おやぢの部屋2
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STRAVINSKY/Le Sacre du Printemps
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Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
TUDOR/7145(hybrid SACD)



学力テストのニュースが世間を騒がせていますが、何でもかんでも採点して評価しようという風潮には「ちょっと違うのではない?」と思わずにはいられません。えっ、その「採点」じゃない。失っ礼しました。
「春の祭典」と言えば、そんな学力テスト並の多くの課題を抱えた難曲ですから、アマチュアオーケストラなどではまさに「試験」そのもののような覚悟をもって挑まなければなりません。いえ、実際に演奏できる機会のあるアマオケはまだましな方、その前にとても無理だとあきらめてしまうことの方が断然多いはずですがね。
プロのオーケストラといえども、この曲を演奏する時にはそれまでのルーティンからは離れた、特別な接し方が必要になってくるはず、指揮者にしても、気合いの入れ方が違うことでしょう。大汗をかきながら、小節ごとに変わる変拍子と格闘している姿を見ていると、いかにも大変な曲であることが聴いている(見ている)人にも伝わってきます。そう、この曲はまさに指揮者にとっても「採点」を迫られる「試験」なのです。
そんな、いかにも難しい曲に立ち向かう努力の跡を見るのが、この曲の一つの魅力であった時代が確かにありました。作曲家自身が指揮をした録音を聴いてみると、そんなせっぱ詰まった思いが如実に伝わってきて興味は尽きません。
しかし、いつの頃からか、そんな作曲家の思いとは裏腹に、この曲をなんの苦労もなく演奏してしまう人が出てくるようになりました。さらに、ブーレーズあたりの功績でしょうか単に「野蛮でわけの分からない曲」というイメージからも脱却するようになったのです。
今回の指揮者ノットは、ブーレーズと同じ、パリの「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の指揮者だった人、現代音楽を精緻に演奏するだけではなく、しっかりとした存在感を持って表現する能力にかけては定評があります。だいぶ前に出たリゲティのアルバムでも、作品に対する的確な解釈で、とても暖かい音楽を引き出していたはずです。
ですから、「春の祭典」でも、ひとつひとつの楽器のフレーズがきちんとした意味を持ってそれぞれに主張し合っていることが良く分かる演奏に仕上がっています。そもそも出だしのファゴットのソロからして、作曲された時にはとても難しい音を苦労して出しているという悲壮感を求めたものだったのでしょうが、ここで聴けるものは殆どセクシーと言っても構わないほどの艶やかさを持ったソロでした。そんな、すべての面で余裕を感じさせられる「大人」の演奏、そうなってくると、ブーレーズあたりがしゃかりきになってリズムの不規則性を強調していた「若い娘たちの踊り」などは、いともあっさりとしたリズム処理になっていて、逆に肩すかしを食らってしまうほどです。そんな、一見些事にこだわらないかに見えるノットの戦法、しかしそれは極めてクレバーなアプローチであることに、しばらくすると気づかされます。そこから生まれるいとも暖かい「春の祭典」、それはおそらく最も「現代的」なメッセージが込められたものなのかもしれません。
カップリングには「3楽章の交響曲」が収録されています。ノットによって同じアルバムの中に入れられた時、この曲の中、例えば両端の楽章に頻繁に見られる「春の祭典」のモチーフの断片に、いやでも気づかされることになります。こんな駄作の中にも、セルフ・パロディとしての存在意義をきちんと見いださせてくれるのが、ノットのたぐいまれな手腕です。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-30 20:12 | オーケストラ | Comments(0)
このNAXOSを聴け!
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松本大輔著
青弓社刊
ISBN978-4-7872-7235-5


著者は、今までにもこの出版社から2冊のクラシック本を出しています。それらと一緒にこの本を読めば、この方はとてつもないクラシック音楽のマニアであることが分かることでしょう。何しろ、その聴く量がハンパではありません。おそらく、一日の殆どの時間をCDを聴くことに費やしているに違いありません。なんともうらやましい、と思ったら、実はこの方は通信販売専門のCDショップ、「アリアCD」の店主だったのですね。CDなんて売るほどありあ(意味不明)。
そんな、超コアなリスナーである著者が、今まで聴いてきた数多くのCDの中で、特に感銘を受けたものにNAXOSのものがかなり多く含まれていたことから、こんな、特定のレーベルをタイトルにした尋常ではない本を書こうと思い立ったのだそうです。さらに、このレーベルにこだわったのには、もう一つの理由がありました。著者は以前の書物でもご自分が感銘を受けたCDを紹介して、その思いを読者と共有しようとしていたのですが、程なくそれらのものは廃盤や製造終了となって入手不能になってしまったというのです。せっかく紹介しても、現物が手に入らないのであればなんにもなりません。しかし、NAXOSでは基本的に一度発売したアイテムを廃盤にすることはないというのです。しかも、他のマイナーレーベルとは違い、全国どこのかなり小さな小売店でも扱っていて、店頭になくても注文すれば間違いなく手に入れることが出来るという非常にありがたい体制が整っているのだそうなのです。なんでも、20年前に誕生したこのレーベルは、今までになんと3000枚以上のCDをリリース、そして現在も、毎月何十枚という新譜を出し続けているということ、それらが総て入手可能な状態にあるというのですから、これはすごいことですね。
そんなNAXOS1000枚(!)は聴いてきたという著者のお薦めは、とことん濃いものでした。なにしろ、「有名な作曲家」というコーナーでも、普通によく知られている作曲家などはまず登場しないのですからね。スヴェンセンやチャドウィックのどこが「有名」だというのでしょう。ティシチェンコやグレチャニノフなんて、初めて聞いた名前ですし。しかし、そこでめげていてはいけません。このコーナーを読破し、さらに「マイナーな作曲家」へと進む頃には、あなたも著者の熱気に煽られていっぱしのクラシックマニアになってしまっていることでしょう。
著者がこの本の中で多くのページを割いて紹介しているのが、例の「日本作曲家選輯」です。日本の代理店が企画を出して、今まで殆ど知られることのなかった日本人作曲家の作品を体系的に紹介しようというとても他のレーベルでは実現しそうもないプロジェクト、著者は執筆時点でリリースされているすべてのアイテムについて熱いコメントを寄せているのです。
しかし、そのコーナーの最後で「このシリーズは頓挫してしまうかもしれない」と述べているあたりから、この本は別の意味で極めてドラマティックな様相を呈することになります。折しも著者が原稿をすべて書き上げた頃に、NAXOSを創業時から支えてきた日本の代理店が、突然「も~辞めた」と言って代理店の権利を返上、他の会社がその業務を引き継ぐことになってしまったのです。このあたりの詳細な経緯も、「あとがき」のような形で正確に知ることが出来ます。そのことによって、こちらにも書いたように、少なくとも今までの「廉価盤」というイメージは、もはや期待は出来ないようになってしまいました。しかし、このレーベルはすでに他では決して得られないレアなものをくまなく集めた、まさにクラシック音楽の百科事典としての確固たる地位を築き上げています。この本で著者は、図らずも「新生」NAXOSへ向けて熱いエールを送っているようには、見えないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-28 19:54 | 書籍 | Comments(2)
千秋真一...
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 今回の定期演奏会は、いつもとは全く異なるタイプの指揮者との共演となりました。最大の相違点は、私たちを最初から最後まで「優秀なオーケストラ」として扱ってくれた、ということです。何と言っても我々はアマチュアですから、どんな指揮者が来たとしても必ず欠点が露呈してしまいます。そこを、彼らは程度の差こそあれ、きっちりと「直す」ことに、最大の力を注ぐように見えます。ある人は、言うだけ言って、とても直らないと悟ると明らかにハードルを下げた指示にシフト、またある人は、いとも露わに「不愉快だ!」という言葉で不快感を表明、その度に私たちは言いようのない寂しさにうちひしがれたものでした。
 しかし、茂木さんは、なにしろ参考にということで最近の定期演奏会のCDを送った時点で「これはプロの演奏です」と言いきったほど、正直今まで受けたことのないほどの賞賛の言葉で、私たちを包み込んでくれたのです。あろう事か、ブログという公の場でも私たちを褒めまくって下さいました。「スコッチの冒頭を振って数分で、このオケが非常に訓練された、理解力と演奏技術を兼ね備えたとてもよいオケであることがわかる」といった具合です。
 リハーサルの間、茂木さんの私たちに対する信頼感はどんどん増していくことが良く分かります。「素晴らしい!」、「もうなにも言うことはありません」、「まるで、ベルリン・フィルです」。もちろん、それが過大な褒め言葉であることは、私たちには良く分かっています。しかし、そのように言われることによって、確実に私たちの中から余計な緊張がなくなり、伸び伸びとした自発的な音楽が育っていくのが、目に見えて分かってくるのです。特に弦楽器など、いつの間にあんなに上手になっていたのだろうと思うほど、素晴らしいものを聴かせてくれるようになっていました。音色だって、とてもアマチュアとは思えないような輝かしいものが聞こえてくる瞬間だって、確かにありました。
 これが、「茂木マジック」だったのでしょう。褒めまくることによって、潜在的に持っていた能力を最大限、あるいはそれ以上に高めるすべを、茂木さんは多岐にわたる才能のひとつとして備えていたのです。それは、まるでオーラのように、「この人と一緒だったら、安心して良いものが作れる」という暗示のようなものが、メンバー1人1人に伝わっていったのかもしれません。実際に彼のコミュニケーション能力の高さは、個人レベルにまで及んで、有無を言わせぬ力で信頼感を獲得しているのでしょう。私も、さすがにメアド交換まではしませんでしたが、本番前に楽屋の前でたまたま茂木さんに会った時、「あそこのフェルマータ、大丈夫ね?」と一言言われただけで、リハーサルではちょっと不安だった1楽章導入部の最後の高音Eのソロの伸ばしが、本番ではとても楽に吹けましたし。
 しかも、打ち上げの席上では、私たちの力を信頼していなければとても出来ないようなオファーを披露して下さいました。実現するかどうかは分かりませんが、そこまで言われれば私たちの能力が本物なのかもしれないと思ってしまいますよね。
 多分、茂木さんという人は、フランツ・フォン・シュトレーゼマンのような、不思議な魅力を持った方なのかもしれません。私たちには知り得ないようなネガティブな面が多々あろうとも、見事にプレーヤーをその気にさせてしまう、それはまさに「魔法」だったのです。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-28 14:29 | 禁断 | Comments(0)
LUCHESI/La Passione di Gesù Christo
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A. Vavasori(Pietro/Alt), P. Manfredini(Maddalena/Sop)
M. Pierattelli(Giuseppe/Ten), A. Manzotti(Giovanni/Alt)
E. Bertuzzi(Nicodemo/Sop)
Sandro Filippi/
Orchertra Barocca di Cremona
TACTUS/TC 741203



1730年にメタスタージオが書いたテキストを用いた「我が主イエス・キリストの受難」という、いわゆるバッハあたりの「受難曲」とはひと味違った設定によるオラトリオは、18世紀後半から19世紀初めにかけて数多くの作曲家によって作られています(一説では十何曲)。それらの作曲家はいまいち有名ではない人たちばかりなので、今まで殆ど知られることはありませんでしたが、最近になって次々と新録音が登場して、この曲に関心が集まるようになってきています。「おやぢの部屋」でも、今までにミスリヴェチェクサリエリパイジエッロの作品を紹介してきました。
今回は、1741年生まれ、ヴェニスで活躍した後、あのベートーヴェンのおじいさん(名前も「ルートヴィヒ」)が努めていたボンのカペルマイスターの地位を獲得したというイタリアの作曲家アンドレア・ルケージの作品の、世界初録音盤です。彼の名前は、この前のエントリーの「モーツァルトの周辺の作曲家」の中でも見られたものですね。ちなみに、ボンの宮廷楽団では少年時代のルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン・ジュニアその人もオルガニストの助手や、チェンバロとヴィオラ奏者として演奏していましたから、作曲に関してもルケージからは何らかの影響を受けていたことでしょう。
彼の「受難」は、1776年にボンで作られました。ところが、今まで聴いてきた3曲はCD2枚組だったのですが、これは1枚しかありません。それは、2部構成のテキストの内の第1部しか作曲されていないためです。これは、否認を悔いたペテロのシーンを集中的に扱うために、あえてキリストの埋葬に訪れるという第2部をカットしたルケージ自身の配慮によるものです。さらに、歌手の都合で最後のペテロのアリアも「ニコデムス」という、別のキャラが歌うようになっています。
そんな、少しコンパクトになった中で、音楽はキビキビと進んでいきます。アリアの間をレシタティーヴォでつなぐというオペラと同じ手法ですが、アッコンパニアート(レシタティーヴォの伴奏)もなかなか雄弁で楽しめます。短調で始まる重々しい序曲といい、それに続くペテロのアリアといい、まさにモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と非常によく似たテイストを持った音楽が展開されているという印象を受けるのは、ある程度予測の出来たことでした。いえ、どこがどう似ていると指摘が出来るようなものではないのですが、それは例えばこの曲の中のソプラノのアリアを、ドンナ・アンナのアリアと置き換えてみてもなんの違和感もないだろうと思われるというほどに、同じ世界の産物のように聞こえてくるということなのです。もちろん「ドン・ジョヴァンニ」が作られるのはこれから10年ほど先のことになるのですから、直接的な関連などあるわけはありません。そういう次元の話ではなく、あの時代のヨーロッパではこういう音楽を作ろうと思えば誰にでも(もちろん、それなりの修練を積んだスキルの持ち主に限られますが)それが出来るだけの素地があったということなのでしょう。別な言い方をすれば、この曲は「モーツァルトの新しく発見されたオペラ」と紹介されて初めて聴かされた時に、かなり多くの人がなんの疑いも持たずに信じるだけのものを持っているのです。一度、試してみませんか?
ただ、このあたりのイタリアのレーベルにありがちな非常に貧しい録音のために、そんな試みも足を引っ張られてしまうかもしれません。ぼやけて焦点の定まらない音はオーケストラの響きから活力を奪ってしまい、かなりのメッセージをそぎ落としてしまっています。さらに、ソリスト達も粒ぞろいとは言い難く、アリマテアのヨゼフ役のテノールとヨハネ役のアルトはかなり悲惨。「聴き比べ」は、もっとまともなキャストと録音のものが現れてからにした方が良さそうです。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-26 23:24 | 合唱 | Comments(0)
Sinfonie avanti l'Opera intorno a Mozart
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Francesco Quattrocchi/
Orchestra Sinfonica Abruzzese
BONGIOVANNI/GB 5634-2



タイトルを直訳すると「モーツァルトの周辺の、オペラの前の交響曲」となります。もちろん「Sinfonie」を「交響曲」と訳すのはこの場合は不適当、当時はオペラの前に演奏された、ある種「呼び込み」というか、「1ベル」のような役目を果たしていた音楽のことを「シンフォニー」と言っていたのですから、「序曲」と訳すべきでしょう。これらの「序曲」は急-緩-急の3つの部分に分かれていることが多く、それに踊りの音楽であるメヌエットなどを加えて独立した楽曲となったものが将来は「交響曲」と呼ばれることになるのです。もっとも、「交響曲」などというおどろおどろしい字面を持つ言葉はもちろん日本語だけのものですね。ベートーヴェン以降の「シンフォニー」にしか通用しないようなこの訳語も、そろそろご用済みになって欲しいものです。
このCDに収められているオペラの序曲は、すべて世界初録音のものなのだそうです。そういうものを聴いてみたいと思うのと同時に、それが「モーツァルト周辺」の作曲家のものであるというのに、非常に興味を覚えました。モーツァルトは確かに才能にあふれた作曲家ではありますが、その音楽は彼個人の才能だけでは決して生まれたものではないことは自明の理です。彼と同時代の作曲家達の作った「知られざる」曲を聴くたびに、そんな思いはどんどん募ってきたところ、こんな企画でそれをさらに確固たるものにしたいという気持ちがあったのです。
ここに収録されている序曲の作曲家は全部で5人、そのうちのジョヴァンニ・パイジエッロ、アンドレア・ルケージ、そしてドメニコ・チマローザの3人は作品を聴いたことのある人たちでしたが、残りのニコロ・ピッチンニとパスクワーレ・アンフォッシは今回初めて聞く名前と、そして初めて聴く作品です。「アンフォッシ」さんなんて、甘い物好きだったのでしょうか(餡、欲し)。
最初の、そのピッチンニの「偽のトルコ人」という、いきなりタンバリンなどが聞こえてくる、それこそモーツァルトの「後宮」のようなオリエンタル・テイスト満載の曲では、ちょっとした失望感を味わってしまいました。オーケストラが全くやる気がないのがはっきり分かってしまうのです。写真などを見ると一応プロのオーケストラのようではありますが、出てくる音はまるっきりのシロート、テンポは定まらないし、オーボエ・ソロの音程など悲惨なものです。そして、ピッチンニ先生の曲が、本当につまらない、気の抜けたようなものだったのですよ。もしかしたら、モーツァルトはこんな人たちとは別格な存在としてこの時代に君臨していたのでは、と本気で考え直したくなったほどです。
しかし、同じようにつまらない「アメリカのナポリ人たち」に続いてパイジエッロの「親切なアラビア人たち」という曲になった途端、オーケストラの響きが俄然変わってしまったのですから驚きます。それまで決して聞かれることのなかった生き生きとした魂の昂揚のようなものが、ここからは見事に発散されるようになってくるのです。その流れるようなグルーヴ感と、時折見せてくれるちょっと意外なメロディの変化は、まさにモーツァルトと全く変わらない様式の中から生まれてくるものでした。
その後、アンフォッシの曲では、ピッチンニほどではありませんが凡庸なたたずまいを感じたものの、ルケージ、そしてチマローザでは、モーツァルトの曲の持つスピリットにかなり近いものを彼らが持っているということが確認できました。
モーツァルトの時代には、彼と同程度の作曲家はいくらでもいたということは、もはや揺るぎのない事実です。それと同時に、当然の話ですがどうしようもない作曲家もいくらでもいたということを、クワトロッキの指揮する名もないオーケストラは、見事に証明してくれたのです。
ちなみに、このアルバムの企画、選曲、楽譜校訂を行ったのは、日本の音楽学者、山田高誌さんです。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-24 20:28 | オーケストラ | Comments(3)
BACH/Préludes, Toccatas, Fantaisies & Fugues pour orgue
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Maurice Duruflé(Org)
Marie-Madeleine Duruflé(Org)
EMI/501300 2



バッハのオルガン曲全集と言えば、普通はCDで10枚を軽く超えるものですが、これは5枚組、タイトルをよく見たら「前奏曲、トッカータ、幻想曲とフーガ」ですって。つまり、バッハ作品目録のBWV531からBWV566までの曲を律儀に番号順に並べ、その他に有名なト短調のフーガBWV578や「パッサカリアとフーガ」BWV582などを加えたというものでした。従って、トリオソナタや、オルガン・コラールは全く含まれてはいません。もっとも、これが録音された1960年代前半には、そんなすべてのオルガン曲を網羅した「全集」などはヴァルヒャとアランのものぐらいしかなかったのでしょうから、これだけのものを揃えたフランスEMI(「パテ」ですね)の勇気は称賛されるべきものでしょう。
演奏しているのは、あのモーリス・デュリュフレと、彼の奥さんのマリ・マドレーヌ・デュリュフレです。最初はモーリスの職場のサン・テツィエンヌ・デュ・モンで、彼のアシスタントを務めていたマリ・マドレーヌですが、後にモーリスと結婚、よくある話ですね。「レクイエム」を作曲者自身が指揮をしたERATO盤では、彼女がオルガンを弾いていましたね。ちなみに年の差は19才でした。う、うらやましい。もっとも、その20年後には二人一緒に自動車事故に遭ってしまい、かろうじて一命はとりとめたものの、演奏家としての生命は絶たれてしまうという痛ましい未来が待っているのですが。
録音が行われたのは、彼らのホームグラウンドではなく、ソワソンのサン・ジェルヴェ・サン・プロテ大聖堂、1963年から1965年にかけて収録されています。録音年代、そしてレーベルを考えると、決して良い音は期待できないと思っていたのですが、聴いてみるとその繊細な響きには驚かされてしまいました。フランス風のストップがふんだんに用いられているゴンザレス・オルガンの明るく軽やかな音が、見事に眼前に広がっていたのです。考えてみれば、デュリュフレがプレートルと共演したサン・サーンスの交響曲第3番は1963年の録音、あれだけスペクタクルなサウンドが実現できていたのですから(オルガンのピッチが低いのがすごく気になりますが)、このバッハでの良い音も頷けます。データを見てみたら、録音スタッフは全く同じ人、当時のフランスEMIの録音クオリティは、ある意味現在のものをはるかに凌いでいたのではないでしょうか。
全体の曲目のほぼ半分ずつを二人で弾き分けるという構成、有名なニ短調の「トッカータとフーガ」BWV565やト短調の「幻想曲とフーガ」BWV542はマリ・マドレーヌの担当です。ここで彼女は、めくるめくレジストレーションの変化を存分に楽しませてくれます。ストレスも発散できるほど(それは、「フラストレーション」)。重厚とは無縁の、かなり高い周波数のスペクトルが勝った明るい音色、クセのあるリード管も惜しげもなく使って、いかにもフランス風の、まさに「幻想的」な世界を見せてくれています。フーガも軽やかなテンポで淀みなく進むさまは、いかにもオシャレ。
ご主人の方も、基本的にフランス風の洒脱なたたずまいは健在です。しかし、若い奥さんに比べるとそれだけ堅実さが前に出てきているような印象が与えられるのは、「パッサカリアとフーガ」BWV582のような渋めの曲を演奏しているせいでしょうか。「トッカータ、アダージョとフーガ」BWV564も、ちょっとまじめ過ぎるように聞こえてしまいます。
こういう、いかにも往年のバッハ像が反映されたようながっちりした曲だけではなく、もっとこじゃれたコラールなどは彼らは録音してはいなかったのでしょうか。そんな曲での二人の個性の違いなども、ぜひ聴き分けてみたいような気がします。
作曲家でオルガニスト、教え子の若い演奏家を妻に迎えるなど、デュリュフレという人はあのメシアンとよく似た人生を送っていたのですね。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-22 20:33 | オルガン | Comments(0)
Choral Arrangements by Clytus Gottwald
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Ralph Allwood/
The Rodolfus Choir
SIGNUM/SIGCD 102



クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲作品が、もはや多くの合唱団のレパートリーとして欠かせないものになっているのは、このところリリースされている合唱のCDに、彼の名前が頻繁に見られることでも分かります。そして、なんとゴットヴァルトのものだけで1枚のアルバムを作ってしまうということすらも、珍しくはなくなっているのですから、すごいものです。ほんの半年ほど前にご紹介したクリード盤に続いて、今度は合唱王国イギリスの団体によって、彼の作品だけのCDが録音されました。
ここで演奏しているルドルフス合唱団というのは、1983年に創設された団体ですが、その母体は毎年行われている「イートン合唱コース」という、タモリが講師をしている夏の合唱講習会です(それは「イートモ合唱コース」)。これは、イギリス中から合唱のプロを目指す学生など350人が集まって、講習を受けるというもの、その講習生の中から毎年10人前後の人が、この合唱団のメンバーとして誘われる、というシステムになっています。そのようにメンバーを入れ替えて、常に25才以下の人だけによって合唱団が構成されている、という状態が保たれているのだそうです。今までHERALDレーベルから6枚のCDを出していましたが、これは、SIGNUMへの初の録音となります。
確かに、ここで聴かれるメンバーの声はいかにも若々しく、その上で高度の訓練を受けていることがよく分かるものです。ハーモニーに乱れはありませんし、ゴットヴァルト編曲によく出てくる非常に高い音を出すソリストパートも、全く危なげのない澄んだ声を聴かせてくれています。とは言っても、なにか素材の良さが生かされていないな、という感じが、ここには常につきまとっているのはなぜなのでしょうか。特に男声パートはいかにも生の声がそのまま出てしまって、潤いというものが感じられません。ソプラノソロも、恐ろしく淡泊な味で、妙にまわりのパートから浮いてしまっています。
最後に収録されているマーラーの「私はこの世に見捨てられ」は、今やゴットヴァルトの代表作として多くのCDに登場していますから、比較には事欠きません。その結果、彼らがベルニウスやクリードの境地に達するためには、テクニックを超えた、なにかが必要であることがよく分かってしまいます。合唱が全体としての主張、あるいは方向性を決めかねているのでは、という気がしてなりません。もっとも、アクサントゥスほどのノーテンキさまでに堕しているわけではありませんから、それなりの水準には達しているのですが、なんとももったいないことです。
曲目は、クリード盤でも演奏されていたマーラー、ラヴェル、ドビュッシー、カプレの他にヴォルフ、ベルクやウェーベルンなど、多岐にわたっています。データが全くないのでいつ頃作られたものかは分かりませんが、一体どれほどの編曲が存在しているのか、興味は尽きません。初めて聴いたラヴェルの「マラルメの3つの詩」からの「溜息Soupir」では、オリジナルの楽器編成を意識してか、なんと口笛を吹かせるという反則技を選んでもいます。そのうち、ヴォイス・パーカッションを取り入れるようになるのかもしれませんね。
それは冗談ですが、プッチーニの「私のお父さんOh! mi babbino caro」などというものは、かなり意外な選曲でした。もちろん、ゴットヴァルトのことですから、厚みのあるハーモニーで包み込むことは忘れてはいないのですが、彼の編曲の本来のコンセプトであった「ルクス・エテルナ」の世界を他の曲にも及ぼしてみるという点からは、かなり離れてきているように思えてなりません。そして、それがこの合唱団によって歌われた時になんの違和感もないというのが、ちょっと怖いところ、実はそれこそが最大の問題点なのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-20 20:23 | 合唱 | Comments(0)
ブルターニュ
 末廣誠さんが仙台フィルを指揮するコンサートがあるので行ってきました。ただのコンサートではなく、なんでも仙台市とフランスのレンヌ市が姉妹都市になってから何十周年だかの記念行事の一環ということ、会場にはレンヌ市長やら、明日からのイベントに参加する人たちが招待されていました。さらに、演奏の間には私の大好きな板橋恵子さんのMCも入るという構成、半分「記念式典」のようなものなのですから、チケットがたったの1000円というのも納得です。
 もちろん、お目当ては末廣さんの指揮姿。いつもは指揮をされているところしか経験していませんから、これは貴重なもの、だいぶ前に東京で都民響のコンサートを聴いて以来のことです。もう一つ、曲目にも惹かれるものがありました。末廣さんの趣味でしょうか、ロパルツの曲が入っているのですよ。私がロパルツという名前を知ったのは、末廣さんがその作曲家の「レクイエム」を東京のアマオケで演奏した、という情報からでした。その時末廣さんに聞いてみたら「良い曲だよ」と言っていたので、1種類しか出ていないCDを探しまくり、最近やっとその曲を聴くことが出来ました。その勢いで交響曲も全曲買い込んであります。実は、まだちゃんとは聴いていないのですがね。
 「ブルターニュをめぐる伝説の世界」というタイトルのコンサートは、まずドビュッシーの「沈める寺」をアンリ・ビュッセルがオーケストラに編曲したという珍しいものから始まりました。出だしの木管がかなり危なげだったので一抹の不安がよぎりますが、美しい弦の響きに助けられて、何ごともなかったかのように過ぎていきます。今日の会場はイズミティ。ただ、ステージがオケピットの部分まで前に出てきていますから、そのせいなのでしょうか、あるいは仙台フィルの常任指揮者がフランス人に代わったせいなのか、その弦楽器がとてもきれいに聞こえてくるのです。金管なども、さんざん青年文化センターで聴かされたモヤモヤとした音ではない、スカッとしたものに聞こえます。
 そして、お目当て、ロパルツの「コロノスのオイディプス」組曲という、もちろん初めて聴く曲です。始まる前に、板橋さんと一緒に末廣さんもMCに参加、「とにかく地味~な曲です」と解説してくれます。「でも、それがすごく良いんですよね」という言葉通り、とても静かだけれど、深いところで心に訴えるものを持った曲でした。なにより、確信を持って指揮をしている末廣さんの姿が素敵です。
 休憩後は、ドビュッシーの「牧神」です。ついこの間実際に演奏したばかり、戸田さんのフルートは相変わらず豊かな響きです。末廣さんの指揮だったら、難しいリズムも苦にはならなかったかも。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」の「妖精の国」を挟んで、またまた期待の「トリスタン」です。これも、来年春のコンサートの曲目に決まったもの、CDではさんざん聴いていますが、実は生で聴くのはこれが初めてなのですよ。出だしのチェロのクレッシェンドから、これは大変な曲だと思わせられるものでした。フルートも最初の音はかなりビビりそう。本当にこんな曲が出来るのか、不安になってしまいます。後半の「愛の死」では、末廣さんはとてつもないテンションで燃え上がっていました。まさに感動的。
 付け足しのようなジョン・ウィリアムスの「インディ・ジョーンズ」のあと、アンコールでまたロパルツの小品が演奏されました。このフルートソロも素敵です。交響曲のCD、ぜひじっくり聴き直してみたいと思っているところです。
 次の日の一番町は、フランス一色。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-19 22:38 | 禁断 | Comments(0)
The Elfin Knight
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Joel Frederiksen/
Ensemble Phoenix Munich
HM/HMC 901983



「妖精の騎士」と、なにか人気マンガのようなタイトルですが、それとは全く関係はありません。サブタイトルに「イギリスルネッサンスのバラッドと舞曲」とあるのが、その内容です。「妖精の騎士」というのは、そんなバラッドの一つのタイトルなのです。
19世紀の終わり頃にフランシス・ジェームズ・チャイルドという人が、300曲以上の古い伝承バラッドを収めた5巻なら成る「The English and Scottish Popular Ballads」という本を出版しました。その第1巻の2曲目に収録されているのが、「The Elfin Knight」というバラッドの13種類のヴァリアントです。地方や時代によって細かい歌詞の内容は変わっていますが、恋人に「縫い目のないシャツを作ってくれ」というような無理な仕事をお願いしたり、合いの手に「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」といったハーブの名前を連呼するという、あのサイモンとガーファンクルの ヒット曲「スカボロー・フェア」の原型となったものです。そのうちの3つのヴァリアントが、このCDには紹介されています。
演奏しているのが、ジョエル・フレデリクセンを中心とした、「アンサンブル・フェニックス」というミュンヘンの団体です。フレデリクセンは最初はアメリカでリュートと声楽を学びます。アーリー・ミュージックのグループで活躍するとともに、モンテヴェルディの「オルフェオ」などで、歌手としてのステージも経験しています。最近ではヨーロッパを中心に活躍、数多くのアンサンブルに参加した後、2003年に自らのグループ、「アンサンブル・フェニックス」を創設します。
その経歴を見て分かるとおり、フレデリクセンは歌と楽器の双方に秀でたミュージシャンですから、この時代の音楽を完璧に一人で伴奏しながら歌うという「弾き語り」を、高い次元で可能にしています。彼のバスの声は、半端なものではありません。陰影に富んだ歌い方で、恐ろしく幅広い表現を見せつけてくれます。一人だけの演奏で7分25秒を歌いきっている「Barbara Ellen」はまさに圧巻、シンプルなメロディの歌が16回繰り返されるというだけなのですが、歌い方の微妙なニュアンスの変化と、リュートの絶妙のフレーズでとても大きなものが迫ってきます。
このグループには、さらにもう2人の「歌える」プレーヤーが参加しています。テナーのティモシー・リー・エヴァンスと、カウンター・テナーのスヴェン・シュヴァンベルガーです。それぞれがソロを取ったり、2人、3人でハーモニーを聴かせてくれたりと楽しませてくれるのが「Lord Darly」です。ソロと同じスタンスですんなりコーラスに入ってしまうセンスがとても素敵、3人ともハーモニーのツボが完璧に決まっていて、浮き立つようなリフレインでの心地よさは絶品です。シュヴァンベルガーはとても多才な人で、楽器もフルート、リコーダー、テオルボ、リュートを弾きこなすというまさにマルチ・プレーヤー、あちこちで超絶的な技巧を披露してくれています。
ソロでしっとりと聞かせるナンバーとともに、総勢6人のメンバーが一緒になったときのノリの良さも聴きものですよ。何しろパーカッションを担当しているサーシャ・ゴトヴチコフという人のグルーヴがハンパではありませんから、それに乗せられたグループのテンションといったら。彼のリズムは殆どラテン・パーカッションのノリです。例えば8分の6拍子の「Greensleeves」では、ヘミオレが入って、まるで中米の「ウアパンゴ」(「ウェスト・サイド・ストーリー」の「アメリカ」のリズム)みたいになっていますから、これは盛り上がります。
ここでフレデリクセンが作り上げた音楽は、アーリー・ミュージックの訳語「古楽」から連想される、カビくさく古めかしいものでは決してなく、現代の息吹が存分に感じられるものです。もはや、こういうものに対して「古楽」という言葉を使うのは、完璧に実情に合わない時代になっています。それに気づかずに、未だにこの言葉を使い続ける人がいるのはこがくた(困った)ものです。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-18 19:56 | 合唱 | Comments(0)
愛媛県みかん工業
 最近、昔のフランスEMIのCDを「おやぢの部屋」で取り上げることにしたので、「フランスEMI」とは一体何だったのか確認してみるために、ネットで検索をしてみました。案の定、この項目についてはあの「ウィキペディア」がアップされていましたので、一応目を通してみます。最近何かと問題の多いこの百科事典サイトですが、もちろんそんなことは昔から分かっていたことです。そもそも、そこに記載されている内容などは間違いだらけであることは、私の良く知っている項目などをのぞいてみれば一見してばれてしまいます。ですから、ここを見る時にはどの程度頑張っているかチェックするだけ、決してそのデータを鵜呑みにすることはありません。何かの参考資料とする時にも、必ず他のもので裏を取るのはもはや常識、ここに書かれていることをそのまま使うなんて危険なことは、とても出来ません。
 そんなスタンスで、「EMI」という項目を眺めていると、なんだかどこかで読んだことのあるような言い回しがあちこちに出てきます。というか、ここに書いてあることなどはすでに私がページを作っていたので、知っていることばかりだったのですよ。細かく見てみると、このウィキペディアは、私のページをほぼすべてにわたって「引用」しているのですね。もちろん、私が作った時にも参考資料を見ましたし(それは「参考文献」としてきちんと提示しています)、年代や法人名などは既知のものですから私のオリジナルではあり得ませんが、文章の構成とか言い回しまでがこれほど似ていると、私のページをそのまま掲載したと思うしかないのですよ。履歴を調べると、このウィキペディアが最初にアップされたのが2004年ですから、2000年にアップした私のページはすでにネット上にありましたし。
 だいぶ昔のことですが、全く同じようなケースで「ミッチ・ミラー」をパクられたことがありましたね。あの時は先方に連絡して、結局削除に追い込んでしまったという、ちょっと後味の悪い結末でした。担当ライターを処分したとか。私としては出典さえ明示してもらえれば、それで良かったのですが。ですから、今回は別になんのアクションも起こすつもりはありません。そもそもこの百科事典、他のページでは「この項目は、他の著作を引用した可能性があります」とか言いながら、しっかり掲載を続けているようなところなのですから、基本的にこういうことには無頓着なのでしょうし。
 そうなのです。人のサイトから明らかな引用をしておきながら、全く反省の色を見せようとしない、そんなものが信用できると思えますか?あ、でも、今回はパクった元が私のサイトですから、その部分だけは間違いはありませんから。
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by jurassic_oyaji | 2007-10-17 20:43 | 禁断 | Comments(0)