おやぢの部屋2
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BACH/Matthäus Passion

C.Samuelis(Sop), B.Bartosz(Alt)
J.Dürmüller, P.Agnew(Ten)
E.Abele, K.Mertens(Bas)
Ton Koopman/
The Amsterdam Baroque Orchestra & Choir
CHALLENGE/CC 72232



バッハの「マタイ」は、普通はCD3枚でなければ収まりきらない長さを持っています。どんなに速いテンポで演奏しても2時間40分はかかるでしょうから、2枚に納めようとすると1枚あたり80分、曲の切れ目を考えると、これはちょっと難しい数字です。現に、コープマンの1992年に行われた同じ曲の録音では、演奏時間は2時間4159秒、もちろん3枚組でした。ところが、今回のコープマンの演奏は2時間34分7秒しかかかっていないのです。これでしたら楽々2枚に入ります。こんな速い演奏は他にはないだろうと思ったのですが、実は以前取り上げたロイシンク盤がやはり2枚組、しかも演奏時間は2時間3339秒、もっと速いのがありました。ロイシンクもコープマンもオランダの指揮者、そういう土壌がこの国にはあるのでしょうか。
そんな演奏時間にも現れているように、この「マタイ」は非常にサラサラ流れていくような印象を与えています。合唱が受け持つ情景描写の部分が、ことさらの思い入れもなくあっさり過ぎていくのを見ていると、コープマンはこの曲の中のドラマ性を、ことさら強調しないというスタンスで演奏しているのでは、という思いが強まります。例えば、ピラトがキリストとバラバのどちらを十字架につけるかを民衆に問う場面での民衆の答え、「バラバを!」という減七の和音が、いともあっさり歌われたのには、正直拍子抜けしてしまいました。そこは、必要以上の感情は込めず、あくまで音楽として聴いてもらいたいというコープマンのピュアな心が、もっとも象徴的に現れた部分だったのかも知れません。もちろん、コラールなども、くどいほどの思い入れをその中に込める指揮者の多い中、これだけあっさり歌われると逆の意味での感動を呼ぶことでしょう。
そんな流れの中で、テノールのアグニューだけは、果敢に主張のこもった緊張感のあるアリアを披露してくれています。第二部の「Gedult!」など、その真に迫った表現は、まわりが醒めている分、非常に際立って聞こえてきます。反対に、そのサラッとした流れに埋没してしまうだけでなく、さらにテンションを下げることに貢献しているのが、アルトのバルトシュです。アルトのアリアといえば、この曲のまさに「聴きどころ」といっても構わない珠玉の名曲ばかり、それがことごとく暗く、なんのファンタジーも感じられない無惨な姿に変わってしまっているのは、聴いていて辛いものがあります。特に、第2部の冒頭を飾る「Ach! nun ist mein Jesu hin!」は、ヴァイオリンのオブリガートも平板そのもの、バルトシュの稚拙な歌と相まって、言いようのない失望感を味わわされます。
トラヴェルソの名手、ハーツェルツェットにも、何か勢いが感じられないのが残念です。新全集(ベーレンライター版)での6番「Buss und Reu」のオブリガートでは、完全に2番のモーネンに喰われてしまっていますし、49番「Aus Liebe」の長大なオブリガートも、装飾に頼った、力のないものでした。
ちなみに、このCDと同じ内容のものが、DVDでもリリースされています。こういうのも最近の新しい売り方なのでしょう。見ないようにと思っても、きっとあのコープマンのやんちゃ坊主のような顔が飛び込んでくるはず、これを見ながら聴いたら、あるいは音楽の印象も異なって感じられるのかも知れませんね。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-31 19:49 | 合唱 | Comments(0)
BEETHOVEN/Abertura Coriolano, Sinfonias 1,4




John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 210



長いことCDと付き合ってきましたが、クラシックでブラジル製のCDなんて、初めて見ましたよ。ジャケットはポルトガル語表記、「ベートーヴェン」はもちろん分かるのですが、「Abertura Coriolano」とはいったい何なのでしょう。そもそも、オーケストラの名前からして分かりません。どこかの都市にあるオーケストラのようですが、「サオ・パウロ」なんてところ、ありましたっけ(「棹、入ろ」なんちゃって・・・あぶない、あぶない)?
慌ててブラジルの地図を出してみたら、それは「サン・パウロ」のことでした。そうか、「Ã」の上のヒゲがポイントだったのですね。そう言えば、ブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスの作品に、「サン・セバスティアンのミサMissa São Sebastião」というのがありましたね。その「サン」だったのですよ。
その、サン・パウロ交響楽団の演奏で「Abertura Coriolano」が始まった時、それは「コリオラン序曲」であることが分かりました。しかし、その演奏は、そんなベートーヴェンの曲名よりは、ポルトガル語で表記されてあったものの方がはるかにふさわしく思えるほど、「ブラジル風」のものだったのには、驚いてしまいました。なんといっても最初のアコードの決めからして、まるでラテン・オルケスタでもあるかのような明るく軽やかな響きが聞こえてきたのですからね。そのあとに続くちょっと憂いを秘めたテーマ、これは小気味よいリズムの刻みにのって、まるでけだるいボサノヴァのよう。そう、これはまさにブラジル人によるブラジル人のためのベートーヴェンだったのです。この序曲は、そんな彼らのスタンスをたちどころに聴く人に伝える格好の「ツカミ」となっています。ここで彼らのブラジル・ワールドへ引き込まれたが最後、もはやどっぷりサンバの国のベートーヴェンを堪能しなければいけないカラダになってしまいますよ。
交響曲の1番と4番という、ある種軽めの選曲も、そんな彼らのアプローチには相応しいものだったのでしょう。早めのテンポでグイグイ引っ張っていく1番のフィナーレなど、まるでリオのカーニバルのようなにぎやかさが醸し出されています。
4番の場合ですと、随所に現れるシンコペーションに、いかにもラテンの趣が感じられます。それは、ベートーヴェンが緊張感を高めようと用いたシンコペーションとはちょっと肌合いの異なる、もっと「ダンス」の要素が勝ったもの、思わず踊り出したくなるようなそのリズムは、ヨーロッパのオーケストラでは絶対に出せないものに違いありません。第2楽章のようなしっとりしたところでも、合いの手に入る楽器のなんと積極的でリズミカルなことでしょう。ほんと、「チャッチャ、チャッチャ」という刻みがこれほど生命力を持って聞こえてきたことなど、初めての体験です。
このところのベートーヴェン演奏のシーンは、やれオリジナル楽器だ、やれ原典版だ(ブライトコプフ新版というのが、そろそろ出始めていますね)と、より「オーセンティック」な方向を求めることが主流となっています。そこへ現れた、ひたすらマイペースのこのサン・パウロ交響楽団、演奏者一人一人が肩の力を抜いて楽しんでいる顔が目に浮かぶようです。こんな音楽が聴けるのなら、もう少し生きていても良いな、そんな「勇気」すらも与えてくれたCDでした。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-29 19:49 | オーケストラ | Comments(2)
XENAKIS/Complete Works for Solo Piano





高橋アキ(Pf)
MODE/MODE 80



「ピアノ曲全集」というこのタイトルは、CD本体に印刷されている言い方、ジャケットの方では単に「Works for Piano」と書かれているだけです。実はこのアルバム、1999年にリリースされたこのレーベルの「クセナキス・エディション」の第4巻だったのですが(確か、現在は第6巻までが出ていたはず)、その直後、2000年に出版されたクセナキスの1950年頃のいわば「習作」を加えて、晴れて「Complete」として2006年にリイシューされたものなのです。確かに、新録音の曲目の表記は追加されていますが、ジャケットも全く同じ、そしてなによりもコンテンツが変わっているのに品番が一緒というのが、理解に苦しむところです。1999年盤を買った人には、無償で交換に応じるというのでしょうか。なんでも今回は新たにハイ・デフィニッションでリマスタリングされているとか、それなりの付加価値を付けたのは分かりますが、品番が同じというのはねえ。
あいにく、と言うか、幸い、というか、前のCDを買ってない私としては、例えば「Herma」での、聴き慣れた高橋悠治とは全く異なるアプローチに、かつてないほどの新鮮な味わいを見出すことになります。いわば、テクニックの極地をかけて、演奏不可能なものに挑んでいるという悲壮感すら漂うほどの悠治に比べて、アキの方はしっかり一つ一つの音をいとおしんでいるかのような演奏。もしかしたら、その中に叙情性さえも感じられるほどの、みずみずしい「Herma」でした。
打楽器を含む小アンサンブルとピアノとの共演という形の「Palimpsest」なども、例えば似たような編成の「Eonta」(「全集」と言いながら、この曲が入っていなかったのはなぜでしょう)あたりに見られたおどろおどろしい情念が見事に払拭された、見晴らしの良いものに聞こえてきたのも、ピアニストの違いが大きく影響していることは間違いないでしょう。このドラムのノリの良さは、ちょっとした聞きものです。
そして、その、今回が世界初録音となった「ピアノのための6つのシャンソン」は、ごく最近までその存在すらも知られていなかった作品です。これは彼がまだ学生として、パリでダリウス・ミヨーやオリヴィエ・メシアンに師事していた時期のもの。私も含めて、彼の作風は1954年のいわばデビュー作「メタスタシス」から一貫して変わらないものだったという認識を持っていた人達にとっては、これを聴くことはまさに衝撃的な体験以外の何者でもありませんでした。ギリシャのフォーク・ミュージックを素材とした、例えばバルトークの多くのチャーミングなピアノ曲に共通するセンスを持つ、言ってみれば「フツーの」曲たち、その、きちんとした和声と終止形を持つ音楽を聴くことによって、複雑な思いを抱いてしまうのは、私だけではないはずです。4曲目の「3人のクレタの修道士」などは、殆どヒーリング・ミュージックと言っても通用しそうな面持ちですからね。たしか、リゲティあたりも、スタート時には同じようなスタイルを持っていたはず、しかし、それから徐々に作風を変えていったリゲティとは異なり、クセナキスの場合、その変化の度合いはあまりにも急激です。わずか4年でここまで変われるなんて。
そんな、クセナキスの全貌を知る上で欠かすことの出来ないこんな珍しい曲の「初録音」だというのに、このリリースの扱いはどう考えても不可解です。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-27 20:06 | 現代音楽 | Comments(0)
Ich war ein Berliner



James Galway(Fl)
Herbert von Karajan, Karl Böhm/
Berliner Philharmoniker
DG/00289 477 6077



RCA(つまり、SONY BMG)から、鳴り物入りでDGへ移籍したゴールウェイですが、新天地でリリースされたアルバムはヒーリングっぽい名曲集1枚だけというのは、何だか寂しい感じでした。そこへ、やっと届いたニューアルバムが、なんと過去のベルリン・フィルの録音の中で、ゴールウェイが参加しているものを集めたコンピレーションだというのですから、寂しさを通り越して怒りさえおぼえてきたものです。このレーベルは、この不世出のフルーティストを飼い殺しにしようとしているのでしょうか。お彼岸は終わったというのに(それは「半殺し」)。
しかし、見方を変えれば、オーケストラのメンバー一人をクローズアップしたアルバムなど、極めて異例な企画なわけですから、そこに価値を見出すことも出来るのかも知れません。最近でこそ演奏しているメンバーを全てライナーに掲載しているものもほんの少しは見かけるようになってきましたが、ゴールウェイがベルリン・フィルに在籍していた1970年代前半にはそんなものはありませんでした。いかに卓越したプレーヤーであっても、特別なソロを任される時以外には、その名前がクレジットされることはなく、ひたすら「オーケストラの一員」という匿名性に甘んじていたのです。ゴールウェイだからこそなし得たコンピ、多少お手軽な感は否めませんが、彼の「凄さ」が反映したものとして、とりあえず素直に喜んでみることにしましょう。
ジャケットの写真が、あのDGお抱え、カラヤンを始めとする多くのこのレーベルのアーティストを撮ってきたラウターヴァッサーによるものだというのは、注目に値します。白ネクタイの燕尾服姿のゴールウェイの写真など、極めて貴重なものでしょう。しかし、もっと貴重なのは、ブックレットの裏表紙の、この写真です。

アルバムの中で木管五重奏を演奏しているメンバーの写真なのですが、手に楽器を持っていなければ、この、まるでカーネル・サンダースのようなおじさんがゴールウェイその人だとは、にわかには信じがたいことでしょう。「DG時代」というのは、こういうことなのです。
曲目を見ると、その木管五重奏のテイクがかなりの量を占めているのが分かります。これはすでにアルバムがCD化されているのでそちらをきちんとカタログに確保しておけば済むことなのですが、もう廃盤になってしまっているのでしょうか。あるいは、これを使わないことには、アルバム1枚分のコンテンツには満たないと判断したためなのでしょうか。そうなのです。ゴールウェイがベルリン・フィルに在籍していた5年間に彼がDGに残した録音の中には、本当にオーケストラの中のソロ・フルーティストとして聴きたいと思える曲目は、実はあまりなかったのです(この時期、カラヤンはEMIにも録音を行っていました)。その辺の詳細はこちらのリストをご覧になって頂ければ分かりますが、例えば、このアルバムに収録されているビゼーにしても、「アルルの女」のメヌエットは入れていますが、「カルメン」の間奏曲は入れてはいないのです。さらに、誰でも絶対に聴きたいと思うはずのドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」だって、公式の録音はおろか、海賊盤やエア・チェックのテープすら存在しないのですからね。クーベリックとドヴォルジャークの交響曲全集を作った時も、最もフルートが活躍する「8番」だけは、なぜかゴールウェイは吹いていないのです(実は入団前)。
アルバムタイトルが「過去形」であることが、なぜか気になってしまうのは、私だけでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-26 20:49 | フルート | Comments(0)
Vienna State Opera Gala





Baltsa, Gruberova, Kirchschlager,
Domingo, Hampson, Terfel, Botha and more
Ozawa, Mehta, Thielemann, Gatti, Welser-Möst/
Chorus and Orchestra of the Vienna State Opera
EUROARTS/2054928(DVD)



昨年2005年は、戦災にあったウィーン国立歌劇場が再建され、オペラの上演が再開されてから50年が経ったという記念すべき年だったのだそうです。そこで、それを祝ってガラ・コンサートが開かれることになりました。もちろん、会場は満席、「ガラガラ」になることはありませんでした。11月の5日に開催されたそのコンサートの模様が完全収録されたのが、このDVDです。3時間に及ぶその豪華な催しを、存分にお楽しみ下さい。残念なのは、これがNTSCという普通のテレビの規格だということです。もっとも、現在国内で出ているDVDは全てこの方式によるものなのですが、元々のソースの制作はオーストリア放送協会とNHKが共同で行ったもので、しっかりハイビジョンで収録されています。そして、これは先日NHKBSのハイビジョンチャンネルで放送されましたから、それなりの装置を持っている人であれば無料で(もちろん、システムに費やした資金は無視します)見ることが出来るだけでなく、HDに保存しておけば、将来市場に出回るであろう次世代ヴィデオディスクとして残すことも可能なわけです。ですから、それよりもはるかに画質の劣る(あくまでも、それなりの装置を持っている人に限りますが)ディスクをわざわざお金を出して買うことにどれほどの意味があるのか、という点については納得のいかない部分が残りますが。
しかし、この夢のようなステージを眼前にしては、そんな些細なことはどこかへ吹っ飛んでしまうはずです。指揮者だけで、現音楽監督の小澤征爾を始めとしてメータ、ティーレマン、ガッティ、ウェルザー=メストという超豪華メンバーが5人、歌手に至ってはドミンゴ、ターフェル、バルツァ、グルベローヴァ、ハンプソン等々、数えきれないほどの人達が出演しているのですからね。
コンサートの流れとしては、この歌劇場が再開された時に上演された6つの演目の一部を、5人の指揮者にそれぞれ指揮をさせる、というものです。ただ、小澤だけは特別扱い、まずオープニングで「序曲レオノーレ第3番」を演奏したあと、大トリとして「フィデリオ」の大詰めを指揮する、という、まさに「ホスト」の貫禄です。2番手のメータは「ドン・ジョヴァンニ」、ティーレマンだけ2曲で「薔薇の騎士」と「マイスタージンガー」、ガッティは「アイーダ」、ウェルザー=メストは「影のない女」という演目があてがわれています。
演奏はもちろんこの歌劇場のオーケストラ、別の場所では「ウィーン・フィル」と呼ばれている団体です。このようなトップクラスのオーケストラと歌手が一堂に会した場で最も重要になってくるのは指揮者の手腕でしょう。私が最も素晴らしいと思ったのは、映像を見るのはこれが初めてのガッティでした。担当の「アイーダ」で、オーケストラにも、そして歌手にも十分の自由さを与え、それでなおかつ全体を自分の音楽でまとめ上げるという力は凄いものです。自分の主張が空回りしていたティーレマンとは、まさに好対照でした。われらが小澤も、全体のまとまりにまでは気が回らないのがありあり、このつまらないオペラに聴き手の耳をそばだてさせられることは、ついに叶いませんでした。
歌手陣での最大の収穫はヨハン・ボータです。風貌に似合わぬ繊細この上ない歌唱は、まさに絶品でした。オクタヴィアンを歌ったキルヒシュラーガーの、ボーイッシュなのにセクシーというファッションも素敵ですね。
ステージの上には、それこそ1955年の舞台を踏んだ歌手たちが、「来賓」として座っていました。そんな殆ど伝説上の人達、誰も知っているわけはないと思っていたら、一人だけ、上手の出入り口のすぐ前に座って、出演者たちとオーバーアクションで握手を交わしているクリスタ・ルートヴィヒの姿が目に付きました。バーンスタインの指揮で、このオペラハウスでマルシャリンを歌っていたのはついこの間だと思っていたのに、彼女はもう引退していたのですね。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-24 19:52 | オペラ | Comments(0)
わだつみのこえ
 昨日の「おやぢ2」で取り上げた大木正夫、実は、私にとっては個人的に少なからぬ想い出があるものでした。といっても、あの「交響曲第5番」を実際に演奏したことがある、などというだいそれたものではありませんがね。
 あのNAXOSの日本人作曲家シリーズ、総合プロデュースをしている片山杜秀さんが毎回詳細なライナーノーツを寄せられています。その作曲家の殆ど全生涯がそれだけで把握できるほどの、相当な分量の資料(今回は10ページに及んでいます)ですから、文献としてこれ以上のものはないほどのものなのです。そこで、「HIROSHIMA」以降の作品としてあげられていた物の中に、「男声合唱組曲《わだつみのこえ》」というのがあるではありませんか。これは、戦没学徒の詩を集めた「きけわだつみのこえ」という、東京大学出版会から発行(後に、光文社のカッパブックスとして再刊、現在は岩波文庫から「新版」が刊行)された詩集からとられた田辺利宏さんの4つの詩に曲を付けたものに前奏と後奏を加え、6曲から成る組曲にまとめた作品です。そもそもは京都大学男声合唱団が大木正夫に委嘱して作られた物なのです。もちろん、初演は京都で行われましたが、その直後の再演を、実は私達、この間東京で演奏会を開いた合唱団の母体となった大学の男声合唱団が行ったのです。その時には、無伴奏の形で演奏されました。


 それからほんの2、3年後、この曲をもう1度演奏会で取り上げようということになりました。それまでは楽譜は出版されてはいなかったのですが、これに合わせて(かどうか、その前後関係はあまりはっきりしていませんが)出版されたのが、この楽譜です。「出版」とは言っても、その版下は専門家が作った物ではなく、大木正夫本人が手書きで作った物です(その頃は「フィナーレ」なんてありませんものね)。出版に合わせて、無伴奏だったものにピアノ伴奏を加えるという改訂が行われています。これは、無伴奏で演奏された時の「音取り」が、非常に音楽の流れを損なうものだとの作曲者の判断に基づくものだそうです。
 タイトルにもあるように、この曲は「重複男声合唱」、つまり、4声の男声合唱が二つ、計8声部のために作られています。それぞれの合唱団は一方はオスティナート風の決まったパターンを演奏、それに乗ってもう一方の合唱団がテキストを、殆ど朗読のように、淡々と語る(もちろん、音程はあります)という形を取っています。私にとっては、今まで経験したことのないような不思議な音楽の世界でした。ただ、4曲目の「水汲み」という曲だけは、他の重々しい雰囲気とはガラリと異なる、まるで天上の世界のような透き通った明るさに支配されていたのが印象的でした。
 ただ、もちろん、その当時の演奏のアプローチとしては、「音楽」よりは、言葉としての「メッセージ」に、より重きを置いていたのは確かなはずです。当時の多くの学生に見られた、ある種の使命感、社会的なレジスタンスの意味だけで、この曲を歌っていたのは確かなことだったのだと思います。そして、その様な姿勢に、私自身はかなりの抵抗がありました。
 ですから、昨日の「HIROSHIMA」でも、その様な「訴え」だけが前面に押し出されたものを予想していました。しかし、そこに書いたように、そこからは、実に豊かな音楽的なメッセージを受け取ることができてしまったのです。単にある時代だけに通用する安っぽい「叫び」ではなく、50年以上を経ても色あせない普遍的な「美しさ」がそこにはあったのです。この「わだつみ」も、今の時代に演奏したものを聴けば、かつて私が演奏した時とは全く異なる「感慨」が生まれるのではないか、そんな気がしてなりません。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-22 21:53 | 禁断 | Comments(0)
OHKI/Symphony No.5 "HIROSHIMA"




湯浅卓雄/
新日本フィルハーモニー交響楽団
NAXOS/8.557839J



かつて、「大木正興(おおき まさおき)」という有名な音楽評論家がいました。テレビやラジオでクラシック番組の解説をしていた非常に特徴のある顔としゃべり方をした方ですが、いかにも親しみやすい語り口の裏に姿をのぞかせていた陳腐な知識のひけらかしには、鼻持ちならないものをおぼえた記憶があります。もちろん、その様な人の業績が今日まで伝えられることは決してなく、今では誰も知る人もいない過去の人になってしまっています。
今回の「大木正夫」は、発音こそ似ていますが全くの別人、常に確固たる主張を持って生きていた、本物の音楽家です。1901年生まれ、という事は、「椰子の実」の大中寅二(1896年生まれ)や「春の海」の宮城道雄(1894年生まれ)などといったまさに日本の作曲界の創生期を担った人たちに限りなく近い位置を占めていたということになります。
おそらく、知名度としては、生前はそれこそ大木正興と間違えられてしまうほどで、決して高いものではありませんでした。というのも、彼が活躍していた場が例えば「労音」といった、左翼的な基盤を持ったところが中心だったせいなのかも知れません。やはり現金払いでなければ(それは「ローン」)。彼の代表作であるカンタータ「人間をかえせ」にしても、演奏されていたのは「コンサート」ではなく、「集会」のような趣を持ったものだったのではなかったのでしょうか。ある種プロバガンダのような性格をその中に見つけ出してしまわれれば、まっとうな音楽作品としての評価を得ることは極めて難しくなるのは、この国でのいわば「掟」です。
その様な作曲家の姿勢の、まさに先鞭を付けたものと位置づけられているこの交響曲第5番「ヒロシマ」、しかし、そこにあったものは、単に原爆の惨状を訴えるという表面的なメッセージにとどまらない、まさに「音楽」としての確かな訴えかけを持った極めて完成度の高い作品としての姿だったのです。特に、その独特のオーケストレーションの妙味は、作られた時代を考えると驚異的ですらあります。バルトークやストラヴィンスキーといった当時の「最先端」の音楽からの技法を取り入れただけではなく、弦楽器のハーモニックスを、まるでクラスターのように重ねると言った、まさに時代を超えた技法までものにしているのですから。ただ、そこで重要になってくるのが、本当に伝えたいものは古典的な手法に頼るという基本姿勢です。彼が敬愛したというベートーヴェンにも通じるようなテーマの設定によって、そこからは、誰でも一義的なメッセージは読み取ることが出来る程の明快さが生まれます。それと同時に、それらを覆う前衛的な仕掛けによって、それは単なる社会的な訴えかけを超えた「音楽」あるいは「芸術」といった次元にまで昇華しているのです。
そんな巧妙な二面性は、もしかしたら、作られて50年以上経った今だからこそ、その中に見出すことが出来たのかも知れません。今回が初録音となった湯浅卓雄の、実にキレの良いスマートな演奏も、1950年代では決してなし得なかったものであったに違いありません。
もう1曲、戦前の「日本狂詩曲」という作品は、うってかわって、いわば「右寄り」の趣さえ持とうかという、ナショナリズム礼讃の脳天気な曲です。しかし、この当時の作曲家としては、外国に負けないだけの自国の資産を信じて疑わなかったことは事実です。その様な、どんな状況にあっても強固な信念に基づいて音楽を作った大木正夫、その真摯な態度に、心を打たれないわけがありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-21 19:45 | オーケストラ | Comments(2)
James Bond Themes




Carl Davis/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222910-203(hybrid SACD)



6代目のジェームス・ボンドがやっとダニエル・クレイグに決まって、次の第21作目の制作が始まったという「007」シリーズですが、第1作が公開されたのが1962年、この新作「カジノ・ロワイヤル」が日本で公開される頃には「45周年」を迎えることになります。とてつもないシリーズになってしまったものです。
そうなってくると、数々の映画の中で登場した主題歌たちは、しっかり「クラシック」としての地位を獲得し、このような本物のクラシックのオーケストラのレパートリーともなって、この手のCDも数多く出ることになりました。しかし、お高くとまったクラシックの演奏家たちが、かつてご紹介したものほどの熱意を込めず、「たかが映画音楽」と手を抜くことを考えようものなら、彼らは手痛いしっぺ返しを食らうこととなるのです。
1曲目は、シリーズ全ての冒頭のタイトルを飾る「ジェームス・ボンドのテーマ」、このシリーズに切っても切れない縁がある作曲家ジョン・バリーの作品だと思われがちですが(私も最近までそう思っていました)実はモンティ・ノーマンによって作られた物だったのですね。この、あくまでスマートでかっこよくあるべき曲が、おそろしく野暮ったく聞こえてきたのが、そんな「手抜き」の一つの証でしょうか。何しろ、金管セクションの人達はただ譜面づらをなぞっているだけ、そこには原曲の持っているスウィング感などは微塵も感じられなかったのですから。
2曲目の「ロシアより愛を込めて」(これも、ジョン・バリーではなく、ライオネル・バートの曲だったんですね)では、こういう編成での最大の魅力である流れるように芳醇なストリングスの醍醐味が味わえることを誰しもが期待するはずです。ところが、「本職」であるはずのこの弦楽器セクションのやる気のなさと言ったらどうでしょう。もしかしたら、コストを削減するために大幅にメンバーを少なくしたのかと疑いたくなるほど、それは情けない響きだったのです。
3曲目の「ゴールドフィンガー」(ここでやっとジョン・バリーの登場です)では、アレンジの拙さが露呈されます。ニック・レーンというアレンジャーは、元ネタの「ここだけは外せない」という美味しい部分を全く無神経に変えてしまったのですからね。この曲の冒頭で最もかっこよく聞こえてくるはずの「パップヮーッパーッ」というホルンのフレーズを、「パ、パ、パ、パ、パー」と言う間抜けな形で吹かせている神経は、全く理解できません。
ところが、ジョージ・マーティンが音楽を担当した「死ぬのは奴らだ」での主題歌、ポール・マッカートニーとウィングスの「Live And Let Die」になったとたん、みずみずしいグルーヴが蘇ってきたのには、ちょっと驚かされました。そう感じたのは、この曲が、ちょっと今までとは毛色の違ったアレンジのプランによるものだったからかもしれません。ここではオリジナルのマーティンのアレンジをかなり忠実になぞっていて、メインヴォーカルの部分にはファズ・ギターをフィーチャーしています。もしかしたら、「本物の」ロック・ミュージシャンが参加することによって、今までかったるい演奏に終始していたロイヤル・フィルのメンバーが、見事にやる気にさせられてしまったのかも知れませんね。
同じようなことは、きちんとしたリズム・セクションが入った最後の「ゴールデン・アイ」でも見られます。自分たちだけの力では「たかが」映画音楽にさえ命を吹き込むことが出来なかった「クラシック」の演奏家、今活況を呈している「ライト・クラシック」とか言う分野では、このような醜態にいとも簡単に出会うことが出来ます。そんなことでええがね。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-19 19:39 | ポップス | Comments(0)
Le Cantique des Cantiques




Anders Eby/
Mikaeli kammarkör
FOOTPRINT/FRCD 011



アルバムのサブタイトルが「フランス語による合唱音楽」、ア・カペラ混声合唱による「フランス語」がテキストとなった4人の作曲家の作品が集められています。有名なドビュッシーの「シャルル・ドルレアンによる3つのシャンソン」が1904年に作られていますが、他の3曲はいずれも20世紀半ば以降の作品です。
表題の「ソロモンの雅歌」は、もちろんパレストリーナの作品で有名な、旧約聖書の「雅歌」からテキストが取られたものです。これを作った1908年生まれのフランスの作曲家、ジャン・ダニエル=ルシュールは、ブーレーズやジョリヴェなどと「若きフランス」というグループを結成していたことでも知られていますね。1952年にマルセル・クーロー(この合唱指揮者の手によって、クセナキスの「夜」や、メシアンの「5つのルシャン」など、数多くの名曲が命を吹き込まれました)に委嘱されて作ったこの曲は、彼の最も有名な曲として世界中で演奏されているそうですが、私が聴いたのはこれが初めてです。
しかし、スウェーデンの合唱団、ミカエリ室内合唱団は、その私の初体験を、いかにも棒読みのような薄っぺらなフランス語の発音で、いささか白けさせてくれました。これが発音だけの問題に終わらないのが、ちょっと困ったところです。「北欧」と言われて連想されるようなキッチリしたハーモニーが、なかなか生まれてこないもどかしさ、ちょっとした「ゆるさ」が、そこにはあったのです。私の過大な期待に対する見返りがこれなのか、と思い始めた頃、5曲目の「禁断の庭」になった途端、今までとは全く異なる明晰な響きが聞こえてきたのは、この曲がセミコーラスで演奏されていたからでしょう。ピックアップメンバーによるこの曲からは、怪しいまでのエロティシズムさえ漂ってくるような、真に迫った表現が感じられたのです。トゥッティでもこの水準が維持されていれば、何も言うことはないのですが。
フランセの「ポール・ヴァレリーの3つの詩」では、いくらか立ち直りを見せてくれたでしょうか。3曲目の「妖精」での、伴奏の軽やかなリズムパターンなどは、彼一流のの軽妙な持ち味をよく引き出しているものです。
ただ、多くの名演を体験してしまっているドビュッシーでは、この程度の演奏ではちょっと踏み込みが浅いと感じてしまうのは、仕方のないことでしょう。ディクションの欠点はここでも露呈されていて、言葉のイントネーションが活かされていない平板な表現に終始しているという印象は拭うことは出来ません。2曲目のアルト・ソロの、何とかったるいこと。
最後の曲は、ドイツの作曲家ヴェルナー・エックの「3つのフランス語の合唱曲」です。これがあったから、アルバムタイトル(サブタイトル)も「フランスの~」となっていたのでしょうね。1940年にバレエの中の曲として作られた物ですが、なぜか、この曲に最もシンパシーをおぼえてしまったのは、演奏家との相性が最も良かったせいなのかもしれません。ドビュッシーと同じ、シャルル・ドルレアンのテキストを、いかにもフランス風のハーモニーで包み込んだ作品、しかし、そこには明らかにドイツ音楽の論理性が見え隠れしています。不得手なフランス語でつい馬脚を現してしまったスウェーデンの合唱団、しかし、言葉に関しては同じような境遇にあったこの作曲家の作品からは、見事なまでの共感を引き出すことが出来たのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-17 19:34 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Variations Goldberg





Erik Feller(Org)
ARION/ARN 68673



バッハの有名なクラヴィーア曲に付けられた「ゴルトベルク変奏曲」というタイトルは、言ってみればベートーヴェンの「運命」のように、後に付けられた俗称です。それぞれの変奏が「アイアン」とか「パター」だと(それは「ゴルフクラブ変奏曲」)。正式なタイトルは「クラヴィーア練習曲集:アリアと様々な変奏Klavierübung:Aria mit verschiedenen
Veränderungen
」という素っ気ないものです。ここで指定された楽器「クラヴィーア」というのは、現代では殆ど「ピアノ」と同義語になっていますが、本来は「鍵盤楽器」という意味、従って、バッハの時代には普通はチェンバロで演奏されました。もちろん、その他の鍵盤楽器、クラヴィコードや、あるいはその頃すでに作られていたフォルテピアノで演奏された機会もあったことでしょう。それから一歩進んで、同じ鍵盤楽器なのだから、オルガンで演奏しても良いじゃないか、という事で、録音されたのがこのCDです。元々の譜面は2段鍵盤のために書かれているものですから、それを2つの手鍵盤で演奏すれば、特に編曲などはしなくてもそのまま音になります。これは、ちょっと盲点をつかれた素晴らしいアイディアではないでしょうか。
という程度の軽い先入観で聴き始めたのですが、すぐさま、どうも状況はそんな単純なものではなかったことに気づかされることになります。「アリア」が、「Schwebunk」という、ビブラートのかかったストップで聞こえてきた時、それは紛れもないオルガン曲の響きを持っていたのです。ここで使われている楽器は、フライブルクの教会にある1735年にゴットフリート・ジルバーマンによって制作されたもの、もちろん、最近修復はされていますが、基本的な構造は変わっていませんから、「トラッカー・アクション」という、鍵盤からパイプを開閉させるまでのメカニックなシステムのノイズがかなり大きく聞こえます。そのノイズは、あたかも禁断の世界への入り口を開くパスワードであるかのように、私達をバッハの時代のオルガンの世界へと導いてくれたのです。バッハ自身がこの楽器を演奏したことはありませんが、そこにあったのはまさにバッハの時代の教会に於けるオルガンの響きそのもの。そう、雇い主の不眠症を解消するために作られたという穏やかなアリアは、オルガンで演奏されたことによって、まるで敬虔なコラールであるかのように聞こえてきたのです。
それに続く変奏には、ですから、オルガンならではの多彩な音色の変化を味わえる楽しみが待っています。まず、同じ変奏の中でも繰り返しで必ずストップを変えているのが素敵。第2変奏で出てくる「Vox Humana」というストップの鼻の詰まったような幾分ユーモラスな響きも、耳をひきます。第7変奏で現れる「トランペット」というリード管も、まるでフランス風のノエルのような軽快さを与えてくれます。第8変奏では「Vox Humana」と「Schwebunk」が一緒になって、ちょっと危うげなすすり泣きのような効果が出ています。次の第9変奏では、ペダルまで加えたフルオルガンによる壮麗な、まさに音の建造物といったスペクタクルサウンドが味わえますよ。かと思うと、第13変奏や第25変奏のような装飾的なメロディはまさにオルガンの独壇場。16変奏の「序曲」も、フルオルガンでチェンバロでは到底表現できない分厚い世界を見せてくれています。それと対照的な第21変奏のような静謐な世界。最後に「アリア」が再現される時にも、冒頭とは微妙に異なるレジスタリングで、楽しませてくれています。
まるで最初からオルガンのために作られたような顔を見せてくれた「ゴルトベルク」、ここでも、演奏される楽器を特定しなくても成り立つという、バッハの曲の持つ強固な普遍性が明らかになりました。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-15 19:59 | オルガン | Comments(0)