おやぢの部屋2
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MUSSORGSKY/Boris Godunov(excerpts)



George London(Bas)
Thomas Schippers/
Columbia Symphony Orchestra & Chorus
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「おやぢ」を始めてから何年も経たないというのに、その間だけでもレコード業界は大きくその版図を変貌させてきました。当初からリストを作るためのレーベル名の表記などは出来るだけ元からのものを使うようにしてきたのですが、ここに来て「SONY BMG」がしっかり一つの企業だとの認識が高まってくると、このままの表記でよいのかどうか、迷わざるを得なくなってしまいます。「BMG」こそまだ「レーベル」とは認識されてはいませんが、「SONY」はれっきとしたレーベル名、しかし、それはもともと「COLUMBIA」と呼ばれていたものなのですから、こんな昔の復刻盤などが出てくると、レーベルは「COLUMBIA」と表記した方が良いような気になってきます。今はまだ「SONY CLASSICAL」という概念だけは健在のようですが、それが使われなくなり、「SONY BMGレーベル」などというものが出現した時こそが、一つの文化がビジネスによって殺された時となるのでしょう。現に、他の巨大レコード産業「WARNER」や「UNIVERSAL」に於いては、ほとんどそれに等しい事が行われたか、あるいは行われようとしているのですから。
そんな、COLUMBIAが、今では同じ企業体になってしまったかつての競争会社RCA(と言うより、VICTORでしょうか)と互いにしのぎを削っていたという「懐かしい」時代の録音が、オリジナルジャケットを前面に出した形で何種類か再発されました。その中で、これは、「ボリス」のハイライトという体裁ですが、ほとんどタイトルロールを歌っているジョージ・ロンドンのソロアルバムのような印象を与えられる物です。
1920年(1919年、あるいは1921年という説も)に生まれたアメリカのバス歌手ジョージ・ロンドンは、今では少なくとも日本のネット上では全く忘れられた存在となっています。すでに1985年には亡くなっていますし、「声帯麻痺」という病気のために1960年代の後半には歌手を引退していたということですから、それも無理のない事なのでしょう。
しかし、彼には「最初にザルツブルクでモーツァルトを歌ったアメリカ人」、「最初にバイロイトに出演したアメリカ人」、そして、「最初にボリショイ劇場で歌ったアメリカ人」という輝かしい経歴が残されています。そして、そのボリショイ劇場で歌った役こそが、この「ボリス・ゴドゥノフ」だったのです。それは、1960年9月のこと、このCDはその「偉業」の半年後、1961年3月にニューヨークで録音されたものです。オーケストラと合唱は「コロムビア交響楽団・合唱団」という覆面団体(ニューヨーク・フィルあたりでしょうか)、そして、指揮者が1977年に47歳の若さで亡くなったアメリカの指揮者、トーマス・シッパーズです。閉め忘れにはご注意を(それは「ジッパー」)。演奏と録音は、いかにもこのレーベルらしいメリハリのきいたものです(プロデューサーはあのジョン・マクルーア)。シッパーズの指揮は非常に分かりやすい表現に終始、リムスキー=コルサコフ版のオーケストレーションと相まって、スペクタクルなサウンドが充満しています。そんな中で、ロンドンは堂々とした声で圧倒的な存在感を示してくれていました。それとともに、とても細やかな感情表現も伴わせるという、深みのあるところも見せてくれています。
元はLP1枚分、40分にも満たないものですから、CDでは余白にオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団の「展覧会の絵」が入っています。その「プロムナード」が聞こえてきた時、はたと、これは「ボリス」のプロローグの合唱にそっくりな事に気づきました。
この録音が弾みになったのでしょうか、1963年5月にはモスクワで、ロンドン以外は全てボリショイ劇場のキャストという全曲録音をこのレーベルが敢行します。あの「冷戦」時代にそんな事を可能にしたロンドンの人気と実力が、このことでもうかがい知る事が出来るはずです。こちらでも、「本場」のメンバーに一歩も引けを取らないロンドンの存在感が確認できます。

   SONY/S3K 52571
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by jurassic_oyaji | 2006-06-30 21:11 | オペラ | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.8


Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Boys Choir
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.550533/34



このレーベル、本当に最近の躍進ぶりはめざましいものです。それを象徴しているのが、ジャケットのデザインの変化。左上にあるロゴマークがかつては黒字だったものが、今では青い背景に白抜きという粋なものに変わってきています。ほんのワンポイントですが、この違いはかなり大きなもの。これだけで、今までの垢抜けない印象がいっぺんに変わってしまうのですからね。そう思いませんか?
マーラーの交響曲をずっとクリムトのジャケットで出してきたヴィットですが、今までの「3、4、5、6番」ではまだ「白抜き」にはなっていません。それは、彼が2000年まで音楽監督を務めていたカトヴィツェのポーランド国立放送交響楽団との録音なのですが、今回の「8番」は2002年からの彼のポストを提供してくれたワルシャワ国立フィルとのもの、まるでよりランクの高いオーケストラとの演奏を記念するかのような、このジャケットの扱いです(たかがデザインで、そこまで・・・)。しかも、今回のクリムトの「花嫁」はより官能度がアップしていますし(そんなおやぢではいかんのう)。
このコンビでの演奏では、すでに「ルカ受難曲」を聴いています。あの時に受けた知的な印象は、ここでも健在でした。おそらくヴィットという人はこのような大編成の入り組んだスコアを音にするということにかけては並はずれたセンスを持っているのだということが、今回もまざまざと感じられることになります。
そんな指揮者の力量を余すところなく録音として伝えることに成功したエンジニアの力に、まず、驚いてしまいます。数多くのソリストや2群の合唱、そしてオルガンまで入った大編成のオーケストラというとてつもない音響を、彼らは全く濁らせることなくCDに収めてくれました。そのやり方は、まるでジオラマのようにパートごとの遠近感を持たせるという方法でした。例えば、第2部の練習番号77番からの「やや成熟した天使たち」の場面では、ソロヴァイオリン、その奥のオーケストラ、そして合唱、さらにはアルトのソロが、それぞれ程良い距離感を保ってあるべき場所から聞こえてくるという、非常にスマートな音場設定をとっているのです。その結果お互いが全く別のことをやっているという究極のポリフォニーを、マーラーが意図したとおりの分離の良さで味わうことが出来ることになったのです。
ヴィットの指揮は、予想通りクレバーなものでした。それは、もしかしたら「マーラーらしさ」からはほど遠い表現なのかも知れません。第2部の冒頭あたりからの管楽器の美しすぎるほど澄みきった響きを聴くに付け、そんな思いは募ります。淡々とした流れを突然断ち切るファーストヴァイオリンのフレーズ(練習番号14番)が、あまりに冷静なのにも驚かされます。しかし、それは決して不快な思いを抱かせるものではありませんでした。それどころか、非常によく訓練された合唱ともども、このオーケストラは極めて精緻でなおかつ見晴らしのよい世界を見せてくれていたのです。それは、それこそジャケットのクリムトのような「くどさ」とは全く無縁の心地よい世界のように感じられるものでした。
ところが、肝心のソリストたちがことごとくそんな世界をめちゃめちゃにしてしまっています。中でも「懺悔する女」のエヴァ・クウォシンスカが最悪。とてもソリストとは思えない稚拙な歌は指揮者の意図を汲む余裕などあろうはずもなく、見事にその場を台無しにしています。テノールのティモシー・ベンチも、この曲に要求される芯の太さが全くない悲惨なキャラ、彼らの尽力で、数多くの今までの「名演」がその存在を脅かされるという事態は、幸いにも避けられることとなりました。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-29 20:18 | オーケストラ | Comments(0)
SCHUBERT/Die schöne Müllerin



Sigrid Althoff(Pf)
Gus Anton/
Camerata Vocale(Quartettverein "Die Räuber")
VMS/VMS 162



フローレンス・フォスター・ジェンキンスという人の演奏(もちろん録音で)を聴いたことがありますか?
SP時代に録音されたもので、かつてはかなりの「珍盤」として好事家のみが知っていたアイテムなのですが、最近ではCD化もされて、簡単に聴くことが出来るようになっています。

 RCA/09026-61175-2

ジェンキンスさんというのは「自称」ソプラノ歌手、幼少の頃から音楽家になる夢を持っていたのですが、41歳の時に父親の遺産を相続すると、そのお金(現金っす)でリサイタルを開くようになり、ついにはカーネギー・ホールでのデビューをも飾ったという華麗な経歴の持ち主なのです。しかし、その歌ははっきり言って「音痴」、音程もリズム感も全くなかったにもかかわらず、本人は大歌手であると信じて疑わなかったというギャップが大評判を呼んで、彼女のリサイタルは常に満員だったということです。その「評判」の片鱗を伝えるのが、このCDなのですが、中でも白眉はモーツァルトの「魔笛」からの「夜の女王のアリア」。タイトルを言われなければ、それがあの「ハイF」の連続するコロラトゥーラの難曲だとはまず分からないという、ハチャメチャな世界が広がっています。涙ぐましいのは、そんなデタラメな歌にきっちり合わせようと努力している(もちろん専属の)伴奏ピアニストの姿です。かくしてこのCDは、人々が音楽から「笑い」という特別な感情が伴った感動を得たいと思った時には必ず引き合いに出されるという、名誉ある地位を獲得することになったのです。
このような巧まざるところから爆笑を誘うという「名盤」は一朝一夕に生まれるものではありません。逆に、最初から「笑い」を狙って作られたものなどは、とても悲惨な結果を呼んでいるものが多く、笑いどころか聴いていて辛くなってしまうものの方が多くなってしまいます。そんな中で、久々に「名盤」たり得るものに出会えました。もちろん、最初からそのつもりで買ったものではありません。しかし、聴いてみればそれは紛れもなく本当の「笑い」を誘うもの、喜びもひとしおです。
タイトルは「美しき水車小屋の娘」、もちろん、有名なシューベルトの歌曲集を、全曲男声合唱のために編曲したというものです。演奏しているのは「盗賊」というあだ名を持つドイツの合唱団、最初にレパートリーにしたのがロシア民謡の「12人の盗賊」という、男声合唱の定番の曲だったというのが、その名前の由来だそうです。そして、グス・アントンという、まるでマーラーとブルックナーのファーストネームをつなげたような冗談っぽい名前の方が、指揮とそしてこの男声用の編曲を行っています。
ピアノ伴奏はオリジナルのまま。ですから、まず「さすらい」の浮き立つような軽快なピアノが聞こえてきます。その間に、聴いている人は次に出てくるメロディを心の中で思い浮かべ、どんな表現で歌ってくれるのか、楽しみな一瞬を持つことになるのです。ゲルネのような深いニュアンスでしょうか、はたまたボストリッジのようなとことん「濃い」表情でしょうか。ところが、そこで聞こえてきたものには、メロディーすらありませんでした。ハーモニーのパートがあまりにも頑張っているために、肝心のメロディが全く聞こえてこなかったのです。そのハーモニーすらも一人一人の音程がことごとく違っているので、全体としては全く「ハモる」ことはないのですから、すごいものです。メロディが聞こえないのであれば、表現など感じられるわけもありません。最後の「小川の子守歌」までの20曲の間、一体どこが「水車小屋」で、どこが「娘」なのか分からないまま、唖然として聴き続けることになるのです。
歌っている本人達はいたって真剣、そしてピアノ伴奏の人も、決してペースを乱されることなくしっかり弾いているというあたりが、ジェンキンス盤の精神を見事に現代に伝えています。そう、こんな面白いCD、絶対に狙って出来るものではありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-27 15:05 | 合唱 | Comments(5)
The Book of Bunny Suicides
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 1週間ほど前、駅前のロフトの中にある「ジュンク堂」に行ってみました。この店にはエスカレーターのすぐ前にちょっとしたディスプレイのスペースがあって、そこにお薦めの本などが展示してあるのですが、その中にあったのが、このちょっと見可愛らしい本です。これは英語版なのですが、その横には日本語版もありました。日本語のタイトルが「自殺うさぎの本」、ちょっとどぎつい訳ですね。
 オリジナルのタイトルは「The Book of Bunny Suicides」、赤い表紙の第1巻が最初にイギリスで発行されたのが2003年のこと、これは2004年にアメリカで発行されたペーパーバックス版です。そして、2005年の12月に青山出版社から日本語版が発行されました。緑の表紙が第2巻「Return of the Bunny Suicides」、何だか映画のタイトルみたいですね。これは2004年のハードカバーが2005年にペーパーバックスになったもの、日本語版はまだ出てはいません。
 第1巻の表紙にあるトースターの中に述べられているように、これは、「ただ、もうこれ以上は生きてはいたくないウサギ」を描いた絵本、というか、一コママンガ(中には多くのコマを用いたものもありますが)です。まるでディック・ブルーナの「ミッフィー」のように可愛らしいウサギたちは、どのコマでも何とかして死のうとしています。しかし、その方法がどれも非常にユニーク、とてつもない手間をかけたり、あり得ないような設定を考えたり、ですから、これはあくまでも「そんなバカなことまで」と思わせられるような究極のブラックユーモアなのです。もちろん、私はこういうものは大好きですからどのウサギもその「死に方」の面白さにとことん笑うことが出来ますし、それが著者アンディ・ライリーの目指したものであることは明らかです。しかし、こういうものを理解できないという人がいるのもまた事実、そういう人は読まなければ(見なければ)いいのではないかと思うのですが、なぜかくそ真面目に怒り出す人がいるから、やっかいですね。
 この本、イギリスではかなりのベストセラーになったということです。日本ではどの程度売れるのか、興味があるところですが、別の大きな書店を覗いてみたところ、どこでもこの本を見つけることは出来ませんでした。やはり、日本人にはハードルが高い「ギャグ」なのかも知れませんね。
 公式サイトの中に、「抜粋」ということで幾つかの「自殺」が公開されています。それを見て頂ければその面白さは(もちろん、面白いと思える人だけですが)少しは伝わるはずです。例えば14番目の、失恋したばかりの女性のすぐ横で、純愛もののビデオを見ようとしているウサギなんて、なかなかのものでしょう? 一番最初にある花のようなものにかじられているウサギはちょっと分かりづらいかも知れません。しかし、これは実際に第2巻を買ってみると、一番最後に「エピローグ」と言うことで、結末がちゃんとあります。第1巻の方はもっと手が込んでいて、画面は一面真っ黒、キャプションが「皆既日食の時に『ノミ』でジャグリングをしている2匹のウサギ」とあります。これも「エピローグ」では、日食が終わったあとで体中にノミをさされて倒れているウサギが見れる、という仕掛けです。
 私が一番ウケたのは、ここには公開されていない「長編」ものなのですが、ウサギが一生懸命パソコンの前でネット書店に注文を出しています。その本が766ページもあるハードカバーの「ハリー・ポッター」、注文し終わったウサギは、それからずっと入り口のドアの前に座り続けます。その本が配達されて、ドアにある郵便受けから落ちてきた時、その真下にいたウサギは・・・。ねっ、笑えるでしょう?
もう一つ、キューブリックの「Doctor Strangelove」のパロディも秀逸です。最後のシーン、パイロットが馬乗りになっている、誤発射した核ミサイルの中には、i-Podに聴き入るウサギが。これなどは映画を見ていないと分からないネタ、その他にもかなりきわどい「考えオチ」が満載、なかなか深いものがありますよ。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-26 20:59 | 禁断 | Comments(0)
ISTVÁN SZIGETI/Chamber Music with Flute


István Matuz, Gergely Matuz, Mária Salai,
Zoltán Gyöngyössy, János Bálint(Fl)
Marcato Ensemble
Erkel Chamber Orchestra
HUNGAROTON/HCD 32360



イシュトヴァーン・シゲティという、1952年生まれの現代ハンガリーの作曲家の作品集です。彼の名前を聞くのはこれが初めてですが、ライナーによると、主に電子音楽とかライブエレクトロニクスの分野で重要な位置を占めている人のようですね。最近になって「普通の」曲も作るようになってきたとか、その中で、フルートが加わった編成の曲が集められているのが、このアルバムです。
演奏家として参加しているフルーティストは全部で5人、その中でイシュトヴァーン・マトゥスとヤーノシュ・バーリントは聴いたことがありますが、それ以外の人は初めて耳にするものです。ゲルゲリー・マトゥスという方は、他の場所でもイシュトヴァーンと共演していることが多いので、もしかしたらイシュトヴァーンの息子か何かなのかもしれません(ご存じの方は、ご一報下さい)。
1曲目、フルートソロのための「Ritornello」は、おそらくそのイシュトヴァーンが、曲の誕生に何らかの関わりがあるのでしょう。彼ならではのテクニックを駆使したかなりシリアスな仕上がりになっています。中でたびたび登場する長いインターバルのグリッサンド(半音進行ではない、本当のグリッサンド、これはフルートにとっては至難の技です)が印象的です。エンディングで聞こえるちょっと不思議なビブラートは、電子音楽の「変調」のパロディなのでしょうか。
そのあとには、この作曲家の守備範囲の広さを示すかのような、かなり「ポップ」な曲が並びます。イシュトヴァーンにチェロとピアノが共演する形の「Why not?」(なぜか英語のタイトル)のメロディアスなことといったら。次の、3本のフルートのための「That's for You」は、まるでバルトークの「弦チェレ」のような神秘的なカノンで始まりますが、次第にミニマル風のパターンが強調されたものに変わります。全員がフラッター・タンギングで演奏するとか、楽器に何かリードのようなものを付けて突拍子もない音を出すというような「お楽しみ」も存分に味わえます。
続いての「トリオ」は、フルートになんとツィンバロン2台というユニークな編成、リリカルな部分をリズミカルな部分で挟むというわかりやすさ、その両端部分の民族カラー満載の明るすぎるリズムがなかなかです。真ん中の部分でのツィンバロン同士の微妙な音程のズレが生み出す「揺れ」も聞きものでしょう。
次のハンガリー語のタイトル(意味不明)の曲は、フルート、オーボエ、チェロ、ピアノという編成、2本の管楽器が溶け合った響きと流れるようなメロディが魅力的です。ここでフルートを吹いているのがマーリア・サライという人なのですが、このアルバムのフルーティストの中にあって彼女だけ格段に洗練された音を聴くことが出来ます。イシュトヴァーンあたりはまさに現代曲しか吹けないような特殊なフルートですから、そんな中では彼女の音はひときわ精彩を誇ることになります。
AD(ri)A」という曲は、マリンバなどが加わったアンサンブルをバックに多数のフルートとファゴットがまったり絡み合うという、殆どヒーリングの世界です。弦楽合奏に2本のフルートとファゴットという編成の「トリプルコンチェルト」は、まさにバロック協奏曲のパロディ、心和むようなひとときを味わえます。
そして、最後に控えているのが、8分59秒の間、全くブレスをとらないで演奏するという、ハンガリー語でそのまま「ブレスなし」という超難曲。こういうものはイシュトヴァーンの十八番だったのですが(彼の作品に、そういうものがあります)、これを息子(かどうかは分かりませんが)のゲルゲリーが吹いているのが、興味深いところです。生半可な人がこの循環呼吸を使うと、「重患」になりますからご注意を。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-25 19:41 | フルート | Comments(0)
Tohoku University Memorial Hall
 かつて、この街に於けるクラシックのコンサートと言えば、どちらも市電沿線にあった「仙台市公会堂」と、「川内記念講堂」で行われたものでした。公会堂の方は、なんせカラヤン指揮のベルリン・フィルが演奏した場所として、昔からのクラシックファンには語り継がれている、由緒正しい会場です。そのすぐ前が市電の「公会堂前」、そして、一つ南の停留所が「大町西公園前」、そこから広瀬川にかかる大橋を渡って、さらに仙台城址へ向かうと、かつての二の丸のあとの広大な敷地の中に、「記念講堂」が建っていました。私が生まれて初めて行ったクラシックコンサートが、この会場で行われたものであったのは、今にして思えばなんと幸運なことだったのでしょう。それは、「ウィーン・アカデミー合唱団」という団体のコンサート、ヘルムート・フロシャワーという、「ウィーン少年合唱団」などの指揮もしていた人が指揮をしていたはずです。その時にどんな曲が演奏されたのかはすっかり忘れてしまいましたが、2階席のほとんど最後列で聴いていたにもかかわらず、ものすごく大きな音がはっきりと聞こえてきたのにビックリしたという記憶は鮮明に残っています。収容人員は1500を超えるでしょうか、しかし、横に幅広く作られていたために、最後列でも音が痩せないという、音響的にも非常に優れたものでした。
 コンサートが終わってからその余韻をかみしめて市電の停留所まで歩くという至福の時を用意してくれたこの会場には、何回通ったことでしょう。しかし、しばらくして街の中心部に「宮城県民会館」が作られると、大きなコンサートはここで開かれるようになり、記念講堂では一般のコンサートは行われないようになってしまいました。この施設は、東北大学のもの、ですから、学内の音楽サークルなどは、その後もここで演奏を続けることになります。
 しかし、この建物は建築されてから50年の時を経て、さすがに老朽化が進んできたため、最近ではその学内向けにも使われることはなくなり、なんでも「博物館」として保存される、というような話が聞こえてくるようになってきました。一つの時代が終わりを告げることになったのですね。
 と、きのうの地元紙に、驚くようなニュースが載りました。この度100周年を迎える東北大学が、その記念事業として、この「記念講堂」を、外観はそのまま保存し、新たに「コンサートホール」として整備する、というものなのです。その記事によれば、「コンサートホールは1200-1500席の規模で、最新の音響装置を導入する。設備も質の高さにこだわり、仙台フィルハーモニー管弦楽団の活動拠点とする案も浮上している」(23日付河北新報)ということ、これはまさに、新しい音楽ホールがもう一つ誕生する、というニュースではありませんか。
 しばらく前、この街では自治体の手によって「音楽堂」が作られのではないか、という噂がありました。しかし、それは結局「白紙撤回」となり、その計画は今後も実現される見込みは全くありません。政令指定都市でありながらまともなコンサートホール一つないという、文化的にはとても貧しい街に住む私たちは、この恥ずかしい状態が未来永劫続くのではないかという、暗澹たる気分に陥っていたところでした。そこへ降ってわいたような、地元の国立大学のこの計画、行政がなし得なかった快挙に、諸手をあげて喜ぶべきなのでしょうか。
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 しかし、紹介された「完成予想図」では、「まともな」コンサートホールに不可欠なオルガンの姿が見当たりません。もし、大学がきちんとオルガンまで設置されたホールを造ろうという気があるのなら、私もこの大学の卒業生です、16フィートパイプの1本分ぐらいはまかなえるだけの寄付を、喜んで振り込んでやろうではありませんか。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-24 21:27 | 禁断 | Comments(4)
Sharon Bezaly

 おとといオペラを聴いたばかりだというのに(ヒレカツ先生も出来上がりました)、今日は仙台フィルの定期に行ってきました。「美人」フルーティスト、シャロン・ベザリーがロドリーゴの「パストラル協奏曲」を吹くというので、それがお目当てです。この超難曲、CDではさんざん聴いていましたが、生で聴くのは初めて、楽しみです。あ、ベザリーも「生」は初めて、これももちろん「楽しみ」。
 プログラムは、最初に「スペイン奇想曲」、こういう大音量の曲を聴くと、つくづくこのホール(もちろん、青年文化センターのコンサートホール)でしか定期演奏会が出来ない仙台フィルが気の毒になってしまいます。真の「輝かしさ」が、どうしても出てこないのですね。それよりも、ステージの前の方になると音が痩せてしまうのでしょうか、コンマスのソロがとっても空っぽの音に聞こえてしまいました。木管のソロはきちんと聞こえていたのに。ですから、コンチェルトのソリストも、ちょっとかわいそうなことになってしまうのでは、という予感はありました。
 編成を小さく並べ替えて、「パストラル」が始まります。管楽器はこんなに少なかったんですね。オーボエ、クラリネット、トランペット、ホルンがそれぞれ一人ずつ、弦もかなり少なくなっています。ボレロのようなものを着て登場したベザリーは、意外なことにかなり長身でした。譜面を見ながらの演奏ですが、思い切り譜面台を低くしているので、めくる時にかがむのが大変そう、というより、めくりそこねたらどうしようと、こちらが心配になってくるほどでした。最初の細かい音符の連続で、やはりいやな予感が当たりました。音がほとんど聞こえてこないのです。一つ一つの音符ではなく、かたまりとしか聞こえないので、時たま高い音が目立って聞こえてくるだけで、どんな音楽なのか皆目伝わってこないのです。何だかオケとずいぶんずれているようですが、それもゴチャゴチャになって確認すら出来ない状態、初めて聴いた人はなんてつまらない曲だと思ったことでしょうね。
 続く、それこそ「牧歌的」なテーマがオケで出てくると、ベザリーはそれに合わせてとても楽しそうに体を動かし始めました。それはほとんど「ダンス」と言っても良いくらい、演奏していない時にも表現に加わろうという気持ちがとてもほほえましく感じられます。どんな難しいパッセージでも軽々と吹いてしまう上に、こんな余裕を見せるのですから、ほんと、フルートを吹くのが楽しくてしょうがないのでしょうね。
 2楽章では、メランコリックな長~いソロが出てくるのですが、これを彼女は全くノンブレスで吹いているように見えました。もちろんブレスはしているのですが、息を吸っている間に口の中にためた息を吐き出すという「循環呼吸」を非常にうまく使っているので、全く息を吸っていないように見えるのです。これは、さっきから、早いところで全然ブレスをしていなかったので「やっているな」とは思っていたのですが、こういうゆっくりとしたところでこれをやるのはとてつもなく難しいものです。このテクニックに関しては、彼女は完璧にその芸を極めた、と言えるのでしょう。ただ、聴いていると「息をしてくれよ!」と、逆にストレスになってしまいますが。
 バックのオケが、特に金管でかなり「事故」が起こっていたのが、このベザリーの軽やかなソロの足を引っ張っていて、ちょっと気になってしまいました。
 アンコールは「シランクス」、こういうシンプルな曲では、彼女の欠点がもろにさらけ出されてしまいます。なんと鈍くさいドビュッシーだったことでしょう。最後の音の伸ばしに付けられたディミヌエンドを、相変わらずミスプリントの「アクセント」のまま吹いているというセンスの悪さも。初体験の「パストラル」、出来ればもっとよいホールで、もっと音楽的な演奏で聴いてみたかったと、しみじみ思っているところです。
 ところで、「レコード芸術」の今月号の広告(キングインターナショナル)に、ベザリーの公演予定が載っているのですが、この仙台での演奏会の日程が見事に間違っています。それを信じて新幹線で仙台まで聴きに来ても、もうコンサートは終わっていますよ(本番は今日と明日)。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-23 22:54 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Mass in C Minor

Nancy Armstrong, Dominique Labelle(Sop)
Jeffrey Thomas(Ten), Richard Morrison(Bas)
Andrew Parrott/
Boston Early Music Festival Orchestra
Handel & Haydn Society Chorus
DENON/COCQ-84143



1990年に録音され、1992年にリリースされたアイテムが、「モーツァルト祭」に便乗してお安くなって出直りました。なかなか貴重なモーンダー版による「ハ短調ミサ」、おそらくこれは、1988年のホグウッド盤に次ぐ、この版の2番目の録音だったのではないでしょうか。それ以後は、私の知る限り2004年のマクリーシュまで、これを取り上げる人はいなかったはずです。
アンドルー・パロットという人は、かつて1980年代にはEMIREFLEXEシリーズなどで「タヴァナー・プレイヤーズ」などを率いて活発な録音を行い、幅広い活躍をしていた指揮者でした。学究的なアプローチとみずみずしい演奏という相反するはずの側面をともに満たした、数々のユニークな成果を私達に提示してくれていたはずです。しかし、最近イギリスからアメリカに拠点を移してからは、ぱろっとその消息が忘れられているように見えるのは、ただの錯覚なのでしょうか。今では、ガーディナー、ホグウッド、ノリントンといった、かつて同じフィールドでしのぎを削った仲間たちに比べると、ちょっと目立たない存在になってしまっていることは否定できません。
この録音も、アメリカのアーティストを率いてのものです。もちろんオリジナル楽器の団体ではあるのですが、何気なく聴いていたのではモダン楽器のオーケストラではないかと思えるほどの屈託のない明るさが、ちょっと気になってしまいます。確かにピッチは低く、フルートなどが入ってくると紛れもない「オリジナル」ではあるのですが、あまりにふくよかすぎる弦楽器の響きに違和感を抱く人は多いのではないでしょうか。響きと同時に表現も、「オリジナルって、もっとストイックなものじゃなかったの?」という感想を持つには十分なものがありましたし。
ただ、かなり高レベルの合唱は、安心して聴いていられます。そんな大人数ではないのですが、二重合唱になってパートの人数が少ない時でも、しっかり個々の声部の音が確保されているのは、さすがです。そして、この未完の作品のテキストを補うために、単旋律の聖歌を挿入しているという措置も、いかにもパロットらしいやり方です。
ところで、この曲の「Sanctus」では、トゥッティで3回「Sanctus」と繰り返された後に続く「Dominus Deus Sabaoth」という歌詞の部分は、きちんと自筆稿に基づく校訂を行った1985年の「エーダー版(ベーレンライター)」以降の楽譜(というより、そもそも1882年のブライトコプフ全集版でさえ)では、最初の1小節はヴァイオリンが「ジャンジャン、ジャララ」というパターンを演奏するだけで合唱は休み、次の小節から歌い出すという形になっています。モーンダー版の現物は手元にないので正確なことは言えませんが、他の演奏家はこの小節に合唱を入れていないので、おそらくエーダー版を踏襲しているはずです。しかし、なんとここで、パロットは合唱を歌わせているではありませんか。確かに、これは最初の小節から合唱が入るというシュミット版(録音では「シュミット/ガーディナー版」と「シュミット/ヴァカレツィ・ヴァド版」しか聴くことは出来ません。パウムガルトナーの1958年の録音はランドン版+K262、一部でシュミット版と伝えられているのは「ガセネタ」です)やランドン版(オイレンブルクのスコアには小さな音符で表記されているので「オプション」という意志が感じられますが、ペータースのボーカルスコアではしっかり普通の音符で印刷されています)の演奏になじんだ人にはかなり違和感のあるものです。実際、「ベーレンライター版」と謳っているにもかかわらずこの部分を指揮者の裁量で歌わせているクリヴィヌのような人もいることですし。しかし、あえて厳格な(はずの)モーンダー版を選んだあのパロットがこんなことをやっている姿には、かなり意外な面を見てしまったという感慨がわいてしまいます。


エーダー版「Sanctus」のスコア、7小節目から。


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by jurassic_oyaji | 2006-06-22 20:47 | 合唱 | Comments(0)
Die Zauberflöte
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 モーツァルトの「魔笛」を見てきました。プラハ室内歌劇場という、私にとっては初めての団体、モーツァルトに関してはかなりの実績があるということでしたから、楽しみにしていました。会場はいつもの県民会館、3階席の2列目の左寄りなので、オケピットは左半分、つまり木管とファーストヴァイオリンが居るあたりが全く見えません。その代わり、右側の金管とティンパニはよく見えます。と、そのティンパニのうしろに、何か見慣れない楽器があるではありませんか。「もしや」とおもって、1階まで降りていって、ピットをのぞき込みます。それは予想したとおり、紛れもない「キーボードグロッケンシュピール」ではありませんか。この楽器があるというだけで、今夜の「魔笛」は私にとって特別の意味を持つことになりました。ご存じのように、こちらで私は、この楽器のこと、このオペラでの使われ方などについて詳しく調べたことがありますから、この楽器についてはいっぱしの知識があると思っています。しかし、今までCDやDVDでは聴いたことのあるこの楽器ですが、生で聴いたことはまだなかったのですよ。従って、今夜は私が今まで長いこと思いを寄せてきた楽器との、肌を通しての初対面、私にとってはまさに「初体験」となる大事な夜なのですね。
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 プログラムを見ると、今回の来日公演の演目はこの「魔笛」と「フィガロ」。ですから、「フィガロ」のレシタティーヴォでチェンバロを弾く人が、ここではグロッケンを弾くことになります。出番は少ししかありませんから、その女性は始まった時にはまだピットに入っていなくて、出番近くの1幕フィナーレになってやっと楽器の前に座りました。そこで出てくるムーア人たちの踊りの場面で初めて聴いたグロッケン、まるでおもちゃのピアノのようにとんちんかんな響きが出ていました。これこそがモーツァルトがねらった音、普通使われるチェレスタでは絶対に出ない味です。満員のお客さんの中に、この楽器を聴いたことのある人などまず居るはずがありませんから、一体どのように感じたことでしょうね。
 そして、最大の見せ場が第2幕のパパゲーノのアリアです。しかし、ここではかなりの名人芸が必要なアルペジオで、完全に指がもつれてしまっていました。やはりタッチがチェンバロとはかなり違うのでしょうね。本当なら専門の「グロッケニスト」が必要なところなのでしょうが、そうもいかなかったのでしょう。でも、逆にモタモタ演奏したことから、思いもかけない「粗野」な印象が出ていましたから、そんな失態ではなかったようには思うのですが。
 もう一つのお目当ては、ご当地ソプラノ菅英三子さんの夜の女王です。仙台だけに出演するのだと思っていたら、全国くまなく出ることになっていたのですね。そのせいか、第一幕のアリアは「これが菅さん?!」と思ったほどの最悪の出来でした。しかし、第二幕の方の有名なアリアは、まさに完璧、力強く、コロラトゥーラも全く危なげのない、最高の演奏を聴かせてくれました。ところが、ここではお客が最悪。なんと、途中の間奏の部分で盛大な拍手をしたバカがいたのですよ。シンフォニーの楽章の間に拍手するのよりも、これは恥ずかしくてみっともないことです。
 今夜の演出は、なかなか突っ込みどころの多いものでした。その辺も含めて、近々ヒレカツ先生が何かを書いてくれるはずですよ。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-21 23:52 | 禁断 | Comments(0)
The Cruel War
 夕べのクロアチア戦、私は当然NHKのハイビジョンで見てました。地上波の民放でも放送していたようですが、私はあの中継のアナウンサーの絶叫がとことん苦手、というか、憎しみすらも抱きたくなるような不快な物だと常々思っていますから、少しでもおとなしい(もちろん、本質は変わりませんが)公共放送を選びました。しかし、あのクロアチアのユニフォーム、「お茶の井ヶ田」のパッケージに似てません? といわれて頷ける人は殆どいないでしょうが、あそこのあまり高くないお茶の袋とそっくりのデザインなのですね。お茶の袋がたくさん走り回っているという、何だか「アリス」みたいなシュールな光景を、私のような「サッカー音痴」はとことん楽しむ事になるのです。
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 そんな「サッカー音痴」というか、ほとんど「スポーツ音痴」の山下達郎が毎週やっているFMの番組は欠かさず聞いているのですが、ここ2週間はこのところのイベントに合わせて、サッカーとかスポーツに関連した曲を流すという特集を組んでいました。もちろん、この番組は全て達郎の趣味で作られている物なのですから、スポーツに関心のない彼が進んでそんな企画を立てるはずはありません。放送局の上層部が、局全体でこの国民的行事を盛り上げるために、各番組の担当者に「ご無体な(達郎)」制作方針を強要したという事なのです。そこで、達郎が作った番組のプランが、サッカーに限らずスポーツに関係のある曲で構成するという物でした。先週は洋楽編、これは、普段かからないようなラテン系の曲がたくさんかかっていましたね。そして、今週(つまりきのう)は邦楽編というわけです。
 いつも、リアルタイムでは聴けませんから、職場のMDでの留守録を月曜に仕事をしながら聴くというのが、毎週の恒例行事、今日も早速プレイバックを聴き始めました。そこで最初に流れたのが、灰田勝彦の「野球小僧」ですから、いきなりのフェイントです。まさか、こんな曲で始めるとは。達郎は、「スポーツネタ」というノルマを逆手にとって、何だか面白い番組を作ったな、という感触がここでまずありました。そのあとバスケット、テニスと続いて、最後の曲が「相撲」という事になりました。確かに相撲も立派なスポーツです。「相撲といえば、この曲しかありません」と言った時、私には予感がありました。「なぎらけんいち(健壱)の」で、その予感は的中、あの名曲「悲惨な戦い」をフルバージョン、カットなしでかけてくれたのです。この曲をきちんと聴いたなんて、それこそ何十年ぶり、しかも、デジタルリミックスで「いい音」になっていますから、昔、それこそアナログのシングル盤で聴いたのよりもっと生々しい音でしたから、鳥肌が立つほどのものがありましたよ。
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 しかし、日本全国がワールドカップで異常なほどの盛り上がり、それを更に盛り上げようというラジオ局の思惑を見事に逆手にとって、こんな、かつては「放送禁止」だった、それこそ力が抜けてしまうような曲を放送してくれた達郎の見事な手腕には、感服です。そういえば、「シビレ節」のオリジナルバージョン、そして、あの「金太の大冒険」を初めて聴いたのも、この番組ででしたっけ。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-19 21:09 | 禁断 | Comments(0)