おやぢの部屋2
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MOZART/Great Mass in C Minor

Camilla Tilling(Sop)
Sarah Connolly(Sop)
Paul MacCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/00289 277 5744
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1059(国内盤 1/25発売予定)


モーツァルトの「ハ短調大ミサ」は、彼の宗教曲の中では「レクイエム」に次いで人気のある曲ではないでしょうか。「大ミサ」と言うだけあって、オーケストラの編成も大きく、なにより合唱の規模が最大8声部と、大人数が必要になって、なかなか盛り上がる曲です。こういう人気曲が揃いも揃って未完である、というのが面白いところ、もちろん、こちらの場合はまだ作曲者はピンピンしていましたから、最後まで仕上げなかったのはその必要がなくなったからであって、健康上の理由ではありませんでしたがね。
そんなわけで、「未完」の曲を演奏する際には、色々の方法が出てくるわけで、それぞれの主張に沿った「版」が存在するのも、「レクイエム」と同じことです。「ランドン版」、「バイヤー版」、「モーンダー版」、そして最近出来た「レヴィン版」と、どこかで聞いたことのあるような名前が、「ハ短調ミサ」業界を賑わすことになるのです。いうまでもありませんが、ここには「ジュスマイヤー版」は存在しません。
マクリーシュがここで採用したのは、「モーンダー版」。今まで、この版での演奏はホグウッドとパロットのものしかありませんでしたが、こういうクセの強いマイナーなものは、マクリーシュのセンスには合っていたのでしょう。「レクイエム」のモーンダー版同様、あくまでモーツァルト自身が作ったもの以外は認めない、という頑なな態度は、ここでも貫かれています。ただ、自筆稿以外にも演奏された時の楽譜なども参考にして、「修復」を行った、というのがユニークな点です。一つの標準である新全集として出版されたエーダー版との一番の違いは、「クレド」に金管とティンパニが追加されたこと。華やかな曲調が一層強調されることになりました。
バッハあたりでは合唱は「1パート1人」などという挑戦的なことを実践していたマクリーシュですが、モーツァルトでは、幸い、そんなことはやらないでくれました。全部で30人程度の人数は、オーケストラとのバランスから言っても過不足のないところでしょう。複雑なフーガのメリスマなど、技術的には安心して聴いていられるものがあります。しかし、残念ながら、女声パートのまとまりなどは、今のイギリスの常設の合唱団の水準には到底及ばないものであることは認めないわけにはいかないでしょう。ただ、オーケストラも含め、こんなちょっと「雑」な感じは、もしかしたらマクリーシュの趣味なのかもしれませんから、一概に決めつけることは出来ないでしょうが。
その「趣味」を認めれば、ティリングとコノリーという2人のソプラノソロの起用も、ある程度理解できるかもしれません。高音はとても立派なのに低音は全く使い物にならないというのと、リズム感の欠如という大きな欠点をもつティリングと、コロラトゥーラがとてもお粗末なコノリーは、普通の趣味でしたらこういう様式を持つモーツァルトの演奏には使わないと思うのですが。ティリングの歌う「クレド」の2曲目、「エト・インカルナトゥス・エスト」などは、素朴なオリジナルの木管楽器とは全く溶け合わない立派な声だけが、異常に目立って聞こえてしまうアンバランスなものでした。
ただ、カップリングとして収録されているハイドンとベートーヴェンのソロカンタータでは、この2人はまるで水を得た魚のように生き生きとした、ドラマティックな歌を披露してくれています。「『シェーナ』と『アリア』」という、殆どオペラの1場面を切り取ったような劇的な作品、マクリーシュはこういう音楽と共通するセンスをモーツァルトのこのミサの中に痒い目で(それは「麦粒腫」・・・仙台では「バカ」と言います)見出したということを、強調したかったのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-30 20:21 | 合唱 | Comments(0)
SCHUBERT/Octet





Mullova Ensemble
ONYX/ONYX 4006



シューベルトの作品で私が最初に接したものが八重奏曲(オクテット)だったというのは(あ、リートなどは彼の作品だとは知らずに聴いていましたが)、交響曲などについては奥手っということになるのでしょうか。それは幼少の頃の、「ウィーン八重奏団」という団体の来日につながる思い出です。ウィーン・フィルのコンサートマスター、ウィリー・ボスコフスキーと、その弟(兄?)の首席クラリネット奏者アルフレート・ボスコフスキーによって創設されたこのアンサンブル、その時にはウィリーは別の人に代わっていましたが、アルフレートはまだメンバーだったはずです。その初来日公演の模様はNHKのテレビやラジオで何度も紹介されていました。当時のNHKには後藤美代子という、いかにも「クラシック」そのもののような格調高いしゃべり方をするアナウンサーがいて、このような放送のMCは一手に引き受けていたのですが、そこで彼女がメンバーの名前を読み上げる調子まで、未だに耳に残っているのですから、幼い頃の刷り込みとは恐ろしいものです。「フィリップ・マタイス」とか、「ギュンター・ブライテンバッハ」などという、まるでおまじないのような名前を今でも思い出すことが出来るのですからね。
そのウィーン八重奏団が演奏していたのが、この八重奏曲だったのです。特に耳に残ったのが、第3楽章のスケルツォ。その軽快なリズムと明るい曲調は、それ以来私の「マイ・フェイヴァリット・シューベルト」になりました。第4楽章の優美な甘さもいいですね。何回も聴いているうちに、第6楽章のテーマがとても無駄の多いもののように思えてきたりもしたものです。シューベルトにはそのような冗長な面もあることを知ったのはずっと後になってから、当時はこのアンバランスなテーマが不思議でなりませんでした。
それから何年たったことでしょう。久しぶりにこの曲の新録音を見つけたので、何はともあれ聴いてみる気になりました。ヴィクトリア・ムローヴァが大分前に演奏スタイルを変えていたことも知っていましたから、それを実際に確かめるという興味もありましたし。
まず印象的だったのは、パスカル・モラゲスのとても柔らかい音色のクラリネットでした。その場の楽器の音を全て包み込んでしまうような、ふんわりとした響き、他の管楽器、ファゴットとホルンも、それにピッタリ合わせた音色で、見事に溶け合っています。そして、ムローヴァを中心とする5人の弦楽器は、幾分渋めの音色で、それに応えていて、アンサンブル全体がまるで一つの楽器になったかのような趣をたたえています。ところが、そんな穏やかな外見とは裏腹に、その中で行われている楽器同士の駆け引きは、とことん緊張感をはらんでいるというのが、面白いところです。モラゲスがあるフレーズを歌いすぎていると見て取るや、そのフレーズを受け取ったムローヴァは、まるで甘さをたしなめるかのように、冷徹な歌い方で返す、といった具合です。ですから、第4楽章の変奏曲では、とてもスリリングなドラマが展開されることになります。テーマは素っ気なく始まりますが、それを受けて各変奏でソロを取る楽器がここぞとばかりに自己を主張する様は、まさにアンサンブルの醍醐味といえるでしょう。フィナーレも絶品です。序奏が終わって、さっきの「変な」テーマが本当にさりげなく、遅めのテンポで始まります。しかし、その遅さは、コーダの伏線だったのです。この、荒れ狂うようなコーダの迫力のあること。
「八重奏曲」のこんなスリルに満ちた一面なんて、ウィーン八重奏団のいかにもサロン風の優雅な演奏からはとても気づくことなど出来なかったはずです。さっきのスケルツォにしても、ただの脳天気な曲想だと思っていた中に、これほどの陰影が込められていたというのも、新鮮な発見でした。なによりも、「ウィーン」で聴き慣れた思い出の中にはなんの意味もない「つなぎ」としてしか受け止めることが出来なかったような多くのパッセージが、ここでみずみずしくその必然性を主張してくれていたのは驚きです。ムローヴァたちの演奏によって、この曲の魅力が、ワンランク高いところで味わえるようになったことに、感謝です。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-26 08:30 | 室内楽 | Comments(0)
FAURÉ/Requiem


Sylvie Wermeille(Sop)
Marcos Fink(Bar)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal et Instrumental de Lausanne
AVEX/AVCL-25046(hybrid SACD)



先日、「CDの価値は収録時間の長さでは決まらない」と書いたばかりですが、やはり程度問題というのはあるものです。今回はSACDということもあるのでしょうが、37分しか入っていなくて3000円、微妙ですね。
コルボにとって、おそらく3度目になるこの曲の録音、1972年(ERATO)と1992年(ARIA)の時には普通の「第3稿」が用いられいましたが、ここではなんと「ネクトゥー・ドラージュ版」という、「第2稿」にあたる版で演奏されています。長年この曲を演奏し続けてきた彼が晩年に到達したのがこの版だったというのは、感慨深いものがあります。なんでも、最近山形県のさるアマチュア合唱団が、この「ネクトゥー・ドラージュ版」でコンサートを開いたとか、合唱の現場では確実にその知名度は広がってきています。木管楽器もトゥッティのヴァイオリンもないという極めてユニークな編成によって味わう独特のフォーレ・サウンドが、どんな演奏会でも聴ける日が来るのもそう遠いことではないはずです。ただ、同じ「第2稿」と言っても、ジョン・ラッターが編曲したいわゆる「ラッター版」は、私はある種妥協の産物ではないかと思っているのですが。
この録音は、今年の2月に日本で行われたコンサートのライブ録音です。東京オペラシティのコンサートホールという、合唱などは非常に美しく響くホールなのですが、この録音は必ずしもその合唱がバランスよく収録されたものではありませんでした。どちらかというと、オーケストラの方に重点を置いたような不思議なバランス、ヴィオラの深い響きが織りなす渋いオーケストレーションは存分に堪能できるのですが、肝心のコーラスがそのオーケストラに埋もれてしまって、あまり聞こえてこないのです。最近、マルチチャンネルのハイブリッド盤で、CDレイヤーを聴いた時によく感じられるこのアンバランス感、もしかしたら、エンジニアの耳がサラウンドに偏ってしまって、もはや2チャンネルには対応できなくなってしまっているせいなのでしょうか。
コルボという人に関しては、私は決して熱心なリスナーではありません。マンガは好きですが(それは「コルボ13」)。というのも、例えばERATOから出ていた一連のモンテヴェルディの作品などでは、そのあまりに主観の勝った表現に辟易した記憶があるからです。「精神性」や「神への信仰」を語る前に、もっとやるべきことがあるのではないか、という思いが、どうしても彼の演奏にはついて回ったものでした。しかし、彼の場合、ライブでの聴衆を巻き込んだ燃焼力には、何かとてつもない魅力があるのかもしれません。別の曲でのライブ盤を聴いたことがありますが、殆ど崩壊寸前のその混沌の中からは、確かに彼にしかなし得ない「何か」が聞こえて来たような気がしたものです。
今回の東京でのライブ、その「燃焼力」は「Libera me」で確かなものとなって現れていたことを、このCDによって知ることが出来ます。通常の演奏、そして、彼自身の演奏と比較してもおそらく倍近くの演奏時間ではないかと思われるほどのとてつもなく遅いテンポからは、かつてこの曲からは聴いたことのなかったおどろおどろしい情感が伝わってきたのです。まるで今にも倒れそうなほどの頼りない足取りが聞こえてくるような低弦のピチカートに乗って歌われるバリトン・ソロは、何か大きな不安を内に秘めているかのように、聴衆の耳には届いたことでしょう。このテンポが本番だけのものだったのは、そのバリトン、フィンクが、思ったように息が持たなくて、プロにはあるまじき場所でブレスを余儀なくされたことでも分かります。
Pie Jesu」でのソロは、コーラスのメンバーでもあるヴェルメイユ。その不安定な音程と、苦しげなビブラートは、いかに無垢な声であってもカバーすることは出来ません。したがって、合唱のレベルも、極上とは言い難い歯がゆさを伴うものでした。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-23 19:55 | 合唱 | Comments(2)
BEETHOVEN/Symphonies 1&2




Giovanni Antonini/
Kammerorchester Basel
OEHMS/OC 605(hybrid SACD)



ベートーヴェンの交響曲といえば、かつては極めて崇高な音楽として捉えられていたものでした。この9つの曲を演奏する前には、数週間滝に打たれて精神を清め、身も心も浄化されたところで、初めて音を出すことが許される、というのが冗談に聞こえないほどの厳しさが要求されていたのです。9番目の曲などは、冬場に演奏されることが多いわけですから、体が震えるほどの思いでしょうね(「寒気の歌」)。
最近になって、このベートーヴェンの交響曲を取り巻く状況は劇的な変化を遂げました。その引き金は、オリジナル楽器(最近、さる「古楽」の専門家が書いた本を読んでいたら、「本当は『オリジナル楽器』と呼びたいのだが、紙面の都合で『古楽』と書かせてもらう」という一節がありました。いい加減、『古楽』とか『古楽器』といった言い方、やめませんか)による演奏の隆盛と、「原典版」の刊行です。この2つの出来事が表裏一体となって、今まで一つの「型」として崇められていたベートーヴェン像は跡形もなく崩れ去り、作曲家が作品に込めた通りのメッセージを、演奏家が自身の感受性を通して聴衆に届けるという、真の音楽のあり方が許されるようになったのです。
そんな状況の最も新しい成果が、この、「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」という、極めて挑戦的な音楽を仕掛けることで知られているグループのリーダー、アントニーニが指揮した1、2番で聴くことが出来ます。演奏しているバーゼル室内管弦楽団は、バロックなどではオリジナル楽器を使うことがあるそうですが、ここでは基本的にモダン楽器(ピッチもモダン・ピッチです)が使われています。もちろん、可能な限りの「ピリオド・アプローチ」は施されています。モダン楽器ならではの木管の滑らかな響きは、ガット弦による弦楽器と見事に溶け合い、とても爽やかな印象を与えてくれます。そこに、ちょっと粗野な金管とティンパニが加わることによって、音色に格段の変化がもたらされるという、異質なものの併存である「オリジナル」的な処理が、見事に効果を発揮しています。
一方、「原典版」を用いた成果が殆どショッキングなほど現れているのが、1番の第3楽章、スケルツォの11小節目です。

 従来版

 原典版

従来版(上)と、原典版(下)を比べてみて下さい。従来版では2拍目からfの指示ですが、原典版では1拍目からすでにfになっています。この違いは、このCDのようにきちんと楽譜通りに演奏されたものを聴いてみると、はっきり分かるはずです。リズム感が全く異なって、まるで別の音楽になっていることに気づくことでしょう。今まで聴いてきたものはいったい何だったのか、もしかしたら、「まさにこれこそが、ベートーヴェンが伝えたかったものなんだ!」と叫んでしまう人もいるかもしれないほどの衝撃です。というのも、今までに出ていた「原典版」による演奏で、ここまで徹底して楽譜の指示に従っていたものは殆どなかったからなのです。あのノリントンなどは、「ベーレンライター版」(譜例はヘンレ版ですが、中身は同じです)と謳っているにもかかわらず、この部分は従来版の指示で演奏しているのですから。
そんな、斬新な気迫は認めつつも、この「1番」に関しては、急にpにしたものを、徐々にふくらませてfまで持っていくというように、まるで、あのアーノンクールのように表情の付け方に一本調子なところがあって、音楽的な習熟度がいまひとつな感は否めませんでした。ところが、それから半年後に録音された「2番」では、その変な「クセ」は見事になくなり、とても心地よい自然なフレージングが出来るようになっているのですから、ちょっと驚いてしまいます。ですから、この「2番」は、とても完成度の高い、素晴らしい演奏に仕上がっています。第2楽章の柔らかい弦楽器の響きも、先ほどのノリントンの金科玉条である「ノンビブラート」からは決して生まれ得ない、豊かなものでした。ピリオド・アプローチの第1世代であるアーノンクール、第2世代であるノリントンを超えたところで、第3世代のアントニーニが花を開きかけている、と言ったら、褒めすぎでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-21 20:35 | オーケストラ | Comments(1)
REICH/You Are(Variations)



Maya Beiser(Vc)
Grant Gershon/
Los Angeles Master Chorale
NONESUCH/7559-79891-2



スティーヴ・ライヒの最新作が届きました。2003年の「チェロ・カウンターポイント」と、2004年の「You Are(Variations)」です。2曲合わせても、収録時間が39分足らずというのは、最近のようにフォーマットの限界ギリギリまで詰め込もうというCDが多い中にあっては、ひときわ異彩を放っています。正直、70分、80分という長さは、聴き通すにはちょっと辛いと感じてしまうこともあるものですから、決して「長ければ良い」というものではないというのは、紛れもない真実です。音楽、特にクラシックの場合は、その価値は経済性と結びついた何かの単位に換算することなど、決して出来ないのですから。
ライヒの作品といえば、ひたすら決まったパターンを演奏し続けるという、どこか人間の情感に背いた要素が秘められているような印象を与えられるものであることは否定できません。逆に、そのような「クール」なものであったからこそ、それが魅力となって「ライヒを聴かない日はない」というほどのコアな支持者も得たのでしょう。今回のタイトル曲「You Are」では、基本的にはそのような行き方に変わりはないように見えます。決まったパルスに乗って、それぞれのパートだけを淡々と演奏している姿からは、感情の高まりといったエモーショナルなものは決して出てくるはずはないと、今までの彼の作品を数多く聴いてきた体験を持つものとしては当然思ってしまっていたはずです。しかし、意外なことに、ここからはかなり「濃い」情感をともなったメロディが聞こえてきたのです。もちろん、普通に「メロディ」といわれている流麗なものとはほど遠い形をしてはいますが、それは確かに音の高低の変化の中に確かな意味を見出すことの出来る知覚現象(なんという回りくどい表現)だったのです。全体で4つの部分に分かれていますが、それぞれが、殆どあの「交響曲」における「楽章」と変わらないほどの性格が与えられていた、というのも、今までのライヒの作品からはなかなか見つけにくかったものでした。スケルツォ的なシンコペーションが心地よい「第2楽章」、まるでラテン音楽のようなノリの「フィナーレ」、そして特筆すべきは「第3楽章」の殆どリリカルといって差し支えない美しさです。
そのような印象を与えられた要因に、「合唱」の参加が挙げられます。かなり初期の段階から、ライヒは人の声をアンサンブルの中に取り入れてきていました。ただ、それは殆ど楽器と同等の扱いであったため、「声」ではあっても決して「歌」として認識できるものではありませんでした。しかし、この作品の中で、ライヒはいつになく大規模な声楽を取り入れています。譜面づらは「voices」といういつもながらの表記ですが、ソプラノ3、アルト1、テナー2というパートは、それぞれ複数の歌手によって(ライナーには、ソプラノ、アルト、テナーとも6人のメンバーが記されています)しっかりとテキストにのっとったホモフォニックなフレーズが歌われれば、それは紛れもない「合唱」として認識されることになるのです。ただ、ここで演奏している人たちの、およそ「合唱」とはかけ離れた稚拙な歌い方からは、「合唱曲」としての完成度を期待するのは不可能です。この曲から、さらに極上のリリシズムを引き出すことを自ら放棄してしまったのは、作曲者が望んだことだったのでしょうか。
その点、1人の演奏者が、あらかじめ録音してある複数のパートと同時に演奏するという、いわば「ひとりア・カペラ」という発想の「カウンターポイント」シリーズの最新作「チェロ・カウンターポイント」では、なんの気負いもないチェリストの手から、ごく自然に「歌」が生まれるのを味わうことが出来ます。ここで聴かれるものは、ライヒの方法論が到達した「対位法」の一つの完成された姿。全部で8つの声部が絡み合い、そこから紡ぎ出される音楽は、確かに情感に訴えかけるものでした。3部構成となっている中間部で、「こんなに美しいライヒがあっていいものか」という感慨にふけることしばし。まさかこんな時代が来ようとは。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-19 19:16 | 現代音楽 | Comments(0)
Sacred Choral Music




Peter Dijkstra/
Chor des Bayerischen Rundfunks
OEHMS/OC 540



バイエルン放送合唱団という、長い伝統を誇る合唱団(なんでも、バイエルン放送局所属の音楽団体としては、最初に出来たものだとか)は、バイエルン放送交響楽団と共演した数々のレパートリーで、広く知られています。合唱を伴う古典的な名曲のみならず、「放送合唱団」ということもあって、その時代に出来たばかりのいわゆる「現代音楽」も数多く演奏、録音しているのは、よく知られています。例えば、1968年に録音されたリゲティの「レクイエム」の放送音源は、あの「2001年宇宙の旅」という有名な映画のサウンドトラックとして使用され、その「歌声」はクラシックとは縁のない多くの聴衆の耳にまで届いていたのです。もちろん、あの「モノリスのテーマ」をきちんと「音楽」として捉えられた人は、それほど多くはなかったはずですが。
この由緒ある合唱団の音楽監督に最近就任したのが、ペーター・ダイクストラです。この名前、どこかで聞いたことがあると思った方は、なかなかの合唱通、そう、ここでも以前ご紹介した「ジェンツ」という団体の指揮者として、私の記憶にもありました。1978年生まれといいますから、まだ20代後半、しかし、幼少の頃からボーイソプラノとしてのキャリアを誇り、12歳の時にはすでに指揮の経験もあったというダイクストラ君は、多くの指導者によってその才能を磨かれ、若くして一人前の合唱指揮者としての地位を築いてしまったのです。
オランダで生まれ、オランダで教育を受けた彼ですから、音楽的にはフランス的な要素を多く身につけてきたことでしょう。「ジェンツ」のアルバムでは、デュリュフレ、プーランク、メシアンなどを、実に爽やかに演奏していたのが印象的でした。そのような資質の彼が、この南ドイツの合唱団を任されて行ったのは、この合唱団が誇る豊かな伝統に、新しい要素を付け加える、ということでした。このアルバムで彼が選んだ曲目は、先ほどの3人のフランス人のものと、オランダのトン・デ・レーウの作品だったのです。
最初にプーランクの「サルヴェ・レジーナ」が聞こえてきた時には、その洗練されたソノリテに、ちょっとびっくりしてしまいました。確かに、そこには「ドイツ」といって連想されるような鈍重さは殆ど見られなかったのですから。事実、この合唱団のメンバーを見てみると、「ゴーダ・マサコ」さんとか「スズキ・アツコ」さん(どこかで聞いた名前?)といった日本人と思われるものも見かけられますから、体質的にはもはやそれほど「ドイツ」ではなくなっているのかもしれませんね。
しかし、聴き続けていくうちに、音色的には軽やかではあっても、音楽の作り方には依然として「鈍重さ」が残っていることが、じわじわと感じられるようになってきます。それは、指揮者がどうのこうのと言う以前の、例えばメンバー1人1人のハーモニーの感じ方のようなものなのですが、具体的には和音が変わる時のフットワークが、非常に重たく聞こえてしまうのです。フランス人であれば何もためらわないでスパッと切り替えられることが、彼らには非常に難しいことのように思えてしまうのですね。これが「伝統の重さ」というものなのでしょう。ドイツの、ある意味論理的な和音進行を表現することを至上のものとしてきた合唱団にとって、フランスの、彼らにしてみればノーテンキに違いないハーモニーを演奏することがこんなに難しかったのか、という、逆の意味でのカルチャー・ショックに近いものを味わった思いです。
同じ指揮者によって歌われているメシアンの「おお聖餐よ」を、「ジェンツ」のものと「バイエルン」のもので比べてみる時、その間には見事なまでの文化の「壁」が横たわっているのが分かるはずです。フランス語のテキストが用いられているデ・レーウの「祈り」という曲も、そのディクションはおよそフランス語とはほど遠いもの。ダイクストラ君の前途は、決して楽観できるものではありません。年末も近いことですし、早めに風邪薬を飲んで、合唱に備えておきましょう(「第9」ストナ)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-17 20:24 | 合唱 | Comments(0)
OHM+/The Early Gurus of Electronic Music





Various Artists
ELLIPSIS ARTS/CD3690



「電子音楽の初期のグルたち」という美味しそうな(それは「グルメ」)タイトルを持つ、CD3枚、DVD1枚からなる膨大な音源と映像を集めたセットです。サブタイトルは「1948-1980」、1948年のピエール・シェッフェルから、1980年のブライアン・イーノまでの作品を、時系列を追って紹介するという体裁を取っています。
その前に、1948年以前に発明されていた電子楽器、「テルミン(1920)」と「オンド・マルトノ(1928)」を取り上げるのは、このセットの趣旨を理解すれば当然のことでしょう。なによりも、このジャケットのデザインを見てください。ディスク類とブックレットを収めた透明の箱の表面に印刷されているのは、そのテルミンの回路図なのですから。史上初の「テルミニスト」クララ・ロックモアの演奏する「感傷的なワルツ」(ソースとなったDELOSには正確な録音年代が記載されていませんでしたが、このブックレットのロバート・モーグのコメントで、「1976年頃」というのが初めて分かります)ほど、このアンソロジーを始めるのにふさわしいものもありません。
メシアンのオンド・マルトノ・アンサンブルのための「祈祷」に続いて、「ミュージック・コンクレート」の創始者であるシェッフェルの作品が収められているのも、制作者の意図の明確な反映でしょう。そう、彼の、「録音された生音を加工する」というサンプリングの方法論も、ここではしっかり「電子音楽」の範疇として捉えられているのです。全てのセットを聴いてみると、純粋な「電子音」だけで作られたものよりは、サンプリングによって生音を取り込んだものの方が多くなっているのも、このようなコンセプトのあらわれなのでしょう。
この膨大な作品群を聴き通して、さまざまなこと、今まで知らなかったような新しい事実を多く知ることが出来ました。電子音でバロックを演奏したのは、決してワルター・カーロスが最初ではなかったこと。サンプリング音を含め、多くの音を重ねて「音の雲」を作り出したのは、決して富田勲が草分けではなかったこと、そして、もっとも大きな収穫は、「電子音楽」というものも他の楽器による音楽と全く同様に、作り手の個性がそのまま作品に反映されるものだ、という、ある意味当たり前なことです。聴く前には、正直、同じようなテイストの羅列はちょっと辛いな、と思っていたのですが、どうしてどうして、そこには好奇心を刺激されて止まない魅力的な音楽の沃野が広がっていたのです。
そんな中で、ひときわ惹き付けられたのは、なんといってもシュトックハウゼンでしょう。几帳面な音の構成の中には、なぜ電子音を使わなければならなかったかという必然性が、はっきり現れています。日本人としてただ1人エントリーされている湯浅譲二も見逃せません。虫の音のような音源の選択は、「右脳」感覚の反映でしょうか。名前だけは聞いたことのあるホルガー・チューカイの、巧みなサンプリングによるエンタテインメントも楽しめます。衝撃的だったのは、ラ・モンテ・ヤングの2種類の周波数を持つ正弦波だけで作られた曲。常に同じ音が継続されて流れているだけなのですが、スピーカーの前で耳の位置を変えると、音の成分が微妙に異なって聞こえてくるのです。そして、最後にブライアン・イーノの、「ヒーリング」そのものといった音楽を体験する頃には、この1980年を境にして「電子音楽」自体にドラスティックな変貌があったことが理解されることでしょう。このアンソロジーが、なぜこの年のもので終わっているのか、その理由は明白です。
DVDの方は、インタビューあり、アニメーションありの2時間15分、これも、クララ・ロックモアで始まり、ロバート・モーグで終わるという構成には、深い意味が込められていると思わないわけにはいきません。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-16 20:59 | 現代音楽 | Comments(0)
VERDI/La Traviata
Anna Netrebko(Sop)
Rolando Villazon(Ten)
Thomas Hampson(Bar)
Carlo Rizzi/Wiener Philharmoniker
DG/477 5936
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1274/5(国内盤 12月7日発売定予定)


今年8月のザルツブルク音楽祭でのライブ録音が、早くもCDになって登場です。「ニューイヤーコンサート」などとは異なり、オペラの場合は編集などに相当な時間がかかるはずなのに、こんな素早いリリース、らいぶ、無理をしたのではないでしょうか。
この公演は、日本のテレビなどでも大々的に紹介されていましたから、現地での評判はものすごいものだったことでしょう。なんと言っても、その評判の立役者はヴィオレッタ役のアンナ・ネトレプコ、人気に於いては、完全に彼女1人が独占したということは、多くの人が言及していましたね。指揮者が、予定されていたマルチェロ・ヴィオッティの急逝にともなってカルロ・リッツィに変わったのも、一つの話題でした。
ネトレプコとともに話題を呼んだのが、アルフレード役のヴィラゾンです。まさに美男美女と言い切って構わないこの組み合わせ、新しい世代のスーパースターの登場と、マスコミはこぞって煽り立てたのでした。初日の模様はORFによってテレビで生中継されたと言いますから、これをそのままDVDなどの映像で堪能できれば、ヴィジュアル的な醍醐味を味わうことができるのでしょうが、歌手の契約上の問題から、当分発売されることはないだろうというのは、CDショップのお兄さんの話、まあ、とりあえず音だけで、この公演の模様を楽しむことにしましょう。とは言っても、レコード会社の「スタジオ録音に近いものを提供したい」という良心のあらわれなのでしょうか、「ライブ」では当然あるはずのアリアの後の拍手などが、きれいさっぱりカットされているのには、ちょっと驚いてしまいました。前奏曲が始まるのと同時にステージの足音などが派手に聞こえてくるのですから、そんな小細工は殆ど意味のないものになってしまうのですがね。実際、これだけの会場の雰囲気がたっぷり入った録音から拍手だけが消えていると、逆にものすごく不自然なものに感じられてしまうから、不思議です。
その若い2人、ネトレプコの方にはもはやカリスマ的な風格さえ漂っているのはさすがです。なによりすごいのは、このオペラを彼女1人の力で仕切ってしまっているということです。「乾杯の歌」など、ちょっと軽めのテンポで始まったものを、彼女はものの見事に自分のテンポに持って行ってしまっているのですから、すでに指揮者すらも自分の支配下に置いているのが分かります。その突き抜けるような高音の力で、最後まで、まさにプリマドンナの貫禄を示し続けてくれました。ただ、相手役のヴィラゾンがちょっと「格」が違うのでは、と思わざるを得ないような出来だったのは、残念でした。独特の甘い声は魅力的ではあるのですが、いかんせん音楽的な「力」が決定的に不足しています。ネトレプコとのデュエットでは、とうとう最後までかみ合うことなく、情けなさだけが露呈してしまっていました。
私にとっては、この公演の最大の収穫はジェルモン役のハンプソンでした。今まで聴いてきたジェルモンとは全く異なる明るい声のバリトンは、ここで、思っても見なかったような強烈な存在感を示してくれたのです。圧巻は第2幕のヴィオレッタとの二重唱。本来は田舎ものの親父が無理難題をふっかけるというシチュエーションなのでしょうが、これをハンプソンの美声でやられると、とても優しく諭されているように思えてしまいます。この優しさがあったからこそ、ネトレプコのちょっとヒステリー気味の演技がきちんと意味を持つことが出来たのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-14 20:50 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Requiem(Ed. Levin)


C. Brewer(Sop), R. Donose(MS)
J. Tessier(Ten), E. Owens(Bas)
Donald Runnicles/
Atlanta Symphony Orchestra & Chamber Chorus
TELARC/CD-80636



このレーベルでは3枚目となるモーツァルトのレクイエムです。今までのものは、ショウ/アトランタ交響楽団によるバイヤー版と、パールマン/ボストン・バロックによるレヴィン版だったわけですが、今回の新録音はその間を取ってアトランタ交響楽団によるレヴィン版という組み合わせになっています。もちろん、オーケストラは同じですが、指揮者はロバート・ショウからラニクルズに変わっているのは、言うまでもありません。もう一つ、このラニクルズが録音した「カルミナ・ブラーナ」の時には単なる「合唱団」という呼称だったものが、今回は「室内合唱団」という表示になっています。合唱指揮者の名前がノーマン・マッケンジーという同じ人ですから、おそらくこれは同じ団体なのでしょう。人数が少なくなった時にだけ「室内」という呼び方をしているのかもしれません。もっとも、ブックレットのメンバー表を見ると、総勢70人近く、普通の「合唱団」は100人以上だといわんばかりのこの感覚には、ちょっと馴染めません。
かつて、ロバート・ショウとともに大規模な合唱曲の数々の優れた演奏を録音していたこのコンビですが、残念なことにショウ亡き後はそのレベルは大幅に低下してしまったように見えます。繊細さからはほど遠いその大味な肌触りには、失望を禁じ得ません。パートごとの焦点が全く定まっていないために、その集まりである合唱団としても、音としての方向性が全く見いだせなくなっているのです。
オペラハウスでキャリアを築いてきたラニクルズは、オペラ歌手をソリストに揃えて、このレクイエムから殆どオペラに近いドラマを描き出そうとしたに違いありません。「入祭唱」で、ソプラノのブルワーが力強い声で朗々と歌い出した時、その印象は確固たるものになりました。合唱に付けられたちょっと聴き慣れない抑揚も、そんなドラマティックな表現を目指したものなのでしょう。ただ、そんな指揮者の要求に全くついて行けない合唱団の技量だったため、そこで描かれたドラマは全く当初の目論見からは外れたものになってしまったのには、笑うしかありません。「キリエ」の二重フーガでのハチャメチャなメリスマからは、対位法の妙と言うよりは、まるで、お互いの立場を主張して譲ることのない嫁と姑の「言い争い」の姿のようなものが、見事に描き出されていたのですから。この版での目玉である「アーメン・フーガ」では、そこに息子も加わって果てしない修羅場が繰り広げられるといった有り様。「ディエス・イレ」もすごいですよ。合唱とオーケストラは全くかみ合っていないものですから、もはや家の中の争いごとでは済まないような、そう、フランスの暴動のような事態が眼前に広がってきます。
そんな、およそモーツァルトが描いたものとはほど遠い画面が見えてしまったのには、録音の悪さも手伝っていたはずです。実は、最初に聴いたのはいつも使っているシステムではないサブの装置だったのですが、全く明瞭さにかける鈍い音にはがっかりしてしまったものです。本来の装置で聴き直してそれは少しはマシにはなりましたが、弦楽器の潤いのない音などは装置が変わっても改良されることはありませんでした。もちろん、これだけの大人数の合唱を満足に再現できるはずもなく、演奏者の欠点だけを強調したような惨めな音になってしまったのです。これはSACDではありませんが、録音はDSD、最良の方式でも悪い録音はあり得るという、当たり前のことが再確認されてしまいました。
このCDに存在価値を見いだすとすれば、こういう演奏が出てくるほどレヴィン版の存在自体が一般的になってきた、ということなのでしょうか。韓国料理の方は、とっくに一般的になっていますが(それは「ビビンバ」)。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-11 20:15 | 合唱 | Comments(1)
The Christmas Album


Vaughan Meakins/
Chamber Choir of the Arts Educational School,Tring Park
The Ambrosian Singers
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222901-203(hybrid SACD)



いつものことですが、「クリスマス」というキリスト教の宗教行事に対するこの国の人々の関心の強さには、つくづく感心させられてしまいます。なんと言っても、11月に入るやいなや始まる「クリスマス商戦」の盛り上がりにはものすごいものがありますからね。昨年ファッションビルの前に出現した、青色LEDで彩られた巨大なクリスマス・ツリーは、今年も暖色系のオーナメントを交えて早々と姿を現し、手ぐすねを引いて客を呼び込むのに躍起になっています。
ですから、そのビルの8階にあるCDショップで、まさにそのものズバリのタイトルを持つこんなアルバムが陳列されていても、とがめる人は誰もいないはずです。それどころか、サラウンドのマルチトラックまでしっかり収められているSACDが税込み790円なのですから、お手軽なクリスマス・プレゼントとして、これほど価値のあるものはありません。
なんでこんなに安いのかと、レーベルを見てみたら、これはあの超低価格のモーツァルトの交響曲全集を出したところと同じではありませんか。1995年に録音された、ロイヤル・フィルのバジェット音源を、新たにサラウンド仕様にしたもの、それで納得です。
そんなアルバムですから、ほんの軽い気持ちで聴き始めたのですが、最初に聞こえてきたのがジョン・ラッターの「Shepherd's Pipe Carol」だったのには驚いてしまいました。私が大好きな「Polyphony」がHYPERIONに録音したラッターのクリスマス曲集の、やはり最初に入っている、シンコペーションが印象的な軽快なキャロルに、こんなところで出会えるとは。つまり、そんなバジェットですから、ジャケットには曲名以上のデータはなく、聴いてみて初めて分かったということなのです。嬉しいことに、ラッターの曲はこれだけではなく、他にも「Nativity Carol」、「Candlelight Carol」、「Donkey Carol」、「Away in a Manger」と、都合5曲も入っていましたよ。歌っているのが、「芸術教育学校」というのでしょうか、イギリスの教育制度はよく分かりませんが、多分高校生ぐらいの女声合唱です。これが、なかなかのもの。児童による聖歌隊ほどの禁欲的なものではなく、かといって大人のくどさもないというほどよいテイストが、ラッターのキャッチーなメロディーに見事に合致しているのです。これは、「Polyphony」のある意味完璧な演奏とは全く別の次元の魅力を持つ、素晴らしい演奏でした。

    CDA 67245

もう一つの嬉しさは、2曲目の「Walking in the Air」。ご存じ、レイモンド・ブリッグスの絵本「スノーマン」を、そのままの筆致で再現した感動的なアニメの主題歌です。少年を背中に乗せた雪だるまが海の上を飛んでいる時に流れる、このハワード・ブレイクが作った曲(思い出すだけで、ウルウルしてきません?)、オリジナルはボーイ・ソプラノでしたが、今回の女声バージョンも、とても素敵です。その他に、ここで指揮をしているヴォーアン・ミーキンスが作った「Stable Carol」という、ウィンナ・ワルツ風の曲も、楽しみがいっぱい詰まった名曲ですよ。
これだけで、もう充分なほどの満足感が得られるのですが、後半には、アンブロジアン・シンガーズの男声も加わった、本当によく知られたクリスマス・ソングのオンパレードが待っていました。これさえあれば、あなたが大切な人と過ごすイヴの夜が極上の雰囲気に包まれるのは、間違いありませんよ。
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by jurassic_oyaji | 2005-11-09 20:05 | 合唱 | Comments(0)