おやぢの部屋2
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MacMILLAN/Seven Last Words from the Cross



Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA 67460



1959年生まれのイギリス、というかスコットランドの作曲家、ジェームズ・マクミランの合唱曲集、1993年に作られたタイトル曲の他に、これが初録音となる「聖母マリアのお告げ」(1997)と、「テ・デウム」(2001)が収録されています。
この世代で多くの宗教曲を作っている作曲家では、ジョン・タヴナーやもう少し上ではアルヴォ・ペルトが有名ですね。しかし、殆どヒーリングと変わらないほどの穏やかな風景の表出に終始している彼らに対して、マクミランの場合は、そのようないわゆる「聖なるミニマリスト」とは一線を画した、もっと厳しい作風を見ることが出来るはずです。彼にとって、「ミニマリスト」たちが築き上げた「安定した」技法は、数多くの表現手段の一つに過ぎません。そこにさまざまの技法を組み合わせることによって、ただの綺麗事ではない、彼が言うところの「喜びから悲劇までが存在する人間の日常生活」の諸相を、宗教音楽に於いても表現しているのです。
「十字架上の七つの言葉」の第1曲目で、そのようなマクミランの語法が明らかになります。ひっそりとした静寂の中から立ち上るかすかな弦楽合奏に伴われて、まさにイノセントそのものの女声合唱が聞こえてきますが、これは、まさにペルトあたりが用意する典型的な風景。しかし、しばらくしてその平穏なたたずまいは、リズミカルで攻撃的という全く異質のテイストを持つ合唱によって一変します。オーケストラ(弦楽合奏)が奏でるのも、また別の音楽、ここでは、相容れることのない3つの要素が独立してそれぞれの存在を主張するという、実にスリリングな光景を味わうことが出来るのです。
2曲目では、冒頭ア・カペラの合唱のとてつもない迫力にビックリさせられることになります。同じ歌詞で繰り返される短いモティーフが繰り返されるたびに微妙に味わいを変えるのが、とても魅力的です。それにしても、前の曲の全くキャラクターの異なるパートの歌い分けと言い、この曲での度肝を抜くような殆ど「叫び」に近い、それでいて完璧なハーモニーを持つ歌い方といい、この合唱団の表現力の幅の広さには驚かされます。時折見られる、スコットランドに固有の旋法(まるで、中世の音楽のような雰囲気を持っています)も、この合唱団の手にかかると見事にその土着性が失われずに新たな主張が生まれます。
オーケストラも、時には合唱に寄り添い、時にはことさら異質の要素として振る舞うという縦横無尽の活躍、殆ど「クラスター」に近いものでも、この音楽の中では確かな存在を見せています。そして迎えるエンディング、高音にシフトした繊細な弦楽器たちは、さまざまな過程を経て一度は終止形を迎えますが、それは音楽の終わりではありませんでした。その後に続く解決の出来ないアコード、そう、それはあたかもキリスト自身のため息でもあるかのように、永遠に終わることはないのかもしれないと思わせられるほど、延々と繰り返されるのです。
2002年の「ゴールデン・ジュビリー」のために作られた、オルガンと合唱のための「テ・デウム」では、まるでギリシャ正教のような(これは、タヴナーのツール)輪郭のはっきりした要素が加わります。この曲でも、オルガンによるエンディングには、ちょっと期待を裏切られるような新鮮な驚きが潜んでいます。このベジタリアンの作曲家(それは「ニクイラン」)、レイトン指揮のポリフォニーという最高の演奏を得て、確かに私の琴線に触れるものとなりました。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-31 20:06 | 合唱 | Comments(0)
The Phantom of the Opera










STYLEJAM/ZMBY-2301(DVD)


先日公開されたばかりの映画が、もうDVDになりました。すでにサウンドトラック盤はご紹介済み、もちろん、音楽的な内容はその時のものと変わる事はありません。あの時に、オペラの「ハイライト盤」と「全曲盤」について書きましたが、今回は言ってみれば映像も付いたオペラのDVDのようなものでしょうか。
ミュージカルとしての「オペラ座の怪人」は、もちろん音楽として非常に完成度の高いものです。これでもかというほどに贅沢に登場する極上のメロディ、それらが有機的に絡み合って、実際、下手なオペラをしのぐほどの感動を与えてくれるものです。しかし、ここで描かれているファントム、クリスティーヌ、そしてラウルを巡る愛という、ある意味完結した世界は、ガストン・ルルーの原作が持つ暗く猥雑な世界からは少し距離を置いたものでした。
この映画で監督のシュマッカーが最もこだわったのは、その原作の持つ世界観を取り戻す事だったのではないでしょうか。ミュージカルでは舞台作品という制約上、ある程度部分的に切り取った形でしか再現できなかったものを、映画の特性を最大限に使い切って、その細々とした設定をしっかり見せてくれている、というのが、今回の映画化の最大の功績だと思えるのです。それが最も良く現れているのが、オーバチュアの部分。ミュージカルでは、シャンデリアが上がっていく間に薄汚れたオークションの会場が豪華なオペラハウスに変わる、という、もちろんかなりインパクトのある場面転換があるのですが、この映画では、その上に、多くの人々でごった返す舞台裏の喧噪を事細かに描写してくれています。そこで私達が目にするのは、観客の目に触れないところで広がっている、まるで一つの独立した「町」ででもあるかのようなオペラ座の裏方。その入り組んだ迷路のような空間は、確かにファントムが誰の目に触れる事もなく出没できるという原作の描写が納得できるものになっています。
この作品、もちろんすでに劇場で何度も体験したものですから、今回、映像はパソコンのディスプレイで見、音はヘッドフォンで聴く、という究極のパーソナルな味わい方を試みてみました。そうすると、大画面とはまた違った魅力を発見する事になりました。最大の収穫は、映像のディーテイルが、劇場よりも鮮明に理解できたことです。意外かもしれませんが、劇場では時としてスクリーンの全体ではなく、ごく一部分しか見ていなかった事がはっきりしてしまったのです。今回は全体を見据えた上での細部という見方が出来、先ほどのような感想も生まれたのでしょう。
もう1点、音の面で、劇場のスピーカーは、特にサラウンド用のサブスピーカーのクオリティが意外に低い事がよく分かりました。ヘッドフォンで初めて聴けた生々しいSE、例えばファントムがバラの花びらをバラバラとちぎる音に込められた怨念などは、劇場のスピーカーからは決して聞き取る事が出来なかったものでした。
こんなすごい体験がご家庭で味わえるなんて、これは絶対お買い得。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-29 20:17 | オペラ | Comments(0)
HASSE/Requiem



Hans-Christoph Rademann/
Dresdner Kammerchor
Dresdner Barockorchester
CARUS/83.175



石井宏さんの快著「反音楽史」によれば、ヨハン・アドルフ・ハッセは「ドイツ人によって音楽史から抹殺されてしまった作曲家」の代表ということになります。ドイツ人による「偏った」音楽史では、生涯に74曲ものイタリア・オペラを作った作曲家は、ドイツ人であっても正当に評価されることはない、というのが、石井さんの見解なのでしょう。そりゃあ、半纏みたいなものを着てれば、そうも思いたくなるでしょう(それは「ハッピ」)。そのハッセが作った「レクイエム変ホ長調」の世界初録音盤です。
1699年、北ドイツ、ハンブルク近郊のベルゲドルフという町に生まれたハッセは、もともとはテノール歌手としてハンブルクの歌劇場で活躍していたのですが、次第に作曲にも手を染めるようになり、本格的にイタリア・オペラを学ぶために、1723年にイタリアへ留学します。1724年にナポリでアレッサンドロ・スカルラッティに師事しますが、そこでたちまち頭角を現し、師匠をもしのぐ超人気オペラ作曲家として大成功をおさめるのです。1730年にはヴェネツィアへ移り、ファウスティーナ・ボルドーニというイタリア人のプリマ・ドンナと結婚し、文字通り「イタリアの血」を獲得します。
1733年にハッセは故郷のドイツへ戻り、ドレスデンの宮廷楽長に就任します(ここは、現在のドレスデン・シュターツカペレ。実は彼が就任する200年近く前から存在していた「楽団」なのですから、その歴史はすごいものがあります)。ハッセはここで、1763年に庇護者であったザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト二世が亡くなるまで、宮廷楽長を務めました。そのアウグスト二世の葬儀のために作られたのが「レクイエムハ長調」、こちらはすでにいくつかの録音が出ています。今回の「変ホ長調」は、アウグスト二世の後を継いだフリードリッヒ・クリスティアンが突然亡くなってしまったために、1764年に作られたものです。ただ、「Sanctus」と「Agnus Dei」は、以前に作られていた「変ロ長調」のレクイエムのものが使われています。そちらも聴いてみたいものです(オペラ同様、ハッセは宗教曲もたくさん作っていて、ミサとレクイエムを合わせると、全部で25曲もあるそうです)。
曲は40分程度の長さを持ち、合唱とソロ、あるいはアンサンブルが交替して現れるというものです。「Requiem」の中間部「Te decet hymnus」と、「Agnus Dei」の後半「Lux aeterna」で、男声だけでグレゴリア聖歌を歌っているというのが、ちょっと珍しいところでしょうか。「Dies irae」以外の合唱はあまり印象に残らない軽い作風、その分、ソロには力が入っていて、長年オペラで培われたリリシズムが、非常に魅力的です。中でも、アルトソロ(本来はカストラート)によって歌われる「Lacrimosa」は、深い叙情をたたえた名曲です。先日のミヒャエル・ハイドンの「ガセビア」ではありませんが、これはあのモーツァルトも聴いていた可能性はあり、彼の作品に影響を与えたかもしれないと思えるほどの類似性が認められますよ(そう思うのは私だけかもしれませんが)。
このレーベルの常連ラーデマンが、20年前、まだ学生の頃作ったというドレスデン室内合唱団は、特に男声を中心にまとまりのある柔らかい響きを聴かせてくれています。曲の性格によるものかもしれませんが、表現を強く前に出すというよりは、響きの美しさを重視しているような爽やかな印象を与えてくれています。ただ、肝心のソリストたちは今一歩。中でもアルトはもう少しランクの高い人に歌って欲しかった、という思いは残ります。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-28 19:41 | 合唱 | Comments(0)
MENDELSSOHN/Symphonies No.3 & No.4




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.133



ノリントンのメンデルスゾーンの交響曲選集のうちの3、4番、実は先日ご紹介した1、5番と同じ時期に発売になったのですが、何でも不良品が混ざっていることが発覚したために店頭に出て3時間後に全品回収、再プレスを行って、やっと良品が出回るようになったということです。急行でやったのでしょうか(それは「エクスプレス」)。このジャケット、指揮者の顔の半分だけがデザインされたものですが、それぞれ同じネガ(ではなく、最近ではデータでしょうか)の右と左を使ったもので、2枚並べるとちゃんとした顔が現れるようになっています。実際、そんな風にディスプレイしているところもあったというのに、とんだケチが付いてしまったものです。
今回、もっとも楽しみにしていたのは「4番(イタリア)」でした。この曲の持つ明るさと軽さが、まさにノリントンの芸風とピッタリ、さぞや軽快な「イタリア」が聴けるのではないかと思ったのです。しかし、第1楽章のテンポ設定はちょっと意外でした。全く当たり前のテンポ、これよりももっと軽やかに演奏している人はいくらでもいるのに、という当惑感を抱いてしまいました。ところが、この楽章の最後になって、ノリントンはとびっきりのサプライズを提供してくれました。475小節目の「Più animato poco a poco(少しずつ、より生き生きと)」という指示のある部分で、いきなりテンポを上げ、そのままエンディングになだれ込むということをやっているのです。今までのテンポは、ここを強調するための伏線だったのですね。厳密に言えば、「poco a poco」ですからこの解釈は楽譜に忠実な演奏とは言えませんが、ここで生まれるインパクトには、ちょっと凄いものがあります。これがあるうちは、ノリントンから目を離すことは出来ないでしょう。
しかし、そうは言っても、やはり彼の最近のアプローチには少し納得できないようなところもあるのは事実。前にも書いたように、ここでノリントンは弦楽器の人数を楽章によって増減させています。具体的には、3番では第3楽章、4番では第2楽章という、「ゆっくりした」楽章で、半分近くに減らす、ということをやっているのです。もちろん、これはノリントンの信念に基づき、「当時の習慣」を反映させたものなのでしょうが、前のアルバムと一緒に聴いてくると、どうもこれがあまりうまく機能していないように思えてなりません。今回は4番ではそこそこ室内楽的な透明な響きが出てはいるのですが、3番のような息の長いフレーズが続く場合が問題。演奏時間は1989年にオリジナル楽器のロンドン・クラシカル・プレイヤーズと録音した時より1分以上遅くなっていますので、モダン楽器を信じてたっぷり歌わせているのでしょうが、やはりこの人数の弦楽器がノンビブラートで演奏しているのでは、「しょぼさ」を隠すことは出来ません。説を曲げて、せめて人数を他の楽章と同じだけ確保しておけば、こんな情けないサウンドにはならないのに、と思ってしまうのですが、どうでしょう。
管のアンサンブルが非常に高いレベルにあるのはいつものこと、常にパートとして一体化したサウンドと表現が聴けるのは、このコンビが築き上げた最大の成果でしょう。しかし、前にも書いたように、時としてトゥッティの部分でもソリスティックな響きが顔を出し、必ずしも「ピュア」ではなくなっているのが、ちょっと気になるところです。今回は、なぜか金管のノリが悪い部分も多くみられますし。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-26 19:49 | オーケストラ | Comments(0)
SCHOENBERG/Choral Works


Laurence Equilbey/
Choeur de Chambre Accentus
Jonathan Nott/
Ensemble Intercontemporain
NAÏVE/V 5008



以前も「トランスクリプションズ」という、意欲的な企画のアルバムを出したアクサントゥス、そのテンションが編曲や演奏に反映されていなかったのが惜しいところですが、今回は全編シェーンベルクという、やはり濃いところを衝いたものを出してくれました。しかも、共演がリゲティなどの演奏でお馴染みのジョナサン・ノットですから、これは聞き逃せません。しかし、シェーンベルクって、アルバム1枚が出来るほどたくさんの合唱曲を書いていましたっけ?サントラはあるでしょうが(それは「シェルブール」)。私自身は、「地には平和を」という、かなりロマンティックな曲しか、聞いたことはありませんから、この、正直私には取っつきにくい作曲家を、合唱作品から攻めてみる、という格好の機会を与えられたことになるのではないでしょうか。
しかし、実際にアルバムを手にして分かったのは、これは合唱曲だけのものではないということでした。全体の三分の一を占めるのは、「室内交響曲」というインスト曲、これは別に無くても構わないものでした。ノットも、ここで指揮をしているだけ、彼は合唱には全くタッチしていなかった、というのも、やはり買ってみなければ分からなかったことです。
その代わり、と言ってはなんですが、ここでは、有名な「地には平和を」のオリジナル・ア・カペラ・バージョンと、オーケストラによる伴奏の付いたバージョンを並べて聴くことが出来ます。そのオケ伴、「コラ・パルテ」ですから合唱パートと同じことを楽器でやって重ねているだけなのですが、まるで全く新しい声部が加わったようなスリリングな体験が味わえます。埋もれて聞こえにくいパートが、オーケストラを重ねることによってはっきり前面に出てきて、その結果、全てのパートが明瞭に聞こえるようになったということなのでしょう。さらにもう一つ、「色彩」という、「5つの管弦楽曲op.16」の第3曲目(もちろん、オーケストラのための曲)を合唱のために編曲したものが入っているのですが、こちらもそれに輪をかけてスリリング。フランク・クラフチクという、「トランスクリプションズ」でも作品を寄せていた人が2002年に行った編曲、これは、ある意味原曲を超えているかもしれないほどのインパクトを与えられるものでした。ヴォカリーズで歌われる絶妙なハーモニーの流れの中に配された、まるで喘いでいるかような悩ましいため息は、原曲では確か木管やハープやチェレスタの一撃だったはず。このような型破りな「置き換え」を施されたことにより、この曲は本来の「後期ロマン派」のカテゴリーには収まりきれない、まさに「21世紀」の響きを獲得することが出来ました。そして、このアルバムのなによりも素晴らしいところは、最後に、シェーンベルク自身の最晩年の作品「深き淵より」(1950)を配置したことです。この中で聴ける無調っぽいたたずまいや、当時としては最先端の表現ツールであった「シュプレッヒ・ゲザンク」が、このクラフチクの編曲のあとで聴かれると何と間の抜けた陳腐なものに感じられてしまうことでしょう。彼が創設し、「最先端」と信じて疑わなかった技法が馬脚を現すには、半世紀という時間で充分だったということが、この2曲を同じアルバムに収録することによって、見事に明らかになっているのです。
前作と同じく、得難い体験を味わえたこの企画、これで合唱団の女声がもっと余裕のある声を聞かせてくれ、男声が自信たっぷりの音程で歌ってくれていれば、何も言うことはないのですが。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-24 20:44 | 合唱 | Comments(0)
WAGNER/Tristan und Isolde

Wolfgang Millgram(Ten)
Hedwig Fassbender(Sop)
Leif Segerstam/
Royal Swedish Opera Male Chorus
Royal Swedish Opera Orchestra
NAXOS/8.660152-54



この「おやぢの部屋2」の最初のアイテムが、レイフ・セーゲルスタムが指揮したスウェーデン王立歌劇場のメンバーによるヴァーグナーのオペラ合唱曲集でした。この、男の風上にも置けないようなファースト・ネームを持つ(それは「レイプ」)フィンランドの指揮者によるヴァーグナー、ちょっと今までにない風通しの良さを感じたので、この「トリスタン」の新録音も聴いてみる気になりました。
最近のオペラCDは、いろいろ複雑な状況の中にあるようです。何よりも、DVDの価格が下がってきたことにより、CDと変わらない、場合によってははるかに安い価格で、音だけではなく、映像も見ることが出来るようになったのは、オペラファンにとってはうれしいことです。正直、小さな文字のリブレットを見ながら(CDサイズになって、オペラの対訳は本当に読みづらくなりました)音だけで話を追うのは、かなり辛いものがあります。それが、音楽とドラマを同時に味わうという、本来オペラを鑑賞する時のあるべき姿が簡単に実現できるようになったのですから、まさにCDの存在価値自体が問われる事態となっているのです。
そうは言っても、全ての演奏に映像が付くわけではないのですから、これからも「音だけ」のオペラが無くなることはありません。要は、DVDなりでその作品の芝居の流れとセリフを頭に入れておきさえすれば、CDを聴いた時にはリブレットに頼らなくても言葉は分かりますし、それこそ、一つの固定された演出ではなく、自分の好きなような画面を想像することだって出来るようになるのですからね。正直、声は素晴らしいのに体格があまりに立派すぎたり、容貌が水準に達していない歌手などは、アップで見たくはありませんし。
そんなわけで、このスウェーデンのオペラハウスのプロダクション、演目は「トリスタン」、内容はすっかり頭に入っているものですから、「音だけ」で楽しむことにしましょう。まず、注目したいのは、第1幕で登場する合唱です。前のアルバムでもここの合唱団のレベルの高さは証明済みですが、ここで聴くことの出来る男声合唱も、とことん存在感のあるものでした。単にきれいにハモるという次元を超越した、その役(この場合は水夫たち)になりきるという、オペラの合唱のまさにあるべき姿です。
ひとつ、この演奏で特徴的なのが、第2幕が非常に短いということです。普通70分以上かかるものが、61分しかありません。これは、流れを最大限に重視するセーゲルスタムの音楽の作り方によるものなのでしょう。事実、前奏曲から続く、狩の角笛を描写した三連符の速いこと。これはまるで、少しでも早く邪魔者には遠くへ行ってもらいたいと願うイゾルデの、はやる気持ちを表しているかのように聞こえます。そして、さんざん待ちこがれたトリスタンが現れてからの段取りの良いこと。まさに、余計な手順は省いて、すぐにでもベッドへ直行したいという、若い恋人たちのノリです。そう、トリスタンのミルグラムこそ、ちょっとくたびれ気味の木偶の坊ですが、イゾルデ役のファスベンダーは、とてもしなやかでキビキビした、若さあふれるソプラノです(音だけだからこそ、そのような印象が際だつのかもしれません)。ですから、彼女が歌う「愛の死」は、重くドロドロしたものが一切感じられない、極めてピュアな輝きをもって迫ってきます。ありがちな年増の「王女」ではない、もっとピチピチしたイゾルデの姿が、そこにはありました。
オーケストラが、特に弦楽器に艶やかさが不足していると感じられたのは、あるいは、意識してアクの強さを押さえようとしたセーゲルスタムの配慮なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-22 19:44 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Preludes



Jane Eaglen(Sop)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2



ノリントンの10年ほど前の録音が2点、2枚合わせてロープライス1枚分(1390円)というお得な値段で再発になりました。オリジナル楽器によるヴァーグナーとブルックナーという、発表当時は「ついにここまで!」と話題になった注目アイテムです。
ヴァーグナーが録音されたのが1994年(ブルックナーは1995年)、1978年にノリントンによって作られたロンドン・クラシカル・プレイヤーズの、これは最後期の録音になるのでしょうか。この後、ノリントンが1998年にモダン・オーケストラであるシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者に就任したのに伴い、このオーケストラも解散、同じオリジナル楽器のオーケストラ、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収されてしまいます。
それまでにブラームスの交響曲までもオリジナル楽器で演奏、録音を終えていたノリントンにしてみれば、その方法論がヴァーグナーにまでたどり着くのは、ごく自然の流れだったことでしょう。そのあたりの意気込み、10年前にリアルタイムで聴くことがなかったこのアルバムから、遅ればせながら感じてみたいものです。
1曲目は「リエンツィ」序曲。これは、冒頭のトランペットのソロで、すでに「オリジナル」の世界へ入り込むことが出来ます。それはモダンオケからは決して聴くことの出来ない渋い音色です。それに続く木管が、やはりオリジナル特有の音程の悪さ、これはいかんともしがたいことなのでしょうか。しかし、ノリントンの持つ楽天的なグルーヴはこのような曲では存分に発揮され、最後の打楽器がたくさん加わるあたりではまさにノリノリントンの楽しさが伝わってきます。
ただ、このグルーヴは、次の「トリスタン」ではやや異質なものに感じられてしまいます。「前奏曲」のあまりの淡泊さ、奏法に起因するのでしょうか、「溜め」のない性急なフレーズの運びは、粘着質のヴァーグナーを至上のものと感じている向きからは、反発を食らうことでしょう。それは、「愛の死」では、イーグレンの圧倒的な歌に隠れて、それほど表に出ることはないのですが。
「マイスタージンガー」も、その「軽さ」といったら、殆ど爆笑ものです。しかし、ここで笑いが生まれるのは、いかに今まで「重苦しい」ヴァーグナーが世を席巻していたか、という証でもあるわけで、これはこれで、この「喜劇」の一面を表している解釈ではあるでしょうね。そこへ行くと、「ジークフリート牧歌」も、「パルジファル」前奏曲も、その「軽さ」は違和感を覚えるほどのものではありません。逆に「パルジファル」で、最後に冒頭のテーマが戻ってくる箇所の低弦のトレモロなどは、不気味さから言ったらちょっと捨てがたい味、その前後の緊張感も思わず引き込まれるものがあります。
10年後、この前奏曲をシュトゥットガルトで録音した時には、例えば木管の音程などの機能的な面は飛躍的に改善されていた反面、この緊張感はすっぽりとどこかへ行ってしまっていました。その結果「軽さ」がさらに募っているのは(演奏時間が1分以上短くなっています)、このアルバムでの他の曲の方向性を見ればある程度予想されたことなのでしょう。彼がヴァーグナーから最終的にどんな音楽を引き出したかったのか、快調に疾走する「ローエングリン」の第3幕の前奏曲は、その端的な回答なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-19 19:36 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART, SÜSSMAYR/Requiem


Anton Armstrong,
Andreas Delfs/
St Olaf Choir and Orchestra
St Paul Chamber Orchestra
AVIE/AV 0047(hybrid SACD)



フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤーという名前は、モーツァルトの未完のレクイエムを補筆、完成させた人物としてのみ、音楽史に残っています。しかも、そこには決して後生の人を満足させるような仕事をした人としてではなく、突っ込みどころの多いその成果に対して、いかに他の人が異議を唱えたか、さらには、いかに別の補筆を行う余地を残していたかという議論がついて回ります。
重要なのは、「Sanctus」や「Benedictus」などは、モーツァルトのオリジナルではなく、ジュスマイヤーが自らの裁量で「作曲」したという事実です。ですから、そこに不純なものを認めたモーンダーあたりは、この部分を丸ごとカットするという思い切ったことも行っています。しかし、曲がりなりにもこのジュスマイヤーの「版」で200年以上も演奏が続けられていれば、厳密に考えれば他人の作品でも、いつの間にかモーツァルトのものとして違和感が覚えられないほどのものになってしまっているのも、また別の事実なのです。現に「Benedictus」の持つある種優雅なたたずまいは、モーツァルトを始めとするこの時代の作曲者の表現の一つの「型」を見事に作品にしたものだとは感じられませんか?
そんなジュスマイヤーの、「自作」のレクイエムというものが、あったそうなのです。この録音のプロデューサーであるマルコム・ブルーノという人が「発見」したものだそうで、もちろん、これが初めての録音になります。ただ、なぜか、実際の演奏にあたってはこのプロデューサーによって「Sequenz」が2つに分けられて、その間に「Offertorium」が挟みこまれ、さらにそれぞれの楽章で大幅なカットが行われています。なぜ、そのような措置を執ったのかは、この曲の作られ方を見ればある程度納得は出来るでしょう。まず特徴的なのは、テキストがラテン語ではなく、それをドイツ語に訳したもの、しかもかなり自由に韻を踏んだ「歌」の形に直されているということです(「Dies irae」が「Am Tags des Zorns」なんてなっているのは、ちょっと馴染めませんね)。そして、どの楽章も有節歌曲、つまり「1番」、「2番」といった同じ形の短い「歌」の繰り返しになっているのです。そうなってくると、「Sequenz」では同じメロディーの「歌」を8回も繰り返し聴かなければならないことになり、それではあまりに冗漫だということで、ブルーノはそれを半分カットし、前後に分けるということで、演奏会での鑑賞に堪えるものにしたというのです。そんなわけですから、この曲全体でも、聴けるのは小さな「歌」の繰り返し、いわゆる「レクイエム」から想像される、多くの場面を持つ起伏の大きい音楽といった側面は全く期待できません。
どの楽章を取ってみてもその「歌」のテイストは全く同じものに感じられます。そう、そこには、あの「モーツァルト」の「Benedictus」、あるいは「Lacrimosa」の後半と極めて共通性を持つ世界が広がっているのです。それは、18世紀末のウィーンの香りがあふれている音楽、もちろんモーツァルトその人の中にも確かに存在していた音楽には違いありません。だからこそ、それがモーツァルトのオリジナルの中にあっても特に違和感を抱かれることはなかったのでしょう。
モーツァルトのレクイエムの中でジュスマイヤーが担当したパートは、彼の感性とスキルで充分にその存在を主張できるものでした。しかし、一つの「ミサ曲」を作りあげるためには、それだけではない、もっと他の才能も必要になってくる、そんなことが、このアルバムを聴くとまざまざと分かってきます。
そして、カップリング(というか、こちらがメイン)が、そのモーツァルトの作品です。心なしか「Benedictus」での表現が濃いな、と感じるのは、やはりジュスマイヤーの仕事に積極的な意味を見出そうとしている演奏家の姿勢のせいなのでしょうか。本当はどう思っているのか、「クサヴァ」の陰のモーツァルトに聞いてみたい気がします。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-17 20:14 | 合唱 | Comments(0)
Flautissimo




Dóra Seres(Fl)
Emese Mali(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32299



ベルリン・フィルの首席奏者を長く務めたフルーティスト、カールハインツ・ツェラーが亡くなったそうですね。以前、彼の昔のアルバムをご紹介した時に、最近のフルーティストの粒の小ささを嘆いたことがありましたが、本当に近頃は「これぞ」という人にはお目にかかることが出来ません。
このアルバム、ミュシャをあしらったジャケットと、「World Premiere Recording」という文字に誘われて買ってしまいました。ただ、曲目はフルート関係者には馴染みのものばかり、どこが「世界初録音」なのか、という疑問は残ります。
ドーラ・シェレシュというハンガリーの若いフルーティスト、1980年生まれといいますから、まだ25才、それでハンガリー放送交響楽団の首席奏者を務めているのですから、音楽的には申し分のないものを持っているのでしょう。2001年に開催された「プラハの春国際コンクール」で1位を獲得したのを始め、その受賞歴には輝かしいものがあります。同じ年に神戸で行われた国際フルートコンクールでも2位に入賞しています。その神戸のコンクールには、このサイトではお馴染みの瀬尾和紀さんも出場、その彼でさえ6位入賞ですから、その実力は確かなものなのでしょう。さらに2003年のブダペスト国際フルートコンクールでも優勝、その時の「お祝い」ということで録音されたのが、このアルバムなのです。
確かに、その経歴からも分かるように、彼女のフルートが高い水準にあることは、最初のムーケの「フルートとパン」を聴けばよく分かります。輝かしくムラのない音色は、まず上位入賞に欠かせないものです。そして、流れるように正確なテクニック、もちろん超絶技巧を思わせる華やかさも充分に備えていることも必要でしょう。1曲目の「パンと羊飼い」は、それで軽々と乗り切ることが出来ます。しかし、2曲目の「パンと鳥たち」になると、それを超えた次元での「味」が欲しくなってきます。それは、先ほどのツェラーやゴールウェイを知っているものにとっては、この曲には絶対あって欲しいもの、つまり、この2番目のトラックで、早くも不満が噴出するという、若手フルーティストにとっては過酷な状況に陥ってしまうのです。
次のフランセの「ディヴェルティメント」では、何よりも瀬尾さんのアルバムが前に立ちはだかっています。メカニカルな面では遜色はないものの、例えば2曲目の「ノットゥルノ」あたりでは、彼女の歌い方が淡泊になっとるの、というのがもろに露呈されてしまいます。さらに、ここではピアニストのあまりの消極性も。
フェルトのソナタでは、コンディションもあるのでしょうが、リズムに乗り切れていないもたつきがちょっと気になってしまいます。これは、リーバーマンのソナタの第2楽章でも見られること、もしかしたら、これは彼女のクセなのかも知れません。それとも、ひょっとしたらランパルのまね?
結局、「世界初録音」のものなど、どこにもありませんでした。考えられるのは、これが彼女にとっての「初めての録音」ということ。これから数多くの録音を行っていくはずだから、この「初録音」は貴重なものですよ、という意味なのでしょうか。そんな意味でこの言葉を使って欲しくはありませんし、何よりもこれが「最後の録音」にならないように、祈るのみです。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-15 21:00 | フルート | Comments(0)
SIX





The King's Singers
SIGNUM/SIGCD056



キングズ・シンガーズの最新アルバム、タイトルの「SIX」というのが意味深ですが、これはメンバーが6人であるのと、収められている曲が6曲という意味が込められているのでしょう。それぞれの曲は3分から4分の長さ、つまり、これはいわゆる「ミニアルバム」というものですね。トータル・タイムは20分しかありません。
様々なレーベルの変遷をたどったキングズ・シンガーズ、現在はこのSIGNUMレーベルに所属、前作のジェズアルドについては「おやぢ」でも紹介したことがあります。ただ、あの時の担当者はちょっとした勘違いをしていたようですね。そのジェズアルドの真摯な演奏につい心をひかれてしまったのでしょうが、その時のライナーに載っていた「今後のリリース予定」を見て、それがキングズ・シンガーズがこれから録音するアイテムだと思ってしまったのですね。その中にはタリスの9枚組の全集なども含まれていましたから、いよいよこのグループも初心に返って、このような地味な曲をきちんと録音したりする気になったのだな、と思ったのは、無理もないことでした。
そこに、「ニューアルバム発売」のニュースが入ってきました。ついにタリスが入荷したのかな、と思ったら、それはポップス、しかもミニアルバムだというではありませんか。確かに、このところこのグループのライブ映像なども見る機会がありましたが、そんな堅苦しい曲を演奏しているような気配はありませんでした。しかも、現物を手にしてそのライナーを見ると、「Also available」として紹介されていたのは、最初に出たクリスマスアルバムとこの前のジェズアルドだけ、タリスのタの字もありません。となると、あの「予定」はいったいなんだったのでしょう。そこで、もう1度ジェズアルドのライナーを見直してみたら、それは全く別の団体の演奏のCDの紹介でした。どうやら、あのジェズアルドも彼らにしたらちょっと肌合いの異なるもの、やはり、彼らの本質的な指向性は変わってはいなかったのですね。ちょっと残念なような、それでいてホッとしたような感じでした。
そんな、いつもながらのポップス色が前面に押し出されたミニアルバム、最初の曲は、「ダウン・トゥー・ザ・リバー・トゥー・プレイ」という黒人霊歌、というよりは、ジョージ・クルーニー主演の「オー・ブラザー!」という映画の中で使われた曲。そして、2曲目がビートルズの「ブラックバード」というよりは、やはり映画の挿入歌として、ダコタ・ファニングの可愛さが光っていた「アイ・アム・サム」の中で使われていた曲、と紹介すべきなのでしょう。つまり、いずれもごく最近カバーされて大々的に露出されたもの、いわば「新曲」としてキングズ・シンガーズも歌っている、というノリなのでしょう。このあたりが、やはり現在の彼らの立場を象徴しているのだ、という感じが強くしてしまいます。しかし、続く3曲目の「ザ・ウィッシング・ツリー」という曲だけは、ちょっと趣を異にしています。彼らから委嘱を受けてジョビー・タルボットという作曲家が作った曲で、2002年の「プロムス」で演奏されたといいますから、一応は「現代音楽」、確かにユニークな和声と、テキストの扱いには独特の世界があります。しかし、それでも底にあるのはポップ・ミュージックのテイスト、事実、タルボットという人は「ディヴァイン・コメディ」というロック・グループのメンバーでもあった人ですから、それも頷けることです。
いずれにしても、曇りのないハーモニーで軽やかに歌い上げるという彼らの特質は、ここでも充分に発揮されています。ただ、それをポップスとして楽しむには、あまりにも洗練されすぎている、というのが、いつもながらの彼らの限界なのですが。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-13 20:09 | 合唱 | Comments(0)