おやぢの部屋2
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PAULET/De Profundis



Véronique Le Guen(Org)
Joël Suhubiette/
Choeur de chambre les Éléments
HORTUS/HORTUS 036



このHORTUSというフランスのレーベル、少し前にデュリュフレのレクイエムを、この同じ演奏家で聴いた時に初めて目にしたものです。実はあのCDも録音されたのは1999年、それがなんの前触れもなく店頭に現れて、そのあとはそれっきり姿を消したまま、という不思議な挙動を見せていたものでした。最近になって、10年以上前に録音されたデサンクロやリストの「Via Crucis」(演奏者は別ですが)などというものが初登場した時には、取り扱いに困ってしまったものです。今さら「新譜」でもありませんし。ただ、デュリュフレでの合唱はちょっと凄かったので、他に取り上げられるものはないかとあちこちあさっていたら、こんなものを見つけました。2004年の録音ですから、まだまだ「新譜」です。
ライナーによると、指揮者のジョエル・スービエット(と読むのでしょうか)は、「シャペル・ロワイヤル」、「コレギウム・ヴォカーレ・ヘント」、あるいは「レ・ザール・フロリッサン」といった、HARMONIA MUNDIレーベルでお馴染みの合唱団に長いこと所属、また、フィリップ・ヘレヴェッヘの助手を務めるなどして、合唱指揮者としての腕を磨いてきた人なのだそうです。1997年に、自分の合唱団として、この「レ・ゼレマン室内合唱団」を結成、このレーベルに限らず録音を行ったり、最近ではオペラ指揮者としても活躍しているとか、いずれ、もう少しメジャーなステージで脚光を浴びることもあるかもしれませんね。
1962年生まれの作曲家、ヴィンセント・ポーレは、この、スービエットたちによる合唱曲2曲と、オルガンソロを4曲収録したCDが、デビューアルバムとなります。もちろん、私のお目当ては合唱曲なわけですが、タイトルにもなっている例の詩編129「深き淵より」というア・カペラ曲は、まさに期待通りの作品、そして演奏でした。切れ目なく続く3つの部分から成るこの曲は、冒頭のベースによる暗く深い音色で、まず聴き手を惹き付けます。個々の歌手の声ではなく、あくまでマスとして聞こえてくるその響きは、とてつもない存在感を持っていたのです。それが、型どおりテナー、アルト、ソプラノと重なっていく時に味わえる、「次はどんな音色が加わるのだろう」というちょっとした期待感には、堪えられないものがあります。そこに、ほんの少しだけ期待を裏切るという絶妙のさじ加減で新しいパートが入ってくるのですから、たまりません。作曲家はここで意図して不協和音、というよりは、完璧に「間違った」音を用意しているのですが、その扱いも素晴らしいものです。そこからは、ちょっとアヴァン・ギャルドを気取った、その実オーソドックスな作風が透けて見えてきます。次の部分は、まるでリゲティの「ルクス・エテルナ」のようなクラスターの世界、そして最後の部分は、同じパターンの繰り返しの上に、さまざまなフィル・インがアラベスクのようにからみつくという、ミニマルっぽい世界です。いずれの場面でも、合唱が技術的な破綻を見せることは全くありません。そこにあるのは、作曲家が書いた音符に、肉感的なまでに音としての実体が加わった姿です。デュリュフレで見せてくれた「猥雑さ」は、ここでも健在でした。
もう一つの合唱曲、16世紀の古いスペインのテキストによる「Suspiros」という、弦楽器を伴う作品では、さらに土俗的なエネルギーが加わって、なにやら怪しげな宗教儀式のような風景が広がります。そういえば、このアルバムのサブタイトルは「宗教作品」、しかし、そこにあるのは敬虔な信仰心というよりは、もっと生々しい信条の吐露でした。たっぷり脂ののった(それは「極上のトロ」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-30 19:22 | 合唱 | Comments(0)
BRAHMS/Symphony No.1




千秋真一/
R☆Sオーケストラ
キングレコード
/KICC-555


千秋真一という、全く無名の指揮者のデビューアルバムが、殆ど「ブーム」と呼んでも差し支えないほどの注目を集めています。まるで、3匹の子豚(それは「ブーフーウー」)。それを受けたこのアーティストに対する扱いがいかに破格であるかは、今月号の「レコード芸術」でのこのレコード会社の広告の一番最初にあったものが、1ページをまるまる使った、このアルバムの宣伝コピーだったという事からも分かります。さらに、このアルバムは通常のCD店のみならず、何と書籍を扱う本屋さんの店頭でも販売しているのですから、この指揮者のファンというのは、クラシック音楽の愛好家といった範疇では全くとらえることのできない、大きな広がりを見せていることを窺い知ることが出来ます。
千秋真一は、1981年生まれといいますからまだ24歳、指揮者としてはまだまだ「半人前」という年齢ですが、フランスで行われたあの権威ある「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝したあとにはトントン拍子にキャリアを重ね、今ではパリの「ルー・マルレ」という1875年に創設された歴史ある「非常勤」オーケストラ(音楽監督は最近東京都響常任指揮者に就任したジェイムズ・デプリースト)の常任指揮者を務めるまでになっているのですから、その実力は恐るべきものがあります。その彼が、指揮者としての確固たる資質を世に知らしめたのが、殆ど伝説的な報道をされたR☆S(「ライジングスター」と読みます)オーケストラとのデビューコンサートでした。彼は学生時代から学内のオーケストラを指揮して、そのカリスマ的な魅力は知られていたといいますが、そんな彼の下で演奏したいという才能溢れる若者、千秋の大学時代の友人のみならず、千秋の評判を聞きつけて参加した海外のコンクールでの優勝者などで結成されたのが、このオーケストラです。彼らは千秋とは絶対的な信頼関係で結ばれており、そのコンサートは各方面で絶賛されることとなったのです。
今回のアルバムには、そのコンサートのメインプログラム、ブラームスの交響曲第1番が収録されています。ただ、これは、そのデビューコンサートのライブ録音ではなく、新たにセッションを組んで録音されたものです。最近のオーケストラの録音状況を見てみると、日常的に行われているのは、経費を少しでも節減するためにコンサートをそのまま録音して製品にするという安直な道、今回のように、CDのためにわざわざホールを借り切って録音するという事自体が、経費には目をつぶっても、より完成度の高いものを届けたいという制作者の良心の表れ、そして、それを引き出したのが、他ならない千秋の並はずれた才能なのでしょう。もちろん、その才能の中には、この情報社会で通用するだけの外的な魅力(「ルックス」とも言う)も含まれているのは、言うまでもありません。ご覧下さい、このジャケットのポートレート、「繊細でいて粗野」という、それだけで惹き付けられるものがありません?(しかし、なぜ写真ではなくマンガ的なドローイングなのでしょう)
その演奏は、まさに若さに満ちた爽快なものでした。それは、一つのことを信じてそれに向かって邁進する、という、「大人」が忘れかけているものを思い出させてくれる魅力を存分に味わうことが出来るものです。弦楽器の人数がちょっと少なめのため、ブラームスには欠くことの出来ない深みのある響きが全く出ていないとしても、それを補って余りある「力」を、私達はここからは感じるべきでしょう。
カップリングが、ちょっとしたお遊びなのでしょうが、千秋がコンクールで課された「間違い探し」を実際に音にしたものです。これを聴けば、彼がいかに優れた耳を持っているかが分かります。凡人である私には、109小節目からのティンパニしか見つけることが出来なかったのですから。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-28 20:06 | オーケストラ | Comments(1)
Rock Swings



Paul Anka
VERVE/475102US盤)
VERVE/602498826003
EU盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCU-1068(国内盤)


ポール・アンカといえば、私達はまず1950年代から1960年代にかけてまさに一世を風靡したアイドル的なポップス・シンガーとしての姿を思い浮かべることでしょう。1957年、16歳の時に自作の「ダイアナ」という曲でいきなり大ヒットをとばした彼は、その歌詞にあるような「早熟な若者」というイメージで、数多くのヒット曲を世に送ります。しかし、そのような単なるアイドルで終わらなかったのが、彼のすごさです。1962年に公開された映画「史上最大の作戦The Longest Day」の中でミッチ・ミラー合唱団によって歌われた同名の主題歌は、彼にソングライターとしての確かな能力が備わっていることを証明してくれたのです。さらにその後にフランク・シナトラのために書かれた「マイ・ウェイ」こそは、彼の作品(この曲については作詞のみの担当)として永遠の命を持ちうる名曲となりました。
もちろん、彼は現在までとぎれることなく歌手としての活躍は続けています。ほとんど「歌手生活50年」みたいなとてつもないキャリアを誇っているわけですが、デビューが若い時だったせいでしょうか、実はまだ60代半ば、まだまだバリバリの現役アーティストなのです。
そんなポールの最新作は、タイトルそのもの、ロックの名曲をスウィング・ジャズでカバーしようという試みです。ボン・ジョヴィ、ヴァン・ヘイレン、エリック・クラプトンあたりの「王道」だけではなく、ニルヴァーナのような「オルタナティブ」までにも挑戦しようという姿勢には、並々ならぬ意欲が感じられます。
最初の曲、ボン・ジョヴィの「イッツ・マイ・ライフ」が始まったとたん、ここでポールたちが拠り所にしたものは、スウィング・ジャズが持つ力をとことん信じることだったのが分かります。確かにそこにあるのはボン・ジョヴィに違いはないのですが、それは見事に、最初からビッグバンドのために作られた曲のように聞こえてきたのですから。このことは、ヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」という、どう考えてもスイングにはなり得ない曲の場合、鮮烈に印象づけられることになります。あの特異なシンコペーションを持つイントロのリフは、4ビートに置き換えられるやいなや、「ロック」の持つ力強さは消え去り、「ジャズ」という、ある意味大人の音楽に見事に変貌していたのです。もちろん、このような状況下では、ポールの声の中にはデヴィッド・リー・ロスのエネルギッシュなヴォーカルの片鱗も見いだせないのは、当然の成り行きでしょう。
その代わり、私達が気づくのは、元の曲が「ロック」であったときには感じにくかった「歌」としての完成度です。激しいビートの陰に隠れてちょっと見つけそこなってしまったリリシズムが軽快な4ビートの中で蘇るとき、失われてしまったスピリッツ以上の収穫があったと思うのは、私が「大人」になった、あるいはなってしまった証なのでしょうか。
すでに充分「大人」になっていたクラプトンが書いた「ティアーズ・イン・ヘヴン」でさえ、この曲をヴァースから始めるという大胆なアレンジを施したランディ・カーバーの手によって、さらにアダルトな味に変わってしまったことからも、スウィング・ジャズの持つ力には確かに底知れぬものがあることが分かります。そして、ポール・アンカは、その事をいまだ衰えぬ張りのある声で、知らしめているのです。もちろん、少し甘めの声で(それは、「アンコ」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-26 20:02 | ポップス | Comments(0)
CAPLET/Le miroir de Jésus

Hanna Schaer(MS)
Isabelle Moretti(Hp)
Quatuor Ravel
Bernard Tétu/
Solistes des Choeurs de Lyon
ACCORD/476 742 8



アンドレ・カプレの「イエスの鏡」については、大分前に1996年に録音されたMARCO POLOをご紹介したことがありました。今回のものはこの曲の世界初録音である1992年のACCORD盤、長らく廃盤だったものが、晴れてUNIVERSALから再発となりました。
カプレという人は、ご存じのようにドビュッシーと同時代の作曲家です。他の作曲家に対しては常に厳しい批評をしていたドビュッシー(ヴァーグナーに対する当てつけは有名ですね)ですが、このカプレには一目置いていたと言いますから、何か共通したセンスを彼の中に見出したのでしょうね。その結果、彼らの共同作業として、ドビュッシーのピアノ曲のオーケストレーションや、逆にオーケストラ曲のピアノリダクションが生まれることになります。しかし、カプレの作風はドビュッシーとは明らかに異なる方向を向いていました。絵画に喩えれば、ナイフで厚塗りされた油絵ではなく、柔らかい絵筆で描かれた水彩画、それも色数のごく限られたもののような肌触りでしょうか。しかし、第一次世界大戦に義勇兵として従軍した際に被った毒ガスが元で、46歳という若さで亡くなったということもあって、その作品は殆ど知られることはありませんでした。
この「イエスの鏡」は、その不幸な戦争の直後に作られたものです。この曲も、1924年にあのクレール・クロワザのソロによって初演されたものの、長らく忘れ去られていたものが、この録音によって再び脚光を浴びることとなったのです。最近は他のCDも多数出ているようですね。
曲は、受胎告知から聖母被昇天という聖母マリアの生涯にイエスの生涯を映し出した、アンリ・ゲオンの15編から成るソネット(14行詩)がテキストになっています。その15編は5編ずつ、「喜びの鏡」、「哀しみの鏡」、「栄光の鏡」という3つのグループに分けられ、それぞれの最初に楽器だけによる「前奏曲」が加えられ、計18曲で出来上がっています。楽器は、元々は弦楽四重奏とハープ1台という編成、そして、9人編成の女声合唱が加わります。この録音ではさらにコントラバスが加わって低音が補強されています。このあたりは、作曲者にはそれほどのこだわりはなかったようで、現にリヨンで行われた初演の時には広い会場に合わせてオーケストラと大きな合唱、そしてハープが2台用いられたと言いますから。先ほどのMARCO POLO盤でも弦楽合奏になっているのは、そのせいなのかもしれません。
殆どレシタティーヴォに近いメゾのソロ(最後の曲では、本当の「語り」になっています)をバックで支えるこれらの楽器の雄弁さは、注目に値します。それは、全く異なる情景を描いているそれぞれのパートのキャラクターを見事に知らしめるもの、特にキリストの受難がテーマの「哀しみ~」での深い表現には胸を打たれます。中でも、ハープによる重たい歩みの描写は感動的です。このグループの前奏曲も、この演奏のような完璧なユニゾンで弾かれると、まるでアルヴォ・ペルトのような世界が広がるのが、素敵(「癒しの鏡」)。
この作品での女声合唱の扱いは、例えば各々の曲のタイトルを装飾的に読み上げたり(このアイディア自体は非常に魅力的)、メゾのソロを盛り上げたりと、前面に出てくることはありません。そんな、ちょっと欲求不満を感じた合唱ファンには、もう少し前に作られた「野の墓碑銘」という、7分程度のア・カペラ曲のカップリングが嬉しいのでは。ここには、カプレ独自の世界が柔らかい女声合唱で広がるのを存分に味わうことが出来ます。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-23 19:48 | 合唱 | Comments(3)
MAHLER/Symphony No.1




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.137



ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団による「ピリオド・アプローチ」シリーズ、ついにマーラーの登場です。ガーデニングには欠かせません(それは「腐葉土」)。このような話題満載の輸入盤、ぜひ多くの人に買って頂きたい、という輸入元の心意気は、音を聴く前から伝わってきます。まず、外側に巻いてある「タスキ」。日本語によって演奏者や曲目が記載され、演奏に関する短いインフォメーションが付くという、例えばNAXOSあたりでは全てのものに付いている「オマケ」が、こういうことをあまりやらないこの業者(キングインターナショナル)のものに付いています。それだけではありません。今回は何とブックレットにまで日本語の解説が印刷されているのです。普通、こういう輸入盤のブックレットの場合、英語、ドイツ語、フランス語あたりが並んで掲載されているものは珍しくありませんが、そこに日本語が最初から印刷されている、というのは、私が知る限り非常に珍しい例です。先ほどのタスキには「Printed in Japan」と書いてあるので、おそらくこのブックレットだけは日本で印刷されて、日本の市場にしか出回らないものなのが、ちょっと残念ですが。最初からヨーロッパやアメリカのメーカーが日本語も印刷、さらにDVDではオペラの対訳に常に日本語が付く、という時代は果たして来るのでしょうか。
いずれにしても、そこまでして読んでもらいたいという、このノリントン自身によるライナーノーツは、確かに興味深いものがあります。今回特にマーラーの1番に「花の章」を加えて演奏していることへの彼のこだわりは、吉田さんという方のとても分かりやすい訳文によって的確に伝わってきます。しかし、現実にはこの「花の章」は、マーラー自身があえて初稿から取り除いたもの、ここでノリントンが行っている最終稿の中にこの楽章だけを挿入するという方法は、彼がライナーで述べている「この響きはマーラーが自ら指揮した時に耳にしたもの」という主張に対して少しばかりの矛盾を含むものであることは、否定できません。
もっとも、そのあたりのシビアな詮索は、この曲をあくまで「標題音楽」として捉えるというノリントンのアプローチを知ってしまえば、それほど重要なことではなくなることでしょう。事実、この演奏を聴くことによって、まさに目の前に具体的な情景が浮かんで来るという、ちょっと今までこの曲からは味わうことの出来なかった体験が得られるという面で、ノリントンの際だった「直感」のようなものは改めて評価出来るのではないでしょうか。その結果、1楽章あたりではまるで緊張感の伴わない、ほのぼのとした情感が喚起される場面があったとしても、それを指揮者が感じた作曲家からのメッセージとして受け入れるだけの度量の広さが、求められてくるのです。
それよりも、彼が「ピュア」だと信じて疑わないノンビブラートの弦楽器による冒頭のフラジオレットから、なぜこのような「濁った」響きが出てしまうのか、といったような点については、真剣に議論する必要はあるのではないでしょうか。もっと言えば、例えば最終楽章の練習番号42番から入ってくるビブラートをたっぷりかけたオーボエ・ソロの中には確かに存在する「歌」が、その前の41番から奏でられる弦楽器の中には、なぜその片鱗すらも見出すことができないのか、きちんと検証した上で、この時代の音楽に対する「ピリオド・アプローチ」の功罪を判断する姿勢が、私達に求められてはいないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-19 19:40 | オーケストラ | Comments(0)
KODÁLY/Works for Mixed Choir Vol.1




Péter Erdei/
Debrecen Kodály Chorus
HUNGAROTON/HCD 32364



録音されたのは2004年の6月と9月、コダーイの混声合唱曲を作曲年代順に網羅しようという最新の全集です。これが第1集、全部で3集まで出る予定だとか。意外に少ないなと思われるのは、「混声」に限っているからなのでしょう。「同声」のものを含めれば、かなりの量になるはずです。
年代順という事で、最初の2曲はコダーイがまだ学生だった頃の大昔の(古代、ではありませんが)作品、「ミセレレ」と「夕べ」というその曲は、何か重苦しく暗い印象を持つものです。それは、これを演奏しているデブレツェン・コダーイ合唱団の、かなり垢抜けない歌い方によるものなのかもしれません。あまり解像度の高くない、はっきり言って「お粗末」な録音も、それを助長するものでした。
しかし、その次の曲、それから20年を経てコダーイが本格的に民謡収集を始め、その成果を盛り込んで作った多くの児童合唱曲の一つである「ジプシーがチーズを食べる」の混声合唱バージョン(さらに25年後に改訂されたもの)になったとたん、まるで別の合唱団のように生き生きとした音楽が聞こえてきたのには、正直驚いてしまいました。発声も心なしかクリアになっていますし、何よりもそのリズムのシャープなこと。このあたりが、まさに彼らの「血」が持つ、音楽に対するシンパシーのなせる業なのでしょう。
そういう意味で、このアルバムの中で最も大きな曲、そして最もよく知られている曲である「マトラの風景」こそは、そのシンパシーが遺憾なく発揮され、格別な魅力で迫ってくるという見事な仕上がりになっています。テクニックや、サウンドの完成度からいったら、おそらく日本のアマチュア合唱団の方が格段に高いものを持っているに違いありません。しかし、この演奏からほとばしり出る何物にも代え難い「味」には、そうおいそれとはお目にかかる事は出来ないはずです。指揮者のエルデイの歌わせ方は、「洗練」からはほど遠いもの、一瞬、今まで聴いてきた「マトラ」とはあまりに異なる素朴なたたずまいにとまどいすら覚えるものでした。しかし、その中に秘められた民謡を素材としたフレーズの何と美しいことでしょう。それは、歌っている人全員が持っている、このメロディに対する共感がそのまま音となって伝わって来ていると、確かに感じられるものだったのです。そして、そのメロディを彩るまわりのサブテーマ、実は、今まではこれが何とも無機的なものと感じられて、いたずらに技巧を凝らした無意味なもののようにしか思えなかったのですが、ここでは全てのものにきちんと意味を持たせることが出来ることが、はっきり分かるではありませんか。ある種のショックすら伴う、これは新鮮な体験でした。
もう1曲、バルトークでお馴染みの「青髭」に素材を求めたトランシルバニアの民謡に基づく「アニー・ミラー」も、その対話形式の対比の妙が音楽的な魅力にまで昇華されていて、聴き応えのあるものでした。
もちろん、中には「忠誠の歌」のように、ある機会のために作られた単に高揚心を煽るだけの駄作も含まれていますが、それらも包括した全ての作品を紹介し、コダーイの全体像を知らしめるという意味で、これは貴重なアルバムです。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-16 20:53 | 合唱 | Comments(0)
SONORITE





山下達郎
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCL-10228


1998年の「COZY」以来、7年ぶりのオリジナルアルバムは、マルセル・モイーズが作ったフルートの教則本のようなタイトルになりました(あちらは、最後のEにアクサンが付きますが)。そんなに間が開いたとは思えないのは、その間にON THE STREET CORNER 31999年)というひとりア・カペラ・アルバムと、「RARITIES」(2002年)という、アルバム未収録の曲を集めたものを出していたせいなのかもしれません。
山下達郎は、もちろん曲を作って歌うというミュージシャンとしての才能はトップクラスのものがありますが、それだけではなく、商品としてのアルバムを作り上げ、さらにはそれを流通させるという、プロデューサーとしての才能にも非常に長けているのは、ご存じの通りです。特に、彼のようなジャンルの音楽に欠かせない、「音楽を録音する」という点でのスキルには、並々ならぬものがあります。彼は、自身でDJを務めるラジオ番組を持っていますが、その中で、今まで体験してきたレコーディングについてしばしば述べている場面がありました。その時に、レコーディングの現場がアナログからデジタルに変わった時期に、最も苦労をしたと語っていたのは、我々クラシック・ファンにとっては興味深いことでした。デジタル録音が登場した時には、私達は諸手をあげて歓迎をしていたはずです。ダイナミック・レンジは広いし、ノイズは少ないし、まさに良いことずくめの媒体であるCDが出現したために、今まで持っていたLPを、役立たずの場所ふさぎとして処分してしまった人は一体どのぐらいいたことでしょう。実は、音としてはアナログ録音はデジタルをしのぐものがあるということに人々、特にクラシック関係の人が気づくには、少し時間が必要でした。それから20年を経て、やっとアナログと同等の音を保存できるSACDという媒体を手中にすることが出来たのですから。
しかし、そんなデジタル録音の欠陥など、達郎のような現場の人間は最初から痛いほど分かっていたのだそうです。ですから、今までのアナログの音をデジタルで可能にするために、まさに血のにじむような苦労が必要だったと、しみじみと語っていたのでした。
そして、今回の録音を行う頃には、同じデジタルでも「ハードディスク・レコーディング」というテクノロジーが登場していました。これもやはり、実際に使ってみてさまざまな「弱点」を感じることになります(「ハイリスク・レコーディング」)。なんでも、繊細な音には滅法強いのに、爆発的な音には弱いのだとか。そのような機材を前にして、達郎は音楽の表現自体を、機材に合わせて変えていくようになったという、またまた私達には興味深い事実を明らかにしてくれています。例えば、ベースとキーボードがこの機材では相性が悪かったので、思い切ってベースを省いてしまったら、結果的に面白いアレンジが誕生したとか、ヴォーカルのテイストも張り上げるような歌い方はあまりしなくなったとか、音楽の表現を作り上げる要因の中に録音機材までもが重要な位置を占めているという、クラシックの世界ではまずあり得ないことを知らされたのでした。
といっても、このアルバムの中での私のお気に入りは、NHKのアニメの主題歌としてさんざん聴かされたカンツォーネ「忘れないで」と、ホーンセクションをバックにした殆どバカラックのコピー「白いアンブレラ」という、非常にアナログ的な曲なのですがね。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-14 20:46 | ポップス | Comments(1)
MOZART/Violin Sonatas, 1781




Andrew Manze(Vn)
Richard Egarr(Fp)
HARMONIA MUNDI/HMU 907380



快調にアルバムをリリース、獲得した賞も数知れずという、オリジナル楽器界のスーパースター、マンゼによる、モーツァルトのソナタ集です。このジャケット、もちろんモーツァルトのシルエット(影絵・人の名前なんですってね@トリビア)があしらわれた素敵なデザインですが、そのデジパックを開いてみると、その中からは、なんと演奏者のマンゼとエガーの、ちょっと怪しげなポーズのやはりシルエットが現れたのには笑ってしまいました。もしやこの2人は・・・。

それはともかく、「1781年のヴァイオリン・ソナタ」というタイトルのこのアルバムには、モーツァルトとは犬猿の仲だったザルツブルクの大司教ヒエロニムス・コロレードと決別して、晴れてウィーンでの自由な作曲家生活を始めたという記念すべき年の作品が中心に収められています。「作曲家」とは言ったものの、今も昔も作曲だけで食べていけるほど世の中は甘くはありません。ザルツブルクの宮廷音楽家という「定職」を棒に振って、いわば「フリー」というか、殆ど「フリーター」に近い身分になってしまったのですから、まずは糊口をしのぐための収入源を見つけなければなりません。そうしなければ、フルコースはおろか、定食すらも食べられなくなってしまいます。それは、やはり今も昔も変わらない「レスナー」への道です。そんなお得意様の1人が、ヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマーというお金持ちの娘、この人はなかなか才能のあるピアニストだったらしく、しばしばモーツァルトと2人で「2台のピアノのための協奏曲」や、「2台のピアノのためのソナタ」を公開の場で演奏しています。ただ、彼女は体重と身長のバランスが著しく悪く(つまり、○ブ)、容姿に人から好ましいと思われる要素が著しく少なかった(つまり、○ス)ために、モーツァルトとは「先生と生徒」以上の関係にはならなかったという事です(彼女の方は、モーツァルトに「本気で惚れこんじゃって」いたそうですが)。そんな彼女に献呈され、世に「アウエルンハンマー・ソナタ集」と呼ばれている6曲のうち、このアルバムにはK.376K.377K.380の3曲のヴァイオリンソナタが収められています(ちなみに、ここで表記されているケッヘル番号は、年代的にはなんの意味も持たない「第1版」のものです。マンゼほどの人が、あえて「第6版」を使わなかったのは、そろそろ「新ケッヘル」が出るために、「第6版」すら意味が無くなって、「第3版」であるアインシュタイン番号と同じ道をたどるという事なのでしょうか)。
そんな、上流階級のサロンの雰囲気を色濃く持つ曲から、バロック・ヴァイオリンのマンゼとフォルテピアノのエガーは、まるでベートーヴェンあたりが備えていてもおかしくないような緊張感溢れる世界を見せてくれています。マンゼの途方もない表現力の幅は、恐怖心にもつながろうかという荒々しいものから、まるですすり泣くような繊細なものまで、殆ど予測不能に近いものがあります。それを支える20年来のパートナー、エガーとの絶妙のアンサンブル、「これは一つの楽器ではないか」と思えた場面が幾度有ったことでしょう。
K.377の第2楽章の変奏曲が、まさに絶品です。短調によって語られるメッセージの濃いこと。長調に変わるところの絶妙な味も、たまりません。そして、10年後に「魔笛」のパパゲーノのアリアとして生まれ変わる事になる(これって、「ガセビア」?)K.376の第3楽章ロンドでは、ピアノフォルテによるそのロンド主題に「モデラート」レジスターによって音色が変えられている部分があります。モーツァルトの時代にはちょっと「反則」っぽいこの処置、彼らの手にかかればなんでも許せる気になるのは、不思議なものです。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-12 21:25 | ヴァイオリン | Comments(0)
Nordic Spell





Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499



「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-09 19:53 | フルート | Comments(0)
BOKSAY/Liturgy of St. John Chrysostom




Tamás Bubnó/
St. Ephraim Byzantine Male Choir
HUNGAROTON/HCD 32315



この曲を作ったヤーノシュ・ボクシャイというハンガリー人の名前は、その引っ込み思案な性格(ぼ、ぼく、シャイなんです・・・)のため(ではないだろう)、おそらく知っている人は誰もいないことでしょう。もちろん、私も初めて聞きました。1874年に、現在ではウクライナ領となっているフストという町の敬虔な正教徒の家に生まれたボクシャイさん、長じて教会での司祭や聖歌隊の指揮者を務めるようになった、いわば聖職者でした。そして、正教の典礼音楽として、以前ラフマニノフのものをご紹介した事のある「聖クリソストムの礼拝」を10曲も作ったという作曲家でもありました。そのうちの4曲が現在まで残っているそうなのですが、その中の男声合唱のために1921年に作られたものが、今回自筆稿を用いて2004年5月に録音されました。もちろんこれが「World Premiere Recording」となります。
この曲で特徴的なのは、男声パートだけの男声合唱で歌われるという事です。変な言い方ですが、さっきのラフマニノフの場合には、パートとしての「女声」はあるのですが、典礼の際に女性が歌う事が許されないという制約のため、そのパートは少年によって、つまり、全員男声によって歌われていました。しかし、このボクシャイの場合は最高音域がテナーという、本来の意味での「男声合唱」、かなり禁欲的な響きがもたらされるものとなっています。
例によって、中心となるのは「Litany」と呼ばれる司祭と合唱の掛け合いです。その司祭、いわばソリストを、ここでは指揮者のブブノーが努めています。というより、ボクシャイ自身がそうであったように、「司祭」と「(合唱の)指揮者」というのは同じ人が努めるのが、一つの習慣だったのでしょう。そのブブノーのソロ、もちろんベル・カントというわけにはいきませんが、かなり垢抜けたものであったのは、この手の曲ではラフマニノフのものしか知らないものとしては、ちょっと意外な驚きでした。それは、おそらく曲の作られ方にも関係しているのでしょう。いわゆるビザンチンの典礼音楽といったものよりは、ごく普通のヨーロッパの中心で綿々と続いている「古典音楽」のテイストが、この曲には非常に色濃く反映されているのです。ちょうど真ん中辺で聴かれる「The Creed」などが、そんな軽やかな「合唱曲」の典型的なものでしょう。
そのような、ある種爽やかな印象を持ったのは、ここで演奏している合唱団から、いわゆる「スラヴ的」な泥臭い響きではなく、かなり洗練されたものを求めているであろう姿勢を感じたからなのでしょう。ブダペストで2002年に創設されたという総勢13人の聖エフレム・ビザンチン男声合唱団からは、地を這うような超低音のベースや、叫びに近いテナーが聴かれる事は決してありません。そこにあるのはまるで日本の大学の男声合唱団のようなごく素直な発声から生まれる良く溶け合った響きです。その方面の音楽が好きな方には、喜ばれるものかもしれません。ただ、一応プロフェッショナルな団体とは言っていますが、しばしばテナー系の生の声が聞こえたり、アンサンブルの点で必ずしも充分なトレーニングがなされていないと感じられたのが、少し残念です。
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by jurassic_oyaji | 2005-09-07 19:49 | 合唱 | Comments(0)