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CAGE/Complete Music for Prepared Piano
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Giancarlo Simonacci(Pr. Pf)
Ars Ludi Lab(Perc. Ens)
Nicola Paszkowski/
Orchestra V.Galilei
BRILLIANT/8189



ジョン・ケージのプリペアド・ピアノのための作品を全部集めた3枚組の「全集」が、1500円ちょっとで買えてしまうなんて、なんとも恐ろしい世の中です。こんな事でもない限り、彼のこの楽器のための全作品を聴く機会などありえなかったことでしょう。これで、「ソナタとインタールード」は3種類のアイテムが揃いましたし、今まで聴いたことのなかった「協奏曲」も聴くことが出来ます。
この全集の最初に収録されている(ほぼ作曲年代順に曲が並んでいます)史上初のプリペアド・ピアノのための作品「バッカナーレ」が、たとえ当初は打楽器アンサンブルを想定していたところが、演奏家の都合が付かずに急遽必要に迫られて今のような形で初演されたものであったにしても、高価なグランドピアノにねじや消しゴムを挟んで音を変えるという、言ってみれば子どものいたずらのような発想の「楽器」自体は、長年にわたって受け継がれてきた西洋音楽に対する冗談に近い挑戦だったことは明らかです。「室内オーケストラとプリペアド・ピアノのための協奏曲」での、そんな楽器を、それこそ西洋音楽の権化であるオーケストラと競演させようというアイディアは、ちょっとすごいことだとは思いませんか?そもそも、この曲が初演されたときには、オーケストラを指揮したのはプロの指揮者ではなく、ケージの長年の友人であるモダン・ダンスの振り付け師、マース・カニングハムだったというのですからね。もちろん、カニングハムにオーケストラの指揮者としての能力などはありませんから、どんなスコアなのかは非常に興味のあるところです。だれかがこっそり教えていたのでしょうか(それは「カンニング」)。
実は、この間ご紹介した「LPジャケット美術館」の中に、この曲を高橋悠治が演奏したNONSUCH盤のジャケットがあったのですよ。それを見て、はるか昔にこのレコードをお店で見つけておきながらつい買いそびれてしまった記憶が蘇ってしまいました。あの時に買っておけば、今ごろになって後悔しなくて済んだものを。
というわけで、意気込んで聴き始めたところ、やはりこれはとてつもない「冗談」であることが分かります。オーケストラの楽器はそれなりにスケールっぽいものとかハーモニーも聴かせているのですが、迎え撃つプリペアド・ピアノのなんという秩序のなさ。やはり、これは西洋クラシック音楽への果敢な挑戦を企ててはみたものの、最初から滑稽な結末を迎えるのは分かっていたというストーリーを描いていたものなのでしょう。
しかし、独奏者のシモナッチは、なぜか大まじめにきちんと自分のパートに意味を持たせようとしているところが、逆に笑えます。どうやらこの人は、ケージの仕掛けた冗談にはあまり興味を示さない(示せない)人のように思えてしょうがありません。それが端的に表れているのが、おそらくこの楽器のための曲としては最も有名な「マルセル・デュシャンのための音楽」なのではないでしょうか。この曲の最後の方で、オリエンタルなフレーズが何回も繰り返されます。普通はその中で一番高い音のプリペアが突拍子もない音色と音程なので、そこでショック(というか、笑い)を与えられるものなのですが、この人のプリペアはなんの違和感もわいてこないようなまっとうなものなのです。
こういう演奏を聴いていると、ケージが西洋音楽の中に打ち込んだはずのくさびが、いつの間にかそれ自体西洋音楽の大きな流れの中に組み込まれてしまっているような思いに駆られてしまいます。そう、50年も経てば、それはもはや「前衛」でもなんでもなくなってしまうという、これが歴史の重みというものなのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-30 19:54 | 現代音楽 | Comments(0)
マエストロ・ペンの お茶にしませんか?
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末廣誠著
レッスンの友社刊
ISBN978-4-947740-15-1


指揮者の末廣誠さんが、月刊誌「ストリング」に連載していたエッセイが単行本になりました。「ストリング」というのは料理雑誌(それは「イカリング」)ではなく、弦楽器を演奏する人のための専門誌ですから、なかなか普通のクラシック・ファンの目にはとまりにくいはずです。こんな風にきちんと1冊の本になれば、誰でもこの抱腹絶倒のエッセイが味わえますよ。今すぐ書店に走って立ち読みをしましょう!って、きちんとお金を払って買わなきゃダメじゃないですか。
末廣さんは指揮者としては超一流の方ですが、文章を書く才能もずば抜けたものをお持ちです。コンサートのパンフレットなどによく曲目解説などを執筆されていますが、それはとても新鮮な視点から書かれていて、思わず「そうだったのか!」と膝をたたいてしまうような、素敵なものです。何しろ「カルメン」の解説が「今夜、この舞台の上では殺人が行われる」で始まるのですからね。
そんな末廣さんが、「ストリング」で繰り広げていたのは、とことん笑えるお話しでした。ほんと、どの回も3回以上はくすくす笑いがこみ上げてくることは保証します。そのうちの1回は大爆笑かもしれません。なんたって「序曲『便秘薬』」ですもんね。
指揮者として全世界を飛び回っている体験と、音楽に対する該博な知識を、ここまで面白いものに仕立て上げる才能は、単に文章のテクニックというのではない、末廣さん本人が備えている「笑い」に対するセンスによるものでしょう。そういえば、本文中にも登場しますが、末廣さんは大の落語マニア、中でも、故桂枝雀が大好きだったとか、確かに、あの一見ハチャメチャにみえて計算し尽くされた笑いのセンスは、末廣さんの文章の中にも感じ取ることが出来ます(ところで、枝雀のDVDは入手されたのでしょうか)。最高に笑えたのは、雑誌連載の時に、この本の中にある2年分の連載の最後から一つ前の号で「次回はなんと最終回」とやったことでしょう。その前に直接ご本人と話をしたときに、「3年間連載します」とおっしゃっていただけにこれはショックでした。しかし、次の号ではケロッとして「次号から新シリーズをスタートします」ですって。もちろん、このやりとりは単行本には収録されていませんが、この手の込んだ2ヶ月連続のジョーク、こうなるとかなりブラックっぽくなってきますね。ちなみに、その「新シリーズは」、「名曲言いたい放題編」というタイトルで、今でも連載が続いています。
しかし、そんなおかしさに笑い転げているだけでは、真の末廣ファンとは言えません。一見面白おかしい中に、末廣さんならではの鋭い主張が込められているのを、決して見逃すことは許されないのです。例えば、「子供のための音楽教室を考えるの巻」では、真に音楽が好きな人間を育てるためには何が必要なのか、とても示唆に富む提言が語られています。また、「コンクールについて考えるの巻」では、普段漠然と感じていた疑問点が、とても明白な形で示されています。そうなんですよ。大人になってからのコンクールなんて、絶対あり得ない話じゃないですか。
嬉しいことに、この単行本には雑誌には掲載されていなかった書き下ろしが4編も加わっています。それを読めば、なぜ「マエストロ・ペン」なのかがよく分かるという、これももしかしたら末廣さんの仕掛けだったのかもしれません。そして、最後の1編には、極めて真面目に末廣さんの音楽に対する信条告白が述べられています。「柄にもなく大まじめなことを書いてしまった」などと茶化していますが、これこそは末廣さんの本心であることは明らかです。油断をしてはいけません。
そうなんですよ。最大の油断は、これを読んで末廣さんのことを「面白く、楽しい人」と思いこんでしまうことなのです。本当はとっても怖い人なんですからね。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-29 01:28 | 書籍 | Comments(6)
Haas vs Novak
 「ジュラシック・ページ」のひとつの目玉が、ブルックナーの交響曲第4番の版についてのコンテンツでした。実は、この内容そのものは私がサイトを立ち上げる前からすでに出来上がっていたものでした。1996年にこの曲を演奏することになったので、それに関する蘊蓄をニューフィルの会報である「かいほうげん」に掲載したものが、その2年後に発足することになるこのサイトのコンテンツの元になっています。
 その時に行ったのは、主に初稿と、ハース版、ノヴァーク版との間の相違点を検証するということでした。その時にハース版として手元にあったのがドーヴァー版だったのですが、それは4番と7番が1冊にまとまっているものでした。その時に発表したのは4番についてだけだったのですが、7番についても、ノヴァーク版のスコアは持っていたので、ついでに異なっている部分などをチェックしておきました。
 それから12年近く経って、たまたま「おやぢの部屋」で7番のCDのレビューを書く機会がありました。そこで版の問題についてちょっと考えさせられることがあったもので、その12年前のメモを元にもう一度しっかり版の違いを確認してみました。そして出来上がったのが、この新しいコンテンツです。まさに、このサイトの原点に立ち返ったような内容に仕上がっているのではないでしょうか。ほんと、こんな重箱の隅を突っついているようなことをやっていて、どこが面白いのでしょうね。でも、こんなことが好きでたまらない人もいるのですから楽しいものです。ここを見て、お手持ちのCDではどうなっているのか、ご一報下さればサイトに掲載させて頂きますよ。
 話変わって、前回のエントリーによると私の本番の半数以上を占めていたという合唱についてです。毎年のことですが、その中での最大のイベント、3月に行われるオペラシティでのコンサートのチケットとチラシが出来上がってきました。
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 なんせ、200人近い大所帯ですから、チケットは早くも厳しい争奪戦が繰り広げられているようです。ただ、仙台に回ってきた分に関してはいくらか余裕がありそうなので(去年はかなりの枚数を東京に返しました)東京近郊にお住まいの方でご希望があればお申し出下さい。
 今回最も楽しみにしているのは、武満徹の「小さな空」。あの色彩的なハーモニーの中に実際に身を置ける合唱団に参加できる喜びを、噛みしめられたら、と思います。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-27 22:13 | 禁断 | Comments(0)
BACH/Der Streit zwischen Phoebus und Pan
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Simone Nold(Sop), Annette Markert(Alt)
Markus Schäfer, Werner Güra(Ten)
Konrad Jarnot, Stephan Genz(Bar)
Hansjörg Albrecht/
Münchner Bach-Chor, Bach Collegium München
OEHMS/OC 914



ワーグナーの「指輪」全曲や、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」をオルガン用に編曲したSACDなどをご紹介したことのあるオルガニスト、ハンスイェルク・アルブレヒトは、実は指揮者としても活躍していたことをこのアルバムで知りました。彼が指揮をしているのがミュンヘン・バッハ合唱団、あのカール・リヒターによって創設された合唱団です。リヒター亡き後その任を引き継いだのがハンス・マルティン・シュナイトですが、2005年からはこのアルブレヒトが指揮者となっているのです。そういえば、リヒターだってもともとはオルガニストでしたね。
ここで演奏しているのは、バッハの「世俗カンタータ」というよりは、「音楽劇」としてとらえるべき作品「フェーブスとパンの戦い」BWV201です。バッハはオペラのような劇音楽は書いていないと思われがちですが、例えば「マタイ受難曲」などはれっきとした劇音楽です。その「マタイ」の台本(というか、アリアの歌詞)を書いたクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリチによって、有名なミダス王の神話を題材にフェーブス(アポロ)とパンの歌合戦の場面が描かれた物語が、この曲です。
通常は開始の合唱で始まるものなのですが、アルブレヒトは「劇」としての体裁を確保するために、この曲の前に「序曲」を用意しました。それは、バッハの他の作品を転用するという、バッハ自身も行っていた手法です。「イースター・オラトリオ」の元となった「牧人のカンタータ」BWV249aの1曲目と2曲目、そしてカンタータ「いざ、晴れやかなラッパの鳴り渡る響きをAuf, schmetternde Töne der muntern TrompetenBWV207aの冒頭の合唱をドッキングさせたものです。さらに、同じ207aからの「マーチ」を、201への導入として使っています。
そこまで周到な準備をして始められたこの「劇音楽」、そこからは、アルブレヒトの生き生きとした音楽の運びによって、とても生々しい「ドラマ」が展開されることになりました。いえ、音楽自体はバッハの時代の様式をきちんと踏まえたものなのですが、それを歌っている人たちが見事にキャラクターを「演じて」いるものですから、とても人間的な息づかいを聴くことが出来るということなのですが。
幕開けの合唱から、それははっきり現れています。音程などは多少犠牲にしても、ある種の切迫感のようなものを最優先に表現していることが、もろに伝わってきます。そして、それぞれのアリアの表情付けも、まさに真に迫ったものです。物語のハイライト、フェーブスとパンがそれぞれ歌う歌の違いの際だたせ方は見事です。フェーブスの歌はあくまで美しく、それは殆どなんの主張も持たない平面的なものにすら聞こえます。イントロのヴァイオリンのフレーズで、最後のちょっとした「おかず」を拍の中に入れず独立して処理をしているのは、アルブレヒトのセンスでしょうか。これも「美しさ」を引き立てるものです。それに対するパンの歌は、とことんワイルドに迫ります。しかし、そんな粗野な面の方が、聴いていて味があると思えるのはなぜでしょう。
そんなパンの歌をたたえるミダス王の歌には、どんな聴き手の興味をもみだす(満たす)迫力が込められています。これを歌っているギュラは、わざと羽目を外して、確信犯的に大げさな身振りを聴かせます。その後のレシタティーヴォで、そんな審美観の欠けた耳がロバの耳にされてしまうくだりも、とても情けない表情、まるでオペラのようにリアリティあふれるものです。
このオーケストラには、フルートのヘンリク・ヴィーゼが参加しています。それは「序曲」のアダージョで、まるで木管のような渋い響きで惹きつけられたものですが、最後のマーキュリーのアリアのオブリガートでのアンサンブルでも、完璧な語り口を堪能させてくれました。
このチームの「マタイ」などは、どれほどドラマティックになるのか、ぜひ聴いてみたいものです。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-26 20:29 | 合唱 | Comments(0)
Silent Night
 おととい、後輩の男声合唱団の定期演奏会に賛助出演して、今年の私の本番はすべて終了しました。合唱関係がとんでもないスケジュールになっていたため、今まで参加していた演奏会をすべてクリアした上にその演奏会を加えた結果、なんと13回の本番というおそらく私の生涯の中で最も多い出演回数となってしまいました。そんな1年の音楽活動を振り返ってみます。

 ●1月21日(日)男の合唱祭り(仙台市青年文化センターコンサートホール)
演奏曲は2曲だけ。10分にも満たないステージですが、まずは肩慣らし。

 ●3月11日(日)コール青葉コンサート(東京オペラシティコンサートホール)
4ステージ、2時間半というハードなコンサート。拍子木のソロも担当しました。実はギックリ腰をこらえての綱渡り。東京への往復は大変でした。

 ●3月17日(土)安野光雅美術館コンサート(津和野)
島根県の津和野まで行ってきました。1週間前のコンサートの半分をそのまま演奏。

 ●4月15日(日)仙台フルートの会フェスティバル(青年文化センターコンサートホール)
「ジュピター」と、チャイコフスキーの「弦セレ」。本来のヴィオラのパートを担当するアルトフルートの吹き詰めは、まさに苦行でした。殆ど練習に出られなかったので、ほぼ初見で本番。

 ●4月21日(土)仙台ニューフィル定期(イズミティ21)
工藤さんの指揮で「牧神」、「高雅で感傷的なワルツ」、「幻想」。「ワルツ」ではトライアングル・デビューです。「幻想」では久しぶりにピッコロ・モード。

 ●6月3日(日)恵日会総会(フルートの会/ホテル江陽)
職場のコンサートです。名曲半分、愛唱曲のカラオケを半分という構成。

 ●7月29日(日)森ミドリコンサート(トッパンホール)
コール青葉が賛助出演。森さんが作曲した「津和野」の3度目の本番です。その他に、やはり安野さんの歌詞の曲を数曲。

 ●8月26日(日)100周年記念市民コンサート(宮城県民会館)
母校が100周年を迎えるというので、現役、OBが一緒になってのステージです。祝典曲(委嘱初演)と「第九」の、昼夜二回公演。とても疲れました。

 ●8月27日(月)東北大学100周年記念式典(仙台国際センター)
式典の最後にアトラクションとして祝典曲を演奏。正直プライドを傷つけられた演出でした。

 ●10月27日(土)仙台ニューフィル定期(宮城県民会館)
茂木さんの指揮。「スコットランド」でトップ。

 ●11月16日(金)東北大学法学部同窓会(仙台法華クラブ)
OB合唱団による30分のステージ。練習は本番前だけでした。

 ●12月9日(日)角田「第九」(えずこホール)
歌伴、「第九」ともトップ。これで、一年間に合唱とオケで「第九」を制しました。

 ●12月22日(土)男声定期(若林区文化センター)
「富士山」を現役と演奏。完全暗譜。


 それぞれのコンサートでの詳細な記事は、「禁断」のバックナンバーでご覧いただけます(要パスワード)。
 もちろん、それぞれの演奏会に臨むには、半年や一年前からの練習が欠かせません。特に合唱関係で、週末は殆どスケジュールがつまっていたというハードなものでした。そんな超多忙な生活、しかし、そんな時でも忙しいからと言って必要な連絡まで怠ってしまうというような、ある意味人間として許されない行動は、決して取ることはありませんでした。それを1年間貫けたのが、私の「誇り」です。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-25 21:46 | 禁断 | Comments(1)
MOZART/Don Giovanni
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Johannes Weisser, Lorenzo Regazzo(Bar)
Alexandrina Pendatchanska, Olga Pasichnyk,
Sunhae Im(Sop), Kenneth Tarver(Ten)
René Jacobs/
Rias Kannerchor, Freiburger barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 901964.66



ミュージカルの世界には、「ショーストップ」という言葉があるそうですね。裸の女性の踊りではありません(それは「ストリップショー」)。実はこの言葉、微妙にニュアンスの異なる2つの意味で使われているようです。一つは文字通り大喝采でショーが一時中断されてしまうような状態、そしてもう一つはオペラの場合の「アリア」に相当する、聴かせどころのナンバーのことを指し示します。つまり後者は、「『キャッツ』の中の『メモリー』というショーストップは、素敵だね」といった具合に、かなりキザなシチュエーションでしか使うことはおすすめできないような単語です(そして、それに相づちを打ってくれるような女性には決して出会えることはありません)。なぜ「アリア」が「ショーストップ」なのかといえば、そういう音楽的に完成されているナンバーというものが始まると同時に、物語の進行はそこでストップしてしまうからなのです。そう、ミュージカル嫌いを公言してはばからないタレントが、「セリフをしゃべっていたと思ったら、突然歌を歌い出した」という、あの状況ですね。
もちろん、オペラの場合も、その状況は変わりません。イタリア・オペラではレシタティーヴォによって進んでいた物語は、アリアが始まるとともに一時停止、そんな不条理は気づかないふりをして、美しい歌に酔いしれるというのが、オペラ鑑賞の暗黙の「マナー」となっているのです。
モーツァルトのオペラに新鮮な息吹を与え続けているヤーコブスは、もしかしたら、そんな欺瞞的な「マナー」に耐えがたい思いを持っていたのかもしれません。今回の新録音「ドン・ジョヴァンニ」では、「ショーストップ」であるはずのアリアの最中でも、ドラマは滞ることなく継続されているという驚くべき場面を、いやと言うほど味わうことになるはずです。レシタティーヴォ・セッコは、楽譜に書かれているメロディを忠実に歌うというよりは、普通のセリフをしゃべっているものに、ほんの少し抑揚が付いているだけのように聞こえてきます。その分、通奏低音のフォルテピアノと、時にはチェロまでが自由自在に振る舞って、その「セリフ」に音楽的な愉悦感を与えています。
デュエットやアリアでさえ、隙あらば芝居を「ストップ」させては置くものかという演奏家たちの根性のようなものによって、ハッとするようなエキサイティングな瞬間がひっきりなしに訪れます。エルヴィラ役のペンダチャンスカは、まるで狂気のような鋭い表現で、せっぱ詰まった情景を訴えますし、ツェルリーナ役のスンヘ・イムはとことん細かい語り口で物語としてのリアリティを聴かせてくれています。ほんと、この人の芸の細かさは特筆もの、ドン・ジョヴァンニとのデュエット「Lá ci darem ma mano」では、最初はためらっているものが、即興的なカデンツァを挟んで嬉々として他のオトコについていこうと決心してしまう変わり身の早さを、見事なまでに歌の中で演じきっているのですからね。
演奏されている版は、基本的にウィーン版、後に殆ど歌われなくなるナンバーもすべて網羅した「完全版」、かと思うと、最後の大団円だけは残すという「折衷版」でした。もちろん、その際に削除されたプラハ版の曲も、すべて最後にまとめて収録されています。そこで、ドン・オッターヴィオのアリアも2曲とも聴くことが出来るわけですが、それを歌っているケネス・ターヴァーという人の柔らかい声には完全に魅了されてしまいました。この人は、モーツァルト・テノールとしては非の打ち所のない資質を持っているのでは。
買ってしまってから気づいたのですが、このアイテムはSACDでも出ていたのですね。分かっていれば迷うことなくそちらを買ったのに、残念なことをしました。こんな風にわざわざ2種類出すなどという無駄なことをせずに、ハイブリッドSACDで一本化してくれれば、こんなミスを起こすこともなかったのですが。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-24 19:58 | オペラ | Comments(3)
ORFF/Carmina Burana
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B. Fournier(Sop), M. Brodard(Bar), P. Sigrist(Ten)
亀田真弓,Jean-Jacque Balet(Pf)
Ensemble a percussion de Geneve
Bernard Heritier/
Choeur novantiqua de Sion
CASCAVELLE/VEL 3114



オルフの「カルミナ・ブラーナ」ほど、よく知られた作品もありません。ウサギのキャラはこどもにも人気(それは「ブルーナ」)。この曲が作られたのは1936年のことですが、1956年には作曲者自身の手によって、2台ピアノと打楽器のために編曲された版が出版されています。ご存じのようにこの曲は大編成のオーケストラを必要とするものですから、普通の合唱団などがそうそう簡単に演奏することは出来ません。そこでオルフは、オーケストラを準備できないような小規模なグループでも演奏できるようにと、こういうものを用意したということです。
その編成で選ばれた楽器というのは、実は元の編成の要となっているものでした。そもそも、この曲のオーケストレーションでもっとも印象的に聞こえてくるのは2台のピアノと、多くの打楽器群なのですし、曲の中にはこれらの楽器だけで演奏されている部分すらあるのですからね。したがって、例えば本来はオーケストラには含まれていなかった楽器であるピアノ2台のために「編曲」されたブラームスの「ドイツレクイエム」などとは、ちょっと事情が異なっていることは、十分に念頭に置いておく必要があるはずです。事実、この編成での録音で今までに何種類か出ていたものを聴いてみると殆どオリジナルの印象がそのまま保たれているように感じられます。
ただ、テノールのソロが入った、「Olim lacus colueram」というナンバーの場合は、比較的オーケストラ版との違いがはっきり出てくるのかもしれません。冒頭のファゴットのとんでもない高音(アマチュア奏者では演奏不能)では、まるで絞め殺されるような白鳥の悲痛な思いを与えられるものですが、ピアノ版でそれを表現するのはかなり難しいことでしょう。今回の演奏では、ことさらさりげなく、最初からファゴットの模倣はあきらめているように聞こえます。続くフルートによるフラッター・タンギングは、白鳥の嗚咽でしょうか。これも、ピアノによるトリルではちょっと健康的すぎる響きです。
逆に、コンパクトな編成になったことで、元の曲のスリムな姿がはっきりしてくる場面も見られます。声楽の入らないオーケストラのみのナンバー「Tanz」では、メタボ気味の元のオーケストレーションからは聞こえて来にくい9の和音の響きがはっきり現れてきて、オルフの和声に対する感覚の意外な一面に気づかされたりもするのです。
今回のアルバムは、1990年頃の録音が、ミドプライスでリイシューされたものです。ピアニストのうちの1人は亀田さんという日本人でもありますし、取り上げてみました。
もっとも、指揮者や合唱団、そしてソリストたちは全く聞いたことのない名前ですし、正直それほど高いレベルでもないようです。演奏のスタイルも、ぐいぐい引っ張られるようなドライブ感のあるものではなく、きっちり手堅く曲をまとめようというものですから、そんなに緊張感のあるものではありません。第1部の最後の曲「Were diu werlt alle min」のイントロのトランペットで演奏されるかっこいい十六分音符のフレーズも、ピアノの打鍵の問題でしょうか、かなり遅めのテンポになってしまってちょっと盛り上がりに欠けてしまっています。最悪なのは、先ほどの白鳥のアリアを歌っていたテノール。あまりに素直に歌っているためになんのおもしろみも感じることは出来ません。
ただ、合唱はそこそこ破綻のないものですし、男声のア・カペラなどはなかなかのものでした。そして、バリトンソロにこの曲に必要な遊び心が十分に備わっていたために、全体としては満足のいく仕上がりになっています。何よりも、普段聴き慣れているオーケストラ・バージョンでは他の楽器に隠れてしまっていたような打楽器がストレートに聞こえてくることによって、この曲の荒々しいサウンドが再確認できたのは、得難い体験でした。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-23 00:27 | 合唱 | Comments(0)
REICH/Sextet etc.
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Kevin Griffiths/
The London Steve Reich Ensemble
CPO/777 337-2



最近の作品はちょっと低調なスティーヴ・ライヒ、彼の昔の曲の、新しいアルバムです。演奏しているのは、ロンドンの王立音楽アカデミーの学生だったピアニストのヴィンセント・コーヴァーと、指揮者のケヴィン・グリフィスがこの作曲家の名前を冠して2005年に創設した「ロンドン・スティーヴ・ライヒ・アンサンブル」という、おそらく全員が20代の非常に若いメンバーが集まった団体です。しかし、考えてみれば、1948年生まれのライヒが、このアルバムでも演奏されている彼の初期の代表作「ピアノ・フェイズ」を作ったのが1967年なのですから、その時にはまだはたち前だったのですね。
その「ピアノ・フェイズ」、今では殆ど「ミニマル・ミュージック」の代名詞のように扱われている曲ですね。12の音からなるパターンを、2人のピアニストが同時に弾き始め、片方がほんの少しテンポを上げる事によって音の「ズレ」を生じさせ、えもいわれぬ効果を産み出すというものです。もちろん、そのような「効果」を十分に発揮させるには、演奏者にとってはとてつもない集中力が要求されることでしょう。その集中力とは、もしかしたら音楽を演奏することとは全く無関係なものであるのかもしれません。実際、この曲にそのような「音楽的」な要素を求めること自体が、間違っているのかもしれないと、かつての演奏では思わされたものでした。
しかし、ここでのコーヴァーたちの演奏からは、ある意味「実験的」な事象を超えた暖かいものを感じることは出来ないでしょうか。作曲者の目論見としては、二人の間の「ズレ」は連続的なものなのでしょうから、「揃って」いる時間はほんの一瞬になるはずです。しかし、ここでは彼らはその「揃った」状態をまるで楽しんでいるかのように長く引き延ばし、その間で「表情」を付けているのです。ひとしきり楽しんだ後は場面転換の「ズレ」のモードに入り、その後に来る別の音型になった状態を再度楽しむ、そこには、人間同士の魂の通い合いが確かに存在していました。
1984年の作品「セクステット」には、完成直後に作曲家とその仲間(パーカッション・グループ「NEXUS」のメンバーなど)によって録音されたNONESUCH盤があります。4人の打楽器奏者と2人のピアニストのために作られた曲ですが、ここでのピアニストは同時にシンセサイザーも担当することになっています。その時のライナーノーツで作曲者は、第2部(この曲は5つの部分に分かれています)ではピアノで伴奏を受け持っていた同じフレーズが、第4部ではシンセサイザーでメロディとして繰りかえされることの意味を述べていますが、確かにその「メロディ」となったパートはいかにもそれと分かる他と遊離した音色が選ばれていました。今回の演奏では、そんなはっきりとした処置はなされておらず、そこでのシンセは殆どピアノのサンプリング程度の、違和感のないものに変わっていたのです。そんな小細工を労することもないほど、この演奏ではそれぞれのパートの役割がきちんと分かるような、もしかしたら「歌って」いるほどの存在感を与えられるものであることが、おそらくその理由なのでしょう。たぶん、きちんと指揮者を立てたせいなのでしょう、ここでも「表情」に関しては昔日の録音をはるかに超えるものが感じられます。
もう一つの収録曲「エイト・ラインズ」は、2つの弦楽四重奏、ピアノ、フルート、クラリネット、ビブラフォン、マリンバがそれぞれ2人ずつという、総勢18人の大アンサンブルです。ここでも、「冷たさ」や「機械的」といった概念とは全く無縁のいかにも人間が呼吸をしている感覚を味わうことが出来ます。中でも、ピッコロを持ち替えているフルート奏者の息づかいには、今までのライヒ作品の中で聴いてきたこの楽器のイメージとは全く異なる暖かさを感じ取ることが出来るはずです。きっと炊きたてだったのでしょう(それは「ライス」)。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-20 20:14 | 現代音楽 | Comments(0)
Kindred Spirits
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Ronald Corp/
Kindred Spirits
EMI/509747 2



「キンドレッド・スピリッツ」というのは、ロンドンにある「ニュー・ロンドン・チルドレンズ・クワイア」という児童合唱団のメンバーから選抜された25人の少年少女からなるユニットです。ロンドン、というか、イギリスには、こんな感じでしっかりコマーシャル・ベースに乗ってしまう児童合唱がよくありましたね。オクスフォード・ニューカレッジ聖歌隊とか、リベラなどは以前に取り上げたこともありましたっけ。それらのものは、その母体となった合唱団の通常のレパートリーを延長させたような、どちらかというとヒーリングっぽいテイストを前面に押し出したものでしたが、この「キンドレッド」はそういうものとはちょっと違うところをウリにしているようです。それは、このジャケットの、ちょっとストリートっぽい、それでいてかなりおしゃれなファッションセンスが端的に物語っているようです。
アルバムの冒頭に、イギリスのロックバンド「コールドプレイ」のヒット曲「Fix You」を持ってきたことでも分かるように、彼らはまずクラシックとは少し離れたフィールドのレパートリーを探っているかのように見えます。そこで注目されるのが、ソロをとっているメンバーのちょっとこまっしゃくれたノリの良さです。いやあ、そのちょっとした音程の崩し方といい、フレーズのいかにもなフェイクの具合といい、これはまさに大人のロックシンガーの完全なコピーではありませんか。キャロル・キングの「You've got a Friend」で代わる代わるソロをとっている子どもたちなどは、完璧、自らの感覚で自由な歌い方を楽しんでいるように見えるほどです。
そんな中で、いきなりジョン・ラッターの「Shepherd's Pipe Carol」が聞こえてきたのにはびっくりしてしまいました。最近ではクリスマス・キャロルの定番として多くのアーティストが取り上げているこの小粋な曲は、彼らの抜群のリズムの良さで、新たな魅力を持つようになりました。ちょっと面白いのは、中間部でシンコペーションの連続が終わったあとに最初のテーマが出てくる部分で、第三音を半音下げて、ちょっとブルーな味を出していることです。1回目と2回目はその形、しかし、3回目以降は楽譜通りのナチュラルに戻しているのは、誰のアイディアだったのでしょう。
この曲のシンコペーションの構造は、そのしばらくあとに登場するジョージ・ハリスンの「Here Comes the Sun」のなかにあるのと全く同じもの、そんなところにもプロデューサーの慧眼がうかがえてしまいます。ロック・ナンバーとはいっても、殆どはバラードのタッチ、そこにトラディショナルなども織り込んでまとめ上げられたこのアルバムは、ソリストの小生意気な歌い方にもかかわらず、全体としては非常に安らかな思いに満ちたものになっています。評判になったフランス映画「コーラス」で歌われていた「海への想い」なども入っていますし。もしかしたら、こんな、ちょっとしたワイルドっぽい味を含ませていくのも、ヒーリングの新しい道なのかもしれませんね。
それにしても気になるのは、プロデュースと、そしてアレンジを担当しているジェイムズ・マクミランという人物です。彼は、自身のトラディショナルの編曲も提供していますが、それを聴けばあのイギリスで今もっとも活躍している同名の現代作曲家の姿を感じることも出来なくはありません。しかし、このマクミランは、あのマクミランとは別人、彼は根っからのジャズやソウルの世界の人のはずです。本当のところはマッタクワカラン
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by jurassic_oyaji | 2007-12-18 23:27 | 合唱 | Comments(0)
PENDERECKI/Te Deum
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Izabela Klosinska(Sop), Agnieszka Rehlis(MS)
Adam Zdunikowski(Ten), Piotr Nowacki(Bas)
Antoni Wit/
Warsaw National Philharmonic Choir
Warsaw National Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.557980



ペンデレツキが、それまでのアヴァン・ギャルドのスタイルから、ネオ・ロマンティックなものへと作風をシフトさせたのは、おそらく1977年前後のことでしょう。その年に作られた「ヴァイオリン協奏曲第1番」が、献呈者であるアイザック・スターンのソロによって初めて録音されたSONY盤を聴いた人は、一様にそのあまりの変貌ぶりに驚きを隠すことは出来なかったはずです。トーン・クラスターや微分音を多用した衝撃的な作品で、まさにある時代の寵児であった作曲家の新作は、およそそれまでのものとはかけ離れた、西洋音楽の伝統をそのまま受け継いだような甘美なメロディとハーモニーを持ったものだったのですから。
その少し後に作られた大規模な宗教曲「テ・デウム」をメインに据えたこのアルバムでは、そのカップリングの妙によって、そんな昔日の戸惑いを見事なまでに追体験できてしまいます。まず、作曲家が華々しくデビューした頃、あの有名な「ヒロシマ」の少し後、1961年に作られた「ポリモルフィア」を聴いてみましょう。ご存じのことでしょうが、この曲は映画のサントラとして用いられたことで非常に有名になったものです。それは「エクソシスト」や「シャイニング」といった、異常な現象を扱った作品なのですが、この曲のおどろおどろしいクラスターやグリッサンドが、まさにその異常さに恐ろしいほど合致しているのです。それは、この曲を初めて聴いた人の素直な反応を的確に現したものには違いありません。表層的な美しさではなく、破壊的なサウンドで直接人の心に訴えかけるなにかをに持っているこの曲は、同じ頃のリゲティや、そしてクセナキスといった才能の作品と確かに同じ次元で論じられるだけの価値を持っていたものでした。この曲の最後がハ長調というノーテンキな響きで終わっていることも、ある種のアンチテーゼとして受け止められていたことでしょう。
しかし、このアルバムで次のトラックの最新作「シャコンヌ」を聴くとき、その長三和音こそは、作曲家の本来の願望であったことを知るはずです。この、まるでラブロマンス映画の主題歌のような屈託のない「美しい」メロディこそは、彼がずっと書きたいと思っていたものだったのではないか、と。そうなってくると、あのクラスター満載のアヴァン・ギャルドに涙しつつ暮らすた私たちの日々とは、一体何だったのでしょうか。
「テ・デウム」と、それに引き続き聞こえてくる「聖ダニエル賛歌」との間に横たわる溝は、それほど大きなものではありません。今から思えば、「テ・デウム」を作った時代は、すでに作曲家にとってはアヴァン・ギャルドというものはネオ・ロマンティシズムを引き立てる単なるパーツでしかありませんでした。もっとも、1983年に作曲家が自ら指揮をしたEMIへの録音を聴くと、そこまでは開き直れないもどかしさのようなものも感じることは可能です。ことさら難解を装った音列などに対する思い入れが、尋常ではないのです。まるでそれらのものは確固とした意志のもとに作られたものであるかのように、深刻ぶった指揮者(=作曲家)の姿が見えるものでした。しかし、それから20年以上の時代の波にもまれて、そんな心遣いは全く無用なものとなる日が来ます。アントニ・ヴィットの明快な演奏によって、「ダニエル」の、まるでラフマニノフのようなおおらかさは、すでに「テ・デウム」の中には存在していたことがはっきり聴き取れてしまうのです。
さりげなく時代を超えて作品を並べただけに見えるこのアルバムからは、ペンデレツキという現代に生きる作曲家の苦悩の跡までが透けて見えるほどです。もっとも、それは結局は単に時代に対する迎合でしかなかったことも、注意深い聴き手であれば容易に感じることが出来るほどの、鋭い切り口さえここには潜んでいるのです。
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by jurassic_oyaji | 2007-12-16 19:54 | 現代音楽 | Comments(0)