おやぢの部屋2
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カテゴリ:歌曲( 31 )
SIBELIUS/Lieder
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Kim Borg(Bas)
Erik Werba(Pf)
DG/00289 477 6612



大昔、それこそ自分のお金で買えるLPなど限られていた頃は、1枚1枚を何回、いや何十回と繰り返し聴いたものです。物が潤沢ではなかった分、愛着の深さは現在の比ではありませんでした。そんな中に、DGのシューベルトの歌曲を集めた10インチ盤のコンピレーションアルバムがありました。そこで「魔王」(「菩提樹」だったかもしれませんが)を歌っていたのが、キム・ボルイという面白い名前のバス歌手でした。演奏自体はすっかり忘れてしまいましたが、その印象的な名前だけは、「君、ボロい」と馬鹿にされたように思えて、それ以来ずっと記憶の中にとどまっています。
おなじみ、「spotlight」シリーズで、あの10インチ盤と同じ黄色いジャケットによるキム・ボルイのアルバムが出たときには、そんな遠い昔の記憶が呼び覚まされる思いで、曲目も確かめずに買ってしまいました。そういえば、彼の写真を見るのはこれが初めて、なかなか端正な顔立ちだったのですね。
キム・ボルイは、1919年に生まれて2000年に亡くなったフィンランドのバス歌手です。オペラでは「ドン・ジョヴァンニ」や「ポリス・ゴドゥノフ」のタイトル・ロールや「バラの騎士」のオックス男爵などが当たり役だったということです。もちろん、先ほどのシューベルトのように、リートの分野でも活躍、このアルバムも、彼の母国の作曲家シベリウスの歌曲を集めたものです。
実は、シベリウスの歌曲などというものは、今までほとんど聴いたことがありませんでした。そもそも、彼の歌曲だけを集めたアルバムなども殆どなかったと言いますから、それも無理のないことなのでしょう。そういう意味で、この1958年にモノラルで録音された歌曲集は、現在でも存在価値を持っているに違いありません。
そんな初体験のシベリウス、ボルイはとっても丁寧に歌ってくれています。彼の声は他の北欧の歌手たちと同様、とても深みのあるものですが、決して重たい印象はなく、どちらかといえば軽め、その上に繊細さが伴っています。フィンランド語の歌詞の歌などは、特に一つ一つの言葉を大切に歌っているのが(意味は全く分かりませんが)、大変よく分かります。そして、彼のすばらしさは、本当に息を潜めるような弱音の部分で最高に発揮されています。まるで細い糸のようにピンと張られたその弱音は、とてつもない緊張を伴って迫ってきます。そんな極上のピアニシモがあるからこそ、フォルテシモとの表現の格差は際だって、とてもヴァラエティにあふれた世界が、このシベリウスから導き出されているのです。
そう、ここで聴くことの出来るシベリウスの歌曲の多彩な内容といったらどうでしょう。素朴な民謡調のものから、ダイナミックに歌い上げるもの、しっとり語りかけるかと思えば、コミカルなテイストまで含まれています。英語のテキストで歌われるものもあり、それなどはまるでミュージカルのような軽さも伴っていますよ。実は今年はシベリウスの没後50年という記念の年、この機会にこれらの歌曲がもっともっと聴かれる機会が増えてもいいのではないでしょうか。そんな中で、唯一馴染みのあるのが「フィンランディア」です。これは、よく聴く合唱版とは全く肌触りが異なることに驚かされます。言葉の隅々にしっかり引っかかりを持たせたボルイの歌からは、この曲の持つ力がストレートに伝わってきます。ところどころで聞こえてくる「スオミ」という言葉に、母国に寄せる深い意味が宿っていることを強く感じないわけにはいきません。
ボーナストラックで、1960年にステレオで録音された完全初出のイリョ・キルピネンの歌曲が3曲と、シベリウスの別テイクが2曲収められています。ほんの2年の間の録音技術の進歩も、ここでしっかりと味わうことが出来ます。
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by jurassic_oyaji | 2007-07-12 19:45 | 歌曲 | Comments(2)
STRAUSS/Lieder




Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901879



ヨナス・カウフマンというテノールを初めて見たのは、BSで放送された「ティートの慈悲」ででした。チューリヒのオペラハウスのライブ映像、ちょっと変わった演出で、ネクタイを締めたり、軍服を着たりと、「現代」風にアレンジされているものでしたが、そこでタイトル・ロールを歌っていたのが、カウフマンだったのです。そういう演出ですから、カツラや大げさなメークもない「素」の顔で登場したカウフマンは、オペラのテノールにはあるまじきスリムな体型と端正な顔つきを披露してくれていました。それはまるで、ハリウッド・スターのヒュー・ジャックマン(例えば、メグ・ライアンと共演した「ニューヨークの恋人」とか、最近では「X-MEN」シリーズでお馴染み)のような、甘さと凛々しさを併せ持つ、とても魅力的なマスクでした。しかし、そんな外観をしのぐほど、本当に魅力的だったのは、その声です。基本的にはリリック・テノールなのでしょうが、そんな声の人にありがちな弱々しさが全く感じられない、突き抜けるような力強さまでが備わったものだったのです。おそらく、普通に考えればモーツァルトの、このティートとか、タミーノやドン・オッターヴィオにはちょっと「強すぎる」キャラクターなのかも知れませんが、それだからこそなにか特別な魅力を感じてしまいました。
というのも、このような役に対する一つの理想のテノールの姿は、ほとんどいにしえのペーター・シュライヤーで固定されてしまっていました。それに比べると、シャーデやボストリッジといった最近の人には、一つ芯の通った力強さが欠けているように思えてなりませんでした。もはやモーツァルト・テノールに対する世の嗜好はそういう甘ったるいものに変わってしまったのだな、と思い始めていた矢先の、このカウフマンとの出会いです。しかも、そこには、シュライアーさえも持ち得なかった決然とした力までもが備わっているではありませんか。なんでも、彼は「パルジファル」までレパートリーに入っているとか。ヘルデンっぽいリリック、もしかしたらこれは、モーツァルトには理想的とも言えるテノールの形(あくまで個人的な好みですが)なのかも知れないと思わせられるだけのものが、彼が歌うティートの中にはあったのです。
そんなジャックマン(あ、彼はミュージカル・アクターでもあったのですね)、ではなくてカウフマンの初のソロアルバムは、なんとリヒャルト・シュトラウスの歌曲集でした。モーツァルトもヴァーグナーも歌える歌手によるシュトラウス、確かに、これは鋭いところを突いてきています。そして、思った通り、それは見事な成果を上げたものでした。シュトラウスの歌曲といえば、まず女声で歌われるものと相場が決まっていますが、どうしてどうして、彼によって女声にはない新鮮な表現が味わえるのは、とても幸福な体験でした。最初に聞こえてきた「献呈」から、その迷いのないストレートな声には圧倒されてしまいます。それだけではなく、ちょっと力を抜いて柔らかく歌うところの、なんと魅力的なことでしょう。決して大げさな身振りではない等身大の心情の吐露が、そこには見られます。いわば、邪心のない若者の自信と、それとは裏腹な揺れ動く迷いの心のようなものが、彼の歌の中には感じられるのではないでしょうか。ピアノ伴奏のドイッチュも、そんなナイーブな心に突き刺さるような踏み込んだタッチで、音楽を深みのあるものにしてくれています。最後の「悪い天気」なども、ちょっとひねくれたワルツに乗って歌われるシュールな歌詞を、さりげなく表現していて素敵です。
ただ、ほんのちょっとした細かい不満が、録音に対してないわけではありません。カウフマンの声も、そしてピアノも、なにか作り物のような乾いた感じがあって、お互いに「音」として溶け合っていないのです。さらに、フォルテになると声が恐ろしくきついものになってしまいます。これは、録音が行われたベルリンのテルデック・スタジオのせいではないはず、明らかにエンジニアのセンスの問題でしょう。もっとたっぷりとした音場で録音された、モーツァルトのアリア集などを、ぜひ聴いてみたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-29 19:16 | 歌曲 | Comments(0)
幻のコンサート



有山麻衣子(Sop)
佐藤和子(Pf)
宇野功芳(Cond)
ORTHO SPECTRUM/KDC 6001



なんでこんなところに「スピード」のHIROが、と思われたことでしょう。グループ解散後もソロとして活躍している彼女が、ついにクラシックに転向してリサイタルを開いたものが、「幻」のCDとして発売になったのかと。もちろん、それはウソですが、しかし、よく似てますね。
ここで歌っているのは、有山麻衣子という方、もちろんそんな名前を知らなくても、クラシックファンとして恥じることは全くありません。この方は、大学の合唱団で歌っているところを、あの宇野功芳氏に見出され、彼の教えを受けた結果このようなCDを出せるまでになったという、まるで「オペラ座の怪人」のクリスティーヌのようなラッキー・ガールです(あ、ファントムは宇野先生ね)。でも、彼女は音楽を職業にする気は全くないのだとか、普段は一OLとして働いているのだそうです。
宇野氏が惚れ込んだというのは、その無垢な声です。彼が言うには、クラシックファンの中にも、声楽に対するアレルギーを持っている人は多いのだと。いわゆる「クラシック歌手」にありがちな「吠えるような発声法」と「声がゆれるビブラート」には、馴染めない人もいるのだそうです。そこへ行くと、有山さんは合唱団員としては理想的なノン・ビブラートで伸びやかな声を持っていました。それを彼は大切に育て上げ、決してプロの声楽家にはない魅力を持つソリストとして、こういう形で世に送り出したのです。彼をして「天使の歌声」と呼ばしめた理想的な歌手、しかし、彼はファントムのように、それを遠くから見守るような奥ゆかしいことはしませんでした。実は、ブックレットの裏表紙には、本番で彼女の歌を宇野氏が「指揮」をしている姿が掲載されているのです。自らの手で、最後の表現を彼女に施したい、そんな強い思いのあらわれなのでしょうか。こんなうざったいお節介を、良く彼女が許したものだと思ってしまいますが、そこは信頼で深く結びついた師弟関係、これしきのことで、はたのものが口出しをする必要はないのかも知れません。
実は、これは純粋の「リサイタル」ではなく、録音のために、ごく少数のお客さんを入れて演奏、その模様を修正することなく記録するというものなのだそうです(それを「幻のコンサート」と言っているのだそうです)。曲目は、いわゆる「童謡」や、小学唱歌のような、ごくシンプルなものが並んでいます。おそらく誰でも一度は耳にしたことであろうそれらの曲は、懐かしさの彼方にかすかに残っている耳慣れた歌い方とは、かなり異なった表現で聞こえてくることに、気づくことでしょう。いや、「表現」というのは不適切な言い方だったかも知れません。そこから聞こえてきたものは、まさに彼女の「美しい声」が全てだったのです。ほとんど無表情なその歌い方には、言葉さえも意味を持つことはなく、「表現」とは全く異なる不思議なベクトルが感じられたものです。そこにあるのは、煌めくように漂っている「音」だけ、それが、10何曲か続くことによって、頭の中は空っぽになって、とても癒されたような気分になってくることを誰しもが感じることでしょう。そう、これはまさに、今のクラシック界の寵児、「ヒーリング」の最たるものではありませんか。これの虜になると、なんの主張もない音楽に身をゆだねてしまうという、影響力の大きいものです。アルバムの最後の方に、「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」のアリアが歌われているのですが、ですから、これは全く「オペラ・アリア」ではあり得ない、なんの力も持つことのない軽やかな音の浮遊として聞こえてきます。
そんな中で、唯一フォーレの「ピエ・イェーズ」だけは、この曲が求めている世界を完璧に再現した深い感動を持って味わうことが出来ました。これこそは過剰な「表現」からは最も遠いところにある曲、もしかしたら彼女たちは意図しなかったところで、見事に理想的な演奏が誕生していたのです。
録音は、彼女の透き通る声を完璧に収録した、素晴らしいものです。そのために彼女の低音の未熟さが強調されているのは、仕方のないことかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-18 19:30 | 歌曲 | Comments(1)
Spirituals


George London(Bas)
Carl Michalski/
Singgemeinschaft Rudolf Lamy
Members of the Orchestra of the Bavarian State Radio
DG/00289 477 6193



今、ジョージ・ロンドンがブームなのでしょうか。つい先日SONYから「ボリス」のハイライト盤が復刻されたばかりだというのに、今回は、なんと完全初出(なんかいやらしいイメージを持つのは、私だけ?
それは「完全丸出し」・・・あ~あ、ほんとのおやぢになっちゃった)の「黒人霊歌集」ですからね。DGの「スポットライト」という、歌手のリサイタル盤を復刻したデジパックのシリーズ、本体はあの「オリジナルズ」と同じ、チューリップレーベルが印刷されています。しかし、そこにはもはや「CDロゴ」が見当たらないことにご注目。結構、最近のものにはこれがないようになっていますよ。
このロンドンの場合は、元々のLPすら一度も世に出ていない(「完全初出」とはそういうことです)というのですから、1963年に録音されたものが、43年も経って初めてリリースされたことになります。それにしては、ジャケットがいやにリアリティがあるのが気になります。裏を見ると、曲目に「SIDE A」とか「SIDE B」といった表記もありますから、おそらく実際にプレスする直前まで話は進んでいたのでは。なにしろ、DG(いや、DGG)盤には付き物の「黄色い」枠の中には、ちゃんとLPの品番まで入っていますからね。この「SLPEM 136 458」というのは、確かに当時使われていた品番です。もちろん、いかにもそれらしい品番をでっち上げて、文字だけを差し替えたのでは、という疑問がわくのも当然のことかもしれません。しかし、丹念に検証してみると、このジャケットで使われているフォントは現在は使われてはいないものであることが分かります。

上がジャケットの文字、下が「今」印刷された非常によく似たフォントの文字なのですが、例えば大文字の「O」とか小文字の「v」などは、完全に別物なのが分かるはずです。つまり、このジャケットは文字も含めて当時実際に印刷されたもの、あるいはその版下を忠実に復刻したものなのでしょう。そこまで準備されていたものが商品として流通しなかったわけは、今となっては知るよしもありません。あ、左下の赤いシールは、「今」貼り付けられたものです。念のため。
ジョージ・ロンドンの声には、最初から「悲しみ」が宿っているように聞こえます。彼がヴォータンやボリスであれほどの評価を得たのには、その特異な声のキャラクターが大きく作用していたに違いありません。ひょっとしたら、彼はこんな歌を歌うために生まれてきたのではないかと思えるほど、彼が歌うスピリチュアルズにはそんな「悲しみ」を通じて魂のほとばしりのようなものを感じずにはいられません。「時には母のない子のように」などが、それが顕著に現れた名演ではないでしょうか。一見サラッと歌っているかに見えて、そこからは深い情感がとめどもなく放たれているさまを感じ取ることが出来るはずです。バックにコーラスが入っているものが大部分ですが、それはこのロンドンの情感を的確に受け止めた優れた演奏、もしかしたら音程などに不安がなくもないソリストを、見事にバックアップしているものでした。
「ジェリコの戦い」のように、ちょっとしたリズムセクションが加わったアレンジでは、ロンドンのリズム感の良さが存分に発揮されています。そんな時、いかに軽快に歌ったとしても、そこにはしっかり「悲しみ」がついて回るという、彼ならではのセンスは決して失われることはありません。
ただ、中に3曲ばかり、アレンジャーのルドルフ・ラミーが、ストリングスを加えて本気になって甘ったるい編曲を施しているものがあります。これが、およそロンドンの歌とはかけ離れた白々しい出来なのです。「商品」としての体裁を整えるために、豪華に飾り付けたものを提供したと言うことなのかもしれませんが、ひょっとしたら、このトラックのために全体のコンセプトがはっきりしないものになったのが、「お蔵入り」の原因だったのではないか、などと勘ぐりたくなるような、それは「勘違い」のアレンジになっています。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-03 19:22 | 歌曲 | Comments(0)
SCHUBERT/Winterreise




Christine Schäfer(Sop)
Eric Schneider(Pf)
ONYX/ONYX 4010



まるで雪のように白いこのジャケット、お分かりでしょうか、そこにあるタイトルとアーティストの表示は印刷ではなく紙のエンボスによって、かろうじて「文字」と判別できるものです。2行目に並ぶのは作曲者、歌手、そしてピアノ伴奏者の名前、SCHUBERTSCHÄFERSCHNEIDERと、全て「SCH」で始まる単語です。そうなると、このあとに続く言葉は「Der Weg gehüllt in Schnee(道は雪に覆われている)」と第1曲で歌われる「SCHNEE(雪)」以外にはあり得ません。降り積もる雪によっていとも簡単に埋もれてしまうただのふくらみでしかないこれらの文字、それはあたかも夢の中の出来事のように、実体として感じられることを拒んでいるかのように見えます。
シューベルトの歌曲集の最高峰として、「冬の旅」は様々な演奏を産んできました。もちろん本来作られた男声、それも低い声の持ち主が歌ったものが圧倒的に多かったことは、ご存じの通りです。テノールのような高い声の人が歌う時には、余程の覚悟が必要とされることでしょうし、まれに女声が挑戦しようものなら、それはこの曲は「男が歌うもの」という「常識」の前で、あえなく討ち死にを余儀なくされたものでした。
クリスティーネ・シェーファーが「冬の旅」を歌う時には、「女声」であることと「高い声」であることの2点を、言ってみればハンディキャップとして背負うことになりました。しかし、彼女は最初からそんなものは重荷でもなんでもなかったかのように振る舞っています。
第1曲目、「おやすみ」のピアノ前奏が、まるで氷のような冷たさで始まった時、私たちは彼女のアプローチが世の男どものものとは全く異なることに気づきます。それは、「ルル」を演じてしまった女だけに可能な、シューベルトの最創造、ベルクのプリズムを通してロマン派の歌曲を「分光」するという作業だったのです。その「おやすみ」では、モノクロームの光の中でいとも寒々しい世界が広がります。と、どうでしょう、歌が長調に変わった瞬間に、その光はわずかに色彩を取り戻すのです。そのほんのわずかの変化は、なんと強烈な印象を与えてくれることでしょう。それは、芝居じみた大げさな動作からは決して生まれない、歌い手も聴き手も極度の緊張の中にあるからこそ伝わってくるミクロの味わいなのでしょう。
彼女のその様な姿勢は、「言葉」に強烈な意味を持たせることになります。時として、ほとんどメロディを失った、まるでシュプレッヒシュティンメかと思えるほどの息づかいで歌われる「言葉」は、言い様のない力で迫ってきます。第3曲「凍った涙」では、「Tränen」という言葉だけでまさに凍てつくような風景が眼前に広がってきます。たとえドイツ語が分からなくとも、彼女の歌にはそれを感じさせるだけの力がこもっているはずです。
彼女が拓いたこの曲の世界は、第11曲「春の夢」でさらに新しい地平へ広がっていくのが分かります。それは、最初にジャケットで与えられた印象がまさに伏線として準備されていたかのように、この曲に「非現実」の要素を最大限に盛り込むものだったのです。甘い夢が現実によって打ち砕かれるというこの歌詞そのままに、その「甘い」メロディの部分が「夢」という「非現実」、もしかしたらほとんど「狂気」にも近い虚ろな世界であることに、気づかずにはいられません。
彼女が歌う24曲全ての中に、今まで感じたことのなかったような新鮮な驚きが宿っていました。それは決して今までの「名演奏」を否定するものではありません。しかし、もしそれだけで終わっていたとしたらなんと無意味な人生なのでは、と思わせられるほどのものではありました。「『冬の旅』は男の歌うものだなどと、誰が決めたのだ」とでも言いたげなシェーファーのこの「アヴァン・ギャルド」な世界、そう、これはまさに、ヴォツェックではなくルルだから表現できたシューベルトなのです。詳細は、縷々お話ししましょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-15 17:31 | 歌曲 | Comments(0)
Schubert Songs




Peter Schreier(Ten)
András Schiff(Pf)
WIGMORE HALL/WHLive0006



ウィグモア・ホールのライブ録音シリーズ、新録音だけだと思っていたら、「Archive」ということで、昔の貴重な音源も混ざっていたのですね。この、ペーター・シュライヤーという、いつもきちんとブローをしてヘアスタイルには気を使っている名テノール(それは、「ドライヤー」・・・ちょっと引っ張りすぎ)のリサイタルも、そんな一例です。64歳となった年、1999年には「歌手」としては引退することになるシュライヤーが、その8年前、1991年の7月1日に行ったリサイタルをBBCが録音、放送したものが、このCDの音源です。
シュライヤーの声は、「リリック・テノール」と呼ばれる、細やかな情感を伝えるには最も適したものです。それは、特にモーツァルトのオペラでは最高の成果をもたらしています。声の甘さからいったらもっと魅力的な人はいるのかも知れませんが、テキストの内容を的確に表現する力からいったら、彼ほどのドン・オッターヴィオやタミーノはかつては存在してはいなかったはずです。特に、ソット・ヴォーチェで歌われた時に広がる高貴な世界といったら、まさに「至芸」の趣さえ漂っていました。それと同時に、ヴァーグナーあたりではローゲやミーメといった一癖も二癖もある性格的なキャラクターにこそ、彼の資質は結実していたのです。これも、テキストに対する深い洞察がなせる業でしょう。
今回のCD、一応あのトニー・フォークナーがリマスターを行っていますが、元々は放送用の音源ということで、声もピアノも少し潤いの乏しい音になってしまっているのが、ちょっと残念なところでしょうか。しかし、そんな録音上のクオリティの低さも、コンサートの雰囲気が手に取るように伝わってくるという「記録」としての側面が強調されているものと受け取れば、それほど気にはならなくなってきます。事実、最初に演奏された「白鳥の歌」の1曲目「愛のたより」(ここでシュライヤーは、出版された順序に演奏しています)が終わったあとの、何とも言えない安堵のため息のような客席のどよめきは、このコンサートの密度の高さを端的に伝えてくれるものでした。それほどの緊張感を強いられるほど、シュライヤーの歌には、最初から高いテンションが宿っていたのです。
さらに、4曲目の「セレナーデ」の、甘さとは全く無縁の、まるで突き放すような厳しさはどうでしょう。それはまるで、歌詞の中にある「愛の痛みLiebesschmertz」を訴えかけるような厳しさです。単なるナンパの歌だと思っていたこの曲の中にこんな歌詞があったことに初めて気づかされたぐらい、これは恐るべき演奏です。こういうものを聴く事によって、私達はシュライヤーの最大の特質が、言葉と音楽の極めて高い次元での結びつきである事をいやでも知る事になるのです。
この曲集の最後の「ドッペルゲンガー」では、その幅広い表現力に改めて感服させられます。ここには、それこそタミーノの持つノーブルなたたずまいから、ミーメが演じる絞り出すような苦悩の世界までが凝縮されている事を感じないわけにはいきません。そして、それをその場で聴いている人たちが、その余韻を、ピアノの音がダンパーで消されるまで固唾をのんで味わっている様も、ここには生々しく「記録」されているのです。
ピアノのシフの、シュライヤーにピッタリ寄り添うサポートも、驚異的です。ある瞬間、ピアノの音が全く聞こえなくなり、人の声でもピアノ伴奏でもない一体化した音のかたまりが聞こえてきた事があったのを、確かに体験する事が出来たぐらい、それは完璧な「伴奏」でした。
おそらくアンコールなのでしょう、最後に歌われた「ミューズの子」で見せた、まるで全てのものが吹っ切れたような開放感は、逆にそこに至るまでの緊張感の大きさを感じさせるものでした。そのあとに訪れる盛大な拍手が、この夜のリサイタルの充実度を物語っています。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-18 19:58 | 歌曲 | Comments(0)
日本語で歌う 冬の旅




斎藤晴彦(Song)
高橋悠治(Pf)
水牛/SG008


役者だった斎藤晴彦さんがクラシックの世界でブレイクしたのは、どのぐらい前の事だったでしょう、「日本語クラシック」という、クラシックの名曲に日本語の歌詞を乗せて早口で歌いまくる、という「芸」で一世を風靡したのは、もはや記憶の彼方へ消えていこうとしています。そんな彼も、最近では「評論家」として、ゲルギエフの「指環」の論評を新聞紙上に掲載したりと、いつの間にかしっかりクラシックのフィールドになくてはならない人になってしまっています。
その斎藤さんが、シューベルトの「冬の旅」に挑戦です。NHK教育テレビの人気番組「クインテット」で「スコアさん」の声を担当している斎藤さんですから、ここでピアノ伴奏が宮川彬良だったりしたらそのまんまあの子供番組の世界になってしまうのですが、もちろんそんな事はありません。斎藤さんと言えば、元をただせば「黒テント」というアングラ(死語)劇団の団員でしたから、そんな、ほのぼのとした世界とは全く無縁のキャラだったわけですからね。ですから、ここで高橋悠治という「くせ者」のサポートを受けるというのが、いかにも斎藤さんらしい姿になってくるわけです。
と、このレーベルである「水牛」的な発想、確か「修練を必要としない楽器による平易なアンサンブル」といったような先入観をつい抱いてしまいましたが、悠治のピアノは、その「水牛楽団」での大正琴やアコーディオンのイメージとは全く異なる、まっとうなものであったのはちょっと意外な事でした。ここで悠治は、斎藤さんが歌うからというのでことさら特別の事をするのではない、これまで数多くの「普通の声楽家」たちとこの曲を共演してきたのと全く変わらないスタンスで演奏していたのです。バッハなどで見せたような不自然なところなど全くない、流れるようなシューベルトの音楽が、そこには繰り広げられています。
その様な、きちんとした音楽的な枠組みを悠治が提示している事により、斎藤さんの歌がしっかりとした意味を持つ事になります。彼の「歌」はもちろんかなり荒削りなもの、クラシック的な発声とは全く縁のない、言ってみればその辺のおやぢが一杯飲みながら声を張り上げているような趣です。そんな、時として暴走しそうになる彼の「歌」に、悠治は敢えて合わせようとはしないで淡々とシューベルトの世界を先導しているのです。まるで、日本語で歌われているその歌詞を冷ややかに眺めているかのように。
斎藤さんと悠治、そして平野甲賀、田川律、山元清多といったメンバーの手になる日本語訳は、ミュラーの原詩の直訳ではありません。どちらかというとことさらに荒っぽい単語を使ったという、妙なエネルギーが溢れているものです。その中で、最も有名な「菩提樹」だけは、完全な創作、というか、原詩のパロディとなって、そのエネルギーを一心に集約しているように見えます。「泉に沿いて それがどうした 淡き夢見ても 眠いばかり」ですからね。これらの言葉が殆ど歌い手の全人格の吐露として発せられる時、そこから見えてくるのは言いようのない暗く寒い世界、そう、斎藤さんがここで歌っている日本語は、そんな悠治のスタンスによって、見事なまでにシューベルトの世界とは遊離した、しかし、決して違和感は伴わないという、マルチレイヤーのようなハイブリッド性を見せることに成功しているのです。○橋□泉でしたっけ(それは「パイプカット」)。
ちなみに、このCDは、いずれ某大型店でも扱い始めるという情報はありますが、今のところネットでしか入手できません。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-25 21:55 | 歌曲 | Comments(0)
Deutsche Barocklieder




Annette Dasch(Sop)
Membres de l'Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMN 911835



ルネ・ヤーコブスが録音した「フィガロの結婚」のCDは、これほど手放しで褒められるのも珍しいと思われるほど、各方面で絶賛されたものでした。もちろん、わが「おやぢの部屋」でも褒めまくっていたのはご存じの通りです。ところで、そのヤーコブスが、パリのシャンゼリゼ劇場でこの作品を上演した模様が、最近テレビで放映されましたね。バロックの絵画で彩られた舞台装置と、ジャン・ルイ・マーティノティの軽快な演出がヤーコブスの音楽と見事にマッチした、素晴らしいステージでした。ただ、オーケストラがコンチェルト・ケルンなのは同じですが、キャストはケルビーノのキルヒシュラーガーを除いてはCDとは総入れ替えになっていました。その中でちょっと気になったのが、伯爵夫人を演じていたアンネッテ・ダッシュです。およそ「伯爵夫人」らしからぬ蓮っ葉な物腰は、例えば第2幕の最初のモノローグでヒステリーを起こして手当たり次第に食器を投げつけるというショッキングな演出には見事にハマってはいたものの、やはりこの役としては違和感を抱いてしまうものでした。
実は、彼女はオペラの他に、バロックあたりの声楽曲の分野でも盛んに活動しているということを知り、そんなドイツのバロックの歌曲ばかりを集めたこのアルバムを聴いてみる気になりました。HARMONIA MUNDIのいわば「新人紹介」といった趣のシリーズ、しかし、これはなかなか手のかかったアルバムです。まず全体を、「愛」、「移ろいゆくもの」、「平和」、「自然」、「幸運」という5つのコーナーに分け、それぞれのテーマに沿った作品を数曲ずつ歌うという趣向です。最初の「愛」で、すでにダッシュの魅力は全開となります。一口に「バロック」と言っても、時代によって様式は大きく変わっていますが、この中ではもっとも「古い」ハインリッヒ・アルベルトの、まるでシュッツを思わせるような端正な歌い口に、まず引き込まれます。と思うと、次のかなりバッハあたりに近い時代のヨハン・クリーガーの作品ではうってかわった軽快さが味わえます。彼女の魅力はなんといってもリズム感の良さでしょう。このコーナーでは喜びにあふれた技巧的なコロラトゥーラがふんだんに使われていますが、それがいとも軽やかに処理されているさまは爽快感すら味わえるほどです。
これが、次のコーナーへ進むと、ガラリと印象が変わってしまうのですから、すごいものです。特に、フィリップ・ハインリヒ・エルレバッハの「私たちの人生はたくさんの苦悩に囲まれている」という曲で、ベルリン古楽アカデミーのメンバーによる、一音一音かみしめるまるでため息のような伴奏に乗って、切々と歌い上げる場面は真に心に迫ってくるものがあります。決してこの時代の様式を逸脱しない、しかし、その中で最大限のエスプレッシーヴォを披露しようという、まさにバロックリートの真骨頂を味わう思いです。「自然」のコーナーでは、同じハインリッヒ・アルベルトの作品を、全く違う歌い方で歌うという離れ業も見せています。これは、当時の歌を表現する際の可能性の幅を自ら示してみたもの、と見ました。最後のコーナーは、ご想像のようにまたもやコロラトゥーラの応酬、最後の曲には「合唱」まで入って、にぎやかに幕を閉じるというもの、このアルバム1枚でこの時代のリートの様々な表情を、完璧に伝えきっている素晴らしい仕上がりになっています。
これを聴けば、ヤーコブスがなぜ彼女を伯爵夫人に抜擢したか、分かるような気がします。事実、テレビで見た「フィガロ」では、外見こそミスキャストでしたが歌の方は完璧に指揮者の要求に応えていたのですから。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-20 20:58 | 歌曲 | Comments(0)
CANTELOUBE/Chants d'Auvergne



Véronique Gens(Sop)
Jean-Claude Casadesus/
Orchestre National de Lille
NAXOS/8.557491



かつて、カントルーブ-オーヴェルニュ-ダヴラツ・・・という、まるで暗号のような言葉が1セットで語られていた時代がありました。今でこそジョセフ・カントルーブが作った「オーヴェルニュの歌」という曲は誰でも知っている有名なものになっています。正確には「作曲」ではなく「編曲」になるのでしょう、カントルーブ自身が採取したフランスのオーヴェルニュ地方の素朴な民謡をソロで歌わせ、そのバックを色彩的なオーケストレーションで彩るという趣向、1924年から1955年にかけて5集27曲から成る曲集が作られました。その全曲を1963年に最初に録音したのが、ネタニア・ダヴラツというソプラノです。その録音(VANGUARD)が発表された頃には、そんな、どれが作曲者でどれがタイトルか分からないような状況は、確かにあったのです。そして、皮肉なことに、このセットがあまりに強烈に 当時のリスナーに刷り込まれたせいか、カントルーブという作曲家の作品は「オーヴェルニュ」以外には完璧に知られることはありませんし、ダヴラツも、この曲以外の録音を耳にすることは殆どなくなっています。クラシック界の「一発屋」、言ってみれば、さとう宗幸の「青葉城恋唄」といった趣でしょうか。
そのダヴラツ盤を聴き慣れた耳には、今回のジャンスの新しい録音は、とても洗練された、どこか別の次元にジャンプしたものに思えてしまいます。なんでもジャンス自身がこのオーヴェルニュ地方の出身だということですが、そのような「ご当地」の鄙びた味をここに求めるのは、ちょっと見当はずれなのかもしれません。彼女がここから導き出したものは、いたずらにローカリティを強調した「民族性」とか「土着性」といったものとは無縁の、もっと普遍的な音楽の魅力だったのです。もっと言えば、そこから聞こえてくるものは、殆どオペラと変わらないほどのドラマティックな説得力を持つものだったのです。有名な「バイレロ」の、極めて単純な旋律の中に、ジャンスはどれほどの細やかな情感を込めていることでしょう。「牧場を通っておいで」の「Lo lo lo」というだけの歌詞から、なんと深みのある意味を見出していることでしょう。何よりも好ましいのは、こういったものを演奏する時にありがちな過剰な「崩し」(中には、それをある種の芸としてありがたがる向きもありますが)が殆ど見られないということです。例えば、第1集の「3つのブレー」などでは、一歩間違えばくさい演技がむき出しになるところを、しっかり端正にコントロールされた「表現」として、私たちには伝わってきます。
改めてこの曲を聴いてみて強烈に感じられたのが、オーケストラの異常とも言える饒舌さ。カントルーブのオーケストレーションは、初めて聴く時にはおそらくかなりのインパクトを与えられるもので、それが心地よい印象となって好感を持たれることになり、これだけのポピュラリティを獲得することになったのでしょうが、じっくり聴いてみるとかなりの点で表面的な効果をねらったものであることが分かります。ピッコロを頂点とした木管群の強烈なオブリガートは、下手をしたらただの騒々しい雑音にも聞こえかねません。そんなオケをバックにした時、ジャンスほどの芯の強さを持たないことには、到底音楽的な主張を伝えることなど出来ないのかもしれませんね。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-13 20:12 | 歌曲 | Comments(0)
VIVALDI/Motets



Patrizia Ciofi(Sop)
Fabio Biondi/
Europa Galante
VIRGIN/545704 2



5月にフェニーチェ座と来日、ヴィオレッタを歌うことになっているパトリツィア・チオフィというソプラノ歌手の前評判は上々のようですね。ただ、私の場合、彼女の初体験がヤーコブスの「フィガロ」、このアルバムについては前任者がレビューを書いていますが、その中での感想には驚くほど共感できるものがありました。つまり、他の歌手はそれぞれの持ち味を出しているというのに、スザンナを歌ったチオフィだけが、この役に求められるキャラクターと全く違っていたため、何かなじめないものがあったのです。そんなとき、ふと店頭で目に入ったのがこのCDです。チオフィが歌うヴィヴァルディのモテット、ヴィヴァルディの宗教曲といえば、合唱で歌われる「グローリア」あたりしか聴いたことがありませんから、弦楽合奏を伴うソロ歌手のためのモテットなんて、それこそ初体験です。この編成のモテットは、何でも20曲ほど残されているそうですが、いったいどんなものなのでしょう。
「初体験」には、期待とともに、ある種の「痛み」も伴うものです。しかし、1曲目の「Laudate pueri Dominum(神のしもべをたたえよ)」が聞こえてきたときに、今回に限っては「痛み」を味わうことはあり得ないことが確信できました。そこにあったのは、いつもながらの元気いっぱいのエウローパ・ガランディの弾けっぷり、そしてヴィヴァルディの持つ華やかさをふんだんに盛り込んだ浮き立つようなイントロに乗って、チオフィの深い響きのコロラトゥーラが現れた瞬間、私たちが「ヴィヴァルディ」と言ってすぐ思い浮かべる、あの協奏曲の世界が広がっていたのですから。そう、様々な独奏楽器のための協奏曲を山ほど作った作曲家、というプロフィールが最も浸透しているこの作曲家のイメージを裏切らないこのテイスト、「ソロ・モテット」というのは、まさに「歌手のための協奏曲」だったのです。この曲の場合は、全部で10の部分から出来ているのですが、アレグロの部分でのコロラトゥーラは、とても人間が歌うことなど想定していないような(実際は、カストラートに歌ってもらうつもりで作ったのでしょうか)超絶技巧満載のフレーズのてんこ盛りです。そして、間に挟まるラルゴの部分は、とことん歌い込みさえすれば、涙すら誘いかねない甘ったるさです。この曲以外の3曲は、もっと「協奏曲」に近づきます。緩/急/緩という3楽章構成の典型的なイタリア風協奏曲に、「歌」であることを強調するために「レシタティーヴォ」を挿入するという工夫はありますが、最後のアレグロが「Alleluia」という歌詞で華々しく終わるのであれば、とことん小気味よいブリリアントな仕上がりになります。
チオフィは、たとえばエマ・カークビーのような端正な歌い方は取らず、その低めの張りのある声を武器に、縦横無尽に超絶技巧を楽しんでいるかのようです。そこからは、バックのオケの奔放さにも存分に張り合えるだけの迫力が生まれます。やはり、こういう人にスザンナは合わないでしょう。クリスマスにはぴったりでしょうけど(「チオフィこの夜」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-04-23 11:38 | 歌曲 | Comments(0)