おやぢの部屋2
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カテゴリ:合唱( 650 )
BOKSAY/Liturgy of St. John Chrysostom




Tamás Bubnó/
St. Ephraim Byzantine Male Choir
HUNGAROTON/HCD 32315



この曲を作ったヤーノシュ・ボクシャイというハンガリー人の名前は、その引っ込み思案な性格(ぼ、ぼく、シャイなんです・・・)のため(ではないだろう)、おそらく知っている人は誰もいないことでしょう。もちろん、私も初めて聞きました。1874年に、現在ではウクライナ領となっているフストという町の敬虔な正教徒の家に生まれたボクシャイさん、長じて教会での司祭や聖歌隊の指揮者を務めるようになった、いわば聖職者でした。そして、正教の典礼音楽として、以前ラフマニノフのものをご紹介した事のある「聖クリソストムの礼拝」を10曲も作ったという作曲家でもありました。そのうちの4曲が現在まで残っているそうなのですが、その中の男声合唱のために1921年に作られたものが、今回自筆稿を用いて2004年5月に録音されました。もちろんこれが「World Premiere Recording」となります。
この曲で特徴的なのは、男声パートだけの男声合唱で歌われるという事です。変な言い方ですが、さっきのラフマニノフの場合には、パートとしての「女声」はあるのですが、典礼の際に女性が歌う事が許されないという制約のため、そのパートは少年によって、つまり、全員男声によって歌われていました。しかし、このボクシャイの場合は最高音域がテナーという、本来の意味での「男声合唱」、かなり禁欲的な響きがもたらされるものとなっています。
例によって、中心となるのは「Litany」と呼ばれる司祭と合唱の掛け合いです。その司祭、いわばソリストを、ここでは指揮者のブブノーが努めています。というより、ボクシャイ自身がそうであったように、「司祭」と「(合唱の)指揮者」というのは同じ人が努めるのが、一つの習慣だったのでしょう。そのブブノーのソロ、もちろんベル・カントというわけにはいきませんが、かなり垢抜けたものであったのは、この手の曲ではラフマニノフのものしか知らないものとしては、ちょっと意外な驚きでした。それは、おそらく曲の作られ方にも関係しているのでしょう。いわゆるビザンチンの典礼音楽といったものよりは、ごく普通のヨーロッパの中心で綿々と続いている「古典音楽」のテイストが、この曲には非常に色濃く反映されているのです。ちょうど真ん中辺で聴かれる「The Creed」などが、そんな軽やかな「合唱曲」の典型的なものでしょう。
そのような、ある種爽やかな印象を持ったのは、ここで演奏している合唱団から、いわゆる「スラヴ的」な泥臭い響きではなく、かなり洗練されたものを求めているであろう姿勢を感じたからなのでしょう。ブダペストで2002年に創設されたという総勢13人の聖エフレム・ビザンチン男声合唱団からは、地を這うような超低音のベースや、叫びに近いテナーが聴かれる事は決してありません。そこにあるのはまるで日本の大学の男声合唱団のようなごく素直な発声から生まれる良く溶け合った響きです。その方面の音楽が好きな方には、喜ばれるものかもしれません。ただ、一応プロフェッショナルな団体とは言っていますが、しばしばテナー系の生の声が聞こえたり、アンサンブルの点で必ずしも充分なトレーニングがなされていないと感じられたのが、少し残念です。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-07 19:49 | 合唱 | Comments(0)
MacMILLAN/Seven Last Words from the Cross



Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA 67460



1959年生まれのイギリス、というかスコットランドの作曲家、ジェームズ・マクミランの合唱曲集、1993年に作られたタイトル曲の他に、これが初録音となる「聖母マリアのお告げ」(1997)と、「テ・デウム」(2001)が収録されています。
この世代で多くの宗教曲を作っている作曲家では、ジョン・タヴナーやもう少し上ではアルヴォ・ペルトが有名ですね。しかし、殆どヒーリングと変わらないほどの穏やかな風景の表出に終始している彼らに対して、マクミランの場合は、そのようないわゆる「聖なるミニマリスト」とは一線を画した、もっと厳しい作風を見ることが出来るはずです。彼にとって、「ミニマリスト」たちが築き上げた「安定した」技法は、数多くの表現手段の一つに過ぎません。そこにさまざまの技法を組み合わせることによって、ただの綺麗事ではない、彼が言うところの「喜びから悲劇までが存在する人間の日常生活」の諸相を、宗教音楽に於いても表現しているのです。
「十字架上の七つの言葉」の第1曲目で、そのようなマクミランの語法が明らかになります。ひっそりとした静寂の中から立ち上るかすかな弦楽合奏に伴われて、まさにイノセントそのものの女声合唱が聞こえてきますが、これは、まさにペルトあたりが用意する典型的な風景。しかし、しばらくしてその平穏なたたずまいは、リズミカルで攻撃的という全く異質のテイストを持つ合唱によって一変します。オーケストラ(弦楽合奏)が奏でるのも、また別の音楽、ここでは、相容れることのない3つの要素が独立してそれぞれの存在を主張するという、実にスリリングな光景を味わうことが出来るのです。
2曲目では、冒頭ア・カペラの合唱のとてつもない迫力にビックリさせられることになります。同じ歌詞で繰り返される短いモティーフが繰り返されるたびに微妙に味わいを変えるのが、とても魅力的です。それにしても、前の曲の全くキャラクターの異なるパートの歌い分けと言い、この曲での度肝を抜くような殆ど「叫び」に近い、それでいて完璧なハーモニーを持つ歌い方といい、この合唱団の表現力の幅の広さには驚かされます。時折見られる、スコットランドに固有の旋法(まるで、中世の音楽のような雰囲気を持っています)も、この合唱団の手にかかると見事にその土着性が失われずに新たな主張が生まれます。
オーケストラも、時には合唱に寄り添い、時にはことさら異質の要素として振る舞うという縦横無尽の活躍、殆ど「クラスター」に近いものでも、この音楽の中では確かな存在を見せています。そして迎えるエンディング、高音にシフトした繊細な弦楽器たちは、さまざまな過程を経て一度は終止形を迎えますが、それは音楽の終わりではありませんでした。その後に続く解決の出来ないアコード、そう、それはあたかもキリスト自身のため息でもあるかのように、永遠に終わることはないのかもしれないと思わせられるほど、延々と繰り返されるのです。
2002年の「ゴールデン・ジュビリー」のために作られた、オルガンと合唱のための「テ・デウム」では、まるでギリシャ正教のような(これは、タヴナーのツール)輪郭のはっきりした要素が加わります。この曲でも、オルガンによるエンディングには、ちょっと期待を裏切られるような新鮮な驚きが潜んでいます。このベジタリアンの作曲家(それは「ニクイラン」)、レイトン指揮のポリフォニーという最高の演奏を得て、確かに私の琴線に触れるものとなりました。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-31 20:06 | 合唱 | Comments(0)
HASSE/Requiem



Hans-Christoph Rademann/
Dresdner Kammerchor
Dresdner Barockorchester
CARUS/83.175



石井宏さんの快著「反音楽史」によれば、ヨハン・アドルフ・ハッセは「ドイツ人によって音楽史から抹殺されてしまった作曲家」の代表ということになります。ドイツ人による「偏った」音楽史では、生涯に74曲ものイタリア・オペラを作った作曲家は、ドイツ人であっても正当に評価されることはない、というのが、石井さんの見解なのでしょう。そりゃあ、半纏みたいなものを着てれば、そうも思いたくなるでしょう(それは「ハッピ」)。そのハッセが作った「レクイエム変ホ長調」の世界初録音盤です。
1699年、北ドイツ、ハンブルク近郊のベルゲドルフという町に生まれたハッセは、もともとはテノール歌手としてハンブルクの歌劇場で活躍していたのですが、次第に作曲にも手を染めるようになり、本格的にイタリア・オペラを学ぶために、1723年にイタリアへ留学します。1724年にナポリでアレッサンドロ・スカルラッティに師事しますが、そこでたちまち頭角を現し、師匠をもしのぐ超人気オペラ作曲家として大成功をおさめるのです。1730年にはヴェネツィアへ移り、ファウスティーナ・ボルドーニというイタリア人のプリマ・ドンナと結婚し、文字通り「イタリアの血」を獲得します。
1733年にハッセは故郷のドイツへ戻り、ドレスデンの宮廷楽長に就任します(ここは、現在のドレスデン・シュターツカペレ。実は彼が就任する200年近く前から存在していた「楽団」なのですから、その歴史はすごいものがあります)。ハッセはここで、1763年に庇護者であったザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト二世が亡くなるまで、宮廷楽長を務めました。そのアウグスト二世の葬儀のために作られたのが「レクイエムハ長調」、こちらはすでにいくつかの録音が出ています。今回の「変ホ長調」は、アウグスト二世の後を継いだフリードリッヒ・クリスティアンが突然亡くなってしまったために、1764年に作られたものです。ただ、「Sanctus」と「Agnus Dei」は、以前に作られていた「変ロ長調」のレクイエムのものが使われています。そちらも聴いてみたいものです(オペラ同様、ハッセは宗教曲もたくさん作っていて、ミサとレクイエムを合わせると、全部で25曲もあるそうです)。
曲は40分程度の長さを持ち、合唱とソロ、あるいはアンサンブルが交替して現れるというものです。「Requiem」の中間部「Te decet hymnus」と、「Agnus Dei」の後半「Lux aeterna」で、男声だけでグレゴリア聖歌を歌っているというのが、ちょっと珍しいところでしょうか。「Dies irae」以外の合唱はあまり印象に残らない軽い作風、その分、ソロには力が入っていて、長年オペラで培われたリリシズムが、非常に魅力的です。中でも、アルトソロ(本来はカストラート)によって歌われる「Lacrimosa」は、深い叙情をたたえた名曲です。先日のミヒャエル・ハイドンの「ガセビア」ではありませんが、これはあのモーツァルトも聴いていた可能性はあり、彼の作品に影響を与えたかもしれないと思えるほどの類似性が認められますよ(そう思うのは私だけかもしれませんが)。
このレーベルの常連ラーデマンが、20年前、まだ学生の頃作ったというドレスデン室内合唱団は、特に男声を中心にまとまりのある柔らかい響きを聴かせてくれています。曲の性格によるものかもしれませんが、表現を強く前に出すというよりは、響きの美しさを重視しているような爽やかな印象を与えてくれています。ただ、肝心のソリストたちは今一歩。中でもアルトはもう少しランクの高い人に歌って欲しかった、という思いは残ります。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-28 19:41 | 合唱 | Comments(0)
SCHOENBERG/Choral Works


Laurence Equilbey/
Choeur de Chambre Accentus
Jonathan Nott/
Ensemble Intercontemporain
NAÏVE/V 5008



以前も「トランスクリプションズ」という、意欲的な企画のアルバムを出したアクサントゥス、そのテンションが編曲や演奏に反映されていなかったのが惜しいところですが、今回は全編シェーンベルクという、やはり濃いところを衝いたものを出してくれました。しかも、共演がリゲティなどの演奏でお馴染みのジョナサン・ノットですから、これは聞き逃せません。しかし、シェーンベルクって、アルバム1枚が出来るほどたくさんの合唱曲を書いていましたっけ?サントラはあるでしょうが(それは「シェルブール」)。私自身は、「地には平和を」という、かなりロマンティックな曲しか、聞いたことはありませんから、この、正直私には取っつきにくい作曲家を、合唱作品から攻めてみる、という格好の機会を与えられたことになるのではないでしょうか。
しかし、実際にアルバムを手にして分かったのは、これは合唱曲だけのものではないということでした。全体の三分の一を占めるのは、「室内交響曲」というインスト曲、これは別に無くても構わないものでした。ノットも、ここで指揮をしているだけ、彼は合唱には全くタッチしていなかった、というのも、やはり買ってみなければ分からなかったことです。
その代わり、と言ってはなんですが、ここでは、有名な「地には平和を」のオリジナル・ア・カペラ・バージョンと、オーケストラによる伴奏の付いたバージョンを並べて聴くことが出来ます。そのオケ伴、「コラ・パルテ」ですから合唱パートと同じことを楽器でやって重ねているだけなのですが、まるで全く新しい声部が加わったようなスリリングな体験が味わえます。埋もれて聞こえにくいパートが、オーケストラを重ねることによってはっきり前面に出てきて、その結果、全てのパートが明瞭に聞こえるようになったということなのでしょう。さらにもう一つ、「色彩」という、「5つの管弦楽曲op.16」の第3曲目(もちろん、オーケストラのための曲)を合唱のために編曲したものが入っているのですが、こちらもそれに輪をかけてスリリング。フランク・クラフチクという、「トランスクリプションズ」でも作品を寄せていた人が2002年に行った編曲、これは、ある意味原曲を超えているかもしれないほどのインパクトを与えられるものでした。ヴォカリーズで歌われる絶妙なハーモニーの流れの中に配された、まるで喘いでいるかような悩ましいため息は、原曲では確か木管やハープやチェレスタの一撃だったはず。このような型破りな「置き換え」を施されたことにより、この曲は本来の「後期ロマン派」のカテゴリーには収まりきれない、まさに「21世紀」の響きを獲得することが出来ました。そして、このアルバムのなによりも素晴らしいところは、最後に、シェーンベルク自身の最晩年の作品「深き淵より」(1950)を配置したことです。この中で聴ける無調っぽいたたずまいや、当時としては最先端の表現ツールであった「シュプレッヒ・ゲザンク」が、このクラフチクの編曲のあとで聴かれると何と間の抜けた陳腐なものに感じられてしまうことでしょう。彼が創設し、「最先端」と信じて疑わなかった技法が馬脚を現すには、半世紀という時間で充分だったということが、この2曲を同じアルバムに収録することによって、見事に明らかになっているのです。
前作と同じく、得難い体験を味わえたこの企画、これで合唱団の女声がもっと余裕のある声を聞かせてくれ、男声が自信たっぷりの音程で歌ってくれていれば、何も言うことはないのですが。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-24 20:44 | 合唱 | Comments(0)
MOZART, SÜSSMAYR/Requiem


Anton Armstrong,
Andreas Delfs/
St Olaf Choir and Orchestra
St Paul Chamber Orchestra
AVIE/AV 0047(hybrid SACD)



フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤーという名前は、モーツァルトの未完のレクイエムを補筆、完成させた人物としてのみ、音楽史に残っています。しかも、そこには決して後生の人を満足させるような仕事をした人としてではなく、突っ込みどころの多いその成果に対して、いかに他の人が異議を唱えたか、さらには、いかに別の補筆を行う余地を残していたかという議論がついて回ります。
重要なのは、「Sanctus」や「Benedictus」などは、モーツァルトのオリジナルではなく、ジュスマイヤーが自らの裁量で「作曲」したという事実です。ですから、そこに不純なものを認めたモーンダーあたりは、この部分を丸ごとカットするという思い切ったことも行っています。しかし、曲がりなりにもこのジュスマイヤーの「版」で200年以上も演奏が続けられていれば、厳密に考えれば他人の作品でも、いつの間にかモーツァルトのものとして違和感が覚えられないほどのものになってしまっているのも、また別の事実なのです。現に「Benedictus」の持つある種優雅なたたずまいは、モーツァルトを始めとするこの時代の作曲者の表現の一つの「型」を見事に作品にしたものだとは感じられませんか?
そんなジュスマイヤーの、「自作」のレクイエムというものが、あったそうなのです。この録音のプロデューサーであるマルコム・ブルーノという人が「発見」したものだそうで、もちろん、これが初めての録音になります。ただ、なぜか、実際の演奏にあたってはこのプロデューサーによって「Sequenz」が2つに分けられて、その間に「Offertorium」が挟みこまれ、さらにそれぞれの楽章で大幅なカットが行われています。なぜ、そのような措置を執ったのかは、この曲の作られ方を見ればある程度納得は出来るでしょう。まず特徴的なのは、テキストがラテン語ではなく、それをドイツ語に訳したもの、しかもかなり自由に韻を踏んだ「歌」の形に直されているということです(「Dies irae」が「Am Tags des Zorns」なんてなっているのは、ちょっと馴染めませんね)。そして、どの楽章も有節歌曲、つまり「1番」、「2番」といった同じ形の短い「歌」の繰り返しになっているのです。そうなってくると、「Sequenz」では同じメロディーの「歌」を8回も繰り返し聴かなければならないことになり、それではあまりに冗漫だということで、ブルーノはそれを半分カットし、前後に分けるということで、演奏会での鑑賞に堪えるものにしたというのです。そんなわけですから、この曲全体でも、聴けるのは小さな「歌」の繰り返し、いわゆる「レクイエム」から想像される、多くの場面を持つ起伏の大きい音楽といった側面は全く期待できません。
どの楽章を取ってみてもその「歌」のテイストは全く同じものに感じられます。そう、そこには、あの「モーツァルト」の「Benedictus」、あるいは「Lacrimosa」の後半と極めて共通性を持つ世界が広がっているのです。それは、18世紀末のウィーンの香りがあふれている音楽、もちろんモーツァルトその人の中にも確かに存在していた音楽には違いありません。だからこそ、それがモーツァルトのオリジナルの中にあっても特に違和感を抱かれることはなかったのでしょう。
モーツァルトのレクイエムの中でジュスマイヤーが担当したパートは、彼の感性とスキルで充分にその存在を主張できるものでした。しかし、一つの「ミサ曲」を作りあげるためには、それだけではない、もっと他の才能も必要になってくる、そんなことが、このアルバムを聴くとまざまざと分かってきます。
そして、カップリング(というか、こちらがメイン)が、そのモーツァルトの作品です。心なしか「Benedictus」での表現が濃いな、と感じるのは、やはりジュスマイヤーの仕事に積極的な意味を見出そうとしている演奏家の姿勢のせいなのでしょうか。本当はどう思っているのか、「クサヴァ」の陰のモーツァルトに聞いてみたい気がします。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-17 20:14 | 合唱 | Comments(0)
SIX





The King's Singers
SIGNUM/SIGCD056



キングズ・シンガーズの最新アルバム、タイトルの「SIX」というのが意味深ですが、これはメンバーが6人であるのと、収められている曲が6曲という意味が込められているのでしょう。それぞれの曲は3分から4分の長さ、つまり、これはいわゆる「ミニアルバム」というものですね。トータル・タイムは20分しかありません。
様々なレーベルの変遷をたどったキングズ・シンガーズ、現在はこのSIGNUMレーベルに所属、前作のジェズアルドについては「おやぢ」でも紹介したことがあります。ただ、あの時の担当者はちょっとした勘違いをしていたようですね。そのジェズアルドの真摯な演奏につい心をひかれてしまったのでしょうが、その時のライナーに載っていた「今後のリリース予定」を見て、それがキングズ・シンガーズがこれから録音するアイテムだと思ってしまったのですね。その中にはタリスの9枚組の全集なども含まれていましたから、いよいよこのグループも初心に返って、このような地味な曲をきちんと録音したりする気になったのだな、と思ったのは、無理もないことでした。
そこに、「ニューアルバム発売」のニュースが入ってきました。ついにタリスが入荷したのかな、と思ったら、それはポップス、しかもミニアルバムだというではありませんか。確かに、このところこのグループのライブ映像なども見る機会がありましたが、そんな堅苦しい曲を演奏しているような気配はありませんでした。しかも、現物を手にしてそのライナーを見ると、「Also available」として紹介されていたのは、最初に出たクリスマスアルバムとこの前のジェズアルドだけ、タリスのタの字もありません。となると、あの「予定」はいったいなんだったのでしょう。そこで、もう1度ジェズアルドのライナーを見直してみたら、それは全く別の団体の演奏のCDの紹介でした。どうやら、あのジェズアルドも彼らにしたらちょっと肌合いの異なるもの、やはり、彼らの本質的な指向性は変わってはいなかったのですね。ちょっと残念なような、それでいてホッとしたような感じでした。
そんな、いつもながらのポップス色が前面に押し出されたミニアルバム、最初の曲は、「ダウン・トゥー・ザ・リバー・トゥー・プレイ」という黒人霊歌、というよりは、ジョージ・クルーニー主演の「オー・ブラザー!」という映画の中で使われた曲。そして、2曲目がビートルズの「ブラックバード」というよりは、やはり映画の挿入歌として、ダコタ・ファニングの可愛さが光っていた「アイ・アム・サム」の中で使われていた曲、と紹介すべきなのでしょう。つまり、いずれもごく最近カバーされて大々的に露出されたもの、いわば「新曲」としてキングズ・シンガーズも歌っている、というノリなのでしょう。このあたりが、やはり現在の彼らの立場を象徴しているのだ、という感じが強くしてしまいます。しかし、続く3曲目の「ザ・ウィッシング・ツリー」という曲だけは、ちょっと趣を異にしています。彼らから委嘱を受けてジョビー・タルボットという作曲家が作った曲で、2002年の「プロムス」で演奏されたといいますから、一応は「現代音楽」、確かにユニークな和声と、テキストの扱いには独特の世界があります。しかし、それでも底にあるのはポップ・ミュージックのテイスト、事実、タルボットという人は「ディヴァイン・コメディ」というロック・グループのメンバーでもあった人ですから、それも頷けることです。
いずれにしても、曇りのないハーモニーで軽やかに歌い上げるという彼らの特質は、ここでも充分に発揮されています。ただ、それをポップスとして楽しむには、あまりにも洗練されすぎている、というのが、いつもながらの彼らの限界なのですが。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-13 20:09 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Requiem



Nicholas Kraemer/
Clare College Choir, Cambridge
オーケストラ・アンサンブル金沢
ワーナーミュージック・ジャパン/
WPCS-11864


オーケストラ・アンサンブル金沢(OEKと略すのですね)がワーナーから出している自主制作盤、以前は1枚1000円(税抜き)で販売されていたのですが、いつの間にか1500円(税込み)になってしまったようですね。それでもまだ他の国内盤に比べたら低く抑えられた価格設定ではあるのですが、ちょっと残念です。
このCDのジャケットには、ライブ録音が行われた石川県立音楽堂の写真が載っています(金沢って、カナザワ県ではなく、石川県だったのですね)。一見ちょっと小振りの中ホールのようですが、実は客席数1560という堂々たる大ホール、音の良いシューボックス構造、ステージ後方にはパイプオルガンも設置されているという、全ての条件を備えた「コンサートホール」です。最近では、地方都市でもちょっと大きなところでは必ずこのようなちゃんとしたコンサートホールが建てられるようになったというのは、喜ばしい限りです。県庁所在地で、しかも政令指定都市であれば、もちろんコンサートホールがないなどということは考えられませんね(信じられないかもしれませんが、仙台市という、国際コンクールさえ開催しているという大都市には、そのようなちゃんとしたコンサートホールが存在しないのですから、笑えますね)。
今回、イギリスの指揮者ニコラス・クレーマーを客演に迎えてモーツァルトの「レクイエム」を演奏したコンサートでは、合唱団とソリストもイギリスから招いています。その合唱団というのが、ケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団、つい最近NAXOS盤でステイナーの録音を聴いたばかり、もちろん、合唱指揮はティモシー・ブラウンですから、これはひと味違った仕上がりが期待できます。そんな期待通り、これは、とても軽やかで風通しの良い「レクイエム」でした。オーケストラが指揮者のセンスにピッタリ寄り添って、決して重たくならない運びになっているのが、とても爽やかな印象を与えてくれます。そのような爽やかな風景の中で、このオーケストラの「顔」とも言うべきティンパニのオケーリーが、信じられないほど的確なビートを打ち込む様は、殆どショッキングな様相すら呈しています。その粒立ちの良い乾いた音によって、今まで聴いたことのないようなリズムが聞こえてきて、思わずスコアを見て確認する場面も。「Tuba mirum」のトロンボーンソロも完璧。ライブ録音だというのに、殆ど傷らしいものが感じられない全体の演奏は、「商品」としてのCDにはありがたいことです。
ソリストたちは、合唱とワンセットと言うことで、合唱団のメンバーとしても表記されている人たちです。ただ、この録音のほんの一月前に録音された先ほどのステイナーのライナーには名前がありませんでしたから、一応別格のソリストではあるのでしょう。それほど自己主張のない、アンサンブル重視の歌い方が、この曲によく合致しているのは言うまでもありません。
ライナーにある演奏中の写真では、合唱が左からソプラノ、テナー、バス、アルトという、面白い並び方をしているのが分かります。キリエ・フーガのような各パートが強調される場面ではなかなか効果的な並びではあるのですが、ホモフォニーではちょっと女声同士がバラバラに聞こえてしまいます。というのも、この録音でのソプラノパートのコンディションが最悪で、他のパートと音色といいフレーズ感といい、全く別物の浮き上がりかたを見せているからです。全体としてはかなり高いレベルの演奏ではあるのですが、この合唱団、本当はもっとしっとり歌えるはずなのに、と思ってしまう場面が多かったのも、ちょっと残念です。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-08 20:19 | 合唱 | Comments(0)
VERDI/Messa da Requiem

Eva Mei(Sop), Bernarda Fink(MS)
Michael Schade(Ten), Ildebrando d'Arcangelo(Bas)
Nikolaus Harnoncourt/
Arnord Schoenberg Chor, Wiener Philharmoniker
RCA/82876 61244 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34132/3(国内盤 8月24日発売予定)


しかるべき機材を使いさえすれば、SACDも、そしてサラウンドSACDも再生できるというハイブリッド仕様のSACDは、もはや完全にクラシック・ファンの間で市民権を獲得したようですね。信頼できる筋の情報ですと、何でもこのシステムを導入している人は全てのクラシック・ファンの3割を占めているのだとか、どうやら、DVDオーディオの撤退は、時間の問題のようですね(というか、まだ売ってったい?)。この注目盤も、もちろんそんなハイブリッド仕様の2枚組アルバムです。今まで2枚組の場合はデジパックになっていたものしか買ったことがありませんが、これは例の面取りをしたオールPS製、蓋の開け方にちょっとコツがいる頑丈なケースです。ところが、その蓋を開けると、2枚組の場合普通は中のトレイがヒンジで開閉できるようになっているものが、どこを探してもそんな部分が見当たりません。とりあえずCDをかけてみようと取り外したら、なんと、その下にもう1枚CDが入っているではありませんか。つまり、2枚のCDが重ねられて同じポール(と言うのかな)に刺さっていたのです。こんな使いづらいケースってありますか?1枚目をかけ終わって2枚目をセットする時、その1枚目は一体どこに置いておけばいいのでしょう。
そんな、どこか人間としての感情に欠陥のある人が作ったに違いないケースに入っていたからでもないのでしょうが、このヴェルディの「レクイエム」は、何か、普通の人間の感情からは少し離れたところで演奏されているような気がしてなりませんでした。もっとも、それはここで指揮をしているアーノンクールでは恒常的に見られる現象ですから、今さら驚くようなことではありません。ただ、比較のためにゲルギエフ盤を聴いてしまったことで、なおさらその趣が強調されて感じられた、と言うことなのかもしれません。
この曲は、ご存じのようにダイナミック・レンジが非常に広いものです。幾度となく繰り返される「Dies irae」のバスドラムの強打があるかと思えば、「Lacrymosa」の薄い弦楽器に乗ったメゾのソロのような静かな部分もあるという具合です。また、スコアを見て頂ければ、この曲には「pp」と指定された部分が思った以上に多いことに気付かれるはずですが、そんなppの部分でどれだけ緊張感のある音楽を作れるか、というのが、この曲を演奏する上での「命」と言っても差し支えありません。曲の冒頭「Requiem」が、まさにそのような音楽なのですが、この演奏では、そのppでの緊張感が、全く感じられません。そこにあるのはただの「小さい音」、さらに、ちょっとしたアクセント記号がある部分など、注意深く演奏しさえすれば身震いするほどの情感を表すことが出来るはずなのに、そこで彼がやっているのは、「アーノンクール節」の最たるものである「間の抜けたふくらまし」ですから、失笑を誘いこそすれ、感動などは生まれるはずもありません。それに続く「Te decet hymnus」という、バスから始まる合唱のカノンの生彩のないこと、「敢えて劇的な要素を廃した」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、その実体はまるで能面のように無表情な「死んだ音楽」です。「Offertorio」の中間部、テノールのシャーデが「Hostias」と心を込めてしみじみ歌ったあと、同じメロディーを歌うフルートの何と無表情なことでしょう。そう、これこそが彼の演奏の本質、曲が始まってから終わるまで、オーケストラのどのパートからも、ゲルギエフ盤を聴けばあふれるほど感じられる生命感がわき出てくることは決してありませんでした。
自宅でSACDサラウンドを体験できる人が、このCDを聴いて「Tuba mirum」でのトランペットのバンダが後ろから聞こえてきたことに感動したという話を聞きました。そんな子供だましの小細工に引っかかって、演奏の本質を見落とす人が、気の毒でなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-03 19:41 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Davide Penitante, M.HAYDN/Requiem

Martinez, Bonitatibus(Sop)
Strehl(Ten), Pisaroni(Bas)
Ivor Bolton/
Salzburger Bachchor
Mozarteum Orchester Sarzburg
OEHMS/OC 536



このアルバムは、昨年のザルツブルク音楽祭の期間中の2004年8月8日、モーツァルテウム大ホールで行われたコンサートのライブ録音です。曲目は、モーツァルトのカンタータ「悔悟するダヴィデ」と、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」という、どちらも、私は今まで聴いたことのない曲ばかり、そんな、初体験の曲に初めて接する時には、大きな期待が伴うものです。
まず、最初の「悔悟するダヴィデ」、曲が始まったとたん、オーケストラによって奏でられた暗いイントロには聞き覚えがありました。これは、あのハ短調の大ミサ曲とまったく同じものではありませんか。私の大好きな「Laudamus te」というソプラノのアリアも、全くそのまま、歌詞だけが変わって歌われているのですから。そう、この曲は1785年に「ウィーン音楽家協会」から頼まれて作ったものなのですが、当時のモーツァルトは時間的な余裕がなかったため、1783年に作ってあったミサ曲(実は、これも最後の「Agnus Dei」が欠けている未完成のもの)の「Kyrie」と「Gloria」をそのまま転用していたのです。テキストが、あのダ・ポンテだということになっていますが、音楽の部分は言ってみれば「使い回し」、彼の場合オーボエ協奏曲をフルート協奏曲に転用した「前歴」があるのですから、そんな珍しいケースではありません。ただ、そこはモーツァルトのこと、しっかりこの曲のための「オリジナル」を用意するのも忘れてはいませんでした。それは、6曲目のテノールのアリアと、8曲目のソプラノのアリアです。この2曲、その前後の「パクリ」をカバーしようという意気込みが作用したのでしょうか、なかなか力のこもった仕上がりです。6曲目の方は4種類の木管楽器がそれぞれちょっとしたソロを披露するのが素敵、音楽も後半でガラリとテイストが変わります。8曲目の方も、やはり後半長調に転調して華やかになるのが聴きものです。
ただ、これらのアリアや他の曲でも、ソリストたちがちょっと張り切りすぎているのが耳に障ります。このソリストは、指揮者のボルトンが選んだといいますから、これは指揮者の意向なのでしょうが、この、まるでベル・カントのオペラを聴かされているような様式感に乏しい力任せの表現は、正直私には馴染めません。
後半は、モーツァルトとは少なからぬ因縁を持つミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」(かつて、この作曲家の作品が、モーツァルトの「交響曲第37番」と呼ばれていましたね)。ネットで見ることの出来る輸入元のインフォメーションで「モーツァルトが『レクイエム』を作る時に手本にした」と、大々的に煽っているのであれば、大いに期待をして臨まないわけにはいきません。しかし、実際のところこれはモーツァルトのものとは全くの別物、例えば、連続して一気に演奏される「セクエンツィア」の持つ緊張感は、彼独自の世界です。確かに、その20年後に作られることになる曲との類似点は多々見いだせるものの、そんな先入観などかえって邪魔になるような、これは、素晴らしい音楽です。と言うより、この2人は、ザルツブルクの宮廷楽団での言ってみれば「同僚」ですから、恩人、大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハの葬儀のために作られたこの曲は、当然モーツァルトも聴いているわけで、何らかの影響を受けるのはごく当たり前の話なのです。こんな、芸術の本質よりは商品を売り込むことしか考えていない愚劣なインフォを真に受けた私って。
この曲でも、ソリスト陣の張り切りようは目に余るものがあります。その粗雑なアンサンブルは、思わず耳を背けたくなるほど。それだけではなく、いくらライブ録音とはいえ、オーケストラにもあまりに傷が多すぎます。期待に胸をふくらませて聴き始めた私の初体験の曲たち、余計な情報で虚心に受け止められなかったのと、最低限の水準すら満たしていない演奏で聴いてしまったことが、私にとっては不幸な見返りでした。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-29 19:47 | 合唱 | Comments(0)
STAINER/The Crucifixion

James Gilchrist(Ten)
Simon Bailey(Bas)
Stephen Farr(Org)
Timothy Brown/
Choir of Clare College, Cambridge
NAXOS/8.557624



キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストの最後の受難の物語は私たちを惹き付けて放さないものがあります。1年ほど前に公開されたメル・ギブソンの監督による映画「パッション」も、そんな「ツボ」を心得た作品で、多くの観客を集めた大ヒットとなったのも、記憶に新しいところです。ただ、この映画の場合、その「受難」のシーンがあまりにもリアリティに富んでいたため、教会関係者からある種の拒否反応があったとも聞いています。確かに鞭を打たれて真っ赤にふくれあがったキリストの姿は、ちょっと目を背けたくなるようなところはありました。そして、十字架に付けるシーンも、実際に手や足に釘を打ち付けるという(もちろん特殊撮影ですが)残酷な場面があったりして、「何もそこまで」という思いには駆られたものです。ピアスだったら構いませんが(それは「ファッション」)。
この題材を音楽に持ち込んだものが、ご存じ「受難曲」なわけですが、これも言ってみれば「暗い」音楽です。最も有名な受難曲であるバッハの「マタイ受難曲」の最初のコーラスの暗さといったら、まさに極めつけ。執拗に繰り返されるホ短調のオスティナートに乗った、まるで地の底を這っているような重々しい合唱を聴いていると、これから体験することになる出来事のあまりの重大さに、思わず襟を正したくなってくることでしょう。そして、それから3時間にわたる「苦行」を経た後に現れる最後の合唱の、また暗いこと。まさに胸の奥からほとばしり出る魂の叫びと言ってよいこのハ短調の曲を聴き終えた時には、とても普段の生活には戻れないような罪悪感が、体中にしみこんでしまっているはずです。
しかし、ご安心下さい。「受難曲」とは言っても、そんな暗いものばかりではないことが、このイギリス19世紀後半の作曲家、ジョン・ステイナーの「主を十字架に」という曲を聴くことによって分かるのですから。これは、逆に「こんなに明るくていいの?」と心配になるほどの、屈託のない音楽です。編成はテノールとバスの2人のソリストと混声合唱、そしてオルガンという簡素なものです。ソリスト達は例によって物語の進行を担いますが、テノール=エヴァンゲリスト、バス=イエスといったきっちりした役割ではなく、適宜配役が変わるのが面白いところでしょうか。スパロウ・シンプソンという人が、聖書からテキストを選択すると同時に、聖歌の歌詞を作っています。
ステイナーという人は、ごく平凡なメロディーの中に情感や深い意味を盛り込むことを身上としていたようで、1887年に作られたこの曲でも、その平易、場合によっては陳腐なメロディーは、とても魅力的な側面をもって迫ってきます。聖書の福音書による「レシタティーヴォ」にしてからが、「語り」というよりは完璧な「歌」、とても退屈などしていられないような甘いメロディーで私たちを誘います。何より惹き付けられるのは、バッハあたりの「コラール」に相当する「聖歌」の数々、そのキャッチーな歌が、言葉をとことん大事にしたふくよかな合唱によって歌われると、そこは殺伐としたゴルゴタの丘ではなく、まるで、暖かい暖炉の燃えさかるクリスマス・パーティーの会場のように思えてくるから、不思議です。なぜか唐突に、「雨が上がるように、静かに死んでいこう」という八木重吉の厭世的な詩に、とてつもなく楽天的な音楽を付けた多田武彦の「雨」という男声合唱曲を、思い出してしまいました。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-25 19:54 | 合唱 | Comments(0)