おやぢの部屋2
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カテゴリ:歌曲( 31 )
BACH/Matthäus-Passion(Sung in English)
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Grace Davidson (Sop), Mark Chambers (CT)
Jeremy Budd (Ten, Ev), Eamonn Dougan(Bas, Jes)
Jeffrey Skidmore/
Ex Cathedra Choir & Baroque Orchestra
ORCHID/ORC 100007




タイトルにあるように、「英語によって歌われた」マタイ受難曲です。実は、英語圏ではそのような演奏は決して珍しいものではなく、例えば以前ご紹介したウィルコックス盤などもCDとして存在しています。この、1978年に録音された(ちなみに、今回のアルバムのライナーノーツでは「1979年」となっていますが、それは間違いです)DECCA盤では、1911年に作られた「エドワード・エルガー版」を用いて演奏されています。実は、今回のジェフリー・スキッドモアによって1969年に創設された「エクス・カセドラ」という、水木しげるの大好物(それは「カステラ」)のような名前の合唱団も、かつては同じ「エルガー版」で、英語の「マタイ」を演奏していたのだそうです。しかし、今回の演奏では、ニコラス・フィッシャーとジョン・ラッセルという人たちによって新たに訳されたテキストによって歌っています。それは、より現代人の感覚にフィットする歌詞によって演奏するという試みだったのでしょう。
実際に「エルガー版」と「フィッシャー・ラッセル版」の歌詞を比べてみましょうか。例えば最初の合唱の冒頭。

「エ」:Come, ye daughters, share my mourning
「フィ・ラ」:Come, you daughters, share my mourning

さらに、エヴァンゲリストの第1声
「エ」:When Jesus had completed all these sayings, he said unto his desciples
「フィ・ラ」:When Jesus had finished saying these things, he said to his disciples

ye」とか「unto」なんて、ヘンデルのオラトリオにでも出てきそうな単語ですね。最初のフレーズは、言ってみればかつては「娘たちよ、来るのじゃ」だったものを、「ねえちゃん、おいで」(笑)と訳したようなものなのでしょうね。余談ですが、テレビなどではよく老人が使っている「~じゃ」という言い方を実際に使っている人に、未だかつてお目にかかったことがありません。
そのような歌詞に対する感覚は、エルガー版によるウィルコックスの演奏が18855秒かかっていたものが、15743秒にまで短縮されるような昨今のこの曲に対するアプローチとも、おそらく無関係ではないはずです。しかし、そのようなテンポアップの主たる原因が何世紀も前の演奏様式の再現だというのに、歌詞だけを「現代風」にするというのもなんだかなぁ、という気がしないでもありませんね。
ただ、残念なことに、そのような「新しい」歌詞になったことによる変化というものは、我々普通の日本人にはまず認識するのは不可能なことです。それよりも、慣れ親しんだドイツ語ではないことに対する違和感の方がよっぽど重要な意味を持ってくるのではないでしょうか。これは、あくまで英語を母国語とする人たちが味わうべき演奏なのでしょうね。なんだか、蚊帳の外に置かれて悔しくないですか?いっそのこと、日本語による「マタイ」なんて、誰か演奏してくれないでしょうかね。
これは、バーミンガムのシンフォニー・ホールという、バーミンガム市交響楽団の本拠地として知られる収容人員2,200人の大ホールで行われたコンサートです。しかし、演奏自体はそんな広い空間に惑わされることのないコンパクトな仕上がりになっています。演奏の精度も、ライブならではの傷は少なからずあるものの、先日のマルゴワールに比べたら格段のものがあります。
このコンサートが行われたのは、2009年4月10日、その年の「聖金曜日」つまり、キリストが十字架に架けられた日という、キリスト教徒にとってはとても重要な記念日(?)です。その日に、自分たちの最も共感できる言語で受難の歌を歌った合唱団のメンバーは、きっと何か特別な思いを抱いていたはずです。その思いはホールを埋め尽くした聴衆にも伝わり、最後の盛大な拍手を生んだのでしょう。教会での礼拝ならいざ知らず、コンサートホールなのですから、そんな不作法も許してあげましょうね。

CD Artwork © Orchid Music Limited
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by jurassic_oyaji | 2010-07-17 20:38 | 歌曲 | Comments(0)
ゆめのよる
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波多野睦美(MS)
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25475



このCDでの波多野さんの「肩書き」は「メゾソプラノ」、ムチなんかが好きなのでしょうね(それは「マゾソプラノ」)。しかし、そんな「クラシック」っぽい呼ばれ方など邪魔になってしまうほどに、彼女の声は、古楽から現代曲、さらにはポップスまでと幅広いレパートリーに対応できるものです。そういえば、かつてつのだ☆ひろ、ではなくて、つのだたかしのバンドと共演したアルバムでは「ボーカル」というクレジットになっていましたね。そう、彼女の声はまさにそんな風に呼ばれるのがもっとも適しているような、時代やジャンルには特定されないしなやかさを持っています。
今回のアルバムでは高橋悠治と共演しています。もちろん悠治の作品も歌っていますが、メインはモンポウやプーランク、ブーランジェ、そしてサティといった人たちの作ったフランス語の「歌曲」です。そこで歌われる歌たちは、彼女の手にかかるとおよそ「フランス歌曲」といったくくりでは語り得ないような不思議な肌合いを持つことになります。まず、テキストであるフランス語のディクションが、決してフランス語には聞こえないというほとんど「カタカナ」の世界であることが、かなり重要な意味を持ってきます。「カタカナ」で歌われた結果、「フランス歌曲」はもはやそのようなカテゴリーの持つ「瀟洒」や「粋」といった属性を剥奪され、限りなく「にほんごのうた」に近づくかに見えてきます。悠治の「むすびの歌」が、サティの「Daphénèo」とブーランジェの「Reflets」に挟まれたところで全く違和感を与えないのは、そのせいなのでしょう。悠治の曲をさらりと歌ってのけた中山千夏のイノセンスと同じ種類のものを、そこでは感じられるはずです。
この中では、悠治のソロも聴くことが出来ます。それがサティの「ジムノペディ」3曲です。あまり言及する人はいないかもしれませんが、今では「名曲」となって誰でも知っているこれらの曲を、ほとんど最初に日本の音楽シーンに紹介したのが、実は悠治だったのです。ただ、彼が我々の前に提示したサティの世界は、あくまで「ヴェクサシオン」などに代表されるような「前衛的」な姿でした。今のサティの聴かれ方からは想像も付かないことですが、悠治はあくまでもジョン・ケージのさきがけとしてサティをとらえ、それを聴衆の前に提示していたのです。
その「時代」、1976年にDENONに録音したサティのアルバムを聴くと、そこからはなんとも乾いた肌触りの「ジムノペディ」が聞こえてくるはずです。まるで機械のような正確なビートに乗って、メロディは決して歌われることはなく、単なる音の高低の連続のように響いています。それこそ「瀟洒」や「粋」が完璧に剥奪された、従って確実に「未来」の見える音楽が、そこにはあったのです。

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しかし、それから30年以上経った「未来」に彼自身が再び世に問うた「ジムノペディ」は、そんな「過去」の音楽とは全く異なる様相を呈していました。かつてあれほど厳格だった時間軸の呪縛は完膚無きまでに消え失せ、そこには左手のベースと右手の旋律とが全く別のクロックによって支配されているかのような不思議な流れがあったのです。いや、そういう印象はあくまで「過去」の彼のスタイルを基準にして述べているだけであって、ごく普通の言い方をすれば、極めて「ロマンティック」なスタイルに変わった、というだけのことなのですが。
これは、5年前のバッハの場合には見られなかったこと、それは、もはや「前衛」としてのサティなどどこにもなくなってしまったことの反映なのか、あるいはその5年の間の悠治の変化なのか、にわかには判断は出来ません。そもそもそんな答えを見つけたところでなにになるのか、という思いの方が、より切実なものとして存在しています。

CD Artwork © Avex Entertainment Inc., Nippon Columbia Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2009-10-18 22:57 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Die Schöne Müllerin
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Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
DECCA/478 1528



DECCAからは3枚目となる、カウフマンのアルバムです。以前の2枚はオペラアリア集でしたが、今回はシューベルトのリートです。そういえば、実質的なデビュー・アルバムとしてHARMONIA MUNDIからリリースされたものもR.シュトラウスのリートでしたね。その時の共演者、ヘルムート・ドイッチュが、ここでもピアノ伴奏を担当しています。
この録音は、クレジットでは「コンサートのライブ」となっています。確かにバックには観客のざわめきのようなものが聞こえますし、おそらくその時に撮影されたのでしょう、ブックレットにはマイクがたくさんセットされた会場で拍手にこたえている写真もありました。ただ、その会場はかなり狭い空間のようですから、「コンサート」というよりは「公開レコーディング」のような場だったのではないでしょうか。最後の曲のあとでも拍手は入っていませんし。入れておけば良かったのに(それは「後悔レコーディング」)。
「美しき水車屋の娘」は大好きなリート集で、昔から良く聞いていました。「冬の旅」ほど暗くはなく(あくまで曲調がですが)、それほど深刻になることはありませんし、主に歌っているのがテノールですから、なにか「軽い」感じもしていました。伴奏がピアノではなく、フォルテピアノとか、ギターでも違和感はありません。そして、例えば「冬の旅」のツェンダー版のように無茶苦茶な扱いを受けるようなこともないのではないか、などと、全く根拠のないことを考えたくもなるような、ただ暗いだけの世界はこの中にはありません。
ここでのカウフマンは、まさに、そんな元気の良い若者のような、明るさ丸出しで曲を始めます。それはあくまで、この連作リートのストーリーを意識したものなのでしょう。前半はノーテンキに好きな女性に出会えた喜びに浸っているものの、それが他のオトコに走ってしまったために失意に陥り、最後は小川に身を投げる、というプロットです。ただ、それにしてもここでの彼はいつもの緻密な歌い方とはちょっと違って、すこし羽目を外しているようにも思えてしまいます。正直、歌い方は乱暴ですし音程もかなりいい加減。「娘は僕のものだ!」と大声でがなり立てる様子は、まるでやんちゃ坊主がダダをこねているように聞こえてしまいます。
それだからこそ、伴奏のドイッチュのピアノのうまさが光ります。ちょっと暴走しそうになるテノールを、巧みに操っている様子が良く分かりますし、曲集全体の構成をしっかり見据えた上での音楽作りで、しっかり歌手をサポートしているのではないでしょうか。もっとも、それでもカバーできずに、ついはみ出てしまう、というような場面も見られますが、まあそれは「ライブ」ならではのテンションがもたらしたものなのでしょう。
しかし、曲が進み、失恋モードになるにつれて、だんだんカウフマンの表現も落ち着いてきて、やっと安心して聴いていられるようになります。音程もだいぶマシになってきますし、声にも輝きが出てくるようになってきます。さらに「しぼめる花」あたりからは、「張った」声ではない、「抜いた」ソット・ヴォーチェがとても心地よく聴けるようになってきます。これは前半にも用いていたものですが、そこではいかにもとってつけたような印象は拭えませんでした。しかし、それが次第に必然的な表現としてこなれてきたのですね。
ですから、それを最大限に駆使した終わりの2曲「水車屋と小川」と「小川の子守唄」には、ちょっとゾクゾクするほどの凄さがありました。短調で歌われる「水車屋=若者」と、長調で歌われる「小川」との対話の妙、そして、なんとも慈愛に満ちた「子守唄」、確かに、今までちょっと乱暴気味に歌っていたのは、最後のこれらの曲を引き立てるための伏線だったですね。とても細やかな神経を使った繊細で感動的な世界が、そこにはありました。

CD Artwork © Decca Music Group Limited
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by jurassic_oyaji | 2009-10-16 21:06 | 歌曲 | Comments(0)
Slåttar på tunga
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Berit Opheim Versto
2L/2L46SACD(hybrid SACD)



ノルウェーのマイナーレーベル「2L」は、本当に手作りの「マイナー」さがまだ保たれているところなのでしょうね。品番が通し番号になっているようですが、今までにリリースされたアイテムはせいぜい60枚程度でしょうか。これの一つ前の番号は、確かグリーグの合唱曲集でしたね。
内容もなにも分からずに、ひたすらこのレーベルの音の確かさだけをあてにして買ってしまったSACD、もう一つの魅力は、このジャケットにありました。どうやら4人のメンバーによるア・カペラっぽい感じがしませんか?代理店のインフォにも、「楽器の音を口で再現」みたいなコメントがあったような気がしますし、それだったら「ボイパ」を駆使した小気味よい合唱が聴けるのでは、と楽しみに入荷を待ちます。
しかし、入荷予定日をはるかに過ぎた頃に手元に届いたこのアルバムには、どうもアーティストは1人しか居ないようなことが書いてありました。写真に写っている4人分の顔も、よ~く見てみると逆さづりになったり下を向いたりしているのは、なんだか同じ人のような気がしてきましたよ。そう、確かに、ここで歌っているのはベーリト・オプハイム・ヴェシュトという女性1人だけだったのです。ちょっとがっかり、こういうのも「偽装」と言うのでしょうかねぇ。まあ、でも、中には多重録音で2人、あるいは4人分の声が入っているトラックもあることですし、許してあげましょうか。「早回し」もしてないようですしね。
そんなことよりも、やはりこのレーベルの録音には期待を裏切られることはありませんでした。教会で行われた録音、たった1人で歌っているのに、そこには適度な残響が伴ったとてもリアルな「声」がありました。そう、これはまずヴェシュトさんの「声」のとびきり豊かな音色を楽しむアルバムだったのです。基本的に彼女のフィールドは「民族的」な音楽、発声もクラシックからはかなり離れたものですが、その「地」の声が持つ美しさには圧倒されてしまいます。低音はちょっとはかなさが伴った怪しいものがありますし、高音はそれとは全く対照的なクリアな明るさがあるのですからね。なんでも、彼女は2005年と2006年にノルウェーとスウェーデンで行われた「フォークオペラ版『魔笛』」(それがどういうものなのかは、ライナーの説明だけでは分かりませんが)のツアーで、夜の女王とパパゲーナを歌ったのだそうです。この二つのロールは同時に出てくるシーンはありませんから、一人二役だったのでしょうか。衣装も同じだったりしたら笑えますね。いや、確かにこれらの役を充分に歌えるだけの高音の美しさとテクニックは持っていますよ。
ここで彼女が歌っているのは、「スロッテル」というノルウェーの民族音楽です。車には関係ありません(それは「スロットル」)。本来は踊りの伴奏をするためにフィドルなどで演奏されるインスト・ナンバーなのですが、楽器を弾く人がいない場合にそれを「声」で代用するという伝統があるのだそうです。そんな、昔から伝わる「芸」の、さまざまな形のものがここでは堪能できます。とてもリズミカルで、まさに踊りの伴奏にふさわしいものの中には、ちょっとしっとりとした子守唄風のナンバーもあって、単調さからも免れていますし。
そんな、トラック11の「Bygdatråen」あたりを聴いていると、それこそグリーグの「ソルヴェーグの唄」とよく似たテイストが感じられます。面白いのが、ヴェシュトさんが取っている長調だか短調だか分からないような民族的な微妙な音程です。これは日本民謡にもよく見られる、「クラシック」の音階には当てはまらない音程なのですが、おそらく「ソルヴェーグ」のもとになった民謡も、そんな音程のものだったのではなかったか、という気がしては来ませんか?グリーグは、それを前半は短調、後半は長調にして、「クラシック」との折り合いをつけたのだ、と。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2009-05-24 22:28 | 歌曲 | Comments(0)
VIVALDI/Bellezza Crudel
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Tone Wik(Sop)
Barokkanerne
2L/2L56(hybrid SACD)



オリジナル楽器のフィールドで幅広く活躍しているノルウェーのソプラノ、トゥーネ・ヴィークの、このレーベルでの2枚目のソロアルバムです。今回は、ノルウェーで最初に作られたというオリジナル楽器の団体、「バロッカネルネ」との共演で、ヴィヴァルディの「カンタータ」集です。4曲のカンタータの間に、ファゴット協奏曲とフルート(アルト・リコーダー)協奏曲が演奏されるという趣向です。
「カンタータ」とは言っても、バッハの曲のように教会で演奏されたものではありません。ヴィヴァルディの場合はもっと世俗的、宮廷やホールで演奏された、言ってみればコンパクトなオペラのようなものになっています。ここで聴くことの出来る4曲には序曲も何もなく、ソプラノによるレシタティーヴォとアリアが、そのすべてです。テキストの内容も愛の喜びやはかなさ、あるいは苦しみを歌ったもので、アルバムタイトルも「All'ombra di sospetto(疑惑の陰に)」というカンタータの最後の言葉「むごい美しさよ」から取られています。美しいことは罪なのですね。
ヴィークの写真がブックレットにありますが、それもとても美しいものでした。もはや美しさの頂点(ピーク)は超えたお年頃なのでしょうが、そのブロンドの髪や涼しげな目の中には、確かにかつてさらに美しかった頃の面影がそのままに残っています。
超優秀な録音が売り物のこのレーベル、そのヴィークの声はかなり高い音圧で迫ってきて驚かされます。一瞬ひるんでしまいますが、それはとてもくっきりとした音のかたまり、しばらく聴いているうちにその高い密度が、直接心の中に語りかけてくるような存在感として伝わってくるようになります。彼女の声は、オリジナルのヴァイオリンなどと良く溶け合う、とても素直なものでした。あのエマ・カークビーとは違って、若かりし頃の声は、その美しい容姿とともにほとんど衰えることなく今も維持出来ている、というのが幸せなことです。
ですから、なによりも、ヴィヴァルディ特有の、無機的なスケールなどのような楽器の音型をそのまま声に置き換えることを要求されるという、ほとんど無茶とも思える歌い方を、こともなげにクリアしているのが素敵です。特にアップテンポのナンバーでの軽快感は、感動すらおぼえます。
そして、スローバラードでも、ヴィークはしっとりとした歌を聞かせてくれます。「La farfalletta s'aggira al lume(小さな蝶は光の中をさまよい)」という、通奏低音だけの伴奏によるカンタータの最後のアリア「Vedlò con nero velo(黒いヴェールを見るだろう)」などはその白眉、低音パートとの掛け合いになる下降スケールの正確なイントネーションと相まって、確かな情感が伝わってきます。この曲でのチェンバロのリアルな録音も聴きもの。
協奏曲でもその録音は際立っています。ペール・ハンニスダールがソロをとっているファゴット協奏曲では、バロック時代のファゴットの乾いた軽やかな音がとても魅力的に迫ってきますよ。モダンのファゴットが持っているちょっと押しつけがましいキャラは、そこからは全く感じることは出来ません。これでこそ、とても細かいアルペジオなどから、ヴィヴァルディの持ち味が存分に味わえようというものです。
バロック時代、「フルート」といえば「縦笛」の楽器、つまりリコーダーのことを指しました(だから、「横笛」はわざわざ「フラウト・トラヴェルソ(横のフルート)」と呼びました)。ここでその協奏曲を吹いているアレクサンドラ・オプサールも、目まぐるしいタンギングで鮮やかなヴィヴァルディを聞かせてくれます。
実は、さっきのタイトルの歌詞のあるカンタータにも、こちらはフラウト・トラヴェルソのオブリガートが入っています。トルン・キルビー・トルボというそのトラヴェルソ奏者は、かなり艶っぽい奏法でヴィークの歌を盛り上げています。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS
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by jurassic_oyaji | 2009-04-11 20:26 | 歌曲 | Comments(0)
Italia 1600 Argentina 1900




Verónica Cangemi(Sop)
Una Stella Ensemble
NAÏVE/OP 30466



最近のバロック・オペラのシーンでは、かつてはカストラートが演じていた役を現代の歌手が歌うときに欠かすことが出来ない、男のような力強い声とそして逞しい容貌を持ったソプラノ、あるいはメゾ・ソプラノに数多く出会うことが出来ます。アルゼンチン出身のヴェロニカ・カンジェミもその一人、例えば「ルーチョ・シッラ」のDVDでは、その完璧なコロラトゥーラと、ブロンドの長髪をなびかせた凛々しい「男役」の姿を存分に味わうことが出来ます。ここで見られるカンジェミは、変になよなよした関西のアイドル(それは「カンジャニ」)などよりも数段男っぽく感じられるのではないでしょうか。
このアルバムは、そんな「バロック・ソプラノ」としてのカンジェミと同時に、彼女のルーツである南アメリカの音楽を歌うアーティストとしてのカンジェミを味わってもらおうというコンセプトによって作られています。その「バロック」のパートでは、期待通りのコロラトゥーラの嵐が、彼女の魅力を存分に伝えてくれていました。ただ、そこで感じられるのが、「洗練」されたものではなく、もっと「荒削り」な一面であったのは、ちょっとした驚きです。メリスマの粒立ちは、いつもながらの鮮やかなものであるにもかかわらず、ほんのちょっとしたピッチの感触などが、妙に「汚れた」印象を与えるのです。さらに、低音へ突入するときのすさまじい地声の「雄叫び」。
そのようなアップテンポの曲ではなく、スロー・バラードでも同じようなある種不思議な味わいが見られます。有名なヘンデルの「私を泣かせて下さい」では、オペラ歌手と言うよりは、まるでフォルクローレの芸人のような、ほとんど素人と見まごうほどの素朴さがつきまとってはいませんか?後半の装飾も、「非ヨーロッパ」(それがどんなものであるかを説明は出来ませんが)の趣味に彩られています。そして、パイジェッロの「ネル・コル・ピウ」ときたら、完全に「クラシックのオペラ」的な歌い方からは逸脱した軽やかなショーピースに変わってはいないでしょうか。
それらのちょっとした違和感は、20世紀に「非ヨーロッパ」で作られた3つの作品を聴くことで解消することが出来るのでは、というのが、このアルバムの制作者の目論見だったのではないでしょうか。ピアソラの「イ短調のミロンガ」は「ヨーロッパ」とも「クラシック」ともなんの接点を持たないポップ・ミュージック、そこでの彼女の愁いに満ちた共感あふれる歌は、先ほどのヘンデルとなんと多くの共通項を持っていることでしょう。グアスタヴィーノの「鳩のあやまち」だってほとんどヒット・チューンとなりうるキャッチーなバラード、そこに見られるまるで「語り」のような歌い方と、やはり先ほどのパイジェッロでの軽やかな歌い方との間に同質のセンスを認めるのは容易なことです。
そして、本質的には民族音楽であるヴィラ・ロボスの「アリア」の場合、オリジナルのチェロ8本とソプラノという編成が、ギターを中心とした全く別のアレンジで演奏されることで、その「民族音楽」たる資質はより強調されることになりました。そんな環境でのカンジェミこそ、まさに彼女の本領を最大限に発揮出来たのではないでしょうか。そう、彼女はクラシック歌手としての訓練を受け、それは確実に「ヨーロッパ」で評価されてはいるものの、その底にはまごうことなきフォルクローレのアーティストの魂が宿っていることに、気づかされることでしょう。
「アリア」でヴォカリーズのテーマが回想されるときの究極のソット・ヴォーチェ、これこそが、そんなフォルクローレのバックグラウンドと、オペラ歌手としてのキャリアを持つ彼女でしかなし得ない感動的なパフォーマンスなのです。

CD Artwork © Naïve
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by jurassic_oyaji | 2009-03-02 19:27 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Winterreise
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Christoph Prégardien(Ten)
Joseph Petric(Accordion)
Pentaèdre
ATMA/ACD2 2546



今までにシュタイアーとのフォルテピアノ伴奏版、カンブルランとのオーケストラ編曲(もちろん、ハンス・ツェンダーによるもの)版と、ひと味違った「冬の旅」の録音を行ってきたプレガルディエンが、今回もなかなかユニークなアルバムを出しました。伴奏はなんと木管五重奏+アコーディオンという不思議な編成、さらに、曲順がシューベルトの楽譜による順番ではなく、ヴィルヘルム・ミューラーが出版した時の順番に変えられています。
この歌曲集の曲順に別の可能性があったことなど初めて知りましたが、そうなった経緯はこういうことなのだそうです。最初にシューベルトがこの詩集に出会ったのは、ミューラーが雑誌に発表した12編の形ででした。彼はまず12曲から成る曲集として、「冬の旅」を出版します。これが、現在では「第1部」と呼ばれている1曲目から12曲目までの曲です。しかし、後にミューラーはさらに12編の詩を作り上げ、それを続編という形ではなく、以前の12編と一緒にして大幅に順序を入れ替え、24編の詩集として出版したのです。それを見たシューベルトは、すでに出来上がっていた最初の12曲の流れを大切にするために、あえて曲順は変えず、残りの12曲を「第2部」という形で曲集にしたのです。その際に、22曲目の「勇気」と23曲目の「3つの太陽」は、ミューラーの順番とは逆にしたのは、シューベルトなりのこだわりでしょうか。
すっかり「シューベルト版」の曲順に馴染んでしまっているところへ、この「ミューラー版」を聴かされると、確かにちょっとした違和感が無いわけではありません。なにしろ、5曲目の「菩提樹」のあとに、本来ならずっと後、13曲目の「郵便馬車」が聞こえてくるのですからね。さらにショッキングなのは、11曲目、つまりほぼ折り返し点に位置していた印象的な「春の夢」が、最後近くの21曲目にあることでしょう。この2点だけでも、曲集全体に対するイメージが、ガラリと変わって感じられるはずですよ。
そして、今回の伴奏の楽器編成です。編曲を行ったのは、ここで演奏している木管五重奏団「ペンタドル」のオーボエ奏者、ノルマン・フォルゲですが、彼が管楽器だけではなく、そこにアコーディオンを加えたアイディアは、ちょっと微妙な評価を呼ぶことでしょう。もっとも、ツェンダーのぶっ飛んだアレンジを体験していれば、これなどはいともまともなものに思えてくるのかもしれませんが。実際、オリジナルのピアノ伴奏を逸脱することは決してない、それどころか、ピアノではなかなか聞こえてきにくい旋律線が、管楽器によってきれいに歌われているあたりはなかなかのものです。クラリネットは時にはバス・クラリネットに持ち替えて、超低音の不気味さを演出してくれていますし、「郵便馬車」では、ナチュラル・ホルンが素朴な音程でこの伴奏音型の本来の姿を浮き彫りにしています。そして、シューベルトでは21曲目、ここでは17曲目の「宿屋」では、管楽器の4人の男性メンバー(フルートは女性)が、なんと「男声四重唱」を披露してくれているのですから、すごいものです。楽器を演奏する人が合唱をやるというのはなかなかありそうで無いもの、ここで聴かれる素晴らしいハーモニーは、まさに「プロ」の腕前です。
そう、もう一つ、このアルバムのこだわりがありました。それは、オリジナルのキーで歌われている、ということです。本来はテノールで歌うためのキーだったものが、なぜか低音歌手用に移調した楽譜が流布される中で、この曲は例えばバスのハンス・ホッターやバリトンのディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの渋~い演奏が最高のものとされてしまっています。テノールのキーが逆にゲテモノ扱いすらされて、奇異な目で見られていたのですからね。しかし、ここでのプレガルディエンの演奏を聴けば、もうそんなことを言う人はいなくなることでしょう。この曲の「暗さ」は、ことさら低い声にこだわらなくとも、充分に伝わるものなのですから。

CD Artwork © Atma Classique (Canada)
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by jurassic_oyaji | 2009-02-02 19:39 | 歌曲 | Comments(1)
Dietrich Fischer-Dieskau Sings Bach
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Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
HÄNSSLER/CD 94.201



歌曲に、オペラにと大活躍、ある意味一つの時代を築いたと言える、1925年生まれのバリトン歌手フィッシャー・ディースカウ、そんな彼がまだ20代から30代前半だった頃、1953年から1957年にかけての録音が、SWR(南西ドイツ放送)のアーカイヴからCD化されました。もちろん正価で買いましたよ(「ディスカウント」ではありません)。タイトルの通り、それは「バッハ」を歌っているものですが、全てが「大バッハ」ではなく、1曲だけ彼のおじいさん格のヨハン・クリストフ・バッハの作品が混ざっています。もっとも、それは聴いただけでは大バッハと比べての様式的な違和感は殆どありませんから、もしかしたら録音当時は大バッハの作品だと思われていたのかもしれませんね。半世紀前のバッハ、そしてバロック音楽への認識なんて、そんなものだったのでしょう。
そのヨハン・クリストフの作品は「Ach, dass ich Wassers gnug hätte in meinem Haupt」。弦楽器のいかにも重々しいイントロが、この当時の「バッハ」に対する畏敬の念をもろに呼び起こされるようで、聴く方もつい居住まいを正したくなるような気になってしまいます。そのバックで聞こえてくるチェンバロも、なんとも張りのある、まるでピアノのような音色を持ったモダン・チェンバロですから、本当に「くそまじめ」といった趣が募ります。この頃の音楽家には、ヒラヒラしたヒストリカル・チェンバロをバッハで使うなんて、思いも及ばなかったことなのでしょう。そもそも、当時は博物館以外にはそんな楽器は存在してはいませんでしたし。
そして、フィッシャー・ディースカウは、殆ど全身全霊をかけて「神聖」な歌を伝えようと、まるで修行僧のような面持ちでこの曲に向き合っているかのようです。つややかな音色でありながら、深刻この上ないこの人の芸風は、このような修練によって身に付いたものなのでしょうか。その歌は、「音楽」というよりは「お説教」のように聞こえます。
続く、ヨハン・セバスティアンの作品、前半には教会カンタータからのナンバーが並びます。最初は158番全曲(と言っても4曲しかありませんが)、終曲のコラールには、合唱も入っています。ここでももちろんフィッシャー・ディースカウの歌は生真面目そのもの、そしてそれに輪をかけて、この曲でのヴァイオリンのオブリガートが極めつけの格調の高さを演出してくれています。細かい音符が意味する装飾的なテイスト、それが教会やコンサートホールで実体となって聴衆に届けられるようになるには、まだもう少し時間が必要だったという、まさにアーカイヴならではの演奏です。
ところが、同じバッハでも、後半の「シュメッリ歌曲集」になった途端、フィッシャー・ディースカウの音楽はガラリと変わってしまいます。この「歌曲集」は、バッハ作品番号ではBWV439からBWV50769曲に相当する、通奏低音とソプラノ、またはバスのための小さな宗教曲が集められたものです。それらはカンタータのアリアのような大規模な構成を持つものではなく、ほんの内輪の楽しみ(いや、「お祈り」でしょうか)のために歌われるような素朴な曲たちです。中にはバッハが自分で作ったものもありますが、大半はそれまでにあったコラールのようなものに少し手を入れた程度、そこにはごく自然な暖かいメロディがあふれています。そんな曲ですから、フィッシャー・ディースカウは、時代様式などを飛び越えた、まさに現代人としての共感を、その曲の中にしっかり込めてくれました。例えば、ヨハネ受難曲などでお馴染みのキリストの十字架上の言葉をモチーフにした「Es ist vollbracht! Vergiss ja nicht diese WortBWV458でのしみじみとした歌は、この大歌手の心情がストレートに伝わってきて、心を打たれます。
ある時代の様式の中でしか伝わらない魅力と、時代に左右されない普遍性とを併せ持っていたものが、バッハの音楽であったことを教えられるCDです。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-22 20:28 | 歌曲 | Comments(0)
Salomix-Max
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Salome Kammer(Voice)
Rudi Spring(Pf, Arr)
WERGO/WER 6709 2



サブタイトルが「Voice without limits」ですから、「限界のない声」でしょうか、確かにこのアルバムのリーダー、ザロメ・カンマーの「声」にはジャンルもカテゴリーも超えた多様なキャラクターが宿っていました。特に、現代作品での「声」の持つ可能性を極限まで追求したテクニックには驚きを隠せません。
このような「声」を売り物に現代音楽の分野で活躍した人には、キャシー・バーベリアンというまさに「ワン・アンド・オンリー」の才能の持ち主がいました。腕の力もありました(それは「バーベルマン」)。ザロメのアルバムは、この故バーベリアンに捧げられています。同じWERGOレーベルに、彼女が録音した「MagnifiCathy」というアルバムがありますが、それが、このザロメのアルバムのブックレットにも紹介されていることからも、両者の間の緊密な関係はうかがえます。
そのアルバム同士の曲を比べてみると、その中でこの二人は1曲だけ全く同じ曲を歌っていました。それは、クルト・ワイルのミュージカル「ハッピー・エンド」の中の「スラバヤ・ジョニー」というナンバーです。サビの部分がワイルの作品としては最も有名な「マック・ザ・ナイフ」と酷似したメロディを持っているこの曲を、バーベリアンはまるでロッテ・レーニャへのオマージュであるかのように細かいビブラートを付けて歌っていましたが、ザロメはもっと前を向いた歌い方を目指しているかのように見えます。バーベリアンにとってのワイルが「過去のもの」であったのに対し、ザロメのそれはあくまで「現在」としてのレパートリー、それは彼女が現にミュージカル女優であることと無関係ではないはずです(「マイ・フェア・レディ」のイライザ役を、もう150回以上も演じているのだとか)。バースの付いた「虹の彼方に」がとても魅力的なのは、当然のことです。
同じように、バーベリアンの「持ち歌」であったベリオの「セクエンツァ」も、ザロメが「演奏」すると、全く異なる趣が現れてきます。まさに1960年代の匂いのプンプンする、人間の声から全く意味を剥奪して「素材」に還元したという作品からは、しかし、人間が声を出すという行為にはどんな場合でも「意味」、あるいは「意志」がともなうのだ、という事実を再確認させられることでしょう。そんな意味で、これはとても「セクシー」な「セクエンツァ」です。
まるで現代の(そう、ベリオはもはや「現代」ではありません)「セクエンツァ」とも言うべき作品も、2人の作曲家のもので聴くことが出来ます。彼女が演奏すると「セクシー」どころか、まるで「セックス」そのもののようになってしまう、カローラ・バウクホルトの「エミール」というちょっとアブない曲はさておいて、ヘルムート・エーリンクの「2wei」という作品は、サンプリングの手法を取り入れて1人で2人の声を出すという今風の仕上がりを見せていて、楽しめます。
アルバン・ベルクの「4つの歌曲」では一転して、まるで「クラシック」のソプラノのような見事なベル・カントも披露してくれています。そんな直球勝負のひたむきさが、この曲には不思議にマッチ、確かな充実感が味わえます。もしかしたら、このあたりが彼女の素顔なのでしょうか。そういえば、ブックレットの中の写真ではなかなか可愛いルックスのようなのに、このジャケットはあまりにもかわいそう、演奏同様、彼女の素顔をぜひきちんと見てみたいものです。
ワイルなどのカバー曲では、バックにクラリネット、フルート、そしてアコーディオンなどが入って、かなりぶっ飛んだアレンジ(ピアニストで、作品も提供しているシュプリングの編曲)を楽しませてくれます。アルバムの冒頭では、コール・ポーターの曲でバス・クラリネットがいきなりキー・チョッパーで驚かせてくれましたが、リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂」では、ソリストを差し置いて、アルト・フルートが大活躍でした。
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by jurassic_oyaji | 2008-09-29 20:07 | 歌曲 | Comments(0)
Pie Jesu/Sacred Arias
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森麻季(Sop)
金聖響/
オーケストラ・アンサンブル金沢
AVEX/AVCL-25182(hybrid SACD)



いつもお美しい森麻季さんの最新アルバムです。今回は「宗教曲」という範疇に入る曲を集めたもの、金沢の音楽堂という美しい響きのホールでの録音によるSACDというのも、聴く前から期待が高まるところです。データを良く見ると、現場での録音機材はDSDではなくハイビットのPCMのようですが、マスタリングはあの杉本さんですから、なんの遜色もない音が聴けるはずです。
1曲目、モーツァルトの「Exsultate, Jubilate」で解像度の高い、その分、ちょっと固さの残るのがはっきり分かる演奏のオーケストラの序奏に続いて聞こえてきた森さんの声は、そんな録音の特性が十分に生かされた透明そのものの響きを持っていました。極力ビブラートの抑えられた歌い方は、この時代の音楽にはとてもマッチして、モーツァルトのメッセージが過不足なく伝わってくるものです。それは、まるでオリジナル楽器であるバロック・ヴァイオリンのような澄みきった音とともに、無理にアタックを付けようとしない滑らかな肌触りの感じられるものでした。さらに、最後の「Alleluja」での煌めくようなコロラトゥーラでのテクニックにも、なんの破綻もありません。
モーツァルトの作品はもう一つ、「ハ短調ミサ」からのソプラノのためのアリアが2曲歌われています。「Gloria」の中の「Laudamus te」での超絶技巧の中に秘められた可憐さと、「Credo」の中の「Et incarnatus est」でのしっとりとした味わい、いずれも森さんの魅力が最大限に発揮されているものでした。特に後者での、木管楽器のソロとの間のアンサンブルは見事です。ソプラノには難しい低音も軽々とこなしているのも、さすがです。
ハイドンの「天地創造」からのレシタティーヴォとアリアを挟んで、後半にはバッハの登場です。「マタイ受難曲」の中の、フルートの長大なオブリガートを伴う「Aus Liebe will mein Heiland sterben」では、まずそのフルートソロを担当されている、オーケストラ・アンサンブル金沢の首席奏者、岡本えり子さんの清潔な演奏に惹かれるものがあります。「愛のために、救い主は亡くなられた」という崇高な歌詞を、森さんはしっかり噛みしめているように聞こえます。もう1曲、「ヨハネ受難曲」からの「Zerfliesse, mein Herze」も、素敵です。
そして、アルバムタイトルであるフォーレのレクイエムからの「Pie Jesu」が始まります。間奏の部分で木管が聞こえてこないので、これは第2稿で演奏しているのかと思い、もっかん聴いてみましたが、確かに管楽器は入っていないものの、ファースト・ヴィオラのパートもなくなっているという不思議な版によるものでした。これはおそらく、ソリストのメロディをなぞっているそのパートをカットして、森さんの声をよりクリアに聴かせようという配慮なのでしょう。この手のソロアルバムでは、逆に分厚いオケで飾り立てようとすることが多いはずですから、スタッフはよほどソリストの声に自信があったのでしょう。
そこまでして前面に押し出されている森さんの歌声ですが、この頃になってくるとちょっとした不快な「癖」が耳に付くようになってきます。先ほど例に挙げたバロック・ヴァイオリンのように、彼女の歌い方は音を出してしばらくしてから異様なふくらみが出てくるのです。このフォーレの場合だと3小節目からの「dona eis」の部分の八分音符が、そういう歌い方のせいでまるでそれぞれ二つの十六分音符のように聞こえてきて、なにかゴツゴツとしたみっともないものになってしまっているのです。
最後の「天使の糧」(フランク)は、逆にセンスの悪い極彩色のフル・オーケストラ・バージョンにちょっとたじろいでしまいます。これこそ、どこにでもあるライト・クラシック用のケバケバしたアレンジではありませんか。宗教曲の名曲をオリジナルの形で集めたものだとばかり思っていたら、実はその程度のものだったとは。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-14 21:46 | 歌曲 | Comments(0)