おやぢの部屋2
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カテゴリ:合唱( 671 )
MOZART/Requiem & Symphony No.36


Kate Royal(Sop), Karen Cargill(Alt)
Robert Murray(Ten), Matthew Rose(Bas)
Jiri Belohlavek, Walter Weller
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BBC Symphony Orchestra & Chorus
BBC MUSIC/BBC MM262



ヘル・モーツァルト、お誕生日おめでとうございます!あなたが生きておられたら250歳ですね。「BBC Music Magazine」という音楽雑誌に、BBCが放送用に録音した音源が付録CDで付いているのですが、今月号にはあなたの「レクイエム」のライブ録音と、「リンツ」のスタジオ録音のものが入っていましたよ。
1995年から首席客演指揮者を務め、今年の「プロムス」からは晴れてこのBBC交響楽団の首席指揮者のポストに就く事になっているビエロフラーヴェクが指揮をした「レクイエム」、実は、さる筋から「バイヤー版」で演奏されているという情報を得たものですから、わざわざ取り寄せてみることにしたんです。あなたの死後にいろいろな人が手を入れたこの曲のコレクションが、また1枚増えた事になります。
しかし、単にリストを充実させるためだけに入手したこのCDを聴いてみると、そんな私の不純な動機が恥ずかしくなるような素晴らしい演奏だったのには、ちょっと焦ってしまいましたね。
冒頭の「Requiem aeternam」での、重々しい歩みを聴いただけで、ビエロフラーヴェクが目指している音楽がかなり深いものである事が予想されてきますよ。それほどに、指揮者とオーケストラが一体となった「悲しみ」が伝わってきたのですね。それを受けたソプラノソロも、その思いをきちんと受け止め、決して過剰にならない「訴え」を歌に乗せていました。ただ、この段階では合唱がそこまでの境地に入っていないのが、ちょっと惜しいところだったでしょうか。いかにも表面的な歌い方には、「違うな」という感を抱いてしまったのですよ。
ところが、「Dies irae」に入ったあたりから、その感じが払拭されて合唱にも徐々に指揮者のパトスが乗り移ってきたではありませんか。このあたりが、ライブのおもしろさなんでしょうね。それまではちょっとよそよそしかったものが、何かをきっかけに一体となった表現の仲間入りをしてきて、全体が一つの方向を向いた主張を始めるようになってきたのですね。あなたがダイナミックスを書き込まなかったようなところに加えられた、ほんのちょっとした歌い方の工夫(ベースのパートソロで「Quantus tremor est futurus」と始まる部分)が、しっかり私達の耳をとらえて、新鮮な表現に感じられたのです。それは、このように全員の心が一つになった時に、初めて訴える力を持つものなのかも知れませんね。自分のエゴを、さもあなたが望んだものであるかのように押しつけるアーノンクールのような人が同じ事をやってもなんの感興もわかないのは、きっとそのあたりの違いなのでしょう。
Tuba mirum」になると、ソリストたちにも驚かされるはずですよ。バスのローズの声の立派な事。そして、他の人達も同じような立派さのベクトルを持っている上に、アンサンブルでも誰かが飛び出すという事がなく、全く同じ方向を向いているという素晴らしさです。
後半に向けての盛り上げも、すごいものがあります。「Sanctus」で一旦軽いテンポで意表を衝いたかと思うと、次の「Benedictus」では一転してしっとりと聞かせるといった具合です。あ、これはあなたが作ったものではありませんでしたね。でも、このように共感を持って演奏されると、あなたの弟子もなかなかのものだったと思ってしまいますよね。曲が終わって最後の和音が鳴り響いたあと、しばらく静寂が続いた後に訪れる温かい拍手。この拍手まで含めて、確かに良い演奏を聴いたという余韻に浸れるはずですよ。
カップリングが、ワルター・ヴェラーという渋い指揮者の「リンツ」ですが、これもオーケストラの弦楽器の響きを上手に導き出して、とても温かい演奏を聴かせてくれています。
このCD、あなたの頃の習慣とはちょっと違った演奏様式かも知れませんが、もし聴いて頂けるようなことがあれば、きっと満足されると思いますよ。駄洒落好きのあなたにはとても太刀打ちできませんから、きょうの「おやぢ」は勘弁して下さいね。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-27 20:42 | 合唱 | Comments(0)
にほんのうた第1集~第4集








デュークエイセス
東芝
EMI/TOCT-11008/11


デュークエイセスというコーラスグループ、昨年創立50周年を迎えたそうです。デューク(19)年しか続かないと思っていただけに、これは驚きです。同じ時期に結成された男声カルテットである「ダーク・ダックス」や「ボニー・ジャックス」が、現在では見る影もなく衰えてしまって、とてもコーラスの体をなしていないのとは異なり、このグループは今でもそのタイトなハーモニーの健在さを誇っています。15年ほど前にはトップテナーの谷口さんが急死するという危機があったのですが、無事に新メンバーを迎えることが出来て、以前と変わらない精力的な活動を繰り広げているということです。もっとも、私にとっては前のメンバーの時代のデュークこそが、最高の存在でした。谷口さんとバリトンの谷さんという、非常によく似た声の2人が中心になって作り出された独特のハーモニーは、どんな時にも乱れることのない鉄壁の強固さを見せつけていたのです。極論すれば、それ以後、日本にはこれ以上のコーラスグループは出現していないのではないでしょうか。
今回、50周年に合わせて、その頃の代表作である4枚組のシリーズが、何回目かの再発となりました。これは、1966年から1969年にかけてリリースされたもので、作詞家の永六輔と作曲家のいずみたくというチームがデュークエイセスのために日本全国47都道府県にちなんだ歌を作るという壮大なプロジェクトの成果でした。最終的には1県で2曲以上作られたところもあり、全部で53曲となるシリーズが完成したのです(アルバム未収録の曲もあります)。
この録音が行われたころの日本の音楽シーンは、さまざまな面で大きな変化を遂げた時期でした。このシリーズでも、第2集(196710月)と第3集(1969年3月)の間には、マルチトラックを導入したのではないかと思われる、サウンドとしての劇的な変化が見られます。演奏というか、編曲の面でも、この頃には確かに新しい流れが始まっているような感触がはっきり分かるはず、以前はウッドベースだったものが、キレの良いエレキベースに変わっただけで、曲の姿が全く変わっているのに気づくことでしょう(このピックベースは、もしかしたら江藤勲さん?)。
この53曲の中には、例えば「いい湯だな」とか「女ひとり」といった、今でも親しまれている「ヒット曲」も確かにあります。しかし、大半のものはまず普通の場所では聴かれることのない、忘れ去られた曲に違いありません。ご当地宮城県の歌は「こけしの唄」というものですが、「こけし お前は 俺に似てる」というこの歌を知っている人は、今では誰もいないはずです。しかし、今回久しぶりに全曲を聴き直してみて、そんなポピュラリティとは無縁の、「作品」としての価値を持っている骨太な曲があったことにも気づかされました。それは沖縄の「ここはどこだ」(第2集)と、広島の「伝説の町」(第4集)という、戦争に対する思いをさりげなく扱ったものです。特に後者では「みんな みんな 思い出すのだ」と、あの鋼のハーモニーに乗って伝えられるメッセージには、強い訴えかけが宿っていることを感じないわけにはいきません。「大切なことを 忘れようとする人たち」という歌詞は、もしかしたら永六輔は未来へ向けて語りかけていたのかも知れません。いずみたくのおきまりの循環コードに乗った音楽は、それ自体では殆どなんの魅力もないものですが、この歌詞がデュークのハーモニーを伴った音となると、いいようにない深い味が出て来ることに気づかされます。
このアルバムは、言ってみれば「歌謡曲」というジャンルの作品、それが30年以上経ってもオリジナルのアルバムと同じ形でリリースされているという事自体が、このプロジェクトの成功を物語っているのではないでしょうか。クラシックも含めて、レコード制作という場でこれほど良心的な仕事が行われたことは、この国では殆ど他に例を見ないはずです。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-13 14:55 | 合唱 | Comments(2)
VERDI/Messa da Requiem






L.Price(Sop), F.Cossotto(Alt)
L.Pavarotti(Ten), N.Ghiaurov(Bas)
Herbert von Karajan/
Coro e Orchestra alla Scala
紀伊國屋書店/KKDS-244(DVD)


以前、さまざまな形で出されていたユニテル(「ウニテル」というべきでしょうか)によるカラヤンの映像が、DVDとなって紀伊國屋からまとめてリリースされています。アンリ・ジョルジュ・クルゾーが監督をしたというこのシリーズ、ただ、「指揮の芸術」という形で、演奏だけでなくインタビューまで含めてのパッケージとしては、今回初めて出てくるぞー、というのはメーカーの言い分です。もっとも、ここでご紹介するヴェルディのレクイエムに関しては、もともとインタビューは収録されてはいなかったということで、これがそもそもの完パケということになります。
さて、この映像は、1967年の1月に行われた、ミラノのスカラ座でのトスカニーニ没後10周年の記念演奏会と同じ時期に収録されたものです。ライブのコンサートは2回行われたのですが、その間のオフの日に、スカラ座の客席にわざわざ足場を組んでカメラを設置し(それは、オープニングですぐ目に入ります)撮影が敢行されました(コシマキには「刊行」となっていますね)。もちろん、演奏メンバーは同じなのですが、テノールだけが、コンサートでのカルロ・ベルゴンツィからパヴァロッティに変わっているというのが、興味深いところです。契約上の問題(ベルゴンツィはDECCA専属?)ということなのですが、そこで急遽抜擢されたパヴァロッティの初々しい映像が、ここでの最大の見所となりました。まず、顔からして違います。

なんでも、リハーサルもコンサートのためには行われたものの、パヴァロッティが参加したこの撮影のセッションは殆どぶっつけ本番だったとか。最初のうちの、譜面にかぶりつきの彼の姿からは、後年のあの周囲を威圧するオーラなどは微塵も感じることは出来ません。声もいかにも萎縮したものです。しかし、さすがはパヴァロッティ、後半になると見違えるほど歌に力がみなぎってくるのが手に取るように分かります。このあたりのドラマティックなまでの変化を、殆どドキュメンタリーのように、今回は楽しむことが出来ました。
もちろん、現在でもこれだけのレベルの歌手を一堂に集めるのは難しいほどの、プライス、コッソット、ギャウロフという夢のようなスターが、カラヤンのもとで繰り広げるアンサンブルの素晴らしさは驚異的。そして、カラヤンの作り出す、決して華美に走ることのない味わい深い音楽は、まさに絶品です。後の、カラヤン自身の演出による映像だったら絶対にあり得ないような、例えばティンパニの後ろでカラヤンはフォーカスアウトしているカットなども、貴重なものです。
ちなみに、この映像は今まで、NHKのBS放送や、CSのクラシックチャンネルでは何度も繰り返しオン・エアされていたものです。さらに、古くはVHD、そしてLDや最近では輸入盤のDVDでも市場に出ていたことがありました。しかし、今回はいままでPALだったマスターを新たにNTSCでテレシネし直したものが使われているそうで、その結果収録時間が4分も長くなったということです。
真偽のほどは定かではありませんが、以前BSで放送されたものを録画したVHSと、このDVDを比べてみれば、その違いには歴然としたものがありました。ピッチの違いまでは私の耳で確認することはちょっと無理でしたが、映像に関しては、前に「バングラデシュ・コンサート」で感じたのと同じように、なにか遠い世界で行われているモヤモヤとしたものが、いきなり現実味を帯びて迫ってきたというショッキングなものでした。音声も、いかにもサウンドトラックという怪しげな音から、DGのギュンター・ヘルマンスによる素晴らしい音に生まれ変わっています。
マスタリングによりこれほどの違いが出るということで思い出したのが、以前酷評したプラハ・スタヴォフスケー劇場での「ドン・ジョヴァンニ」の韓国版DVDです。この度国内盤で発売されたDVDは、まるで別物、音と映像もきちんとシンクロされていて、やっと本来の形で鑑賞することが出来るようになりました。もっとも、それだからといって演奏に関しての印象が変わることはありませんが。

DENON/COBO-4471/2
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by jurassic_oyaji | 2006-01-10 19:49 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Requiem, Mass in C Minor





B.Bonney(Sop), A.S.von Otter(MS)
A.Rolfe Johnson(Ten), A.Miles(Bas)
John Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir
English Baroque Soloists
PHILIPS/074 3121(DVD)



1991年の「没後200年」に、バルセロナの「パラウ・デ・ラ・ムシカ・カタラナ(カタルーニャ音楽堂)」というところで行われた演奏会のライブです。以前からさまざまな媒体で出ていた映像素材ですが、「生誕250年」に合わせて、輸入盤DVDが発売になりました。モーツァルトの「レクイエム」と「ハ短調ミサ」が1枚に収録されているという、ファンにはたまらないアイテムです。
まず、DVDならではの楽しみ。この素晴らしい演奏会場の映像を、心ゆくまで楽しむことにしましょう。1908年に完成した、殆ど工芸品と言っても差し支えないような美しいコンサートホール、石をふんだんに使ったまるでカテドラルのような内装と、ステージのまわりの装飾には目をひかれます。客席も、高々とそびえるバルコニーと、ステンドグラスで覆われた天井からつるされたシャンデリアが見事です。まさに、ホール自体が一つの芸術、この収録後の1997年には、世界遺産に登録されたというのも納得です。
さらに、映像では音だけでは分からないような演奏上の「秘密」が分かるのも、もう一つの楽しみです。この場合、「ハ短調ミサ」が、私にとってはさまざまな好奇心を満たしてくれるものでした。ご存じのように、この曲は未完に終わったものですから、演奏にあたっては後の人が手を加えたものが使われることになります。ガーディナーが使っているのが「シュミット/ガーディナー版」という、ちょっと珍しいもの、これは欠落している部分をモーツァルトの他の作品などで補填し、さらにオーケストレーションにも手を入れたという「シュミット版」をベースに、ガーディナー自身がさらに手を入れた、というものなのでしょう。正確には、シュミット版から、悪趣味と思われる余分なものを取り除いた、と言うべきでしょうか。CDでも彼の演奏では、シュミットが加えた曲は全てカットされています。これを映像で確認してみると、確かに彼の譜面台の上に置いてあるスコアは分厚いシュミット版、そして、その開き方を見てみると、「クレド」の2曲目が終わったところでかなりのページを飛ばしているのがよく分かります。もちろん、オーケストラの楽器編成も、しっかり確認できますから、シュミットが加えたフルートやクラリネットが除かれているのがよく分かります。
ただ、その2曲目の「Et incarnatus est」では、オーボエ、ファゴットの他に、フルートがオブリガート楽器として加わることになっています。全体の曲の中でフルートが登場するのはこの部分だけ、今の我々の感覚でしたら、なぜこの1曲だけのためにフルートを用いたか、と言う疑問が起こるはずです。確かに、実際の演奏会ではフルート奏者は出番まで何もしないでステージ上で待っているのでしょうが、ここで、きちんと編集された映像ならではの秘密が見られます。この曲になると、2番オーボエの席にいきなりフルート奏者が座っているのです。本来、モーツァルトの時代には、オーボエ奏者がフルートを持ち替えて演奏するというようなことは、普通に行われていました。それを、こういう形で再現して見せたのですね。もちろん、分業化が進んだ現代では両方の楽器で同じクオリティを保つのは不可能ですから、演奏者は入れ替えた、と言うわけです。
と、マニアックなことばかり書いていると「余分なものが多すぎる」と叱られそうですね。いや、そんな「余分な」ものは、実はこの素晴らしい演奏の前に言葉を失ってしまった私の、ある種の照れ隠しと受け取って下さいな。ここでのガーディナーの演奏、合唱といいソロといい、なんと素直に心の中に入り込んでくることでしょう。先ほどの「Et incarnatus est」でのボニーの歌など、うっとりして聞き惚れるばかり、まさに至福の一時を味わうことが出来ました。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-08 20:48 | 合唱 | Comments(0)
One star, at last




Stephen Cleobury/
BBC Singers
SIGNUM/SIGCD067



今宵はクリスマス・イブ、あなたの一番大切な人と、床暖房のきいた暖かい部屋で、肩を寄せ合いながら聴くには絶好のアイテムが届きました。あいにくSACDではありませんから、包み込むようなサラウンドは味わえませんが、今夜のメニューはカレ手作りの皿うどん、愛し合う2人にはなんの差し障りもないはずです。
副題が「A selection of carols of our time」、最近作られたキャロルだけを集めたアルバムであることが謳われています。元々は2000年にBBCがラジオ用に制作したものなのですが、それをこのレーベルがCDにしてリリースするという、まるでライブの放送音源のようなパターンですね。もちろん、この録音はきちんと教会でセッションを行ったものです。
看板の通り、全20曲のうち12曲が初録音、さらにその中の6曲はBBCが委嘱した作品ということで、いってみれば完璧に「有名でない」キャロルが集まったもの、かなりマニアックなアイテムではあります。しかし、ものは「キャロル」ですから、何も知らずに聴いても「クリスマス!」という感じを与えられる曲が大半であることは、仲の良いお二人には喜ばれることでしょう。最初のボー・ホルテンというオランダの作曲家による「Nowell Sing We Now」という新作が、まさにそんな趣をたたえたものです。ソプラノ・ソロがまるで少年のような無垢な声で歌われていて、流れるようなその曲に自然に入っていける心地よさを誘います。なぜか本体の合唱がちょっと重苦しいな、という印象も、それほど気にはなりません。
中には、殆ど「ポップス」と言っても構わないほどキャッチーな魅力を振りまいているものもあります。スイスの作曲家カール・リュッティの「I Wonder as I Wonder」など、シングル・ヒットしてもおかしくないような素敵な曲です(J・J・ナイルズのフォークソングに、同じタイトルの似たような曲がありましたね)。美人作曲家ロクサンナ・パヌフニクが編曲したポーランドの古いキャロル「Sleep,little Jesus,sleep」も、ソプラノ・ソロが、先ほどの人とはうってかわった毒々しさで迫りますが、曲の美しさを損なうほどのものではありません。ハワード・グッドールの「Romance of the Angels」は、歌詞はルネッサンス期のスペインのものだそうですが、それをなんと「ルンバ」に仕立て上げたというユニークさが光ります。パイプオルガンと混声合唱が教会の中でラテンの明るいリズムに乗って演奏する、こんなキャロルを作らせてしまうBBCも、なかなか太っ腹なところがあるのだな、と感心させられてしまいます。
そう、最初のうちは甘いムードに浸っていたお二人も、このBBCが仕掛けたとてつもないキャロル・プロジェクトには、そろそろ度肝を抜かれはじめている頃ではないでしょうか。ジェイムズ・マクミランの「Seinte Mari Moder Mode」あたりは、殆ど怒鳴り声に近い張った声から、まるでささやくような声まで瞬時に使い分けて、ちょっと民族的なコブシを聴かせるなどという、まさに作曲家の「自己表現」の世界、完璧に「キャロル」の範疇を超えている、と思わせられるものです。ポーランドの作曲家ジェルジ・コルノヴィツの「Waiting」も、サンプリングした声(母親と娘?)を挿入するなど、紛れもなく「表現」が勝った作品、のんびり聴き流すのではなく、真摯に曲に向かい合うだけの覚悟が必要になってきます。
そんな七面倒くさいことを言っていても、最後にジョン・ハールの「Mrs Beeton's Christmas Plum Pudding(average cost:3 shillings and 6d)」という長ったらしいタイトルの曲が流れてくれば、またもとの幸せな雰囲気が戻ってくるはず。いきなりSPレコードのスクラッチノイズの中から聞こえてくる貧弱な音(もちろん、そのように作り込んであるものです)は、紛れもないいにしえのバーバーショップ・スタイルのコーラスのコピー、こんなお遊びまでしっかり「委嘱」してしまう、またしてもBBCの懐の深さには、感服です。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-24 20:07 | 合唱 | Comments(0)
FAURÉ/DURUFLÉ/Requiems

Miah Persson(Sop), Malena Ernman(MS)
Olle Persson(Bar)
Mattias Wager(Org)
Fredrik Malmberg/
Swedish Radio Choir
BIS/SACD-1206(hybrid SACD)



フォーレとデュリュフレのレクイエムをカップリングしたCDは数多く出ていますが、普通はオーケストラ版、これは両方ともオルガン版という、珍しい(というか、フォーレのオルガン版は殆どこれしかないはず)組み合わせです。演奏しているのはスウェーデン放送合唱団、あのエリック・エリクソンに育てられ、最近ではトヌ・カリユステが首席指揮者を務めていたという、名門中の名門合唱団です。例えばムーティ、アバドやブロムシュテットといった指揮者が、合唱付きのオーケストラ曲を演奏する際にこの合唱団をわざわざ指名して起用するということからも、その実力はうかがい知ることが出来ることでしょう。
デュリュフレのオルガン版は数多くの名盤が存在していますが、このCDはその中にあってもひときわ「大人の」音楽を聴かせてくれています。各パートの音にはいささかの曖昧なところもなく、完璧に一つの「声」として伝わってきます。もちろん、それは非常に立派なこと、サウンドとしての完璧さから言ったら、これ以上は望めないでしょう。さらに、30人足らずという少ない編成とはとても思えないような広いダイナミックレンジには驚かされます。この曲、もちろん最初の形はフルオーケストラのためのものなのですが、例えばティンパニなどが入って大々的に盛り上がる、といったような場面が数多く用意されていて、フォルテシモの迫力はかなりのものがあります。それにかなり近い雰囲気を、この合唱団はオルガンだけの伴奏で充分に伝えることに成功しているのですから、すごいものです。
個人的な好みでは、もう少し曖昧なところがあった方がこの曲を聴く時にはより幸せになれるな、という感じはありますが、もちろん、それはかなり高次元な要求になってしまいます。この演奏からは、「Pie Jesu」さえも曖昧さを許さない立派な声と胸の谷間の持ち主のエルンマンにソロを託したということからも、その主張は明らかなのですから。

  Malena Ernman
フォーレの場合には、その完璧さはやや鬱陶しく感じられてしまうかもしれません。もちろん、「Kyrie」でもテナーのパートソロのようにこれ以上は望めない立派なものもある反面、「In paradisum」あたりのソプラノパートは、あまりに立派すぎて別なメッセージが伝わってしまうという危惧を感じないわけにはいきません。それ以上に問題なのが、この曲をオルガンだけで演奏するという姿勢です。それは、冒頭のDの音のディミヌエンドで露呈されてしまいます。オルガンという楽器では、本当の意味でのディミヌエンドは不可能、それらしく聴かせるために、ここでオルガンのための編曲を行い、自らが演奏しているワーガーは、次第にストップを減らすという方法をとっています。その、いかにも段階的な音の減衰は、興ざめ以外の何者でもありません。「In paradisum」など、最初からオルガンがフィーチャーされているところはそれなりに味わえるのですが、大半の部分では、フォーレがわざわざ用いた特異なオーケストレーションの妙が、残念ながら全く消え失せてしまっています。「Agnus Dei」でのヴィオラの響き(もちろん、ヴァイオリンが入っていない「第2稿」)がどれほどに魅力的だったのかと、こののっぺらぼうなオルガンの音を聴いて再確認したほどです。
近々、さる地方都市では、この曲をオルガンと弦楽器という編成で演奏すると聞いておるがん。以前NAXOSから出ていたデニス・アーノルドと同じアプローチ、ちょっとそそられます。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-21 20:55 | 合唱 | Comments(2)
RACHMANINOV/Liturgy of St. John Chrysostom




Vladimir Minin/
The Moscow Chamber Choir
ALLEGRO/MOS 18732



ロシアのCD業界というのは、今はどういう事になっているのでしょう。床下に巣を作っているのでしょうか(それは「シロアリ」)。以前の「ソ連」時代は「MELODIYA」という国営企業が一手に引き受けていたものでしたが、それも「解放」後は、例えば一時BMGあたりが正式にディストリビューターとなって自由に流通する、というようなことも見られましたね。しかし、それ以前にもさまざまな「西側」のレーベルから、ここの音源は流通していましたから、今となってはまさに混沌の極みです。今回のラフマニノフも、元々は1988年に録音されたMELODIYAの音源でしたが、それが一度CDKとか言うレーベルから出されたものが、今回「Allegro」というアメリカのレーベルから「MOSCOW STUDIO ARCHIVES」というシリーズの一環としてリリースされた、という複雑な素性を持ったものなのです。
この「聖ヨハン・クリソストムの礼拝」については、以前こちらでイギリスの団体による演奏を紹介したことがあります。今回はミニン指揮のモスクワ室内合唱団という生粋のロシアの合唱団、全く異なったテイストが味わえると思った予感は、見事なまでに的中してしまいました。そもそも、以前のものはフルサイズのバージョンだったものが、今回は「リタニー」という、司祭と合唱の掛け合いの部分がカットされて、合唱による「聖歌」だけが録音されている、という曲の構成が違っている外見的な要素もあるのですが、そこから聞こえてきた音楽は、まるで別の曲かと見まごうほどの違いがあったのです。
そう感じた最大の要因は、やはり「声」の違いでしょう。このロシアの合唱団、「室内」という名称になっていますから、人数はそれほど多くはないのでしょうが、その深い響きには驚かせられます。もちろん、一番すごいのはベースのパート、特に「オクタヴィスト」という、普通のベースの1オクターブ下の音まで楽々出すことの出来る人達の存在で、とても人間技とは思えないほどの低い音が響き渡るさまは、圧巻です。「徹夜祷」やこの曲のようなラフマニノフの作品では、このパートがなんの無理もなく朗々と聞こえてくるだけで満ち足りた気分になれます。さらに、女声パートの一本芯の通った力強い響きも、ロシア独特のもの、こればかりは、先ほどのイギリスの団体の少年パートと比較すること自体が酷なこと、成人女声だったとしても、普通に訓練されたものでは、このような力強さを出すことは困難なはずです。
そのような「声」が素材になってくると、音楽の作り方自体が、アカデミックな西洋のものとは根本から変わってくることも、実感できるはずです。各パートの持つ存在感は、ハーモニーを作り上げる以前から、充分に主張がこめられたもの、4つのパートが「溶け合う」のではなく、それぞれが束になって迫ってきた結果、ハーモニーが「築きあげられる」といった様相を呈しています。そこからは、例えば純正調でハモるなどという些細なことに腐心していたのでは到底達することの出来ない、力強く豊かな音楽があります。
全体のちょうど真ん中ほどで聴かれる「Cherubic Hymn」では、その上に繊細さまでが加わった、とてもこの世のものとは思えないほどの満ち足りた世界が広がります。それは、努力を重ねて修練した結果得られるような種類のものではなく、言ってみればロシア人の「血」だけがなし得る、殆ど奇跡のようなものなのかもしれません。この合唱団が放つ強烈なメッセージは、音楽の「力」を信じているものには、決して見過ごすことは許されないものなのです。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-20 00:04 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Messe en Ut Mineur

S.Piau(Sop), A.-L.Sollied(Sop)
P.Agnew(Ten), F.Caton(Bas)
Emannuel Krivine/
Acceutus
La Chambre Philharmonique
NAÏVE/V 5043



今年のゴールデン・ウィークのあたりに、東京でユニークな音楽祭が開催されていましたね。「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」とか言う、同時に複数の会場でコンサートが開かれている中を、聴衆は自分の好きなところを選んで足を運べる、というものでした。この音楽祭、元々はフランスのナントで10年近く続いたものが、日本に移ってきたものなのですが、その、本場ナントの昨年の音楽祭でデビューしたのが、この「ラ・シャンブル・フィルハーモニク」という、オリジナル楽器のオーケストラです。そして、このオーケストラのデビュー・アルバムが、なんと、この「ハ短調ミサ」なのです。もちろん、レーベルはこの音楽祭と深い関係があるNAÏVE、したがって、合唱もこのレーベルの看板、アクサントゥスということになります。
このオーケストラ、創立にあたってのイニシアティブを取っていたのが、エマニュエル・クリヴィヌだというのは、ちょっと意外な気がします。元々ヴァイオリニストとしてそのキャリアをスタートさせたこの指揮者、その活動のエリアは完全にモダン・オーケストラの中だと思っていたので(確か、NHK交響楽団にも客演していましたね)、いまさらオリジナル楽器のオーケストラと深い関係を持つことなど、ちょっと考えにくかったのです。しかし、そもそもヴァイオリニストから指揮者に転向したこと自体が相当に異色なことなのですから、モダンからオリジナルに転向するのだって、本人にとってはそれほど奇異なことでもなかったのかもしれません。どんなフィールドを選ぶにせよ、最終的にはその人の音楽性が物を言うのですからね。
このアルバムを聴くと、そのようなある種の挑戦は、非常に良い形で実を結んだことが実感できます。ここには、「オリジナル」の専門家と呼ばれるような指揮者が見落としていたのか、もしかしたら故意に排除していたようなある種の「美しさ」が、確かに存在しています。それは、人間が当たり前の生活の中で無条件に「美しい」と感じられる、いわば自然に逆らわない情感のようなものなのかもしれません。
ただ、声楽陣に関しては、そこまでの注意が行き届かなかったのか、オーケストラほどの完成度が見られないのが、惜しまれるところです。合唱は、いつもながらのあと一歩の踏み込みが足らないじれったさが、ここでも現れてしまっています。特に、ソプラノパートが、ポリフォニーでの「入り」にことごとく失敗しているのが、非常にみっともないところ。さらに、「Qui tollis」で8声部となって、各パートの人数が少なくなると、とたんに粗さが目立ってくるのも残念です。
ソリストも、ピオーにしてもソリードにしても、変なクセがあってちょっと理想的とは言い難い人選ではありますが、部分的に、例えば「Et incarnatus est」で、3本の木管楽器とのアンサンブルを繰り広げているピオーなどは、なかなかのバランス感覚を披露してくれています。ハンタイのトラヴェルソを初めとする木管のソリストも聴きものです。
さすが、モーツァルト・イヤー、とうとう同じ曲を3種類も集中的に扱うことになってしまいました。ただ、これらは全て異なるコンセプトによって作られた版によるものだというのが、面白いところです。今回は「エーダー版」、あくまでも自筆稿を最大限に重視した生真面目な、それだからこそ「原典版」としては相応しいものなのでしょうが、その上にさらにイマジネーションを加えたマクリーシュの「モーンダー版」やリリンクの「レヴィン版」を聴いてしまうと、物足りなさは残ります。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-12 20:05 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Mass in C Minor(ver. Levin)

Damrau(Sop), Banse(Sop)
Odinius(Ten), Marquardt(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.227



モーツァルトの「ハ短調大ミサ」はついこの間取り上げたばかり、その際にこの曲が未完であることにも言及していましたね。「クレド」が最初の2曲しかなく(それも、オーケストレーションは未完、ちゃんと作っておいてくれど)、「アニュス・デイ」は全く作られていないというのが、この曲のありのままの姿なのです。かつては作曲されていない部分を補填して演奏する(「シュミット版」がこの形)という事が広く行われていたようですが、最近では作曲者が作ったものだけを演奏するという道が、主流になっています。「ランドン版」や、新全集である「エーダー版」が、その道を先導したものでした。
しかし、あと数週間後に迫った2006年に「モーツァルト・イヤー」を迎えることになれば、やはりこの曲を、ミサ曲が本来あるべき姿で演奏されるようにしてあげたい、という動きも盛り上がってこようというものです。その中心となったのが、宗教曲業界の重鎮ヘルムート・リリンク、彼は同じ志を持つ「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」と「カーネギー基金」の協力の下、このような「修復」には定評のあるロバート・レヴィンにその仕事を依頼したのでした。ご存じの通り、レヴィンは同じ作曲家の「レクイエム」の再構築にあたっても、リリンクとの共同作業で素晴らしい仕事を残していますね。
レヴィンによって出来上がったフルスペックのミサ曲、「クレド」の残りの部分は、この曲が作られた当時の現存する多くのスケッチから修復されました。そして、「アニュス・デイ」には、このミサ曲が作られた2年後に、この曲の「キリエ」と「グローリア」をそのまま使い回しした「悔悟するダヴィデ」という作品の中で、新たに作られたアリアを逆に使いまわすという、なかなか粋なことを行いました。この、本来はソプラノソロのためのアリア、短調で始まったものが後半長調に変わるのですが、そこから「ドナ・ノービス・パーチェム」のテキストが合唱で歌われるようになっています。その結果、このミサ曲は演奏時間7633秒と、まさに「大ミサ」と呼ぶに相応しい堂々たるものに仕上がりました。
この「レヴィン版」、初演は2005年の1月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われ、3月にシュトゥットガルトで行われた再演の模様が、ライブ録音されたものが、このCDという事になります。
その「再構築」の成果ですが、「クレド」の後半は、やはり馴染みがないせいか、ある種の違和感が伴うのは致し方のないことでしょう。この版が根付くかどうかというのは、ひとえに演奏される頻度、いわば「ヘビーローテーション」の有無にかかっているのではないでしょうか。ただ、テノールのソロによって歌われる「Et in Spiritum Sanctum」という装飾的なアリアは、オディニウスのあまりにも稚拙な演奏で曲自体の評価が下がってしまうのが懸念されてしまいます。
しかし、バンゼによって歌われる「アニュス・デイ」には、この大きなミサ曲の中での一つのハイライトと位置づけられるだけの確かな存在感を誰しも認めることが出来るはずです。このナンバーがあることによって、「レヴィン版」は将来もその存在価値をアピールできるだけのものを持ち得たのではないでしょうか。
ライブという事もあって、演奏面では不満足な点も多くなっています。しかし、一つの記念碑的な演奏として、持っているのも悪くはないかな、とは思えるものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-12-08 19:24 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Great Mass in C Minor

Camilla Tilling(Sop)
Sarah Connolly(Sop)
Paul MacCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/00289 277 5744
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1059(国内盤 1/25発売予定)


モーツァルトの「ハ短調大ミサ」は、彼の宗教曲の中では「レクイエム」に次いで人気のある曲ではないでしょうか。「大ミサ」と言うだけあって、オーケストラの編成も大きく、なにより合唱の規模が最大8声部と、大人数が必要になって、なかなか盛り上がる曲です。こういう人気曲が揃いも揃って未完である、というのが面白いところ、もちろん、こちらの場合はまだ作曲者はピンピンしていましたから、最後まで仕上げなかったのはその必要がなくなったからであって、健康上の理由ではありませんでしたがね。
そんなわけで、「未完」の曲を演奏する際には、色々の方法が出てくるわけで、それぞれの主張に沿った「版」が存在するのも、「レクイエム」と同じことです。「ランドン版」、「バイヤー版」、「モーンダー版」、そして最近出来た「レヴィン版」と、どこかで聞いたことのあるような名前が、「ハ短調ミサ」業界を賑わすことになるのです。いうまでもありませんが、ここには「ジュスマイヤー版」は存在しません。
マクリーシュがここで採用したのは、「モーンダー版」。今まで、この版での演奏はホグウッドとパロットのものしかありませんでしたが、こういうクセの強いマイナーなものは、マクリーシュのセンスには合っていたのでしょう。「レクイエム」のモーンダー版同様、あくまでモーツァルト自身が作ったもの以外は認めない、という頑なな態度は、ここでも貫かれています。ただ、自筆稿以外にも演奏された時の楽譜なども参考にして、「修復」を行った、というのがユニークな点です。一つの標準である新全集として出版されたエーダー版との一番の違いは、「クレド」に金管とティンパニが追加されたこと。華やかな曲調が一層強調されることになりました。
バッハあたりでは合唱は「1パート1人」などという挑戦的なことを実践していたマクリーシュですが、モーツァルトでは、幸い、そんなことはやらないでくれました。全部で30人程度の人数は、オーケストラとのバランスから言っても過不足のないところでしょう。複雑なフーガのメリスマなど、技術的には安心して聴いていられるものがあります。しかし、残念ながら、女声パートのまとまりなどは、今のイギリスの常設の合唱団の水準には到底及ばないものであることは認めないわけにはいかないでしょう。ただ、オーケストラも含め、こんなちょっと「雑」な感じは、もしかしたらマクリーシュの趣味なのかもしれませんから、一概に決めつけることは出来ないでしょうが。
その「趣味」を認めれば、ティリングとコノリーという2人のソプラノソロの起用も、ある程度理解できるかもしれません。高音はとても立派なのに低音は全く使い物にならないというのと、リズム感の欠如という大きな欠点をもつティリングと、コロラトゥーラがとてもお粗末なコノリーは、普通の趣味でしたらこういう様式を持つモーツァルトの演奏には使わないと思うのですが。ティリングの歌う「クレド」の2曲目、「エト・インカルナトゥス・エスト」などは、素朴なオリジナルの木管楽器とは全く溶け合わない立派な声だけが、異常に目立って聞こえてしまうアンバランスなものでした。
ただ、カップリングとして収録されているハイドンとベートーヴェンのソロカンタータでは、この2人はまるで水を得た魚のように生き生きとした、ドラマティックな歌を披露してくれています。「『シェーナ』と『アリア』」という、殆どオペラの1場面を切り取ったような劇的な作品、マクリーシュはこういう音楽と共通するセンスをモーツァルトのこのミサの中に痒い目で(それは「麦粒腫」・・・仙台では「バカ」と言います)見出したということを、強調したかったのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-30 20:21 | 合唱 | Comments(0)