おやぢの部屋2
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BS fan
 この前「おやぢ」に書いたグラインドボーンの「ジューリア・チェーザレ」、BSのハイビジョンで放送していましたね。いつも言ってますが、このように受信装置さえあれば誰でも無料で見る事が出来るものを、DVDというパッケージで「買う」というのは、どうも釈然としません。しかも、この曲の場合、DVDには無かった日本語の字幕が放送では付いているのですからね。もちろん映像はハイビジョン。その方式に対応したテレビさえあれば、DVDなど比較にならない解像度の高い画面を楽しむ事が出来るというものです。全く、どれをとっても良い事ずくめ、DVDにはとても勝ち目がないように思えてしまいます。
 私も、すでにDVDは買ってしまっていたのですが、日本語字幕の魅力に惹かれて、録画をしておきました。それと、字幕以外にも確認したい事もありましたし。それは、やはりあのDVDを聴いたときに書いた、ソプラノ歌手の事です。クレオパトラを演じた若いソプラノの名前を日本語で表記するときにどのようにするのかという問題、私の中ではすでに解答は出てはいたのですが、それを天下のNHKがどのように扱うかに、興味があったのです。ご存じのように、この放送局は外国人の表記に関してはとても一般には通用しないような奇妙なものを、頑なに使い続けるという事を今までずっとやってきていました。さすがに、最近では「アバド」と言うようになりましたが、それまでは誰が何と言っても「アッバード」でしたからね。このソプラノでも、毎月発行されている番組案内誌には「ダニエレ・デ・ニエーゼ」という、今となっては誰もが間違った表記である事を知っているものが堂々と掲載されていたのですから、「やっぱり」と思ってしまったわけです。ですから、それを放送の中で実際に確かめたかったのです。
 ところが、その、DVDには入っていない、日本語だけのクレジットが流れ始めたとき、私は驚いてしまいました。そのソプラノの名前が「ダニエル・デ・ニース」となっていたではありませんか。これには感激です。雑誌発表の時点では明らかに「デ・ニエーゼ」だったものが、どういう理由によるのかは分かりませんが、放送時には「デ・ニース」と、きちんと訂正されていたのですからね。担当者が、たまたまDVDのエクストラを見て間違いに気が付いたのかもしれませんね。しかし、私あたりは、このサイトを見て訂正した可能性もないわけではないのでは、と、我田引水の推測をして楽しんでいるところです。
 そんなところで満足してしまいましたから、あとは一度見たものですので適当に聴き流していたのですが、しばらくしてなんだか様子がおかしいのに気づきました。音声と映像が少しずれているのです。正確には音声が少し遅れていて、口を開けてちょっと立ってから歌が聞こえるという状態、ほんのわずかなズレですが、それはとても気になるものでした。というか、DVDを見ていたときにはそんな事は全く気づきもしませんでしたよ。そこでもう一度DVDを見直してみると、それは完璧にシンクロされたもの、気づかなくて当然です。実は、こういう事はこういう外国の放送局から送られてきたものを放送するときには少なからず起こっていたのは、ずっと前から気づいていました。そして、それが、音声と映像が全く別のルートで(片方は海底ケーブルで、片方は通信衛星とか)送られてくるために、避けられないものである事も知っていました。しかし、楽器の演奏ならともかく、オペラでのこのタイムラグは、我慢の出来ない程見苦しいもの、それに気づいてからは、とても続けて見る気にはなれませんでしたよ。
 これが、「放送」の実体なのでしょうか。きちんとシンクロしたものを見たかったら、商品としてのDVDを買えと。もちろん、わざとそんな事をやっているなんて思ったりはしませんがね。しかし、大画面でこの「口パク」を見たら、さぞ間抜けなことでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-30 20:54 | 禁断 | Comments(0)
STRAUSS/Lieder




Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901879



ヨナス・カウフマンというテノールを初めて見たのは、BSで放送された「ティートの慈悲」ででした。チューリヒのオペラハウスのライブ映像、ちょっと変わった演出で、ネクタイを締めたり、軍服を着たりと、「現代」風にアレンジされているものでしたが、そこでタイトル・ロールを歌っていたのが、カウフマンだったのです。そういう演出ですから、カツラや大げさなメークもない「素」の顔で登場したカウフマンは、オペラのテノールにはあるまじきスリムな体型と端正な顔つきを披露してくれていました。それはまるで、ハリウッド・スターのヒュー・ジャックマン(例えば、メグ・ライアンと共演した「ニューヨークの恋人」とか、最近では「X-MEN」シリーズでお馴染み)のような、甘さと凛々しさを併せ持つ、とても魅力的なマスクでした。しかし、そんな外観をしのぐほど、本当に魅力的だったのは、その声です。基本的にはリリック・テノールなのでしょうが、そんな声の人にありがちな弱々しさが全く感じられない、突き抜けるような力強さまでが備わったものだったのです。おそらく、普通に考えればモーツァルトの、このティートとか、タミーノやドン・オッターヴィオにはちょっと「強すぎる」キャラクターなのかも知れませんが、それだからこそなにか特別な魅力を感じてしまいました。
というのも、このような役に対する一つの理想のテノールの姿は、ほとんどいにしえのペーター・シュライヤーで固定されてしまっていました。それに比べると、シャーデやボストリッジといった最近の人には、一つ芯の通った力強さが欠けているように思えてなりませんでした。もはやモーツァルト・テノールに対する世の嗜好はそういう甘ったるいものに変わってしまったのだな、と思い始めていた矢先の、このカウフマンとの出会いです。しかも、そこには、シュライアーさえも持ち得なかった決然とした力までもが備わっているではありませんか。なんでも、彼は「パルジファル」までレパートリーに入っているとか。ヘルデンっぽいリリック、もしかしたらこれは、モーツァルトには理想的とも言えるテノールの形(あくまで個人的な好みですが)なのかも知れないと思わせられるだけのものが、彼が歌うティートの中にはあったのです。
そんなジャックマン(あ、彼はミュージカル・アクターでもあったのですね)、ではなくてカウフマンの初のソロアルバムは、なんとリヒャルト・シュトラウスの歌曲集でした。モーツァルトもヴァーグナーも歌える歌手によるシュトラウス、確かに、これは鋭いところを突いてきています。そして、思った通り、それは見事な成果を上げたものでした。シュトラウスの歌曲といえば、まず女声で歌われるものと相場が決まっていますが、どうしてどうして、彼によって女声にはない新鮮な表現が味わえるのは、とても幸福な体験でした。最初に聞こえてきた「献呈」から、その迷いのないストレートな声には圧倒されてしまいます。それだけではなく、ちょっと力を抜いて柔らかく歌うところの、なんと魅力的なことでしょう。決して大げさな身振りではない等身大の心情の吐露が、そこには見られます。いわば、邪心のない若者の自信と、それとは裏腹な揺れ動く迷いの心のようなものが、彼の歌の中には感じられるのではないでしょうか。ピアノ伴奏のドイッチュも、そんなナイーブな心に突き刺さるような踏み込んだタッチで、音楽を深みのあるものにしてくれています。最後の「悪い天気」なども、ちょっとひねくれたワルツに乗って歌われるシュールな歌詞を、さりげなく表現していて素敵です。
ただ、ほんのちょっとした細かい不満が、録音に対してないわけではありません。カウフマンの声も、そしてピアノも、なにか作り物のような乾いた感じがあって、お互いに「音」として溶け合っていないのです。さらに、フォルテになると声が恐ろしくきついものになってしまいます。これは、録音が行われたベルリンのテルデック・スタジオのせいではないはず、明らかにエンジニアのセンスの問題でしょう。もっとたっぷりとした音場で録音された、モーツァルトのアリア集などを、ぜひ聴いてみたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-29 19:16 | 歌曲 | Comments(0)
Blue Rondo a la Turk
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 「ブラスト」、行ってきました。正確には、「ブラスト2なんたらミックス」というもの、今までは金管しか入っていなかったものが、今回は木管も入っているのだとか。去年、その本家「ブラスト」が来たときには、発売日に買いに行ってもすでに売り切れていたという苦い経験がありましたから、今年こそはと朝一で買いに行ったものです。しかし、何だかいつまでも売れ残っている感じ、今日も当日券が売られているみたいですし、もはや「ブラスト」熱は冷めたのでしょうか。あるいは「2」だから敬遠されたとか。
 しかし、前もってビデオで見ていたので、ある程度の予想はしてはいたのですが、その「ショー」としての完成度は驚くべきものがありました。なにしろ、開演前の陰アナからしてひねりがきいています。「携帯電話を使用中のお客さんを見つけたら、毛むくじゃらのお兄さんが連れ出しますのでご了承下さい」とかね。実は、これはショーの中身の伏線にもなっていたのですから、念が入ってます。それと、休憩時間と終演後にロビーでなにやらパフォーマンスがあるような事を言っていましたが、それも、「体力に自身のない方は、近づかないで下さい」などと、すごく気になる言い方をするじゃないですか。これでは、ぜひとも休憩時間には真っ先にロビーに出たくなってしまいますよ。
 その「ショー」ですが、普段ミュージカルなどを見慣れていても「凄い」と思わざるを得ないようなものでしたよ。あちらは歌って踊れればいいのですが(それでも十分大変です)、ここでは楽器を演奏しなければいけないのですからね。「春の祭典」をブラスの編曲で演奏する事がどれほど大変な事を知っている私は、その上に一人一人のミュージシャンが完璧なダンスを披露しているのを見て、思わず脱帽するのでした(この曲の頭のリリコーンは、ちょっとお粗末でしたが)。
 私の楽器、フルートも大活躍でしたね。オープニングの次にいきなりフルートアンサンブルで、小気味よい変拍子の曲を演奏したときには、聴き慣れた金管の響きとはちょっと違和感があった気がしたのですが、おそらくここあたりが「2」としての新機軸だったのでしょう。リーダー格の黒人プレーヤーは、ちょっと雑ですが(無理はありませんが)確かなテクニックで、その後にたびたび出てくるしっとりとした場面でも聴かせてくれていました。しかもこの方、フルートでの出番がないときには、チューバも吹いていたのですから驚きです。
 休憩時間には、パフォーマンスが行われるコーナーの前は、すぐ人でいっぱいになってしまいました。係員が必死で「床に座って下さい」とかがなり立てています。しばらくして出てきたのは金管五重奏+ドラムスという編成、MCとして、楽器は吹かないけれど、バトントワリングで思い切り目立っていた日本人のメンバーも参加しています。そこで、間近に楽器を見ると、やはりピンマイクとトランスミッターがくっついています。床の上のマイクでこれだけ拾えるはずはないと思っていましたが、これなら納得です。ただ、フルートは、楽器には何も付けていないように見えました。これは、一番最後、メンバーが全員観客席を通り抜けていくときにたまたま彼がすぐそばを通ったので、首の横にマイクがあるのが分かりました。これでは、遠くからでは見えません。
 そのエンディングは、トロンボーンがソロで気持ちよさそうに吹いていると、客席で携帯の着信音がする、というネタでした。あれだけ「電源を切れ」とやかましく言ってたのは、これだったのですね。本物の携帯が鳴ってしまったのでは、しゃれになりません。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-28 22:48 | 禁断 | Comments(0)
PAGANINI, SPOHR/Violin Concertos

Hilary Hahn(Vn)
大植英次/
Swedish Radio Orchestra
DG/00289 477 6232
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1333(国内盤 1025日発売予定)


ジャケットのハーン、いつもながらおっかない顔をして写っていますが、でも、何だかずいぶん「丸み」のようなものが出てきたような感じがしませんか?
このアルバムでは、これだけではなく、彼女の写真があちこちに載っていますが例えばブックレットの裏表紙のものは髪を下ろして、ちょっとサンドラ・ブロックのように見えないこともありません(これって、褒めてることにならない?)。そして、インレイには横顔のアングルでちょっと寂しげな表情のものがあるのですが、それが「音楽を忘れるなーっ!」の「あおいちゃん」そっくり。「純情ひらり」ですね。
そんな、ちょっとソフトなイメージが感じられるようになった彼女が、パガニーニです。ちょっと前までは、こんな、ロマンティシズム満載の、言ってみれば「陳腐」な曲を彼女が手がけること自体、あり得ないと思えたものですが、いえいえ、ここではその外見同様、なにか包容力さえ感じられる素晴らしい演奏を聴かせてくれていますよ。
なにしろ、超絶技巧満載の曲ですから、思い切り速いテンポでバリバリ弾きまくるのだろうという予想を見事に裏切って、彼女は実にしっとりとしたテンポで弾き始めましたよ。これだと、パガニーニが書いたどんな難しいパッセージでも、その中にはことごとく美しい「歌」が潜んでいることが判ります。その様な、ある意味クレバーさをこの曲に与えたのは、指揮者の大植英次の手腕も大きく貢献しているはずです。ハーンの意図を完璧に汲みとったそのサポートぶりには敬服させられます。実はこの1番の協奏曲、最初から最後まで(ゆっくりした第2楽章ですら)シンバルと大太鼓という、一歩間違えると何ともノーテンキなたたずまいを醸し出しかねない打楽器が、盛大に盛り上げています。それで、もちろん、まるで運動会の行進曲のような楽しい演奏になっているものも数多く聴いてきたものなのですが、彼女たちの演奏にはそんな浮ついた雰囲気は全く感じられませんでした。お祭り騒ぎではない、単にビートをキープするというクールさが、その打楽器の扱いにはあったのです。
第2楽章あたりでは、ハーンは意識的に過剰な歌い方を避けているかのように見えます。ことさらベタベタ手を加えなくても、音楽自体の持つ甘さをそのまま味わってもらおうという姿勢でしょうか。そして、それを演出したのも大植です。この楽章の導入での臭すぎるほどの表情付けが、それに続くハーンの冷静なソロを見事に際立たせています。
第3楽章の軽やかなロンドのテーマ、それを彼女は、タイトなリズム帯に乗って小粋に歌い上げてくれます。それと共に、時たま顔を出すフラジオレットによるフレーズのなんとチャーミングなことでしょう。
カップリングのシュポアの協奏曲第8番は、「協奏曲」というほどの重さはない連続した3つの部分から成る曲です。ブリリアントな趣味の「コンチェルティーノ」といった感じでしょうか。第1楽章はほとんど「序奏」という程度のものですが、ここでもパガニーニ同様いかにも大時代的な大げさな身振りは見られない、ソロがオーケストラの間を軽やかに泳ぎ回るといったさりげなさが素敵です。そして、味わい深いのが、第2楽章。大植の絶妙のドライブで、つかず離れずの距離を保ったオーケストラの上を、ハーンのヴァイオリンはあくまで淡々と流れていきます。素晴らしいのは、まるでささやくようなピアニシモ。あたかも耳たぶにそっと息を吹きかけられたような、そのセクシーさはたまりません。この楽章の中間部で、突然いかにもロマン派っぽい一陣の風が吹きすさぶような場面が現れます。ここでの、うってかわって毅然としたハーンの姿も、また魅力的なのは、言うまでもありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-27 19:43 | ヴァイオリン | Comments(0)
Maestro
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 篠田節子の原作による「マエストロ」というドラマを、WOWOWの2時間枠でやっていました。コアな篠田ファンだったら、もしかしたらこのタイトルにはあまり馴染みがないかも知れません。それもそのはず、もともと1992年に出版されたときには「変身」というタイトルだったからです。それを大幅に書き直して、昨年文庫本として刊行されたときに、タイトルも「マエストロ」と変わったのだとか。クラシック音楽を扱ったものでは、二ノ宮知子など足元にも及ばないリアリティを表現することが出来る彼女のことですから、そのドラマとなれば大いに楽しみになるのは当然です。
 原作はどちらも読んだことはありませんから、それがドラマになったときにどれだけ削られ、あるいは付け加えられたのかは知りようがありませんが、明らかに沢山の要素を詰め込みすぎて消化不良を起こしているのでは、という感じはありました。2時間で完結させるためにはもう少し刈り込んだ方が良かったのでしょう。ただ、とにかく魅力的なエピソードがたくさんあって、どれを削るべきかといわれれば、私でも判断はつかないはずです。
 主役のヴァイオリニストは観月ありさ、これはどうにもならないことですが、やはり「右手」は見るからにシロート、ピアノあたりですと一生懸命練習すればある程度はサマになりますが、こればっかりはどうしようもありません。ですから、そういう点に関してのリアリティは、最初から放棄して臨まざるを得ません。しかし、例えばかつてのライバルと一緒に演奏しているシーンでは、それぞれのキャラクターの違いが、誰にでも分かるほどの分かりやすさで弾き分けられていたのはさすが。
 という程度の、まずまずの「考証」に基づいたドラマ、物語としては多少無理がなくはありませんが、偽ヴァイオリンをつかまされたあとの迫力は見物でしたね。このネタは、明らかにあの有名な○野氏の実話に基づいているのでしょう。もはや大昔の話ですから、今となってはスキャンダルがらみの生々しさはすっかりなくなったという、作者の判断なのでしょうか。
 一番楽しめたのは、やはりヴァイオリンの修復の話でした。それと、イタリアのオールドだと思って素晴らしい音に夢中になっていたのに、それが日本人の最近の作品だと分かったときのヴァイオリニストのリアクション。これこそが、この世界の「リアリティ」を最もあらわしているエピソードではなかったでしょうかね。物語としては、最後のシーンが最も重要なものになるはずだったのでしょうが、そこがあまりにも雑な作りになっていたのが、残念でした。
 この主人公のヴァイオリニスト、一度もコンクールで優勝していなかったことを、大きなコンプレックスとして抱えています。修業時代にコンクールで良い成績を修めるというのは、演奏家としてのハクを付けるためには欠くべからざることだというのも、また「リアリティ」です。
 ところで、いつもお馴染み、末廣誠さんの「ストリング」のエッセイの今回のテーマが「コンクール」でした。その中で末廣さんが書かれていることには頷くことばっかりでしたよ。合唱やブラスのコンクールについても言及しているのですが、一番ウケたのは「なんで大人になってもコンクールに出るのだ」というところ。高校生あたりが一つの精進の目標として評価してもらうために出るのは判るけれど、「一般」でそれはないだろうということです。コンクールというのは、キャリアを築くための段階に過ぎないわけで、それ自体を目的にしてしまうのはおかしいというのは、言われてみれば当たり前のことですね。幸い、私が今までに所属していた合唱団は、そんなものとは全く無縁、演奏会だけが目標でした。もちろん、今いるオーケストラでも、誰も「コンクールに出よう」なんて言いません。そもそも、そんなものは存在していませんし。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-25 21:18 | 禁断 | Comments(0)
WAGNER/Der Ring





Hansjörg Albrecht(Org)
OEHMS/OC 612(hybrid SACD)



北ドイツ、シュレスヴィヒ・ホルスタイン州の州都キールにある聖ニコライ教会の大聖堂には、3段鍵盤、リュック・ポジティーフも備えた大オルガンと、その反対側に、小振りながら19世紀フランスの名工カヴァイエ・コルが制作したクワイア・オルガンが設置されています。フランスの楽器がなぜドイツに?とお思いでしょうが、このオルガンは元々はパリで作られ、後にフランス北部の町トゥルコアンの教会に移設されたものなのです。しかし、1995年にはもう使われなくなって倉庫に仕舞い込まれることになってしまいます。それが、2003年から2004年にかけて修復され、このキールの教会に設置されたのです。その際に、もとからあった大オルガンと同時に操作できるように、電動アクションによる演奏台も付け加えられました。もちろん、この歴史的な名器の手動アクションを生かすために、それは簡単に取り外しがきくようになっています。
その、ドイツオルガンとフランスオルガンという2台の楽器を同時に演奏して、ヴァーグナーの「リング」の世界を再現しようと考えたのが、オルガニストのハンスイェルク・アルブレヒトと、レコーディング・エンジニアのマーティン・フィッシャーという人でした。もちろん、実際に演奏するのはアルブレヒトだけ、フィッシャーの方は録音でその手腕を発揮する、といった、演奏に関しては「あぶれる人」(前にも使ったな)に徹したコラボレーションが展開されています。ただ、その「録音」がただ者ではなく、ポップミュージックの世界で日常的に使われている「多重録音」、つまり「オーバーダビング」の手法を積極的に使って、厚みのあるサウンドを作り上げることを試みているのです。さらに、フィッシャーが重視したのが、「サラウンド」による音場設計です。SACDのマルチチャンネルレイヤーのフォーマットをフルに活用した音作りが、ここではなされることになります。「5.1サラウンド」対応のシステムで聴けば、大オルガンとクワイア・オルガンとのちょうど真ん中に座っているような体験が味わえることでしょう。
このアルバムは、「ラインの黄金」の前奏曲、つまり「リング」全体のオープニングから始まります。その最初の低音のまさに「オルゲル・プンクト」が、ペダルによって奏されるのですから、これほどオルガンにふさわしい場面もありません。そこに、ホルンが入ってくる感じは、なかなかのもの、これこそオーバーダビングの勝利でしょう。つまり、普通にリアルタイムで録音した場合の障害となるストップの切り替えなどが、ここでは全く感じられないほどスムーズに聞こえてくるのです。「ヴァルキューレの騎行」では、そのメリットが最大限に発揮されています。トリルのテーマがまるで周囲を取り囲むように現れるのは、まさにサラウンドの醍醐味でしょうし、必要な声部を残らず演奏するのも、オーバーダビングなくしては出来なかったことに違いありません。しかし、ここで、そんな迫力いっぱいの音たちの中から、ひときわ力強く聞こえてきてほしい金管のフレーズに、全く精彩がないのはどうしたことでしょう。これは、おそらくパイプオルガンの宿命とも言うべきアタックの不明瞭さに起因しているのではないでしょうか。音の立ち上がりが鈍いことが、これほどのデメリットになっていたとは。
ですから、その様な迫力いっぱいのシーンよりは、「ジークフリート」の「森のささやき」のような繊細な部分の方が、より実りのある成果を上げていたのは、ちょっと皮肉なことです。このシーンでの幾重にも積み上げられた木の葉の描写のデリケートさには、特筆すべきものがあります。そして、森の小鳥の声が、おそらくカヴァイエ・コルの小さなオルガンによって演奏されているのでしょう、その繊細な音色は、このアルバムの中で最も美しいものでした。
最後は、「リング」の本当の最後、「神々の黄昏」のエンディング、「ブリュンヒルデの別れ」です。ここでも、最後の変ホ長調の和音がディミヌエンドしていく模様は、絶対に普通のオルガンの録音では出来ないこと、エンジニア、フィッシャーのこだわりは、ここで花開きました。同時に、「リング」を「最初から最後まで」1枚のアルバムに収録することにも、成功したのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-24 19:35 | オルガン | Comments(0)
My Magic Flute

James Galway(Fl, Cond)
Catrin Finch(Hp)
Jeanne Galway(Fl)
Sinfonia Varsovia
DG/00289 477 6233
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1340(国内盤)


今年、67歳を迎えるゴールウェイ、DGに移籍後の3枚目、というか、実質的には2枚目となるアルバムは、期待通りモーツァルトにちなんだものとなりました。メインは、公式には6度目の録音となる「フルートとハープのための協奏曲」、その他にはなにやら編曲ものが並んでいます。まあ、「お祭り」ですから、こんなラインナップもあり、きっと楽しいものに仕上がっている事でしょう。
ぐらいのノリで聴きはじめた人は、後半に入っている「The Magic Flutes」という曲で、全く予想もしないサプライズに出会う事になってしまうのです。このタイトル、もちろん彼が最後に完成したオペラ「魔笛」のことですが、楽器が複数形になっている事で、そこではゴールウェイと奥さんのジーニーとの共演が行われているのが分かります。デイヴィッド・オーヴァートンという人がこの2人とオーケストラのために編曲したもの、しかし、それはそのオペラの単なるトランスクリプションなどでは決してありませんでした。ここで繰り広げられているのは、モーツァルトの作品から自由にそのテーマを持ってきてつなげたという、いわゆる「ポプリ」と呼ばれるものだったのです。いや、正確には、そのようなジャンルともさらに距離をおかなければならないような、ほとんど「ごちゃ混ぜ」に近い編曲だったのです。
全部で3つの「楽章」に分かれているこの曲、最初にはその「魔笛」序曲の3つのアコードから始まります。そして、そのあとに続くのがまあ想定内の選曲、そのオペラでのタミーノの「絵姿」アリアです。しかし、その朗々たるメロディが途中からこのアルバムにも収録されているピアノ協奏曲第21番の第2楽章のテーマに変わるあたりから、その編曲の正体が明らかになってきます。それは、最も分かり易い実例では、あのP・D・Qバッハと非常に近いテイストを持つ、どこか一箇所留め金が外れたような、ぶっ飛んだったものだったのです。もちろん、そういうものが大好きな私は狂喜に打ち震える事になるのでした。この曲は、まるで今のモーツァルトブームをあざ笑うかのように、「こんな曲、知ってるか?」といった感じでとことんマニアックなテーマを次から次へと出してくるのです。もし全部言い当てられたら賞金1000万円、みたいな、言ってみればこれは超難易度の「クイズ」ですよ。交響曲40番がいつのまにか41番になっていたかと思うと、次の瞬間には39番、などという仕掛けだってありますよ。
「第2楽章」は3拍子、お馴染み、ト長調のフルート協奏曲のフィナーレで始まるのですが、そこにニ長調の協奏曲のアウフタクトだけ1拍入るという、うっかりしてたら聞き逃してしまうようなものもあります。それから、これはP・D・Qバッハの常套手段、絶対いっしょには演奏できっこない曲を無理やり同時に聞かせるというテクニックも満載です。そのフルート協奏曲と「アイネクライネ」とかね。
最後の楽章は、クラリネット協奏曲がフィーチャーされています。これは、もしかしたらオリジナル以上に煌びやかなものを、彼の演奏から味わうことが出来るはずです。そして、最後までついて回るのが、タイトルにこだわった「魔笛」からの引用、それが、例えば「フィガロ」のナンバーあたりと渾然一体となっている様は、壮観です。一見ハチャメチャなこの編曲、というか再構築、もしモーツァルト自身が手がけたら、きっとこんなものになっていたのではなどという楽しい想像を膨らますには十分なものがあります。
これ1曲で、このアルバムは存分に楽しむ事が出来ました。メインの協奏曲を聴いて、オーケストラやハープとの様式上の齟齬に戸惑ったり、もしかしたらゴールウェイさえも寄る年波には勝てなくなる事もあるのかな、などという思いがよぎった事も、すっかり忘れさせてくれるものが、そごにはありました。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-22 22:45 | フルート | Comments(0)
DURUFLÉ/Requiem


David Briggs(Org)
Adrian Lucas/
The Combined Choirs of Gloucester,
 Hereford and Worcester
GRIFFIN/GCCD 4023



デュリュフレのレクイエムには目がないものですから、入手できる限りのCDを聴いて、こちらにそれぞれ短いコメントを自分の言葉で掲載しています。特に今でも簡単に手に入るBISのグレイドン盤については、「素直な発声、均質な音色、正確なハーモニー、正しい音程、合唱の 質感をとらえた録音。どれをとっても素晴らしく、安心して身をまかせられる」と、普段の辛口ぶりからはとても想像できないような持ち上げ方を披露していますよ。それだけ素晴らしい演奏だったということ、本当に心を打たれるものに対しては、賛辞は惜しみません。
もちろん、これだけのリストを作ってしまったのですから、この曲のリリース情報には気を使っているつもりです。ただ、新譜に関してはほぼもれなくご紹介できるように務めてはいるのですが、マイナーなレーベルではついこぼれてしまうこともあります。これもそんな一例。別の曲を探していて偶然カタログから発見したものです。ただ、1999年6月の録音ですから、いざ取り寄せようとしてもすでに手近なところでは在庫はなくなっています。ダメモトでお店に注文を出して、しかし、数ヶ月後には入手できたのですから、なんとラッキー。
これは、イギリスのグロスター、ウースター、そしてヘリフォードという3つの大聖堂の聖歌隊が一緒になって演奏したものです。この3つの町、すぐ近くなのに空路で集まったのでしょうか(それは「ヘリポート」)。総勢60人近く、かなりの大人数です。そして、単なる「合同演奏」という次元を超えた、集まることによってさらに高いものを求める姿勢によって、素晴らしいものが出来上がっています。
この曲を少年がトレブルを歌っている聖歌隊で演奏しているものは数多く世に出ていますが、なかなか満足のいくものには出会えません。この曲のソプラノパートに要求されるものは、単に澄みきった音ではなくもう少し細かい表現力が伴ったもの、そのあたりで、やはり少年だけというのでは物足りない部分が出てきてしまうのでしょう。結局、先ほどのグレイドン盤のような成人女声によるものに頼らざるを得ないと。しかし、ここで3つの聖歌隊が合体した結果、このトレブルパートは、驚くほどの「力」を持つようになりました。そして、それはまさにこの曲にこそふさわしい力強さだったのです。例えば「Sanctus」でのクライマックス、「In excelsis」という部分での輝きはどうでしょう。これこそが、この曲が求めていたダイナミックレンジの理想的な再現なのでは、と思えるほどのエネルギーが、そこにはありました。
もう1点、驚かされたのが「Pie Jesu」です。もちろん、これは本来はメゾソプラノの独唱のための曲なのですが、これをトレブルパートがユニゾンで歌っているのです。ロバート・ショーのように、ソプラノパート全員で歌わせた例も今までになくはないのですが、それはパートソロにする必然性が全く感じられない、なにか中途半端な印象が拭えないものでした。しかし、これは違います。前半のしっとりした味は、トレブルならではの澄みきったもの、そして後半、音が高くなって盛り上がる部分では、少年合唱にはあるまじき、真に訴えかける濃厚な表現が出来ているのです。実際、これは凡庸なメゾ歌手など及びもつかない、殆ど涙を誘うほどの素晴らしいものでした。
In Paradisum」あたりは、そんな力強さが災いしたのか、やや繊細さに欠けてしまっているのが残念ですが、それでも十分な水準を保ったものであることは、間違いはありません。単にリストを充実させるだけのために入手したものが、これほどの素晴らしさを持っていたなんて、世の中、侮れません。
ちなみに、この曲が初演されたのは1947年のことですが、その時に指揮をしたのが、ロジェ・デゾルミエールだと、このCDのライナーノーツには書いてあります。以前「ウィキペディア」で調べたときに、このときの指揮者が「ポール・パレー」だとあったので、それを信じていたのですが、どうやらそれは間違いだったようですね。こういうものを鵜呑みにしてはいけません。念のため、他のライナーを全てチェックしてみましたが、「デゾルミエール」はあったものの、「パレー」は全く見つかりませんでした。こちらでは「パレー説」をとっているようですが。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-20 19:33 | 合唱 | Comments(2)
One
 きのうは、劇団四季の「コーラス・ライン」の千秋楽でした。今回は全国をまわる公演、それこそ1回しかやらないようなところもあるので、そういうところは初日=千秋楽ということで、お客さんは2度楽しめるのですが、仙台では11日の連続公演、その両方を味わおうと思ったら、2回行かなければなりません。というわけで、初日に続いてこの日もやってきました。
 普通、千秋楽というと大入り袋とか出るのですが、そういったものは何もありませんでした。やはり今回は「ロングラン」という感覚ではないのでしょうか。しかし、この日は、仙台の最後の日というだけでなく、全国公演の最後の日なのですから、なにかはあっても良いな、と思ったのですが。
 初日の時は3階席、時間ギリギリに飛び込んだので、PAなどは見ている暇がありませんでした。そこで、まず後ろにあるPAブースをのぞきに行きます。しかし、地方公演仕様でしょうか、コンソールなどは椅子の上に乗せてあるだけで、ことさらブースのようなものは設けられてはいませんでした。割とシンプルな、必要最小限のものしかありません。ただ、そのコンソールの脇の椅子の前に、マイクスタンドが立っていて、そこに座った人が話す位置にマイクがセットされています。おそらく、ザックがダンサーたちに質問をしているというシーンでは、加藤さん(キャストは初日と全く同じでした)はここに座って話しているのでしょう。
 席は、初日とはうってかわって、前から4番目という、思い切りステージに近いところです。ところが、ご存じのように県民会館は非常にステージが高くなっていますから、ここからだと「板」が見えません(あ、舞台の床のことです)。ですから、当然「ライン」も見えなくなるわけです。この席だけに座った人は、このミュージカルのタイトルのの意味を一生知ることはないのでしょうね。
 そんな前ですから、さぞPAがうるさいだろうと思っていたら、全然そんなことはなく、楽しめました。特に言葉や歌詞が、やはり3階とは格段の明瞭さで聞こえてきます。そして、ダンスの迫力は、すごいものでした。オープニングから、加藤さんあたりから汗が飛び散っているのが見えますからね。ひとしきり踊り終わって「ライン」に立ったキャストたちは、みんな汗びっしょりでした。
 ご存じ、これはダンサーのオーディションの話ですから、芝居として「下手な」踊りも見せなければなりません。それは、考えてみればとんでもなく難しいことになりますね。「下手さ」を演じるのですから、まずきちんとしたものを完璧に出来なければなりません。その上で、見ている人にいかにも「下手だ」と思わせるように踊るのですから、これは大変なこと、しかし、この人たちは、それを見事にやってくれていました。そんなことが判るのが、前で見たことの収穫でしょう。
 ただ、作品としては、やはり最初に見たときと同じような不満が残りました。まず、休憩なしで2時間半を持たせられるだけの吸引力というものが、完全に不足しています。居眠りすることこそありませんでしたが、途中で緊張が切れてしまって、退屈を誘われる瞬間が何度あったことでしょう。もし私が演出家で、そういう権限を与えられたとしたら、もっと思い切って2、3人のエピソードをまとめてしまうとか、ポールが足を怪我したあとの運びをもっと切りつめるとかしてみますね。今度から。
 拍手のタイミングなどは、初日とは比べものにならないほど自然なものがありましたし、カーテンコールでのスタンディング・オヴェーションでも、誰一人帰ろうとはしないのはちょっとすごいことでした。やはり、「千秋楽」の客層です。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-19 20:30 | 禁断 | Comments(0)
幻のコンサート



有山麻衣子(Sop)
佐藤和子(Pf)
宇野功芳(Cond)
ORTHO SPECTRUM/KDC 6001



なんでこんなところに「スピード」のHIROが、と思われたことでしょう。グループ解散後もソロとして活躍している彼女が、ついにクラシックに転向してリサイタルを開いたものが、「幻」のCDとして発売になったのかと。もちろん、それはウソですが、しかし、よく似てますね。
ここで歌っているのは、有山麻衣子という方、もちろんそんな名前を知らなくても、クラシックファンとして恥じることは全くありません。この方は、大学の合唱団で歌っているところを、あの宇野功芳氏に見出され、彼の教えを受けた結果このようなCDを出せるまでになったという、まるで「オペラ座の怪人」のクリスティーヌのようなラッキー・ガールです(あ、ファントムは宇野先生ね)。でも、彼女は音楽を職業にする気は全くないのだとか、普段は一OLとして働いているのだそうです。
宇野氏が惚れ込んだというのは、その無垢な声です。彼が言うには、クラシックファンの中にも、声楽に対するアレルギーを持っている人は多いのだと。いわゆる「クラシック歌手」にありがちな「吠えるような発声法」と「声がゆれるビブラート」には、馴染めない人もいるのだそうです。そこへ行くと、有山さんは合唱団員としては理想的なノン・ビブラートで伸びやかな声を持っていました。それを彼は大切に育て上げ、決してプロの声楽家にはない魅力を持つソリストとして、こういう形で世に送り出したのです。彼をして「天使の歌声」と呼ばしめた理想的な歌手、しかし、彼はファントムのように、それを遠くから見守るような奥ゆかしいことはしませんでした。実は、ブックレットの裏表紙には、本番で彼女の歌を宇野氏が「指揮」をしている姿が掲載されているのです。自らの手で、最後の表現を彼女に施したい、そんな強い思いのあらわれなのでしょうか。こんなうざったいお節介を、良く彼女が許したものだと思ってしまいますが、そこは信頼で深く結びついた師弟関係、これしきのことで、はたのものが口出しをする必要はないのかも知れません。
実は、これは純粋の「リサイタル」ではなく、録音のために、ごく少数のお客さんを入れて演奏、その模様を修正することなく記録するというものなのだそうです(それを「幻のコンサート」と言っているのだそうです)。曲目は、いわゆる「童謡」や、小学唱歌のような、ごくシンプルなものが並んでいます。おそらく誰でも一度は耳にしたことであろうそれらの曲は、懐かしさの彼方にかすかに残っている耳慣れた歌い方とは、かなり異なった表現で聞こえてくることに、気づくことでしょう。いや、「表現」というのは不適切な言い方だったかも知れません。そこから聞こえてきたものは、まさに彼女の「美しい声」が全てだったのです。ほとんど無表情なその歌い方には、言葉さえも意味を持つことはなく、「表現」とは全く異なる不思議なベクトルが感じられたものです。そこにあるのは、煌めくように漂っている「音」だけ、それが、10何曲か続くことによって、頭の中は空っぽになって、とても癒されたような気分になってくることを誰しもが感じることでしょう。そう、これはまさに、今のクラシック界の寵児、「ヒーリング」の最たるものではありませんか。これの虜になると、なんの主張もない音楽に身をゆだねてしまうという、影響力の大きいものです。アルバムの最後の方に、「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」のアリアが歌われているのですが、ですから、これは全く「オペラ・アリア」ではあり得ない、なんの力も持つことのない軽やかな音の浮遊として聞こえてきます。
そんな中で、唯一フォーレの「ピエ・イェーズ」だけは、この曲が求めている世界を完璧に再現した深い感動を持って味わうことが出来ました。これこそは過剰な「表現」からは最も遠いところにある曲、もしかしたら彼女たちは意図しなかったところで、見事に理想的な演奏が誕生していたのです。
録音は、彼女の透き通る声を完璧に収録した、素晴らしいものです。そのために彼女の低音の未熟さが強調されているのは、仕方のないことかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-18 19:30 | 歌曲 | Comments(1)