おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
<   2007年 05月 ( 17 )   > この月の画像一覧
音楽家カップルおもしろ雑学事典
c0039487_20131472.jpg






萩谷由喜子著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-81855-0


サブタイトルは「ひと組5分で読める」、メインタイトルともども、ちょっと軽めのスキャンダラスな読み物のような先入観を持って読み始めると、そのあまりに緻密な筆致に戸惑いをおぼえることでしょう。これは、「雑学」などという上っ面な言葉から連想されるイメージをはるかに超えた、ほとんど学術論文の域に達しているほどの著作です。
クレモナの名工ストラディヴァリから、ミュージカルのヒットメーカー、ロイド・ウェッバーまでという、幅広い時代とジャンルがカバーされているのに、まず驚かされます。そして、もちろんそこで扱われているカップルの物語は、さまざまな様相を示してくれています。一生仲むつまじく暮らしたものがある一方で、つらい別離を味わうものあるというのは、もちろん当たり前の話、音楽家に限らず、男女の仲などというものは、まさに千差万別なのですから。
そんな中で、どうしても別れ話の方につい引きつけられてしまうのは、他人の不幸を眺めて我が身の幸せを噛みしめたいという卑しい根性のあらわれでしょうか。例えば、ショパンとジョルジュ・サンドという、まるで運命の導きであるかのように結びつき、創作意欲の源となった関係でさえも、時が過ぎれば次第に疎ましくなってくるという様を、細かな時系列とまわりの人間との微妙なスタンスの変化を交えつつ丁寧に描かれれば、これもまた男女間の生業と悟ることが出来るはずです。「私の腕の中以外のところでは絶対に死んではだめよ」と言い続けていたサンドが、9年も経った頃にはあっさりこの愛人を捨ててしまうに至る経過は、筆者の豊富なリサーチに基づく刻銘な描写によって、手に取るように理解できるのです。
生涯一度も会うことのなかった庇護者、フォン・メック夫人が、チャイコフスキーに援助打ち切りの手紙を送ってきたくだりも、迫力に満ちたものです。突然の一方的な知らせに、何度問い合わせの手紙を出してもなしのつぶて、これは、今でしたらメールの着信拒否でしょうか。永遠に関係が続いていくと信じていたときのこんな仕打ちがいかに辛いものか、思わず我が身に置き換えて嘆きにくれる読者も、もしかしたらいるかもしれませんね。この場合は、最近の資料による証言によってその真相を知ることが出来ますが、現実には何も知らされないままの方が遙かに多いことでしょうから。
プッチーニと彼の妻エルヴィーラが結婚するまでのいきさつ、そしてその後日談などは、今回初めて知ることが出来ました。夫を捨ててまでして貧乏な作曲家との禁断の恋を選んだというのに、その相手が成功を収めたあとの豹変ぶりはどうでしょう。すっかり金の亡者と成り果てて、何一つプッチーニの創作上の助けなど出来なかっただけでなく、挙げ句の果てには個人的な嫉妬から、何の罪もないメードを自殺にまで追いやってしまうのですからね(冥土のみやげに「私の体を調べてください」と書き残したため、潔白が証明されました)。
こんな感じで、なぜか筆者のスタンスは女性に厳しく、男性が憎めないものとされているのが、心地よく読み通せた原因だったのかもしれません。そのせいで、ちょっと技巧的でくさい構成も、ほとんど気にはなりませんでした。
ボーナス・トラックとして、本編の「49組」以外に、さらに「21組」のごく簡略な紹介があります。それによってアンドレ・プレヴィンとアンネ・ゾフィー・ムターが、2006年にすでに離婚していることを知りました。ほんと、「ずっと一緒よ」などという口約束ほどあてにならないものもありません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-31 20:25 | 書籍 | Comments(0)
BRUCKNER/Motets
c0039487_20195275.jpg



Petr Fiala/
Czech Philharmonic Choir Brno
MDG/MDG 322 1422-2



教会のオルガニストであったブルックナーは、折に触れて礼拝のための小さな合唱曲を作っています。「モテット」というカテゴリーで一括して分類されているこれらの曲は、1984年に「小規模教会音楽作品Kleine Kirchenmusikwerke」というタイトルで新全集の第21巻として出版され、その全貌が知られるようになりました(こちらを参照)。それに伴って、これらの曲だけをコンテンツとするCDも数多くリリースされるようになり、交響曲作曲家として広く知られているブルックナー像とはもてっと違った、別の親しみやすい一面にも光が当たるようになってきました。
そんな「モテット集」の最新アルバムです。演奏しているのはチェコのブルノを本拠地としているチェコ・フィルハーモニック合唱団、以前フォーレのレクイエムの録音を聴いたときに、大人数にもかかわらずまとまりのある繊細な演奏をしていたという印象のある団体です。
まず、このブルックナーの録音でも、その時と同じ印象が与えられたのには、嬉しくなってしまいました。正直、この曲は少人数でしっとりと歌っているものを多く聴いてきたものですから、こんな大人数(50人ほどでしょうか)では大味になってしまうことを危惧していたのですが、そんな心配は全く必要ありませんでした。各パートともとても柔らかな音色に包まれていて、響きもとてもピュア、かなり訓練の行き届いた合唱団という印象があったからです。特に女声パートのの無垢な美しさには惹かれるものがあります。その上に、いかにも大人という感じの表現の深さが加わります。極力ブレスを少なめにした長いフレーズからは、よく練られた熟達の味が伝わってきます。
それだけでも嬉しいのに、このアルバムには今まで出ていたほかのアルバムには含まれていなかった曲が多く収録されているのですから、喜びもひとしおです。それは、ブルックナーがまだ20代だった1846年に同じ「Tantum ergo」というテキストに集中的に作曲した5曲のモテットです。もっとも、ここで演奏されているのは、後年、1888年に改訂された「第2稿」によったものです。ジャケットに「1846年」という表記しかないのは、ちょっと不親切、というか不正確です。
交響曲でさんざん自作をいじくりまわすという、彼の改訂癖についてはよく知られていますが、このようなものにまで改訂の手を施すというあたりが、ブルックナーの面目躍如といった気がして、なんだか和みませんか。その中で変ホ長調の曲(新全集Nr.37-3)の第1稿(上)と第2稿(下)を比較してみると、こんな感じになっています。
c0039487_2021296.gif
c0039487_20215697.gif
バスや内声の動きだけでなく、メロディも微妙に異なっています。7小節目のテノールの動きなど、いかにも「晩年のブルックナー」という感じが加わっていますね。
こちらで見ることが出来るように、今まで、CAPRICCIO盤、NAXOS盤、CARUS盤では散発的にニ長調のもの(Nr.38)などが収録されていたことはありましたし、変イ長調(Nr.37-2)とハ長調(Nr.37-4)はORFEO盤だけにはありました。しかし、5曲全部がこのように一堂に会するのは、おそらく今回のCDが初めてのことではないでしょうか。
その他にも、1854年に作られた「Libera me」などという録音に恵まれていない曲も収録されています。トロンボーン3本とオルガンが加わるという大規模な、それでいてシンプルな美しさに満ちた曲が、このようなすばらしい演奏で聴けることになった喜びを、噛みしめているところです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-29 20:22 | 合唱 | Comments(0)
STRAVINSKY/Le Sacre du Printemps, Petrouchka
c0039487_20515995.jpg

Evgeny Svetlanov/
Orchestre Symphonique d'État de la
Fédération de Russie
Orchestre Philharmonique de Radio France
WARNER/5101 14507-2



フランスのワーナーから、「オフィシャル・エディション」ということで、スヴェトラーノフの録音が、完成すれば全部で100枚の全集となる予定で進行中です。ニーナ未亡人の監修で進められているこのプロジェクト、全部が出揃うのは2010年の秋になるのだとか、 気の長い話ですががんばってほしいものです。というのも、最近のCD業界の変化の早さを見ていると、3年も先のメジャー・レーベルのクラシックに対する姿勢などとうてい予測できないからです。ただ、これからの新録音などはありえませんから、ほとんどがリイシュー、そんなに手間もリスクは多くはないはずですが。
ウェブサイトに連動、サイトのデザインをそのままジャケットに転用したとてもスマートなパッケージからは、このロシアの巨匠の泥臭いイメージを感じなさいと言われてもとても無理なような気さえしてしまいます。オーケストラの名前がフランス語表記なのも、そんな印象を助長するものなのでしょう。もちろん、「ペトルーシュカ」を演奏しているのはれっきとしたフランスのオーケストラですが、「春の祭典」は「ロシア国立交響楽団」をフランス語で書くとこうなるということです。
その「春の祭典」は、1966年の録音ですから、正確には「ソヴィエト国立交響楽団」と表記しなければならないのでしょう(現在の呼称で統一しているのだと思いきや、きちんと「ソヴィエト~」となっているアイテムもあるそうなので、油断は出来ません)。もちろん、これは以前MELODIYAからリリースされていたものです。今回はマスタリングが新しくなったのでしょうか、そんなソヴィエト時代のちょっと怪しげな音ではなく、ごく最近の録音だといっても通用するようなクリアな音であることに驚かされます。一つ一つの楽器の粒立ちが非常に際だっていて、その分、演奏家の細かい息づかいまでしっかり伝わってくるような気がします。そんな中で感じられるのが、この曲の中にある「ロシア的」な一面です。とかく複雑なオーケストレーションの処理に目が行きがちなものですが、ここでは、例えばピッコロのちょっとしたフレーズや、装飾音の付け方の中にもしっかり「哀愁」のようなものが宿っているのを見つけることが出来ます。オーボエあたりのちょっと不思議な音程の取り方も、ロシアの血のなせる技なのかもしれません。アルトフルートのソロでも、ノンブレスで淡々と吹いている様には何か民族的な楽器のであるかのような雰囲気さえ漂います。それと同時に、打楽器や金管楽器の、まるでロシアの大地を思わせるような、ほとんど暴力的でさえある力強さも感じないわけにはいきません。銅鑼の一発からさえ、何か特別な思い入れが聞こえてくるほどです。
もう1曲の「ペトルーシュカ」は、今回が公式には初出となるはずの、1999年にパリで録音されたフランス国立放送フィルハーモニックとの演奏の放送音源です。これは「春の祭典」とは全く対照的、もう、最初のフルートソロからロシアのオーケストラとは全く異なる滑らかな響きを聴くことが出来ます。曲自体もさまざまなアイロニーが込められた一筋縄ではいかないものですから、このフランスのオーケストラのサウンドは好ましいものです。そんなオーケストラを操るスヴェトラーノフ、無理に自分の趣味を押しつけようとはしないおおらかさの中にも、しっかりと自分の個性だけは反映させているのですから、さすがです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-27 21:04 | オーケストラ | Comments(0)
AHO/Contrabasoon & Tuba Concertos
c0039487_19382574.jpg

Øystein Baadsvik(Tub)
Mats Rondin/Norrköping SO
Lewis Lipnick(CFg)
Andrew Litton/Bergen PO
BIS/BIS-CD-1574



フィンランド語には日本語と似たような発音の言葉がたくさんあるのだそうです。「スシ」といえば「狼」のことですし、「兎」のことを「カニ」というように、意味の方は微妙に違っているところが面白いですね(全然違ってますって!)。ですから、今やフィンランドを代表する作曲家とされているこの「アホ」さんも、同じ発音の日本語とは全く違う意味を持っているのだと思いたいものです。
1949年生まれのカレヴィ・アホは、最初はシベリウス音楽院で作曲をラウタヴァーラに学びます。卒業してからも、ベルリンで1年間ボリス・ブラッヒャーに師事、正統的な技法を身につけます。彼の作品は、4つのオペラを筆頭に多岐にわたっていますが、中でも12曲の協奏曲が目を引きます。そこで選ばれている独奏楽器は、オーケストラのほとんどの楽器をカバーしています。そのほかに交響曲第9番では、トロンボーンがソリストとして活躍しているように、それらは数多くのソリストたちとのコラボレーションの結果なのでしょう(例えば、その交響曲はクリスティアン・リンドベリ、フルート協奏曲は、シャロン・ベザリーのために作られました)。
そして、このCDでは、なんとチューバとコントラファゴット(ふつうは「コントラバスーン」とは言いません)のための協奏曲です。どんな楽器を扱おうと壮大なパノラマなような世界を築きあげるアホ、ここでの成果も期待できるはずです。オーケストラの最低音を受け持つ金管と木管の代表選手、その名人芸を堪能することにしましょう。
「チューバ協奏曲」は、2001年にラハティ交響楽団のチューバ奏者ハリ・リズルによって初演されました。ここでは、チューバという楽器の持つ幅広いキャラクターが遺憾なく発揮されています。それは、実は想像以上の成果だったのかもしれません。おそらくこのCDでの演奏家、オーケストラに属さずに、フリーのチューバのソリストという非常に珍しいポジションで活躍しているノルウェーの名手オイスタイン・ボーズヴィークの力によるものなのでしょうが、この楽器のほとんど知られることのないリリカルな一面が、実にくっきりと伝わってきたのです。あのどでかい図体からは想像できないような、ソフトでフレキシブルな歌い口、それはとろけるようなビブラートと相まって、誰しもを魅了することでしょう。そして、それとは極端なまでにかけ離れたエネルギッシュな低音の咆哮とのあまりの落差に、やはり誰しもが驚かされるはずです。ほんと、この、まるでチョッパー・ベースのような粒立ちのはっきりした低音は、ほとんど生理的な快感を得られるほどの勢いを持っていました。
「コントラファゴット協奏曲」は、ワシントンのナショナル交響楽団のコントラファゴット奏者ルイス・リプニックの委嘱によって、2005年に作られました。ここでもそのリプニックが演奏しています。まず冒頭に現れる長大なソロによって、この楽器の不思議なサウンドに度肝を抜かれることでしょう。そして、同じ低音でも、この楽器にはチューバとは決定的に異なる何かおどろおどろしい情念のようなものがついてまわっていることに気づかされるはずです。もはや旋律楽器というイメージはほとんど望めない、まるでサウンド・エフェクトのような役割を期待しても、それほど的外れではないことも分かるはずです。アホがそのあたりを意識したのかどうかは分かりませんが、それ以降、オーケストラが入ってくると、この楽器はコンチェルトのソリストというよりは、時折登場して面白いことをやってくれる道化師のような役割を演じさせられているような錯覚に陥ってしまいます。アホのオーケストレーションはとことん華麗さを追求するものですから、他の管楽器たちは手ぐすねを引いて存在感を誇示しようとしているものばかり。そんな中にあって、このソロ楽器はかなり屈辱的な扱いを受けているように感じられてしまうのも、またコントラが持っているキャラクターのなせる技なのかもしれませんね。今度はもっと引き立つような曲を書いて下さいね、アホさん。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-25 19:39 | オーケストラ | Comments(0)
Denim
c0039487_21435914.jpg




竹内まりや
MOON/WPCL-10405/6


2001年に発表されたBon Appétit以来6年ぶりとなる新しいオリジナルアルバムです。2003年に出たLongtime Favoritesはオールディーズのカバー集ですからカウントはされなかったのでしょう。
このアルバムの発売に先だってのプロモーションには、すさまじいものがありました。別にバストが大きいとかそういうことではありませんが(それは「プロポーション」)。それは、最近の音楽シーンではごく当たり前のように行われているものなのでしょうが、実際に贔屓のアーティストがそんな現場で営業活動にいそしんでいる様子を見ていると、ちょっと悲しい思いがよぎります。全国各地の放送局を回って、さも、その土地だけにやってきてファンの皆様のためにラジオに出演しています、みたいな顔をして、2~3週間は使えるほどのインタビューを収録していくのですから、何とも大変なことです。しかも、話している内容はいかにこの新しいアルバムが素晴らしいかということを微に入り細に入って説明するというもの、有り体に言えば、それはこれから聴こうとするリスナーの想像力までもねじ曲げてしまうほどのお節介な行為なのではないでしょうか。正直、アイドル時代からの長年のファンである私でも、今回の異常とも思えるプロモーションにはいささかげんなりしているところです。
そんなわけで、実はアルバムを実際に聴く前に、あらかたのものはラジオを通じて聴いてしまっているのですから、今度はじっくりCDによって、録音されたままの美しい音で聴くのが何よりの楽しみになってくるはずです。ところが、その音があまり良くないのです。最近のポップスのCDは、マスタリングのレベルがとてつもなく高くなっていることは知っていましたし、実際にそういうものを何枚か聴いたことがあります。もちろん、それは単にボリュームを絞りさえすれば、きちんとクリアな音で聞こえてきたものです。しかし、今回はレベルを下げても音のクオリティが極端に悪いままなのですよ。ヴォーカルは何かざらついていて潤いがありませんし、オケの音場も平板でそれぞれのパートが主張してくることがありません。私のシステムはかなり古いものですが、クラシックに関しては何不自由なく作り手のメッセージを受け止めるだけの力は持っています。今のこういう世界のエンジニアは、音圧を上げることにのみ汲々とした結果、少し前の製品ではまともに再生できないような独りよがりの規格を作り上げてしまっているのではないでしょうか。
と、2つの点でがっかりしてしまったものの、このアルバムは音楽的にはとても味わい深い仕上がりになっています。その最大の要因はセンチメンタル・シティ・ロマンスの起用でしょうか。この名古屋の老舗バンドは、まりやの初期のアルバムには参加していたものの、最近の作品ではとんとご無沙汰でした。2曲収録されているうちの1曲「シンクロニシティ」などは、まるで1981年のアルバム「Portrait」に収録されている「Natalie」そのもののテイストでしたから、嬉しくなってしまいます。そして、おそらくこのアルバムの中心となっている「人生の扉」での、カントリーの王道を行くまったり感はどうでしょう。今のシーンではとんと聴かれることのない告井延隆のペダルスチールとフラットマンドリンのようなのどかなサウンドが、それこそこれだけのプロモーションをかけてヒットチャートの上位を占めるアルバムで聴けることの意味は、小さくはないはずです。
反面、これまでのまりやのアルバムでの最大の楽しみであった山下達郎のコーラスが幾分控えめになったような気がするのが残念です。「みんなひとり」で、松たか子まで交えて挑戦したスリリングなまでのコーラスのバトル、コーラスアレンジャーとしての達郎は健在だというのに。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-23 21:45 | ポップス | Comments(0)
PAISIELLO
c0039487_19563974.jpg
Roberta Invernizzi, Alla Simoni(Sop)
Luca Dordolo(Ten), José Fardilha(Bar)
Diego Fasolis/
Coro della Radio Svizzera
I Barocchisti
CPO/777 257-2



ジョヴァンニ・パイジェッロというRV車みたいな名前(それは「パジェロ」)の作曲家は、かつてはロッシーニより先に「セヴィリアの理髪師」を作った人としてのみ知られていたものです。このお話、ボーマルシエの原作では、アルマヴィーヴァ伯爵がロジーナと結婚してしばらく経ってから、その使用人のフィガロが結婚することになっています。ところが、今あるオペラではモーツァルトがフィガロを結婚させてから、ロッシーニがそのフィガロの尽力で伯爵を結婚させるという逆の順番になっているので、そのことを突っ込んできた人に対して、「それはね、モーツァルトが『フィガロの結婚』を作る前にパイジェッロという人が『セヴィリアの理髪師』を作っていたからなんだよ」と優しく諭すというネタを提供するためだけに、この人は存在していたという時代が、確かにあったことは事実です。
もちろん現在では件の「セヴィリア~」も実際に上演されて人々の知るところとなり、パイジェッロは18世紀後半の偉大なオペラ作曲家として正当に評価されるようになっています。そして、この「イエス・キリストの受難」というような珍しい曲までも、しっかりCDとして録音されるようになりました。しかも、これが初録音ではなく、以前にもポーランドの団体が演奏したものがARTSから出ていたのですからね。
ところで、常連さんでしたらこのタイトルを聞いて思い当たることがあるはずです。そう、これはピエトロ・メタスタージョが1730年に書いた台本をテキストとして作られた多くの作品の中の一つなのです。以前、そのうちのサリエリミスリヴェチェクのものについてご紹介したことがありますが、これはそのときのシュペリングのプロジェクトとは別の、スイスの団体による演奏です。
曲の構成は、ほぼ同じ時期に作られた先ほどの2曲と同じ、オーケストラをバックにキリストの弟子である4人の独唱者がレシタティーヴォやアリア、重唱を歌うというものです。そのほかに2部からなる曲の最後に合唱のナンバー(1部の中に、もう1曲)が入っています。レシタティーヴォが、単純なセッコではなく、オーケストラの伴奏が入るもの、それも、時折効果音のようなものまで交えたかなり表現力の豊かな作り方になっています。もちろん、これはオペラ作曲家として100曲近いオペラを作ってきたパイジェッロのノウハウがフルに現れたものなのでしょう。そんな伴奏に乗って、歌手たちも見事に深い情感を歌い出しています。特にペトロ役のソプラノ、インヴェルニッツィの鬼気迫る表現は圧巻です。ヨハネ役のテノール、ドルドロがちょっと冴えない分まで、見事にカバーしています。
アリアでは、すべての管楽器がソロ楽器として登場、大活躍しています。中でも重用されているのがクラリネット、大詰めに置かれたペテロのアリアでは、とても技巧的な長い前奏が付いています。ここまで吹かせるということは、パイジェッロの周辺にかなりの名手がいたということなのでしょう。モーツァルトにおけるシュタードラーのように。
そんな、モーツァルトの、例えば「ティートの慈悲」の中のアリアのような連想を抱いたのには、訳があります。この中で聞こえてくるアリアが、メロディといいハーモニーといい、そしてテキストの扱い方といい、モーツァルトその人のものとあまりにも酷似しているのです。これは以前のミスリヴェチェクの時にも感じたことなのですが、今回はその度合いがさらに増して、今までこれこそはモーツァルト固有のもので、他の人には絶対出せない味だな、などと思っていたものが次々に現れてくるのです。当時の状況を考えれば、パイジェッロがモーツァルトの真似をする事などあり得ません。事態はその逆、モーツァルトは何とかしてパイジェッロのようなオペラ作曲家になりたいともがいていたのですから、「真似た」のはモーツァルトのほう。あの時代にモーツァルトと同程度の作曲家などいくらでもいたという、これは一つの傍証です。
そんな、モーツァルトが好きな人なら誰でも好きになれるパイジェッロ、もっと他の曲も聴いてみたいものです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-21 19:57 | 合唱 | Comments(0)
Rhapsody in Blue
 きのうは、松本市で行われる「サイトウキネン・フェスティバル」のチケットの発売日、手元にたまたまチラシがあったので、ダメモトで電話をかけまくったのですが、繋がった時にはすでに「スペードの女王」のチケットは完売していました。
 そのチケットは、電話やネットではなくお店で買うことも出来ました。もちろん、それは開催地の松本など長野県内の数ヵ所に限定されています。実は今6000円でJR東日本乗り放題、指定券も4枚まで買えるというチケットが会員限定で販売されています。ですから、それを使って松本まで行って現地で買えば、確実に手に入るのでは、などと考えてみたこともありました。しかし、そんなことをしても結局無駄だったことを、ネットであちこち覗いてみて知ることになるのです。
c0039487_2112479.jpg

 これは、長野県のテレビ局のローカルニュースですが、「恒例のテント村がお目見えしました」という内容、なんでも発売の2日前の朝から、チケットを買うために徹夜で並ぶ人がテントを張りだしたというものです。これでは、その日に、あるいは用心して前の日に行ったとしても、とても買うことなんか出来なかったことでしょう。しかし、毎年こんな感じでチケットを買う人が並んだり、それがニュースになってしまうなんて、かなり羨ましい話です。そういう街にこそ「楽都」という呼び名がふさわしいのかもしれません。
 まともな音楽ホール一つないくせに、いけしゃあしゃあと「楽都」面をしている仙台市でも、今日からは「仙台国際音楽コンクール」が始まりましたしね。もちろん、このチケットを求めて徹夜で行列が出来たなどという話は聞いたことがありませんが。ところで、このコンクール、アニメ版「のだめ」のスポンサーだって、知ってました?あ、もちろん「仙台放送」でだけですけどね。ただ、ちょっと気になるのはこのアニメは全23話、4月から始まりましたから9月まで放送されるのでしょうが、その頃にはもうコンクールは終わっています。一体どうなるのでしょうね。
 もしかしたら、その頃には10月に開催される、クラシックの一大イベント「せんくら」の宣伝に変わっているかもしれませんね。主催者は同じですから。去年から始まった仙台版「ラ・フォル・ジュルネ」(と書いてから、本家に比べてのそのあまりのしょぼさに愕然としているところです)、今年もなかなか盛り沢山の内容・・・にはなっていなくて、私が行きたいと思えるようなものは山下洋輔ぐらいしかありません。多分、これだったら行列、とまではいかなくても、すぐに売り切れそうな気はします。しかし、こと「せんくら」に関しては、「サイトウキネン」のような悲惨なことにはならないでしょう。こちらはしっかり先行販売で入手できるようになっていますから。山下洋輔のステージは全部で3回ですが、全部を買っても3000円、今から楽しみです。
 と思って、10月の予定をチェックしてみたら、なんと、一番聞きたかった「ラプソディ・イン・ブルー」の日が、もろに指揮者練習とぶつかってしまっているではありませんか。しかも会場は仙台港の「アクセルホール」、これではどう頑張ってもイズミティまでは聴きに行くことは出来ません。茂木さん。練習休みにして、聴きに行きましょうよ。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-20 21:15 | 禁断 | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.4
c0039487_2164575.jpg


Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/384723 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55947(国内盤)


どんな曲でも録音していそうなラトルですが、ブルックナーに関してはほとんど手つかずの処女地だというのは、ちょっと意外な気がします。現に専属のレーベルであるEMIにはバーミンガム時代の96年に「7番」を録音しただけ、あとは名前も聞いたこともないようなマイナー・レーベルにベルリン・フィルとの「9番」(2002年)とロッテルダム・フィルとの「4番」(2001年)を入れているだけなのですね。ですから、この曲に関しては2度目の録音ということになります。ただし、2001年のものはハース版、今回はノヴァーク版ということになってはいます。
ベルリン・フィルというオーケストラ自体は、いままで数多くの指揮者とこの曲を録音してきました。しかし、今回のラトルとの共演に臨んで、彼らはそれらの体験をリセットし、全く新たな気持ちでこの曲に向かい合ったのではないかと思えるほど、ここには新鮮な息吹が宿っています。ドイツのオーケストラでありながら、例えば最近聴いた例ではヘレヴェッヘの指揮したシャンゼリゼ管弦楽団のような洗練されたピュアな響きがあったのです。
第1楽章で感じられるのは、とても滑らかな肌触りです。ホルン1本で始まった出だしのテーマが次第に楽器を増して盛り上がっていく様子が、まるでオートマチック車、それも最新の無段変速機のように全くギアチェンジが意識されないような趣です。最後に金管楽器が加わって例のブルックナー・リズムで最高潮に達するところでも、そこに移るところでたいがい気づかされるシフトアップが全く感じられないまま、そのクライマックスを迎えるというスマートな仕上がりになっています。よけいな力が加わらないでいつの間にか高いテンションがもたらされている、一見自然な成り行きのように見えて、これはかなり難易度の高いものなのではないでしょうか。ラトルの描いたクレバーな設計図を、ものの見事に実体化出来るほどに、このオーケストラのアンサンブルは高い次元のスキルを獲得していたのでしょう。金管が朗々と雄叫びをあげているときにも、弦楽器は分厚い音の壁を築き上げていて、決して隠れることはありません。
さらに、この楽章の展開部の初めで見せつけられる究極のピアニシモにも、耳をそばだてずにはいられません。音というよりはまるで「気配」のようにほのかに漂う繊細この上ない弦楽器の響き、それはまるで「祈り」のようにさえ聞こえます。
第2楽章では、チェロとヴィオラがそれぞれ奏でるパートソロが聴きどころでしょう。深い音色とたっぷりとした歌い口、もちろんそれはラトルが示したほんのちょっとした表情の仕草を、見事に全員が音にしたものです。提示部の最後の部分で聞こえてくるフルート1本だけの本当の「ソロ」にもご注目、吹いているのは多分パユでしょうが、彼本来の華麗な音色を捨てて、見事にピアニシモでの存在感を聴かせてくれています。ここまで手なずけたラトルの根気も見事です。
第3楽章も、決して粗野にならない洗練された味が堪能できます。ホルンの狩りのテーマが、これほどまでに上品に鳴り渡っている演奏はなかなかあるものではありません。トリオを聴くと、テーマがオーボエとクラリネットで演奏されています。これはもちろんハース版でのかたち、ノヴァーク版を使ってはみたものの、こうしてハース版も取り入れるというのは、指揮者の裁量なのでしょう。
フィナーレは、それまでとはうってかわって、時折荒々しさも交えて進んでいきます。おそらくこれもラトルの緻密な設計のなせる技なのでしょう。生理的にもここまで弾けてくれれば何も言うことはありません。
なんか、非常に楽しめるブルックナーを味わえたという幸せな気持ちになれたのは、このレーベルらしくない抜けのよい録音のせいもあったのかもしれません。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-18 21:07 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonie Nr.3 Es-Dur
 アニメ版の「のだめ」は、毎週火曜日の深夜に放送されていますから、もちろんリアルタイムで見ることはありません。録画しておいてあとで見る、というのが、いつものパターン、最初に見た時にその限界を見せつけられてしまいましたから、例えば放送日の次の日にあせって見る、ということはまずありません。ということで、きのうになってやっと2回分のアニメを見ることになりました。
 これを見るぐらいなら、原作を読んだ方がまだイメージがわくだろう、という作られ方は健在でした。その上に、この国のアニメにしっかりつきまとっているある種の「お約束」がもろに見えてくるようになると、他に見るものがいっぱいあるのにこんなものに関わっているのがとてつもなく無駄なことのように思えてきます。
 そんな無意味な時間のようだったものが、ある一つのカットから俄然自発的な興味が出てくるのですから、面白いものです。原作同様、やはり、このアニメにも、突っ込みどころ満載のとびきりのお楽しみがありました。それはこのカット、シュトレーゼマンがSオケの指揮者を降りてしまうので、代わりに千秋に振ってくれと渡されたスコアの映像です。
c0039487_2015539.jpg

 この場面、原作ではこんなにアップにはなっていなかったのと、それほど考えていないいい加減な表紙だったので、別になんの問題もありませんでした。しかし、アニメの担当者は、しっかりここに「スコア」らしい設定を書き込んでくれていました。しかし、いかに丁寧に書き込んだところでこんなに間違いが多くてはなんにもなりません。お分かりですか。このシンフォニーのドイツ語のタイトルで、日本語の「変ホ長調」に対応する部分が「Es-ur」となっていますね。もちろんこれは「Es-Dur」の間違い、「D」が抜けてしまってます。もっとすごいのは、上の方に書いてある「Piano Library」という文字です。ピアノで弾くための曲集などに、よくこういうタイトルが付いているものですが、ここで千秋が指揮棒と共に渡されたのはピアノの楽譜であるはずは決してありません。もう少し先にはこの楽譜の中を開いて見せてくれるところも登場しますが、もちろんこれは指揮者用のフルスコアなのですよ。なんとか「楽譜」らしい体裁の表紙にしようと思って、その辺にあったピアノ用の楽譜のデザインをそのまま転生してしまったのでしょうね。そのアニメーターの方は、英語を読む能力がなかったのか、読めたとしてもそれが音楽的にどんな意味を持っているのかを理解できなかったのでしょう。まあ、それはテキストを模様ととらえる視覚人間の感性なのかもしれませんが。
 実は、楽譜に対する無知さ加減は、もっと前に見た回ですでに分かっていました。例の「ベト7」を指揮した時にその指揮者用のスコアが出てきたのですが、それがベーレンライター版だというところまでは良かったのですが、それが大判であるにも関わらず、デザインや色は小さいポケットスコアのものだったのです。ドラマ版の時には、しっかり小豆色の大判のスコアを使っていましたよね。アニメではそこまでの考証はされてはいないのでしょう。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-17 20:16 | 禁断 | Comments(0)
MESSIAEN/Quatuor pour la fin du temps
c0039487_200046.jpg

長沼由里子(Vn)
Jean-Louis Sajot(Cl)
Paul Broutin(Vc)
Anne-Lise Gastaldi(Pf)
CALIOPE/CAL 9898



メシアンの「四重奏曲」の新しい録音です。演奏しているのが、日本人の長沼さんも参加されている「フランス八重奏団」のメンバーと、ピアノのガスタルディです。この「八重奏団」は、お察しの通りシューベルトの「八重奏曲」を演奏するのに必要なメンバー、すなわちクラリネット、ファゴット、ホルン、そして弦楽五重奏という編成の常設の団体なのだそうです。もちろん、年中シューベルトばかり演奏しているわけにはいかないでしょうから、このように適宜メンバーをピックアップ、足らないパートは新たに加えてメシアンなども演奏することになります。
一方、メシアンのこの曲を演奏するために結成されたという団体も、かつて存在していたことがあるのもご存じのことでしょう。「タッシ」という名前のそのグループの録音が最近リマスター盤としてリリースされたものをついこの間聴いたばかりですので、いやでもこの演奏と比較することになってしまいますが、それも巡り合わせということなのでしょうか。
しかし、同じ曲でありながら、演奏者によってこれほどの違いが出てくるというのも、なかなか興味深いものです。中でも、クラリネットだけで演奏される第3曲目の「鳥たちの深淵」などは、まるで別の曲かと思われるほど、印象が異なっています。ここでのクラリネット奏者サジョは、楽譜に書いてある音を丁寧に一つ一つ再現することに、最大の関心があるように思えてきます(些事にこだわるんですね)。まるでソルフェージュのようなその淡々とした演奏からは、「タッシ」でストルツマンが見せてくれたような生命の息吹は全く感じることは出来ません。
そんな、ある意味躍動感に乏しい彼らの解釈は、そもそも1曲目の「水晶の礼拝」で現れているものでした。そのような流れのイニシアティブをとっていたのがこのクラリネット奏者であったことが、このソロで明らかになったというわけです。ですから、4人が最初から最後までユニゾンで演奏するという第6曲目の「7つのラッパのための狂乱の踊り」からは、「狂乱」とはほど遠い緩やかな情緒しか伝わってはきませんでした。
従って、彼らの美点はそのような動的なものとは正反対の面で、くっきりと現れてくることになります。それは、まるでヒーリング・ミュージックのような静的な美しさを追求する姿勢です。それに気づかされるのが、2曲目「世の終わりを告げる天使たちのヴォカリーズ」です。ピアノが色彩的な和声を奏でる中、ヴァイオリンとチェロのユニゾンによって流れてくる単旋律は、何ともしっとりと味わい深く響き渡っていたのです。それは、「タッシ」の放っていたクールなテイストとは全く異なる世界を形作るものでした。
その世界は、チェロとピアノのデュエットである第5曲目「イエズスの永遠性に対する頌歌」で、さらにはっきりした形となって現れます。チェロのいつ果てるともしれない旋律は、ピアノとともに徐々に昂揚していき、ついにはエクスタシーを迎えます。その直後の虚脱感の、なんと生々しいことでしょう。
そして、それは最後の「イエズスの不死性に対する頌歌」によって、見事な結末を迎えることになります。ここでのヴァイオリンは、まるですすり泣くようなハスキーな音色から、セクシーこの上ない芳醇な音までを自在に使い分け、メシアンのいうところの「愛」を謳いあげます。すべてを語り終わった最後のピアニッシモの、極上の美しさは、この演奏のある一つの面での卓越した資質を、見事に知らしめています。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2007-05-16 20:01 | 室内楽 | Comments(0)