちろん、映像はパンツ姿(それは「ズボン」)。

SACD Artwork © Linn Records
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by jurassic_oyaji | 2015-03-25 20:41 | 現代音楽 | Comments(0)
ADAMS/Become Ocean




Ludovic Morlot/
Seattle Symphony
CANTALOUPE/CA21101




今年のグラミー賞で、クラシックの「現代音楽」の部門での受賞作となったのが、このアルバムです。このレーベルを扱っている国内の代理店ではここぞとばかりにそれをセールスに結び付けようと血眼になっていることでしょう。
この「Become Ocean(大いなる海に成れ)」という曲を作った人はジョン・アダムズという作曲家。実は、もう一つのクラシックのカテゴリー「最優秀管弦楽演奏賞」で受賞した曲の作曲家も同じ名前ですが、この二人は全くの赤の他人です。「Become Ocean」は「ジョン・ルーサー・アダムズ」ですが、もう一人は「ドクター・アトミック」などで有名な「ジョン・クーリッジ・アダムズ」と、ミドルネームが違っています。なんという紛らわしさ。
1953年生まれの「ルーサー」は(ちなみに「クーリッジ」は1947年生まれ)カリフォルニア芸術大学で作曲を学んだ、「クーリッジ」と同じく「ミニマリスト」という範疇で呼ばれる作曲家です。この、ジョン・ケージのメゾスティックス(何行かの単語を少しずらしながら重ね上げ、そこを縦に読んで新たな単語を生み出すというかなりマゾヒスティックな一種の言葉遊び)からタイトルを引用したという「Become Ocean」という作品は、2013年にここで演奏しているシアトル交響楽団とその音楽監督のルドヴィック・モルローからの委嘱によって作られました。その年の6月にシアトルで初演され、翌年5月にはカーネギー・ホールでも演奏されています。そして、2014年のピューリッツァー賞の音楽部門を受賞しました。
タイトルを聞いただけで、ドビュッシーの「海」あたりが頭をよぎります。しかし、なんたってピューリッツァー賞ですから、そんな分かりやすいことなんかやるわけはないな、と、ふつうは思うはずでが、そのオープニングときたら、雰囲気がそのドビュッシーそっくりでした。
さらに、それからの展開は、常に何か規則的な音型が続いているのだけれども、いつの間にかそれが少しずつ変わっていってそのうちまったく別の音型になってしまうという、まさにスティーヴ・ライヒそのもののような音楽になるというところで、ある意味「型にはまった」ものに安住している感は否めません
ただ、ライヒとは違った、広々としたフレーズと和声で描かれる世界は、かなり魅力的ではあります。もちろん、それは、例えばハリウッドの映画音楽(たとえば「ゼロ・グラビティ」)のようなテイストを持っていることで、真のオリジナリティからはかなり遠いところにあることは否定できないでしょう。
したがって、この作品でそれまでにない特別なものを見出すとすれば、それは、とてもユニークな時間軸の設定、というものではないでしょうか。この曲の実際の演奏時間は42分2秒。まあ、限りなく42分ちょうどに近い長さです。そして、その時間軸の中では、きっちり14分ごとに音が無くなる部分があって、さらにその途中のちょうど真ん中、7分のところにピークが来ています。つまり、無音の状態から7分かけてクライマックスを作り、そこからさらに7分かけて無音状態に戻る、というパターンが正確に3回繰り返されているのですね。おそらく、このことによって作曲家は「波」を描写しているつもりなのでしょう。しかし、そのあまりに正確な時間の歩みには、何か人間業を超えた「力」を感じないわけにはいきません。
そう、この曲を作るにあたっては、間違いなくコンピューターが使用されているのでしょう。それも、クセナキスの時代のものではなく、今では「非クラシック」の分野で日常的に使われているDTMの世界です。ですからそれは完成した時にはその音源によって「音」はきっちり聴くことができるようになっているはずです。それを、80人以上の生身の人間に演奏させているということが、もしかしたらピューリッツァーなりグラミーの審査員のお眼鏡にかなったのかもしれません。アメリカというのは、そういうところです。
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by jurassic_oyaji | 2015-02-11 22:58 | 現代音楽 | Comments(0)
SKJELBRED/Waves & Interruptions
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Erik Raude(Perc)
Ida Bryhn(Va)
Tom Ottar Andreassen(Fl)
Thomas Kjekstad(Guit)
2L/2L-103-PABD(BD-A)




この2Lというレーベルの品番は、数字のあとにSACDなら「SACD」、LPなら「LP」と、それをあらわす文字を入れるというわかりやすいものです。さらに同じ音源をSACDとBD-Aの2種類のディスクとして同じパッケージに入れて発売した時の品番は「SABD」でした。確かに、両方とも入っているぞ、という気持ちがとてもよく伝わってくる品番ですね。そして、BD-Aを一本立ちさせた、今回のようなパッケージでは、「PABD」という文字が付いていました。これは、「Pure Audio Blu-ray Disc」の略なのでしょうね。
もちろん、2Lのことですから、ここでのスペックは24bit/192kHzという、BD-Aの規格としては最高位のものでした。元のDXDが24bit/352.8kHzですから、これでオリジナルの録音にかなり近いものを再生できるようにはなっているのではないでしょうか。やはりこれからはBD-Aだ、というのが2Lの当座の結論なのだ、と思いたいものです。
今回は、ビョルン・ボルスタ・シェルブレードという、1970年生まれのノルウェーの作曲家の作品を集めたアルバムです。雨傘とは関係ありません(それは「シェルブール」)が、こんな顔をした人、去年の今頃世間を騒がせていた「あの作曲家」になんとなく雰囲気が似ていませんか?

その「作曲家」も含めて、現代の作曲家というものは「自分の作品」に関しては饒舌な人が多いのではないでしょうか。作曲の意図を的確に伝えたいという思いからなのでしょうが、それを述べている文章自体がかなり難解だったりしますから、その効果はいまいちのことが多いものです。というか、彼らはなにか無理をして語りたがる傾向があるのだと思うのは、単なる偏見でしょうか。
その点、このシェルブレードさんは、このアルバム中のそれぞれの作品については何一つコメントを寄せてはいない、という潔さです。いや、それは単に作曲家が音楽を言葉にすることが出来ない、というだけのことなのかもしれませんが。
ここでは、「2001年から2013年までの間に作られた」とされる6つの曲が録音されていますが、それぞれがいったい何年に作られたか、という基本的なデータまで省かれているというのも、ちょっと不思議な感じです。そのぐらいは書いておいたっていいのでは、とは思いませんか?
そのうちの5曲には、マリンバやビブラフォン、あるいはクロタルといった「鍵盤打楽器」がフィーチャーされていて、それを演奏しているアイリク・ラウデという人がメインのアーティストとしての扱いです。
この人の奏でるマリンバは、普通は「木琴」と呼ばれるはずのこの楽器から、想像もできないほどの幅広い可能性を引き出していました。たくさんの音符を、人間業とは思えないほどの速さで弾きまくることなどはすでに当たり前(低音部と高音部を同時に弾いている時に、腕が5メートルぐらいに伸びていると感じるのは、左右いっぱいに音場が広がっているせいでしょう)、なにより心にしみるのは、弓を使ってとても滑らかなエンヴェロープを聴かせてくれている部分でしょう。なんという繊細さ。彼はこの楽器から、まるで「雅楽」のような味まで出しているのですからね。
そこに、曲に応じて様々なスタイルで絡んでいるのが、ヴィオラ、フルート、ギターの3つの楽器です。ヴィオラは1人だけで演奏する曲も与えられていますが、それがまさにヴァイオリンでもチェロでもないヴィオラという楽器である必然性が存分に感じられるものでした。同じことを表現するのに、フルーティストは、C管、アルト・フルート、バス・フルートの3種を使い分けなければいけなかったというのに。そしてギターは、自分自身では強い主張を持たない分、フルートの「影」としての存在感を見せつけていました。
作品?これらの「演奏」を成立させるのに、この作曲家がどれだけの貢献をしていたのか、さっきの顔写真から「邪推」するほど不謹慎ではないつもりですが・・・。もちろん、録音に関しては、その貢献度は作曲家の比ではありません。

BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2015-02-03 23:38 | 現代音楽 | Comments(0)
PENDERECKI/The Complete Symphonies
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Soloists
Krzysztof Penderecki/
The Choir of the Podlasie Opera and Philharmonic in Bialystok
The Polish Sinfonia Iuventus Orchestra
DUX/DUX 0947




ペンデレツキが今までに作った交響曲をすべて録音していたのは、アントニ・ヴィットだけだったのでしょう。彼はNAXOSで1998年から2006年までの間にカトヴィツェ放送交響楽団とワルシャワ・フィルの2つのオーケストラによって「全集」を完成させました。2012年にはそれをまとめたボックスもリリースされています。おそらく、これが最初で最後の全集だと思っていたら、2013年になってなんと作曲家が自ら指揮をした全集が登場したではありませんか。これはある意味ショッキングなことでした。なんたってまだまだこれからも作曲活動は続けていけるはずの年齢なのに、ここで自ら「全集」を作ったということは、もはやこれ以上はこのジャンルでの新作は期待するな、というメッセージと誰しもが受け止めるはずですからね。
ですから、彼が後世に残した「交響曲」は全部で「7曲」ということになりました。なぜか、最後の交響曲が「8番」なのは、「6番」がまだ「作曲中」だからです。しかし、これも、こんな全集を出してしまっては、もはやそれが完成することは決してないでしょう。
ヴィットの場合は、全集を完成させるのに8年かかりましたが、ペンデレツキは2010年の9月から2012年の11月までですから、ほぼ丸2年で完成してしまったことになります。
最後の「8番」が完成したのは2005年で、その直後の2006年にヴィットが録音したのですが、2007年になって、作曲家はこの曲を改訂してしまいます。ご存知のように、この曲は交響曲というよりはオーケストラ伴奏による歌曲集といった趣が強いのですが、その12曲あった「歌曲」に3曲追加して15曲にしたのです。ですから、現在このバージョンが聴けるのはペンデレツキ盤しかないはずです。
今回の全集では、演奏しているオーケストラは「ポーランド青年交響楽団」という団体だけ。録音もかなりすっきりした音に仕上がっていて、これはもうまさに、「ロマンティスト」ペンデレツキの面目躍如といった感じの、誰にも好かれる「名曲仕様」の作られ方になっています。
しかし、そんな中でも1973年に作られた「1番」だけは、他の交響曲とははっきり異なる作風を示しています。このボックスのライナーによると、この作品はペンデレツキにとっては「アヴァン・ギャルドに対する総括」という意味を持っていたのだそうです。つまり、この曲を作ったことによって、それまでの「アヴァン・ギャルド」な作風とは完全に手を切って、新たな「ロマンティック」な作風への「転換」を図ったのだ、と、本人が語っていたというのですよ。いやあ、うすうす感じてはいましたが、まさか本人がここまではっきり自らの「変節」を語っていたとは。
ですから、この全集で注目すべきは、そんなペンデレツキが指揮者として、言ってみれば「切り捨てた」はずの過去の自分とどのように対峙するのか、という点なのではないでしょうか。そこで、その「1番」を、ヴィットが1999年に録音したものと、今回の自演盤とで聴き比べてみると、やはりその違いは歴然たるものがありました。ヴィット盤ではバンバン感じられた、まるで背筋が凍りつくような不気味さが、自演盤では全く姿を消しているのです。さらに、もっと重要な、楽譜そのものを変えている部分まで見つかりました。それは曲全体のエンディング。ヴィットによるオリジナル(だと思います)では、最後に残るのはラチェットとバスドラムという音程を持たない打楽器だけのはずなのに、自演盤ではそのバスドラムに重なってコントラバスが明確な「A」の音を出しているのですね。もはやロマンティストとなってしまったペンデレツキにとっては、たとえ自作でも音程(=調性)が定かではない終わり方をするのは許せなかったのでしょうか。そんな作曲家の傲慢さこそが、最も許してはいけないもののはずなのに。

CD Artwork © DUX Recording Producers
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by jurassic_oyaji | 2015-01-30 20:55 | 現代音楽 | Comments(0)
SIMPSON/A Crown of Stars, SCHNITTKE/Requiem
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Lisa Edwards-Burrs(Sop)
Joseph Dietrich(Ten)
Gisèle Becker/
Cantate Chamber Singers
The Maryland State Boychoir
ALBANY/TROY1358




シュニトケの「レクイエム」の新しい録音ということで入手したCDですが、ここではどちらかというとメインはカップリングの「A Crown of Stars」という世界初録音の作品だったようです。これは、アメリカの作曲家アンドリュー・アール・シンプソンが、ここで演奏しているカンターテ・チェンバー・シンガーズの委嘱によって作曲したもので、2006年にこの合唱団による世界初演が行われています。
タイトルの「星の冠」とは、ギリシャ神話に登場するバッカス(ディオニソス)とアリアドネの物語に由来したものです。この二人は、あのリヒャルト・シュトラウスのオペラ、「ナクソス島のアリアドネ」でもおなじみですね。アリアドネは恋人のテセウスと一緒にナクソス島に逃げてきますが、なぜかテセウスは彼女をおいたままにして島から去ってしまいます。「ナクソス」というのは有名なレコード会社ですが、そこの女子社員もこんな風にカレシに逃げられてしまうものなのでしょうか。ちょっと縁起の悪い社名ですね。しかし、アリアドネの場合は、そこにやってきたバッカスとまた恋に落ち、結婚してしまうのですから、本当はその女子社員もカレシを裏切って他のオトコに走っていたんですよ。
と、「まちがいギリシャ神話」に脱線しましたが、そのアリアドネがバッカスと結婚する時にプレゼントされ、「ありがとね」と受け取ったものが、この「星の冠」だったのですね。ジャケットに使われているフランスの画家、ウスターシュ・ル・シュウールの「バッカスとアリアドネ」という絵画の中で、男が女の頭上に掲げているのが、その現物です。なんでも、これがアリアドネの死後には天に昇って「かんむり座」になったのだとか。ロマンティックですね。

そう、この作品はサブタイトルが「3部から成る結婚オラトリオ」とあるように、結婚を賛美するというおめでたい曲だったのですよ。それをよりによって死者を悼む「レクイエム」とカップリングさせるという神経は、ユニークというか、理解不能というか。
ピアニストやオルガニストとしても活躍している1967年生まれの作曲家のシンプソンには、オペラや室内楽から映画音楽、さらにはフォーク・ミュージックまで、多方面の作品があります。この作品の制作にあたっては、古典文学者である妻の協力によって、古代ギリシャ語から翻訳されたテキストなどを用いているのだそうです。
彼の音楽は、クラシックの範疇には収まらないさまざまのジャンルがルーツになっているようですので、2人のソリスト、混声合唱、児童合唱、13人のミュージシャンによるアンサンブルから成るこの作品では、まず「ディキシーランド・ジャズ」で始まったからと言って驚く必要はありません。というか、オープニングでいきなりそんなインパクトを与えた割には、それ以後は、例えばジョン・ラッターやボブ・チルコットのようなありがちの音楽が続きます。それなりのメッセージが受け止められるものも有りますが、なにかよそよそしい感じが付きまとうのは、演奏している合唱団のスキルのせいなのでしょう。そんな中で、第1部の最後に置かれた児童合唱のピース「Will There Be Any Stars in My Crown?」が、伝承曲のような素朴な味を出していましたね。
そして、お目当てのシュニトケの「レクイエム」が始まると、それはやはり今まで聴いていた「星の冠」とはちょっと次元の異なるものであることに気づきます。こちらも言ってみれば「なんでもあり」の音楽には違いないのですが、やはり「格」が違うというか、放射される「情念」のようなものが根本から違っていることを痛感させられます。合唱団も、同じ団体とは思えないような緻密さ(それでもかなり雑ではありますが)を見せていますし。この作品はもう何度も聴いていたのに、例えば「Sanctus」でのエレキ・ベースの巧妙な使い方などには、改めて感心させられます。

CD Artwork © Albany Records
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by jurassic_oyaji | 2015-01-28 20:48 | 現代音楽 | Comments(0)