おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem

Saramae Endich(Sop), Eunice Alberts(Alt)
Nicholas DiVirgilio(Ten), Mac Morgan(Bar)
Erich Leinsdorf/
New England Concervatory Chorus etc.
Boston Symphony Orchestra
BMG
ジャパン/BVCC-38391/92


このCDは、1963年の1122日にテキサス州ダラスで殺された(「敵、刺す」でも、刺殺ではなく射殺)当時のアメリカ合衆国の大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディを追悼するために、翌年1月19日にボストンの聖十字架大聖堂で行われた「死者のためのミサ」の模様を収録したものです。言ってみればドキュメンタリー録音のようなものなのですが、そこで用いられた音楽が、モーツァルトの「レクイエム」だということで、「クラシック」のLPとして録音直後に発売されました。日本国内でもその年の3月に発売になったといいますから、当時としては異例とも言えるスピーディなリリース、それだけこの事件が全世界に与えた影響は大きなものだったということなのでしょう。
そんな大騒ぎも今は昔、このLPは長いこと再発もされず、カタログからは姿を消していたそうです。確かに、以前ご紹介した「クラシックジャーナル」のディスコグラフィーには、このラインスドルフ盤は見当たりません。もっとも、これはかなりいい加減なものでしたから、それも当然でしょうが。そんな「歴史的」な録音が、今回国内盤でCD化、もちろんこれが世界初CD化となります。ミサの一部始終が収められていますから、録音時間は1時間半、2枚組となってしまいました。
40年以上も前の出来事ですから、この曲を取り巻く状況も今とは異なっていたことでしょう。ブックレットには、1964年のライナーノーツがそのまま掲載されていますが、「バセットホルンは通常はクラリネットで代用される」などという記述から当時の「通常」を知ることは、何ともエキサイティングな体験です。事実、この演奏でのボストン交響楽団でも、クラリネットが使われています。
しかし、そんな「原典主義」のかけらもなかった時代の演奏であるにもかかわらず、ここから伝わってくる心からの訴えかけには、圧倒されてしまいます。教会の鐘の音に続いて、オルガンがフランソワ・クープランのオルガンミサ曲を演奏した後、なにやら祈祷文の朗読があって、やっと「レクイエム」が始まります。かなり大編成(4つの合唱団のクレジットがあります)の合唱が、最初の頃は大味に聞こえてきたものが、次第にそのベクトルが整えられるにしたがって、なにやら恐るべき力を持つようになってきます。それは「Kyrie」のフーガあたりでは完全な方向性を確立、音程や音色などという細かいことなどを問題にするのが虚しくなるような、強い意志がそこからはみなぎっているのを、誰しもが感じることでしょう。
お祈りで一休みした後の「Dies irae」は、まさに感情の炸裂といった趣、思わず引き込まれずにはいられません。最後の方の「Sanctus」あたりでは、何もかも吹っ切れたような、音楽に全てを委ねる幸福感のようなものすら感じることが出来ます。最近の演奏では考えられないほどのゆったりとしたテンポを終始キープしているラインスドルフ、それだからこそ、合唱もソリストもそれぞれの思いを心ゆくまで表現できたのでしょう。そこにあるのは、一つの思いに向かって奉仕する音楽の姿、最近20何年かぶりに来日したいわゆる「巨匠」が見せた、自身のエゴだけで作り上げた醜い音楽とは別の次元の、時代を超えて通用する人類の営みでした。いくら「作曲された当時の演奏習慣」だの「自筆稿の研究」だのという理論武装をしたところで、最後には「音楽性」が物を言うのはまさに自明の理だということを、この演奏は教えてくれています。
たった今まで生きていたかけがえのない人を悼む気持ちを、このCDからは間違いなく受け取ることが出来るはずです。ライナーにもあったまさに「一期一会」の感動が成就された記録が、ここにはくまなく収められています。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-30 20:18 | 合唱 | Comments(0)
BRAHMS, REINECKE/Sonatas



Emmanuel Pahud(Fl)
Yefim Bronfman(Pf)
EMI/373708 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55873(国内盤 12月6日発売予定)


今年の2月にニューヨークで録音されたパユ様の最新アルバム、コンテンツはブラームスとライネッケのソナタです。ライネッケはともかく、ブラームスにフルートのためのソナタなどあったっけ、と訝しがるのも当然のことでしょう。この大作曲家は、フルートという楽器のために、協奏曲はおろか室内楽やソナタすらも、ただの1曲も作ってはくれなかったのですから。
ブラームスの時代、いわゆる「ロマン派」の頃は、実はフルートにとっては何とも寂しい時代でした。同時代の「大作曲家」シューマンにしても、フルートソロのための曲は全く作ってはいません。ヴァイオリンやピアノにはあれほどの名曲をたくさん作ってくれているのに、管楽器、特にフルートに対するこの冷たさはどうでしょう。
なぜそんなことになってしまっているのか、一つには、楽器の問題があります。テオバルト・ベームが、他の木管楽器、オーボエやクラリネットと同じように大きな音が出て、コンサートホールでも十分ソロ楽器として通用するフルートを「発明」したのはやっと19世紀の半ば頃でした。もちろん、新しい楽器が出来たとしても、それが普及し、さらにそれを演奏できる奏者が育つまでには相応の年月がかかりますから、この「モダン・フルート」が作曲家の中にきちんとした「楽器」として認知されるようになったのは、ほぼ20世紀に入ったた頃、それまでは大作曲家がベーム・フルートのために曲を作るようにはならなかったという事情があったのです。
ブラームスの場合、交響曲第1番のフルートパートでは、最高音は3オクターブ目の「シ♭」までしか使われていません。例えば第4楽章の170小節目のように、他の管楽器が「シ」を出しているのにフルートだけ(ファゴットもおつきあい)3度下の「ソ」に置き換えるというように、巧みに「出ない高音」を回避しているのです。それが、交響曲第2番になると最高音は「シ」まで延びています。おそらくこの時点で、ブラームスは新しい楽器の存在を知ったのでしょう(ちなみに、ベートーヴェンは「ラ」までしか使っていません)。しかし、その楽器にオーケストラの中での輝かしいソロを託すことはあっても(例えば、交響曲第4番のフィナーレ)、ついに単独のソロ楽器としての曲を作ることはありませんでした。
ここでパユさまが演奏しているのは、ですからフルートのためのオリジナルの作品ではありません。同じ木管楽器であっても愛着の度合いが桁外れに高かったクラリネットのためのソナタを、フルートで吹いているのです。このような「トランスクリプション」は、この時代のレパートリーの少ないフルートでは良く行われることです。特に、ヴァイオリンのための曲をフルートで吹くというのは、意欲的な演奏家であればもはや殆どなんの抵抗もなく取っている方策になっています。
しかし、このフルート版クラリネットソナタ、なぜかオリジナルの持つ深い肌触りが殆ど伝わってこないのが気になります。そんな、殆ど拭いがたい違和感が生まれるのは、もしかしたらこの2つの楽器の間には、単に音域や音色だけではないもっと根元的な違いが横たわっているせいではないのでしょうか。それは、表現としてのビブラートの有無です。クラリネットには、クラシックの場合まずビブラートをかける演奏家はいません。そこからは、何とも言えぬ骨太で重厚な、まさにブラームスが作る音楽そのものの肌合いが生まれてきます。しかし、現代のフルートではビブラートは表現の上での重要なファクターになっていますから、それをかけない演奏など考えられません。ヴァイオリンと同じようにたっぷりとしたビブラートこそは、まさにカンタービレとエスプレッシーヴォを産む源とされるのです。
したがって、このブラームスのソナタは、おそらくオリジナルに慣れ親しんだ人にとっては全く別の趣味の入った音楽のように聞こえることでしょう。しかし、そこまでしてブラームスのパトスをフルートで表現したがったパユ様の熱意は、もちろん存分に味わうことは出来ます。
逆に、元々フルートのための作品であるライネッケの「ウンディーヌ」で、ごく当たり前の情感しか表れてこないことの方が、深刻な問題のように思えます。いずれの曲に於いても、旋律楽器であるフルートよりも、ブロンフマンのピアノの方にさらなる豊かな歌心が感じられるのは、パユ様のリーダーアルバムとしては物足らないところなのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-29 00:04 | フルート | Comments(0)
Oboe Concerto in C
 最近気が付いたのですが、「のだめ」の公式サイトに行くとちゃんと使用曲目のリストが載っているのですね。もちろんタイトルだけですから、誰の演奏かはわかりませんが。で、その中にしっかり「服部隆之」などというこのドラマの音楽担当者の名前も見られるのですよ。つまり、前回書いたような「ドラマのためのオリジナル曲」はやっぱり存在していたのです。前回はそれがかなり耳に付いたので分かっただけで、そのリストによるとすでに第1回目から「オリジナル曲」は使われていたのですね。そのリストを参考にして前の分を見直してみると、確かにありましたね。「元気な学生」とかが。最初に見たときはこんな曲、全く気づきませんでしたよ。それは、いかにその「劇伴」が映像に馴染んでいたか、という証なのでしょう。
 ということは、別に誰が言ったことでもなかったのかも知れませんが、「全てのBGMはクラシックを使う」というのはデマだったことになりますね。ガセビアだと。そう言えば、確かに「なんだったかな~」と悩んでしまった曲もあったことを思い出しました。そうです。分からない曲は全て「オリジナル」で片づけてしまえば、めでたく解決するのですよ。でも、なんだかちょっとがっかりしてしまいました。所詮はただのドラマだったのか、と。
 今回はシベリウス関係が新機軸でしたでしょうか。「フィンランディア」の頭の一発だけというのも、もしかしたらかなりマニアックなことなのかも知れません。「カレリアのマーチ」あたりは「オリジナル」と言って逃げることも出来そう、微妙なところです。
 黒木クンは、期待通りでした。いやぁ、完全になりきっていましたね。リードを触ったりするようなほんのちょっとした仕草がまさにオーボイストそのもの、ブレスでリードを口から離すときの呼吸の感じも、真に迫っています。コーチ(小池さん?)も優秀なのでしょうが、これは福士さんの努力のたまものでもあるのでしょうね。前作でのピアニスト役の時も、彼はビデオを見まくってその「振り」をマスターしたと言いますし、なんでも、その演技の姿を見てピアニストになろうと決心した視聴者がいたというぐらいですから、ツボを押さえてなりきるための修練はハンパではないと見ました。ピアノと違って「腕だけ」のスタンド・インは使えませんから、運指などもかなり練習したのでしょうね。素人目には限りなく本物に近い運指に見えました。実際にリードを削る現場が出てくるなどということも、日本のドラマ史上初めてのことではないでしょうか。ほんと、普通に生活をしていれば、オーボエのリードを削っているところを見る機会などは一生訪れないはず、それを全人口の19%の人が体験してしまったのですから、これはすごいことですよ。
 「いぶし銀」だったものが「ピンク」になるというのも、演技だけでなく実際に「音」でかなりあらわしていましたね。といっても演奏そのものは変わりなく、イコライジングやエコーの付け方のほんのちょっとした違いなのでしょうが、それが演技と結びついて、確かに「ピンクのモーツァルト」が聞こえてきましたよ。大昔、単行本が出たときに書いたことですが、これって松田聖子ですよね。
 忘れるところでした。千秋が使うブラームスの1番のスコアは「ヘンレ版」なのですね。そんなものが自宅の本棚に入っているのが、すごい。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-27 23:12 | 禁断 | Comments(0)
HANDEL/Giulio Cesare

D. Fischer-Dieskau(Bar), Tatiana Troyanos(Sop)
Julia Hamari(Alt), Peter Schreier(Ten)
Karl Richter/
Münchner Bach-Chor
Münchner Bach-Orchester
DG/00289 477 5647



1969年に録音された「ジューリオ・チェーザレ」が、初めてCD化されてリリースとなりました。4枚組ですが3000円ちょっとと、かなりお求めやすい価格です(天ザル2枚分)。
なんでも昨今は「バロック・オペラ」というものが大流行だとか、その様な隆盛を支えているのは、当時の演奏習慣を現代に蘇らせる地道な努力と、作品の中に潜む普遍的な心情を、時代が変わっても共感を得られるものに置き換えるという柔軟なアイディアなのではないでしょうか。この作品でのその一つの成果が、先日ご紹介したグラインドボーンでのクリスティの演奏でした。そこにはまさに、当時の聴衆を夢中にさせたヒットメーカー、ハンデルの姿が生き生きと投影されていました。
今回のリヒターの演奏は40年近くも前の録音、当時はそのヘンデルのオペラが現在とは全く異なる思想によって支配されていたはずです。それは、言ってみれば学校の音楽室に飾られていた「大作曲家」の肖像画のようなもの、「音楽の母」と呼ばれ、「父」の大バッハとともに揺るぎない権威の象徴として扱われていたヘンデル像を産み出した思想です。そこから導き出される音楽は、いかにその中に生命の息吹が込められていようとも、表現にあたっては決して格調の高さを失わないだけの節度が求められてくるのです。
まず序曲を聴いてみましょう。ゆっくりした部分と速い部分を持つ典型的なフランス風序曲、その最初の部分での付点音符の扱いだけで、その違いが体験できることになります。短い音符をより短くして次の音に引っかけるというのが、現在では誰でもやっていること、そこからは、いかにも粋な軽やかさが生まれます。しかし、リヒターの時代にはリズムは「楽譜通り」に演奏することが当然と考えられていましたから、今聴くと恐ろしく鈍重なものに感じられてしまいます。同じ思想は、ダ・カーポ・アリアでの最初の部分の反復で、自由な装飾を施すことも許しません(というか、そもそもそういう発想がなかったはず)から、歌手のイマジネーションの発露を心ゆくまで味わうという今のオペラハウスでの楽しみは、全く得られないことになってしまいます。
そもそもカストラートが歌っていたチェーザレを、フィッシャー・ディースカウが演じているというあたりに、決定的な時代の壁を感じずにはいられません。何ともくそ真面目なこのバリトンにかかると、第2幕で変装したクレオパトラへの思いを歌う甘いアリア「Se in fiorito ameno prato」が、とことん嘘くさく聞こえるから不思議です。オブリガートのヴァイオリン・ソロも、何とも融通の利かない四角四面の演奏に終始していますし。
クレオパトラも、グラインドボーンでのデ・ニースを知ってしまった今となっては、トロヤノスがいかに第3幕で有名な「Piangerò la sorte mia」を情感たっぷりにしっとりと歌ってくれたところで、その次の「Da tempeste il legno infranto」での浮き立つような軽やかさが全く伝わってこないことに、不満を抱くしかなくなってしまうのです。
その点、セストのシュライアーと、コルネリアのハマリは、そんな時代様式を超えたところで、真の芸術家としての力を示してくれています。第1幕の最後に歌われるこの2人のデュエット「Son nata a lagrimar」は感動的です。グラインドボーンではカットされていた第2幕の最後のセストの力強いアリアも、素晴らしいものでした。
この演奏からは、今の「バロック・オペラ」ブームとは全くかけ離れた世界を感じてしまい、そのあまりの落差に愕然とさせられずにはいられません。同時に、今から40年後にもこのブームがそのままの形で継続しているという保証は何もないということも、痛切に感じられてしまうのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-25 20:54 | オペラ | Comments(0)
ユレル
 もう、合唱団の合宿に行ってきてから1週間近く経ってしまいました。来年3月の演奏会へ向けての練習が東京と仙台で行われていたのが、このときに初めて全員が顔を合わせるという、一つのイベント、これがあることによって、仙台での人たちは演奏会の全体像がはっきり自覚できて、いよいよ本番へ向けての気持ちを新たにする、ということになります。
 もちろん、練習はまさに分刻みのスケジュールに沿ったハードなものなのですが、そこでは1年ぶりに顔を合わせた仲間が、旧交を温めるという場面がそこここで見られます。1日目の夜には、夕食の会場で懇親会が開かれ、全員が一堂に会して、演奏会へ向けての抱負や、昔の思い出話などに花が咲くことになります。
 そこでは、毎年恒例になってしまった出し物のようなものが演じられます。なんせ、メンバーは全員歌歌いですから、ネタには困りません。一応テーブルごとに何か、ということになっているのですが、その場で昔覚えた歌を見事なハーモニーで披露する、という場面が繰り広げられます。そのテーブルだけではパートが足らないときには、適宜よそから借りてきて、などというほほえましいケースも。
 ところが、私たちのテーブルで「何をやろうか?」という話になったときに、誰もアイディアが出ていなかったのに気づきました。積極的にやりたいという声が、何もなかったのです。と、私の1年下の学年の男が、「ここに『ユレル』の作曲者がいるじゃない」と言い出しました。その曲、私が現役の時には、団内でかなり人気のあったもの、例えば、定期演奏会で「みんなで歌いましょう」などというコーナーがあれば(実際に、こういうシング・アウトをやっていたのですよ)そこでお客さんと一緒に歌ったり、大学祭(学園祭、ですか)でのサークルの出し物「歌声喫茶」では、しっかりレパートリーに取り入れたりと、私の前後の年代にはかなり懐かしい曲なのです。それをこのテーブルで歌おうとしたのですが、もちろん知らない人もいます。そこで、その男は紙にフリーハンドで五線を書き始めました。4段の五線紙が出来上がると、彼は私に「○○さん、楽譜書いて」と渡してよこしました。そう、この曲の「作曲者」というのは、実は私だったのです。もう何十年も忘れていたものなのに、音符はスラスラと出てきました。そこで出来上がったのが、この楽譜です(詞はやなせたかし)。
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 これをコピーしてきて、テーブルのメンバーに渡し、伴奏はこの合唱団の指揮者が、この楽譜で即興的に弾いてくれました。そして、そこにいた100人の人が、全員で私の作った歌を歌ったのです。正直、私自身でも忘れていたような曲をまだおぼえていてくれて、こんなところで歌ってみようとした人がいたなんて、ちょっと感激モノでしたよ。これだけの時を超えてもまだ忘れられないでいた歌、ということは、私の作った曲はすでに歴史のふるいにかけられて「名曲」としての命を持ち始めている、と思うのは、もちろん常軌を逸した自己満足に過ぎません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-24 20:40 | 禁断 | Comments(0)
Basic Instinct 2
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 シャロン・ストーンの「氷の微笑2」は、ぜひ劇場で見てみたい映画でした。やはり、大画面で彼女のあの迫力を体験したかったのです。ところが、今日の日中は少し時間が取れそうなので見に行ってみようと時間を調べて見たところ、もはや1日1回しかやっていないようになっているではありませんか。しかも、利府では夜の6時過ぎのものしかありません。これではちょっとまずいので、モールを調べたら、こちらは1時10分、これなら大丈夫、しかも今日は木曜日なのでメンズデー料金の1000円で見られます。利府のメンズデーは月曜日ですから、これで決定です。
 その前に灯油を買ったりお昼ご飯をモスまで買いに行ったり(チーズドッグがもうすぐ終わります)していたら、家を出たのは12時20分になっていましたよ。長町まで車で行って、果たして間に合うのでしょうか。まあ、間に合わないときでも「プラダを着た悪魔」だったら大丈夫ですから、無駄足にはならないはずです。
 でも、道はそんなに混んでなく、「微笑」の上映開始時間の10分前にはMOVIXに着きました。しかし、カウンターは長蛇の列、チケットを買えたのは3分前でした。しかも、思いの外混んでいて、後ろの席は本当の壁際しか空いていません。この前そのあたりで「プロデューサーズ」を見たときに、あまりに端っこでスクリーンが完璧に歪んでしか見えなかったという苦い経験がありますから、それよりは、と、前から4番目の真ん中の席を取りました。
 しかし、予告編の段階で、この場所はとてもまともに映画を鑑賞できるようなところではないことに気づかされます。あまりにも大きすぎて、スクリーン全体が視界に入らないのです。こうなったら「アイマックス」だと思って、開き直るしかありませんね。
 本編も、最初の車を飛ばしながら、○○というシーンは、ですから、ものすごい迫力でした。しかし、普通のシーンになって顔がアップになったりすると、ちょっと見るのが大変になってきます。それに、なんだかシャロン・ストーンの顔も歪んで見えます。真ん中だからいいだろうと思ったのですが、劇場映画というものはスクリーンに対して決して垂直に投光されている訳ではないので、後ろで見たときには気にならなくても、この位置では完全に歪んで見えてしまうものなのですね。そもそもこの劇場はどこも横方向に広い客席になっていて、一番後ろでもかなり近いような造りですから、こんな前ではとても見ていられないのは当たり前です。その点、利府では縦方向が長くなっていますから、壁際でもちゃんと見えますし、少しぐらい前でも大丈夫なはず、もうここに来るのはやめましょう。
 シャロン・ストーン、いくら歪んでいても、あの大きな画面で肌が若々しく見えるのはすごいですね。目尻に少ししわが見えたのが、「年」を感じさせられたところでしょうが、その他のパーツは少しも衰えが見られませんでしたよ。もちろん、あの全てを承知しているような不気味な「微笑」も健在でした。脚本も前作以上の凝ったものでしたね。正直、これだけ翻弄されると一体真実はなんだのだろうかという思いです。そして、そう思わせられるだけの存在感をいやと言うほど示しているストーン、十分堪能できました。正直疲れましたが。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-23 20:55 | 禁断 | Comments(1)
LOVE



The Beatles
APPLE/381598 2
(ヨーロッパ盤)
APPLE/379808 2
(US盤)
東芝
EMI/TOCP-70200(国内盤)


ビートルズの「新譜」です。もちろん、あの伝説的なロックグループのメンバーのうちの半数はすでに他界していますから、いくら高いお金をかけたとしても新たにセッションを組んでレコーディングを行うなどということは不可能です。これは、そのグループのプロデューサーであったジョージ・マーティン(まだご存命です)と、その息子ジャイルズ・マーティンが、「もし、4人が今集まったらこんな演奏をするんじゃないか」という想定で、マスターテープを再構成して作り上げたものなのです。そもそもは、「シルク・ドゥ・ソレイユ」のショーのサントラとして依頼されたプロジェクトだったものですが、もちろんそんなおいしい話をレコード会社がほおっておくわけはありませんから、こんな形で全世界同時発売という「新譜」が誕生してしまいました。
これは通常のCDですが、同時にサラウンドチャンネルが収録されたDVDオーディオも同梱されたパッケージも発売になっています。普通の感覚ではハイブリッドSACDにすれば良いのでは、と思うのでしょうが、なぜかこのメーカーはCCCD(おぼえてます?)には非常に熱心に取り組んだというのに、SACDについては全く消極的な態度をとり続けているものですから、こんな形にせざるを得なかったのでしょう。
1999年にリリースされたYellow Submarine Songtrackを聴いたときには、デジタル・プロセシングによって修復されたその生々しい音に驚かされたものでした。マスターテープが持っていた以上のクオリティを、この技術では獲得できることを、その時知ったのです。今回もその技術は惜しげもなく使われており、今まで聴き慣れた、ちょっと古めかしい音が、まるで録音されたばかりのようなみずみずしいものに蘇って耳に届きます。小鳥のさえずりの中から聞こえてきたア・カペラの「Because」が、そんなサプライズの始まり、それから7853秒の間、私たちは絶対に40年近く前に録音されたものとは思えないほどの芳醇なビートルズのサウンドを楽しむことになるのです。
続いて「A Hard Day's Night」の頭のコードのあとにいきなり聞こえて来たのが、「Abbey Road」の中で「The End」のイントロとしてリンゴが演奏しているドラムソロです。それがそのまま「Get Back」につながってしまうという、見事な編集、そんな具合にいろいろな曲、場合によってはそのパーツ(トラック)までも自由に入れ替えたものが披露されます。ポールのアコギのソロが、「Blackbird」のイントロだと思って聴いていたら、ヴォーカルが入った時にはいつの間にか「Yesterday」になっていたとか、楽しみは尽きません。圧巻は「Strawberry Fields Forever」、後半に出てくるは出てくるは、色んな曲からの「パーツ」が。「In My Life」に挿入されているジョージ・マーティン自身のピアノソロなどはすぐ分かりますが、これの出所が全部分かった人はかなりのマニアでしょうね。
このプロジェクト、始まったのは5年前で、当時は存命だったジョージ・ハリスンと「シルク」との間のディスカッションが発端だとか。そのせいか、この中にはジョージのヒット曲が網羅されているのが嬉しいところです。中でも、「While My Guitar Gently Weeps」は、ジョージのヴォーカルだけを残して、全く新たに録音された流れるようなストリングスのオケが入るというアレンジになっています。オリジナルは結構タイトなリズムに支配されていたものが、こんな形になると全く別の魅力が感じられます。いや、これこそがジョージが本来作りたかった世界ではなかったかと思えるほど、そのオケに乗った彼の声は心に染みるものです。告白すれば、これを聴いて涙があふれてくるのをこらえることが出来ませんでした。
その様な、いろいろ手を加えられている部分もありますが、殆どオリジナルを忠実なまま、ただ音だけが見違えるように新鮮になったものにこそ、最大の魅力を感じられるのはなぜでしょう。ここで嫌と言うほど知らされることになった「プロ・ツールズ」によるデジタル・プロセシングの威力、これを駆使して、ビートルズの全てのオリジナルアルバムが蘇る日こそが、このプロジェクトの本当の到達点なのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-22 23:36 | ポップス | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.5




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.165



例によって、輸入盤でありながらしっかりライナーに日本語も含まれるというノリントンのマーラー・ツィクルスです。ハンバーガーには欠かせません(それは「ピクルス」)。今回の「5番」の目玉は、「半世紀以上も失われていたアダージェットの響きが復活」というのですから、これは何をおいても第4楽章をまず聴いてみなければいけないでしょう。この楽章、演奏時間を見ると8分54秒、普通の演奏ではまず10分前後というのが標準値でしょうし、中にはハイティンクの13分台などというのもありますから、ノリントンの場合はまず思い切りあっさり、淡々と演奏していることが、これだけでも良く分かります。正直、このノンビブラートの弦楽器でコテコテに歌いまくるのは不可能、これは当然の結果でしょう。しかし、実際に聴いてみると、予想したほどの空虚な感じを受けることはなかったのは、正直意外でした。もしかしたら、肝心の盛り上がったところでは結構ビブラートが聞こえてきたのが、その原因だったのかも知れません。やはり、本当に必要なところではビブラートをかけるのが演奏家の生理、さすがのノリントンも、それを止めることは出来なかったのでしょうか。その結果、本当のノンビブラートの部分との格差が強調されて、相対的に相応の充足感を与えられたということなのでしょう。
しかし、そうは言ってみても、やはり今まで聴いてきた「アダージェット」との違いは大きなものがあります。クライマックス以外の殆どの部分で、全ての弦楽器がビブラートを取って全く同じピッチで演奏すると、まるで1本の楽器のように聞こえてきます。それが集まって、あたかも弦楽四重奏のような響きが、ここでは生まれています。それは確かに「ピュア」なものには違いありませんが、弦楽器4本のサウンドを得るためになぜ60人もの弦楽器奏者が必要になってくるのか、疑問には思えてきませんか?大オーケストラのトゥッティの弦楽器が産み出す何とも言えない質感は、実はそれぞれの楽器がほんの僅かずつ異なるピッチで演奏していることから生まれます。それには、ビブラートが果たす役割が不可欠なものになってきます。その様な魅力を知ってしまった私たちは、このアダージェットのほとんどの部分では、演奏家が多大な集中力を払って獲得したはずの「ピュア」な響きも、単なる貧弱なサウンドにしか聞こえないことになってしまいます。なんと報われない努力なのでしょう。
この楽章の最後、サスペンデッド4の和音が長く引き延ばされた後にヴァイオリンが半音下がってヘ長調に解決する瞬間に出現する響きこそは、まさに「ピュア」そのもの、その美しさは感動に値します。しかし、これを得るためだけに強いられる禁欲は、おそらく演奏者にとっても聴衆にとっても、もっと言えばこれを作ったマーラー自身にとっても耐えられないものなのではないでしょうか。あのマーラーがこんなストイックな音楽を作るなんて、到底信じられません。
ビブラートを失った「ピュア」な響きは、純粋であるだけに乱暴に扱われでもしたら簡単に壊れてしまうほどのはかないものなのかも知れません。ですから、それがオーケストラの中に置かれたときには、力強い金管楽器などの間に割って入っていくだけの度胸などは、到底湧いては来ないでしょう。そう、金管やティンパニの炸裂の中にあっても、決してかき消されることなく、輝かしく自己を主張して欲しい弦楽器が、ここでは全く聞こえてこないのですよ。聞こえてくるのは元気の有り余った金管のみ。これではオーケストラではなくブラスバンドを聴いているような思いに駆られてしまいます。
そんな、ほとんどお祭り騒ぎのような喧噪の中を音楽は進んでいきますが、終楽章ではいきなり深刻ぶった控えめな表現で始まるのが意表をつきます。しかし、それはエンディングへ向けての盛り上がりのためだけの、単なる準備に過ぎませんでした。やはり最後はとてもバランスの悪い、しかし賑やかさにかけてはこれ以上のものはないだろうという華々しさで幕を閉じます。終わるやいなやの「ブラヴォー」の大歓声(ライブです)、この瞬間、ノリントンは指揮台の上で半回転ターンをして客席を向いていたに違いありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-22 00:40 | オーケストラ | Comments(0)
Die Meistersinger von Nürnberg
 原作が手元にないので、いまいち不安なのですが(というか、原作を読んだのはもうだいぶ前のことでした)、あまり憶えていないようなストーリーが出てくるのはもしかしてテレビ用?ラフマニノフのエピソードって、あんなにありましたっけ。ドラマを見ただけでは、以前のモーツァルトの二番煎じのような気がしてなりません。それと、いつも思うのですが、ここでロケに使われている音大のレッスン室や練習室は、かなり頑丈なドアノブが付いてますし、扉も厚くて頑丈ですから、そうそう外部には音が漏れることはないと思うのですが。まあ、すぐ前で耳を近づければいくらかは聞こえるのでしょうが、今回のように遠くから聞きつけて集まって来るというのはあり得ないのではないでしょうか。もちろん、第1話のように外を歩いていて「悲愴」の細かいニュアンスなどを聴き取ることなども、かなり難しいような気がするのですが。
 まあ、そういう設定上の「無理」は、大目に見るとして、今回後半に流れていた音楽は、あれは「クラシック」だったのでしょうか。オカリナみたいな音も聞こえたり、かなりアレンジも入っていたみたい、少なくとも今まであったようにストレートに「クラシック」というものではなかったような気がします。というより、あの部分は殆ど普通のドラマの音楽のノリ、つまり、流れている音楽に全く耳が行かないものでした。このドラマの音楽が今までと違っていたのは、「クラシック」だからこそ敏感に反応できていろいろツッコミを入れられたことなのですが、音楽が鳴っていることすら気づかなかったほど馴染んでしまっていたのでは、その時点で「クラシック」としての資格がなくなっていたのだ、とは言えないでしょうか。
 ただ、現実にはそんな「クラシック」にあるまじき「クラシック」が、大手を振って闊歩しているのには、いとも簡単に出会うことが出来ます。もしかしたら、このドラマを通して「クラシックというものを多くの人に聴いてもらえれば」などと考えている人の中の「クラシック」という概念は、そういうものしか聴かない人まで含めた「ライトユーザー」を相手にしているものだったのでしょうか。
 オーボエの黒木クンが登場、いやぁ、すごい人を見つけたものです。イメージはまさにぴったりじゃありませんか。その上、この人は半年間、音楽の素晴らしさをことあるごとに説いていたという輝かしい経歴を持っているのですからね。彼のセリフ「ピアノを忘れるなーっ!音楽を忘れるなーっ!」は、殆ど流行語となりかけましたよね。そう、ちょっと前まで味噌屋の跡取りのピアニストだった「達彦さん」が黒木クン役、かなり楽しみです。そうそう、彼は「スイング・ガールズ」でものだめやミルヒと共演してましたよね。
 佐久間学さん、やっぱりこのキャラは馴染めません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-20 22:49 | 禁断 | Comments(1)
BACH/Partita for Unaccompanied Ukulele





John King(Ukulele)
NALU/011998



「ウクレレ」と言えば、「ハワイアン」ですよね。いかにも南国のリゾートっぽいそのダルなカッティングは、「フラダンス」とか「腰ミノ」といった、およそシリアスさからはほど遠い無責任なたたずまいを醸し出すものです。最近聴いた、リコーダーとウクレレのアンサンブルによる「(やる気のない)ダース・ベイダーのテーマ」なども、その「無責任さ」を最初から狙ったものでした。あの勇壮なマーチがいともノーテンキな脱力系で演奏されるとき、私たちはそこにウクレレの持つユーモラスな力を感じずにはいられません。もちろん、「タフア・フアイ」という名曲に乗せて漫談を演じた牧伸二のアイディアは、この楽器のそんなキャラクターを存分に生かしたものであったことは、言うまでもありません。
そんな楽器でバッハを演奏したものがあるということを、2、3のブログで知って、入手したのがこのCDです。タイトルが「無伴奏ウクレレパルティータ」、ブーゲンビレアをバックにしたこのジャケットからは、やはり常夏の島のイメージしか湧いてきません。いったいどんなのどかなバッハが聞こえてくることでしょう。
しかし、1曲目の無伴奏チェロ組曲第1番の「プレリュード」が、まるでハープのような優雅な音で聞こえてきたときには、耳を疑ってしまいました。これが本当に、あのウクレレから出てきた音なのでしょうか。一つ一つの弦の音は、とても澄みきってふくよかです。しかも、それぞれの音に深く豊かな響きが伴っています。音程も、あんな小さな楽器の小さなフレットを扱っているとは思えないほど、正確なものです。ヘタをしたら、本物のチェロを少しいい加減に弾いている演奏などよりは、よほどいい音程かも知れません。そして、そのテクニックの見事なこと。こんな曲を弾くにはかなりの制約があるはずなのに、そんなことは全く感じさせない、まさにヴィルトゥオーゾの音楽が、そこには軽やかに流れていたのです。
ライナーを読んでみると、「ハープのような音」がしている訳が分かりました。なんでも、ここでは「カンパネラ・スタイル」というものが使われているというのです。これは、メロディを弾くときに、隣り合った音を常に別の弦で弾くという奏法、そうすることによって、フレットだけを移動するときのように前の音の響きがなくなってしまうことはなく、双方の音に豊かな響きが残るという、まさにハープのような音が可能になってくるのです。

そうなってくると、例えばトラック6に入っている無伴奏チェロ組曲第4番のブーレのように、最初のテーマで音が5つつながっている場合(楽譜参照)、弦が4本しかないウクレレではこの奏法を使おうとしてもちょっと難しくなってしまうのではないでしょうか。しかし、ご覧下さい。ネットで探したこの演奏家、ジョン・キングの写真を見てみると、彼はなんと「5弦」の楽器を使っていますね。この写真の背景を飾っているのはここで演奏されている「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番」の自筆稿ですから、このアルバムの曲がこの楽器で演奏されたことは明白です。これで、疑問は解けました。しかし、そもそも最初からこの写真をジャケットに使っていれば、あれこれ思いを巡らさずとも、これほどきちんとバッハを演奏しているのはすぐ分かったことでしょうに。
その「パルティータ」も、素晴らしい演奏です。そもそもこの曲はリュートのために編曲されたバージョン(BWV1006a)があるぐらいですから、ウクレレにも良く馴染みます。後にカンタータ29番の冒頭の華々しいシンフォニアにオルガンによって演奏されることになるプレリュードの細かいパッセージも難なく弾きこなすキングのテクニックには、いささかのほころびもありませんし、有名なガヴォットあたりでは、ウクレレのキャラクターが他のどの楽器よりも見事にマッチしているのではないでしょうか。
この曲は、ウクレレで弾きやすいようにでしょうか、ホ長調のものがニ長調に移調されています。そういえば、ト長調のチェロ組曲第1番もニ長調でしたね。そして、「平均律クラヴィーア曲集」の第1番、ハ長調のプレリュードも、同じくニ長調になっています。ところが、そのキーだと音域的に無理があるのか「ドミソドミ(ここではレファ♯ラレファ♯)」とまっすぐ上へ昇るべき音型が、「ソ」からオクターブ下に折れ曲がってしまっています。ここあたりが、唯一ウクレレの弱点が出てしまったところでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-18 07:48 | ヴァイオリン | Comments(0)