おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem


Larsson(Sop), von Magnus(Alt)
Lippert(Ten), Peeters(Bas)
Simon Schouten/
Ensemble Lyrique
PREISER/PR90670



輸入CDのレビューで困るのは、演奏者の読み方が分からない時です。たとえ英語であっても、法則などの通用しない特別な読み方をする場合がありますから、油断は出来ません。「Maazel」を「マゼール」と読んだりするのは、かなり勇気がいることだとは思いませんか?ちなみに、「Renée」という名前は、「ルネ・フレミング」のように、「ルネ」という発音が実際の音に近いものなのですが、映画の世界では同じスペルでも「レニー・ゼルウィガー」のように「レニー」という、アクサンを無視した乱暴な読み方が通用していたりします。「Halle Berry」も、「ハル・ベリー」ではなく、「ハリー・ベリー」が正しいことが最近になってようやく知られてきたとか。
馴染みのある英語でさえ、このぐらいの「誤読」があるのですから、オランダ語などになったらとても手が付けられません。今回の指揮者の名前も、輸入業者の資料を見て初めて「スハウテン」というダイエット食品みたいな読み方だと知ったぐらいですから(それは「トコロテン」)。ただ、これも全面的に信用することは極めて危険です。かつて、やはり同じオランダの演奏家のモーツァルトのレクイエムが出た時も、CD店のコメントに書いてあった読み方を採用したら、別のところでは全く違う読み方だったということもありましたので。
とりあえずのスハウテンさん、ご自分が指揮者とクレジットされたアルバムはおそらくこれが初めてなのでしょうが、だいぶ前からトン・コープマンの「右腕」として、合唱の指導に当たっていたという実績があるそうです。リサ・ラーション(これも、読み方が難しい)などの、コープマン・プロジェクトの常連が参加しているのは、そのあたりの人脈なのでしょうね。
「アンサンブル・リリック」という団体名は、スハウテン(とりあえず)が1999年に自ら創設した、オリジナル楽器のアンサンブルと、小規模の合唱団の総称として使われています。それぞれのメンバーは、スハウテン(とりあえず)が個人的によく知っている人ばかりを集めたということで、ある意味、指揮者のやりたいことに極めて敏感に反応できる演奏集団を目指しているのでしょう。確かに、その成果は見事な形で演奏に現れていることはすぐ分かります。オーケストラと合唱が一体となった緊密な表現を、あちこちで聴くことが出来ます。ただ、それは良くも悪くも指揮者の趣味がそのまま反映されるということになるわけで、彼のかなりアクの強い歌わせ方には、正直なじむことは出来ません。そんな中で「Lacrimosa」だけは、その趣味がたまたま良い方向に向いたのか、ちょっと凄い演奏になっています。イントロのヴァイオリンの緊張感あふれる響きからして、それまでの音楽とは別物、合唱も最初から最後まで集中力が切れることはありません。
問題は、合唱だけの時にはそこそこ緊密な音楽が聞こえてくるのに、ソリストが入ったとたん、その張りつめたものが無惨にも壊れてしまうことです。ラーションがこんなにリズム感が悪いのも意外ですが、テノールのリッパートは最悪。「Tuba mirum」では、ライブということもあってオブリガートのトロンボーンもちょっと、なのですが、その2人の危なっかしい絡みには笑う他はありません。4人のアンサンブルも、それは悲惨なものです。
カップリングの「聖母マリアのためのリタニア」では、さらにコンディションが悪かったのでしょうか、ソリストのアンサンブルの酷さはまさに耳を覆いたくなるほどでした。つくづく、こういう編成の曲の難しさを思い知らされます。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-29 19:57 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Die Flötensonaten




福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021


京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-27 19:40 | フルート | Comments(0)
RACHMANINOV/All-Night Vigil




Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
HARMONIA MUNDI/HMU 907384



最近はこのように「徹夜祷 All-Night Vigil」と表記されるようになった、このラフマニノフの合唱作品ですが、今までは「晩祷Vespers」という、大店の責任者(それは「番頭」)みたいなタイトルが一般的でした。正確には、15曲からなる聖歌集の最初の6曲が、この「晩祷」のためのもの、そして7曲目以降は、次の朝の礼拝「Matins」に用いられる曲なのです。ただ、今さら「晩祷は誤訳で徹夜祷が正しい」などと言われても、昔からなじんだ曲名はなかなか直すことは難しいものがあります。なんと言っても、かつてこの曲の存在を決定づけられたこんなインパクトのあるジャケットがあったのですから。


これはスヴェシニコフによって1958年に録音されたこの曲の初めてのレコード(MELODIYA)を国内盤として発売するにあたって、発売元の日本ビクターが渾身の力を込めてデザインしたもの。おそらく歴史に残るであろう斬新なジャケットです。そして、このレコードが2枚組LPとして発売された1974年という年が、私たちがこの曲を知った最初の時となったのです。ということは、1915年に作られてから半世紀近くの間、ラフマニノフにはピアノ協奏曲や交響曲以外にもこんな素晴らしい合唱曲があると言うことは、少なくともレコードの上では全く知られることがなかったのです。しかも、それ以後この曲の新たな録音が出るまでには、1986年にロストロポーヴィチ(ERATO)と、ポリャンスキー(MELODIYA)の仕事が世に出るまで、30年近くも待たなければならなかったとは。そして、初めて「西側」の指揮者ロバート・ショーがTELARCに録音した1989年という年が、奇しくも「東側」という概念が崩壊した年であったのは、なんという暗示的なことでしょう。
ラフマニノフが、ロシア聖歌の昔の形、中世の「ズナメニ」というネウマ譜による古い聖歌や、キエフ聖歌、ギリシャ正教聖歌に近代的な和声を施したり、あるいは、それと全く変わらないテイストで自ら創作を行った時、そこにはボルトニャンスキーあたりによって、西欧風にソフィストケートされてしまった当時の聖歌から、かつてあったはずのロシア聖歌本来の形を取り戻そうとする意志が働いていたのは明らかです。そして、スヴェシニコフは、その意志に見事に答えたものを残してくれました。マーラーをして「この音は出なくても構わない(交響曲第2番)」と言わしめたへ音譜表の第2線のさらにオクターブ下の「シb」というとてつもなく低い音をやすやすと響かすことの出来るバスパートの上に乗った力強い合唱からは、ロシア人の訛りに充ち満ちた、民族意識のほとばしりさえ感じられる「晩祷」が聞こえてきたのです。
現代に於いては、このような「泥臭い」演奏は、もはやロシア周辺でも行われていないという事実は、サヴチュクによるウクライナの合唱団が2000年に録音したもの(BRILLIANT)を聴けば認めざるを得ません。まして、イギリス人の指揮者に指揮されたエストニアの合唱団からそれを求めるのはもちろん叶わないことです。しかし、実際の典礼を擬して助祭によるチャントを挿入したというこのアルバムからは、スヴェシニコフとは別のベクトルでラフマニノフの思いに迫ろうとする姿勢を、確かに感じることができます。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-24 21:24 | 合唱 | Comments(2)
RIMSKI-KORSAKOV/Shéhérazade




Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG-ZAG/ZZT 050502



例えば、ノリントンあたりが推し進めている、モダン楽器のオーケストラによってオリジナル楽器の響きを追求するという試みとは全く正反対の方向からのアプローチ、という視点で、このインマゼールとアニマ・エテルナの演奏をとらえるのはどうでしょうか。もうすぐ「スター・ウォーズ」とか「宇宙戦争」も始まりますし(それは「ロードショー」)。つまり、オリジナル楽器を用いて、ロマンティックな情感を表現する、という試みです。フォルテピアノ奏者として、スタート時には確かにオリジナル楽器のフィールドにいたインマゼールですが、指揮者としての彼の音楽の方向は、もっと柔軟性に富んだものを目指しているのではないか、という気がずっとしていました。そこで選んだ曲目が、この「シェエラザード」という絢爛豪華な絵巻物の世界を描写した音楽であれば、そんなとらえ方もそれほど的外れではないように思えるのですが。
オリジナル楽器というのは、「古い楽器」という意味ではありません。「その曲が作られた当時の楽器」というのが、正しい概念、従って、リムスキー・コルサコフを演奏する時にバッハ時代の楽器を使う、というのではなく、あくまでリムスキー・コルサコフの同時代、19世紀後半に使われていたであろう楽器を使うのが当たり前の話になってきます。その頃になると、管楽器などは殆ど現代とは変わらない形になっています。ピッチも、現代と同じ、「シェエラザード」の冒頭もきちんと「ミ、シ、レ」と聞こえます。ただ、インマゼールがこだわったのは弦楽器の人数でした。ヴァイオリンは8人ずつでコントラバスが5人という、「現代」に比べたら殆ど半分しか居ないというあたりに、「オリジナル」の精神を貫こうということなのでしょう。
そんな少ない弦楽器ですから、たゆとうような大海原の描写などはとても無理、と思って聴いていると、どうしてどうしてなかなか健闘しているのには正直驚かされます。どうあがいても、もともとの「しょぼさ」を隠すことは出来ないのですが、それを何とか「根性」でカバーしようとしている意気込みが、とてもほほえましく思えます。ただ、やはりこの編成であれば、どうしても耳がいくのは管楽器の方でしょう。特にファゴットなど、現代とは微妙に違う音色を楽しむことが出来ます。さらに、打楽器から一風変わった響きが聞こえてきたのも嬉しいところです。第3楽章の「若い王子と王女」の中間部、リズミカルになる部分での小太鼓やトライアングルのちょっとオリエンタルな鄙びた音色は聴きものです。
カップリングの「だったん人の踊り」でも、そんな民族色がよく出た打楽器が大活躍しています。「最後の踊り」でのシンバルなどに特別な存在感を感じられるのも、この演奏ならではのことでしょう。
そのような、それこそモダンオケでも出すことの出来ないような多彩な響きをオリジナル楽器によって導き出した、という点では、この演奏は大いに評価できることでしょう。ところが、その響きをドライブして一つの表現に持っていくことが出来ないというのが、この指揮者なのです。以前のモーツァルトでもさらけ出した、これはインマゼールの最大の欠点、「だったん人」から生命感あふれるリズムを感じられることは、ついにありませんでした。せっかくのユニークなアプローチも、音楽としての確固たる全体像が見えてこないことには、なんにもなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-22 18:46 | オーケストラ | Comments(0)
SALIERI/La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo



Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/60 100



もはや新譜ではないのですが、この前ご紹介したミスリヴェチェクの「受難曲」との関連で、取り上げることになりました。メタスタージョのテキストによる受難曲ということで、クリストフ・シュペリングが体系的に掘り起こしを行っているプロジェクトの、これは最初に手がけられたものになります。録音されたのは、ミスリヴェチェクのほんの10ヶ月前ですから、まあ、新譜のようなものでしょうし。
ミスリヴェチェクのものから6年ほど後に作られたこの作品、もちろんテキストは一緒ですから、曲の構成は殆ど変わりません。ただ、物語を進行するペテロがテノール、アリマテアのヨセフがバスによって歌われることで、ソリストがきちんと4声揃うことになり、それぞれのキャラクターがはっきりしてきています。音楽的な内容も、無意味なコロラトゥーラやカデンツァなどが少し減って、より、物語に即したアリアに変わってきているな、という印象はあります。しかし、これはあくまで作曲家個人の趣味の問題、時代様式的には殆ど変わらないと見て差し支えないでしょう。
サリエリという人、どうしても中華料理(それは「エビチリ」)、ではなく、「アマデウス」のイメージが強いものですから、あの映画でF・マーリー・エイブラハムが演じたキャラクターが思い起こされてしまいます。あそこでトム・ハルスが演じたモーツァルトとは、かなり年が離れているような印象があって、子供相手に嫉妬を抱くなんて大人げない、などと思っていたのですが、実際には年齢は6歳しか違わなかったのですね。ですから、作曲を始めたのは、本当は小さい頃からやっていたモーツァルトの方が先だったことにもなるわけです。というより、あの精神病院のシーンで懺悔を聞くためにやってきた神父の、「モーツァルトの曲は誰でも知っているが、サリエリの曲を知っている人などいない」という認識を、一般通念として固定化してしまったことの方が、問題なわけです。私もそんなに多く彼の作品を聴いたわけではありませんが、以前の「レクイエム」やこの作品を聴くにつけ、彼の作品がメジャーにならなかったのはあくまでチャンスがなかっただけのことで、「質」という点からはモーツァルトに何ら引けを取るものではないという印象を強くしています。この曲に見られる数々のアリアは、それは魅力的なもの、1度聴いただけで好きになってしまえるものも多くあります。中でも、最初のペテロのアリアのような短調で作られている曲のちょっと俗っぽいテイストは、現代においても十分通用するような「ツボ」を刺激されるものです。
ミスリヴェチェクの時に苦言を呈した合唱ですが、ここでは見違えるような素晴らしさ、メンバーを見てみると、各パート7人ほどの中で、同じ人は1人か2人、固定化されていないことから、ムラが出てしまったのでしょうか。ソリストもこちらの方がワンランク上、特にバスのミューラー・ブラックマンのドラマティックな歌いっぷりが印象的です。さらに、最初の序曲から生き生きとした情感をたっぷり披露してくれるオーケストラ、アリアの伴奏でも、とことん積極的な表現で歌手を食ってしまうほどの場面もあって、この知られざる曲から精一杯の魅力を引き出そうとする気持ちがヒシヒシと伝わってきます。確かに、この演奏を聴けば、サリエリのことをモーツァルトにはとても及びも付かない凡庸な作曲家だなどとは、誰も思わなくなることでしょう。とは言っても、来年はまたもや「生誕250年」で盛り上がりそうな兆し、世界中の音楽業界が結託して持ち上げる「モーツァルト・ブランド」を覆すのは、容易なことではありません。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-20 20:09 | 合唱 | Comments(0)
KOECHLIN/Chamber Music with Flute




Tatjana Ruhland(Fl)
Yaara Tal(Pf)
HÄNSSLER/CD 93.157



このレーベルではおなじみ、シュトゥットガルト放送交響楽団で、木管の「顔」として首席フルート奏者を努めているタティアナ・ルーランドが中心になったアルバム、ケックランの様々な楽器とのアンサンブル曲を演奏しています。その相方、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者などは、もちろんこのオーケストラのメンバーです。
パリ音楽院でマスネとフォーレに学んだシャルル・ケックランは、しかし、そのようなフランスの流れにはとどまらない、広範な作曲技法を模索することになります。ある人に言わせれば、まるであのストラヴィンスキーのように、作風のバリエーションは豊富だとか。彼の手法はグレゴリオ聖歌や教会旋法から、12音技法にまでおよんだということです。テレビ番組も作りましたし(それは「カックラキン」)。
ここで聴かれる小さな曲たちの中にも、そんな技法の片鱗は窺えます。師フォーレの作品などでもおなじみの、実際にフルートを学ぶ学生のための初見課題として作られたほんの2分足らずの「小品」なども、いかにも流れるような情緒たっぷりのメロディーが最後まで続くかと思わせて、最後にいきなり突拍子もないパッセージが現れるのですから、それこそ「初見」で演奏した学生は面食らったことでしょうね。「2本のフルートのためのソナタ」なども、明らかに12音技法が使われている曲です。ただ、それだけに終わらない、魅力的な一面をきちんと保っているのは、見事です。「フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ」では、最後の楽章に現れるのは、まるでドイツ・ロマン派のようなテーマ、しかもそれが「フーガ」という古典的な手法で展開されるのですから、驚かされます。
楽器の組み合わせにも、ケックランのユニークさは現れています。フルート、ホルン、ピアノという、ちょっとミスマッチっぽい編成の「2つのノクターン」は、予想に反してホルンとフルートが見事に溶け合った素敵なサウンドを聴くことが出来ます。ただ、中には本当のミスマッチも。映画好きのケックランが、1937年に亡くなった美人女優ジーン・ハーローを偲んで作ったという「ジーン・ハーローの墓碑銘」という曲では、フルートにアルト・サックスとピアノという組み合わせを取っているのですが、これを聴くと、この新参者の楽器がいかにフルートと似つかわしくないか、いや、もっと言えば、この暴力的で無神経な音はそもそもクラシック音楽とはなじまないものなのだということが如実に分かってしまいます。
神戸の国際フルートコンクールでも入賞(上位入賞ではありませんが)したというルーランドは、先日ご紹介したハンガリーのフルーティストとは比べようもない、洗練された演奏を聴かせてくれています。特に、高音の抜けるような響きはとことん魅力的、いまいち内向的なケックランの音楽に、確かな華やかさを与えてくれています。もう一人、同じオーケストラから参加しているフルーティスト、クリスティーナ・ジンガーと一緒に演奏している曲では、明らかに存在感に違いがあるのが分かります。ただ、このような輝かしい音は、現在のシェフ、ノリントンがこのオーケストラから引き出そうとしているある種禁欲的な音色とは、若干相容れないものであるのは明らかです。そのあたりを、この首席奏者はどのように折り合いを付けているのか、あるいは密かに火花を散らしあっているのか、もうしばらく様子を見ていたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-19 19:15 | フルート | Comments(0)
FAURE/Requiem

Christiane Oelze(Sop)
Harry Peeters(Bar)
Ed Spanjaard/
Netherlands Chamber Choir
Limburg Symphony Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 020(hybrid SACD)



2004年6月の録音、現時点ではもっとも新しいフォーレのレクイエムです。SACDとしても、初めてのものになるのでしょう。この録音、ライナーの写真を見ると教会のようなところでセッションがもたれたようですから、サラウンドで聴いたらさぞかし残響たっぷりのアンビエンスを味わうことが出来ることでしょう。おでんも買えますし(それは「コンビニエンス」)。
しかし、期待に反して、この録音はいたずらにホールトーンを強調したような甘ったるいものではありませんでした。ここから聞こえてきたものは、極めて輪郭のはっきりした、芯のあるサウンドだったのです。それは、あるいはこの曲を鑑賞する際にはあまりふさわしいものではないのかもしれません。そこへもってきて、フォーレのレクイエムを録音するのは今回が初めてというこのオランダの名門合唱団、今までこの曲を録っていなかったのも何となく分かるような気がする、その、フォーレにはあまりそぐわないような精緻極まりないソノリテからは、確かにちょっと趣の異なる音楽が聞こえてきました。
スパンヤールとオランダ室内合唱団という組み合わせでは、以前フランス合唱曲のアルバムをご紹介したことがありますが、その時に感じたある意味即物的なアプローチは、ここでも変わることはありません。「情緒」としてフォーレをとらえるのではなく、楽譜に記されたハーモニーとダイナミックスをきちんと再現すれば、自ずと作品がその姿をあらわすはずだ、という姿勢です。まず、「Introitus」冒頭のニ短調のアコードが、よくあるおどろおどろしいものではなく、明確な意志を伴うキレの良いものであることで、そんな姿勢を確認することが出来ます。使用している楽譜は1900年の「第3稿」、先ほどの写真で多くの木管楽器が写っていることからも、それは分かります。このあたりが、このコンビのスタンスなのでしょう。ただ、「Kyrie」のテナーのパートソロを聴くと、それは旧版の譜割りだったのは、ちょっと残念。しかし、この楽章の最後の、旧版では「eleison」となっているテキストは、きちんと「Kyrie」になっていますから、新版に対するある程度の認識はあったのでしょう。
Sanctus」あたりのソプラノと男声の掛け合いを聴いていると、「聖なるかな」というテキストの持つ敬虔なテイストというよりは、各パート間でもたらされる、まるで火花を散らすような緊張感を感じないわけにはいきません。その印象は、指揮者のキビキビとした、場合によっては素っ気ないと思えるほどの音楽の運びによって、さらに増長されることになります。ですから、「Agnus Dei」の後半、ソプラノが「ド」の音を伸ばしている間にエンハーモニック転調で「Lux aeterna」と変わる印象的な部分も、ハーモニーは変わってもその場の光景が変わることは決してありませんでした。「In paradisum」の最後「Chorus Angelorum」も、いとも淡々と流れていくたたずまい、それがニ長調の美しい響きで終結した時にも、ほのかな余韻がその場に漂うといった情景は、ついに現れることはなかったのです。
エルゼのソプラノは、この文脈の中では確かな輝きを放っています。端正さの中に秘められたドラマティックなパッションは聴き応えがあります。ただ、バリトンのペータースの方は、そのパッションの次元がいかにも安っぽいのが残念です。
カップリングには、ちょっと珍しいフォーレの合唱曲などが収められています。その中で「魔神たち」というダイナミックな曲では、オペラ指揮者であるスパンヤールの面目躍如といった生き生きとした一面が楽しく味わえます。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-18 22:49 | 合唱 | Comments(0)
BARTOK/Concerto for Orchestra etc.

H.Kärkkäinen, P.Jumppanen(Pf)
L.Erkkilä, T.Ferchen(Perc)
Sakari Oramo/
Finnish Radio Symphony Orchestra
WARNER/2564 61947-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11883(国内盤)


「これがオラモ!?」と一瞬目を疑ってしまったのが、このジャケットのポートレートです。1998年にサイモン・ラトルの後継者としてバーミンガム市交響楽団の首席指揮者、さらに翌年には音楽監督に就任した時には、誰もその名前を知るものはいなかったというオラモですが、その頃ERATOからリリースされたアルバムからうかがい知れる風貌は、「オタクっぽいとっちゃん坊や」というものでした。眼鏡をかけたちょっと小太りのサエない男が、あの、飛ぶ鳥を落とす勢いでベルリン・フィルのシェフという玉の輿に乗った指揮者の後任とは、と、誰しもが思ったことでしょう。しかし、オラモのその後の活躍ぶりはご存じの通り、ERATOレーベルが消滅してしまった後でも、しっかりWARNERのメイン・アーティストとして安定した地位を獲得しています。さらに、2003年には、以前から准首席指揮者を務めていたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者に就任、複数のオーケストラの最高責任者という、「一流指揮者」の仲間入りを果たしたのです。そして、仕上げがヴィジュアル面での改造、眼鏡を取ったこの爽やかな「顔」が、これからのオラモの看板になっていくことでしょう。10月にはこのコンビで来日も予定されていますしね。
そんな「新生」オラモが取り上げたのが、バルトークです。指揮者によって様々に異なるイメージを与えてくれるバルトークですが、ここではなぜか、この爽やかな外見と全く違和感のない音楽が聞こえてきたのには、嬉しくなったものです。数々の演奏が市場を賑わしている「オーケストラのための協奏曲」、聞き所は満載ですが、ここでは決して熱くならない全体を見据えた視線がすがすがしく感じられます。「序章」でいきなり耳に入るフルートソロ(日本公演では、武満作品でソロを吹くペトリ・アランコでしょうか)の感触が、そんなすがすがしさを代弁しているようです。「対の遊び」では、ソロ(ソリ)を取っている管楽器よりも、まわりのパートの細かい「仕掛け」が手に取るように分かるという、絶妙なバランスがたまりません。「エレジー」も、タイトルから予想される「暗さ」とはあまり縁のない、各楽器の粒立ちの良さが光ります。ここで重要なソロを披露しているピッコロのちょっと不思議な音色も、聞き物です。「中断された間奏曲」では、例の、ショスタコーヴィチのテーマをからかったコミカルな部分と、ヴィオラのパートソロで始まるメランコリックな部分との対比が見事、それが最後にもう一度繰り返される時の緊張感も、なかなかのものです。そして「終曲」では、決して過剰に煽り立てることのない冷静さが、逆に巧まざる高揚感を招くという素敵な仕上がりになっています。
もう一つの「協奏曲」は、あの有名な「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」のバックに、控えめにオーケストラを上塗りしたという「二台のピアノと打楽器のための協奏曲」です。オリジナルの「ソナタ」の鋭角的なイメージに慣れている人にとっては若干物足りなさも伴うピアニストたちですが、それだからこそ、この「協奏曲」バージョンの持つキャラクター、すなわち、モノクロームの「ソナタ」に施された鮮やかな彩色という一面が、際だって伝わってくるのかもしれません。そして、このようなシチュエーションだからこそ、最終楽章のあまりに楽天的なテーマも、なぜか全面的に許されてしまうのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-17 09:08 | オーケストラ | Comments(0)
DVORÁK, SCHUBERT, FRANCK/Flute Works




János Bálint(Fl)
Zoltán Kocsis(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32280



ドヴォルジャークのソナチネ、シューベルトの「しぼめる花による序奏と変奏」そしてフランクのソナタという、フルート界では馴染みのあるプログラムのアルバムです。もっとも、ドヴォルジャークとフランクはもともとはヴァイオリンのための曲をフルート用にアレンジしたものです。演奏しているフルーティストは、ヤーノシュ・バリントという、歌も歌えそうな(それは「バリトン」)名前の方、1961年生まれの中堅で、ハンガリー国立フィルの首席奏者を務めています。楽器は、日本の「パール」を使っているそうです。そしてピアノが、そのハンガリー国立フィルの音楽監督、つまり指揮者としての活躍も最近ではめざましいゾルタン・コチシュです。
ドヴォルジャークのソナチネでは、まず、誰が編曲をした楽譜なのか、というのが問題になります。かつてはランパルによるものが主流でしたが、これはちょっと地味、というか、ヴァイオリンパートをそのままフルートに置き換えただけのものなので、最近ではゴールウェイによるもっとフルートが目立つ編曲の方が人気があるようになっています。ここでバリントが選んだのが、アラン・マリオン版、初めて聴くものですが、基本的にはランパル版と殆ど変わらないもののようです。その編曲の選択からも分かるように、バリントの演奏はとても堅実というか、はっきり言ってかなり地味、終始コチシュのピアノが主導権を握っているという印象はぬぐえません。
シューベルトになると、その印象はさらに強まります。もちろんこれはオリジナルのフルートとピアノのデュオですから、フルートパートもかなり技巧的、どう吹いてもフルートが「勝てる」場面はいくらでもあるのですが、それがことごとくピアノに「負けて」しまっています。そもそも最初のテーマの歌い方からして、ピアノの序奏でコチシュが放つ細やかなニュアンスが、全くフルートに受け継がれないという具合で、表現における力の差が歴然としているものですから。まあ、それはそれで「フルートのオブリガートが付いたピアノソロ」といった趣を楽しむのも、一興かもしれません。
フランクの場合は、ライナーの表記に誤りがあります。「ロベール・カサドシュによる編曲」とあるのは間違いで(確かにピアノパートの校訂は行っていますが)、フルートパートの編曲をしたのはランパルです。ただ、ここでバリントは、第4楽章のカノンのテーマを、最初は1オクターブ下げて演奏しています。途中から唐突にオクターブ上げるのも異様なのですが、ただでさえ目立たないフルートをこんなに埋没させてしまうなんて、この人はどこまで卑屈なのでしょう。
主役はフルートであるはずのアルバムですが、聴き終わってみると、久しぶりに味わったコチシュのピアノばかりが印象に残ってしまいました。フルートの伴奏に徹しているところもありますが、いざソロがまわってきた時の生き生きとした弾けようには圧倒されます。言ってみれば、格の違う演奏家と組んでしまったフルーティストの悲劇、でしょうか。
録音場所が、ブダペストの「フェニックス・スタジオ」、どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、瀬尾和紀さんがNAXOSホフマンの協奏曲を録音したところでした。別になんの関係もありませんが。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-15 19:33 | フルート | Comments(0)
CANTELOUBE/Chants d'Auvergne



Véronique Gens(Sop)
Jean-Claude Casadesus/
Orchestre National de Lille
NAXOS/8.557491



かつて、カントルーブ-オーヴェルニュ-ダヴラツ・・・という、まるで暗号のような言葉が1セットで語られていた時代がありました。今でこそジョセフ・カントルーブが作った「オーヴェルニュの歌」という曲は誰でも知っている有名なものになっています。正確には「作曲」ではなく「編曲」になるのでしょう、カントルーブ自身が採取したフランスのオーヴェルニュ地方の素朴な民謡をソロで歌わせ、そのバックを色彩的なオーケストレーションで彩るという趣向、1924年から1955年にかけて5集27曲から成る曲集が作られました。その全曲を1963年に最初に録音したのが、ネタニア・ダヴラツというソプラノです。その録音(VANGUARD)が発表された頃には、そんな、どれが作曲者でどれがタイトルか分からないような状況は、確かにあったのです。そして、皮肉なことに、このセットがあまりに強烈に 当時のリスナーに刷り込まれたせいか、カントルーブという作曲家の作品は「オーヴェルニュ」以外には完璧に知られることはありませんし、ダヴラツも、この曲以外の録音を耳にすることは殆どなくなっています。クラシック界の「一発屋」、言ってみれば、さとう宗幸の「青葉城恋唄」といった趣でしょうか。
そのダヴラツ盤を聴き慣れた耳には、今回のジャンスの新しい録音は、とても洗練された、どこか別の次元にジャンプしたものに思えてしまいます。なんでもジャンス自身がこのオーヴェルニュ地方の出身だということですが、そのような「ご当地」の鄙びた味をここに求めるのは、ちょっと見当はずれなのかもしれません。彼女がここから導き出したものは、いたずらにローカリティを強調した「民族性」とか「土着性」といったものとは無縁の、もっと普遍的な音楽の魅力だったのです。もっと言えば、そこから聞こえてくるものは、殆どオペラと変わらないほどのドラマティックな説得力を持つものだったのです。有名な「バイレロ」の、極めて単純な旋律の中に、ジャンスはどれほどの細やかな情感を込めていることでしょう。「牧場を通っておいで」の「Lo lo lo」というだけの歌詞から、なんと深みのある意味を見出していることでしょう。何よりも好ましいのは、こういったものを演奏する時にありがちな過剰な「崩し」(中には、それをある種の芸としてありがたがる向きもありますが)が殆ど見られないということです。例えば、第1集の「3つのブレー」などでは、一歩間違えばくさい演技がむき出しになるところを、しっかり端正にコントロールされた「表現」として、私たちには伝わってきます。
改めてこの曲を聴いてみて強烈に感じられたのが、オーケストラの異常とも言える饒舌さ。カントルーブのオーケストレーションは、初めて聴く時にはおそらくかなりのインパクトを与えられるもので、それが心地よい印象となって好感を持たれることになり、これだけのポピュラリティを獲得することになったのでしょうが、じっくり聴いてみるとかなりの点で表面的な効果をねらったものであることが分かります。ピッコロを頂点とした木管群の強烈なオブリガートは、下手をしたらただの騒々しい雑音にも聞こえかねません。そんなオケをバックにした時、ジャンスほどの芯の強さを持たないことには、到底音楽的な主張を伝えることなど出来ないのかもしれませんね。
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by jurassic_oyaji | 2005-06-13 20:12 | 歌曲 | Comments(0)