おやぢの部屋2
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カテゴリ:合唱( 663 )
MOZART/Mass in C Minor(ver. Levin)

Damrau(Sop), Banse(Sop)
Odinius(Ten), Marquardt(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.227



モーツァルトの「ハ短調大ミサ」はついこの間取り上げたばかり、その際にこの曲が未完であることにも言及していましたね。「クレド」が最初の2曲しかなく(それも、オーケストレーションは未完、ちゃんと作っておいてくれど)、「アニュス・デイ」は全く作られていないというのが、この曲のありのままの姿なのです。かつては作曲されていない部分を補填して演奏する(「シュミット版」がこの形)という事が広く行われていたようですが、最近では作曲者が作ったものだけを演奏するという道が、主流になっています。「ランドン版」や、新全集である「エーダー版」が、その道を先導したものでした。
しかし、あと数週間後に迫った2006年に「モーツァルト・イヤー」を迎えることになれば、やはりこの曲を、ミサ曲が本来あるべき姿で演奏されるようにしてあげたい、という動きも盛り上がってこようというものです。その中心となったのが、宗教曲業界の重鎮ヘルムート・リリンク、彼は同じ志を持つ「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」と「カーネギー基金」の協力の下、このような「修復」には定評のあるロバート・レヴィンにその仕事を依頼したのでした。ご存じの通り、レヴィンは同じ作曲家の「レクイエム」の再構築にあたっても、リリンクとの共同作業で素晴らしい仕事を残していますね。
レヴィンによって出来上がったフルスペックのミサ曲、「クレド」の残りの部分は、この曲が作られた当時の現存する多くのスケッチから修復されました。そして、「アニュス・デイ」には、このミサ曲が作られた2年後に、この曲の「キリエ」と「グローリア」をそのまま使い回しした「悔悟するダヴィデ」という作品の中で、新たに作られたアリアを逆に使いまわすという、なかなか粋なことを行いました。この、本来はソプラノソロのためのアリア、短調で始まったものが後半長調に変わるのですが、そこから「ドナ・ノービス・パーチェム」のテキストが合唱で歌われるようになっています。その結果、このミサ曲は演奏時間7633秒と、まさに「大ミサ」と呼ぶに相応しい堂々たるものに仕上がりました。
この「レヴィン版」、初演は2005年の1月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われ、3月にシュトゥットガルトで行われた再演の模様が、ライブ録音されたものが、このCDという事になります。
その「再構築」の成果ですが、「クレド」の後半は、やはり馴染みがないせいか、ある種の違和感が伴うのは致し方のないことでしょう。この版が根付くかどうかというのは、ひとえに演奏される頻度、いわば「ヘビーローテーション」の有無にかかっているのではないでしょうか。ただ、テノールのソロによって歌われる「Et in Spiritum Sanctum」という装飾的なアリアは、オディニウスのあまりにも稚拙な演奏で曲自体の評価が下がってしまうのが懸念されてしまいます。
しかし、バンゼによって歌われる「アニュス・デイ」には、この大きなミサ曲の中での一つのハイライトと位置づけられるだけの確かな存在感を誰しも認めることが出来るはずです。このナンバーがあることによって、「レヴィン版」は将来もその存在価値をアピールできるだけのものを持ち得たのではないでしょうか。
ライブという事もあって、演奏面では不満足な点も多くなっています。しかし、一つの記念碑的な演奏として、持っているのも悪くはないかな、とは思えるものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-08 19:24 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Great Mass in C Minor

Camilla Tilling(Sop)
Sarah Connolly(Sop)
Paul MacCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/00289 277 5744
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1059(国内盤 1/25発売予定)


モーツァルトの「ハ短調大ミサ」は、彼の宗教曲の中では「レクイエム」に次いで人気のある曲ではないでしょうか。「大ミサ」と言うだけあって、オーケストラの編成も大きく、なにより合唱の規模が最大8声部と、大人数が必要になって、なかなか盛り上がる曲です。こういう人気曲が揃いも揃って未完である、というのが面白いところ、もちろん、こちらの場合はまだ作曲者はピンピンしていましたから、最後まで仕上げなかったのはその必要がなくなったからであって、健康上の理由ではありませんでしたがね。
そんなわけで、「未完」の曲を演奏する際には、色々の方法が出てくるわけで、それぞれの主張に沿った「版」が存在するのも、「レクイエム」と同じことです。「ランドン版」、「バイヤー版」、「モーンダー版」、そして最近出来た「レヴィン版」と、どこかで聞いたことのあるような名前が、「ハ短調ミサ」業界を賑わすことになるのです。いうまでもありませんが、ここには「ジュスマイヤー版」は存在しません。
マクリーシュがここで採用したのは、「モーンダー版」。今まで、この版での演奏はホグウッドとパロットのものしかありませんでしたが、こういうクセの強いマイナーなものは、マクリーシュのセンスには合っていたのでしょう。「レクイエム」のモーンダー版同様、あくまでモーツァルト自身が作ったもの以外は認めない、という頑なな態度は、ここでも貫かれています。ただ、自筆稿以外にも演奏された時の楽譜なども参考にして、「修復」を行った、というのがユニークな点です。一つの標準である新全集として出版されたエーダー版との一番の違いは、「クレド」に金管とティンパニが追加されたこと。華やかな曲調が一層強調されることになりました。
バッハあたりでは合唱は「1パート1人」などという挑戦的なことを実践していたマクリーシュですが、モーツァルトでは、幸い、そんなことはやらないでくれました。全部で30人程度の人数は、オーケストラとのバランスから言っても過不足のないところでしょう。複雑なフーガのメリスマなど、技術的には安心して聴いていられるものがあります。しかし、残念ながら、女声パートのまとまりなどは、今のイギリスの常設の合唱団の水準には到底及ばないものであることは認めないわけにはいかないでしょう。ただ、オーケストラも含め、こんなちょっと「雑」な感じは、もしかしたらマクリーシュの趣味なのかもしれませんから、一概に決めつけることは出来ないでしょうが。
その「趣味」を認めれば、ティリングとコノリーという2人のソプラノソロの起用も、ある程度理解できるかもしれません。高音はとても立派なのに低音は全く使い物にならないというのと、リズム感の欠如という大きな欠点をもつティリングと、コロラトゥーラがとてもお粗末なコノリーは、普通の趣味でしたらこういう様式を持つモーツァルトの演奏には使わないと思うのですが。ティリングの歌う「クレド」の2曲目、「エト・インカルナトゥス・エスト」などは、素朴なオリジナルの木管楽器とは全く溶け合わない立派な声だけが、異常に目立って聞こえてしまうアンバランスなものでした。
ただ、カップリングとして収録されているハイドンとベートーヴェンのソロカンタータでは、この2人はまるで水を得た魚のように生き生きとした、ドラマティックな歌を披露してくれています。「『シェーナ』と『アリア』」という、殆どオペラの1場面を切り取ったような劇的な作品、マクリーシュはこういう音楽と共通するセンスをモーツァルトのこのミサの中に痒い目で(それは「麦粒腫」・・・仙台では「バカ」と言います)見出したということを、強調したかったのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-30 20:21 | 合唱 | Comments(0)
FAURÉ/Requiem


Sylvie Wermeille(Sop)
Marcos Fink(Bar)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal et Instrumental de Lausanne
AVEX/AVCL-25046(hybrid SACD)



先日、「CDの価値は収録時間の長さでは決まらない」と書いたばかりですが、やはり程度問題というのはあるものです。今回はSACDということもあるのでしょうが、37分しか入っていなくて3000円、微妙ですね。
コルボにとって、おそらく3度目になるこの曲の録音、1972年(ERATO)と1992年(ARIA)の時には普通の「第3稿」が用いられいましたが、ここではなんと「ネクトゥー・ドラージュ版」という、「第2稿」にあたる版で演奏されています。長年この曲を演奏し続けてきた彼が晩年に到達したのがこの版だったというのは、感慨深いものがあります。なんでも、最近山形県のさるアマチュア合唱団が、この「ネクトゥー・ドラージュ版」でコンサートを開いたとか、合唱の現場では確実にその知名度は広がってきています。木管楽器もトゥッティのヴァイオリンもないという極めてユニークな編成によって味わう独特のフォーレ・サウンドが、どんな演奏会でも聴ける日が来るのもそう遠いことではないはずです。ただ、同じ「第2稿」と言っても、ジョン・ラッターが編曲したいわゆる「ラッター版」は、私はある種妥協の産物ではないかと思っているのですが。
この録音は、今年の2月に日本で行われたコンサートのライブ録音です。東京オペラシティのコンサートホールという、合唱などは非常に美しく響くホールなのですが、この録音は必ずしもその合唱がバランスよく収録されたものではありませんでした。どちらかというと、オーケストラの方に重点を置いたような不思議なバランス、ヴィオラの深い響きが織りなす渋いオーケストレーションは存分に堪能できるのですが、肝心のコーラスがそのオーケストラに埋もれてしまって、あまり聞こえてこないのです。最近、マルチチャンネルのハイブリッド盤で、CDレイヤーを聴いた時によく感じられるこのアンバランス感、もしかしたら、エンジニアの耳がサラウンドに偏ってしまって、もはや2チャンネルには対応できなくなってしまっているせいなのでしょうか。
コルボという人に関しては、私は決して熱心なリスナーではありません。マンガは好きですが(それは「コルボ13」)。というのも、例えばERATOから出ていた一連のモンテヴェルディの作品などでは、そのあまりに主観の勝った表現に辟易した記憶があるからです。「精神性」や「神への信仰」を語る前に、もっとやるべきことがあるのではないか、という思いが、どうしても彼の演奏にはついて回ったものでした。しかし、彼の場合、ライブでの聴衆を巻き込んだ燃焼力には、何かとてつもない魅力があるのかもしれません。別の曲でのライブ盤を聴いたことがありますが、殆ど崩壊寸前のその混沌の中からは、確かに彼にしかなし得ない「何か」が聞こえて来たような気がしたものです。
今回の東京でのライブ、その「燃焼力」は「Libera me」で確かなものとなって現れていたことを、このCDによって知ることが出来ます。通常の演奏、そして、彼自身の演奏と比較してもおそらく倍近くの演奏時間ではないかと思われるほどのとてつもなく遅いテンポからは、かつてこの曲からは聴いたことのなかったおどろおどろしい情感が伝わってきたのです。まるで今にも倒れそうなほどの頼りない足取りが聞こえてくるような低弦のピチカートに乗って歌われるバリトン・ソロは、何か大きな不安を内に秘めているかのように、聴衆の耳には届いたことでしょう。このテンポが本番だけのものだったのは、そのバリトン、フィンクが、思ったように息が持たなくて、プロにはあるまじき場所でブレスを余儀なくされたことでも分かります。
Pie Jesu」でのソロは、コーラスのメンバーでもあるヴェルメイユ。その不安定な音程と、苦しげなビブラートは、いかに無垢な声であってもカバーすることは出来ません。したがって、合唱のレベルも、極上とは言い難い歯がゆさを伴うものでした。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-23 19:55 | 合唱 | Comments(2)
Sacred Choral Music




Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
OEHMS/OC 540



バイエルン放送合唱団という、長い伝統を誇る合唱団(なんでも、バイエルン放送局所属の音楽団体としては、最初に出来たものだとか)は、バイエルン放送交響楽団と共演した数々のレパートリーで、広く知られています。合唱を伴う古典的な名曲のみならず、「放送合唱団」ということもあって、その時代に出来たばかりのいわゆる「現代音楽」も数多く演奏、録音しているのは、よく知られています。例えば、1968年に録音されたリゲティの「レクイエム」の放送音源は、あの「2001年宇宙の旅」という有名な映画のサウンドトラックとして使用され、その「歌声」はクラシックとは縁のない多くの聴衆の耳にまで届いていたのです。もちろん、あの「モノリスのテーマ」をきちんと「音楽」として捉えられた人は、それほど多くはなかったはずですが。
この由緒ある合唱団の音楽監督に最近就任したのが、ペーター・ダイクストラです。この名前、どこかで聞いたことがあると思った方は、なかなかの合唱通、そう、ここでも以前ご紹介した「ジェンツ」という団体の指揮者として、私の記憶にもありました。1978年生まれといいますから、まだ20代後半、しかし、幼少の頃からボーイソプラノとしてのキャリアを誇り、12歳の時にはすでに指揮の経験もあったというダイクストラ君は、多くの指導者によってその才能を磨かれ、若くして一人前の合唱指揮者としての地位を築いてしまったのです。
オランダで生まれ、オランダで教育を受けた彼ですから、音楽的にはフランス的な要素を多く身につけてきたことでしょう。「ジェンツ」のアルバムでは、デュリュフレ、プーランク、メシアンなどを、実に爽やかに演奏していたのが印象的でした。そのような資質の彼が、この南ドイツの合唱団を任されて行ったのは、この合唱団が誇る豊かな伝統に、新しい要素を付け加える、ということでした。このアルバムで彼が選んだ曲目は、先ほどの3人のフランス人のものと、オランダのトン・デ・レーウの作品だったのです。
最初にプーランクの「サルヴェ・レジーナ」が聞こえてきた時には、その洗練されたソノリテに、ちょっとびっくりしてしまいました。確かに、そこには「ドイツ」といって連想されるような鈍重さは殆ど見られなかったのですから。事実、この合唱団のメンバーを見てみると、「ゴーダ・マサコ」さんとか「スズキ・アツコ」さん(どこかで聞いた名前?)といった日本人と思われるものも見かけられますから、体質的にはもはやそれほど「ドイツ」ではなくなっているのかもしれませんね。
しかし、聴き続けていくうちに、音色的には軽やかではあっても、音楽の作り方には依然として「鈍重さ」が残っていることが、じわじわと感じられるようになってきます。それは、指揮者がどうのこうのと言う以前の、例えばメンバー1人1人のハーモニーの感じ方のようなものなのですが、具体的には和音が変わる時のフットワークが、非常に重たく聞こえてしまうのです。フランス人であれば何もためらわないでスパッと切り替えられることが、彼らには非常に難しいことのように思えてしまうのですね。これが「伝統の重さ」というものなのでしょう。ドイツの、ある意味論理的な和音進行を表現することを至上のものとしてきた合唱団にとって、フランスの、彼らにしてみればノーテンキに違いないハーモニーを演奏することがこんなに難しかったのか、という、逆の意味でのカルチャー・ショックに近いものを味わった思いです。
同じ指揮者によって歌われているメシアンの「おお聖餐よ」を、「ジェンツ」のものと「バイエルン」のもので比べてみる時、その間には見事なまでの文化の「壁」が横たわっているのが分かるはずです。フランス語のテキストが用いられているデ・レーウの「祈り」という曲も、そのディクションはおよそフランス語とはほど遠いもの。ダイクストラ君の前途は、決して楽観できるものではありません。年末も近いことですし、早めに風邪薬を飲んで、合唱に備えておきましょう(「第9」ストナ)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-17 20:24 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Requiem(Ed. Levin)


C. Brewer(Sop), R. Donose(MS)
J. Tessier(Ten), E. Owens(Bas)
Donald Runnicles/
Atlanta Symphony Orchestra & Chamber Chorus
TELARC/CD-80636



このレーベルでは3枚目となるモーツァルトのレクイエムです。今までのものは、ショウ/アトランタ交響楽団によるバイヤー版と、パールマン/ボストン・バロックによるレヴィン版だったわけですが、今回の新録音はその間を取ってアトランタ交響楽団によるレヴィン版という組み合わせになっています。もちろん、オーケストラは同じですが、指揮者はロバート・ショウからラニクルズに変わっているのは、言うまでもありません。もう一つ、このラニクルズが録音した「カルミナ・ブラーナ」の時には単なる「合唱団」という呼称だったものが、今回は「室内合唱団」という表示になっています。合唱指揮者の名前がノーマン・マッケンジーという同じ人ですから、おそらくこれは同じ団体なのでしょう。人数が少なくなった時にだけ「室内」という呼び方をしているのかもしれません。もっとも、ブックレットのメンバー表を見ると、総勢70人近く、普通の「合唱団」は100人以上だといわんばかりのこの感覚には、ちょっと馴染めません。
かつて、ロバート・ショウとともに大規模な合唱曲の数々の優れた演奏を録音していたこのコンビですが、残念なことにショウ亡き後はそのレベルは大幅に低下してしまったように見えます。繊細さからはほど遠いその大味な肌触りには、失望を禁じ得ません。パートごとの焦点が全く定まっていないために、その集まりである合唱団としても、音としての方向性が全く見いだせなくなっているのです。
オペラハウスでキャリアを築いてきたラニクルズは、オペラ歌手をソリストに揃えて、このレクイエムから殆どオペラに近いドラマを描き出そうとしたに違いありません。「入祭唱」で、ソプラノのブルワーが力強い声で朗々と歌い出した時、その印象は確固たるものになりました。合唱に付けられたちょっと聴き慣れない抑揚も、そんなドラマティックな表現を目指したものなのでしょう。ただ、そんな指揮者の要求に全くついて行けない合唱団の技量だったため、そこで描かれたドラマは全く当初の目論見からは外れたものになってしまったのには、笑うしかありません。「キリエ」の二重フーガでのハチャメチャなメリスマからは、対位法の妙と言うよりは、まるで、お互いの立場を主張して譲ることのない嫁と姑の「言い争い」の姿のようなものが、見事に描き出されていたのですから。この版での目玉である「アーメン・フーガ」では、そこに息子も加わって果てしない修羅場が繰り広げられるといった有り様。「ディエス・イレ」もすごいですよ。合唱とオーケストラは全くかみ合っていないものですから、もはや家の中の争いごとでは済まないような、そう、フランスの暴動のような事態が眼前に広がってきます。
そんな、およそモーツァルトが描いたものとはほど遠い画面が見えてしまったのには、録音の悪さも手伝っていたはずです。実は、最初に聴いたのはいつも使っているシステムではないサブの装置だったのですが、全く明瞭さにかける鈍い音にはがっかりしてしまったものです。本来の装置で聴き直してそれは少しはマシにはなりましたが、弦楽器の潤いのない音などは装置が変わっても改良されることはありませんでした。もちろん、これだけの大人数の合唱を満足に再現できるはずもなく、演奏者の欠点だけを強調したような惨めな音になってしまったのです。これはSACDではありませんが、録音はDSD、最良の方式でも悪い録音はあり得るという、当たり前のことが再確認されてしまいました。
このCDに存在価値を見いだすとすれば、こういう演奏が出てくるほどレヴィン版の存在自体が一般的になってきた、ということなのでしょうか。韓国料理の方は、とっくに一般的になっていますが(それは「ビビンバ」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-11 20:15 | 合唱 | Comments(1)
The Christmas Album


Vaughan Meakins/
Chamber Choir of the Arts Educational School,Tring Park
The Ambrosian Singers
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222901-203(hybrid SACD)



いつものことですが、「クリスマス」というキリスト教の宗教行事に対するこの国の人々の関心の強さには、つくづく感心させられてしまいます。なんと言っても、11月に入るやいなや始まる「クリスマス商戦」の盛り上がりにはものすごいものがありますからね。昨年ファッションビルの前に出現した、青色LEDで彩られた巨大なクリスマス・ツリーは、今年も暖色系のオーナメントを交えて早々と姿を現し、手ぐすねを引いて客を呼び込むのに躍起になっています。
ですから、そのビルの8階にあるCDショップで、まさにそのものズバリのタイトルを持つこんなアルバムが陳列されていても、とがめる人は誰もいないはずです。それどころか、サラウンドのマルチトラックまでしっかり収められているSACDが税込み790円なのですから、お手軽なクリスマス・プレゼントとして、これほど価値のあるものはありません。
なんでこんなに安いのかと、レーベルを見てみたら、これはあの超低価格のモーツァルトの交響曲全集を出したところと同じではありませんか。1995年に録音された、ロイヤル・フィルのバジェット音源を、新たにサラウンド仕様にしたもの、それで納得です。
そんなアルバムですから、ほんの軽い気持ちで聴き始めたのですが、最初に聞こえてきたのがジョン・ラッターの「Shepherd's Pipe Carol」だったのには驚いてしまいました。私が大好きな「Polyphony」がHYPERIONに録音したラッターのクリスマス曲集の、やはり最初に入っている、シンコペーションが印象的な軽快なキャロルに、こんなところで出会えるとは。つまり、そんなバジェットですから、ジャケットには曲名以上のデータはなく、聴いてみて初めて分かったということなのです。嬉しいことに、ラッターの曲はこれだけではなく、他にも「Nativity Carol」、「Candlelight Carol」、「Donkey Carol」、「Away in a Manger」と、都合5曲も入っていましたよ。歌っているのが、「芸術教育学校」というのでしょうか、イギリスの教育制度はよく分かりませんが、多分高校生ぐらいの女声合唱です。これが、なかなかのもの。児童による聖歌隊ほどの禁欲的なものではなく、かといって大人のくどさもないというほどよいテイストが、ラッターのキャッチーなメロディーに見事に合致しているのです。これは、「Polyphony」のある意味完璧な演奏とは全く別の次元の魅力を持つ、素晴らしい演奏でした。

    CDA 67245

もう一つの嬉しさは、2曲目の「Walking in the Air」。ご存じ、レイモンド・ブリッグスの絵本「スノーマン」を、そのままの筆致で再現した感動的なアニメの主題歌です。少年を背中に乗せた雪だるまが海の上を飛んでいる時に流れる、このハワード・ブレイクが作った曲(思い出すだけで、ウルウルしてきません?)、オリジナルはボーイ・ソプラノでしたが、今回の女声バージョンも、とても素敵です。その他に、ここで指揮をしているヴォーアン・ミーキンスが作った「Stable Carol」という、ウィンナ・ワルツ風の曲も、楽しみがいっぱい詰まった名曲ですよ。
これだけで、もう充分なほどの満足感が得られるのですが、後半には、アンブロジアン・シンガーズの男声も加わった、本当によく知られたクリスマス・ソングのオンパレードが待っていました。これさえあれば、あなたが大切な人と過ごすイヴの夜が極上の雰囲気に包まれるのは、間違いありませんよ。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-09 20:05 | 合唱 | Comments(0)
SUMERA/Mushroom Cantata & Other Choral Works



Tõnu Kaljuste/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Tallinn Chamber Orchestra
BIS/BIS-CD-1560



1950年に生まれて2000年に亡くなったという、非常に分かりやすい一生を送ったエストニアの作曲家、レポ・スメラの合唱作品集です。スメラという人は、幅広いジャンルで作品を残しており、例えば「交響曲」なども6曲作っています(全て、この同じレーベルからリリースされています)。そのようなオーソドックスなものだけではなく、コンピューターによる音楽や、電子音と生音を融合させたユニークな作品なども手がけており、映画のための音楽も70曲ほど作っているということです。もっとユニークなのは、1988年、つまり彼が38歳(!)の時から4年間、エストニアの文化大臣を務めていた、というものです。平均年齢60何歳という、どこぞの国の内閣ではとても考えられない人事ですね。もっとも、その国の「象徴」には年齢制限はありませんが(それは「スメラミコト」)。
このアルバムに収められている4つの合唱曲は、いずれもこれが世界初録音となるものばかり、いずれも、スメラの非常に特徴のある作風を反映した、聴き応えのあるものです。彼の作曲様式は、言ってみれば「折衷」ということにでもなるのでしょうか。古典的な和声や対位法はきちんと踏まえた上で、20世紀に我々が獲得することの出来たあらゆる技法を効果的に散りばめるというものです。一見難解に聞こえるようであっても、聴き終わってみれば楽しい思い出が残っているという、極上のエンタテインメントの要素が、どの曲にもしっかりと含まれているのです。
「声と楽器のための協奏曲」は、混声合唱と弦楽合奏のための曲です。「協奏曲」というだけあって、急-緩-急という3つの楽章から成る古典的な構成を持っています。その両端の楽章には、いろいろ難しいことをやっていても、最終的にはリズミカルでハッピーな結末を迎えるという、彼の本質(?)がよく現れています。そして、真ん中のゆっくりした楽章は、まさに彼の先輩であるペルトと非常に似通ったテイストを感じることが出来るという、わかりやすさです。この曲のテキストがブックレットに載っていますが、それは「翻訳不可能」という、エストニア人にしか分からないような世界なのだそうです。逆に、「言葉」ではなく「音」として楽しむという右脳的な聴き方が許されるだけ、親しみやすさは増すことになります。それでも、最後には「カシオペア!」とか「グローリア!」という言葉が連呼されますから、嬉しくなってしまいます。
「あなたの祖国は、長く暗黒にあるかもしれないが」というのは、3分ほどの短いア・カペラ曲。ここでも、さまざまな「技」が楽しめます。
「マッシュルーム・カンタータ」は、フルートとピアノ、そして打楽器を伴う混声合唱のための4楽章の曲です。この楽器編成だと、まるでカール・オルフのような雰囲気が醸し出されてきます。事実、同じようなリズムパターンの繰り返しなどは、明らかにこの周辺の作曲家の影響でしょう。フルートの使い方が効果的、最初はただのオブリガートだったものが、次第に超絶技巧になっていくのは見物です。
最後の曲は、30分近くかかる長大な「海からの島の乙女の歌」。元々ダンスとのコラボレーションのために作られたものですが、そのドラマティックな構成には驚かされます。と言うのも、ここでは合唱の他に7人の「俳優」が加わって、「セリフ」とか「叫び」とか「笑い」などを提供しているからです。実際には、どこからが合唱でどこからが俳優なのか分からないような、「微少音程でハモるセリフ」などもあって、音楽と演劇が渾然一体となったスメラの世界が果てしなく繰り広げられます。
久しぶりの顔合わせとなるカリユステとこの合唱団、地声からベル・カントまでを縦横に使い分け、この多彩な世界を見事に描ききっています。どんな無茶なことをやらされても、基本の三和音がどんな時にでも美しく響いている幸福感は、無上のものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-02 22:56 | 合唱 | Comments(0)
VICTORIA/Requiem




Harry Christophers/
The Sixteen
CORO/CORSACD 16033(hybrid SACD)



2001年に創設されたイギリスのレーベルCOROは、当初はCOLLINSというすでに活動を停止したレーベルにあった「ザ・シックスティーン」のカタログをリマスターして再発するということを行っていました。それは、以前こちらでご紹介したことがありますね。しかし、最近ではそのような旧録音だけではなく、独自に新しい録音も始めるようになったようです。その最新作が、このヴィクトリアの「レクイエム」とモテットを集めたアルバムです。スペインのルネッサンスを代表する作曲家、トマス・ルイス・デ・ヴィクトリアには、若い頃に作られた4声部の「レクイエム」がありますが、ここで聴けるものは、彼の最晩年の作品、というか、殆ど最後の作品となった、1605年に作られた6声部のものです。
この「レクイエム」、当時の慣習なのでしょうが、それぞれの曲に先だってグレゴリオ聖歌が演奏されています。それを聴いていると、まるでデュリュフレの作品を聴いているような錯覚に陥るのは、ちょっと不思議なものです。もちろん、デュリュフレの方が昔からあったこの旋律をほぼ完璧にコピーして、現代の作品として蘇らせたのですから、そんな感想を持つのは正しいことではないのでしょうが、350年もの時を経た作品の間に、グレゴリオ聖歌というものを介して全く同じテイストを感じることが出来たというのは、何かものすごいことのような思いがします。ほんと、「奉献唱」など、そのまま続けてデュリュフレの作品になってしまっても何の違和感も抱くことはないようなアブなさがあります。
この曲は、ヴィクトリアが仕えた皇太后マリアの葬儀のために作られたものなのですが、ここには死者を悼む哀しみよりは、むしろ天に召されることに対する祝福のようなものを感じてしまうのは、いけないことなのでしょうか。というのも、この曲のなかで使われているモチーフが、ことごとく上昇音型によったもののように聞こえるからです。その最も印象的なものが、冒頭の「入祭文」の、お馴染みのグレゴリオ聖歌に続いて聞こえてきます。まるでファンファーレのようなそのフレーズからは、まさに昇天のイメージがかき立てられてもそんな見当外れではないと思うのですが。
そのように感じてしまったのは、クリストファーズたちの演奏が、湿っぽさなど微塵も感じられない華やかなものだったことと、大いに関係があるに違いありません。まるで鋼のように伸びのあるソプラノパートと、それを張りのある声で包み込む他のパート、そして、さらに厚みを増すために加えられたオルガン。それらが録音会場であるシラス教会のなかで響き渡る時、あたかも私達がとても晴れがましい祝典にでも参列しているような気持ちになるのはごく自然の成り行きです。
そして、先ほど、現代のデュリュフレの作品とも何の違和感もなく共通点が見いだせたのは、そのような華やかさに加え、彼らがこの曲から現代でもしっかり通用するようなエモーションを引き出しているせいなのでしょう。それぞれのパートが熱く思いの丈を込めて歌い上げる姿からは、時代も、そして宗教も超えた、まさに魂のほとばしりのようなものが伝わってきます。このような体験を味わうことを、あるいは「感動」というのかもしれません。便秘の時にもそんな「ほとばしる」体験が(それは「浣腸」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-21 19:48 | 合唱 | Comments(0)
XL/Choral Works for 40 Voices



Arvid Gast(Org)
Simon Halsey/
Rundfunkchor Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 801873(hybrid SACD)



真っ白いジャケットに銀色の「XL」という文字、かなり印象的なデザインには惹き付けられてしまいます。これは、ローマ数字で「40」を表す文字なのですが、同時に「eXtra Large」という意味も持たせてあるという、イギリスの作曲家、アントニー・ピッツの作品のタイトルにもなっています。「40」の声部を持つ「巨大な」作品というと、すぐ思い出されるのが、16世紀に活躍したトーマス・タリスのモテット「Spem in alium」でしょうが、このアルバムはそのタリスの曲をまず収録した上に、それと同じ40の声部をもち、テキストには詩編40を用いるという、とことん「40」にこだわったピッツの2002年の新作を初(おそらく)録音した、というものです。さらに、その大編成のサウンドをきっちり「サラウンド」で体験してもらうために、マルチチャンネル仕様であることが大きく打ち出されたものになっています。ただ、その合唱団の並び方と、それに応じたマイクアレンジが図示されたライナーによって、そんな、いわばサラウンドのデモンストレーションで終わってしまっている底の浅いアルバムのような印象を持たれてしまうのは、もしかしたら演奏家にとっては不本意なことだったのかもしれません。
実際、そんな「際物」であっても仕方がない、という思いで聴き進むうちに、このアルバムの本当のコンセプトは、そんな表面的なものではなかったことが、痛感されることになります。これは、先ほどのタリスだけではなく、グレゴリア聖歌や、パーセル、バッハといったいにしえのオリジナルと、それを素材にして作られた20世紀後半(ピッツは21世紀)の新しい曲を並べて紹介するという、かなりスリリングなものだったのです。
そのバッハでは、「フーガの技法」のコントラプンクト1がオルガンで演奏されたあと、ディーター・シュナーベルによる無伴奏合唱バージョンを聴くことが出来ます。そこには、まるでウェーベルンによる「音楽のささげもの」のような点描的なレアリゼーションによる、ちょっと不思議な浮遊感が漂っていました。そして、もう一つの「バッハネタ」が、なんとあの「Immortal Bach」ではありませんか。このアルバムで初めて聴いた、バッハのコラール(BWV478)を元ネタ(最初に、オリジナルが提示されます)にして、次第に原形をとどめないほどに「壊して」いくという、一度聴いたら忘れられない名曲に、こんなところで再会出来ようとは。しかも、この演奏は前に聴いたものより、その壊し方が徹底されている快演なのですから、嬉しくなってしまいます。
同様の仕掛けは、マーラーの8番で有名な聖歌「Veni, creator spiritus」(最初の「ヴェーニッ!」というのが「千人!」と聞こえることから、この曲は「千人の交響曲」と呼ばれていますね)を素材にしたジョナサン・ハーヴェイの「Come, Holy Ghost」にも見られます。2人のソリストが呼び交う中、8声の合唱は不思議なバックグラウンドノイズを奏でます。終盤では、それはまるでリゲティの「レクイエム」のような様相を見せるのですから、面白くないわけがありません。
いずれの曲に於いても、ベルリン放送合唱団が卓越したテクニックとソノリテで、存分に楽しませてくれたのが、アルバムコンセプト同様あまり演奏に関しても期待をしていなかったことに対する嬉しい裏切りでした。ただ、タイトル曲であるピッツの作品は、いまどき12音やシュプレッヒ・シュティンメではないだろうという、技法的に硬直したものが見られて、ちょっと期待はずれ。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-12 20:34 | 合唱 | Comments(0)
DURUFLÉ/Complete Choral Works

Thomas Herford(Bar)
Clare Wilkinson(MS)
Mark Williams(Org)
Richard Marlow/
Choir of Trinity College, Cambridge
CHANDOS/CHAN 10357



「レクイエム」でお馴染みのモーリス・デュリュフレの「合唱曲全集」、といっても、彼が生涯に作った合唱曲は、ちょうどCD1枚に収まる分量の、このアルバムの4曲が全てになります(録音が行われたのは1999年から2005年までということになっていますが、どの曲がいつ録音されたかというデータは、不親切なことにここには一切ありません)。彼の作品は合唱曲以外にはオルガン曲とほんの少しのオーケストラ曲というごく限られたもので、そもそも、ここに収められている「われらが父よ」という無伴奏混声合唱曲が「作品14」という、彼の最後の作品なのですから。ただ、そんな手頃な「全集」とは言っても、今までこの4曲全てを1枚のCDに収録したものとしては、オドネル盤(HYPERION/1994スーリス盤(SYRIUS/1998ロビンソン盤(NIMBUS/1998ぐらいしかなかったのですから、これはちょっと貴重。
マーロウと、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ聖歌隊は、1989年に、CONIFERに「4つのモテット」とミサ「クム・ユビロ」を録音していました。その時のカップリングはフォーレの「レクイエム」のネクトゥー・ドラージュ版と、メシアンの「おお聖餐よ」でしたね。したがって、最初にその録音との比較を試みるのが、手順、というものでしょう。「冬ソナ」ですね(それは「ペヨンジュン」)。しかし、懐かしいCONIFERをまず聴いて、その純粋な響きを堪能したあと、このCHANDOS盤を聴いてみたところ、やはり合唱団というのは生き物、10年ちょっとの間にかなり肌触りが異なっていることに気づかされてしまいます。無垢な中にも暖かい響きを持っていた女声(成人女声です)には、なにか突き放したような冷たさが宿っていることを認めないわけにはいきません。男声の柔らかい響きは健在でしたが、ちょっとパートとしてのまとまりがなくなっています。これは男声のユニゾンで歌われる「クム・ユビロ」ではっきり分かることなのですが、かつて完璧なまでに一つのパートとして迫ってきたユニゾンの絆がバラバラになって、個々のメンバーがそれぞれ別の方向を向いてしまっている、という印象を受けてしまったのです。
ただ、今回オルガンパートだけは、明らかに前回よりも良くなっているのがはっきり分かるというのはちょっと皮肉なものです。録音場所は同じトリニティ・カレッジですから、同じ楽器を使っているはずなのに、その存在感が全く異なっています。逆に、オルガンが立派すぎるために合唱が少し見劣りしているのかもしれません。
そんな状況で、本命の「レクイエム」を聴いてみましょう。こうなってくると、合唱の方はあまり期待できませんから、いきおい、耳はオルガンに向くことになりますが、その適切なストップの選択から生まれる表情豊かな演奏からは、殆どフルオーケストラと比べても遜色ないほどのものが聞こえてきたのには、嬉しくなってしまいました。そして予想通り、合唱はこの曲の全てのCDを聴いてきた私としては不満だらけのものでした。男声のユニゾンで始まる第1曲目の冒頭でもうがっかり、そのあとの女声も重苦しい響きで、ここでぜひあってほしい羽根のようにフワフワした浮遊感が全く感じられません。逆に「サンクトゥス」などで要求される力強さも、ただの荒々しさでしかありませんでした。そんな幅広い表現力が必要とされるこの曲での合唱の難しさを、改めて痛感されることになってしまったわけです。ソリストの2人も、ちょっと水準以下、メゾのウィルキンソンなどは、殆ど素人です。せめて、フォーレを録音していた時に、この曲も録音してくれていたら、というのは、もはや叶わぬ望みなのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-10-08 19:32 | 合唱 | Comments(0)