おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
<   2006年 07月 ( 21 )   > この月の画像一覧
MANSURIAN/Ars Poetica




Robert Mlkeyan/
Armenian Chamber Choir
ECM/476 3070



ティグラン・マンスーリアンという、1939年生まれのアルメニアの作曲家の合唱曲です。初めて聞く名前、「饅頭に餡」と覚えましょう。副題が「ア・カペラ混声合唱のためのコンチェルト」、シュニトケの作品に「クワイア・コンチェルト」というのがありましたが、そんなノリの「コンチェルト」、いわゆる「協奏曲」とは別の意味で使っているのでしょう。4つの部分、全部で10の小さな曲の集まり、46分ちょっとで終わってしまう、聴き通すには手頃な長さのものです。
テキストには、やはりアルメニアの詩人イェギシェ・チャレンツという人のものが使われています。もちろんアルメニア語、その英訳がブックレットには掲載されています。
このレーベルの常で、モノクロの写真によってデザインされたそのブックレットにより、まずある種の印象の刷り込みが行われるのは、仕方のないことでしょう。全くキャプションの付けられていないそれらの写真が、果たしてアーティストに関係したものなのか、あるいは単なる心象風景を現実の風景から切り取ったものなのかは判然としないまま、とりあえず最初のページにある断崖の上に寂しく建っている古ぼけた教会のようなものに圧倒されることになります。しかし、そのあと、その同じ建物の前で集合写真を撮っている合唱団員や、その教会の内部でしょうか、太い石柱のある薄暗い空間で実際に彼らがリハーサルを行っている写真を見るに及んで、この建物は現実の録音のロケーションであることをかろうじて知ることになるのです。迂闊にも、演奏家を「American Chamber Choir」と読み間違えてしまったために、その写真に出てくる濃い顔の合唱団員を見て、ちょっとした違和感を持ってしまったという「おまけ」まで、そこにはついてくるのですが。

しかし、そこが現実の場所であろうがなかろうが、その、殺伐とした山頂に独り佇むお城のような建造物の写真からは、まさにこの曲が持つ荒々しい肌触りとの視覚的な結びつきが感じられました。もしかしたら、演奏家はこのような場所で録音(あるいは、リハーサル)する事によって、身をもってこの曲の世界を自らの体内に取り込み、実体のある音として放出することが出来たのかもしれません。
ただ、最初の数曲では、いかにも「ロシア的」な趣しか感じられませんでした。それが具体的にどういうものであるのかを指摘することは出来ませんが、旋律の端はし、歌い方のちょっとしたクセに、それは確かに感じられるものでした。これでは、ラフマニノフあたりのエピゴーネンではないかと。しかししばらくして、この曲の中にはもっと荒涼とした、それこそこの断崖のような風景が広がっていることに気づかされます。それは7曲目の「風」という曲あたりからでしょうか。アルメニアの言葉の持つゴツゴツとした響きが、野性味あふれるハーモニーに乗って、そこからはとてつもないエネルギーが発散されていたのです。ソプラノの、決して西洋人には出せないような地声むき出しの高音の咆哮が、それに彩りを添えます。最後に非常に属和音に近いものが延々と伸ばされ、決して解決しないでそのまま終わるというあたりに、そんな荒涼さをさらけ出す勇気のようなものを見たとすれば、それはおそらく作品に対する賞賛につながるはずです。
その次の曲が「短歌」という、もちろん日本の和歌を題材にしたもの、あるいは、和歌そのものの翻訳なのかもしれません。ここで見られる一見静謐を装ったたたずまいも、本質的にはその荒涼と表裏一体だと気づくのも、容易なことです。
これが世界初録音だと言われている、マンスーリアンの合唱曲、このレーベルが大切に育て上げてきたブランド「アルヴォ・ペルト」の、あまりに澄みきった世界を物足りなく思い始めている人たちには、格好の贈り物になることでしょう。ここには、「ペルト」では見えにくかった生身の人間による感情の息吹が確かに存在していることを、誰しもが感じるはずです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-30 20:12 | 合唱 | Comments(0)
M.C.Escher
c0039487_14301860.jpg
 いわき市でエッシャー展をやっていると知ったのは、少し前の新聞広告ででした。ハウステンボスのコレクションを各地で公開しているものの一環だそうで、確か去年あたりは横浜でもやっていました。その時もぜひ行ってみたいと思ったのですが、つい機会を逃して残念だと思っていたところに、この情報です。すぐお隣の福島県で横浜と同じ、というか、長崎と同じものを見ることが出来るのであれば、これに行かないわけにはいきません。なにしろ、仙台からならば「常磐線」で乗り換えなしでいけますからね。
 最近はもっぱら新幹線ばかり利用しているので、在来線、しかも「常磐線」などというマイナーな路線は全くのノーマークでした。時刻表を調べて分かったのは、仙台からいわきまで行っている特急は3時間に1本しか無いということです。しかも、その「スーパーひたち」といういかにも早そうな名前を持つ特急でさえ、丸2時間もかかってしまうのですよ。新幹線だったら、東京を通り越して新宿まで楽々行けてしまう時間です。なんという。
 それしかないのでは仕方がありません。仙台を10時に発って5時に帰ってくるという電車を選び、いわきで美術館に行く時間を作る、というスケジュールを立てて出発です。車中4時間、現地3時間という無駄の多い時間配分ですが、これ以外にないのですからやるしかありません。
 指定券を取った時に「11号車」とあったので、一番後ろの車両だと目星を付けて駅のホームへ向かうと、電車ははるか前の方にありました。なんと、それは「8号車」が一番前、全部で4両しかない「特急」だったのです。車中のアナウンスを聞くと、いわきで前の7両を連結するのだとか、つまりあれですね、「はやて」の後ろに付いている「こまち」の立場、秋田の人の気持ちが良く分かったような気がします。しかし、この電車の冷房の凄さったらどうでしょう、「もしや」とおもって長袖のシャツを用意していたのですが、とてもそんなものではこの寒さはしのげません。いわきまでの2時間、震えっぱなしでしたよ。これでは「スーパーひやし」です。
 そういえば、仙台から常磐線に乗ったのなんて何十年ぶりでしょう。それも、相馬より先には行ったことがありませんから、これも私の「初体験」、いわきが近づいて海がすぐ目の前に見えてきた時には感激ものでした。
 エッシャー展は、本当に素晴らしいものでした。実は、ハウステンボスが出来るずっと前に、日本では最初の本格的なものが池袋の西武美術館で開かれた時に行ったことがあったのですが、その時には見たことがなかった初期の作品がたくさん展示されていました。エッシャーと言ってすぐ連想される「だまし絵」が確立される前の、風景とか本の挿絵、これがとても素敵でした。それと、版木の現物、これが見られただけでも、寒い思いをしてはるばるやってきた甲斐がありました。ボリュームもかなりのもの、一つ一つていねいに見ていたら、帰りの電車の時間はすぐに来てしまいましたよ。でも、この美術館は駅から歩いて10分ほど、前もってネットで調べておいたので全く迷うことなく往復できました。ただ、昼食だけはいくらネットで調べてもこれぞというところがなかったので、行ってから探そうと思ったのですが、たまたまランチの看板があったので入ってみたお店が大当たり、ドリンクが付くので「ジンジャーエール」と頼んだら、あのウィルキンソンが出てきたのですからね。思わずお店の人に「これ、ウィルキンソンですよね」と聞いてしまいましたよ。そうしたら、「はい、辛口でございます」ですって。なんか、「つながってるな」と感じられた一瞬、いわきにまで来てこんなお店に出会えるなんて。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-29 21:34 | 禁断 | Comments(0)
エスクァイア日本版 9月号








エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-09


桑野信介さんという建築デザイナーが、最近のクラシック界の話題を独占しています。たしかに、彼の持つ確固たる自己の世界と、それを頑なに貫き通そうというスタイルは、全てのクラシックファンの共感を呼ぶに違いありません。彼が好んで聴くマーラーやショスタコーヴィチ、ヴァーグナーなどは、まさに偏屈なクラシックファンの嗜好の王道ではありませんか。そこに日本語による「魔王」などでフェイントをかけられたりすれば、ますますファンは増えることでしょう(あ、「結婚できない男」というドラマの話です)。
そんな信介(つまり、阿部寛)あたりが定期購読していそうな「ちょっとリッチな趣味」が売り物のこの雑誌がクラシックを特集するなどというのは、あまりにも出来すぎた話ではないでしょうか。そのタイトルも「発見、クラシック音楽。」、表紙を飾る写真の、サンクトペテルブルクのフィルハーモニーでリハーサル中のサンクトペテルブルク・フィルという渋さには、信介ならずともつい手が伸びてしまいます。
このような、あまたの「ハウツー本」とは一線を画した、あくまで高いクオリティの情報を提供しようとする媒体の場合、必要になってくるのが程良く高飛車な視点です。たとえ理解できなくても、そして、実体が伴わなくても、ワンランク上の情報に接するというだけで、自分は良い趣味を持っていると思いこんでいる読者は満たされた気分になるものなのです。そんな、読み手のプライドを適度にくすぐるだけのグレードの高いアイテムの供給こそが、ここでは最優先で求められています。それは、博学な信介にバカにされないだけの、「おっ、それいいね!」と言わせられるような素材です。そこで、この雑誌がクラシック特集を組むに当たって用意したものが、「ロシアピアニズム」と「古楽」という、何とも「タカビー」なブランドでした。
まず、「ロシアピアニズム」。これは本当にいいところを突いています。そういうものがあることは知っていても、誰もその本当の意味を知るものはいないという言葉の代表のようなもの、「知らない」と言えばバカにされそうだけど、今さら他人には聞けないと言う意味で、これほど「プライド」を満足してくれる言葉もないのではないでしょうか。そもそも「ピアニズム」とは一体なんなのでしょう。露出狂でしょうか(それは「チラリズム」)。
そして、「古楽」です。これも、額面通り「古い音楽でしょう?」などと言ったりしたらたちまち石をぶつけられそうな、ある特定のマニアの間でしか通用しない言葉、本当のクラシックファンの仲間に入れて欲しいと願っていれば、間違っても「オリジナル楽器」などとは口にせず、ひたすら「古楽、古楽」と連呼することが必要になってくるという、まさに究極のブランドです。しかも、嬉しいことに、その「古楽」界のスーパースター「ニコラウス・アーノンクール」までもしっかりフィーチャーされているではありませんか。なんとこの特集の巻頭に。
ご存じのように、この人物の名前ほど、その「ブランド」が実体と遊離して独り歩きしているものもありません。単なる気まぐれな年寄りに過ぎないものを、周りの人がこぞって「巨匠」などと奉り上げるものですから、何も知らない人はそれが本当だと信じてしまうという、まさに「裸の王様」状態に陥っているのが真実の姿だというのに。言うまでもありませんが、この実体の無さこそが、この雑誌の読者層の「プライド」を最大限にくすぐるもの、そして、それを見事に演出した編集者のセンスには、素晴らしいものがあります。
その他の小ネタとして、オペラ関係の「ペーター・コンヴィチュニー」と、「ステファニア・ボンファデッリ」を選んだセンスなどは、もう最高。どちらも、実体はともかく、これさえ押さえておけば誰からもバカにされないで済む、という絶妙のスタンスの「ブランド」なのですから。
そして、お決まりの「お薦め作曲家のお薦めCD」などというコーナーも用意されています。そこでは、マーラーやヴァーグナーが削られた代わりにショスタコーヴィチと武満が入っています。それを「タカビー」の極みと見るか、編集者の良心のあらわれと見るかによって、もしかしたら聴き手としての資質が問われることになるのかしれません。ところで、信介は武満は好きなのでしょうか。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-28 20:45 | 書籍 | Comments(0)
XENAKIS/Synaphai, Aroura, Antikhthon



Geoffrey Douglas Madge(Pf)
Elgar Howarth/
New Philharmonia Orchesrtra
EXPLORE/EXP0017



ちょっと聞き慣れないレーベル名、これはLP時代の珍しいカタログをCD化するために最近作られたものです。復刻の対象は特定のレーベルにはこだわりませんが、最初のリリースとなる今回はDECCAのものを集中して扱っています。このクセナキスはおそらく初CD化でしょう。これが、1976年にリリースされたLPのジャケット、当時DECCAが現代音楽のために設けていた「HEADLINE」というサブレーベルの中の1枚です。

      DECCA/HEAD 13
これはなかなか「時代」を感じさせてくれるジャケットなのではないでしょうか。影絵はもちろんクセナキスの横顔ですが、その上にデザインされているのはパンチングされた紙テープ、かつて「キーパンチャー」という職業の人(マンガも書いていました=それは「モンキーパンチ」)によってデータを入力されていた、その当時の記録メディアです。コンピュータ(「電子計算機」、でしょうね)を作曲のツールとしていたクセナキスをこんな形でデザインした、というところでしょうか。
収録されているのは、1970年前後の作品が3曲、その中には、少し前に大井浩明さんの演奏によるTINPANIの録音が大きな話題となった「シナファイ」が含まれています。つまり、これはあの「世紀の難曲」と言われたものの、世界初録音という「極めて貴重」なものなのです。
現代曲の場合、演奏者によってその曲の印象が変わる度合いは、普通のクラシックの比ではありません。それがまた、現代曲を聴く時の魅力となるわけですが、この曲の場合の違いはちょっと度を超しています。まず、演奏時間が、12分、大井さんの16分の四分の三しかありません。あの目の覚めるような大井さんのものより、さらに早い演奏が、この時点でなされていたのでしょうか。ところが、実際に聴き比べてみると、このマッジの演奏は、オーケストラともどもとても和やかなものでした。別に楽譜が改訂されている様子もないのに、最初にピアノソロが出てくるまでにすでに一分ほど短くなっています。それは、細かい音符を早く弾いたというのではなく、なんかいい加減にごまかして辻褄を合わせたような印象を与えられるものでした。もちろん、これは今聴くとそう思えるのであって、録音された当時はこれ以上のものは不可能だったのではないでしょうか。メディアがパンチングテープからDVDに変化して、画期的に記録データが増大したのと同じことが、演奏の世界でも起こっていたのが、まざまざと感じられます。その結果、かつてはなにかおどろおどろしいイメージでしかなく、全体としてのとらえどころがはっきりしていなかったものが、一つ一つの音、そしてそのつながりの中に、きちんとした「意味」なり「メッセージ」が込められているのがはっきり分かるようになってきます。曲全体の三分の二以降、ピアノのカデンツァ(10段の楽譜!)のあとに繰り広げられるオーケストラとピアノとの「対話」、あるいは「バトル」の意味は、残念ながらマッジたちの演奏からは伝わってくることはありませんでした。
同じことが、やはりTINPANI録音がある「アンティクトン」の場合にも感じられます。これは演奏時間はほとんど変わらない分、それぞれのテクスチャーの違いははっきりしてきます。本当に同じスコアに基づいているのかと思えるほど、その志というか、方向性には彼我の感が存在しているのです。言葉の綾ではない、「アナログ」と「デジタル」の違いが、これほどはっきり見分けられることも希です。なにしろ、始まってしばらくして聞こえる金管ののどかなテーマを、ハワースは本当に情緒たっぷりに歌わせているのですから。
従って、今のところ比較の対象が手元にない「アロウラ」の場合は、逆の意味でその叙情性をなんの抵抗もなく、たっぷりと味わうことが出来ることになります。弦楽器だけで演奏されるこの曲での、例えばグリッサンドあたりはなんと美しく心に響くことでしょう。もちろん、他の演奏に接した時には全く異なる印象を抱くことになるのでしょう。それでいいのです。それこそが、まさに現代曲を味わう時の究極の醍醐味なのですから。
今回のCD、せっかく、オリジナルのライナーノーツも掲載したのですから、オリジナルのジャケットもどこかにあれば、もっと価値が増したことでしょうに。ちなみに、録音データもLPには「197511月」と表記されていますから、「197611月」という記載はまちがいでしょう。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-26 20:11 | 現代音楽 | Comments(2)
TAKEMITSU/A Flock Descends into the Pentagonal Garden




Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra
NAXOS/8.557760J



オリヴィエ・メシアンが自作に関しては非常に饒舌だったことは、よく知られています。新潟に行くんですね(それは「上越」新幹線)。自らの信仰と鳥の啼き声をキーワードとして語られるそれらの「言葉」は、もしかしたら実際の音楽以上に色彩的な魅力を振り撒いているのかも知れません。
メシアンの正統的な後継者と自他共に認める武満徹の場合、その饒舌さは師(もちろん、アカデミズムとしての意味ではありません)の比ではありませんでした。折に触れて綴られたその美しい言葉たちは、それ自体で音楽を語り始め、時として音そのものすらも感じられるものとなっていたのです。その「言葉」は、音楽に対する的確な耳を持たないもの、禿頭の詩人や長髪のフォークシンガーなどをも魅了し、時の文化の中で声高に物を言うすべを持った彼らの「言葉」によってさらなる崇拝者を産むことになります。それは、あるいは作曲家にとっては不幸な事態かもしれなかったことを否定することは、誰にもできません。
NAXOSの日本人作曲家シリーズとしては、以前の室内楽を収めたアルバムに続く2枚目の武満徹の作品集、今回はオーケストラ曲、それも後期の作風を反映したものが主になっています。まさに、メシアンと、そしてドビュッシーの語り口と肌合いを色濃く持つに至った最晩年1994年の「精霊の庭」に見られる、ほとんど甘美なまでのテイスト、すなわち「タケミツ・トーン」を存分に味わうには、このアルバムは格好のものとなっているはずです。細心の注意を払って集められた音階とリズム、それらを夢見るようなハーモニーと音色で包み込んだこの曲を聴く人は、それがフランス人の先達の語法が彼の手によって昇華された、まさに一つの人類の遺産であると言っても過言ではないことに気づくに違いありません。
この作曲家が行き着いた世界を、この曲によって知ってしまっているオールソップであれば、それよりはるか以前、1977年に作られたアルバムタイトル曲「鳥は星形の庭に降りる」からさえも刺激的な要素を注意深く抑制して、さらに磨きのかかった響きを産み出そうとするのも当然のことでしょう。例えば、1978年に録音された小澤盤には見られなかった包み込むような暖かなテイストが、ここにはあります。かくして、1981年の「夢の時」とともに、聴き手は極上のサウンドに彩られたフルオーケストラの世界に酔いしれることになるのです。
しかし、同じアルバムの中の、1958年に作られた彼の最初のフルオーケストラのための作品「ソリチュード・ソノール」の中に、すでにこの世界観がきちんと現れていることを発見した時、聴き手は、この甘美さが決して演奏家の方向性のみによって生まれたものではなかったことを知るのです。作曲家としてスタートした時点ですでに彼の中にあった原石は、長い時間をかけて磨き上げられ、この世のものとも思えない光を放つこととなったのです。
もう1曲、ここには、彼が映画のために作った曲を弦楽合奏用の組曲に編んだものが収められています。予想もしなかったことですが、これを聴いたとたん、その他の曲とは全く異なる魅力、言ってみれば音楽の持つ生命感のようなものを痛いほど感じることが出来てしまいました。もちろん、本来観客にきちんと特定の概念を伝える目的を持った音楽だという性質もあるのでしょうが、なにかを訴えるという力に関しては数段勝るものが、その中には存在していたのです。表面的にはブルースやワルツといった誰の耳にもなじむ感触、しかし、そこからは、「庭」だ、「夢」だと多くの「言葉」によって飾り立てられた大層な曲からはついぞ味わうことの出来なかった作曲家の「叫び」のようなものが、確かに伝わってきたのです。
そういえば、彼の「うた」も、全く別の、魅力的な世界を持っていたことに気づきました。あらゆる国に於いてオーケストラのレパートリーとして完全に定着した感のある武満作品、その空虚さを突き抜けて真の訴えかけを届けてくれる演奏には、出会えることがあるのでしょうか。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-24 20:37 | 現代音楽 | Comments(0)
Il linguaggio dei fiori
 「ロッセリーニ」という人が作った「花言葉」というオペラ、知ってますか?「ロッシーニ」じゃありませんよ。そんな珍しいものを仙台オペラ協会が上演するというのですが、それのプレイベントがあったので、行ってきました。確か去年までは指揮者の末廣誠さんがご自身で解説をしながら演奏(ピアノ伴奏)するということをやっていました。「禁断」でも取り上げたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。今年からこの団体の音楽監督(芸術監督?)が別の人に代わったので、どういう形になるのだろうと思っていたら、お話はあの佐藤淳一さんがなさっていました。指揮者は、本番の星出さんではなく、副指揮の渡辺修身さんです。
c0039487_14305067.jpg
 その淳一さんが、開口一番「こんなオペラも作曲家も知りませんでした」とおっしゃっていたので、少し安心、CDにすらなっていない(1種類あるそうですが、ほとんど入手不可能だとか)曲ですから、私が知らなかったのは恥ずかしくもなんともなかったのですね。お話の内容は、淳一さんや、その場の出演者のお話でとても良く理解できました。ロルカの戯曲が原作、何ともシリアスなお話ですが、これは「ヴェリズモ」としては格好の題材ではないでしょうか。そう、初演が1963年と、時代的にはほとんど「現代」といって構わない作品ですが、その音楽はまさにプッチーニあたりから綿々と続いたそんな様式のイタリアオペラを彷彿とさせられるようなものでした。甘く美しいメロディを身上としているのは、このレンツォ・ロッセリーニという人は、イタリア映画界の巨匠ロベルト・ロッセリーニの弟で、兄のために多くの映画のスコアをものにしたということと、無関係ではないのでしょう。まさに、ニーノ・ロータや、エンニオ・モリコーネが、その映画音楽のテイストのままオペラを書いたら、こんな風になるのではという感じです。
 現実には、この2人は「クラシック」では全く別の作風を示しています。ところが、そのような「現代」作曲家に例外なく認められる建て前と本音の使い分けが、幸運なことにこのロッセリーニの場合には当てはまらなかったようです。そこからは、作曲年代からはとても信じられないような、純粋培養された「イタリアオペラ」の世界が広がっていました。そして、ほんの少しフランス風の味わいを加えたあたりが、彼のアイデンティティだったのかもしれません。
 このオペラ、数年前に新国立劇場で上演されたことがあったそうです。しかし、その時には縮小されたオーケストラが使われていました。ですから、今回はフルオーケストラでの「日本初演」ということになります。ピアノ伴奏でも十分うかがえたその甘美なサウンドは、オーケストラによってどれほどの輝きを聴かせてくれるのでしょうか。本当に楽しみです(って、まだチケットは買ってませんが)。
c0039487_1431624.jpg
 帰り道に、スーパーで見つけたのが、こんな「東北夏祭り」バージョンのプリッツです。全部のお祭りがある中の、これが「仙台七夕」編、でも、吹き流しはともかく、こんな、「纏」みたいな、人が持って練り歩くような飾りは、私は見たことがありません。おそらくこれは、多くの心ある市民が「七夕」とは認めてはいないパレードかなにかで登場するものなのでしょう。味は「ずんだ味」、これはなかなかですがね。少なくとも「うに」よりはずっとまともです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-23 22:57 | 禁断 | Comments(0)
Save the Last Dance for Me
 ちょっとした縁があって、さる女子高の合唱団の定期演奏会に行ってきました。仙台の南部にあるこの高校、昔から合唱のレベルは非常に高く、数々のコンクールで良い成績を収めているところです。そのコンクールの様子をテレビで見たことはありますが、「生」はまだ聴いたことがありませんでした。
 てっきり、会場は旭ヶ丘のコンサートホールだと思っていたのですが、チケットを見ると、何と、県民会館でやるのだというではありませんか。それも、開場前から並んでいないことには席がなくなってしまうかもしれない、などという噂も耳に入ってきます。これだけでも集客力がハンパでないことが分かります。
c0039487_14314184.jpg
 ステージを見て、その集客力の根拠が分かりました。どうです。5列にもなっていっぱいに広がり、150人近くの団員がいるのですよ。一人10枚売っても、県民会館のキャパを軽く超えてしまいます。まあ、実際には私が座った2階席などは割と空いていましたから、1000人ちょっとという感じでしょうか。
 この写真は最初に校歌を歌った時で、団員が指揮をしていますが、指揮者のK先生が振っている時でも、この歌い方は変わりません。この大人数で繰り広げられる女声合唱、確かに素晴らしいハーモニーを聴かせてくれていたのですが、どこか醒めたところがずっと気になっていました。ふと気が付くと、歌っている人たちは誰も指揮者を見ていないのですね。本当かどうかは分かりませんが、私にはそうみえました。つまり、山台が一直線に組んであって、その上のメンバーは真っ正面のお客さんに顔を向けて歌っていたのです。真ん中の人ならともかく、両サイドの人など、これでは指揮者の顔が見えないどころか、ほとんど視界にも入らないはずです。しかし、指揮者を見ていなくてもそのアンサンブルは完璧でした。おそらく日常的に「内部で合わせる」という訓練を行っているのでしょう。そして、表現も、指揮者のサインなどに頼らなくても即座に出てくるように、徹底してたたき込まれているのではないでしょうか。その結果、全ての団員がお客さんと直接コンタクトしているかのような、こんな歌い方が可能になったのでしょうね。
c0039487_1432175.jpg
 これは、ある意味とても素晴らしいことではないでしょうか。2番目のステージで3年生だけが行った演奏では、こんな風に全員が踊りながら歌うというパフォーマンスを披露してくれました(生足!)。もちろん指揮者なんかいません。何の「指揮」がなくても全員がきちんと揃って歌える素地が、この合唱団にはあるのでしょう。
 ただ、本番での指揮者とのコンタクトいかんによって、出来てくる音楽が大きく違ってしまうことを身をもって体験している私たちには、このような演奏のあり方にはちょっと懐疑的にならざるを得ません。先ほど感じた「醒めた」印象も、そんなところに由来していたのかもしれません。しかし、最後のアンコールで歌われた「ラストダンスは私に」では、そんな居心地の悪さなど全く感じられない緊密な表現が見られたではありませんか。もしかしたら、指揮者とのコンタクトは想像以上に深いものがあったのかもしれません。
 50年近くもの間、このK先生やその前のT先生などによって育て上げられたこの合唱団、しかし、現在この宝物のような団体が存亡の危機に立たされています。それは、このような女子高を(もちろん男子高も)廃止して、全て共学の高校にしてしまおうというバカな政策です。今日の会場でも、その事を訴えるプリントが配布されたり、団員や、来賓の同窓会長の挨拶の中でも、その様な意志が聞き取れる部分がありました。おそらく、今日演奏した人たちの中にこの政策を喜ぶ人など、1人も居ないのではないでしょうか。これがどんなメリットをもたらすものかは知りませんが、女声合唱という一つのかけがえのない「文化」を消し去ってしまうことだけは確実なことを、知るべきでしょう。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-22 21:30 | 禁断 | Comments(0)
Danielle de Niese
c0039487_1439354.jpg
 前回の「おやぢ」でご紹介したオペラは、本当に面白いものでした。その中で、もっとも目立っていた人が「Danielle de Niese」という名前のソプラノの人です。まだそんなにキャリアもないはずなのに、グラインドボーンで主役のクレオパトラですからね、大抜擢です。ソプラノといっても、いかにもバロックオペラに似合いそうなフットワークの軽さを持っている人、声もそんなに大きくはありませんが、細かいコロラトゥーラなどは完璧です。なによりもその芝居、というか、ほとんど踊り回りながら歌うというまるでミュージカルのような動きには完全に参ってしまいました。こんな人が出てくれば、オペラもミュージカルに肩を並べられるかな、と。
 ところが、それを原稿に書く段になって、この人の名前をどう読むのかということになりました。DVDは輸入盤ですが、一応日本語のコシマキが付いています。それによると、彼女は「ダニエル・ドゥ・ニース」となっていました。フランス語読みですね。普通でしたら、この読み方を信用してそのまま使うところなのでしょうが、実はこのDVDのレビューがすでに「レコード芸術」に載っていて、それを書いていたMさんという、イタリアオペラには極めて造詣の深い人が「ダニエレ・デ・ニエーゼ」といっているではありませんか。ドイツ語読みになるのでしょうかね。そのレビューの中でも、Mさんは彼女のことをよく知っているようですし、そもそもメーカーの解説など当てにならないということはよく知っていますから、ここはMさんを全面的に信頼するのがスジというものでしょう。そこで私はこちらを採用、ひとまず原稿を書き上げました。そのあとで「レコ芸」の広告を見たところ、このメーカーはなぜか「デ・ニエーゼ」という表記を採用していることに気づきました。製品の方に「ドゥ・ニース」と書いたあとで、そのサンプルを見て、誰かが進言したのでしょうかね。Mさんとか。
 いつものことですが、原稿を書いてすぐネットにアップするわけではありません。ある程度寝かせて、文章を推敲したり事実関係を再確認した結果、最終稿が「おやぢ」となるのです。そこで、彼女の表記が気になったものですから、それを少し調べてみることにしました。ネットでは「デ・ニエーゼ」が圧倒的に優位、というか、これしかありません。ほとんどこれで決まりだと思っていたのですが、このDVDには、エクストラ・フィーチャーが付いていることを思い出しました。その中には、彼女のインタビューというのも入っていたはずです。すっかり「デ・ニエーゼ」のファンになってしまった私は、彼女の素顔を知ろうと、そのチャプターを選択したところ、グラインドボーンにある彼女の家(シーズン中、借りているのでしょう)の前で、いきなり彼女自身がしゃべり出しました。「ハイ!アイム・ダニエル・デ・ニース」。そう。彼女は自分の名前を、その様に発音していたのです。そこで、慌てて原稿の方も直しましたよ。こうなってくると、このメーカーは恥の上塗りですね。せっかく最初はこれに近い表記をしていたのに、誰かにそそのかれたのかどうかは知りませんが、言い直したところが、実はそれは真っ赤なうそだったのですからね。
 このエクストラ、彼女がウィグを付けるところも紹介されているのですが、そこで髪の間にピンマイクを仕込んでいるところも、堂々と見せてくれていました。オペラの映像で、首の後ろに細いケーブルがみえたので「もしや」と思っていたのですが、実際にマイクとトランスミッターを付けていたのですね。それを全く当たり前のようにあっけらかんと見せてくれたデ・ニース嬢、そんな態度も「オペラ」の殻を破るものなのかもしれません。
 DVDは去年のグラインドボーンを撮ったものでしたが、今年も同じものが上演されています。他のキャストは、指揮者も含めて全て別の人に代わったというのに、デ・ニースだけは続投です。確かに、彼女がいなければこの演出は成り立たないでしょうね。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-21 20:18 | 禁断 | Comments(3)
HANDEL/Giulio Cesare in Egitto


Sarah Connolly, Angelika Kirchschlager(MS)
Danielle de Niese(Sop)
Patricia Bardon(Alt)
Rachid Ben Abdeslam, Christopher Dumaux(CT)
Christopher Maltman(Bar)
William Christie/
Orchestra of the Age of Enlightenment
OPUS ARTE/OA 0950 D(DVD)



「ジュリアス・シーザー」と言えばいいものを、「ジューリオ・チェーザレ」などとイタリア語読みで気取られてしまえば、「ヘンデルのイタリアオペラ=オペラ・セリア=長くて退屈」という一般常識の前には、とても見てみようという気になどならないことでしょう。ましてやDVD3枚組、ほとんど4時間になんなんとするものを開封するには、かなりの勇気が必要なはずです。こんな、いかにも暗~いジャケットですし。
しかし、昨年のグラインドボーンでこのオペラの演出を担当したデイヴィッド・マクヴィカーは、とても退屈などしていられない魅力満載のステージを作り上げてくれていました。時代設定はもちろんローマ時代ではありませんが、かといってガチガチの現代でもないという、ちょっと節操のないもの、しかし、そんなある意味「いい加減」なところが肩の力を抜かせるのでしょうか、くそ真面目なはずのこのオペラが見事にエンタテインメントとしての魅力を振りまいていたのです。
主人公のチェーザレが登場した時、その姿はまさに男そのものでした。「サラ」というファーストネームは女だけではなかったのかな、と思ったのも束の間、聞こえてきたのは張りのあるメゾソプラノだったではありませんか。どんなにメークを施しても女声歌手が男にみえることなどまずあり得ません。この間テレビで見た「ティート」でのカサロヴァあたりは、その最も醜悪な例でしょうか。音楽的には非の打ち所がなくても、あの「ディカプリオ崩れ」を見てしまっては興ざめもいいところです。しかし、サラ・コノリーはそんな小細工など必要ないほど、生まれながらに凛々しさを備えている「女性」でした。ヘンデルの時代のカストラートにはこのぐらいの凄さがあったのでは、と思わせられるほど、その完璧に「男」の歌手によって歌われたコロラトゥーラは、とてつもない魅力を放っていたのです。
舞台がクレオパトラの場面になると、トロメーオ(プトレマイオス)の、エキセントリックでぶっ飛んだキャラクターとともに、何ともポップな雰囲気が立ちこめます。そのクレオパトラ役の25歳の新人ダニエル・デ・ニースは、侍女2人を引き連れて、軽やかなダンスを踊りながら歌い始めたではありませんか。最近痛感される、それはまさに「歌って踊れる」オペラ歌手の姿です。この瞬間、グラインドボーンはウェストエンドに変わりました。このように、ローマ人サイドとエジプト人サイドでガラリとキャラクターを変えてしまうのが、マクヴィガーの演出プランだったのでしょう。しばらくすると家臣のニレーノも、いきなり踊り出して、聴衆の笑いを誘うことになるのです。もっとも、ここで笑いを取るのは、演出家にとっては本意ではなかったはずです。きっちり「ショー」として組み立てていたのに、それがお堅い「オペラファン」には通じなかったのですからね。
「ヘンデルって、こんなに良い曲書いたの?」と思えるほど、これでもか、これでもかと続く美しいダ・カーポ・アリアの洪水の中にも、お話は段々シリアスになって来ます。と、死んだはずのチェーザレが帰ってきたのを迎えたクレオパトラが、登場の時とよく似た感じの歌を、同じような振りで明るく歌い出しました。この頃にはもう笑い出すお客さんなどいませんし、終わればやんやの拍手喝采です。きちんと演出意図を受け止められるようになったお客さんのお陰で、ヘンデル、いや「ハンデル」は、250年後の同じ地で活躍するアンドリュー・ロイド・ウェッバーと全く変わらないヒットメーカーであったことが如実に証明されたのです。
そういえば、カーテンコールの時に劇の中で演奏されていた曲がもう1度演奏されていました。これなどはウェストエンド、そしてブロードウェイの常套手段ではないですか。もはやネットでは常識です(それは「ブロードバンド」)。
気の利いた日本語解説のお陰で、英語の字幕しかなくても物語はきちんと追いかけることが出来るはずです。実は、そんなものがなくても、画面からのエネルギーには圧倒されっぱなし、何度でも見たくなってしまいましたよ。ですから、日本語の字幕さえ入っていれば、というのはないものねだりです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-21 19:57 | オペラ | Comments(4)
Musique du XXe siècle russe pour flûte




Alexandra Grot(Fl)
Peter Laul(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMN 911918



このレーベルの「Les nouveaux musiciens」という新人紹介のシリーズ、まるでレオ・レオニの「ペツェッティーノ」みたいなデザインに変わりましたね。これは単なる偶然、自分探しの物語であるあの絵本と、これから世界に羽ばたく新人音楽家のCDとの間に共通点を見出して喜んでいるのは、このサイトだけのことです。

アレクサンドラ・グロートというロシアのフルーティスト、1981年生まれといいますからまだ25歳、別に若くして頭角をあらわす人は珍しくありませんが(あのパユさまは23歳でベルリン・フィルの首席奏者になりました)、ついに1980年代の人が活躍する時代になったのだな、という点では、感慨もひとしおです。
小さい時からピアノを習っていたグロート少女は、8歳の時にゴールウェイのコンサートでその演奏を聴いて、プルーティストになろうと思ったのだそうです。17歳の時からパリのコンセルヴァトワールでピエール・イヴ・アルトーに、さらにミュンヘンでアンドラーシュ・アドリアンに学んでいます。
20世紀ロシアのフルート音楽」というタイトルのこのアルバムでは、ストラヴィンスキー、デニソフ、シュニトケ、そしてプロコフィエフの作品が演奏されています。最も有名で、しかも内容も充実しているプロコフィエフのソナタを最後に持ってくるなど、なかなか考えられたプログラミングであることがわかります。そもそも一番最初の「ツカミ」として、ストラヴィンスキーの「鶯の歌」を、グロート自身がフルート用に編曲したものを持ってくるあたりに、並々ならぬ意欲を感じてしまいます。そして、その成果はまさに彼女の目論見通りとなりました。生命感あふれる、一本芯の通った伸びやかな高音は、たちどころに聴く人の耳をとらえることになったのです。そこからは、彼女の持つ明るくてスケールの大きな音楽が、いともストレートに伝わってきました。これは、妙にチマチマとしたところで勝負している最近の若いフルーティストとは一線を画した、まさに、彼女がこの道を選ぶきっかけとなった巨匠ゴールウェイにも通じようかという、広がりのある世界の見える音楽だったのです。
デニソフの「ソナタ」は、良くあるコンサートピースのように、ゆったりとした部分の後に技巧的な早い部分が続くという構成の曲です。ここでの、特に前半の安定感のあるフレーズの作り方はどうでしょう。高音から低音までムラのない美しい響き、そして、演奏者の都合によって作り出されることの多い変なクセのある歌い方が皆無という、自然になじむ肌触りは、実にすんなりと心の中に入り込んできます。
シュニトケの「古代様式による組曲」は、いかにもこの作曲家らしいシニカルな曲です。昔からの舞曲を再現したかのように見えるシンプルなメロディに秘めたアイロニーを、彼女は絶妙のスタンスで表現しています。
そして、プロコフィエフの「ソナタ」です。並の演奏家では技巧に隠れてしまってなかなか出すことの出来ない開放感を、彼女はその豊かな音と適切なフレーズ感で、余すところなく伝えてくれています。2楽章などはまるで曲芸のような演奏が多い中、しっかり腰の据わった堅実なフォルムを見せています。この楽章でこれほどしっかりした様式を感じられたのは、もしかしたら彼女が初めてだったかも知れないほど、その知的なアプローチは印象的です。ただ、3楽章ではもう少し「深み」のある表現を求めても良いのかも知れません。もちろん、彼女はほとんどそこまで手が届いているのでは、という感触を得られるほどのものもそこには潜んでいます。それは、圧倒的な冴えを見せる4楽章を聴いているうちには、ほとんど忘れてしまえるほどの些細なキズなのですから。
彼女の美しく強靱な音の背後からは、有り余るほど豊かな「音楽」の息吹を聴き取ることが出来ます。その勢いは、現在トップクラスといわれて多くのCDを出しているフルーティストなど、はるかに凌ぐものであるとさえ思える程です。楽しみな新人が出てきました。
ピアノのラウルも、とてもセンスの良いサポートを見せてくれています。この人、ジャケ写をみて、女の子だと思ってしまいました。もちろんお婆さんになったりはしませんが(それは「ハウル」)。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-19 20:10 | フルート | Comments(0)