おやぢの部屋2
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Digital Versatile Disc
 年の瀬には、やはりそれなりのことが待っているもので、きのうの私の仕事は障子貼りでした。毎年やっているわけではないので、手順などはすぐ忘れてしまいます。最も重要なポイントは古い紙をはがすところ、これをうまくやらないと、はがしそこねた紙が桟に残ってしまって、それを取るのに苦労することになってしまいます。今回はていねいに水を付けて、慎重に下からはがしてみたところ、ご覧下さい、見事に全く無傷で紙をはがすことが出来ましたよ。今年最後の大仕事、これほど完璧な成果を挙げることが出来て、1年間のいやなこともすっかり忘れることが出来るほどでした。
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 今年一番変わったことといえば、何と言ってもHDDレコーダーの導入でしょう。今までビデオテープをつかっていたAV生活が、この機器を買ったことに余りガラッと変わってしまったのですからね。大容量のHDDに見たいもの、聴きたいものを手当たり次第に録画しておいて、あとで時間が出来た時に再生して見る、あるいは保存しておきたいものをDVDに焼く、今まで、残り時間を気にしてテープを選んだりその都度タイマーをセットしたりしていたのに比べると、なんと優雅なことでしょう。これで、今までのようにテープの山で部屋が足の踏み場もなくなってしまうことのなくなるでしょう。
 と、当初は思っていました。しかし、そのHDDが満杯になってしまう日は、いとも早く訪れました。確かに録画しておいたはずの「寅さん」が、最後の方がちょん切れていたのです。調子に乗ってコンサートだ、映画だと録画しまくっていたら、いつの間にかこんなことになってしまっていたのですね。結局、見る時間に限りがあるのですから、放っておいたものはどんどん残ってしまうのは当たり前の話、「テープの山」という目に見える形になるのか、メモリーがなくなるというデジタルな現象なのか、という違いだけだったのです。
 消去するか、DVDに移すかしないことには新しいものは録画できませんから、「これは将来必ず見るはず」というものはとりあえずDVDになっていますが、それはすでに100枚近くになろうとしています。すでに「保存用」となったものは、もはや100枚は軽く超えていることでしょう。一体、これらのものは果たして「将来」見ることはあるのでしょうか。それよりも心配なのが、フォーマットの問題。例のCPRMというダビング防止のコーディングが施されたDVD-Rは、これから先もきちんと再生が出来るという保証があるのでしょうか。
 さっきのテレビで、なんでも20年先をめどに「スーパー・ハイビジョン」などとというものが開発されているのだとか。ただの「ハイビジョン」を保存しておくディスクに関してもいまだにメーカー主導の泥仕合が続いているというのに、まだこんなことをやろうとしているのですね。「将来」DVDがなくなってしまうのは、どうやら確実なようですね。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-31 20:33 | 禁断 | Comments(0)
Piccolo Tunes
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Peter Verhoyen(Pic)
Stefan De Schepper(Pf)
ET'CETERA/KTC 1296



「ピッコロとピアノのためのオリジナル作品集」というサブタイトルが付いているように、編曲ものではなく最初からピッコロのために作られた曲を集めたアルバムです。殆どが21世紀になってから作られた「新曲」であるというのが、そそられます。演奏しているのは、ロイヤル・フランダース・フィルのピッコロ奏者、ペーター・ヴェルホイエン(と読むのでしょうか。オランダ系の表記は苦手)です。
オーケストラの中では、ピッコロという楽器は実に華々しい役割を担っています。曲のクライマックスで他の楽器たちがどんなに大きな音を出していても、ピッコロの甲高い音はまるで全てのものを見下ろすかのように、輝かしく響き渡ります。それは、あたかもオーケストラの全ての栄光を一手に引き受けているようにすら、聞こえます。
しかし、そんなピッコロもソロ楽器としては必ずしも親しまれているものとは言い難いところがあるのは、紛れもない事実でしょう。低音はいかにも「木管」という感じの素朴な音色ですが、フルートの低音ほどの力はありません。最も美しく聞こえるのは中音ですが、かなり注意しないと音程がいい加減なものになってしまいます。そして、高音は、それだけ聴いてしまうとあまりに目立ちすぎて刺激が強すぎます。よほどのマニアでない限り、この分野には足を踏み入れない方が無難なのでは、というのが一般的な評価でしょう。
しかし、現代の作曲、そしてピッコロの演奏の才能は、そんな制約の多い楽器にも確かな喜びを見いだせるような素敵な曲を産み出してくれました。まずは、自身もフルーティストであるヒット・メーカー、ゲイリー・ショッカーの「ソナタ」(2005)です。これは、ピッコロの素朴な音色と音程を逆手にとって、ちょっと古風なテイストを演出しているという聴きやすい曲です。あくまでメロディを大切にして、その間に先鋭的なものを挟むといういかにも彼らしい作品に仕上がっています。最後の「ミニ・チキン」という速いパッセージのユーモラスな曲で、ピッコロのキャラが存分に発揮されています。
マイク・モウアーという人の「ソナタ」(2001)は、この人のフィールドであるジャズのイディオムが存分に盛り込まれたものです。殆どインプロヴィゼーションのような技巧的なひらめきが、存分にエンタテインメントとして楽しめます。同じように、クラシック以外の分野で活躍しているマルク・マティスという人の「エコーズ」(2006)という作品も、肩肘を張らずに楽しめる仕上がりになっています。小さなパターンの積み重ねという、ポップ・ミュージックの定石をうまく生かした語り口が魅力的、特に後半の5拍子によるテーマが何度となく繰り返され、その間に「間奏曲」が入るという部分は、おそらくこのアルバムの中では最も光っているものではないでしょうか。チック・コリアの「ブラジル」のようなテイストが入っているのが、そう思わせられる「わけ」なのかもしれません。
やはりフルーティストのレイモン・ギオーが作った「Onivatto」という曲は、タイトルがピッコロのイタリア語「Ottavino」を逆に読んだもの、おそらく曲の中の音列にも、その様な仕掛けが施してあるのでしょうが、そんな厳格さよりは生理的な楽しみが前面に出てきているので、退屈することはありません。それは、このアルバムのソリストによって委嘱されたヤン・ヒュイレブロック(オランダ系の表記は苦手)の作品のように、作曲と演奏の技巧にのみ圧倒される一歩手前で踏みとどまっています。
残りの曲は、フランス6人組のオーリック、ミヨー、プーランクが作った、ピッコロの前身であるファイフ(マネの「笛を吹く少年」という絵でお馴染み)のためのもの、いかにも瀟洒なたたずまいを、この楽器から引きだしています。ちょっと匂いが残りますが(それは「ガーリック」)。
ヴェルホイエンの演奏は、どんな難しいパッセージでも破綻のないテクニックと、ピッコロの可能性を信じ切った歌い口で、見事にこの楽器の魅力を伝えてくれています。ピアノのデ・シェッパーも、特にリズムの面で確かなサポートを見せていました。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-30 22:18 | フルート | Comments(0)
MOZART/Don Giovanni
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Thomas Hanpson(DG), Ildebrando D'Arcangelo(Lep.)
Christine Schäfer(DA), Piotr Beczala(DO)
Melanie Diener(DE), Isabel Bayrakdarian(Zerlina)
Martin Kusej(Dir)
Daniel Harding/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00440 074 3162(DVD)



まさに「演出の時代」のオペラの最先端を行っているザルツブルク音楽祭ですから、この「M22」でもとことんとんがった演出に出逢うことが出来ます。今回の「ドン・ジョヴァンニ」でのマルティン・クシェイの演出では、この主人公の「色好み」という嗜好を大々的にフィーチャーした、下着姿のオンパレード、時にはトップレスなども現れるという大胆な設定に、おやぢの目は釘付けになってしまうことでしょう。しかし、そんなサービスカット(いや、違うはず)を堪能しているうちに、しばらくすると実はもっと斬新な読みかえが施されていることにも気付くことになるのです。
まず、いかにもキビキビとしたハーディングの指揮で序曲が始まります。演奏しているのはウィーン・フィルですが、フルートのトップの人は見たことがありません(2番はフォーグルマイヤー)。なかなか伸びのあるいい音ですね。そろそろ、世代交代が始まっているのでしょうか、などという映像ならではの突っ込みができるのがたまりません。
しかし、その序曲の間、ステージにはパンスト1枚の女性たちが後ろ向きに寝ころんでいるという「悩殺的」な巨大な絵が描かれたカーテンがかかっているのです。そこには出入り口があって、そこにサングラスをかけ、厚いコートを羽織った女性がたくさん入っていきます。序曲が終わってその「カーテン」が上がると、しばらくしてその女性たちのコートの中は下着だけだというのがわかります。それは、ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長が、その女性たちによって中に引きずり込まれるシーンで、彼女たちがコートの前をはだけていることにより明らかにされます。このステージは大規模な回り舞台となっていて、2つの同心円に沿った何枚もの壁が複雑に動き回って、様々な状況を作り出しています。その陰で、本当は観客には見えないはずのアングルを、別のカメラがとらえているのですが、そこで騎士長は女性たちによって大詰めの時のための着替えをさせられているのが分かります。その時には、彼女たちは完全な下着姿となっています。
「スペインだけで1003人もの女と寝た」というドン・ジョヴァンニの女性遍歴を歌った「カタログの歌」の背景に、その女性たちが様々なコスチュームで登場することから、彼女たちが今までの「相手」の象徴であることが分かります。中にはかなり高齢の「お掃除おばちゃん」や、縄跳びに夢中の少女まで・・・。
殆どマネキン人形のように無表情で立っている彼女たちも、ツェルリーナ(彼女の巨乳を強調した衣装も、意図したものなのでしょうか)がマゼットへの思いを語る時の苦しげな表情など、不気味にドン・ジョヴァンニの心理を反映しているかのような仕草を見せる時もあります。何よりもショッキングなのは、騎士長をディナーに招待するシーン。後ろを向いてTバックのショーツ姿を惜しげもなく披露してくれる彼女たちが振り向いた瞬間、その顔は老婆に変わっていたのです。いや、たるみきった腰のあたりは、これが本物の「老婆」であることを示しているではありませんか。ここまでやるとは。いくら大詰めでそれまでの「白い」下着を脱ぎ捨てて(あ、楽屋で、ですが)黒い、それこそボンデージが入った勇ましいいでたちに変わるとしても、この「醜さ」はちょっと許せません。
と、ちょっと「下着」にこだわりすぎましたぎ、実はもっと根元的な演出が、そもそも幕開きに登場します。最初に「Notte e giorno faticar」と歌い出したのが、なんとハンプソンだったのです。彼はドン・ジョヴァンニ役のはず、なぜレポレッロの歌を歌っているのでしょう。と、当のレポレッロがズボンのファスナーを上げながら登場、歌を引き継ぎます。そこで、いったい今まで何をやっていたのか、という疑問がわきます。もしかしたらドンナ・アンナをレイプしていたのは、レポレッロだったのかも、とか。そんな、確か以前ピーター・セラーズが取っていたこの2人を同一視するという視点を、クシェイも持っていることがうかがえます。「セレナーデ」のシーンで、最初は「変装」しないのもその現れでしょうし、「地獄落ち」では、レポレッロはドン・ジョヴァンニに手を引かれて、あわや一緒にオフステージに消えてしまいそうになります。もちろんそんなことになってしまったらその次の六重唱が成り立ちませんから、レポレッロは主人を刺し殺さなければならないのでしょうが。
ドンナ・エルヴィラやドン・オッターヴィオのアリアで、「2番」を歌う時にまるでバロック・オペラのような自由な装飾が施されていたのが、印象的でした。これはハーディングの指示だったのでしょうか。そのオッターヴィオを歌ったベチャーラ、やはり素敵でした。写真では田舎臭い顔立ちでしたが、よく見てみるとあのヴンダーリッヒにどことなく似てません?
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by jurassic_oyaji | 2006-12-28 19:51 | オペラ | Comments(1)
Lipservice
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清水ミチコ
ソニー・ミュージック
/MHCL 950


昨今の「お笑い」のレベルの低さにはつくづくがっかりさせられます。殆どが「一発芸」の世界、賞味期限も極端に短いものになってくるのも当然でしょう。「レーザー・ラモン」は一体どうしているのでしょう。「テツ&トモ」など、今では影も形もありません。
例えば「タモリ」のように、何十年経っても色あせない魅力を放つ芸人は、必ずベースとなるスキルを持っているものです。彼の場合は音楽的なルーツでしょうか。今でこそアルバムをリリースすることもなくなりましたが、LP時代の「TAMORI」や「TAMORI/2」での作り込まれた「お笑い」は、今なお強烈なパワーを放ち続けています。
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タモリと同程度の音楽的なバックボーンを生かして、長期間にわたってレベルの高いギャグを提供してくれているのが、清水ミチコです。彼女の最新アルバム、基本的に「ものまね」を集めたものですが、その完成度の高さには注目すべきものがあります。
01 ホーミーの声
ご存じ、モンゴルの「倍音唱法」ホーミーに挑戦です。元ネタは「虫の声」。しかし、このホーミーは「蛙の鳴き声」にしか聞こえないというのが、辛いところです。
02 希望の星
中島みゆきのものまねですが、歌い方だけではなく、「彼女が作ればこんな曲になるだろう」という、曲作りからの「ものまね」がすごいところ。これは感動的です。
03 サンババ・トリオ
細木数子、三輪明宏、ユーミンという有名な3人の「ババア」が登場して三重唱を披露、特にユーミンは至芸です。
04 日本三大ピアニスト
清水ミチコが選んだ「三大ピアニスト」は、なんと中村紘子とフジコ・ヘミング、そして、もう一人です。演奏まで真似られているフジコが痛快、「もう一人」もやはり演奏のものまねですが、すぐ分かります。
05 入れ歯のカスタネット
「更年期への不安」を歌ったものだそうです。特にコメントはありませんが、このハスキー・ヴォイスは中森明菜でしょう。
06 ミミックレッスン
これは、彼女のものまねのノウハウを披露しているもの。ただ、正直言って誰のものまねか分からないものが多いのは、なぜでしょう。
07 My Black Eyes
「人名ではありません」というコメントが意味深。聞いてみれば、まさにそのものズバリの「人名」であることが分かります。宝塚系の発声と、不安定な音程を強調されれば、その方が眼前に現れます。
08 おしゃべりレーサー
早口がウリの3人が息も切らせぬスピードで喋りまくります。
09 大きな古時計
あの名曲をバックに、3人の有名なナレーターが(あ、その前にもう一人超有名なナレーター)歌詞を自分なりに朗読します。
10 欲望
男声ボーカルまでレパートリーにあるというのが、彼女の芸の幅広さを物語っています。これはさっきの中島みゆきと同じ趣向、井上陽水っぽい歌の陽水のものまねです。
11 私のフォーク・メドレー
これは、懐かしい曲のカバー。デフォルメして本人よりも本人らしいものに仕上げるというのが、彼女の凄さでしょう。ここでも清志郎、憂歌団の木村、拓郎などの男声に挑戦、見事な成果を挙げています。もちろん森山良子やチェリッシュのえっちゃんの本人以上に「似ている」歌は絶品。でも谷山浩子は似てね~。
12 琉球慕情
これは歌詞にぶっ飛びました。いかにも沖縄っぽい歌詞も、良く聞いてみると食材を並べただけなのです。このアルバムでの一番のお気に入りになりました。
13 A Song for Me
これも歌詞が最高。偽善的なチャリティソングを見事におちょくっています。
ちなみにアルバムタイトルは、彼女のリップな、いや立派な「唇」がサービスで付いてくることから来ています(いらね~よ)。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-26 23:36 | ポップス | Comments(0)
Rhapsody in Blue
 とうとう最終回になってしまいましたね。オープニングのテロップで「Last Lesson」となっていたのが、ちょっと悲しい感じです。一応パリに留学するというところまで話が進んだので、その気になれば続編を作ることは出来るのでしょうが、二ノ宮先生がそれには難色を示しているということですので、実現は難しいのかも。しかし、クラシックのフィールドでこれだけの実績を作ってしまったドラマを、業界としては放ってはおかないでしょうね。なにしろ「のだめオケLIVE」など、関連の商品の売り上げと言ったら。
 あのサントリーホールを満席にしてのコンサート、締めくくりとしてふさわしい、立派なものでしたね。何よりも、マイクやテレビカメラが全く見えないというのが、変なリアリティを出しています。「テレビで見る」オーケストラのコンサートというものには、当たり前ですが必ずマイクやカメラが写っていますから、それがないと逆に嘘っぽく見えるという不思議なことが起こってしまいます。
 客席でのミルヒの言葉には、重みがありました。「音大を卒業する人はいっぱいいるが、オケの数には限りがある。ずっと音楽を続けていられるのは特別なことと思わなければならない」みたいなことだったでしょうか。二ノ宮先生の掲示板に、この番組の音楽監督(監修?)がさんざん書いていた、もっとシビアな言い口を少し角を取ったものに仕上げたのがこのセリフだったのかもしれません。現実のオーケストラでの就職活動はまさに熾烈、そんな「本音」を、キャストの口を借りてもらすあたりが、このドラマの凄さなのでしょう。
 シンフォニーは、カメラのアングルの見事さに感服しました。「見事」というのは、ほぼ完璧にボロを出さなかった、という意味です。一番難しいのは管楽器や打楽器が演奏しているところをきちんを合わせることなのでしょうが、冒頭の真澄ちゃんのティンパニはよっぽど練習したのでしょう、完全にシンクロしていましたね。管楽器も、倍管の編成になった木管は、ソロの部分ではまずアップにしないという「鉄則」を守った結果、音楽ビデオとしてみた場合には全くつまらないものになりました。どんなビデオを見ても、序奏のフルートソロは必ず写っていますからね。もちろん、ドラマなのですから、その間にのだめのアップなどを入れてお茶を濁すという、セオリー通りの流れになるわけです。それほどの配慮をしたにもかかわらず、オーボエパートでなぜかトップではなく1アシを吹いている黒木クンが、まずダブらせることのないところで吹いていた、などというところが見付かってしまいますから、たまりません。
 千秋の指揮ぶりは、この番組の収録中に格段の進歩を遂げたことが、このシーンでよく分かります。全ては指揮コーチの梅田さんのおかげなのでしょう。おそらく、千秋も梅田さんのビデオを見て猛練習に励んだに違いありません。その結果、梅田さんそっくりの指揮になってしまったのは、当然のことです。いかにも華のない指揮ぶりを感動的なものに変えたのは、目を真っ赤に泣きはらしての渾身の演技のおかげです。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-26 00:03 | 禁断 | Comments(0)
Der Messias
 3ヶ月ぶりに髪を切ってきました。実は、きのうの朝もいつも行っているその美容院に行ってみたのですが、顔なじみ、いつも担当してくれるCさんが、申し訳なさそうに「すみません。ちょっと混んでいますので30分ほどお待ち頂けますか?」と私に聞くのです。開店と同時に行ったのですが、すぐ前にちょっと面倒くさそうなおばちゃんが入ってしまったようなのですね。ちょっと早めに帰らなければならなかったので、「明日の朝一、予約できますか?」と、もはや予約は受け付けてはいないのは分かっていたのですが聞いてみると、「いいですよ、かえって申しわけありません」ということだったので、今朝のリベンジとなったのです。
 実はきのうは、もう一つ空振りのことがありました。だいぶ前からその日に「バッハ・コレギウム・ジャパン」のコンサート(モーツァルト版メサイア)があることは分かっていたのですが、「全席自由、当日券あり」ということだったので、別に前売り券も買わないでのんびり構えていたのですよ。それで、おとといのことですが、もう前売り券はないだろうと思いながらも、プレイガイド巡りをしてみたのです。前売りの方が500円安いので、まだ残っていれば買おうと。しかし、そこでは「だいぶ前に完売してしまいました」とか、「すでに販売制限がかかっていたので、当日券はないはずです」などということを聞いてしまったのですよ。そこで、主催者に「明日のコンサート、当日券はありますか?」と電話をしてみたら、冷たく「ありません!」と言われてしまいました。ねえ、チラシにちゃんと「当日券」と書いてあるのに、全く売らないというのですからね。これは完璧に主催者の見込み違いというものでしょう。そもそもこのアーティストのコンサートが、「全席自由、当日券あり」などあり得ないと思っていましたから。と言うわけで、こちらのリベンジは当分ないことでしょう。
 美容院の話ですが、このお店にこの前来た時に、中でかかっている有線の音がちょっと変だったことは、以前書きましたよね。でも、今日はそれがきれいに直って、普通のちゃんとした音になっていました。シャンプーが終わってそれをCさんに言うと、「そうなんですよ。あのあと有線さんに言って機械を交換してもらいました。ありがとうございました」と、お礼を言われてしまいましたよ。私が言ったことを、ちゃんと聞いてくれたのですね。あの時私がオケに入っていることを話したのもちゃんと覚えていて、「今度の演奏会はいつですか?」などと聞いてきましたよ。もっとも、それはカルテに書いておいたのかもしれませんがね。
 Cさんは、今年の「光のページェント」の話もしていました。「ツリーがきれいですね」と、私と同じ感想。確かに、交差点のところの「AUツリー」、今年はいつになく素晴らしいものでした。
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 もちろん、メインの「ページェント」の方は毎年変わらず、白色灯だけの勝負です。あの中に青色LEDが少しはいると、もっときれいになるのではないか、とは、誰しも思うことに違いありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-24 20:27 | 禁断 | Comments(0)
GODÁR/Mater
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Iva Bittová(Voice)
Marek Stryncl/
Solamente Naturali
Bratislava Conservatory Choir
ECM/476 5689
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2057(国内盤)


アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」でスタート、ペルトの名を一躍世界中に知らしめることとなったECMの「ニュー・シリーズ」の最新リリースは、スロヴァキアの現代作曲家ヴラディミール・ゴダールの作品集です。1956年生まれのゴダールは、映画音楽なども多数手がけている作曲家、いかにもECM向きの親しみやすい曲調を持っています。
このアルバムで全ての曲にフィーチャーされているのが、イヴァ・ビッタヴァーという女声ヴォーカルです。ゴダールはこの方の声にインスパイアされてこれらの曲を作ったといいますから、もちろん彼女に歌われることを前提とした作品が、ここには収められていることになります。彼女の声は、クラシック風の「ベル・カント」からは最も遠いところにあるもの、それは「民族的」という範疇で語られるべきものなのでしょうが、それと同時に彼女でなければ出せない独特の「味」のこもったものです。これらの曲の場合には彼女が歌うことによってのみ、曲の正しい(あるいは作曲者が想定した)姿が現れるという、そういう意味でもクラシックからは距離を置いたものです。そう、例えば、「クイーン」でのフレディ・マーキュリーのパートをポール・ロジャースに置き換えたところで、決してファンは満足しないというロック・ミュージックにも通じる、「持ち運びの出来ない(武満徹)」音楽として、彼女の声は存在しているのです。その様なキャラクターと、クラシック音楽のルーツであるルネッサンスやバロックの音楽を、同時に進行させる(作曲者は「ポリ・スタイリスティック」と言っています)というところが、とりあえずこのアルバムに現れているゴダールの「作風」です。
「マイコマシュマロン」というタイトルの曲で始まったとき、誰しも彼女のその特異な声の魅力にまず注目することになることでしょう。ヴィオラとチェロという薄いバックに乗って、「東欧」と言うよりは、「イスラム」、あるいは「ケルト」といったカテゴリーの方がぴったりするような、地声による独特のコブシとビブラートが淡々と響きます。何となくそれが私たちにも馴染みがあると感じられるのは、我が「演歌」に通じるようなものさえ、そこには漂っているからなのかもしれません(そんなこと言ってええんか?)。
「マニフィカート」という曲は、もちろんあのラテン語のテキストをスロヴァキア語に訳したものが歌われます。3つの部分に分かれていて、最初と最後がビッタヴァーのソロ、ハープの低音と弦楽器のドローンの中に、あまたの同名の曲とは全く趣の異なるテイストのヴォーカルが流れます。中間部は全く別の世界、ここでは普通の西洋風の発声をしている合唱団が「マニフィカート」と繰り返す中で、弦楽器が極めてショッキングな不協和音のパルスを幾度となく打ち込みます。もっとも、驚くのは最初だけ、次第にそのパターンが分かってくると、それは心地よいアクセントに変わります。これと同じ手法が、その少し後に出てくる、このアルバムのタイトルともなった「スターバト・マーテル」で使われているのは、アルバムとしてのコンセプトなのか、作曲家の手の内の少なさが露呈された結果なのかは、分かりません。
Ecce Puer(この子供を見よ)」という、ジェームス・ジョイスの英語の歌詞による曲は、チェンバロやキタローネまでも入った「バロック風」の伴奏が、「AmGFE7」という(実際のキーはDmですが)ありふれた循環コードを延々と繰り返します。これも、作曲者により、あくまでもモンテヴェルディからの引用だということが強調されています(もちろん、そんなことはライナーを読まない限り分かりません)。「レジナ・チェーリ」は、もろヘンデルかヴィヴァルディのオケになっています。その中で、ソリストはちょっと力んだ歌い方をしていますから、それは限りなく「演歌」に近づきます。ヘンデルをバックにした演歌、これは笑えます。最後に、リプリーズとして冒頭の「マイコマシュマロン」が、全く異なるコブシによって歌われます。これこそが、譜面にあらわすことの出来ない「非クラシック」を象徴する出来事なのでしょう。
ペルトに飽きた人にはこのゴダールがお薦めです。しかし、この音楽はペルト以上に飽きられてしまうのが早いかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-23 20:41 | 現代音楽 | Comments(0)
Copying Beethoven
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 「敬愛なるベートーヴェン」を見てきました。なかなか評判がよい上質の音楽映画だということだというので、ぜひみたいと思っていたもの、しかし、劇場にまで行ってすぐ見たいと思った直接の要因は、「Copying Beethoven」という原題でした。「ベートーヴェンをコピーして」、これは一体どういう状況を表しているのでしょう。かなりフィクションの入った作品だということですから、もしかしたら「第9」を作ったのはベートーヴェン本人をコピーした別の人間だった、などというミステリーかもしれませんし。
 「コピー」の謎は、すぐに解けました。これは楽譜の「写譜」のことだったのですね。アンナという音大生が、楽譜出版社の「ベートーヴェンの新作交響曲の写譜師を求む」という広告に応じて面接に訪れるところから、物語は始まるのです。もちろん、ベートーヴェンが女性の写譜師を雇ったなどという史実はありませんから、この設定そのものがフィクションになるわけですが、その中にいくらかの事実を交えつつ、物語は進行していきます。クライマックスである「第9」の初演のシーンで、耳の聞こえないベートーヴェンのために、アンナがオーケストラの陰で指揮をする、というのも、確かに実際の初演の時には「副指揮者」が2人付いたという事実に基づいたものでしょうし、曲が終わっての拍手にも気付かないベートーヴェンを聴衆の方にアンナが振り向かせるというのも、史実(実際はソプラノ歌手ですが)が元ネタになっているのでしょう。
 この映画と似たようなものを見たことがあったな、と思ったのも当然、これはあの「アマデウス」に非常によく似た体裁を取ったものだったのです。あちらもストーリーそのものは全くのフィクション、そこに本当のことを散りばめてリアリティを出すという手法を取っていました。その「本当のこと」の最たるものがモーツァルトその人の描写だったわけですね。これを見たおかげで今まで抱いていた高潔なイメージが損なわれてがっかりした人がたくさんいたことは想像に難くありません。「ベートーヴェン」でも、彼自身の生々しいまでの人間像の持つリアリティには圧倒されてしまいます。エド・ハリスが、そんな「粗野」さを思い切り派手に演じていますし、それと裏腹の「自分は作曲するために神に選ばれた」という高慢さもよく伝わってきます。髪の毛があるとないとでは、キャラクターが全く変わってしまうのですね。病床にあって、アンナに口述筆記をさせるというのも、「アマデウス」そのものです。
 音楽の使い方は「のだめ」の比ではありません。アンナが最初にベートーヴェンの元にやってきたときに写譜を見せて、「Bマイナーに直した」という部分のちょっと前まで、その前のシーンの時に流れていたのに気付いた方も多いはずです(もっとも、これはBメージャーからBマイナーに変わらないことには、次のDメージャーにつながりませんからあまり効果のあるエピソードではありませんが)。
 もちろん、突っ込みどころは山ほどあります。サントラはユニバーサルの音源が使われていますから、コンセルトヘボウなのでしょうが、「初演」の模様だったら「18世紀オーケストラ」とか「レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク」のものだって同じレーベルにあるのに、と思ってしまいます。1楽章からコントラファゴットが構えているのは変ですし、そもそも1824年にはチェロのエンドピンなどなかったはず。そんな些細なことではなくても、「第9」の歌詞を字幕で出さなかったのは完全な失態です。「星の上に神が住んでいるに違いない」という部分でなぜあれほどの恍惚感に浸れるのか、普通の日本人には決して分からないはずです。
 帰りの車の中で聴いたラジオで、全く偶然にこの映画を紹介していました。「自立する女性の姿」を描いているんですって。色んな見方があるものです。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-22 21:49 | 禁断 | Comments(1)
VERDI/La Traviata
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Anja Harteros(Violetta)
Piotr Beczala(Alfredo)
Paolo Gavanelli(Germont)
Zubin Mehta/
Bayerisches Staatsorchester
FARAO/S 108070(hybrid SACD)



2005/6年のシーズンを最後にバイエルン州立歌劇場の音楽監督のポストをケント・ナガノに譲ったメータの、この歌劇場での置きみやげともいうべき録音です。2006年の3月に行われたこの公演は、アニャ・ハルテロスとピョートル・ベチャーラという、若手の実力シンガーを主役に得て、格別に精気あふれるものとなったことが、この「音だけ」のCD(SACD)からもうかがえます。昨今はDVDで「映像付き」のオペラを楽しむことが主流化した感がありますが、こんなピュア・オーディオにもまだまだ捨てがたい魅力があることが再認識されたものです。
そんな、まるで眼前に舞台が広がるような文字通りドラマティックな音楽を作り出していたメータにこそ、まず拍手を送るべきでしょう。第1幕の前奏曲がはじまったあたりこそ、あまりに即物的過ぎて物足りなさを感じたりもしますが、そもそもこの指揮者にはジメジメした深い情感は似合いません。後半の「ズンチャッチャ」が聞こえてくれば、持ち前の浮き立つような音楽の始まり、そのままパーティーの喧噪へとつながっていきます。この場面では、オーケストラ、合唱とも完璧なアンサンブルで大いに盛り上がります。メータは、そんなスタッフをとことん信頼して、ドラマの要所要所で、時には許容量の限界に挑むほどの高いテンションの感情を与えていきます。そのはまりようといったら、まさに百戦錬磨の強者といった感じでしょうか。ことごとくツボを押さえた小気味よさは、どんな人をも納得させる力を持ったものです。そんな芸風ですから、第3幕の細かい情景がちょっと心配になりますが、意外なことにこの場面から繊細さが失われることはありませんでした。それどころか、少ない編成でのしっとりとした語り口はとことん魅力的。ヴィオレッタとアルフレードが再会し、甘い「パリを離れて」のデュエットの前にオーケストラで奏でられるちょっと不思議な和声も、この物語の結末を物語る重要な意味を持っていることが、メータの指揮によって実に明らかに教えられたような気にもなって、好感度は増すばかりです。
歌手では、アルフレード役のベチャーラが最大の収穫でした。出だしの「乾杯の歌」から、その声には圧倒されっぱなしです。「リリック」ではありますが、もっと芯のある声には、とてつもない力を感じることが出来ます。そんな「強い」声に「泣き」が入るものですから、この役にはまさにうってつけ、純情な一徹さと、女心を虜にする甘さを遺憾なく発揮してくれています。ライブならではの傷もありますが、そんなものは気にならないほど、その疾走感は光っています。写真で見る限り、ルックス的にちょっと難があるのが心配ですが、そもそもパヴァロッティだって、フェロモンを感じるにはほど遠い風貌、軟弱なやさ男より、やはり勝負どころは声そのものです。そもそも、このようにCDで声だけを聴いている限りではなんの問題もないのですから。
ヴィオレッタ役のハルテロスも、その表現力の大きさには圧倒されます。ただ、それがあまりにも際立っているために、多少荒っぽく感じられなくもありません。正直、ここではベチャーラの端正さに比べるといくらか暴走気味なものも感じられます(「ハリタオス」ほどではありませんが)。ただ、おそらく実際のステージで他の役を見たらより一層の存在感が確かめられるのではないでしょうか。グリーク・オリジンのエキゾティックな風貌も、映像では映えることでしょう。
ジェルモン役のガヴァネッリは、渋い味を出してはいますが、オペラ歌手にはあるまじき「小室等」のような細かいビブラートがちょっと耳障りです。
ジャケットを見ると、第1幕でのデュエットで、アルフレードがヴィオレッタに自分が着ていた燕尾服を着せてあげるような演出になっていたようです。このオペラ、音だけで十分堪能できましたが、ステージの写真がもっと掲載されていれば、あれこれ想像できてさらに楽しめたのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-21 20:40 | オペラ | Comments(0)
Chor Aoba
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 来年3月の演奏会のチラシとチケットが出来上がりました。こんなに早く売り出すなんて、オケでは考えられません。これは毎年東京オペラシティのコンサートホールで開催している私の大学のOB合唱団の演奏会なのです。毎回この大きなホールを満席にするという勢いのあるコンサートですから、チケットの売り出しもこんなに早くからとなっています。
 私は去年から参加していますが、仙台と東京という地理的なハンディキャップにもかかわらず、出来るだけ練習には参加して、最終的には全曲暗譜で歌えたという、まさに久しぶりの完全燃焼に近いものを味わえました。もちろん、「歌を歌う」などというのは今となっては完全に生活の外にあるものでしたから、コンディションの調整には完全に失敗、本番では風邪をひいてしまってろくに声も出せなかったのですがね。今年は、そのあたりは気をつけて、本番に臨みたいと思っているのですが、どうなることでしょう。
 このコンサート、最大の魅力は、OBだからといって「昔を懐かしむ」というような後ろ向きの姿勢が一切ないということです。常に新しいことに挑戦しようというパワーは、もしかしたら現役の大学生よりも強いものがあるかもしれません。その現れが曲目です。男声だけのステージでは一応「オーソドックス」な定番をやっているのですが、その中に間宮芳生の「合唱のためのコンポジション」などという、言ってみれば「前衛的」な作品が交ざっているのに、ご注目下さい。今の合唱シーンでもその「新しさ」は決して失われていない曲です。ですから、技術的にははっきり言って高すぎるハードルがあるのは事実、しかしそれに果敢に挑戦する「元青年」の姿は、感動的ですよ。
 そして、何よりも今回私が楽しみにしているのが、このコンサートのために委嘱された新しい合唱組曲の、それこそ「世界初演」です。これは、絵本作家の安野光雅さんの歌詞に、森ミドリさんが曲を付けたもの、実は前回のコンサートで2曲演奏していたものを、さらに膨らませて7曲からなる「組曲」に構成したものなのです。安野さんの持つ包容力のある世界観を、森さんの親しみやすい音楽で曲としたもの、さっきの「コンポジション」とは逆のベクトルで、合唱の可能性を追求したものと考えていいのではないでしょうか。この曲は、この先間違いなく世の合唱団のレパートリーとして定着することでしょう。それが生まれる現場に居合わせ、それが初めてお客さんの前で音となる瞬間も演奏者として体験できるというのは、何にも替えがたい経験です。
 最終ステージは、お馴染み小原孝さんのピアノとのコラボステージです。コンサート全体のコンセプトが「時を超えて」というものですが、それに沿った過去、現在、そして未来まで見据えたメッセージが、確実に発信できるものと信じています。
 毎年、チケットの争奪戦はかなり熾烈なものがあります。逆にチケットノルマなどは一切ないというありがたい面もありますが、「身内」でないとなかなか入手できないというのは、ちょっと残念な気がします。今でしたら、まだ余裕がありますから、本当に聴いてみたいと思われる方は、連絡を下さればご都合できると思いますよ(と言ってもせいぜい2、3枚でしょうが)。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-19 23:16 | 禁断 | Comments(0)