おやぢの部屋2
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Sounds of Sund
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Robert Sund/
Orphei Drängar
BIS/BIS-NL-CD-5030



スウェーデン王立男声合唱団、いわゆる「オルフェイ・ドレンガー」は、1853年に創設されたという、気の遠くなるような歴史を持った合唱団です。ちなみに「オルフェイ・ドレンガー」という正式名称は、この合唱団が出来た時に最初に歌った曲が「オルフェイ・ドレンガー(オルフェウスのしもべ)の歌を聴け!」という歌詞で始まる「オルフェイ・ドレンガー賛歌」に由来しているのだとか、この曲は現在でもこの団体のテーマソングとして、コンサートの最初に演奏されています。200510月に東京で行われたコンサートも、この曲で幕を開けました。そう、このコンサートこそ、この世界最高の男声合唱団が実に21年ぶりに日本の聴衆の前に立ったという、まさに歴史的なものだったのです。その模様はテレビでも幾度となく放映されましたから、間接的にこのコンサートを体験された方も多かったはずです。それはまさに「世界一」の名に恥じない、素晴らしいものでした。80人以上の大編成が繰り出す迫力はとてつもないもの、かといってフットワークは軽やか、繊細なしなやかさが損なわれることは決してありませんでした。アンコールで演奏された武満徹の編曲による「さくら」で見せたまるでガラスのように煌びやかな色彩を持つ透明感は、男声合唱という次元をはるかに超えたものとして印象に残っています。
その時に指揮をしていたのは、40年にわたって指揮者を務めていたあのエリック・エリクソンの後を引き継いだローベルト・スンドでした。彼自身もかつてはこの合唱団の団員だったというスンドは、合唱指揮者であると同時に作曲家であり編曲者、彼の編曲作品はスウェーデン国内の合唱団の人であれば一度は歌ったことがあるというほどの、人気のあるものなのです。2006年の秋に録音されたこの最新のCDには、タイトル通りスンドがこの合唱団のために書き下ろした編曲が、たっぷり収録されています。
若い頃はジャズピアニストとしての経験もあったというスンドですから、ジャンルにとらわれない選曲と、その編曲のセンスにはひと味違ったものがあります。マンハッタン・トランスファーも歌っていた「A Nightingale Sang in Berkeley Square」では、ジャズ・トリオとの共演でノリのよいところを聴かせてくれています。信じられますか?80人の男声合唱が、軽やかにスイングしているのですよ。エリントンの「Sophisticated Lady」のダルな感じといったら、どうでしょう。
ピアソラの「La Muerte del Angel」でのタンゴのリズム感も素敵、メキシコ民謡の「La Cucaracha」(これは、日本のコンサートのアンコールでも歌っていました)では、なんとヴォイス・パーカッションまで取り入れています。もちろん、しっとり聴かせる「Londonderry Air」でのピュアな高音の美しさは、筆舌に尽くせません。
スンド自身が作った「男声合唱のための4つの歌」という曲も聴くことが出来ます。民謡的な素材にモダンなハーモニーを付けた、ちょっとおしゃれな曲です。
ゲストのソリストも充実しています。中でもエディット・ピアフの「La vie en rose」などで参加しているソプラノのジネッテ・ケーンの、しなやかな男声にしっかり溶け込んだ声は絶品です。ステファン・パークマンなどという合唱指揮界の重鎮(ベルリン放送合唱団とのCDがありました)の澄んだテノールも聴けますよ。
「夏至祭」(NHKの「今日の料理」のテーマに酷似)で有名な作曲家フーゴー・アルヴェーンによって「声のオーケストラ」とも呼ばれるほどの力を付けた後、エリクソンによって徹底的に磨き上げられたこの合唱団は、スンドの時代になってさらに幅広い視野を獲得しようとしています。その事を実感させてくれるのが、この素晴らしいアルバムです。これを聴かなければ後悔すんど
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by jurassic_oyaji | 2007-02-28 21:49 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Zaide, CZERNOWIN/Adama
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Mojca Erdmann(Zaide), Topi Lehtipuu(Gomatz)
Johan Reuter(Allazim), Renato Girolami(Osmin)
John Mark Ainsley(Sultan Soliman)
Basler Madrigalisten
Claus Guth(Dir)
Ivor Bolton/Mozarteum Orchester Salzburg
Johannes Kalitzke/
Österreichisches Ensemble für Neue Musik
DG/00440 073 4252(DVD)



モーツァルトが24歳の時のオペラ「ツァイーデ」は、未完の作品です。実はタイトルすらも付けられてはおらず、「ツァイーデ」というのは単に主人公の名前を持ってきただけの話、かつては「後宮」などというタイトルもありました。そう、これは、その2年後に作られることになる「後宮からの誘拐」の、プロトタイプのような出自を持ったものなのでしょう。一応ドイツ語のテキストによるジンクシュピールとして作られてはいますが、序曲すら残されてはおらず、あるのは15曲のアリアや重唱という断片だけ、物語を進めていくセリフもありませんから、正確なプロットも分かりません。とりあえず、後宮に奴隷として捕らえられているゴーマッツが、皇帝ゾリマンの寵愛を受けているツァイーデと恋に落ち、家臣アラツィムの助けを借りて逃げ出そうとしますが、あえなくゾリマンに捕まり死刑を宣告される、というのが大まかなあらすじだと分かる程度のものです。
したがって、これを上演なり録音する時には、何らかの方法で足らない部分を補う必要が出てくるのは当然のことです。例えば2001年に録音されたコープマンのCD(BRILLIANT)では、ナレーターがアリアの間に物語を解説する、という方法をとっていました。今回のザルツブルク音楽祭でのオペラ全作品の上演という特別な機会にあたって、その様な断片をつなぎ合わせて一つのきちんとした物語にするように委嘱を受けたのは、1957年生まれのイスラエルの作曲家ハヤ・チェルノヴィンでした。もちろん、彼女の作風を考えれば、それが単なる「つなぎ合わせ」だけの作業に終わるはずはありません。彼女が作った部分は新たに「アダマ」というタイトルを持つ全く別個の作品として成立するものになっていました。このタイトル、ジャケットでも分かるように大きなあだま(頭)のかぶりものが登場するから付けられたものでは決してなく、ヘブライ語で「地球」を意味する言葉なのだそうです。
会場のランデステアターのオケピットには、ボルトンの指揮するモーツアルテウム管弦楽団が入っていますが、これは「ツァイーデ」の音楽だけを演奏します。「アダマ」を担当するのはステージの上、扉の陰に位置しているカリツケの指揮するオーストリア現代音楽アンサンブル、歌手もそれぞれの曲に別の人が割り振られています。最初に始まるのは「アダマ」のパート、電子音が加わり、PAの施されたほとんどSEのようなサウンドが繰り出される間には、ステージ上にプロジェクターでなにやら凄惨な映像が映し出されます。そこで歌われる歌は、テキストのシラブルだけを抜き出したような鋭角的な言葉に、かなり偶然性の高い要素が加わったほとんど「叫び」のようなもの、そこにはそれに続いて演奏されるモーツァルトの音楽との共通点はなにも見いだせません。
「ツァイーデ」のパートも、「アダマ」とオーバーラップするような形で進行します。それはもちろんモーツァルトが作ったものがそのまま演奏されているのですが、そこで展開されているストーリーは「アダマ」の雰囲気をそのまま引きずったようなとことん暗いもので、「後宮からの誘拐」で描かれるハッピーエンドの要素など、気配すら感じられません。終始体を震わせながらおびえまくっているゴーマッツ、ヒステリックに叫び続けるツァイーデ、まるでロボットのような仕草で無意味に動き回るアラツィム、そして仕上げは、最初は「頭」をかぶって「アダマ」パートとして登場するゾリマンでしょう。自ら血糊を塗りたくり、ひたすら「死」を叫び続ける様は凄惨そのものです。ちなみに、この役を演じているエインズレーは、この「M22」の「女庭師」のベルフィオーレ役でも、食虫植物に喰われて血まみれになるという設定、ザルツブルクは彼に何という因縁を与えたのでしょう。
時間にして4割を占める「アダマ」、そのインパクトと強烈なメッセージで、本家の「ツァイーデ」の音楽があたかも「サンプリング」されたものが挿入されているような印象を受けてしまいます。そして、おそらくそれは制作者の目論見通りの成果だったに違いありません。カーテンコールでチェルノヴィンが登場した時に彼女へ向けられたブーイングは、フツーにモーツァルトを味わいたいと思っていた聴衆の、切なる思いの現れだったのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-26 20:41 | オペラ | Comments(0)
GOTTWALD/Transkriptionen
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Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
CARUS/83.181



お馴染み、クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲作品だけを集めたアルバムです。ここで演奏しているクリードとシュトゥットガルト・ヴォーカルアンサンブルが録音したゴットヴァルトというと、半年ほど前にご紹介したこちらのアルバムを思い出す方もいらっしゃることでしょう。実は、この中にはそこに含まれていたのとまったく同じ曲目も収録されています。特に最後のマーラーの「私はこの世に見捨てられ」は教会でのライブ録音ですから、もしかしたら同じ音源?と思ってしまうのは当然のことです。ただ、表示されている演奏時間がずいぶん違っています。しかし、聴き比べてみるとこれは全く同じもの、HÄNSSLER盤では拍手が入っていて、その分長くカウントされていた、というだけのことでした。もう2曲、ヴァーグナーの「ヴェーゼンドンク」からの曲も同じ音源、「温室で」の演奏時間が双方で異なっているのは、CARUS盤の単なるミスプリントです。
プロデューサーやエンジニアを比べてみても、この2枚の間には共通点が見られます。そもそもSWRが録音したものを「共同制作」という形で2つのレーベルに振り分けたものなのでしょう。HÄNSSLERはもちろんこの放送局とは密接な関係にありますし、CARUSの方はゴットヴァルトの楽譜を出版している、というつながりなのでしょう。もちろん、どちらのレーベルも本拠地はシュトゥットガルトですし。
その、「相互乗り入れ」を行っている曲を除いたドビュッシー、ラヴェル、カプレ、メシアンというフランスもの、そしてベルク、ホリガーというドイツものの編曲は、ほとんどが世界初録音となっています。1985年に作られた先ほどのマーラーの編曲が、今ではしっかり合唱団のレパートリーとして定着しているように、ゴットヴァルトが作り上げた多声部の無伴奏合唱による宇宙は、特異な存在感を主張して確固たる地位を築き上げました。ここで、その最新の成果に触れられる幸せは、例えばリゲティの「ルクス・エテルナ」を聴いて「イケテルナ」と、その魅力に取り憑かれた人にとっては何にも替えがたいものがあるはずです。
新しい地平を拓く、という意味で最も注目に値するのは、メシアンの「イエズスの永遠性に対する頌歌」ではないでしょうか。これは、ご存じ「世の(時の)終わりのための四重奏曲」の第5曲目、チェロとピアノによって演奏されるあの瞑想的な曲です。ピアノが刻むパルスをバックに、チェロが流れるようなゆったりとした無限旋律を奏でるというもの、それを合唱に置き換える際に、ゴットヴァルトはメシアン自身が「3つの典礼」という女声合唱曲のために作った歌詞を、コラージュ風に用いています。ここで必要とされるパートはなんと19声部、その厚ぼったい響きが主にピアノのパートを受け持った結果、この曲はオリジナルが持っていた単旋律の流れよりは、煌びやかな和声の移ろいの方がより強調されることになりました。言ってみれば、この曲の中にメシアンが遠慮がちに秘めていた輝きを、白日の下にさらしたようなもの、全く装いも新たな、ほとんど別な曲として生まれ変わりました。
カプレの「イエズスの鏡」からの3曲も、オリジナルでの控えめな合唱の使い方に物足りなさを感じていた人には嬉しい編曲でしょう。元の女声合唱を生かしつつ、器楽のアンサンブルや独唱を合唱に置き換えるという手法は見事です。
この合唱団は、ゴットヴァルトの編曲の持つ緊張感を、鋼のような硬質の音色で良く表現しています。ソプラノの一本芯の通った力強さはいかにも「ドイツ的」。ですから、フランス語のディクションの拙さもあってか、これらのフランスの曲の持っていたある種の「ゆるさ」が、もっと厳しいものに置き換わっているという印象は免れません。その点、アルバン・ベルクやハインツ・ホリガーの曲では、構成の逞しさまでも表現しきった編曲ともども、圧倒的な力を感じることが出来ます。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-24 07:03 | 合唱 | Comments(0)
Anno's Journey
 私が絵本マニアだというのはだいぶ前にカミングアウトしてありますが、その中でも安野さんのものは別格、「絵本」という範疇には収まりきれない一つの表現作品として、常に刺激を与えられるものでした。傘寿を迎えられたということですが、いまだにその創作意欲は衰えを見せていないようです。つい最近も「週刊朝日」に新しい連載が始まったということで、さっそく覗いてみました。これは例の掲示板で書き込みがあったもので、「安野学の大家」(掲示板ではそう呼ばれています)としては、見逃すわけにはいきません。
 もう一つ、その掲示板には気になることが書いてあったので、それを確かめるという目的もありました。それは、最近の安野さんのお体についてのコメントだったのですが、ちょっとギクッとするようなことが、確かに書かれていました。逆に、これほどオープンに書くからには、そんなに心配することではないのでは、という気にもなりますが。ここで見ることが出来る安野さんの最新作は、黄河のスケッチなのですが、その色合いはとても荒涼としたもの(何でも、現地の砂を絵の具として使ったのだとか)、しかもそのフォルムは極めて簡略化された、抽象の一歩手前といった趣です。もちろんカラー印刷なのですが、そこからはモノクロの水墨画のような世界を感じてしまいます。安野さんはここまでのところに到達してしまったのか、という感慨がわいてくるほど、それは深いものでした。
 その掲示板では、求められるままに私の蘊蓄を披露しようと、書き込んだのがこんなネタ。もっとも、これはファンだったら誰でも知っていることなのですが。
 私が最高傑作だと思っているのは「旅の絵本」の第1巻ですが、今手に入るものは教会の屋根葺きのページが最初に出版された時のものとは違っているのです。どこが違っているかというと、瓦が葺かれている位置です。初版では上から葺いていますが、これだと雨が漏ってしまいます。それを読者から指摘されて、その部分を書き直して、下から葺いているものが、今では使われているのです。
 しかし、この「書き直し」は、およそ安野さんらしからぬ雑な仕上げになっていますよね。オリジナルを見なくても、書き直した跡ははっきり分かってしまいます。おそらくこれは安野さんご本人の手による修正ではないのではないか、そんな気がしてならないのですが。
 それともう一つ、この修正版は色合いがまったく違っています。確かに印刷の時のムラということはあり得ますが、他のページではそれが全く違和感のないほどの違いなのに、このページだけが全く別の色になってしまっています。これも、おそらく原稿を差し替えた時の製版のコンディションなどで、違ってしまったのでしょうね。ですから、渋い色合いの初版本は、たとえ瓦の葺き方が間違っていても、私にとってはかけがえのない宝物です。
 (と、これは掲示板のコピーになってます。あちらは会員制ですから普通の人は見れませんが、せっかくだからこちらのコンテンツにもしたいという貧乏根性の現れ、Mさん、お許しを。)
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by jurassic_oyaji | 2007-02-23 21:06 | 禁断 | Comments(0)
Wolfgang Windgassen singt Wagner
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Wolfgang Windgassen(Ten)
Richard Kraus, Ferdinand Leitner,Leopold Ludwig/
Bamberger Symphoniker, Münchener Philharmoniker,
Radio-Symphonie-Orchester Berlin
DG/000289 477 6543



昔からレコードを聴き続けている人にとっては、これはとても懐かしいジャケットデザインなのではないでしょうか。ドイツ・グラモフォンの、多分モノラルLPの時代のものが、こんな感じ、レーベルカラーの黄色がベタで広がっているというデザインです。ステレオ時代になると、今でも使われている「枠」で、この黄色い部分を囲むようになるのでしょうね。
1914年に生まれて1974年に亡くなった不世出のヴァーグナー歌手、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのこのソロアルバムも、1953年から1958年にかけて録音された、もちろんモノラルLPでした。今回はその初CD化、LPには収録されていなかった「マイスタージンガー」からの3曲もボーナス・トラックとして加わっています。
ただ、データはそれぞれのトラックの録音年しか記載されておらず、プロデューサーやエンジニアの名前は分かりません。さらに、ちょっと問題なのはここで演奏している指揮者とオーケストラがどの曲を演奏しているのかという情報が全く欠けていることです。指揮者は3人、オーケストラも3つクレジットされていますが、誰がどのオケを振っているのかすら分かりません。まあ、半世紀以上前のものですからそれは許してあげましょうか。私たちはヴィントガッセンの声さえ聴ければいいのですから。
実際に聴き始めると、録音のせいもあるのでしょうが、確かに、オーケストラがどこであるか分かったところで何の意味もなさそうな、いかにも田舎臭いサウンドにはちょっとひるんでしまいます。木管あたりもかなり怪しげ。しかし、ひとたびヴィントガッセンの声が響き渡ると、そんなことは全く気にならなくなってしまいます。何という存在感のある声なのでしょう。力強く、中身のいっぱいつまったその声は、まさに「ヘルデン・テノール」の理想的なもののように聞こえます。しかし、しばらく聴いているうちに、その存在感の拠り所は単に声の質だけではないことに気付かされます。それは、例えば「ジークフリート」の「鍛冶屋の歌」で見られるリズム感の良さなのかもしれません。どんなオペラ歌手にもありがちな、ちょっとした自分の都合による(ブレスなど)リズムの揺れが、この人の場合は全く見当たらないのです。
さらに、これだけの「強い」声を聴かされると、ほんのちょっと抜いた軽い声がとてつもない力となって伝わってきます。それが体験できるのが「ローエングリン」の「In fernen Land」でしょう。第1幕の前奏曲と同じ、透明な弦の響きによるイントロ(ここでのオケには、そんな透明感は望むべくもありませんが)に続いて歌われる歌には、この世のものとも思えない澄んだ輝きが宿っていました。その聖杯の物語が進むにつれて徐々に盛り上がっていくさまは、興奮なくしては味わえません。そして、最後はとっておきのあの力強い声です。
ちょっと不思議だったのは、「パルジファル」で歌が始まった瞬間に、他の曲では見られなかったような明るさが感じられたことです。もしかしたらキャラクターの若々しさを表現するために意図して音色を変えていたのかもしれません。これはすごいことです。
これほどのコントロールがきいて、自在に表現を操れる「ヘルデン」など、現代のテノールの中にはちょっと見当たりません。あるいはヨナス・カウフマンあたりが、将来はそうなって欲しいという思いを託せる人でしょうか。
ただ、ボーナス・トラックの「マイスタージンガー」は、なにか気の抜けたような一本調子で、表現はちょっと雑。このトラックの素性は知るよしもありませんが、こんなところがオリジナルLPで「ボツ」になった理由なのでしょうか。とは言え、久々に味わえたヴィントガッセンの魅力、暖冬の今年はなかなか機会がありませんでしたから、なによりの贈り物となりました(それは「雪合戦」)。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-22 21:11 | オペラ | Comments(0)
Tsuwano Iroha
 「コール青葉」は、メンバーとその周辺の人を含めると200人以上になる大組織です。その人たちの交流の場として、最近掲示板が設置されました。もちろん、そんな大規模なことをやるのは私ではありません。私のように出来合いの掲示板をそのまま使う、などということもなく、最初からプログラムを組んで作り上げたのは、東京でのメンバー。プロのウェブマスターです。設置されるやいなや、沢山のメンバーから投稿が始まって、大いににぎわいを見せるようになりました。その投稿の中で目立つのが、コンサートで歌う曲に関しての蘊蓄です。なにしろ、みんな学生時代には熱い語らいを日々行ってきた人ばかりですから、弁が立つことにかけては他の人に負けていない、という論客揃い、そこで、それぞれの曲に関してのマニアックなデータが、山のように書き込まれることになりました。
 そんなコアな話にはとても付いていけない、と思いつつふと思ったのは、今回の「組曲津和野」に関しての私の思い入れ、作詞の安野光雅さんのことはもう30年以上も「追っかけ」てきたものですから、そのあたりの体験には、他の人より年季が入っているはずです。というより、そもそも「絵本」などに関心を持つような人はそうそういないはずですから、このジャンルでは「負けない」自信があります。そこで、「安野さんのことなら任せなさい」みたいなことを書き込む私でした。
 実は、具体的に書くことなどはなにも決めていなかったのですが、とりあえず手元にあった2001年発行の安野さんの作品のアンソロジーを眺めていたら、その表紙に「TSUWANOの星座」というのがありました。
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 分かりますか?左端、鉄砲を持った男の子は「T」、その隣のおじいさんは「S」、全部合わせると「TSUWANO」となる星座なのです。2001年といえばこの年に津和野にオープンした安野光雅美術館、そう、来月私たちがおじゃまするところにちなんで発行されたものです。この表紙は、実は美術館オープン案内のポスターの原画なのです。
 これを見て、私には「これだ!」ひらめくものがありました。「津和野組曲」の中に「つわのいろは」という曲があります。これは、そのタイトルの通り「命短し/老化は早し/花のさかりは/20まで」といった具合に、「いろは」48文字を全てのフレーズの頭に盛り込んだという手の込んだ作品です。その中の、「れんげの畑/空にはひばり/つらい子守の/合歓の歌」という部分に「つ」を重ねてなぜかローマ字で「TSUWANO」という歌詞が出てくるのが気になっていたのですよ。ですからこれは、その星座の絵に引っかけて、安野さん(もしかしたら作曲家の森ミドリさん)が仕掛けたちょっとした悪戯だったのですね。
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 この曲には、もう一つ「仕掛け」が施されていました。これは、安野さんのファンだったらすぐ分かること。そんなことをさも得意げに書き込む私、長いこと安野さんのファンだったことを、これほど幸せに思ったこともありません。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-21 21:42 | 禁断 | Comments(0)
BUXTEHUDE/Membra Jesu Nostri
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Wolfgang Katschner/
Capella Angelica
Lautten Compagney
RAUMKLANG/RK 2403



今年は、1637年に生まれて、1707年に亡くなったドイツの作曲家、ディートリヒ・ブクステフーデの没後300年となる記念すべき年回りにあたっています。昨年の某有名作曲家の生誕250年には遠く及ばないものの、何かしらの恩恵はあるのではないか、というのは淡い期待に過ぎませんが。
かつてブクステフーデといえば、わずかにオルガン曲が聴かれる程度のものでしたが、最近では1972年に作品リストを作り上げたゲオルク・カルシュテットという人によって、その作品の全貌がほぼ明らかになっています。それが「ブクステフーデ作品目録Buxtehude-Werke-Verzeichnis」というものなのですが、これをそのまま頭文字をとって略号にすると「BWV」となってしまい、あの偉大な作曲家の作品目録と同じになってしまいますから、こちらは「BuxWV」と呼ぶことになっています。バッハさんと張り合おうなんて、どうがんばっはも無理に決まっています。
こちらの目録もバッハの場合と同じ手法を踏襲しています。つまり、ケッヘルのような作曲年代順ではなく、ジャンル別のナンバリング。その並び方もバッハと同じ、カンタータ、その他の声楽曲、オルガン作品、クラヴィーア作品、弦楽器の作品の順に通し番号が付けられています。トータルで275アイテム、かなりのものですね。そのうちの「カンタータ」と呼ばれる宗教的な声楽曲は1番から112番までというもの、こちらもそのうち全曲録音などがされる日が来ることでしょう。
そのカンタータの中で、特に人気を誇っている作品がBuxWV75にあたるこの「われらがイエスの四肢」です。以前別の演奏をご紹介したこともあるように、この曲だけでかなりの数のCDが出ているはずです。ブクステフーデの場合、1曲の「カンタータ」はバッハの作品のような長さはなく、ほんの10分足らずで終わってしまう程度の規模のものです。それを7曲ドッキングさせた「連作カンタータ」という形をとっているこの曲は、トータルでも1時間ほどの演奏時間ですから、1枚のCDとしても手頃なサイズとなっています。
今回のCDは2004年の録音、ここで指揮をしているのは、1984年に「ラウテン・カンパニー」というリュート・デュオのグループを結成したリュート奏者ヴォルフガング・カチュナーです。このグループは現在では他の楽器も加わった室内アンサンブルとして、バロック・オペラまでをその活躍の場として広げているものです。そして、彼らがまさにこの「四肢」を演奏する機会があった2002年に結成された合唱団が、ここで参加している「カペラ・アンジェリカ」、オリジナル楽器のフィールドで活躍しているプロの歌手が集められています。
今回の録音では、SSATBという5つの声部にそれぞれ2人ずつ、片方は「ソロ」担当で、ソリストとしてアリアや重唱を歌い、もう片方は「リピエーノ」として、合唱の時に「ソロ」と一緒に歌うという形です。アルトパートはもちろん男声アルトです。
アンサンブルには低音として、ヴィオローネと2本のテオルボが加わっているために、独特の安定した響きが聞こえてきます。それに支えられたヴァイオリンなどが、とても雄弁な音楽を作り出しているのが、まず印象的です。かつてよく見られたようなオリジナル楽器特有のいかにもとってつけたような不自然な表現は皆無、そこからは生き生きとした自発的な主張が感じられます。テンポはかなり速め、そのあたりが、この躍動感の源なのかもしれません。
合唱は、やはり自由度のあふれた伸び伸びとしたものです。2人のソプラノソロの声がかなり傾向が異なっていることから分かるとおり、決して小さくまとめようとはしていない姿勢が、結果として良いものを産み出しました。
速いテンポのせいでもないのでしょうが、「おまけ」としてBuxWV38「主よ、あなたさえこの世にあれば」とBuxWV62「イエスは私の生命の生命」という、「四肢」と関連のあるテキストのカンタータが2曲カップリングされています。最後に入っているBuxWV38は、決まった形のバスの上で歌われる「パッサカリア」、なかなか聴き応えのあるものです。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-20 23:09 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Così fan tutte
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Ana María Martínez(Fiordiligi)
Sophie Koch(Dorabella)
Stéphane Degaut(Guglielmo)
Shawn Mathey(Ferrando)
Helen Donath(Despina)
Thomas Allen(Don Alfonso)
Ursel & Karl-Ernst Herrmann(Dir)
Manfred Honeck/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00440 074 3165



女性の貞節の危うさを肴に賭を行うという不謹慎極まりないオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」に隠されたメッセージを、最近の演出家はそれぞれのやり方で明らかにしているということは、こちらで詳しく述べられています。少しでもまっとうな姿勢を貫きたいと思っている演出家であれば、題名の通り「女はみんな不倫をするものさ」などというノーテンキなテーゼをそのまま信用することは決してないということが、これを読めば分かることでしょう。
もちろん、スワッピングでお互いの関係に微妙な変化が生じたあとは、以前と全く同じ関係でいられるわけがない、というところでは共通しているものの、その「変化」の扱いは多種多様、今回の「M22」でのヘルマン夫妻のプロダクションでは更に新しいアイディアが開発されているのですから、楽しみは尽きません。
これは、「ザルツブルク」とは言っても、元々は2004年の「イースター」でのプロダクションだったものを、共同制作として「夏」の音楽祭のレパートリーにしたものです。まずは、祝祭大劇場の間口の広いステージを十分に生かし切った広々とした空間が目を引きます。地平線を思わせるホリゾント、その前には舞台装置らしいものは殆どなく、卵のようなオブジェが置かれているだけ、コンティヌオのチェンバロまでが(もちろん、奏者も一緒にいます)ステージの上にあるのには、なにかシュールな気配すら漂います。そう、まさに「シュール」の代名詞、あのサルヴァドール・ダリの世界がそこには広がっていたのです。場面転換のためにちょっとした小道具が使われますが、そこで登場するY字型の支柱(「三つ又」と言うんでしたっけ?)などは、まさにダリのモティーフそのものではありませんか。このようなステージで演じられれば、この物語を「現実」と捉える人は誰もいなくなるはずです。
ヘルマン夫妻のプランでユニークなのは、デスピーナのキャスティングでしょうか。本来は若いキャピキャピの「発展家(死語!)の小間使い」という設定だったものを、そこに起用されたのはヘレン・ドナートという超ベテラン歌手でした。しかし、なぜか超セクシー。あっけらかんと姉妹にアヴァンチュールをそそのかす、というよりは、「大人」として人生を楽しむように進言する、といった趣です。この役はアレンの演じるドン・アルフォンソの異様な老けぶりともマッチして、若いキャストで占められた恋人達との恋愛観、あるいは人生観の違いを強調しているかに見えます。
ところが、このプロダクションで明らかになるのは、ただの世間知らずのお嬢様だったはずの姉妹のとてつもないしたたかさでした。男どもが賭けの相談をしているシーンで、その広いステージの彼方から姉妹がその様子をのぞいているというカットが、執拗に映し出されることにより、この2人が男どものお芝居を知りながらそれに付き合っていくということが分かってしまいます。その結果、結婚式のシーンで「種明かし」をしたグリエルモは、フィオルディリージから手痛い平手打ちを喰らうことになってしまうのです。もちろん、その先に待っているものは救いようのない関係であることが、幕切れの演出で暗示されるのも当然のことでしょう。
ホーネックの音楽には、軽やかな滑らかさがあります。軽快そのもののハイスピードで突っ走る序曲から、その流れは始まりました。恋人達のそれぞれのアンサンブルもとても心地よいものです。女声ほどの個性があまり前に出ていない男声、特にテノールのマテイの声はとても魅力的でした。ただ、アリアの「Un'aura amorosa」(17番)あたりはあまりに軽すぎ、これからの人、ということでしょうか。もう少しまていろ(待っていろ)とか。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-18 20:50 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Requiem(Ed. Beyer)
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Jutta Böhnert(Sop), Susanne Krumbiegel(Alt)
Martin Petzold(Ten), Gotthold Schwarz(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig
Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4019



2006年1月のライブ録音ですから、バイヤー版としては最も新しいものになります。この年の1月と言えば、当然「お誕生日」である「27日」に演奏されたのでは、と誰でも思ってしまいます。しかし、実際は微妙に異なる「21日」でした。もしかしたら、「しち」と「いち」を間違えたのではないでしょうか(「いち字違い」って)。
録音されたのは、バッハゆかりのライプチヒ・聖トマス教会、ここでモーツァルトというのがちょっとユニークなところかもしれません。広い空間を感じさせるたっぷりとした残響が、とても心地よく感じられます。それが過度にモワモワしたものではなく、音の芯がくっきり捉えられているのが素敵なところです。ソリストの定位もはっきりしていますから、かなりオンマイクで録られているのでしょう、明晰さと雰囲気を兼ね備えた素晴らしい録音です。「ライブ」といっても、聴衆によるノイズが殆ど聞こえきませんから、スタジオ録音と変わらないクオリティを持っています。
フランツ・バイヤーの校訂によるモーツァルトのレクイエムは、出版されたのが1971年ですから、もう30年以上の「実績」を持っていることになります。何のかんのと言ってみても、現時点ではジュスマイヤー版に次ぐ演奏頻度を誇っており、このあたりが「版レース」の到達点なのかもしれませんね。長く親しまれたものは決して変えないで、問題のある部分だけさりげなく入れ替える、そんな謙虚さの勝利でしょうか。
そのバイヤー版の最初の録音の時にも、やはり今回と同じように少年合唱が使われていました(テルツ少年合唱団)。それは、オーケストラ(コレギウム・アウレウム)のレベルともどもとても今の聴衆の鑑賞に堪えられるものではありませんでした。その録音によって、この曲は決して少年合唱の演奏では聴くべきではないと刷り込まれてしまった人も多かったに違いありません。しかし、今回のトマス教会合唱団の少年達は、そんなトラウマも払拭してくれるほどの見事な演奏を聴かせてくれています。それをなし得たのは、一つには圧倒的な人数の多さでしょうか。少年ソプラノ、少年アルトのパートは合わせると40人近く、これだけ揃っていればこのパートに付き物の弱々しさは克服できるはずです。
そうは言っても、やはり少年特有のちょっと曖昧なイントネーションはついてまわります。「Kyrie」の二重フーガなど、音楽としての不満は全く感じられないにもかかわらず、ほんのちょっとしたところで見えてくる「拙さ」のようなものが、やはり気にはなってしまうのです。しかし、これがライブの力でしょうか、そんな頼りなさも曲が進んでいくうちに徐々に消えていくのが良く分かります。そして、それに入れ替わるようにして現れてくるものは、大人の合唱からは決して聴くことの出来ないひたむきな「力」だったのです。「Sanctus」あたりの何というストレートな力強さ。汚れていない心を持っているからこそ伝えることの出来る一途な訴えかけ、これは感動的です。
ハンス・ヨアヒム・ロッチュの後を継いで1992年にトマス教会のカントルに就任したビラーは、そんな少年達の力を信じ切った大きな流れの音楽を作ってくれました。これは、同じバイヤー版からゴツゴツとした醜いものを引き出した某カリスマ指揮者からは望むべくもない魅力です。やはり音楽は美しい方が良いに決まってます。
もう一つの収穫は、ソプラノのベーネルト。「Kyrie」で最初に彼女の声が聞こえてきた時には合唱団員が歌っているのかと思ってしまったほどの、澄みきった無垢な声は、久しくこの曲の録音からは聴くことの出来ないものでした。彼女はオペラでもキャリアを築いているそうですが、こんな声のスザンナはさぞ魅力的なことでしょう。いくら「花の乙女」でも、ヴァーグナーはちょっとやめてほしい気はしますが。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-16 00:13 | 合唱 | Comments(0)
Nodame Cantabile #17
 「のだめカンタービレ」の最新刊、17巻の発売日はきのうでしたから、さっそく買ってきました。平積みなどという生やさしいものではなく、専用のワゴンを出して、そこにこれだけを山積みという、ものすごい露出、いまだ人気は決して衰えていないことがうかがえます。なにしろここではアニメは見れませんから(ビデオを送ってくれるような人もいませんし・・・)、ドラマが終わってしまったらそれでブームが去ってしまったような気になっていたところでしたが、決してそんなことはなかったのですね。
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 今回の表紙はチューバです。楽器のアングルが裏側からということで、なかなか複雑な構造が見て取れます。ただ、なにか、いつもオケの中で見ている楽器との違和感がつきまといます。そのわけは、中を開いてすぐ、4ページ目で明らかになりました。マルレ・オケでの千秋の常任就任コンサートでのメインプロ、ニールセンの交響曲第4番が始まった瞬間にアップで登場したのはまさにチューバ奏者、その楽器のベルは、奏者の顔の左側にありました。チューバと言えば、こういう構え方をするのが良く見慣れているスタイルなのですが、表紙でのだめが構えている楽器だと、ベルが顔の右側に来てしまうのですね。そういえば、ピストンも上に付いていますね。なんか、ブラスバンドでこんな楽器を使っているような気がしないでもありません。そこで、調べてみたら、チューバには楽器によって2通りの構え方があることが分かりました。のだめの楽器は「トップアクション」と言って、右手を楽器の後から通して、ピストンを上から押さえるタイプ、これだとベルが顔の右に来ます。もう一つのタイプが「フロントアクション」というもの。これは右手を楽器の前に出して、ピストンを前後に動かすというものです。ピストンではなくロータリー式の楽器でも、同じ構え方になります。いやぁ、「のだめ」のおかげで一つ知識が増えました。
 このマルレ・オケ、オーディションで入ってきたファゴット奏者が「バソン」を吹いている人。オケの中でもしっかり「バソン」を貫きます。そのために1番がファゴット、2番がバソンという情景が、しっかり描かれています。ほんの豆粒ほどのトゥッティのシーン(14ページ)でも、その2番の楽器が「バソン」であることがはっきり分かります。ほんと、こんなマニアックなことをやっているマンガなんて、絶対今まではなかったはずです。その人の影響で、昔はバソンを吹いていた1番奏者もバソンに持ち替え、次の演奏会では2人並んでバソンになるというシーンが見られます。いよいよ「フランス風」の音を目指すことになるのですね。
 ところが、7ページに登場するクラリネット奏者は、そんな風潮に逆らうかのように「ドイツ風」のエーラー管を使っているのがアップで紹介されています。これは一体どうしたことなのでしょう。
 次の演奏会のメインはベートーヴェンの4番、これに呼応するように、タイトルページにはそのスコアが印刷されています。序奏の最後の部分でしょうね。スコアの一番上の段、フルートの部分を見てみるとそこには1つのパートしか書かれてはいませんよね。そう、この曲の木管はフルートだけ1本、他は2本という変わった編成なのですよ。ところが、95ページを見ると、フルート奏者は2人います。ファゴット奏者は2人しかいませんから「倍管」はあり得ません。ここは千秋が「真っ白」になってしまう瞬間、これは多分目の錯覚なのでしょう。
 このオケの客演指揮者が「アーロン・ネビル」ですって。もうちょっと誰も知らないマシな名前はなかったのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-14 20:39 | 禁断 | Comments(1)