おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:合唱( 644 )
MOZART/Requiem



Nicholas Kraemer/
Clare College Choir, Cambridge
オーケストラ・アンサンブル金沢
ワーナーミュージック・ジャパン/
WPCS-11864


オーケストラ・アンサンブル金沢(OEKと略すのですね)がワーナーから出している自主制作盤、以前は1枚1000円(税抜き)で販売されていたのですが、いつの間にか1500円(税込み)になってしまったようですね。それでもまだ他の国内盤に比べたら低く抑えられた価格設定ではあるのですが、ちょっと残念です。
このCDのジャケットには、ライブ録音が行われた石川県立音楽堂の写真が載っています(金沢って、カナザワ県ではなく、石川県だったのですね)。一見ちょっと小振りの中ホールのようですが、実は客席数1560という堂々たる大ホール、音の良いシューボックス構造、ステージ後方にはパイプオルガンも設置されているという、全ての条件を備えた「コンサートホール」です。最近では、地方都市でもちょっと大きなところでは必ずこのようなちゃんとしたコンサートホールが建てられるようになったというのは、喜ばしい限りです。県庁所在地で、しかも政令指定都市であれば、もちろんコンサートホールがないなどということは考えられませんね(信じられないかもしれませんが、仙台市という、国際コンクールさえ開催しているという大都市には、そのようなちゃんとしたコンサートホールが存在しないのですから、笑えますね)。
今回、イギリスの指揮者ニコラス・クレーマーを客演に迎えてモーツァルトの「レクイエム」を演奏したコンサートでは、合唱団とソリストもイギリスから招いています。その合唱団というのが、ケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団、つい最近NAXOS盤でステイナーの録音を聴いたばかり、もちろん、合唱指揮はティモシー・ブラウンですから、これはひと味違った仕上がりが期待できます。そんな期待通り、これは、とても軽やかで風通しの良い「レクイエム」でした。オーケストラが指揮者のセンスにピッタリ寄り添って、決して重たくならない運びになっているのが、とても爽やかな印象を与えてくれます。そのような爽やかな風景の中で、このオーケストラの「顔」とも言うべきティンパニのオケーリーが、信じられないほど的確なビートを打ち込む様は、殆どショッキングな様相すら呈しています。その粒立ちの良い乾いた音によって、今まで聴いたことのないようなリズムが聞こえてきて、思わずスコアを見て確認する場面も。「Tuba mirum」のトロンボーンソロも完璧。ライブ録音だというのに、殆ど傷らしいものが感じられない全体の演奏は、「商品」としてのCDにはありがたいことです。
ソリストたちは、合唱とワンセットと言うことで、合唱団のメンバーとしても表記されている人たちです。ただ、この録音のほんの一月前に録音された先ほどのステイナーのライナーには名前がありませんでしたから、一応別格のソリストではあるのでしょう。それほど自己主張のない、アンサンブル重視の歌い方が、この曲によく合致しているのは言うまでもありません。
ライナーにある演奏中の写真では、合唱が左からソプラノ、テナー、バス、アルトという、面白い並び方をしているのが分かります。キリエ・フーガのような各パートが強調される場面ではなかなか効果的な並びではあるのですが、ホモフォニーではちょっと女声同士がバラバラに聞こえてしまいます。というのも、この録音でのソプラノパートのコンディションが最悪で、他のパートと音色といいフレーズ感といい、全く別物の浮き上がりかたを見せているからです。全体としてはかなり高いレベルの演奏ではあるのですが、この合唱団、本当はもっとしっとり歌えるはずなのに、と思ってしまう場面が多かったのも、ちょっと残念です。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-08-08 20:19 | 合唱 | Comments(0)
VERDI/Messa da Requiem

Eva Mei(Sop), Bernarda Fink(MS)
Michael Schade(Ten), Ildebrando d'Arcangelo(Bas)
Nikolaus Harnoncourt/
Arnord Schoenberg Chor, Wiener Philharmoniker
RCA/82876 61244 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34132/3(国内盤 8月24日発売予定)


しかるべき機材を使いさえすれば、SACDも、そしてサラウンドSACDも再生できるというハイブリッド仕様のSACDは、もはや完全にクラシック・ファンの間で市民権を獲得したようですね。信頼できる筋の情報ですと、何でもこのシステムを導入している人は全てのクラシック・ファンの3割を占めているのだとか、どうやら、DVDオーディオの撤退は、時間の問題のようですね(というか、まだ売ってったい?)。この注目盤も、もちろんそんなハイブリッド仕様の2枚組アルバムです。今まで2枚組の場合はデジパックになっていたものしか買ったことがありませんが、これは例の面取りをしたオールPS製、蓋の開け方にちょっとコツがいる頑丈なケースです。ところが、その蓋を開けると、2枚組の場合普通は中のトレイがヒンジで開閉できるようになっているものが、どこを探してもそんな部分が見当たりません。とりあえずCDをかけてみようと取り外したら、なんと、その下にもう1枚CDが入っているではありませんか。つまり、2枚のCDが重ねられて同じポール(と言うのかな)に刺さっていたのです。こんな使いづらいケースってありますか?1枚目をかけ終わって2枚目をセットする時、その1枚目は一体どこに置いておけばいいのでしょう。
そんな、どこか人間としての感情に欠陥のある人が作ったに違いないケースに入っていたからでもないのでしょうが、このヴェルディの「レクイエム」は、何か、普通の人間の感情からは少し離れたところで演奏されているような気がしてなりませんでした。もっとも、それはここで指揮をしているアーノンクールでは恒常的に見られる現象ですから、今さら驚くようなことではありません。ただ、比較のためにゲルギエフ盤を聴いてしまったことで、なおさらその趣が強調されて感じられた、と言うことなのかもしれません。
この曲は、ご存じのようにダイナミック・レンジが非常に広いものです。幾度となく繰り返される「Dies irae」のバスドラムの強打があるかと思えば、「Lacrymosa」の薄い弦楽器に乗ったメゾのソロのような静かな部分もあるという具合です。また、スコアを見て頂ければ、この曲には「pp」と指定された部分が思った以上に多いことに気付かれるはずですが、そんなppの部分でどれだけ緊張感のある音楽を作れるか、というのが、この曲を演奏する上での「命」と言っても差し支えありません。曲の冒頭「Requiem」が、まさにそのような音楽なのですが、この演奏では、そのppでの緊張感が、全く感じられません。そこにあるのはただの「小さい音」、さらに、ちょっとしたアクセント記号がある部分など、注意深く演奏しさえすれば身震いするほどの情感を表すことが出来るはずなのに、そこで彼がやっているのは、「アーノンクール節」の最たるものである「間の抜けたふくらまし」ですから、失笑を誘いこそすれ、感動などは生まれるはずもありません。それに続く「Te decet hymnus」という、バスから始まる合唱のカノンの生彩のないこと、「敢えて劇的な要素を廃した」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、その実体はまるで能面のように無表情な「死んだ音楽」です。「Offertorio」の中間部、テノールのシャーデが「Hostias」と心を込めてしみじみ歌ったあと、同じメロディーを歌うフルートの何と無表情なことでしょう。そう、これこそが彼の演奏の本質、曲が始まってから終わるまで、オーケストラのどのパートからも、ゲルギエフ盤を聴けばあふれるほど感じられる生命感がわき出てくることは決してありませんでした。
自宅でSACDサラウンドを体験できる人が、このCDを聴いて「Tuba mirum」でのトランペットのバンダが後ろから聞こえてきたことに感動したという話を聞きました。そんな子供だましの小細工に引っかかって、演奏の本質を見落とす人が、気の毒でなりません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-08-03 19:41 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Davide Penitante, M.HAYDN/Requiem

Martinez, Bonitatibus(Sop)
Strehl(Ten), Pisaroni(Bas)
Ivor Bolton/
Salzburger Bachchor
Mozarteum Orchester Sarzburg
OEHMS/OC 536



このアルバムは、昨年のザルツブルク音楽祭の期間中の2004年8月8日、モーツァルテウム大ホールで行われたコンサートのライブ録音です。曲目は、モーツァルトのカンタータ「悔悟するダヴィデ」と、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」という、どちらも、私は今まで聴いたことのない曲ばかり、そんな、初体験の曲に初めて接する時には、大きな期待が伴うものです。
まず、最初の「悔悟するダヴィデ」、曲が始まったとたん、オーケストラによって奏でられた暗いイントロには聞き覚えがありました。これは、あのハ短調の大ミサ曲とまったく同じものではありませんか。私の大好きな「Laudamus te」というソプラノのアリアも、全くそのまま、歌詞だけが変わって歌われているのですから。そう、この曲は1785年に「ウィーン音楽家協会」から頼まれて作ったものなのですが、当時のモーツァルトは時間的な余裕がなかったため、1783年に作ってあったミサ曲(実は、これも最後の「Agnus Dei」が欠けている未完成のもの)の「Kyrie」と「Gloria」をそのまま転用していたのです。テキストが、あのダ・ポンテだということになっていますが、音楽の部分は言ってみれば「使い回し」、彼の場合オーボエ協奏曲をフルート協奏曲に転用した「前歴」があるのですから、そんな珍しいケースではありません。ただ、そこはモーツァルトのこと、しっかりこの曲のための「オリジナル」を用意するのも忘れてはいませんでした。それは、6曲目のテノールのアリアと、8曲目のソプラノのアリアです。この2曲、その前後の「パクリ」をカバーしようという意気込みが作用したのでしょうか、なかなか力のこもった仕上がりです。6曲目の方は4種類の木管楽器がそれぞれちょっとしたソロを披露するのが素敵、音楽も後半でガラリとテイストが変わります。8曲目の方も、やはり後半長調に転調して華やかになるのが聴きものです。
ただ、これらのアリアや他の曲でも、ソリストたちがちょっと張り切りすぎているのが耳に障ります。このソリストは、指揮者のボルトンが選んだといいますから、これは指揮者の意向なのでしょうが、この、まるでベル・カントのオペラを聴かされているような様式感に乏しい力任せの表現は、正直私には馴染めません。
後半は、モーツァルトとは少なからぬ因縁を持つミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」(かつて、この作曲家の作品が、モーツァルトの「交響曲第37番」と呼ばれていましたね)。ネットで見ることの出来る輸入元のインフォメーションで「モーツァルトが『レクイエム』を作る時に手本にした」と、大々的に煽っているのであれば、大いに期待をして臨まないわけにはいきません。しかし、実際のところこれはモーツァルトのものとは全くの別物、例えば、連続して一気に演奏される「セクエンツィア」の持つ緊張感は、彼独自の世界です。確かに、その20年後に作られることになる曲との類似点は多々見いだせるものの、そんな先入観などかえって邪魔になるような、これは、素晴らしい音楽です。と言うより、この2人は、ザルツブルクの宮廷楽団での言ってみれば「同僚」ですから、恩人、大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハの葬儀のために作られたこの曲は、当然モーツァルトも聴いているわけで、何らかの影響を受けるのはごく当たり前の話なのです。こんな、芸術の本質よりは商品を売り込むことしか考えていない愚劣なインフォを真に受けた私って。
この曲でも、ソリスト陣の張り切りようは目に余るものがあります。その粗雑なアンサンブルは、思わず耳を背けたくなるほど。それだけではなく、いくらライブ録音とはいえ、オーケストラにもあまりに傷が多すぎます。期待に胸をふくらませて聴き始めた私の初体験の曲たち、余計な情報で虚心に受け止められなかったのと、最低限の水準すら満たしていない演奏で聴いてしまったことが、私にとっては不幸な見返りでした。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-07-29 19:47 | 合唱 | Comments(0)
STAINER/The Crucifixion

James Gilchrist(Ten)
Simon Bailey(Bas)
Stephen Farr(Org)
Timothy Brown/
Choir of Clare College, Cambridge
NAXOS/8.557624



キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストの最後の受難の物語は私たちを惹き付けて放さないものがあります。1年ほど前に公開されたメル・ギブソンの監督による映画「パッション」も、そんな「ツボ」を心得た作品で、多くの観客を集めた大ヒットとなったのも、記憶に新しいところです。ただ、この映画の場合、その「受難」のシーンがあまりにもリアリティに富んでいたため、教会関係者からある種の拒否反応があったとも聞いています。確かに鞭を打たれて真っ赤にふくれあがったキリストの姿は、ちょっと目を背けたくなるようなところはありました。そして、十字架に付けるシーンも、実際に手や足に釘を打ち付けるという(もちろん特殊撮影ですが)残酷な場面があったりして、「何もそこまで」という思いには駆られたものです。ピアスだったら構いませんが(それは「ファッション」)。
この題材を音楽に持ち込んだものが、ご存じ「受難曲」なわけですが、これも言ってみれば「暗い」音楽です。最も有名な受難曲であるバッハの「マタイ受難曲」の最初のコーラスの暗さといったら、まさに極めつけ。執拗に繰り返されるホ短調のオスティナートに乗った、まるで地の底を這っているような重々しい合唱を聴いていると、これから体験することになる出来事のあまりの重大さに、思わず襟を正したくなってくることでしょう。そして、それから3時間にわたる「苦行」を経た後に現れる最後の合唱の、また暗いこと。まさに胸の奥からほとばしり出る魂の叫びと言ってよいこのハ短調の曲を聴き終えた時には、とても普段の生活には戻れないような罪悪感が、体中にしみこんでしまっているはずです。
しかし、ご安心下さい。「受難曲」とは言っても、そんな暗いものばかりではないことが、このイギリス19世紀後半の作曲家、ジョン・ステイナーの「主を十字架に」という曲を聴くことによって分かるのですから。これは、逆に「こんなに明るくていいの?」と心配になるほどの、屈託のない音楽です。編成はテノールとバスの2人のソリストと混声合唱、そしてオルガンという簡素なものです。ソリスト達は例によって物語の進行を担いますが、テノール=エヴァンゲリスト、バス=イエスといったきっちりした役割ではなく、適宜配役が変わるのが面白いところでしょうか。スパロウ・シンプソンという人が、聖書からテキストを選択すると同時に、聖歌の歌詞を作っています。
ステイナーという人は、ごく平凡なメロディーの中に情感や深い意味を盛り込むことを身上としていたようで、1887年に作られたこの曲でも、その平易、場合によっては陳腐なメロディーは、とても魅力的な側面をもって迫ってきます。聖書の福音書による「レシタティーヴォ」にしてからが、「語り」というよりは完璧な「歌」、とても退屈などしていられないような甘いメロディーで私たちを誘います。何より惹き付けられるのは、バッハあたりの「コラール」に相当する「聖歌」の数々、そのキャッチーな歌が、言葉をとことん大事にしたふくよかな合唱によって歌われると、そこは殺伐としたゴルゴタの丘ではなく、まるで、暖かい暖炉の燃えさかるクリスマス・パーティーの会場のように思えてくるから、不思議です。なぜか唐突に、「雨が上がるように、静かに死んでいこう」という八木重吉の厭世的な詩に、とてつもなく楽天的な音楽を付けた多田武彦の「雨」という男声合唱曲を、思い出してしまいました。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-07-25 19:54 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Requiem(Ed.Beyer)



Lorin Maazel/
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen
Rundfunks
DREAMLIFE/DLVC-8020(DVD)



モーツァルトのレクイエムが続きますが、今回は映像も付いていますからご勘弁を。これは、1993年にアウグスブルグの聖ウルリッヒ教会で行われたコンサートの模様を収録したもの。ただ、こういう場所でこういう曲ですから、「コンサート」というよりはやはり「礼拝」といった趣の方が強くなっています。演奏が始まる前の拍手もありませんし、終わった後では、なんと教会の上にある鐘が一斉に鳴り出すという「演出」、もちろん鐘が鳴り止めば、そのまま演奏者も聴衆も三々五々会場を立ち去ることになるという、ちょっと日本では味わえないような光景が待っていることでしょう。
ここで演奏しているバイエルン放送交響楽団と合唱団は、1988年にもバーンスタインの指揮でこの曲の教会でのコンサートの模様を映像に残しています。よっぽどこういうことに縁があるのでしょうね。しかも、両方ともバイヤー版を使っているというのも、面白いところです。ただ、今回ついでにそのバーンスタインの映像と見比べてみたのですが、オーケストラも合唱団も、同じ団体だとはとても思えないほど、異なった様相を呈していたのはちょっとした驚きでした。まず、オーケストラを見てみると、これが映像の良いところなのですが、マゼールは金管楽器にちょっと変わったチョイスを与えているのがすぐ分かります。なんと、トランペットはロータリーなしのナチュラル管、そして、トロンボーンもベルが開いていないバロックタイプの楽器を使わせているのです。つまり、限りなく「オリジナル」に近い選択を行っているということになります(バーンスタインの時には普通のモダン楽器を使っているのですから、これがマゼールの意向であるのは明らかです)。もちろん、マゼールのことですから、本格的にオリジナルっぽいアプローチを試みようなどというつもりはさらさら無かったのでしょうが、ここで聴くことの出来るトロンボーンの柔らかな音色は、なかなかなものがあります。ただ、トランペットの場合はそれが裏目に出てしまって、演奏上の困難さだけが耳に付いてしまったのが、ちょっと「惜しい」ところです。
逆に、バーンスタインの映像を見直して気が付いたのが、バセット・ホルンとファゴットを倍管、つまり4本ずつ使っているというとんでもないこと。虎刈りにされてはたまりません(それは「バリカン」)。おそらく、彼の生涯には、「オリジナル楽器」との接点は全く存在していなかったことでしょう。
合唱も、バーンスタインのように、「熱く」コテコテに歌うことを要求されると、基本的なアンサンブルに破綻をきたしてしまうのでしょう。マゼールのちょっと醒めた、しかし、要所ではきっちり盛り上げるというパターンのはっきりした指揮の方が、彼らの実力が存分に発揮できるようです。そう、このライブ映像でもっともよく伝わってくるのが、マゼールのそのような明確なパターンの有り様です。彼の作り出す音楽にそれほどの共感を得ることが出来ない人でも、そのようなはっきりとした道筋が見えてくる前では、ある種の畏敬の念すら抱きかねません。ツィーザクを初めとするソリストたちのアンサンブルが、まるで奇跡のような精度を見せているのは、あるいはそんな指揮者のオーラが作用していたせいなのかもしれません。
カップリングがストラヴィンスキーの「詩編交響曲」、これも秀演です。もちろん、ヴァイオリンとヴィオラがなくて、2台のピアノが入っているという変わった編成を、実際に「目」で確認することが出来ます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-07-11 19:44 | 合唱 | Comments(0)
SCHÜTZ/Matthäus-Passion




Françoise Lasserre/
Akademia
ZIG-ZAG/ZZT 050402



もはや1000アイテム目も視野に入ってきたという「おやぢ」ですが、それだけ続いているにもかかわらず、シュッツを取り上げるのはこれが初めて、というのはちょっと意外な気がします。これだけ合唱関係に選曲が偏っているのですから、とっくの昔にしゅっと書いていてもおかしくはないのですが、一応「新譜紹介」を謳っていますので、たまたま新しい録音で引っかかるものがなかったのでしょう。
大バッハのちょうど100年前、1585年に生まれた、初期バロックの大家ハインリッヒ・シュッツは、なんと87歳まで生き延びたという、当時としては記録的に長命の方でした(テレマンが86歳と聞いてびっくりしたことがありましたが、もっと上がいたのですね)。しかも、ただ年だけを無駄に重ねていたのではなく、亡くなる直前まで「白鳥の歌」や「ドイツ語マニフィカート」といった素晴らしい曲を作っていたのですから、これは凄いことです。この「マタイ受難曲」も、81歳の時の作品なのですから、驚いてしまいます。
年を取ってからの作品だからなのか、当時の様式なのかは私には分かりませんが、この曲はまるで水墨画のような引き締まったシンプルさに支配されています。それというのも、この曲には楽器による伴奏は付かず、しかも、大半の部分はエヴァンゲリストが一人で歌うという場面によって占められているからです。バッハあたりでは「レシタティーヴォ・セッコ」という形で、通奏低音の伴奏が付きますのでまだ間が持てますが、一人の歌手だけによるそれは、「歌」というよりは殆ど「語り」に近いものがあります。別の歌手によって歌われるイエスやピラトの言葉も、テイストは同じ、群衆の言葉の部分がわずかにポリフォニーとハーモニーの処理が施されている程度、そこに広がるのは、モノクロームの禁欲的な世界なのです。最初の導入と、最後におかれた終曲の合唱以外は、全て聖書のテキストがそのまま歌われるというのも、潔いものです。
フランソワーズ・ラセール女史の指揮による「アカデミア」の演奏、ここでは、例えばバッハの同じタイトルの曲を思い浮かべた時に、途中でアリアやコラールなどが聴きたくなる心情を配慮してか、部分的に同じ作曲家の「クライネ・ガイストリッヘ・コンチェルト」や「カンツィオーネス・サクレ」といった合唱曲を挿入するという試みを行っています。確かに、物語のハイライト「ペテロの否認」のあとにオルガン伴奏の入ったポリフォニックなモテットが続くのは、ドラマティックな効果を与えるには充分なものがあります。
エヴァンゲリストとイエスを含めて、全部で10人からなる「アカデミア」のメンバーは、あまり得意ではないドイツ語のディクションを逆手にとって、言葉の持つ意味をことさらに強調し、平坦になりがちなテキストから実に起伏に富んだドラマを導き出しています。合唱の部分も「ハモる」よりは「語る」といった方があたっているような生々しさ、変な喩えですが、今までセリフをしゃべっていたものが急に歌を歌い出すミュージカルのような、良い意味での唐突さを連想してしまったものです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-07-04 19:52 | 合唱 | Comments(2)
MOZART/Requiem


Larsson(Sop), von Magnus(Alt)
Lippert(Ten), Peeters(Bas)
Simon Schouten/
Ensemble Lyrique
PREISER/PR90670



輸入CDのレビューで困るのは、演奏者の読み方が分からない時です。たとえ英語であっても、法則などの通用しない特別な読み方をする場合がありますから、油断は出来ません。「Maazel」を「マゼール」と読んだりするのは、かなり勇気がいることだとは思いませんか?ちなみに、「Renée」という名前は、「ルネ・フレミング」のように、「ルネ」という発音が実際の音に近いものなのですが、映画の世界では同じスペルでも「レニー・ゼルウィガー」のように「レニー」という、アクサンを無視した乱暴な読み方が通用していたりします。「Halle Berry」も、「ハル・ベリー」ではなく、「ハリー・ベリー」が正しいことが最近になってようやく知られてきたとか。
馴染みのある英語でさえ、このぐらいの「誤読」があるのですから、オランダ語などになったらとても手が付けられません。今回の指揮者の名前も、輸入業者の資料を見て初めて「スハウテン」というダイエット食品みたいな読み方だと知ったぐらいですから(それは「トコロテン」)。ただ、これも全面的に信用することは極めて危険です。かつて、やはり同じオランダの演奏家のモーツァルトのレクイエムが出た時も、CD店のコメントに書いてあった読み方を採用したら、別のところでは全く違う読み方だったということもありましたので。
とりあえずのスハウテンさん、ご自分が指揮者とクレジットされたアルバムはおそらくこれが初めてなのでしょうが、だいぶ前からトン・コープマンの「右腕」として、合唱の指導に当たっていたという実績があるそうです。リサ・ラーション(これも、読み方が難しい)などの、コープマン・プロジェクトの常連が参加しているのは、そのあたりの人脈なのでしょうね。
「アンサンブル・リリック」という団体名は、スハウテン(とりあえず)が1999年に自ら創設した、オリジナル楽器のアンサンブルと、小規模の合唱団の総称として使われています。それぞれのメンバーは、スハウテン(とりあえず)が個人的によく知っている人ばかりを集めたということで、ある意味、指揮者のやりたいことに極めて敏感に反応できる演奏集団を目指しているのでしょう。確かに、その成果は見事な形で演奏に現れていることはすぐ分かります。オーケストラと合唱が一体となった緊密な表現を、あちこちで聴くことが出来ます。ただ、それは良くも悪くも指揮者の趣味がそのまま反映されるということになるわけで、彼のかなりアクの強い歌わせ方には、正直なじむことは出来ません。そんな中で「Lacrimosa」だけは、その趣味がたまたま良い方向に向いたのか、ちょっと凄い演奏になっています。イントロのヴァイオリンの緊張感あふれる響きからして、それまでの音楽とは別物、合唱も最初から最後まで集中力が切れることはありません。
問題は、合唱だけの時にはそこそこ緊密な音楽が聞こえてくるのに、ソリストが入ったとたん、その張りつめたものが無惨にも壊れてしまうことです。ラーションがこんなにリズム感が悪いのも意外ですが、テノールのリッパートは最悪。「Tuba mirum」では、ライブということもあってオブリガートのトロンボーンもちょっと、なのですが、その2人の危なっかしい絡みには笑う他はありません。4人のアンサンブルも、それは悲惨なものです。
カップリングの「聖母マリアのためのリタニア」では、さらにコンディションが悪かったのでしょうか、ソリストのアンサンブルの酷さはまさに耳を覆いたくなるほどでした。つくづく、こういう編成の曲の難しさを思い知らされます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-06-29 19:57 | 合唱 | Comments(0)
RACHMANINOV/All-Night Vigil




Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
HARMONIA MUNDI/HMU 907384



最近はこのように「徹夜祷 All-Night Vigil」と表記されるようになった、このラフマニノフの合唱作品ですが、今までは「晩祷Vespers」という、大店の責任者(それは「番頭」)みたいなタイトルが一般的でした。正確には、15曲からなる聖歌集の最初の6曲が、この「晩祷」のためのもの、そして7曲目以降は、次の朝の礼拝「Matins」に用いられる曲なのです。ただ、今さら「晩祷は誤訳で徹夜祷が正しい」などと言われても、昔からなじんだ曲名はなかなか直すことは難しいものがあります。なんと言っても、かつてこの曲の存在を決定づけられたこんなインパクトのあるジャケットがあったのですから。


これはスヴェシニコフによって1958年に録音されたこの曲の初めてのレコード(MELODIYA)を国内盤として発売するにあたって、発売元の日本ビクターが渾身の力を込めてデザインしたもの。おそらく歴史に残るであろう斬新なジャケットです。そして、このレコードが2枚組LPとして発売された1974年という年が、私たちがこの曲を知った最初の時となったのです。ということは、1915年に作られてから半世紀近くの間、ラフマニノフにはピアノ協奏曲や交響曲以外にもこんな素晴らしい合唱曲があると言うことは、少なくともレコードの上では全く知られることがなかったのです。しかも、それ以後この曲の新たな録音が出るまでには、1986年にロストロポーヴィチ(ERATO)と、ポリャンスキー(MELODIYA)の仕事が世に出るまで、30年近くも待たなければならなかったとは。そして、初めて「西側」の指揮者ロバート・ショーがTELARCに録音した1989年という年が、奇しくも「東側」という概念が崩壊した年であったのは、なんという暗示的なことでしょう。
ラフマニノフが、ロシア聖歌の昔の形、中世の「ズナメニ」というネウマ譜による古い聖歌や、キエフ聖歌、ギリシャ正教聖歌に近代的な和声を施したり、あるいは、それと全く変わらないテイストで自ら創作を行った時、そこにはボルトニャンスキーあたりによって、西欧風にソフィストケートされてしまった当時の聖歌から、かつてあったはずのロシア聖歌本来の形を取り戻そうとする意志が働いていたのは明らかです。そして、スヴェシニコフは、その意志に見事に答えたものを残してくれました。マーラーをして「この音は出なくても構わない(交響曲第2番)」と言わしめたへ音譜表の第2線のさらにオクターブ下の「シb」というとてつもなく低い音をやすやすと響かすことの出来るバスパートの上に乗った力強い合唱からは、ロシア人の訛りに充ち満ちた、民族意識のほとばしりさえ感じられる「晩祷」が聞こえてきたのです。
現代に於いては、このような「泥臭い」演奏は、もはやロシア周辺でも行われていないという事実は、サヴチュクによるウクライナの合唱団が2000年に録音したもの(BRILLIANT)を聴けば認めざるを得ません。まして、イギリス人の指揮者に指揮されたエストニアの合唱団からそれを求めるのはもちろん叶わないことです。しかし、実際の典礼を擬して助祭によるチャントを挿入したというこのアルバムからは、スヴェシニコフとは別のベクトルでラフマニノフの思いに迫ろうとする姿勢を、確かに感じることができます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-06-24 21:24 | 合唱 | Comments(2)
SALIERI/La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo



Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/60 100



もはや新譜ではないのですが、この前ご紹介したミスリヴェチェクの「受難曲」との関連で、取り上げることになりました。メタスタージョのテキストによる受難曲ということで、クリストフ・シュペリングが体系的に掘り起こしを行っているプロジェクトの、これは最初に手がけられたものになります。録音されたのは、ミスリヴェチェクのほんの10ヶ月前ですから、まあ、新譜のようなものでしょうし。
ミスリヴェチェクのものから6年ほど後に作られたこの作品、もちろんテキストは一緒ですから、曲の構成は殆ど変わりません。ただ、物語を進行するペテロがテノール、アリマテアのヨセフがバスによって歌われることで、ソリストがきちんと4声揃うことになり、それぞれのキャラクターがはっきりしてきています。音楽的な内容も、無意味なコロラトゥーラやカデンツァなどが少し減って、より、物語に即したアリアに変わってきているな、という印象はあります。しかし、これはあくまで作曲家個人の趣味の問題、時代様式的には殆ど変わらないと見て差し支えないでしょう。
サリエリという人、どうしても中華料理(それは「エビチリ」)、ではなく、「アマデウス」のイメージが強いものですから、あの映画でF・マーリー・エイブラハムが演じたキャラクターが思い起こされてしまいます。あそこでトム・ハルスが演じたモーツァルトとは、かなり年が離れているような印象があって、子供相手に嫉妬を抱くなんて大人げない、などと思っていたのですが、実際には年齢は6歳しか違わなかったのですね。ですから、作曲を始めたのは、本当は小さい頃からやっていたモーツァルトの方が先だったことにもなるわけです。というより、あの精神病院のシーンで懺悔を聞くためにやってきた神父の、「モーツァルトの曲は誰でも知っているが、サリエリの曲を知っている人などいない」という認識を、一般通念として固定化してしまったことの方が、問題なわけです。私もそんなに多く彼の作品を聴いたわけではありませんが、以前の「レクイエム」やこの作品を聴くにつけ、彼の作品がメジャーにならなかったのはあくまでチャンスがなかっただけのことで、「質」という点からはモーツァルトに何ら引けを取るものではないという印象を強くしています。この曲に見られる数々のアリアは、それは魅力的なもの、1度聴いただけで好きになってしまえるものも多くあります。中でも、最初のペテロのアリアのような短調で作られている曲のちょっと俗っぽいテイストは、現代においても十分通用するような「ツボ」を刺激されるものです。
ミスリヴェチェクの時に苦言を呈した合唱ですが、ここでは見違えるような素晴らしさ、メンバーを見てみると、各パート7人ほどの中で、同じ人は1人か2人、固定化されていないことから、ムラが出てしまったのでしょうか。ソリストもこちらの方がワンランク上、特にバスのミューラー・ブラックマンのドラマティックな歌いっぷりが印象的です。さらに、最初の序曲から生き生きとした情感をたっぷり披露してくれるオーケストラ、アリアの伴奏でも、とことん積極的な表現で歌手を食ってしまうほどの場面もあって、この知られざる曲から精一杯の魅力を引き出そうとする気持ちがヒシヒシと伝わってきます。確かに、この演奏を聴けば、サリエリのことをモーツァルトにはとても及びも付かない凡庸な作曲家だなどとは、誰も思わなくなることでしょう。とは言っても、来年はまたもや「生誕250年」で盛り上がりそうな兆し、世界中の音楽業界が結託して持ち上げる「モーツァルト・ブランド」を覆すのは、容易なことではありません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-06-20 20:09 | 合唱 | Comments(0)
FAURE/Requiem

Christiane Oelze(Sop)
Harry Peeters(Bar)
Ed Spanjaard/
Netherlands Chamber Choir
Limburg Symphony Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 020(hybrid SACD)



2004年6月の録音、現時点ではもっとも新しいフォーレのレクイエムです。SACDとしても、初めてのものになるのでしょう。この録音、ライナーの写真を見ると教会のようなところでセッションがもたれたようですから、サラウンドで聴いたらさぞかし残響たっぷりのアンビエンスを味わうことが出来ることでしょう。おでんも買えますし(それは「コンビニエンス」)。
しかし、期待に反して、この録音はいたずらにホールトーンを強調したような甘ったるいものではありませんでした。ここから聞こえてきたものは、極めて輪郭のはっきりした、芯のあるサウンドだったのです。それは、あるいはこの曲を鑑賞する際にはあまりふさわしいものではないのかもしれません。そこへもってきて、フォーレのレクイエムを録音するのは今回が初めてというこのオランダの名門合唱団、今までこの曲を録っていなかったのも何となく分かるような気がする、その、フォーレにはあまりそぐわないような精緻極まりないソノリテからは、確かにちょっと趣の異なる音楽が聞こえてきました。
スパンヤールとオランダ室内合唱団という組み合わせでは、以前フランス合唱曲のアルバムをご紹介したことがありますが、その時に感じたある意味即物的なアプローチは、ここでも変わることはありません。「情緒」としてフォーレをとらえるのではなく、楽譜に記されたハーモニーとダイナミックスをきちんと再現すれば、自ずと作品がその姿をあらわすはずだ、という姿勢です。まず、「Introitus」冒頭のニ短調のアコードが、よくあるおどろおどろしいものではなく、明確な意志を伴うキレの良いものであることで、そんな姿勢を確認することが出来ます。使用している楽譜は1900年の「第3稿」、先ほどの写真で多くの木管楽器が写っていることからも、それは分かります。このあたりが、このコンビのスタンスなのでしょう。ただ、「Kyrie」のテナーのパートソロを聴くと、それは旧版の譜割りだったのは、ちょっと残念。しかし、この楽章の最後の、旧版では「eleison」となっているテキストは、きちんと「Kyrie」になっていますから、新版に対するある程度の認識はあったのでしょう。
Sanctus」あたりのソプラノと男声の掛け合いを聴いていると、「聖なるかな」というテキストの持つ敬虔なテイストというよりは、各パート間でもたらされる、まるで火花を散らすような緊張感を感じないわけにはいきません。その印象は、指揮者のキビキビとした、場合によっては素っ気ないと思えるほどの音楽の運びによって、さらに増長されることになります。ですから、「Agnus Dei」の後半、ソプラノが「ド」の音を伸ばしている間にエンハーモニック転調で「Lux aeterna」と変わる印象的な部分も、ハーモニーは変わってもその場の光景が変わることは決してありませんでした。「In paradisum」の最後「Chorus Angelorum」も、いとも淡々と流れていくたたずまい、それがニ長調の美しい響きで終結した時にも、ほのかな余韻がその場に漂うといった情景は、ついに現れることはなかったのです。
エルゼのソプラノは、この文脈の中では確かな輝きを放っています。端正さの中に秘められたドラマティックなパッションは聴き応えがあります。ただ、バリトンのペータースの方は、そのパッションの次元がいかにも安っぽいのが残念です。
カップリングには、ちょっと珍しいフォーレの合唱曲などが収められています。その中で「魔神たち」というダイナミックな曲では、オペラ指揮者であるスパンヤールの面目躍如といった生き生きとした一面が楽しく味わえます。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2005-06-18 22:49 | 合唱 | Comments(0)