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MAHLER/Symphony No.5
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Gustavo Dudamel/
Simón Bolivar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 6545
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1360(国内盤 8/8発売予定)


エサ・ペッカ・サロネンの後任として2009年のシーズンからロス・アンジェルス・フィルの音楽監督となることが決定したヴェネズエラの俊英ドゥダメルのセカンド・アルバムです。1981年生まれといいますから、就任時でも弱冠28歳、そんなに若くして「監督」などと、と思うかもしれませんが、現在大指揮者と呼ばれている人は、ほとんど20代後半には何らかのポストに就任しているのですから納得して下さい。カラヤンは26歳でアーヘン市立歌劇場の音楽監督になりましたし、小澤征爾がトロント交響楽団の音楽監督になったのは、彼が27歳の時でした。ただ、ドゥダメルの場合は、そういう下積み的なマイナーなポストではなく、いきなりロス・フィルという超メジャーを率いることになったというのがすごいところですね。
マーラーの5番といえば、ホルンやトランペットが大活躍する曲です。ドゥダメルのパートナー、シモン・ボリーヴァル・ユース・オーケストラは、前作のベートーヴェンでは素晴らしい演奏を聴かせてくれてはいましたが、基本的にはユース・オケ、それだけの技量を持ったプレーヤーは果たした団員の中にいるのでしょうか。しかし、そんな心配が全く無用のものであることは、冒頭の「葬送行進曲」のテーマを聴いただけですぐ分かりました。このトランペット・ソロでしたら、世界中のどこのオーケストラに入っても通用します。第3楽章で大活躍するホルンも、自信に満ちあふれた素晴らしいものでした。ただ1箇所、とんでもない音程になってしまったところがありますが、それはご愛敬、全体の流れに支障をきたすものでは全くありません。
しかし、何と言っても素晴らしいのは、ドゥダメルの意のままに動き回る弦楽器です。特に、そのダイナミックスの幅の大きさには、とてつもないしなやかなものを感じることができます。それは、第1楽章の金管がリードするトゥッティが収まったあとに来る弦パートと薄い木管のアンサンブルの場面ですぐ気付くことでしょう。一瞬録音バランスを間違えたかと思えるほどの小さな音で弾き始める弦楽器、しかし、それはドゥダメルの確かな感覚によって作り上げられた究極のピアニシモだったのです。聴いているものは、思わずそこで耳をそばだてずにはいられなくなり、そのミクロの世界に潜む深い味わいを発見することになるのです。
弦楽器とハープだけで演奏される第4楽章では、したがって、その様な味わい深いピアニシモを心ゆくまで堪能することができます。そして、1つ1つのパートがまるで生き物のように、ある時は姿を潜め、ある時は最大限のアピールでその存在を明らかにするさまを体験することでしょう。どんな弱い音にも、ことごとく生命が宿っていることにも気づくはずです。そこで繰り広げられるテンポやダイナミックスの変化は、指揮者が指示したからではなく、あたかもそれぞれのパートが自分の意志で他のパートとの掛け合いを楽しんでいるかのように聞こえます。
その様に、全ての声部が自らの意志を持って動き出した時、個人個人の姿が全く消え去って、オーケストラ全体が1つの生き物となって迫ってくる瞬間を、確かに感じることができました。それは、指揮者とプレーヤーとの絶妙な信頼関係が、最高の形で結実したものに違いありません。
一躍晴れ舞台に躍り出たドゥダメル、自分のホームグラウンドではなく、海千山千のメジャー・オケの中でこれほどの信頼関係を築くことができるのか、いま世界中の音楽ファンが注目しています。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-30 22:25 | オーケストラ | Comments(0)
DVORAK/Symphony No.9
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Karel Ancerl/
Czech Philharmonic Orchestra
日本ビクター/JM-XR24206


かつて、「暮らしの手帖」という雑誌がありました。肥料の専門誌ですね(それは、「コヤシの手帖」)。いえ、この雑誌は今でもしっかり発行されてはいるのですが、もはや昔の面影はありません。この雑誌が最も輝いていたのは、創設者の花森安治氏が編集コンセプトから表紙のデザインに至るまで彼のセンスを反映させていた時代です。その頃のこの雑誌には、今のものには決して見ることの出来ないとてつもない迫力がありました。
この雑誌の、いわば目玉というものが、「商品テスト」でした。家庭用のありとあらゆる商品がその対象となり、徹底的に使う側の立場に立った厳格なテストを行った結果、誰からも納得のいくようなランキングができあがるというものです。何よりもすごいのは、公正なテストを行うために、一切の広告を排除していたということです。
その「暮らしの手帖」が、レコードの商品テストを始めた時には、音楽関係者は一様に拒否反応を示したものでした。なんと言っても相手はいわば「芸術作品」ですから、冷蔵庫や洗濯機と一緒に扱われるのは我慢が出来ない、そもそも客観的な「性能」などはテスト出来るわけがない、といったいかにもまっとうな意見が声高に表明されていたのです。しかし、「手帖」サイドはあくまで彼らの主張を貫き通しました。レコードといえども一つの商品であるという立場から、「演奏」と「録音」の両面で、厳しい評価を下したのです。毎号、一つの曲(場合によっては「運命・未完成」のようなカップリング)について、その時点で入手できるすべてのレコードを同じ条件で比較する、というのがテストの方法、その結果にはかなりの説得力がありました。例えば○野○芳氏あたりが、広告だらけの媒体でいかにも孤高を装って展開している主観だらけの批評などとは次元の違う、今にして思えばかなり爽快なレコードの商品テスト、もしこれだけが復刻されるというようなことがあれば、その様なアバウトな「評論家」は顔色を失うことでしょう。
ドヴォルジャークの「新世界」のテストが行われたときに、最も高い評価、確か絶対的な優位でトップを獲得していたのが、このアンチェル盤でした。細かいことは忘れましたが、「新世界」の持つ民族性を見事に表現したものとして、商品として最も優れているとされていたのです。このテストでは、演奏が良くても録音が悪いものは評価されません。ですから、これは録音も優れていたはずです。
そんな商品が最高の状態で「復刻」されたものを、初めて聴くことが出来ました。「手帖」を読んで、いつかはぜひ聴いてみたいと思っていた演奏、何十年かの時を経てやっとその願いが叶いました。
アンチェルの演奏は、しかし、ことさらに「民族性」を強調するものではありませんでした。引き締まったテンポ感と、きびきびした表現は、センチメンタリズムとは全く無縁なもの、そこからはドヴォルジャークが作り上げた骨太の音空間が見えてきます。もし、民族性が感じられるとすれば、それは管楽器の特異な音色のせいなのかもしれません。特にクラリネットとホルン奏者が付けている甘いビブラートによって、木管セクションがえもいわれぬ暖かさに包まれているのは、注目すべきことでしょう。
そして、今回も「XRCD」は期待を裏切ることはありませんでした。特に静かな部分での弦楽器や木管楽器の充実した質感は、とてもみずみずしいものでした。最近ありがちな表面の響きだけをとらえたものではなく、とても「芯」のある音です。そして、打楽器の録音の生々しさには驚かされます。ティンパニの一撃のクリアなことといったらどうでしょう。第3楽章だけに現れるトライアングルも、ここまで存在感をもって聞こえてくる録音などなかなか出会えません。
ただ、フォルテシモでのヴァイオリンの高音などがかなり堅く聞こえてしまうのは、マスターテープの劣化のせいなのでしょうか。ドロップアウトも何カ所か聞こえますし、こればかりはどうしようもないのでしょうね。
ちなみに、「レコード芸術」のキングインターナショナルの広告では序曲が2曲カップリングとなっていますが、それは間違いです。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-28 19:49 | オーケストラ | Comments(0)
The Jazz Album
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Peter Donohoe(Pf)
Michael Collins(Cl)
Simon Rattle/
London Sinfonietta
EMI/388680 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-13385(国内盤)


サイモン・ラトルが1987年に発表した楽しいアルバムが、リイシューされました(そんなに古いものではありませんから、「異臭」を放ったりはしません)。「ジャズ」に影響を受けた、あるいはジャズのイディオムが積極的に反映された「クラシック」の作品を年代順に演奏するかたわら、「ジャズ」のスタンダード・ナンバーを間に挟み込む、という企画です。国内盤には、オリジナルのジャケットが使われています。
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「クラシック」として取り上げられているのが、ミヨーの「世界の創造」(1923)、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」(1924)、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」(1945)、そしてバーンスタインの「前奏曲、フーガとリフ」(1949)という、ありがちなラインナップというのが気になりますが、実はここにはラトルならではのひと味違う工夫が秘められています。それは、その他にフューチャーされているナンバーが、「ラプソディ~」の仕掛け人、ポール・ホワイトマンのバンドによって演奏されるために、当時のそうそうたるオーケストレーターによって編曲されたものであるということです。もちろん、その中には「ラプソディ~」のオーケストレーションを担当したグローフェも含まれています。「Nobody's Sweetheart」という曲を編曲したレニー・ヘイトンなどは、こっそり「ペトルーシュカ」からの引用なども忍び込ませていますから、これは図らずも「エボニー~」とリンクすることになっていたのかもしれません。
「ラプソディ~」が、後にグローフェ自身の手できちんとした「クラシック」のオーケストラ(つまり、4種類の木管楽器や5部の弦楽器といった、標準的な編成にサックスが入った形)のために作り直された、今普通に聴かれるバージョンではなく、ポール・ホワイトマンのバンドによって最初に演奏されたオリジナル・バージョンに依っているという点が、このアルバムの最大のポイントになっています。このバージョン、基本的にはビッグ・バンドの編成で、そこにヴァイオリンが入っているというものですから、例えばミュージカルのピットに入っているオーケストラのようなものです。ホワイトマンがガーシュインに求めたものは、ジャズというものを薄暗いナイトクラブから華やかなコンサートホールに引きずり出し、ショービジネスとしての需要に応えられるものを作ること、それは、決してジャズとクラシックの融合といったようなハッピーなものではなかったはずです。
そのような流れを的確に把握したであろうラトルが、1920年代に同じチームによって制作されたスタンダード・ナンバーを同時に演奏することによって、「ラプソディ~」は成立した時のコンセプトをもって演奏されることになりました。その結果醸し出されたのは、「オーケストラ」ではなく、あくまで「バンド」としてのノリ、取り澄ましたクラシックコンサートでは決して味わうことの出来ない爽快なまでに見事なグルーヴだったのです。その「バンド」が時折見せる、まるで「スカ」のような裏打ちのビートからは、「ジャズ」さえも超越したポップな音楽が聞こえてはこないでしょうか。
バーンスタインの「前奏曲~」も、まさにその流れをくむ音楽であることが、この演奏からははっきり伝わってくるはずです。そこからは、後に完成する彼の代表作「ウェスト・サイド・ストーリー」の萌芽、ショービズの匂いがふんだんに放たれていることでしょう。
ミヨーやストラヴィンスキーの作品が、同じ「ジャズ」を素材にしていても、このアルバムの中では決定的に浮いた存在であると感じられたなら、ラトルの目論見は大成功を修めたことになるのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-26 23:28 | オーケストラ | Comments(0)
Sendai International Music Competition
 仙台を舞台に繰り広げられた世界的な音楽コンクール「仙台国際音楽コンクール」(まんまですね)が、きのう終了しました。チケットを買う時点で予定が立たなかったので、ヴァイオリン部門ではセミファイナルに1日だけ行っただけで、他の人は聴いていませんでしたから、全体の印象はあまりよく分かりませんでした。その1日の演奏だけで、ずいぶん高いレベルなんだなあ、と思ってしまったのです。しかし、ピアノ部門は、ファイナルとガラ・コンサートという、3日分のチケットをゲットしてあったので、最後のクライマックスを心ゆくまで味わうこと出来ました。
 ファイナルは、なぜか2日とも同じ席、通路のすぐ後の下手側ですから、ピアニストの手元はよく見えますし、足元もよく見えます。しかし、普段この場所ではまず聴くことはないので、音としてはちょっといつもとバランスが違うので少し戸惑ってしまいます。何よりも、ピアノの音がとても不思議に聞こえて来ます。演奏者の弾き方がもろに現れてくるというのか、ある人は残響が変な風に元の音と混じって、まるで二重奏のように聞こえたり、ある人はちょっとオーケストラが大きな音を出すところでは弾き始めが全く聞こえなかったりと、さまざまです。審査員席はかなり後の真ん中辺ですから、そのあたりはクリアできていたのでしょうか。いずれにしても、このホールは演奏者にとっても聴衆にとっても、問題の多いところであることは、改めて認識させられました。
 ファイナル1日目はショパンの1番、ベートーヴェンの4番、ブラームスの1番という、コンサートとしてはバラエティに富んだものでした。ショパンを弾いた男の人は、とてもきれいな音が印象的でした。見ていると、左のペダルをとても上手に使っているようです。最近では、このペダルはフォルテシモでも使っている人が多いように思われます。特に、ここのホールのような変な響きの所では効果が発揮できるのでは。ただ、この人はミスタッチが多くて、3楽章などは派手に間違えていましたね。
 ベートーヴェンになると、ピアノの音がガラリと変わってしまいました。とても刺激的な、主張が込められた音、音楽もかなりドラマティックでした。しかし、ドラマティックという点では最後のブラームスの人には圧倒されました。オーケストラがかなり危なげな分、彼女の迫力は際立っていたようです。
 2日目は、チャイコフスキーの1番に、ベートーヴェンの4番が2曲続くというちょっと辛いプログラム、同じ曲を弾くのは、演奏者にとってもプレッシャーがあるでしょうね。チャイコフスキーは始まりからオーケストラとソリストの方向性が何かかみ合っていません。コンクールなのですから、もう少し指揮者(パスカル・ヴェロ)に歩み寄る姿勢があればな、と思ってしまいます。
 ベートーヴェンの一人目は、音はとてもきれいなのですが音楽がなんか中途半端、テンポがなかなか決まらず、いかにも自信なさげです。そして、最後のベートーヴェンが、ご当地からのエントリー、最も注目されていた人でした。この人は、隅々まできちんと弾けてはいるのですが、音楽がさっぱり面白くありません。聴いていて楽しくなれる瞬間が殆どないのですよ。これまで聴いてきた人の中では、上位入賞するのはまず無理だな、と思いました。
 しかし、審査員が下した評価は、私の予想とはかなり違ったものでした。まあ、コンクールというのはそういうものなのでしょう。この結果が呼び水となって、当夜仙台市長が確約したように、新しい音楽専用ホールが生まれることにでもなれば、何も言うことはありません。津田さん、おめでとうございました。
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ガラ・コンサートのエンディング。ピアノのそばから1位、2位、3位の入賞者、仙台市長、指揮者。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-25 23:30 | 禁断 | Comments(0)
Minimal Piano Collection
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Jeroen van Veen(Pf)
BRILLIANT/8551



このレーベルのことですから、「ミニマル・ピアノ・コレクション」などというタイトルが付いていればそれこそあちこちのレーベルから寄せ集めた「ピアノ小曲集」ではないかと思ってしまいます。ところが、なんとこれは「ミニマル・ミュージック」というジャンルのピアノ曲を集めたボックス・セットだったのです。しかも、録音は2006年の10月、機材も最新のものが使われた贅沢なものです。フィリップ・グラスやマイケル・ナイマンといったミニマル界の大御所をはじめ、ごく最近のオランダのほとんど知られていないような作曲家の作品など、ミニマル尽くしの9枚組、そんなものが4000円程度で手に入ってしまうのですから、これは絶対お買い得。
しかし、このセットにはさらなるサプライズが潜んでいました。この録音のプロデューサーでもあるファン・フェーンが演奏している楽器は、あの「ファツィオリ」だったのです。この前の斎藤さんの本でも取り上げられていたこのイタリアのピアノの評判はあちこちで聞きますが、まだ録音ですらその音を聴いたことはありませんでしたから、これは何よりのことです。いよいよ4000円では安すぎ。恐るべし、BRILLIANT
初めて聴いたその「ファツィオリ」は、何という味わい深い音だったことでしょう。大げさな言い方をすれば、まさに「ピアノ」という楽器の音に対するイメージを根底から覆させられたほどの驚きが、そこにはありました。高音はあくまでしなやか、そこからは演奏者の息づかいさえも感じられるほどですし、低音のなんと暖かく包容力に富んでいることでしょう。スタインウェイなどを聴き慣れた耳にはショッキングなほどのその音色、ぜひ、いつか生で聴いてみたいものです。
このボックスの中では、4枚目のものがなかなか聴き応えがあります。一般的には「ミニマル・ミュージック」の始まりは1958年に作られたラ・モンテ・ヤングの弦楽三重奏曲だということになっているそうですが、ここにはその先駆けともいえるエリック・サティの「ヴェクサシオン」(1893)とともに、同じ19世紀後半の作品であるフリードリッヒ・ニーチェの「Das 'Fragment an sich'(『そのまんま切れっ端』でしょうか)」という珍しい曲が収録されているのです。もちろん、あの「ツァラトゥストラ」のニーチェですが、熱心なワーグナー・ファンであった彼は、自らも曲を作っていたのですね。これが、ワーグナー風のロマンティックな曲なのかと思いきや、タイトルの通りいくつかのモチーフが「切れっ端」として何度も繰り返し登場するという紛れもない「ミニマル・ミュージック」なのですよ。
もう一つ、この中に入っている興味深い曲が、シメオン・テン・ホルトというオランダ人の作品です。実はこの人は、このレーベルから複数のピアノのための作品集(7795)が11枚のセットで出ており、
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そこにもファン・フェーンは参加しています。この「ソロデヴィルダンスIV」という曲は、「ミニマル」と言われて連想しがちな「シンプル」なものとはちょっと異なる、かなり技巧的なもの、そこからはショパンやリストといったピアニストたちの流れが見え隠れするほどです。アメリカで隆盛を誇ったこの音楽は、ヨーロッパの伝統と結びついてこんな形のものまでが生まれていたのですね。「ミニマル」の裾野の広さを見た思いでした。
ファン・フェーン自身の作品も2枚にわたって収録されています。それは「24のプレリュード」。バッハの「平均律」のように、全てのキーの長調と短調による、5分程度の曲が集まったものです。これは「ミニマル」と言うよりは「ヒーリング」と言った方がぴんと来る作風、それぞれの曲にさまざまなアイディアが秘められていて楽しめます(さすがに「ファンファーレ」はありませんが)。
こういうものには欠かせないスティーヴ・ライヒの作品が1曲もないのは、彼には「ソロ」のピアノ曲がなかったせいなのでしょうか。9枚目の最後には、テリー・ライリーの「in C」が、「Pro Tools」を駆使した多重録音で演奏されているというのに。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-24 20:11 | 現代音楽 | Comments(0)
WAGNER/Opera Arias
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Jess Thomas(Ten)
Walter Born/
Berliner Philharmoniker
DG/476 8023



1960年代から70年代にかけて一世を風靡したヘルデン・テノール、ジェス・トーマスが1963年に録音したリサイタル盤がCD化されました。DGの「オリジナルズ」なのですが、なぜかオーストラリアのユニバーサルという「地域限定」のリリースです。
1927年生まれのアメリカのテノール、ジェス・トーマスといえば、このジャケットとほぼ同じ衣装とポーズの写真がやはりジャケットに使われている、ルドルフ・ケンペ指揮のEMIの「ローエングリン」のレコードによって、当時のワーグナー・ファンの記憶の中には刷り込まれているはずです。
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この、1963年のスタジオ録音盤と、もう一つ、1962年のバイロイト音楽祭におけるハンス・クナッパーツブッシュ指揮による「パルジファル」のライブ録音(PHILIPS)こそは、ジェス・トーマスのタイトル・ロールの魅力によって、この2つの演目のスタンダードなアイテムとしての変わらぬ評価を獲得しているアルバムとなっているのです。
この、ワーグナーの作品ばかりを集めたリサイタル・アルバムが録音されたのは、これらのものとほぼ同時期、正確には彼が35歳の、まさに若さに充ち満ちた時です。バックのオーケストラはベルリン・フィルという豪華なものですが、指揮をしているのがワルター・ボルンという、ほとんど聞いたことのない名前の方です。もちろん男性、巨乳の女性ではありません(それは「ボイン」)。しかし、この人は録音こそほとんどありませんが、長らくバイロイトのスタッフを務めた経験豊かな指揮者です。さらに、トーマスが最初にドイツでキャリアを築き始めたカールスルーエ歌劇場の指揮者だったという縁もあって、ここに起用されたということです。
このボルンの指揮が、ただの伴奏に終わっていない、とても攻撃的なものであったことが、このアルバムの魅力をさらに高めることになりました。歌手を立てるところは立てつつ、オーケストラにとことん雄弁さを求め、それにベルリン・フィルがしっかり応えた結果、まるで火花が飛び交うような緊張感あふれる演奏が誕生したのです。歌手のリズム感が優れているのも、大きなファクター、ここにはいささかの停滞もない引き締まった音楽の流れがあります。
そんな爽快さを味わえるのが、「マイスタージンガー」ではないでしょうか。トーマスの輝きに満ちた声の間を埋めるかのように、複雑に入り組んだ細かい音符が飛び跳ねる様は、とても生命感にあふれていて圧倒されてしまうことでしょう。そして、最大の聞き物は、なんと言っても「ローエングリン」の中の「In fernem Land」です。オーケストラの前奏のなんと繊細なことでしょう。それに導かれるトーマスの歌はまさに絶品です。
このアルバムには、ヘルデン・テノールの定番であるトリスタンやジークフリートが含まれてはいません。逆に、少し軽めのキャラである「ラインの黄金」のローゲの歌が入っています。この時期、彼はあえてこのような「重い」ロールを避けていたということですが、それには偉大な先達のヴィントガッセンの存在が大きかったことは、想像に難くありません。たぶん、この数年前に出た彼の同じようなアルバムが、きっと頭の隅にはあったに違いありません。
もう少し経って1969年にはカラヤンとジークフリートを演奏することになりますし、1974年にそのヴィントガッセンが亡くなってからは、「世界一のヘルデン・テノール」と誰からも認められる存在となるのですが、そこに至るまでの過程までも垣間見られる、興味の尽きないアルバムです。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-22 23:17 | オペラ | Comments(0)
ピアノはなぜ黒いのか
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斎藤信哉著
幻冬舎刊・幻冬舎新書
038
ISBM978-4-344-98037-2



どんな楽器でも、楽器固有の色というものがあります。弦楽器ですと茶色、金管楽器はまず金色でしょうか。木管楽器はちょっと微妙、オーボエやクラリネットは黒ですが、ファゴットは赤茶色、そして、フルートは金色だったり銀色だったり、あるいは黒かったり。そこで、この本の主人公のピアノです。普通のコンサートではまず例外なくその色は黒に決まっています。なぜ「黒」なのか、それを検証するのがこの本の目的・・・だと思うと、それがそうではないのです。確かにこの点については「演奏者のファッションより目立つことのないように」ということで一応納得させようとしていますが、そんな単純な理由ではないはずだ、と、誰しもが考えるはずなのに、それに対する答えは結局分からずじまい、何かすっきりしない思いが残ります。
そんな読者の気持ちを置き去りにして、著者の話はもっぱら「日本における家庭用のピアノはなぜ黒いのか」という、全く予想外の方向へ進んでいきます。まあ、それは、長いピアノの発展の歴史の中で、いきなり完成品を見せられて盲目的に権威付けをしてしまったという、どこかで聞いたようなありきたりの文化論としてのまとまりを見せるのですから、それなりに完結したロジックではあるのですが、もっと違った面での追求を勝手に期待して読み始めたものにとっては、軽い失望以外の何者でもありませんでした。
したがって、この本を楽しむためにはこんな煽動的なタイトルに振り回されず、著者が長年調律師として接してきた数々のピアノとの出会いのエピソードを存分に味わった方がいいに決まっています。そこからは、私たちが「ピアノ」と言われて思い浮かべる音以外にも、さまざまな魅力的な音色や語り口を持った楽器が、世界にはたくさん存在しているという事実を知ることが出来るはずです。確かに、今ふつうに聞いているこの楽器は、「楽器」というよりは何か巨大な「機械」のような気がしてならない人は少なくはないはず、もっと繊細な味を持つ楽器を実際に聴いてみたくなる人は必ずいることでしょう。
その流れから、著者の「電子ピアノ」に対する攻撃は、強い説得力を持つことになります。ピアノという楽器の音は、演奏者自身が作るもの、あらかじめサンプリングした音源を組み込んだだけの電子ピアノでは、それが全くかなわないものだ、という著者の訴えかけは、実際に演奏者の意のままに音を出すことの可能なピアノを身近に知っている人だけがなし得るものに違いありません。
さらに、電子ピアノの隆盛を生んだ住宅事情にも言及されれば、これはまさに切実な問題として受け止めざるを得ないはずです。なぜ、家庭用のピアノまで、コンサートホールでしか必要ではないほどの大きな音が出るようになっているのか、もっと小さな音しか出ない楽器を作るべきなのではという提案には、確かな説得力があります。
同様に、古くなってもう使えなくなったかに見えた楽器を、見事に修復したという多くのエピソードも、とても魅力的に感じられます。そこから見えてくる、楽器をまるで生き物のように慈しむ著者の気持ちが、何ともいえず心に響きます。長い時を経ても変わらない音の美しさは、しかし、ヨーロッパのように自然乾燥した木材でこそ生まれるもの、短期間の人工乾燥による日本製の大量生産の楽器にはそれは期待できないという指摘(繊維が切れてしまうのだそうです。日本でも、初期のものは自然乾燥だったという、製法の遷移も語られます)も、また強く胸を打つものです。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-20 20:40 | 書籍 | Comments(0)
BACH-SCHUMANN/Johannes-Passion
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Veronika Winter, Elisabeth Scholl(Sop)
Gerhild Romberger(Alt), Jan Kobow(Ten)
Ekkehard Abele, Clemens Heidrich(Bas)
Hermann Max/
Rheinische Kantorei, Das Kleine Konzert
CPO/777 091-2(hybrid SACD)



メンデルスゾーンが1829年にベルリンのジングアカデミーで、バッハの「マタイ受難曲」を蘇演したことはよく知られていますし(それまでは疎遠だったんですね)、それをさらに「蘇演」させたシュペリングのCDによって、今ではその全体像が音として聴けるようになっています。同じように、「ヨハネ受難曲」についても、その4年後の1833年には、やはりジングアカデミーでツェルターの後任者のカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンが演奏をして、その存在自体は人々に知られるようになっていました。しかし、そのときの批評が「『マタイ』よりは劣る作品」というものだったため、そのような評価が一般的になってしまったそうなのです。メンデルスゾーンがこの演奏には全く関わっていなかったというのが、ポイントが低かった原因なのかもしれませんね。
しかし、シューマンは楽譜からこの曲の良さは認めていて、自分が作った合唱団の演奏会には、頻繁に「ヨハネ」の合唱曲を取り上げていたといいます。そして1850年にデュッセルドルフの音楽監督に就任したときには、この曲の全曲演奏を最初の大きなプロジェクトとして掲げ、1851年の4月13日に、それが実現されることになります。
そのときの演奏を再現したものが、このCDということになるのですが、シュペリング盤と違うのは、当時は実際には楽器の都合などで演奏されなかった曲も、カットすることなく全曲演奏しているという点です。つまり、シューマンのスタイルを伝えることが目的ではあっても、厳密な「記録」ではなく、あくまで作品として完成された形で聴いてもらいたいという気持ちが込められた結果なのでしょう。
このシューマン・バージョンの最大の特徴は、楽器編成であることは、メンデルスゾーンの場合と共通しています。バッハが用いた19世紀にはもう姿を消していた楽器、例えばオーボエ・ダ・カッチャなどはクラリネットで代用されています。しかも、それは19世紀に於ける「モダン楽器」なわけですから、21世紀に演奏されれば「ピリオド楽器」となるという複雑な事情が伴います。さらにこの楽器は、他の楽器の代用だけではなく、オーケストレーションの上でもユニークな役割を担っているのが、メンデルスゾーンとは微妙に異なる点です。それは、例えば新全集の9番のソプラノのアリアで聴けるのですが、本来は通奏低音にフルートのオブリガートという、いかにもバロック的な編成の中で、このクラリネットが内声を埋めるために使われているという、まさにロマンティックな役割です。オルガンなどで即興的に埋める声部を、シューマンはきちんと譜面に書いたのです。
30番の有名なアルトのアリア「Es ist vollbracht!」では、さらにダイナミックな手が施されます。ヴィオラ・ダ・ガンバのオブリガートはヴィオラのソロに代わり、そのまわりを弦楽器のアンサンブルが彩るという「現代的」なアレンジ、中間部の勇ましい部分にはトランペットまでが加わるという華やかさです。
しかし、最も興味を惹くのは、レシタティーヴォの低音にピアノ(ピリオド楽器ですから、フォルテピアノ)が用いられていることではないでしょうか。その確固たる音色と、名人芸的な音型によって、エヴァンゲリストの音楽はとてつもなくドラマティックなものに変わりました。それに見事に応えたのがテノールのコボウ、バッハの受難曲のレシタティーヴォで、これほど劇的な表現が聴けるのは、まさにシューマンのロマンティシズムのなせる業です。同じように、群衆の合唱もその濃厚な表情付けはロマンティック・エラならではのもの、マックスたちは確かにシューマンの時代の「ヨハネ」の有り様を、その精神までをも再現することに成功しています。
これだけ大変な演奏を要求されるためでしょうか、テノールのアリアはレシタティーヴォ風のアリオーソを除いて、全て他の人が歌うようになっています。しかし、その大半を任されるはずの第2ソプラノ、ショルのあまりのひどさには思わずのけぞってしまいます。合唱のソプラノパートの弱さともども、この名演の足を引っ張ってしまっているのが残念です。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-18 20:46 | 合唱 | Comments(0)
The Magic Flute
 きのうは、NHKのBS3波で、「ニューヨーク特集」みたいなものをやっていました。「1」では大リーグ(「MLB」ですね)の試合、「2」ではニューヨークがらみの映画、そして「HV」では、なんとMETの新作オペラを4本放映という、太っ腹な企画です。もちろん、私としてはこのオペラをチェックしないというわけにはいきません。
 最近のMETは、オペラの映像をリアルタイムで映画館に配信するということをやっているのだそうです。ハイビジョンの映像を光ケーブルで映画館にデジタル送信、それをスクリーンに映し出すというというものです。アメリカ国内だけではなく、それは世界中に配信されているらしく、日本では松竹と提携して「METライブビューイング」という形で、大々的に宣伝されていましたよね。ちょっと前に「歌舞伎座でオペラを見よう」みたいなコピーで、その歌舞伎座で「魔笛」が見れるというので大きな話題になっていたようでした。実際には、歌舞伎座だけではなく、松竹系のシネコンなどでも上映されていたんですってね。
 きのう放送されたものが、その、歌舞伎座で上映されたという「魔笛」でした。それに先だって放送されたのが、その「魔笛」を演出したジュリー・テイモアという人のインタビューです。劇団四季でも上演しているミュージカル「ライオンキング」を演出した人だというのは知っていましたが、そんな彼女がオペラにまで手を広げるようになったのですね。しかし、このインタビューによって、実はかなり前の「サイトウ・キネン・フェスティバル」での「エディプス王」の演出を小澤征爾から依頼されていた人だということが分かりました。ジェシー・ノーマンが主演したそのプロダクションは、ちょっと期待はずれだった印象を持ったことを思い出しましたが、それがテイモアの最初のオペラ(厳密にはオペラではありませんが)での仕事だったのですね。
 いずれにしても、「ライオンキングでミュージカルを変えた」とまで言われた演出家による「魔笛」、これはいろいろな意味で刺激を与えられるものには違いありませんから、番組表でこれを知った時からとても楽しみにしていました。しかし、いざ録画をしようという時に、上演時間が2時間しかないのがちょっと気になりました。普通に上演すればほぼ3時間というのが「魔笛」のサイズですからね。
 放送の前のテロップによって、そのわけが分かりました。これはテイモア自身の翻訳による「英語版」、そして、「2時間に短縮してある」と、きちんと断っていたのです。しかし、インタビューの中で「誰でも親しめるようなものにした」と語っていたその結果がこういう措置だったのでしょうが、それらは私にとっては失望以外の何者でもありませんでした。「英語版」に関しては、「魔笛」でしたらまあアリかな、ぐらいまでは妥協できますが、「2時間」に関しては到底容認できるものではなかったのです。まず、序曲からしてとんでもないところにカットが入っていて、今まで聴き慣れたものとは全く別の曲でしかないと言う思いに駆られてしまいます。それから先のカットの無惨なこと、「この先はこうなるはず」だと思って聴いていると、突然別の場所に運ばれてしまうという居心地の悪さです。1幕のフィナーレの前のパミーナとパパゲーノのデュエットはまるまるなくなっていましたし。
 「親しみやすいものにする」ためにこんなデタラメなカットを行った意味が、私には全く理解できません。単に私が慣れ親しんだものとの違和感というような次元の話ではありません。モーツァルトの音楽は全く無駄のない形ですでに出来上がっているという完成度の高いもの、そのどこかを削ったりしたら、それだけでバランスを崩して美しさを失ってしまうものなのです。それが分からなかったテイモアは、いかに立派な演劇論を語ったところで、音楽に関してはなんの感受性も持ち合わせていないイモであったことが、このプロダクションを通じて、全世界ネットで暴かれてしまったのです。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-17 22:46 | 禁断 | Comments(0)
WAGNER/Die Walküre
c0039487_20263741.jpgJohn Bröcheler(Wotan)
John Keyes(Siegmund)
Kurt Rydl(Hunding)
Nadine Secunde(Sieglinde)
Jeannine Altmeyer(Brünhilde)
Reinhild Runkel(Fricka)
Pierre Audi(Dir)
Hartmut Haenchen/
Netherlands Philharmonic Orchestra
OPUS ALTE/OA 0947D(DVD)



ネーデルランド・オペラの「指環」、「ライン」からずいぶん間が開いてしまいましたが、やっと2日目の「ヴァルキューレ」です。今回はオーケストラがネーデルランド・フィルに変わっていますが、もちろん指揮者のヘンヒェンをはじめとするスタッフは変わりませんし、ヴォータンなどのキャストも同じです。
この公演が行われたこのカンパニーの本拠地、アムステルダムの「音楽劇場」というホールは、3層になった客席がアーチ状にステージを囲んでいます(「劇団四季」のキャッツ劇場のような感じですね)。
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オーケストラは例によってピットの中ではなくステージの上、その周りに陸上競技のトラックのような形で歌手が出入りして歌う空間があります。そのオーケストラは45度ほど斜めに配置、ファーストヴァイオリンの最後のプルトが一番客席寄り、指揮者の左半身が正面を向いている、という感じでしょうか。
もちろん、幕などは存在しませんから、最初の前奏曲の間、オーケストラの周りのステージでは、石岡瑛子の衣装による、ほとんど日本の忍者のような格好をして顔をヴェールで顔を覆ったヴォータンが歩き回っているというのは、ほとんどお約束のような演出です。そこへ、前奏曲が終わって登場したジークムントは、まるで落ち武者のような格好、ヘアスタイルはほとんど「ちょんまげ」のように見えます。実は、髪の真ん中を黒く、両端は白く染めて(もちろん鬘ですが)いたために、そのように見えたことが分かるのですが、最初は頭巾のようなものをかぶっていたジークリンデの髪も同じような色になっていたことで、この二人が「双子」であったことが分かる仕掛けになっています。ジークリンデ役のセクンデが、美貌と力強い声でひときわ魅力を放っています。
第2幕で登場するブリュンヒルデのアルトマイヤーは、1980年バイロイトのシェロー/ブーレーズの映像で、可憐なジークリンデを演じていた人ですね。相手役のペーター・ホフマンともども、若々しい魅力にあふれたソプラノでしたが、それから20年も経ってしまうと(これは1999年の収録)これほどまでに醜くなってしまうとは。「ホーヨットホーオ」というフレーズの最後の「オ」のHの音などはただの叫びでしかありません。これがファルセットになると「ヨーデルランド・オペラ」になるのでしょうね。まあ、多くを求めなければそれなりの力は感じられるものの、もはや全盛期は過ぎてしまった悲しさが哀れです。
この幕の最後で披露されるのが、お得意の炎のショーです。完璧にコントロールされたその炎は、照明とも相まってスペクタクルなクライマックスを作り上げています。この頃になってくると、1時間半の長丁場を休みなくステージの上で演奏させられていたオーケストラには明らかに疲労の色が見て取れるようになりますが、このショーを見てしまえば、そんなことは気にならなくなってしまうことでしょう。
第3幕では、このステージ上のオーケストラという配置が見事な効果を上げていることが実証されます。8人のヴァルキューレたちが縦横に位置を変えながら歌いまわるというこのシーン、オーケストラがピットに入っていると必ずタイミングが合わなくなるという難所なのですが、オーケストラがすぐそばにいるせいで見事なアンサンブルが出来ています。
大詰めの「ヴォータンの別れ」のシーンで、実に感動的な場面が出現しています。ブリュンヒルデを眠らせ、その唇にキスをしたヴォータンは、しばしそのままの姿勢で「添い寝」を続けるのです。これはおそらくアウディの演出の核心、これほど人間的なヴォータンはいまだかつて見たことがありませんでした。これで、カーテンコールで立ち上がったブリュンヒルデのボディスーツ姿がもっと美しいプロポーションであったならば、この感動はよりリアリティを伴ったことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-16 20:29 | オペラ | Comments(2)