おやぢの部屋2
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カテゴリ:歌曲( 31 )
SCHUBERTIADE
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Julian Prégardien(Ten, Nar)
Marc Hantaï(Fl)
Xavier Diaz-Latorre(Guit)
Philippe Pierlot(Bar)
MYRIOS/MYR018(hybrid SACD)




良心的なSACDを、まさに手作り感覚で作り続けているMYRIOSレーベルの最新アルバム、今回は、ユリアン・プレガルディエンを中心にしたメンバーが集まって、「シューベルティアーデ」を再現するという企画です。
「シューベルティアーデ」というのは、シューベルトが生前に行っていたサロンコンサートのことです。デザートは栗饅頭(それは「マロンコンサート」)。彼を取り巻くお金持ちの友人が自宅を提供し、そこにさらに仲間たちが集まって一夜の音楽会を催すという贅沢なイベントです。大広間の中央のピアノの前にはシューベルトその人が座り、出来たばかりの歌曲をシューベルトの伴奏で歌ったり、室内楽を演奏したりと、楽しいひと時は夜遅くまで続きました。
最初に開催されたのは1821年、その年の1月3日に、フランツ・フォン・ショーバーのお宅で開かれたコンサートから、「シューベルティアーデ」の歴史が始まります。それは、最盛期にはほぼ毎週開催されていたのだそうです。
1826年の12月15日に、シューベルトのコンヴィクト時代の先輩で友人であるヨーゼフ・フォン・シュパウンの家に集まったお客さんは40人ほどにもなっていましたが(参加していた画家のモーリツ・フォン・シュヴィントによって1868年に描かれたその時の模様の絵画が残っていて、そこにいたすべての人が特定できているのだそうです)、今回開かれた21世紀の「シューベルティアーデ」のお客さんは、あなた一人です。そして、歌手の伴奏をするのは、ピアニストではなくギターとバリトンの奏者です。もちろん、「バリトン」というのは歌手ではなく、この当時にしか使われることのなかったヴィオール族の楽器のことです。

そしてもう一人、同じようにこの時代にしか使われることのなかった、「フルート」の奏者も加わります。フルートという楽器は今でもありますが、それはこの時代のちょっと後に今のような形になったもので、それ以前は様々な形とメカニズムを持った楽器が混在していました。ここで使われているのは、おそらく1825年頃に作られた9つのキーを持つ楽器のコピーでしょう。
最初に聴こえてきたのは、プレガルディエンによる「歌」ではなく「朗読」でした。とてもリアルな音で、きれいなドイツ語の発音が聴こえただけで、すでに19世紀のウィーンのサロンの雰囲気が漂います。おそらく、このように仲間が作ってきた詩を読み合うようなこともあったのでしょう。それをシューベルトが気に入れば、その場で曲を付けて披露する、みたいな愉しみもあったのかもしれませんね。
そして、まずはギター1本の伴奏で歌が始まります。そのギターの音の、なんと魅力的なことでしょう。なんでもこれは1842年に作られた楽器なのだそうですが、その、ただ「柔らかい」などという言葉では表現できないような、とことん聴く人を喜ばせるためだけに長い間磨かれてきた音が、そこからは聴こえてきたのです。そして、それに応えるかのように、プレガルディエンも、ただ「声」を出すだけでそれが「歌」になっているという、ほとんど奇跡のようなことを繰り広げていました。それは、シューベルトの「歌曲」というものが持つ根本的な資質をも問われるほどのインパクトを伴って訴えかけてきます。シューベルトを歌う時には、別に本格的なベル・カントではなく、ほとんど鼻歌程度のささやきでもしっかりその音楽は伝わるのだ、と。まるで、そのことを知らしめるためにこのような「サロン」を再現したのでは、とさえ思えるほどに、彼の「歌」のさりげなさには強い力がありました。
そんな場では、シューベルトはとてもしなやかな柔軟性を持つことになります。誰でも知っている「野ばら」や「セレナーデ」にこれだけの装飾を施しても全く違和感がないのも、そんな「サロン」の空気のせいなのでしょう。その空気までも見事に収めた録音が、あなたの目の前に2世紀前の世界を広げて見せてくれます。

SACD Artwork © Myrios Classics
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by jurassic_oyaji | 2016-07-02 20:50 | 歌曲 | Comments(0)
Nostalgia
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田村麻子(Sop)
江澤隆行、直江香世子(Pf)
String Quartet Leone
NAXOS/NYCC-27291




「ノスタルジア」というタイトルの、「郷愁」がテーマとなったアルバムです。しかし、「郷愁」という概念は極めてパーソナルなファクターに支配されるものですから、もしその曲をアーティスト自らが選んでいたのだとしたら、そこには彼女の個人的な思いが反映されているはずです。現に彼女はライナーで「いずれも私自身が後世に歌い継いで行きたい作品ばかりです」と語っているのですから、それは間違いのないことなのでしょう。キャリアの大部分を外国で築いてきたソプラノ歌手の郷愁が反映された日本の歌とはどういうものなのか、かなり興味があります。
実際にそのラインナップを見てみると、それは意外なほどに「まとも」なものでした。「シャボン玉」、「七つの子」、「朧月夜」、「浜辺の歌」など、この手の「愛唱歌集」などには必ず登場する「唱歌」と呼ばれるものが大半を占めているプレイリストは、何かホッとさせられるものです。彼女の年齢は知る由もありませんが、少なくともそのような「唱歌」にリアルタイムで親しんだ世代とはかなり隔たりのあることは確か、そんな「若い」世代にも、きちんと郷愁と思われるほどの存在感を、これらの曲はまだ示すことが出来ていることが確認できたことに対する安堵感が湧いても不思議ではないでしょう。
とは言っても、例えば「虹と雪のバラード」のような、おそらくある特定の世代でなければ郷愁たりえないような曲が歌われている、というのも、それが個人的な思いからきていることの証です。さらに、中田喜直の「霧と話した」のような、ちょっと不思議なジャンルのものが入っているのも、やはり彼女の個人的な選曲の所以でしょう。
彼女が、これらの曲に心からの共感をもっているのは、その歌い方で分かります。この手の「クラシックの歌手が歌った愛唱歌」にありがちな不快感が、ここでは全く感じることが出来ないのです。最もうれしいのは、言葉が本当に美しく歌われていることです。子音を多く含む日本語は本来ベル・カントにはなじまないもので、そこからは今までにどれほどの勘違いが生まれてきたことでしょう。しかし、彼女は違います。決して日本語の語感を損なうことなく、それでいて張りのある声を犠牲にすることもないという、とても高度な歌い方を身に付けていたのです。いや、彼女は、単に言葉を「美しく」歌うだけではなく、歌詞そのものに込められた意味をほとんどオペラのように強いインパクトで伝えるという、単なる唱歌をさらに音楽的に昇華させたものにまで高めるという技まで持っていました。
そのあたりの意気込みは、最初のトラックの「シャボン玉」で分かります。オープニングに無伴奏で歌われたシャボン玉のイメージは、まるでサッカーボールほどの大きさのある、肉厚のゴム風船のようなものでした。時にはその意気込みがあまりにも唱歌の素朴さには似つかわしくないような気がすることもありますが、おそらく彼女は単なる「抒情歌」には終わらない何かをそれらの中に求めていたのではないでしょうか。唱歌ではありませんが、山田耕筰の「この道」での歌詞に対する熱いアプローチなどを聴くにつけ、そんな思いは募ります。
ほとんどの曲はピアノも演奏している直江さんが編曲を担当しています。ピアノと弦楽四重奏という編成ですが、ありきたりの伴奏には終わらない、かなり高度な「作品」としての仕上がりを持った編曲ですので、聴きなれた曲から新たな魅力を感じ取ることも、そして、聴きなれた曲だからこそ、あんまりいじってほしくはないと思うこともあるという、ちょっと聴き手を選ぶようなものでもあります。そんな両刃の剣の最たるものが「早春賦」ではないでしょうか。ピアノの鳥の声の模倣から、まだ鳴くことのできない鶯の苦悩までも感じたとしたら、それは正しい編曲ではありません。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-09-01 23:43 | 歌曲 | Comments(0)
Jewels of Ave Maria
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田村麻子(Sop)
福本茉莉(Org)
NAXOS/NYCC-27290




「アヴェ・マリア」というタイトルの曲ばっかりを集めた、ユニークなCDです。そして、編成が、ソプラノ・ソロとオルガンという、とてもユニークなものです。歌っているのはニューヨーク在住、世界中のオペラハウスで活躍されている田村さん、そこに、やはり世界中でご活躍、このレーベルからもソロアルバムをリリースしている福本さんのオルガンが加わります。
これは、今まで誰も聴いたことがなかったようなレアな「アヴェ・マリア」が含まれている、というとても意義深いアルバムではあるのですが、第一義的にはオーディオ的な側面を押し出したものであることは、ブックレットに高名なオーディオ評論家、麻倉怜士氏のエッセイが掲載されていることでも分かります。そこでは、録音フォーマットが5.6MHzのDSDであると述べられています(これは、本来なら録音クレジットで掲載されるべきデータなのでしょうが、そこにはフォーマットはおろか、こういうものを目指しているCDであれば必須のマイクロフォンなどの録音機材に関する記載は全くありません)。これは、SACDで採用されている規格の倍のサンプリング周波数ですから、ほぼハイエンドのハイレゾ録音であることが分かります。
もちろん、それをきちんと味わうためには、このCDではなく、配信サイトで入手できるハイレゾ・データを聴かなければいけません。そのあたりの誘導の役割を果たすのも、この麻倉氏の文章なのでしょうが、その部分の書き方がかなりいい加減なのには、ちょっと「?」です。配信サイトでは、オリジナルの5.6MHzのDSDと、24bit/192kHzのPCMのデータが入手できるのに、「DSD2.8MHzファイル」などと書いてありますし、もっと分からないのが「CD用の48kHz/24bitのPCM」という、オーディオ評論家とは思えないような荒っぽい言い方です。
とりあえず、参考のために24/192のデータを1曲分だけ(ビゼー)購入して、このCDの同じトラックと比較してみましたが、その差は歴然としています。ここではアルバムの趣旨に従ったのでしょう、ホールに備え付けの大オルガンを、あえてストップを少なくしてまるでポジティーフ・オルガンのようなコンパクトな音色で聴かせようとしています。そのあたりの繊細さがCDでは全く伝わってこないのですね。ソプラノ・ソロも、高音がCDでは何とも押しつけがましく聴こえてきます。ハイレゾ・データではそのあたりがソリストの個性としてとても美しく感じられたものを。とは言っても、CDで最後のトラックのピアソラを聴くと、そのエンディングでソプラノのビブラートとオルガンとが共振して、なんともおぞましい響き(はっきり言って録音ミス)が聴こえてきます。そんなところまではいくらハイレゾでも世話を見切れないのかもしれませんね。
そのピアソラをはじめとして、まだ世の中にはこんなに美しい「アヴェ・マリア」があったのだ、と気づかされたのは、間違いなくこのアルバムの恩恵です。あの有名なオルガニスト、マリ=クレール・アランの兄である、やはりオルガニストで作曲家であったジャン・アランの作品などは、オルガンの響きとも見事にマッチしたモーダルなテイストがとても新鮮に感じられます。アルバムの冒頭を飾るミハウ・ロレンツという人の作品も、初めて聴きましたがとても美しいものでした。ただ、この人のファーストネームの欧文表記は、「Michal」ではなく「Michał」となるのでしょうね。
そんなレアなものではなく、世の中には「4大アヴェ・マリア」などというものがあることも、さっきの麻倉氏の文章から知ることも出来ました。でも、バッハ/グノー、シューベルトは分かりますが、残りのカッチーニとマスカーニというのは、どうなのでしょう。「カッチーニ」がジュリオ・カッチーニの作品でないことは周知の事実ですし、「マスカーニ」は言ってみれば「替え歌」ですからね。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.
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by jurassic_oyaji | 2015-07-29 21:08 | 歌曲 | Comments(0)
唱歌/Japanese Children Songs
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Diana Damrau(Sop)
Kent Nagano/
Choeur des enfants de Montréal
Orchestre symphonique de Montr©al
ANALEKTA/AN 2 9131




カナダのレーベルなのに、ジャケットの中央には「唱歌」という漢字が見えますね。これはすごいことだな、と思って調べてみると、インターナショナルなバージョンでは普通に「SHOKA」でした。やっぱりそういうことなのでしょうか

ということは、ブックレットの「対訳」での「ひらがな」も日本向けのサービスなのでしょうね。そう、まさかとは思ったのですが、このアルバムの中では、ドイツ人のディアナ・ダムラウも、カナダの児童合唱団も、しっかり「日本語」で歌ってくれていました。そして、対訳には「ひらがな」だけではなく、英訳と欧文表記による発音(いわゆる「ローマ字」とは微妙に異なります)が載っています。
もちろん、このアルバムを企画したケント・ナガノにとっては、日本語で歌われることは当然のことだったに違いありません。日本人四世としてアメリカで生まれアメリカで育ったナガノは、自分自身のルーツとして日本の「唱歌」をオーケストラ伴奏で演奏するというプロジェクトを始め、その成果がこのアルバムとなるのですが、その契機となったのが、彼の娘です。ある日ナガノが朝食に起きてくると、3歳になる娘が、「唱歌」のレコードを一生懸命聴いていました。そばでは彼の日本人の妻、児玉麻里が、一緒にそれを歌って娘に教えています。彼自身はそのような歌を聴かせてもらった思い出などはないにもかかわらず、そのメロディと日本語の歌詞は彼をいたく感動させるものでした。彼はすぐさま「唱歌」の資料を集め始め、このプロジェクトをスタートさせたのです。
1966年生まれのフランスの作曲家、ジャン=パスカル・バンテュスによって、それらの「唱歌」にはオーケストラの伴奏が付けられ、ソリスト、あるいは合唱団によって歌われる形になりました。それは、2010年の2月28日と3月2日に開催されたコンサートで演奏され、2011年の6月に、ソリストにダムラウを迎えてレコーディングが行われました。その録音が、やっと今になってリリースされたのですね。
「Wolf Tracks 狼のたどる道」でグラミー賞を取った作曲家のバンテュスは、映画音楽のオーケストレーターとしても活躍、「国王のスピーチ」や「ハリー・ポッターと死の秘宝」などのヒット作のオーケストレーションも担当しているのだそうです。そんな職人技を駆使して、ここでも、彼は日本の歌という素材を与えられても、変なオリエンタリズムなどは走らず、ナガノの思いを最大限に汲んで、まさに世界に通用する音楽を作り上げました。もっとも、それは場合によってはかなりリスキーな面も持ってしまいます。正直、まるで印象派のような和声は、素朴な「唱歌」の世界とは明らかな乖離を生んでいるという場面も見られなくはありません。なにしろ、イントロを聴いてその曲がなんだったのかを即座に判別できることは皆無でしたからね。
もしかしたら、このオーケストレーションによって表現されているのは、これらの「唱歌」がかつてこの国で愛されていた(現在では、「あかとんぼ」すら知らないという世代が生まれています)時に人々の中で共有されていた情感ではなく、日本人ですら感じることのなかったもっとグローバルな世界観だったのではないでしょうか。おそらく、今までは世界中のどこにも存在していなかったそんな「深い」ものを、ナガノは彼の嗅覚によって掘りあててしまったのではないか、そんな思いに浸ってしまったのは、モントリオール交響楽団のまるで墨絵のような渋い音色の弦楽器や、ティモシー・ハッチンスが奏でる渋いフルートのせいなのかもしれません。
そのようなコンセプトの中にあっては、児童合唱ほどの完璧なディクションはついに実現できなかったダムラウの「たどたどしい」歌も許されるはずです。メロディや歌詞は同じでも、これはもはや「日本の歌」ではないのですから。

CD Artwork © Analekta
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by jurassic_oyaji | 2014-10-11 20:29 | 歌曲 | Comments(0)
Fare la nina na/Christmas Music of the Italian Baroque
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Amaryllis Dieltiens(Sop)
Capriola Di Gioia
AEOLUS/AE-10073(hybrid SACD)




タイトル通り、「クリスマス音楽」という範疇のアルバムで、去年の11月にはリリースされていたものが、日本に入って来たのは春のお彼岸も過ぎた頃になってしまいました。まあ、クリスマスなんて毎年必ずやってくるものですから、今年のクリスマス・アイテムだと思えばいいのだ、などとひがんでみたくなります。
「ロ短調」「ヨハネ」で耳にしていたベルギーのソプラノ、アマリリス・ディールティエンスは、ただものではないと思っていたら、いつの間にかこんな風に自分のソロ・チームを立ち上げてブレイクしていました。すでにこのレーベルからも何枚かのアルバムをリリースしている「カプリオーラ・ディ・ジョイア」というのが、そのチームです。この「喜びの跳躍」という名前のバロック期の作品を演奏するためのユニットは、2007年にディールティエンスとオルガン、チェンバロ奏者のバート・ネセンスの二人によって創設されています。このソプラノと通奏低音が中心になって、その周りのミュージシャンを適宜加え、様々な編成のレパートリーに対応できるようになっています。こんな感じのユニットというと、少し前のイギリスの団体、「コンソート・オブ・ミュージック」を思い浮かべます。あちらもコアメンバーはエマ・カークビーとアンソニー・ルーリーというソプラノと低音(リュート)のペア、プライベートでもパートナーでしたね。こちらは、どうなのでしょう。
このアルバムのタイトルは「ニンナ・ナンナを歌いましょう」というもの、生まれたばかりの幼子イエスを寝かしつけるときの聖母マリアが歌った子守唄「ニンナ・ナンナ」にちなんだ作品が集められています。このジャケットは、まさにそんな情景を描いたものなのでしょうが、その裏側にあるディールティエンスのアー写を見ると、まさにその聖母と瓜二つ、という感じがしませんか?

以前よりふくよかになった面立ちには、慈愛深さのオーラさえ漂ってはいないでしょうか。こんな「マリア様」に抱かれて、耳元で子守唄を歌ってもらったりしたら、さぞや幸せなことでしょう。
演奏の方も、いっそう磨きがかかって来ています。こういうジャンルのソプラノでは、どうしてもさっきのカークビーとの比較になってしまうのは仕方のないことですが、ディールティエンスののびのびとしたその声には、そのピリオド唱法の先達にはない華やかさと、そしてほのかな色気までもが感じられます。さらに、低音でのちょっとすごみのあるダイナミックな歌い方などは、とても新鮮な驚きを与えてくれます。
そんな、表現力の幅の広さが端的に味わえるのが、タルキーニョ・メールラの「子守歌による宗教的カンツォネッタ『さあ、おやすみ』」でしょう。低音のリコーダーの2音だけの単調なフレーズによるワン・コードの上に展開される一種の変奏曲で、静かな部分からダイナミックな部分まで、それぞれに異なる表現が現れて、魅了されます。ここでのリコーダーはちょっと変わった使い方でしたが、他の曲では本来の細かい音符で明るい色付けを行う技巧的な役割も存分に味わえます。そのメンバーの一人は、ヘレヴェッヘの「コンチェルト・ヴォカーレ」の常連、コーエン・ディールティエンスですが、この人はアマリリスの関係者なのでしょうか。
このアルバムは録音もとても素晴らしく、まさに、SACDならではの繊細で伸びのあるサウンドで楽しませてくれます。出色は、ネセンスのチェンバロ・ソロによる、ドメニコ・フランツァローリの「祝福されたクリスマスの夜のためのパストラーレ」でしょうか。この絶妙な音色と肌触りは、決してCDレイヤーでは味わうことはできません。
卓越した録音による、今やバロック・ソプラノのトップに躍り出たディールティエンスの歌う暖かなクリスマス・ソング、やはりこれは、外の寒さを思いながら聴きたいものです。

SACD Artwork © AEOLUS
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by jurassic_oyaji | 2014-04-10 20:21 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Winterreise
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Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
SONY/88883795652




待望のカウフマンの「冬の旅」です。彼のシューベルトのリートと言えば、DECCA時代に「水車屋」を録音したものがありましたね。今回も相棒のピアニストはその時と同じドイッチュ、さらに、ブックレットにこの二人のインタビューが載っているのも、そのインタビュアーがトマス・フォイクトであることも全く一緒です。こうなると、いまさらながら「レーベル」というものの「軽さ」が痛感される昨今です。それにしても、ブックレットの紙質までも一緒だとは。
ただ、コンディションは「水車屋」とは全く別物の仕上がりとなっていました。あちらはライブ録音でしたが、今回はセッション録音、写真を見るとカウフマンとドイッチュはマイクを挟んで向かい合って演奏しているという、ライブではあり得ない形、そこで的確なコンタクトを取りながらの録音であったことがよく分かります。そして、エンジニアリングが今回はTRITONUS、ピアノの深い響きと、ボーカルの細かいニュアンスを捕えきった素晴らしいものです。
この前のフィッシャー・ディースカウを筆頭として、この曲に関してはバリトンが歌うものだという暗黙の了解がありますが、プレガルディエンの時に書いたように、この作品は本来はテノールのためのキーで作られています。ただ、それはもちろんオペラティックに朗々と歌われるテノールで、ということではありません。かといって、フォークトのようなノーテンキなリリックが場違いであることも事実、なかなか難しいものがあります。
カウフマンの場合は、オペラでの実績を見る限り、たとえばモーツァルトあたりではあまりに声が立派過ぎて、ちょっと無駄に張り切っているという感は否めません。やはり、本領を発揮するのは「ヘルデン」としてのレパートリーではないかと思っているのですが。ですから、シューベルトのリートなどでは、ちょっとした不安がよぎります。現に、前回の「水車屋」は、必ずしも満足のいくものではありませんでしたから。
この「冬の旅」では、しかし、1曲目の「おやすみ」から、余計な力が入っていない落ち着いた歌が聴こえてきて、そんな不安は振り払われてしまいます。低音はごく自然に響いていますし、高音になっても決して力まずに、ファルセットも混ざったようなソット・ヴォーチェで勝負していますから、オペラのような遠くの世界ではない、もっと身近な情景が広がります。そして、その高音の中には、常に何かを追い求めているような視線を感じることはできないでしょうか。それは、はるか高みにある存在への憧憬のように思えます。そう、この曲集の中でカウフマンが見せてくれているものは、小さな人間の持つある種の「弱み」だったのではないでしょうか。それは、たとえば時としてさっきのフィッシャー・ディースカウの中に見られるような高圧的に上から見下ろす視線とは、対極にあるものです。
そんなスタンスで歌われる11曲目の「春の夢」などは、まさにほのかではかない「夢」そのもののように思えます。だからこそ、中間部の「Und als die Hähne krähten」という、鶏の鳴き声に目を覚まして現実に引き戻されるシーンでも、ことさら頑張らなくても、ほんの少し声の張りを加えるだけで、見事に場面を変えることが出来るのでしょう。それは、その少し前5曲目の「菩提樹」での「Die kalten Winde bliesen」と、冷たい風が吹いた時にもすでに気づいていたことではありましたが。
最後の「ハーディー・ガーディー弾き」は、そんなソット・ヴォーチェの世界の集大成でしょうか。いくら憧れを募らせても、決して届く事はないという現実が、最後の唐突なクレッシェンドに込められていると感じられるのは、それまでのカウフマンの歌、そしてドイッチュのピアノがあまりにも優しすぎるせいだったからに違いありません。

CD Artwork © Sony Music Entertainment
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by jurassic_oyaji | 2014-03-01 19:44 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Winterreise
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Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
Maurizio Pollini(Pf)
ORFEO/C884 131B




各方面で話題になっている1978年のザルツブルク音楽祭でのフィッシャー・ディースカウの歌う「冬の旅」のライブ録音です。ピアノ伴奏が、当時36歳だったマウリツィオ・ポリーニだったというところで、異常ともいえる騒ぎ方になっているみたいですね。「これを聴かずして『冬の旅』は語れない」とまで言われれば、聴いてみないわけにはいかないじゃないですか。
もちろん、この音源はこの音楽祭の演目を逐一放送しているORF(オーストリア放送協会)によって録音されたものです。それが日本でもNHK-FMで放送されて評判を呼んだそうなのですが、やっと公式のCDになってリリースされました。最近でこそ、放送音源と言ってもクオリティは商品であるCDと変わらないほどの良質な環境で録音されているようですが、この頃はまだ、単に「コンサートを記録したもの」という程度のもので、ちょっとアマチュアっぽい仕上がりでも充分に使い物にはなっていたのでしょうね。これを今のきちんと仕上げられたバランスの良い普通のCDと比べてしまうと、ちょっと辛いかな、というところが、音に関してはあるのではないでしょうか。
それは、歌手にもピアノにも言えることで、生の声が何の反響も伴わないで直接マイクに届けられたフィッシャー・ディースカウの声からは、CDでは確かに聴けたはずの端正さは全く消え去っていますし、ポリーニの弾くピアノの音からも潤いのある音色が届くことはありません。しかし、その分きれいにまとめられた「商品」では決して聴くことのできないストレートな思いまでもが伝わってくるというのが、得も言えぬ魅力にもなっているのでしょう。正直、この声とピアノで無防備なところに迫られるのはかなりのダメージを与えられることを覚悟しなければいけません。しかし、それに耐えてこその感動があることも、まぎれもない事実です。
それにしても、この演奏の密度の高さはハンパではありません。そこには、まさに全身全霊をかけての「真剣勝負」といった趣さえ漂うようなすさまじいものがあります。何しろ、作品に対する徹底した洞察力を持つ二人ですから、それぞれの思いをぶつけたいところなのでしょうが、そこはまずアンサンブルとしてのバランスを取らなければいけません。そんな、いつ破裂してもおかしくないような状態でのバランスですから、それはスリリングなものがありますよ。
1曲目の「Gute Nacht おやすみ」では、まずは様子見、といった感じでしょうか。しかし、ポリーニのイントロにぴったり寄り添うようなフィッシャー・ディースカウは、そこでまず「大人」であることを見せつけます。ここはまず、相手のやり方にとことん付いて行ってやろうというスタンスなのでしょう。そして、4番の前の間奏で曲が短調から長調に変わる瞬間のポリーニの絶妙のppに乗って出てきた歌の、なんという味わいでしょう。ただでさえ表現の幅の大きいフィッシャー・ディースカウの渾身のpp、いや、ppppには、背筋が寒くなるほどです。
こんな風に、二人はお互いを聴きあいながら、時には牽制し、時には服従するといったことを繰り広げていきます。9曲目の「Irrlicht 鬼火」では、ピアノのイントロがあまりに淡白すぎるのを、ポリーニが歌を聴いている間に察知、途中からガラッと進路を変更している様子が手に取るようにわかります。逆に、18曲目の「Der stürmische Morgen 嵐の朝」では、ポリーニのテンションがあまりに高すぎて、ついミスタッチをしてしまいます。そんなありえないミスに、ポリーニのテンションは高まるばかり、フィッシャー・ディースカウは何とかそれを食い止めようとしますが、結局そのままの勢いでゴールインという危ないものも有りますし。
あまりの緊張のせいでしょうか、曲間のお客さんがもたらす何かホッとしたようなざわめきが、とても印象的でした。そんなホットな瞬間を、味わってみては。

CD Artwork © ORFEO International Music GmbH
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by jurassic_oyaji | 2013-12-23 20:07 | 歌曲 | Comments(0)
Chansonettes mit Bach
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Ute Loeck
Georg Christoph Biller
Stephan König(Pf)
RONDEAU/ROP6060




このジャケット、ブロンドの美女と、「スクール・オブ・ロック」に出てきたジャック・ブラックみたいな不細工なデブが並んでいますね。女性の方は「シャンソン歌手」ですが、デブの方には「トマス・カントル」という重々しい肩書きがありますよ。まさか!と思ってしまいますが、よく見てみるとこの顔は確かにあのヨハン・セバスティアン・バッハから数えて17人目にその肩書きを与えられた、ゲオルク・クリストフ・ビラーその人ではありませんか。
その二人の前には楽譜のタイトルが見えますが、片方の「バッハ」はともかく、もう片方の「ビートルズ」というのは、いったい何なのでしょう。まさか、ビラーが「スクール・オブ・バロック」である聖トマス教会の合唱団を指揮して、ビートルズ・ナンバーを演奏しているのではないでしょうね。
実際にアルバムを聴いてみると、その「まさか」は、もっとすさまじい状態で現実となっていました。歌っていたのは、なんとこのビラーご本人だったのですよ。一応、かつてはその少年合唱団のメンバーだったビラーは、きちんと「声楽家」としての修業も行ってきたのですが、結局「ソリスト」として大成することはありませんでした。そんな彼が、ここでは「She Loves You」を「She Loves Me」と歌詞を変えて、相方のシャンソン歌手ウテ・レックに「愛されている」という設定でノリノリの「ソロ」を披露してくれているのです。カントルがこんなことまでやっているのですから、いったい彼の素顔はどんなものなのか、興味がわいてしまいます。
アルバムタイトルの「Chansonettes mit Bach」というのは、シャンソンのみならず、ミュージカルなどでも活躍している歌手、俳優のレックが、2005年から始めたパフォーマンスなのだそうです。バッハの曲と、それとは全く関係のない曲を融合させるという、別に目新しくもなんともないコンセプトですが、なかなかの評判を呼んだようで、とうとうこんなCDまで出ることになってしまいました。そこに、言ってみれば「バッハの権威」であるビラーが加わるのですから、こんなすごいことはありません。
とは言っても、そんな手あかのついたネタですから、今更、という気はします。それどころか、実際に聴いてみると、予想をはるかに超えたつまらなさなのですね。最初に「イギリス組曲第1番」のプレリュードに続いて「レディ・マドンナ」が歌われるのですが、それは聴き手に「いったい、どこが同じなの?」という気持ちを抱かせたまま、独りよがりの勘違いで突き進んでいく、という以外の何物でもありませんでした。その次の曲などは、「平均律」の1番を伴奏にグノーの「アヴェ・マリア」ですよ。こんなんで本気に笑いを取ろうとしているなんて、信じられません。
それと、このレックさんの声が、「シャンソン」という謳い文句とは裏腹に、やたらドスがきいているうえに、不快な縮緬ビブラートが付いているという、それこそブレヒト・ソングあたりを歌わせればこれ以上のものはない、という(実際に、彼女はそういうものを歌っています)ミスマッチぶりなのですね。
そして、そこにビラーのヴォーカルが加わります。これが、はっきり言って「ヘタ」、なんですね。まさに宴会でおやぢが余興に歌っている、というノリなのですよ。
そんな「宴会芸」が延々と続いた後、最後を締めくくるのがバーンスタインの「サムウェア(from ウェストサイド・ストーリー)」のデュエットです。このアルバム、導入のMCこそライブっぽい作り方ですが、演奏そのものはスタジオ録音、もしこれがライブだったら、こんなおぞましい「宴会デュエット」は、会場では完全に浮き上がっていたことでしょう。そもそも、この曲はバッハのカンタータ第19番の5曲目のアリアと一緒に歌われているのですが、カンタータの冒頭のテーマは6度の跳躍なのにバーンスタインは7度の跳躍、全然似てません。

CD Artwork © Rondeau Production GmbH
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by jurassic_oyaji | 2012-08-08 00:24 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/ Lieder
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Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
Gerald Moore, Karl Engel(Pf)
EMI/55969 2(hybrid SACD)




ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが亡くなりましたね。物心ついたころから彼の演奏は聴いていましたが、他のどんな「歌手」とも異なるとびっきりの個性を、直感的に感じていたような気がします。いや、それもそうですが、何よりもラスト・ネームが「フィッシャー=ディースカウ」という長ったらしいものだったことに、強いインパクトを与えられたものでした。後に、このように父方と母方の両方の姓を名乗ることも外国ではあることを知って、文化の違いを強く感じることになる名前でしたね。
ちょうど、「新譜」として、EMIでの4枚のアルバムがSACDになっているものが出ていたので、それを聴いて故人をしのぐことにしましょうか。もちろん、入手したSACDは輸入盤の「Signature Collection」という、演奏家のサインがデザインされている4枚組の豪華セットなのに、2000円ちょっとで買えるアイテムです。全く同じものが、国内盤だと1枚だけで3000円、4枚買えば12000円もするのですからね。ほんと、日本のメーカーは、いまどきこんなぼったくりの商売が通用するとでも思っているのでしょうか。
この4枚のアルバムは、「Schubert Lieder Recital」というタイトルで「1」から「4」までリリースされたものです。それがそのまま、編集なしで4枚のSACDになっているのがうれしいところです。それぞれのアルバムは、1枚ごとに微妙にコンディションが違っていますから、このようにしっかりオリジナル通りの形にするのは、最低の良心でしょう。1955年から1959年にかけて録音されたもので、最後に録音された「3」だけがステレオ、それ以外はモノです。「1」はロンドンのEMIスタジオ(のちの「アビーロード・スタジオ」)で、ウォルター・レッグのプロデュースで録音されていますが、「2」以降はドイツの会場(市役所?)で、ドイツ人のスタッフが手がけています。
「1」は、アビーロード・スタジオとは言っても、オーケストラの録音に使えるスタジオ1や、ビートルズが使ったことで有名なスタジオ2ではなく、一番狭いスタジオ3での録音ですし、1955年ごろのモノですから、そもそも広がりのようなものは期待できませんが、その分なんの色付けもされていない生々しい音が味わえます。そういう環境で録音されたフィッシャー=ディースカウの声は、まるで耳のすぐそばで歌っているようなリアリティがあります。それこそ、口の開け方や息の使い方まで分かるような迫力、これは、間違いなくSACDだからこそ気づかされるものです。CDレイヤーで聴いてみると、それはただの「古めかしい録音」にしか聴こえず、マスターテープには確かに入っている「気迫」のようなものがかなり希薄になっていることがわかるはずです。
「2」になると、録音会場の違いでしょうか、ピアノも声もガラリと変わったものになります。さらにヌケが良くなって、自然なアンビエンスで迫ってきます。ただ、ステレオの「3」よりも、モノの「2」、「4」の方が、音に密度が感じられるのはなぜでしょう。1959年と言えば、DECCAなどではもうステレオのノウハウは確立されていましたが、EMIは一歩出遅れていたことが、こういう録音からも分かります。
しかし、この「3」は全作シラーの詩によるバラードという、とても意欲的な選曲が光ります。最後の「水に潜るもの」などは1曲演奏するだけで24分もかかるという大曲ですから、全部で5曲しか入っていませんが、ここだけで弾いているカール・エンゲルのキレの良いピアノと相まって、そんな珍しい曲に確かな命が吹き込まれています。他のアルバムでのピアニスト、ジェラルド・ムーアは、確かに「味」はありますが、フィッシャー=ディースカウの足を引っ張っているようなところも見受けられます。「4」に入っている「魔王」などは、かなり・・・。
とは言っても、フィッシャー=ディースカウの表現力の豊かさには、改めて圧倒されてしまいます。

SACD Artwork © EMI Records Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2012-06-06 20:10 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Winterreise
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Natasa Mirkovic-De Ro(Voice)
Matthias Loibner(Hurdy-Gurdy)
RAUMKLANG/RK 3003




シューベルトの「冬の旅」は、いわゆる「ドイツ・リート」の中では最も有名なものかもしれません。最近では、この曲集を丸ごと合唱でカバーしたものなども作られています。
「リート」として歌われる時でも、オリジナルのピアノではなく、ギターなど他の楽器によって伴奏されることもよくあります。さらに、オーケストラを使って、ほとんど「再構築」といった趣のバージョンを作ってしまった人もいましたね。なにしろ、そのハンス・ツェンダーの編曲では、普通のオーケストラではあまり使われることのないアコーディオンのような楽器まで入っているのですからね。
しかし、今回登場した「ハーディ・ガーディ」は、インパクトから言ったらそんな過去の「変わり種」などは一蹴してしまうほどのものをもっていました。ミントとかじゃないですよ(それは「ハーブ・ガーデン」)。そもそも、そんな楽器の名前さえ、まっとうに暮らしているクラシック・ファンだったら、運がよければ一生聞く機会のないものなのですからね。とりあえず「運の悪い」あなたは、こちらで大まかな知識を仕入れておいて下さいな。
しかし、リンク先にもあるように、この楽器と「冬の旅」とは、因縁浅からぬものがあるのです。最後を飾る曲「Der Leiermann」は、普通は「辻音楽師」などと訳されますが、本来は「ハーディ・ガーディを弾く男」という意味なのですからね。つまり、この曲ではピアノ伴奏がこのハーディ・ガーディの音を模倣しているのですね。確かに、シューベルトの時代には、この楽器は街中でよく目にすることが出来たはずですから、シューベルトも当然それ聴いたことがあって、ミュラーの詩からあのような具体的な音を連想したのでしょう。だったら、いっそのこと、全曲をハーディ・ガーディに伴奏させてしまおう、と考える人がいてもおかしくはありません。
この楽器をきちんと聴いたことなどありませんし、そもそも、常に同じ音を出し続ける「ドローン」なども付随していますから、音楽的にはそれほど自由度の高い楽器だとは思っていませんでした。それこそ、同じような機会に使われそうな「バグパイプ」程度のものだろう、と。しかし、ここで聞こえてきたのは、演奏しているマティアス・ロイブナーの卓越した技術に負うところも大きいのでしょうが、決してピアノに負けないほどの表現力を持った楽器の姿でした。鍵盤の音がうるさいことさえ我慢すれば、かなり細かい音符のパッセージも何不自由なく演奏できていますし、どうやっているのかは分かりませんが、正確なベースラインをピチカートで弾くなどという、もしかしたらこの楽器の能力を超えるようなことまでやっています。そして、必要な時には「ドローン」を存分に使って、いかにも素朴な味を出すことに成功しています。その最大の見せ場は「春の夢」でしょう。
歌っているナターシャ・ミルコヴィッチ・デ・ローは、ボスニア出身の歌手。スタートはジャズやロックだったのですが、やがてクラシカルな唱法も学び、今ではオペラも歌っているという人です。バロック・オペラなども得意にしているのだとか。そんな、歌うことに対して幅広い間口を持っている彼女は、ここでは「ヴォイス」というクレジットの通り、「シューベルトのリート」には全くこだわっていない自由な「声」で、見事にハーディ・ガーディと対峙しています。「凍った涙」では、最初は地声で、まるで語るように歌っていたものが、2番からは見事なベル・カントに変わる、といった具合です。どんな時にも、言葉を立ててピュアな音色で歌われているのを聴いていると、もしかしたら、普通に「ドイツ・リート」と言われているあの大げさな歌い方は、本当はシューベルトにはふさわしくないのでは、とさえ思わせられてしまいます。これは、とても素敵な体験でした。

CD Artwork © Raumklang
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by jurassic_oyaji | 2011-08-23 23:06 | 歌曲 | Comments(0)