おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem und der Tod in Musik und Wort

M. Persson-Ovenden(Sop), K. Hammarström(MS)
Will Hartmann(Ten), Franz-Josef Selig(Bas)
Gregorianische Choralschola
Manfred Honeck/
Symphonieorchester und Chor des Schwedischen Rudfunks
QUERSTAND/VKJK0615



とても手のかかった、素晴らしいアルバムです。お仕着せのレパートリーばかりを演奏するのではなく、ひと味違った工夫を、非常に深い次元で加えた時に、そこではその曲が本来持っていた以上の魅力を発することになるということをまざまざと見せつけてくれた、ホーネックのアイディアには脱帽です。録音されたのは2001年の11月なのですが、なぜか今頃のリリース、結果的には、「モーツァルト・イヤー」の、最も豊かな成果となりました。
タイトルには「モーツァルトのレクイエム」とありますが、それだけではなく、そのあとに「そして、音楽と言葉の中の『死』」と続いていることにご注目下さい。ここで演奏されているのは「レクイエム」の中でもモーツァルトが実際にスケッチまで作っていた曲だけ、そこに全く別な要素を組み合わせることによって、下手な補筆など及びもつかないような豊かな世界が広がることを、誰しもが感じることでしょう。
まるで、日本の梵鐘のような鐘の音で、アルバムが始まります。これはライブ録音ではなく、ホールでのセッション、この鐘の音だけは別のところで録音したのでしょう。そして、まずグレゴリオ聖歌のレクイエムが歌われます。モーツァルトの合唱とは別の、グレゴリオ専門の合唱団ですが、これが、まずとても透明な音色で惹き付けられます。そのあとに続くのが、なんと手紙の朗読、マルティン・シュヴァープという俳優さんが読み上げるのは、モーツァルトが1787年の4月4日に父親にあてた手紙です。病床にあった父親への、これが最後の手紙となるのですが、その中でモーツァルトは「この人間の真実で最上の友人ととても仲良しになってしまったので、死の姿を少しも恐ろしいとは思いません」と、「死」について語っているのです。そして、「フリーメーソンの葬送音楽」(ジャケットのケッヘル番号が間違っています)などが演奏された後、初めてあの「レクイエム」が聞こえてくる、という流れになっているのです。暑い時にはこれ(それは「流しソーメン」)。
ここまでのお膳立てが整えられて、「Introitus」を聴けば、ホーネックがここで何を表現しようとしたかは自ずと明らかになります。前奏のバセットホルンとファゴットの紡ぎ出す音楽の、なんと深みのあることでしょう。そう、ここで「死」というものに真摯に向かい合おうとする指揮者の姿勢は、この音楽をとてつもなく陰影あふれるものに仕上げることに成功したのです。
このような強い意志で導かれた時、「名門」スエーデン放送合唱団は、まさに最高の力を発揮して、その思いに応えてくれました。「Kyrie」の二重フーガにこれほどの翳りを与え、細やかな襞を見せつけてくれた演奏を、他に知りません。ソリストたちも、ソプラノのパーソンはじめ、この合唱の澄みきった響きに良く溶け込んだ、それでいて存在感のあるものを届けてくれています。
例えば「Dies irae」のような激しい部分をとってみても、その中には力で押し切ろうとする姿勢は微塵も感じられません。細部まで磨き上げられた極上の響きが、自ずと訴えかけるものを呼び出しているのでしょう。こういうものを、真に美しいと、私たちは感じるのかも知れません。
未完の「Lacrimosa」は、最初は「Sequenz」の最後に、ジュスマイヤーが補筆した形で歌われます。そして、「Offertorium」を経た後、実際に作られた「断片」だけの形で歌われ、「レクイエム」が終わります。一瞬の沈黙の後、同じ年に作られた彼の最後のモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が、まるで息絶えたモーツァルトを優しく天上へ導くかのように、しっとりと歌われます。いや、この異常に遅い足の運びは、彼の「死」を、作曲者が言うような「友人」としては受け入れることの出来ない私たちの、ためらいの現れなのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-31 20:15 | 合唱 | Comments(0)
BRUCKNER/Symphonie d-moll "Nullte"




下野竜也/
大阪フィルハーモニー交響楽団
AVEX/AVCL-25099



ブルックナーの交響曲には「1番」の前に「0番」というものがあって、さらにその前には「00番」というものがあるということになっています。確かに、ヘ短調の交響曲「00番」は、いかにも今までの作曲家の姿が見え隠れする「習作」という感じは拭えませんから、あえて番号を外した、というのは間違ったことではないでしょう。しかし、「0番」というのは、実は「1番」を作ったあとに作られたもので、実際は「2番」に相当するもの、もうこれは間違いなくブルックナー自身の要素がぎっしり詰まった立派な交響曲です。しかし、ここがいかにもブルックナーらしいのですが、せっかく作ったこの曲を他の人にけなされたからといって、「これは『無価値』な交響曲だ」ということで、葬り去ってしまおうとするのです。ドイツ語で「ヌルテNullte」と言えば、もちろん「0番」という意味もあるのですが、ですから、この場合は「無価値」という別の意味をこの言葉に持たせて、作曲者自らが「命名」したということになるのです。これからは、このニ短調の曲のことを「交響曲第0番」ではなく、「無価値交響曲」と呼ぶことにしませんか?交響曲史上まれに見る、この救いようのない程ネガティブな「愛称」、いかにもブルックナー然とした、素敵なネーミングなのではないでしょうか。あるいは、一度ボツになったものをそのまま使い回して、大もうけしようという魂胆だったとか(それは、「ヌルテに粟」)。
確かに、そんな出自のせいでもないのでしょうが、この曲は演奏される機会は極端に少ないものになっているのは、否定できない事実です。私でさえ、きちんと聴くのはこれが初めてと言うぐらいの珍しさなのですから。しかし、そんなレアな曲を、下野竜也さんの演奏で最初に聴けたことは、なんと幸せだったのかと思わずにはいられないほど、このCDは素敵な体験を与えてくれました。それは、一度聴いただけで、初めて聴いたこの曲の魅力が存分に伝わってきたという、希有な出会いだったのです。
例のブザンソンの指揮者コンクールに優勝して以来、内外で大活躍の下野さんですが、この秋からは読売日本交響楽団の正指揮者という立派なポストに就くことが決まっていて、ますます目が離せない存在となっているのは、皆さんご存じの通りでしょう。すでに2枚ほど出ているCDも聴きましたし、実際にコンサートに行ったことがあるだけでなく、「指揮をして頂いた」こともあるという貴重な「下野体験」まで持っているのですが、そんな体験を通じて感じた下野さんの魅力は、「見晴らしの良さ」です。彼が作り上げる音楽では、今演奏されているものの中で、何が重要なポイントであるのかがはっきり分かり、それがその次の段階にどのような働きを持っているのか、ということが、なんの迷いもなく伝わってくるのです。
この曲の第1楽章で、その特質が遺憾なく発揮されることになります。はっきり言ってとらえどころのない多くのテーマが、下野さんの手にかかると、それぞれがしっかりとキャラクターを主張してくれるようになるのです。それは、最初にこういう演奏を聴いていれば、作曲者があれほど落ち込むような批評は出ては来なかったのでは、とさえ思えるほどのものでした。
第2楽章では、ゆったりとしたテーマをことさら甘く歌い上げないのが、かえって素敵です。特にいじくり回さなくても、自然とわき上がってくる情緒を大切にしているのでしょう。お陰で、一番最後、もう終わったかと思った時に現れる本当に静かな佇まいが、とてもいとおしく感じられます。
第3楽章のトリオでも、そんな自然な美しさが味わえます。そして、フィナーレともなれば、荒々しいブルックナー節が出てくるのはお約束ですが、そこからほんのちょっと距離を置いているあたりが、下野さんの下野さんらしさでしょうか。
大阪フィルとのブルックナー、朝比奈翁の手垢の付いていない別の版の演奏などがこれから出てくるといいですね。4番の第1稿などを下野さんが振れば、きっと素晴らしいものが出来そうな気がします。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-30 00:07 | オーケストラ | Comments(0)
WAGNER/Der fliegende Holländer


Hermann Uhde(Bar)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Chor & Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBT2 1384



先日「世界初のステレオ録音」などと大騒ぎ、果てはヴァイナル盤まで発売されることとなった「ヴァルキューレ」と同じ、1955年のバイロイトでのDECCAのステレオ録音です。ただ、こちらの方は別に「幻の録音」というようなことはなく、きちんとLPが発売になっていました。とは言っても、その時のレーベルが「DECCA」ではなく「ECLIPSE」であったことから、当時のこの録音の扱いがうかがえます。今でこそ過剰なまでの持ち上げ方をされていますが、発売時には正規の新譜としてではなく、廉価版としてリリースされていたのですからね。
「指環」より1ヶ月後の録音、さすがにツボも心得てきているようで、バランスなどははるかに自然なものを聴くことが出来ます。何と言っても、バイロイトのピットの「穴蔵」感が見事に再現されているのが素敵です。ここで聴くことが出来るまるで地の底から響いてくるようなティンパニの深い音と、その音場は、後の1971年に同じ場所でDGによって行われた同じ曲の録音(指揮はベーム)をはるかにしのぐクオリティを持っているほどです。
使われている楽譜はこの時代の慣用版ですから、「ゼンタのバラード」はト短調、「救済のモチーフ」付きという普通のバージョン。幕間もなく、全曲が切れ目無く演奏されていますが、そのいわゆる「第1幕」で、オランダ人のウーデが登場すると、そのあまりのだらしなさに一瞬たじろいでしまいます。なんというアバウトな音程とリズムなのでしょう。有名なモノローグでのピカルディ終止、1回目は低すぎますし2回目は高すぎ、ここが聴かせどころなのに、やはりこのあたりがライブの宿命なのでしょうか。
しかし「第2幕」はいろいろな意味で聞きものです。ヴァルナイの「バラード」でのとてつもないたっぷりとした歌い方にまず驚かされますが、そんな重々しいテンポでも全くバテることなく、軽々とこの難曲を歌い上げているのはさすがです。ここはまさにヴァルナイの独壇場、同じ旋律が、次第に女声合唱の割合が多くなっていくという構成ですが、彼女のパワーに圧倒されて、最後に合唱だけになった時のなんと情けないこと。この部分に代表されるように、この「幕」全体が、この演奏では異様に重苦しい空気に支配されています。先ほどのウーデが加わると、「暗さ」にかけてはは負けていないこの歌手によって、重々しさはさらに募ることになります。これはひとえに、指揮者の責任でしょう。全ての音符、全てのフレーズに力を入れずにはおかれないこの重厚な(鈍重な、とも言う)指揮者カイルベルトによって、いかにもドイツ的な融通の利かない世界が広がることになりました。真夏に「懐炉ベルト」ですって。なんと暑苦しい。
本来、この場面はオランダ人とダーラントという全く別の種類の人間が醸し出す別々の世界が同居している部分。ダーラントは、言ってみれば現世の俗っぽさの代表ということで、少し軽くやってほしい所なのですが、その「ダーラントさんチーム」までが一緒になって重苦しがっているのですから、いかにもダサい音楽になってしまいます。
同じようなパターンが、「第3幕」のノルウェー船とオランダ船とのやりとりの合唱。これも、元気さだけが取り柄の「ノルウェーさんチーム」といかにも不気味な「オランダさんチーム」の対比が面白い所なのに、両方とも同じようなハイテンションで迫ってくるのでは、いささか疲れてしまいます。
ここで、「もっと力を抜けばいいのに」と感じるのは、現代人の感覚でしょうか。現代ではもっと「賢い」演奏が主流となっていますから、その様な細やかな対比を強調するのが当たり前だと思われています。しかし、現実にこれだけの鈍重さを信念を持って推し進める人がいた時代が確かにあったことを、この素晴らしい録音は知らしめてくれているのです。これこそが、「記録」としての重み、ヴァーグナーの演奏史を語る上で欠くことの出来ない「資料」が、またひとつ手に入りました。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-27 20:21 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Siegfried










Wolfgang Windgassen(Ten)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBTLP 0111(LP)



「おやぢの部屋」始まって以来の、LPのレビューです。今や音楽ソフトはCDの時代からSACD、そしてネット配信と「進歩」の一途をたどっていますから、そもそも「LPの新譜」などあり得ない、とお思いでしょう。私もそう思っていました。ところが、ここにきて、いきなりLP19枚組の「指環」が新譜としてリリースされたというのです。レーベルを見てお気づきのことでしょうが、それはここでも一部ご紹介した1955年のバイロイトのライブ録音、DECCAが世界で初めてステレオ録音を行ったあの「指環」全曲です。もちろんこれはCDで初めて世に出たものなのですが、そのあまりのクオリティの高さに、いっそのこと、録音の時に想定していたフォーマットであるLPの形でリリースしてしまおうと、このメーカーは考えたのです。
全世界で限定1000セット、それぞれにシリアルナンバーが打たれているという、マニアにはたまらないものですが、このセットは分売なしの一括販売、値段も9万円という、「指環1曲」としてはべらぼうな価格設定となっています。いくら優れた秘密の工場(ここが明らかになると、注文が殺到するので、メーカーはその在処を知らせないのだとか)で作られたとはいえ、その製品の品質の保証は、聴いてみるまでは分かりません。そんなものに「9万円」というのは、ちょっと勇気のいること、そこで、メーカーが用意したのが、このテスト盤です。5枚組の「ジークフリート」の最後の面だけを(つまり片面)プレスしたというものです。これを聴いて大丈夫だと思ったら、全曲を注文してくれ、ということなのでしょう。
全くの真っ白なレーベルに、真っ白なジャケット、そのジャケットに貼り付けられた宛名シールのようなものに印刷されている曲名が、このLPに関する全ての情報という、まさに「テスト盤」(でも、2000円もします)、しかし、袋から中身を取り出して手に持ってみると、その重さはかなりのものがあります。その昔慣れ親しんでいたものとは明らかに異なる、それは文字通り「重量感」でした。この時点で、このLPがいかに手間を掛けて作られたものであるかがうかがえます。そして、しばらく使っていなかった、しかし、いつでも最高のコンディションで再生できるように調整してあったレコードプレイヤーにこのLPをセットし、針をおろした瞬間、想像もしなかったことが起こりました。そこからは、かつてさんざん悩まされたLP特有のサーフェスノイズが、全く聞こえてはこなかったのです。少し前にフルトヴェングラーのミント盤から板起こししたというCDをご紹介した時に、最初から派手なスクラッチノイズが聞こえてきた時には、そんな大騒ぎするほど条件の良いものでもこんな状態なのだから、これがLPの宿命だと、再確認したものでした。しかし、このLPから聞こえてきたものは、CDと比較しても遜色のない静寂さ、しばらくして、普通はそのサーフェスノイズに隠れてしまうテープヒスまでが聞こえてきたのですから、驚いてしまいました。LPというフォーマットは、本気になって追求すれば、ここまでクオリティの高いものを作ることが出来るのですね。
肝心の音ですが、ここから聞こえてきたヴィントガッセンの若々しい歌声の再生は、CDではかなり高級な装置を使わなければ難しいのでは、と思わせられるほど滑らかなものでした。もちろん、ヴァルナイの張りのある声も完璧にその細部まで聞こえてきます。皮肉なことに、CDで気になったオーケストラの粗さが、ますます強調されて聞こえてきたのは、それだけ、このフォーマットが元の音を忠実に伝えているということの証でしょうか。ヴァルナイが歌う例の「ジークフリート牧歌」でも使われたテーマのソロの前の弦楽器の、なんとお粗末なことでしょう。
ただ、LPの最大の欠点であった「内周歪み」が、やはりこの素晴らしいプレスでも解消できていなかったのは、仕方がないことでしょう。かなり余裕を持ってカッティングされてはいるのですが、それでもカートリッジが内周に行くに従い、特にボーカルでの歪みが多くなり、生々しさが薄まっていくのが分かってしまいます。そして、それよりも重大なのが、経年変化です。まるで廃人のようになるというあれですね(それは「定年変化」)。そうではなく、添加剤などがしみ出して、音が悪くなるという現象です。新品の時にこれだけのものを聴かせてくれたものが、しばらく経ってどう変わるのか、それを確かめるのも、楽しみなような、怖いような。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-25 23:18 | オペラ | Comments(0)
「風をみる」


小原孝(Pf)
森ミドリ(Cel)
岩渕秀俊・末光眞希/
東北大学男声OB合唱団・Chor青葉
PRIVATE/AOBA-003



普通でしたら、ここでアマチュアの、ほとんど内輪だけの演奏会のライブ録音など取り上げることはないのですが、この2枚組のCD、そのあまりのクオリティの高さはまさに「商品」の域に達していると判断して、あえて「おやぢ」の仲間に入れさせて頂きました。
この合唱団は、仙台市にある大学の男声合唱団のOBの集まりなのですが、本来の男声合唱の他に、学生時代に仲間として交流のあった他の大学の女声合唱団のOGや、もろもろのつながりで集まった女性を加えて、「Chor青葉」という混声合唱団を結成しました。仙台は、若葉の季節でもまだまだ寒いですからね(それは、「凍る青葉」)。その、男声、混声という2つの形態を持つ合唱団としての演奏会を、東京オペラシティのコンサートホールで毎年開催して、今回がその3回目となります。回を重ねるごとにユニークなゲストが加わるようになり、前回に引き続きピアニストの小原孝さんとの共演のステージが一つの目玉ともなっています。今回は、さらに作曲家の森ミドリさんと、絵本作家の安野光雅さん(なんと、作詞家デビュー)が加わり、そのユニークさはさらに際立つようになりました。
全部で4つのステージで構成されている演奏会、最初の3つのステージは男声合唱や混声合唱の古典ともいうべき、ベタな選曲で迫ります。
最初は100人から成る男声による、多田武彦の「雪明かりの路」。出だしの「ふんわりと」というト長調の響きが聞こえてきた時、その厚みのある音にはちょっと驚いてしまいました。このときの録音機材についてはこちらでご紹介していましたが、そのショップスのワンポイント、DSDによる録音は、木材を多用したこのホールの美しい響きをたっぷり取り込み、とても自然で、しかもしっかりとそれぞれのパートの密度が感じられるとても素晴らしいものだったのです。これこそがまさにプロの仕事、いたずらに残響や高域を強調したそれこそ「商品」として販売されているあまたの合唱CDなどとは比較にならない高水準の仕上がりになっています。
次のステージでは、200人の混声にピアノが加わって、髙田三郎の「心の四季」。そのピアノの音のなんとみずみずしいことでしょう。こんな大人数の合唱にも埋もれることなく、その輝かしいタッチは伝わってきます。もちろん、合唱も混濁など一切見られない、とても爽やかな音です。
1枚目のCDの最後は、三木稔の「阿波」、もちろん、無伴奏の男声です。各パート間のポリフォニーが、この見事な録音で際立って聞こえてきます。あるいは、あまり録音が良すぎて、「本当はこういう音なのかも知れない」などという邪推が混じってしまうのは、致し方のないことかもしれません。
最後のステージは、アンコールも含めてCD1枚1時間という長丁場です。もし、これを聴かれる機会がある時には、ジャケットの曲目を見ないで鑑賞されることをお薦めします。そうすれば、意外な組み合わせの曲同士が、小原さんのピアノと絡みついて特別なサプライズを産み出しているのが分かるはずです。この演奏会のテーマが、タイトルにあるような「風をみる」。そして、このステージこそ、そんな「風」に託して様々な思いを込めた数々の「うた」の集まりが、とてつもない力となって迫ってくるものであることを、誰しも感じることでしょう。それを可能にしたのが、何十年経っても合唱の持つ力を信じ続けている人たちと、それを最大限に発揮できるように準備をした卓越した指導力を持つスタッフです。「世界初演」となった合唱曲を提供した森・安野という「作家チーム」の力も忘れることは出来ません。ステージ写真からは想像も出来ないような若々しい声の中からは、確かに合唱の持つ限りない可能性を追求する迷いのない「心」が伝わってきます。
全く保証は出来ませんが、このCDを聴いてみたいと思われた方は、こちらから連絡を取れば、運が良ければ入手できるかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-23 20:37 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Piano Sonatas Vol.1




Robert Levin(Fp)
DHM/82876 84236 2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCD-38168/69(国内盤)


ロバート・レヴィンというと、どうしても、モーツァルトの研究で有名なあの音楽学者としての姿がイメージとして迫ってきてしまいます。古くは、「偽作」とされている管楽器のための協奏交響曲(K297B)を、コンピュータを用いて復元したという仕事がちょっと話題になりましたし(現在では、この版を用いて演奏する人はまず見かけませんが)、有名な所では「レクイエム」の「レヴィン版」が、ほとんどジュスマイヤー版に次ぐスタンダードとして認知されています。最近では「ハ短調大ミサ」をフル・ミサの形に復元したものも発表されていますね。
もちろん、レヴィンといえばオリジナル楽器の世界で、鍵盤楽器奏者として大活躍している姿の方が、世に認められているもののはずです。決して医療や介護の世界で認められているものではありません(それは「シビン」)。バッハの協奏曲(HÄNSSLER)、ベートーヴェンの協奏曲(ARCHIV)、そしてモーツァルトの協奏曲(OISEAU LYRE)を、オリジナル楽器で演奏した録音は、それぞれ高い評価を得たものばかりです。
そんなレヴィンが、今回モーツァルトのピアノソナタの録音に着手しました。もちろん、使っている楽器はモーツァルト自身が愛用したというヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノのコピーです。
このCDのパッケージには、通常のCDの他に、ボーナスDVDが入っています。それは、この録音が行われたマサチューセッツ州ウースターにある「メカニクス・ホール」という、非常に美しい残響を持つホールでの録音セッションの合間に、レヴィン自身が楽器のこと、作曲者のこと、そして作品のことを語ったという極めて興味深いものです。特に、彼が演奏しているフォルテピアノのことを語る時には、異常なほどの熱気が伴っているのが良く分かります。そこでは「現代」の楽器、D型スタインウェイを横に置いて、その構造、音の違いを分からせてくれているのです。それをもっと徹底させるために、アクションを丸ごと抜き出して、その二つを並べて見せてくれたりしています。そこまでやられては、この楽器がいかに現代のものとは異なっているかが、はっきり理解できることでしょう。そんなことを情熱たっぷりに語る彼の姿からは「学者」というよりは、モーツァルトが好きで好きでたまらない熱狂的なファン、といった面持ちが感じられてしまいます。彼の演奏、そして、楽譜の校訂や復元は、まさにモーツァルトに対する「愛」の証、そんな思いがヒシヒシと伝わってきます。
ここで演奏されているのは、K279,280,281(ちなみに、輸入盤には、「K6」の表記は全く見当たりません。それが世界の潮流なのでしょうか)という、いわゆる「1、2、3番」のソナタです。どの曲もとても生き生きとした息吹が感じられるものに仕上がっています。それは、型にはまった演奏ではなく、楽譜には現れていないようなちょっとした「タメ」とかルバートを施したことによるのはもちろんですが、何と言っても大きな要因はオリジナリティあふれる装飾です。どの曲にも前半と後半をそれぞれ繰り返して演奏するという指示がありますが(K281の最後だけが、ちょっと違います)、その繰り返しの時に、彼はとても表情豊かな装飾を施してくれているのです。両端の早い楽章ではそれほど目立ちませんが、それでもK280の後半、再現部が始まる前にアインガンクが入った時には、ちょっとゾクッとなってしまいましたよ。これだけで、音楽がとても立体的に感じられるようになるのですからね。その装飾が最大限に発揮されているのが、もちろん真ん中のゆっくりした楽章です。ほんと、1回目のメロディが2回目ではどんな風に変わって弾かれるのかという期待に胸をふくらませながら聴くというのは、とても幸福な体験でした。思いがけないところで、考えてもみなかったような素敵な装飾に出会えた時など、思わず「参りました」という気になってしまいます。中でも同じK280が聴きものです。フェルマータは、繰り返しの時にはアインガンクがはいるという「お約束」があるのですが、ここでの最後のフェルマータなどは、ほとんど「カデンツァ」といっても差し支えないほどの壮大なものでした。
DVDの中でも述べられていましたが、この楽器は現代のような均質な音色ではなく、音域によってそれぞれ特徴的な音がします。おそらくモーツァルト自身もそれを考慮に入れて曲を作ったはずだとレヴィンは語っています。そんなシュタイン・フォルテピアノの低音部は、「ビョン・ビョン」という、とっても「現代的」な共鳴がするのが特徴です。これを聴いて、かつてのR&Bシーンでの花形キーボード、あのスティービー・ワンダーが「迷信」の中で使っていた「クラヴィネット」(言ってみれば、エレキ・クラヴィコード)の音を連想してしまいました。この音だったら、踊れるかも。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-21 20:07 | ピアノ | Comments(0)
Blowin' in the Wind
 3月に行われた東京の演奏会、私にとってはフルのコンサートとしては何十年ぶりかの合唱の本番でした。あれから半年近く経って、やっとその演奏会のDVDが手元に届きました。愚妻あたりは、もうちょっと前にテスト盤を見る機会があったのですが、その日はちょうどニューフィルの定期の前の日だったので、私は練習に行っていて見ることは出来ませんでした。もうほとんどコンサートの余韻もなくなってしまっていましたから、まるで別の人の演奏を見るような感じで、そのDVDを見ることが出来ましたよ。
 もちろん、一番のチェックポイントは、そこで歌っていた私自身の姿です。私が最近もっぱら見ているのは、オーケストラの中でフルートを吹いている姿、ですから、大勢の他の人たちと全く同じことをやっている「合唱」という姿は、何だか凄く新鮮に感じられます。久しく味わうことのなかった「トゥッティ」の魅力ですね。ただ、そんな中にも、私のへそ曲がりな一面はしっかり現れているのですから、笑えます。前にも書きましたが、2曲目の男声合唱の曲で、他の人はみんな楽譜を持っているのに、私だけが持っていなかったのです。そもそも、この演奏会は「全曲暗譜」という至上命令があったのでその気になって暗譜をしたのですが、当日になって「やっぱり持とう」ということになってしまったのですね。ところが、その連絡がきちんと伝わらなかったので、楽譜を持たないでステージ裏に行ったら、みんなが持ってきていたので焦ってしまったというのが、真相です。結果、私だけが異様に目立ってしまうことになってしまいました。
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 そんな個人的な感傷を捨てて、お客さんの立場になってこの演奏会を鑑賞してみると、これはとても素晴らしいものだったことが分かります。当日、2階席にカメラがあったのは確認できていましたが、実際には5台も使っていたのですね。そのスイッチングを行うために、スタッフに演奏した曲の楽譜を渡していたという話も後に聞きました。そうして出来上がった映像は、まるで放送局が作ったもののようなクオリティの高いものに仕上がっていました。ソリストなどもきちんと歌い出すタイミングでアップにしているのですから、これは綿密にカット割りを考えた結果であることが分かります。そして、そんな完璧な映像に、この合唱団は見事に応えた演奏をしていたのです。歌っていた時には多くの傷があったことを感じていましたが、こうして感パケになってみると、そんなものは全く気にはなりません。その代わり迫ってくるのが、全員の力が一体となって訴えかけてくる「音楽」です。もちろん、それぞれの曲での肌合いの相違はありますが、なにかしら伝わってくるものを、まさにストレートに感じることが出来るのです。
 中でも、最後のオリジナルステージの持つユニークさと完成度の高さは、今さらながら強烈なインパクトを伴って迫ってきます。私たちが現役の学生の時だったら絶対になし得ないような、それは「大人」として広い視野に立った、まさに「感動的」なものでした。
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 来年も、さらにユニークさを増した形での演奏会の準備が進んでいます。このDVD以上の「感動」を、また作り出せるかもしれないと思うと、今からワクワクしているところです。安野光雅さんの作詞による新曲も披露されるはず、その時は、ちゃんと階段を用意して、すんなり歩いてステージに登れるようにしておきましょう。
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 ゲストの森ミドリさんと小原孝さんに抱えられてステージに登る安野さん
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by jurassic_oyaji | 2006-08-20 21:05 | 禁断 | Comments(0)
WAXMAN/Joshua

Maximilian Schell(Nar)
Rod Gilfry(Bar), Ann Hallenberg(MS)
James Sedares/
Prague Philharmonia
Prague Philharmonic Choir
DG/00289 477 5724



ユダヤ人であるためにナチに追われて、ヨーロッパからアメリカに居を移し、ハリウッドで映画音楽の大家として名声を獲得したのが、フランツ・ワックスマンです。彼はハリウッド時代には154本もの映画のためのスコアを書き、その内の12本がアカデミー賞にノミネートされています。そして1950年の「サンセット大通り」(ビリー・ワイルダー監督)と1951年の「陽のあたる場所」(ジョージ・スティーヴンス監督)で2年連続オスカーを獲得するという、ハリウッドの作曲家としては誰も成し遂げなかった偉業を達成するのです(そして、その栄誉は現在も彼だけのものです)。彼のほとんど唯一の「クラシック」の作品として広く知られているのが、ヴァイオリンのための「カルメン幻想曲」でしょうか。この曲も、実は1947年の「ユーモレスク」という映画のサントラとして作られたものなのです(演奏していたのはアイザック・スターン)。
この曲がハイフェッツやコーガンによって録音され、コンサートでも取り上げられるようになると、彼も本腰を入れて「クラシック」の曲も作るようになります。例のDECCAの「退廃音楽」シリーズでも取り上げられた「テレジンの歌」(1964/65)などが、その代表でしょう。そして今回、1959年に初演され、1961年に再演されたきり、完全な形では演奏されたことのなかった「ソリスト、ナレーター、混声合唱とオーケストラのための劇的オラトリオ『ヨシュア』」という作品が、初めて録音されました。もう彼のことを「映画音楽だけの作曲家」と呼ぶのはよすわ
旧約聖書の「ヨシュア記」に題材を求めたジェームズ・フォーサイスの英語によるテキストは、ナレーターの案内によってモーゼの死から、その遺志を継いでイスラエルの民を導いたヨシュアの死までを描いています。前半の山場が黒人霊歌でお馴染みの「エリコ(ジェリコ)の戦い」。この霊歌の原題は「Joshua fit de Battle of Jericho」ですから、確かにヨシュアの名前が歌詞に登場していましたね。そのエリコの砦に忍び込んだヨシュアのスパイをかくまったラハブを、最後のシーンでも登場させているのが、物語としての構成上の工夫でしょうか。しかし、昨今の中東情勢を見るにつけ、このような一方的な史観に基づく物語には、複雑な思いも伴います。
音楽は、まさに映画のためのスコアの延長と言っても差し支えないものです。あくまで分かりやすい情景描写と心理描写が、職人的なオーケストレーションを伴って繰り広げられていきます。要所要所に「かっこいい」部分を持ってくるのは、「さすが」と思わせられる手口です。例えば、始まってすぐに出てくるヨシュアの「当惑のアリア」などに、そんな「ツカミ」のうまさが光ります。イントロの金管のかっこいいこと。その他の「アリア」も、あくまで物語の流れを断ち切らないクールさが素敵です。「第1部」の最後で見られるポリフォニックな処理あたりが、ことさら「クラシック」を意識した、力の込められた部分でしょうか。しかし、結果的に「オラトリオ」とは言っても、まるでミュージカルのような雰囲気が存分に味わえるのは、この曲が「英語」によって歌われているからだけではないはずです。曲の終わり、ヨシュアの死を受けた音楽の最後のコードの余韻がいかにも感動的。これは、作曲者の妻の急死がこの曲が作られたモチベーションだったことの反映なのでしょうか。
歌手では、ラハブを演じたアン・ハレンベルクが出色、ドラマティックな声とスタティックな声を使い分けて、魅力を放っています。しかし、肝心のモーゼ、ヨシュア役のロッド・ギルフリーが、あまりにも一本調子なのは残念です。このビブラート過多の歌い方は、「ミュージカル」には似合いません。
合唱とオーケストラは、経費の関係でしょうか、チェコの団体が使われています。オーケストラは、派手な響きはないもののそこそこスペクタクルな味は出しているのですが、合唱があまりにもお粗末です。このような曲に必要な「はじけた」センスが全く欠如したテンションの低い演奏、先ほどのポリフォニックな部分など、悲惨そのものでした。ハリウッドとは言わなくても、せめてロンドンあたりで録音してくれていれば、もっと聴き映えのするものになっていたことでしょうに。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-19 23:09 | 合唱 | Comments(0)
STRAUSS/An Alpine Symphony




Antoni Wit/
Staatskapelle Weimar
NAXOS/8.557811



歴史をさかのぼれば、その創設は1491年のことになるという、あの「世界最古」のオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデン(1548年創設)よりも先に生まれたオーケストラが、ここで演奏しているシュターツカペレ・ワイマールです。ただ、いくら歴史では勝っていても、このオーケストラがドレスデンをうわまーるほどの名声を博しているとは、決して言えないのが現実です。少なくとも、録音の世界では全く「無名」と言っても差し支えないでしょう。ARTE NOVAからフルトヴェングラーの交響曲全集を出しているのを見たことがあるぐらい、私が実際の音を耳にしたのは今回が初めてです。
しかし、聴いてみるとこれがなかなかいい音を出しているではありませんか。特に金管楽器の力強さには驚かされます。木管も、非常に良く溶け合った素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれていますし、なによりも弦楽器が、とことん豊かな音で主張してくれるのを忘れていません。最近発売になった超有名なオーストリアのオーケストラ某フィルと、同じく超有名なオーストリアの指揮者某クールのチケットを血眼になって探し回るより、全くの無名でも素晴らしいものが味わえるこういうものを聴いた方がどれだけ実のある体験が得られることでしょう。
実は、このCDには、今まで大編成の曲を聴いて裏切られることの無かったポーランドの指揮者ヴィットの名前があったので、つい手が伸びてしまいました。ペンデレツキやメシアンであれだけ颯爽としたものを聴かせてくれたヴィットが、シュトラウスではどんな演奏を聴かせてくれるのかという点に、非常に興味があったのです。
ここでも、彼のスマートな音楽の作り方は、その冴えを存分に見せていました。彼の最大の特質は、非常に整った形で音楽を進めていくことなのではないでしょうか。そこからは、先の読める、見晴らしの良い風景が広がります。彼はこの曲を、とことん「描写音楽」と捉え、徹底的にスペクタクルなものに仕上げるために、余計なものをそぎ落として、ひたすら「描写」という目的に向かって邁進しているように見えます。ですから、シュトラウスのスコアの中に、「サロメ」の淫靡さや、「薔薇の騎士」の芳醇さが込められている部分があったとしても、そんな「匂い」を嗅ぐためにいちいち立ち止まっているよりは、それらの前を潔く通り過ぎてしまうという道を、彼は選んだに違いありません。彼が作り出そうとしたものは、たとえば、いにしえのカール・ベームが「同時代人」として慈しんだシュトラウスとは全く異なる、21世紀にも通用する「アルプス」の姿だったのですから。
そこまできちんとした設計がなされた時、このオーケストラは見事にその指揮者の要求に応えた、エッジのきいた音楽を作り出してくれました。もちろん、その最大の成果は「嵐」の場面でしょう。まさに、ハリウッドの映画音楽さながらの目の覚めるような風景が眼前に広がっているさまからは、後期ロマン派の香りを現代まで引きずっていた作曲家の姿は決して見えては来ません。それは、まさに「映画音楽」として別の道を歩むようになった「ツァラ」の後ろ姿を見る思いに通じるものなのでしょう。
今回聴いてみて、はたと気が付いたのですが、山頂付近で聞こえてくる「ソ・ミー、ソ・レー、ソ・ドー(移動ド)」というフレーズは、ブルッフのヴァイオリン協奏曲の第2楽章のテーマそのものなのですね。もちろん、ブルッフの曲はシュトラウスが2歳の時の作品ですから、真似をしたのはシュトラウスの方です。もう一つ、高い音のEsクラリネットから始まって、ファゴットの低音までつながるという印象的なフレーズ(このオーケストラは、こういう難所で、異なる楽器をさりげなくつなげるのがとても上手)は、ブルックナーの5番に出てきましたね。別にそれがどうしたと言うことではないのですが、その他にもヴァーグナーの引用などがことさら目立って聞こえてきたのは、もしかしたら、この演奏ではシュトラウス本人の匂いが、それだけ薄まっていたせいだったからなのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-17 19:32 | オーケストラ | Comments(2)
Carmen de Sole




Matti Hyökki/
YL Male Voice Choir
ONDINE/ODE 1045-2



CDを店頭で買うということが殆どなくなって久しい今日この頃、「通販」にもなかなか奥深いところがあるのが分かってきました。ポイントは火加減ですね(それは「チャーハン」)。このCDも今年の初めごろインフォを見つけて注文したのですが、一向に入ってくる気配がありませんでした。この手のものは一度機会を逃すと入手できないものが多いので、もうすっかりあきらめていたところ、半年以上も経って突然「入りました」という連絡が届いたのです。待っていれば、いつか報われる日は来るものなのだという真理をかみしめているところです。ただ、実際に手にしてみると、これは2004年にリリースされたものですから、もはや「新譜」とは言い難いのですが、入荷に半年ではなく2年かかったと思って、大目に見て下さいな。
YL」というのは、フィンランド語で「学生合唱団」をあらわす言葉の略語だそうです。この場合は、1883年にヘルシンキ大学で創設された男声合唱団のことを指します。古い歴史を持つ、文字通り世界を代表する男声合唱団として、よく知られています。この合唱団は、積極的に同時代の作曲家に曲を委嘱して、それをレパートリーとしてきました。ここに録音されているものも、1曲を除いて全てこの録音が「初録音」となる「新曲」のオンパレードという、かなり贅沢な内容になっています。
以前「タッラ」というフィンランドの男声アンサンブルを取り上げたことがありますが、このメンバーがこの合唱団のOB、というか、この録音でも一緒に参加していますから、あの印象的な「ソプラニスタ」、パシ・ヒョッキの声も聴くことが出来ます。ですから、ここには「男声合唱」と言われてつい連想しがちな重々しい響きは皆無、スカッと抜けるような明るいサウンドで、現在主流になっているのかもしれない軽めの「男声」を堪能できるはずです。その典型が、もはやフィンランドを代表する合唱作曲家と言ってもいい、ヤーッコ・マンテュヤルヴィの「いかめしく冷たい葬送のワルツ」。サティの「ジムノペディ」を思わせられるような、しゃれた曲です。意識して女声に近いパートを用いているのでしょうか、「男声」にありがちな閉塞的なサウンドとは無縁な開放的な響きが楽しめます。もちろん、曲自体もタイトルとは裏腹に、この作曲家の持ち味のエンタテインメントに満ちたものです。
聴く前から楽しみだったのが、湯浅譲二の「新作」です。「Four Seasons from Basho's Haiku」というタイトル、もちろん「芭蕉の俳句」が元ネタだと、我々には分かります。四季折々の芭蕉の句を、日本語のオリジナルと、その英訳のテキストを並行して聴かせるというものです。日本語は、まるで声明のようなモノフォニー、それに対して英語ではテンションコードを多用したホモフォニーという分かりやすさです。もしかしたら、日本語の単旋律は、ヨーロッパの人にはグレゴリオ聖歌のように聞こえるのかも知れませんね。演奏しているフィンランド人には感じられないかも知れない、そのテキストと音楽のキャラクターの関連が、我々にはきちんと理解できるという、これは湯浅が仕掛けた巧妙な冗談なのかも知れません。ブックレットのテキストも派手に間違えてますし。
もう一つ、かなりウケたのは、セッポ・ポホヨラといういかにもフィンランドらしい名前の作曲家の「シューベルトへのオマージュ」という曲です。シューベルトの有名なリートをコラージュに仕立てたもの、「水車小屋の娘」から始まって、「菩提樹」まで、ヒットチューンの断片が単純なパルスの中から顔を出すという仕掛けです。作曲者は「これはジョークではない」と言いきっていますが、そんなコメントも含めて難易度の高い冗談として味わえるものになっています。


そもそも、このCDのパッケージそのものが、冗談に満ちたもの、ジャケットにはスタジアムの椅子のようなものが写っていますが、そのシートナンバーが全くデタラメになるように「細工」されていますし、そのスタジアムの遠景でしょうか、インレイのこの写真は、気づかないかも知れませんがパターンの繰り返しになっています。
ブックレットを翻訳したのが、かつてはそれを職業にしていたマンテュヤルヴィだというのも、もしかしたら冗談なのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-15 20:22 | 合唱 | Comments(0)