おやぢの部屋2
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The Reichsorchester
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Enrique Sánches Lansch(Dir)
ARTHAUS/101 453(DVD)



「ベルリン・フィルと子どもたちRhythm is it!」というドキュメンタリー映画を作ったエンリケ・サンチェス・ランチ監督による、同じベルリン・フィルを扱った記録映画です。あちらはラトルの指揮による最近の演奏が収録されたものですが、こちらの方は「第三帝国」、つまりヒットラーによって支配されていた時代のベルリン・フィルの演奏が中心になっとらー。その頃ですと、なんと言ってもメインはフルトヴェングラー、そしてクナッパーツブッシュやチェリビダッケの貴重な映像を見ることが出来ます。
しかし、あいにくなことに、これは演奏を楽しむためのDVDでは決してないことは、強調しておかなければなりません。要するに、このフィルムは、そんなナチスの時代にベルリン・フィルというオーケストラはどういう状況に置かれていたのかということを、その時にそのオーケストラの団員だった人や、団員の遺族などのインタビューによって明らかにする、というものなのです。そして、その間に「貴重な」当時の映像が挿入されるだけ、もちろん、それらの映像はきちんと全曲をまとめて聴けるようなものではなく、場合によってはインタビューの都合に合わせて全く無関係なものが使われていることもありますから、あくまで添え物としてとらえるべきものです。
ここから浮き出てくるオーケストラの姿は、なんとも言い難いものでした。つい先日のニューヨーク・フィルの「オーケストラ外交」ではありませんが、ヒットラーは徹底的にこのオーケストラを政治目的に使い切っていたことが良く分かります。もちろん、そのためにはレパートリーからはユダヤ人の作曲家の作品は排除され、ユダヤ人の団員がオーケストラにとどまることも許されないのは当然のことでしょう。そのような「ナチ化」されたオーケストラは、そこで信じられないほどの優遇措置を与えられることになりました。唯一このオーケストラだけが団員の兵役を免除され、戦時中でもしっかりコンサートの場を提供されていました。もちろん、外国への演奏旅行も敢行されます。それらは全て、ドイツ帝国(Deutsches Reich)のオーケストラが奏でるドイツ帝国の音楽の素晴らしさもって、ドイツ帝国そのものの偉大さを世界に知らしめるという、明確なプロパガンダに他なりませんでした。
歴史的に動かしがたいそのような事実に対して、元団員たちのあまりにあっけらかんとしたコメントは感動的ですらあります。「私たちは、あくまで良い音楽を演奏したかっただけだ」、「ベルリン・フィルがナチのオーケストラであったことは一度もない」など、全く罪のないコメントが延々と続きます。その合間に流れるのは、ゲッペルスの扇情的な演説に導かれて、ハーケンクロイツが立ち並ぶ会場で演奏している団員たちと、陶酔した面持ちでそれに聴き入っている聴衆たちの姿です。これを見てコンサートだなどと思う人がいるでしょうか。それはまさにひとつの思想を大衆に植えつけようとしている洗脳集会に他なりません。
そんな、あまりにも世間知らずな音楽バカを描いた退屈な映画が、終わり近くでどんでん返しを迎えます。それは、この中で最も長い時間インタビューが紹介されていた元コンサートマスター、ハンス・バスティアーン(インタビュー当時は93歳)の言葉です。「敗戦間近、傷病兵たちの前で行った演奏会で突然『私たちは、今まで何をやってきたのだろう』という恥ずかしさがこみ上げてきました」。
見事という他はありません。この瞬間にこの映画は人間の良心を見事に描ききっていました。その言葉に呼応するかのように、最後で流れるベートーヴェンの第5交響曲は、第3楽章のクライマックスでピタリと止むのです。それに続く勝利のファンファーレは、決して鳴ることはありませんでした。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-28 19:56 | 映画 | Comments(0)
BACH/Goldberg Variations
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西山まりえ(Cem)
ANTHONELLO MODE/AMOE-10003



まるで、新手のアイドル・ピアニストを大々的に宣伝しているような安っぽいジャケットですね。このアーティストのことを知らなければ、心あるリスナーは間違いなくスルーしてしまうことでしょう。今月号の「レコード芸術」でも、大々的に紹介されている西山さん。彼女のバッハに対するアプローチにはかなり興味が湧いていたところですから、ちょっと前にリリースされた「ゴルトベルク」を聴いてみました。
常々、バッハの演奏に関してはさまざまなスタイルのものを聴いていましたからある程度のことでは驚かないようにはなっていたのですが、この演奏には本当にびっくりしてしまいました。西洋音楽の基本であるはずの「きちんと揃える」とか「テンポはしっかり守る」などという約束事は、ことごとく破られているのですから。最初の「アリア」にしてからが、右手と左手は全く「揃う」ことはありません。まるで楽器を始めたばかりの初心者が手探り状態でやっと両手で弾いている、といった感じなのですよ。しかし、そこからはそんな拙さなどは全く感じることはできず、右手と左下が繰り広げるたくさんの声部が、それぞれ自由に自分の「歌」を歌っているように聞こえてきたのです。
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そういえば、この曲の楽譜って、見たことがありますか?実はライナーにも初期の印刷譜が載っていますし(↑)、現代の印刷譜でも十分分かることなのですが、バッハはとにかくたくさんの声部をその中に書き込んでいます。「アリア」の出だしの左手は、「ソシレ」という分散和音なのですが、それは「ソ-シ-レ」というメロディではなく、「ソ」、「シ」、「レ」という3つの音がそれぞれ別の声部として登場するようになっているのです。そんな感じが、彼女のこの演奏だとすごくよく分かってきます。それぞれのキャラが、全く違うのですよ。
テンポだって、きっちり拍を均等に、などということは全く考えていないように聞こえます。十六分音符は四分音符の中に4つ入るといったような数学的な扱いではなく、楽譜の形を見て早く感じるところは早く弾く、みたいなところがたびたび出てくるのです。ある意味、イマジネーションというか直感のようなものを大切にして、「楽譜」ではなく「音」として聴いてもらいたいという、クラシックではなくポップスのミュージシャンのようなセンスを感じてしまうのです。そういえば、彼女が活躍していたフィールドはバッハよりずっと前の、中世あたりまでさかのぼった時期の音楽だったはず、その頃はまだ楽譜に縛られない生き生きとした音楽は健在だったのでした。そんなセンスが全開なのが、第10変奏の「フゲッタ」です。フーガ主題のそれぞれのパーツが、本当に生きているようにさまざまな主張を行っているのが、見事に伝わってきます。
ここで彼女が弾いているチェンバロは、18世紀のフランスの楽器のコピーのようですが、その音にもちょっとびっくりさせられてしまいました。そんなヒストリカル楽器のイメージからははるかに遠いところにある、極めて強靱な音が聞こえてきたからです。しかし、聴き進うちに、そこにはとてつもない繊細さが宿っていることに気づかされます。しかも、その表情の多彩なこと。フレーズの最後が高い音で終わるときにも、その音は無神経に目立つことはなく、音色までも柔らかくなって見事にフレーズが収まっているように聞こえてくるのです。これが楽器のせいなのか、彼女の奏法によるものなのかは分かりませんが(おそらく、双方の要因がからんでいるのでしょう)これはちょっとすごいことですよ。
こんな素晴らしいアルバムなのに、このジャケットのせいで目もくれないでしまう本当のクラシック・ファンがいるのではないかと、心配になってしまいます。まっとうな演奏家にさそうあきらは完璧に似合いません。裏ジャケの時間表示にもミスがありますし。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-26 23:21 | ピアノ | Comments(0)
WAGNER/Tristan und Isolde
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Deborah Polaski(Sop)
Johan Botha(Ten)
Bertrand de Billy/
Radio-Symphonieorchester Wien
OEHMS/OC 626(hybrid SACD)



「トリスタンとイゾルデ」から、タイトルロールのデュエット部分だけを抜き出して集めたという、ちょっと変わったアルバムです。ライブ録音ではなく、おそらく放送用にスタジオで録音されたものなのでしょう。実は、このアルバムは「デュエット集」とは言っても、時折ブランゲーネやクルヴェナールもしっかり登場していますから、もともとは全曲を録音していたのではないでしょうか。そういえば、以前にイゾルデ役のポラスキのソロアルバムという形で、別のハイライト盤がリリース(OC 602)されていたこともありました。
ここでのオーケストラはウィーン放送交響楽団。かつては「オーストリア放送交響楽団」と言っていた、オーストリア放送協会所属のオーケストラです。今ではド・ビリーの指揮の下でこのOEHMSレーベルを中心に活発にアルバムを制作しています。とは言っても、ウィーンにある他のオーケストラ、ウィーン・フィルやウィーン交響楽団に比べれば、まだまだ知名度が低いのは、否めない事実でしょう。
実は、このアルバムを聴く前に、ガーシュインとラヴェルのピアノ協奏曲をカップリングしたものを聴いていたのですが、その時に感じたこのオーケストラの印象は、他のウィーンの団体が持っている「伝統」のようなものとはちょっと異なる、いかにも放送オケらしい軽快なフットワークでした。特にそのリズム感の良さはガーシュインなどにはうってつけ、音色も華やかで軽やかなものでした。
ですから、この「トリスタン」に欠かすことのできないドロドロとした情念のバックグラウンドとしての音楽を果たしてこのオーケストラが作り出すことができるのか、一抹の不安がありました。そして、その不安は現実のものとなったのです。あまりに明るいそのオーケストラのサウンドは、この不倫劇にはかなり違和感のあるものでした。それは、同じ不倫でも名古屋の放送局あたりが昼間に放送しているドラマのような、どこか嘘くさく、張りぼてのような感触を持ったもの、やはりここは横溝正史や江戸川乱歩のようなおどろおどろしいテイストが欲しいところです。カラメルソースも必要でしょう(それは「プリン」)。第1幕の最後で、二人が媚薬を飲みほした瞬間の沈黙の間に流れる前奏曲の回想の、なんと屈託のないことでしょう。
しかし、その屈託の無さの中に、トリスタン役のボータの声とはなにか共通するような方向性を感じたのは意外な発見でした。輝かしく力強い、まさに理想的なヘルデン・テノールでありながら、彼の声にはある種の軽やかさもあります。それは、決して歌手の都合でテンポを伸ばしたりリズムをごまかしたりするということのない、極めてクレバーな特質です。さらに、いともあっさりと難しい高音をクリアしてしまうスキルは、正確な音程とも相まって、一抹の清涼感すらも与えてくれています。
ところが、イゾルデ役のポラスキが、この、とりあえず調和の取れた世界を乱しにかかります。彼女はまさに伝統的なソプラノ・ドラマティコ、いわゆるワーグナー・ソプラノとして、このチームに加わっていました。良く響く声、そしてそれをさらに煌びやかに飾る壮大なビブラート、時には音程さえも犠牲にしかねないまさに「ドラマティック」な表現、それらのものはあるいは一昔前のバイロイトあたりではさぞや聴き映えのするものだったことでしょう。しかし、この、ド・ビリーとそのオーケストラによって用意された音響空間では、それはいたずらに居心地の悪さを誘うものでしかありませんでした。
第2幕第2場の後半で登場するブランゲーネ役のハイディ・ブルンナーの声の方がこの場のイゾルデとしてはより相応しいと思えた時点で、このアルバムのキャスティングは間違っていたことが明らかになったのです。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-24 22:21 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Così fan tutte Messe
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Siri Thornhill(Sop), Ursula Eittinger(MS)
Hubert Nettinger(Ten), Stefan Geyer(Bas)
Franz Raml/
German Mozaart Orchestra
OEHMS/OC 916



これは、指揮者も、オーケストラも、そして演奏されている「『コシ・ファン・トゥッテ・ミサ』」という曲の名前も、全く聞いたことはないという珍しいアルバムです。それもそのはず、録音されたのは2006年なのですが、このオーケストラはその年にこのラムルという韓国の和え物(それは「ナムル」)のような名前の指揮者によって設立されたものなのです。彼自身も、それまではもっぱらオルガンやチェンバロの演奏家として活躍していたそうですし。そしてその曲というのも、モーツァルトが作ったものではなく、彼のオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で歌われるアリアやデュエットなどに、彼と同じ時代の作曲家(名前は分かっていません)がミサの典礼文を乗せてミサ曲にでっち上げたというものなのです。曲自体は、ケッヘルの目録に「追加Anhang」として記載されていますからマニアであれば知っているのでしょうが、それが実際の音になるなどというのは、極めて希なことには違いありません。
そのミサ曲の前に、K408K6では383F)の行進曲が演奏されています。どうやらこの録音は、その年に行われた彼らの旗揚げツアーのライブ録音のようで、会場のノイズが盛大に聞こえてきます。ですから、録音の状態もあまり良いものではなかったようで、変に低音が強調されたり余計な残響で音の明晰さが失われているものです。そんなコンディションで聴いたせいなのでしょうか、このオリジナル楽器によるオーケストラからは、いかにも洗練されていない、投げやりな音楽しか聞こえては来ませんでした。特にコントラバス奏者の全くあたりの空気が読めていない無神経な演奏は、ひときわ目立つものです。
そして、お目当てのミサ曲となります。ここには合唱は入ってはおらず、4人の独唱者が入れ替わり立ち替わりソロやアンサンブルで参加するという形を取っています。確かに、これはあの愛らしいオペラからのナンバーが素材として使われているものでした。そして、そこはこの曲を作った(あるいはでっち上げた)作曲家の裁量ということになるのでしょうが、元の形をそのまま使っているものもあれば、例えば「Gloria」や「Credo」のように、まさにメドレーのようにあちこちからのパーツをつぎはぎして出来上がっているものもあるというものです。もちろん、こういう「パロディ」は昔からいろいろ行われてきており、バッハなどでも世俗曲をそのまま宗教曲に使い回すということは頻繁にやっていたわけですから、それなりに興味をひかれる部分はあります。しかし、なんといってもこれだけ見慣れたオペラであれば、それぞれのナンバーの情景は頭に焼き付いてしまっています。ありがたいお祈りの言葉の間に、ターバンを巻いて異国の人に変装した兵士が、うぶな姉妹を口説くという情景がつい浮かんでしまうというのは、ちょっと困ったことです。
もっと困ったことに、ここでもオーケストラの演奏はいい加減なのに加えて、ソリストたちの出来があまりにもひどいのです。ソプラノの人などは殆ど素人ではないかと思えるほどの下手さ加減、この曲の中で1曲だけ「コシ」ではなく「ティートの慈悲」からのパクリがあるのですが、そのヴィッテリアのアリアのコロラトゥーラの悲惨さといったら。
これだけではCD1枚には足らないと思ったのでしょうか、そのあとにはなんとモーツァルトの最後の交響曲「ジュピター」が全曲収録されているのです。こんなものを聴かされたのでは、いやでもこのオーケストラの基本的な技術レベルの低さと、それを全く束ねることのできない指揮者の無能さが露呈されてしまうではありませんか。なんでも、指揮者のラムルは、あのコープマンに師事していたのだとか。彼が学んだものは、師の気まぐれさだけだったのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-22 20:56 | 合唱 | Comments(0)
善き人のためのソナタ
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 きのうWOWOWで見たのが、「善き人のためのソナタ」というドイツ映画です。この邦題だけだとなんだか音楽映画のようですが、オリジナルのタイトルは「Das Leben der Anderen」、「他の人の生活」という意味で、全く音楽とは関係がなくなってきます。これは、まだ東ドイツという国家体制があった頃のお話、「シュタージ」という、体制を支えるための監視機構の一員であったヴィースラー大尉という人が主人公です。彼は、反体制思想の持ち主である疑いのある劇作家ドラエモン、ではなくてドライマンを監視するために、その家に盗聴器を仕掛け、1日中盗聴するという任務を負わされます。そこで、「他人の生活」をつぶさに味わうことになるのですね。
 この映画は、そんな、今まで殆ど知られることのなかった旧東ドイツの監視社会というものを初めて明らかにしたものとして大きな話題を呼んだそうです。確かに、その実態は驚くべきものでした。私たちにとっては、あのころはとりあえずドイツは西と東に分断していたのだな、ぐらいの認識しかなかったのですが、ここまで徹底した監視体制のもとに、反社会分子の抹殺が図られていたというのは、ちょっと信じがたいものがあります。この国に対しては、音楽を通じて馴染みがあったもので、有名な指揮者やオーケストラ、そして国営のレーベルなどが、とても上質な音楽を提供してくれていました。それに携わっていた人たちは、こんな体制の中で活動を強いられていたのですね。
 物語としては、ヴィースラーが盗聴を続けていくうちに、次第にドライマンの「生活」に共感を覚えるようになっていく、というのがメインのプロットになっています。それは思想的な自由さだけではなく、ドライマンとその恋人の女優ジーラントとの愛情の現場(つまり、えっち)を盗み聴きしていく中での、愛情に対する憧憬も含まれているのでしょう。それに関して、ヴィースラーが自宅に娼婦を呼ぶ(デリヘル、でしょうか)シーンが、悲しいほどに胸を打ちます。
 そして、決定的なファクターが、ドライマンが自殺することになる演出家から誕生日のプレゼントにもらったピアノ曲の楽譜です。その曲のタイトルが「善き人のためのソナタ」。自殺の報を受けてドライマンがピアノでその曲を弾いているのを聴いたヴィースラーは、まさに感動にうちふるえるのですね。そして、彼の取る反体制的な行動を全て黙殺することを決心するのです。ただ、この映画の中で最も重要なこの曲の扱いが、ちょっといい加減なのが、私あたりには気になってしまいます。ペータース版のその出版譜がアップになるのですが、そこには作曲者の名前は書かれてはいなくて、なぜか「ピアノ曲集」のようなサブタイトルが付いているのですよ。これはちょっとおかしな設定です。もちろん、その曲が1度聴いただけで感動を呼び起こすというのは、映画ならではのお約束でしょう。
 そんなどうでも良いことは無視するとして、結局「壁」崩壊後にドライマンはヴィスラーによって救われていたことを知ることになります。そして、「善き人のためのソナタ」という本を、彼に対する献辞を添えて出版します。
 その時には細々と新聞配達をしながら生活をしているヴィースラーが、偶然本屋でこの本を見つけ、それを買おうとレジに行ったところ、店員が「贈り物ですか?」と聞きます。それに対するヴィースラーの答えがすごくしゃれています。
「いや、この本は私のためのものです」
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by jurassic_oyaji | 2008-02-21 21:21 | 禁断 | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphonies Nos 1& 6
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Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra<
BIS/BIS-SACD-1716(hybrid SACD)



ヴァンスカとミネソタ交響楽団によるベートーヴェンの交響曲の録音も4枚目、あとは2番と7番を残すのみとなりました。完成した暁には、DSD録音によるSACDとしては世界初の全集となることでしょう。
以前、CDレイヤーしか聴けなかったときには、このコンビの録音からは木管の音色の柔らかさが印象的に感じられていました。アメリカのオーケストラでありながら、そこにはほのかにヨーロッパ風の香りが漂っていたのです。最近新しいプレーヤーを導入したことによってハイブリッド盤のSACDレイヤーが聴けるようになってみると、それに加えて弦楽器にも極めて渋い味わいが宿っているのに気づかされます。それは、特に「1番」の第2楽章のように、ごく弱い音で演奏されるときに強く感じることができることでしょう。例によって対向配置となっているために、まず右側のスピーカーから聞こえてくる第2ヴァイオリンのピアニシモの響きの、なんとしっとりとしていることでしょう。もちろん、いつものヴァンスカのやり方ですから、ことさらピリオド奏法を意識することのない、それでいてビブラートは控えめというあっさりとした扱いも、心地よいものです。
とは言っても、この曲では、かなり意識して音を短めにして溌剌とした感じを演出しようという意図はうかがうことができます。この第2楽章もほんの少し早めのテンポをとっているのは、いくぶんスリリングなアプローチを目指した結果なのかもしれません。第3楽章でのクリティカル・エディションならではのダイナミックスの指示の部分でも、もはや今までと違うことをやって人を驚かせるという次元を超えた、オーソドックスな表現としてのまろやかさを感じることができることでしょう(11小節目。こちらに楽譜があります)。
「6番」になると、その弦楽器のつややかさはさらに際だってきます。そして、管楽器はもっぱらそれを色づけすることに専念しているかのように見えます。フルート奏者などは、もしかしたら木製の楽器を使っているのではないかと思えるほどの地味な音色で、その仕事に従事しているよう、たびたび登場するソロの部分でも、決して一人だけ目立とうとはしていない謙虚さが、光ります。
第2楽章では、これもクリティカル・エディションならではの、弱音器を付けた弦楽器の柔らかい響きがとても魅力的です。ベーレンライターなどの楽譜を見ながら聴いていないことには、ここで弱音器を付けていることはなかなか気づかないものですが、この録音からはそれがはっきり聴き取れます。もしかしたら、これを聴いてびっくりする人がいるかもしれないほどの、それは精緻な録音です。
そんな穏やかなたたずまいが、第3楽章のトリオになった途端、いきなり豹変するのはある意味サプライズでした。それまでの流れからは予測不能な、それはうれしい誤算、その躍動的な音楽には、思わず心が弾みます。そのまま一気に第4楽章の「嵐」へ突入、そこには、まるでハリウッドのサントラのようなドラマティックで大げさな世界が広がっていたのです。これこそが、このオーケストラの持っていた潜在能力だったのでしょうか。ちょっととり澄ましたヨーロピアン・サウンドを洗い流して(それは「洗剤能力」)一気に思いの丈を現した、という趣です。あるいは、これこそがヴァンスカの真骨頂なのでしょうか。彼には、古典的な秩序よりは、もっとポエジーやパッションのあふれる音楽の方が性に合っているのかもしれません。このベートーヴェン全集を聴いてきた中で感じていた歯がゆさは、案外こんなところに原因があったのではないでしょうか。
最後の楽章ではまた元の慎ましい世界が戻ってくるものの、その盛り上げ方がいかにも性急に感じられてしまうのは、そんなジレンマのあらわれなのかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-20 20:08 | オーケストラ | Comments(0)
プラハ放送交響楽団
 2、3日前の新聞に、こんな広告が載っていました。
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 ちょっとマイナーなオーケストラが、日本で名曲コンサートを行う、というものなのですが、ちょっと普通の広告とは違って、「のだめ」などという言葉が飛び交っていますね。そう、このオーケストラはお正月にやった「のだめ」のドラマに出演していた、あのオーケストラなのですよ。あのドラマの中で演奏していた曲を、生で、その同じオーケストラが演奏するものを聴いてみようということなのでしょうね。それで指揮者がヴィエラ先生役のマーツァルだったりしたらちょっとすごいのですが、あいにくヴァーレクという、以前他のオケを指揮したものを聴いた人によるとかなりダメな指揮者だそうで、ちょっと残念です。
 その代わり、と言ってはなんですが、この広告には切り込みで3人の顔写真が入っていますね。これがなんと、あのドラマの時に、そのマーツァルのようにしっかり「演技」をしていたオケの団員ではありませんか。コンマスとホルンの首席、そして2番フルート奏者です。あのドラマを見たあとの「禁断」で、この3人は本物の団員だと書いたのですが(もう一人、ファゴットにいたのは、完全な役者ですが)それは間違ってはいなかったのですね。実は、あまり芝居がうまいので、一抹の不安はあったのですがあたっていてよかった、よかった。
 でも、こんな風に「ドラマに出演していた団員も演奏します」みたいなことを宣伝して、一体何になるというのでしょうね。よく考えてみると、これはかなりおかしいことなのではないのでしょうか。このオーケストラが行うコンサートは、別に茂木さんが出てきておしゃべりをするような「のだめコンサート」ではないはず、いくらドラマで芝居をしていた団員がいたところで、彼らはそのコンサートでドラマの中のセリフを喋ったりはしないはずでしょうから(さらに、あのセリフは吹き替えでしたし)。
 お客さんにしても、こういう広告を見てチケットを買う気になった人というのは、いったい何しにコンサートへ行くことになるのでしょう。この3人のテレビで顔を知った団員が実際に演奏しているところを見て、それで満足するというのでしょうか。それだと、殆ど、芸能人を見に行く感覚ですね。大体、プロの音楽家が、そういう目的で来るお客さんを相手にするということに、抵抗を感じることはないのでしょうかね。
 実は、このツアーではどうやら彼らは仙台にもやってくるようなのです。まだ正式な告知は出ていないようなので、曲目などは分からないのですが、そこに仙台在住のピアニストと声楽家2人が出演することになっているのだそうです。この広告でも、ブーニンはコンチェルトだけではなく1人でソナタも弾くようですが、いったい仙台ではその3人はどんなことをやることになっているのでしょうか。いずれにしてもこのツアー、クラシックのコンサートの殻を破ったものであることは確かなようです。だからそれがどうしたんだ、という程度のどうでもいいような破り方ではありますが。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-20 00:05 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Requiem
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Marie Arnet(Sop), Anna Stéphany(MS)
Andrew Kennedy(Ten), Darren Jeffery(Bas)
Colin Davis/
London Symphony Chorus & Orchestra
LSO LIVE/LSO0627(hybrid SACD)



200710月の録音、オーケストラは14型という、モーツァルトにしてはかなりの大編成で、そこに90人ほどの合唱が加わります。今回このレーベルのSACDを初めて体験することになりましたが、期待に違わずそんな大人数とは思えないような、しっかりピントの合った音が聞こえてきます。管楽器もそれぞれきっちりと存在を主張してくれていますし、特にトロンボーンの響きなどは、細かいテクスチャーまではっきり聴き取れる素晴らしい録音です。ただ、一応「ライブ録音」とはなっていますが、もちろんゲネプロや本番など数種類のテイクを編集するのは最近のお約束です。ここでも、さすがはDSD、曲の途中で明らかにマイクからの位置が変わっていると気づかされるようなつなぎ目がはっきり分かってしまいます。
そんな優秀な録音ですから、合唱などはかなりアラが目立ってしまうのは仕方がありません。ライブということもあるのでしょうが、なかなかパートとしてまとまることが出来ず、特に女声はあまり感心できる仕上がりではありません。しかし、男声はなかなか溌剌としたものを聞かせてくれています。言葉ひとつひとつにしっかり意味を持たせて、アグレッシブに表現しているのには、思わず引き込まれてしまうものがあります。
そんな積極的な表現が、「Dies irae」になったとたん、さらに激しいものに変わりました。テンポがかなり速め、デイヴィスってこんなに元気な音楽を作れる人でしたっけ。ここは合唱だけではなく、オーケストラもどんどん前へ進んでいく生きの良い感じ、なんといってもティンパニとトランペットの合いの手が見事に決まって、とても気持ちのよいグルーヴを出しています。しかし、なんだかそのリズムがあまりにもかっこよすぎるような気がしないでもありません。そこで、スコアを見て確認したところ、ここのトランペットのリズムが普通のジュスマイヤー版とはちょっと違っています。「タン・タン・タン・タン・タン・タン」という八分音符が6個続くリズムを「ウン・タカ・タン・タン・タン・タン」と、最初の音を休み、2つ目の音を半分にして十六分音符2つにする形に変えているのです。これで緊張感が高まり、単調なリズムがいっぺんに生き生きとしたものに変わってしまいますよね。この楽譜の変更があったお陰で、この楽章は曲全体の中のクライマックスになっていました。
使われている版に関しては、なんの表記もありませんから、これを聴いてもしや、と思って全体をチェックしてみたところ、大方は紛れもないジュスマイヤー版だったのですが、「Rex tremendae」では、最初に弦楽器が2拍刻んだあとに入る管楽器の合いの手がなくなっていましたよ。これは、バイヤー版以降の改訂で全てとられているやり方ですね。うーん、デイヴィスというのは、こんなこともやっている人だったのでいびすか。
しかし、1967年に録音したBBC交響楽団との演奏(PHILIPS)ではこんなことはやっておらず、ごく普通のジュスマイヤー版でしたから、最近の心境の変化、長年この曲を演奏してきて、ここだけはぜひ直したい、というやむにやまれぬ欲求がわき上がってきたのでしょうか。それがいつ頃からのことなのかを知るためには、1991年にバイエルン放送交響楽団と録音したRCA盤を聴く必要があるでしょう。このCDをお持ちの方は、ぜひ検証結果をお教え下さい。
オーケストラはかなりの集中力を持って密度の高いアンサンブルを聴かせてくれていますし、合唱も技術的なレベルの低さを補ってあまりあるほどの独特の味を出している中で、ソリストたちはかなりの不満が残るものでした。特にソプラノのアーネットの不安定さは、隠しようもありません。男声2人はいかにも薄味、これだけの編成の中では、違和感が残ります。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-18 20:13 | 合唱 | Comments(2)
Hungarian Electroacoustic Research
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HUGAROTON/HCD 32449


ハンガリーの現代作曲家、イシュトヴァーン・シゲティについては、こちらでフルートのための作品をご紹介したことがありました。その時に、彼は元もとはライヴエレクトロニクスのようなものを作っていた人だ、と言っていましたね。その「本業」の方が収録されているのが、このアルバムです。ここにはシゲティをはじめ、同じ世代のハンガリーの作曲家たちの作品が集められています。それぞれに個性が発揮されていて、単に「電子音楽」という範疇でくくってしまえないような広がりを持っているのが、なかなか面白いところです。
ここでは6人の作曲家による8曲の作品を聴くことが出来ます。そのうちの5人は1950年代以降の生まれですが、一人だけヤーノシュ・デシェーニーという人だけがちょっと世代の異なる1927年生まれです。彼の作品は「Stones」というものなのですが、「電子音楽」というよりは、そのもっと前の形の「ミュージック・コンクレート」の手法をとっています。実際の音を録音して、それをさまざまに加工するというものなのですが、ここでは聴いた感じではその「加工」はあまり施されてはいないように思えます。どちらかというと、音源のコラージュといったおもむきでしょうか。ただ、その音源が火山の爆発を思わせるような壮大なものだったりしますから、まるでドキュメンタリー・フィルムのサントラを聴いているような気になってきます。後半では、タイトルにある「石」が登場、それらを打ち鳴らすリズムでミニマルっぽく迫ります。
ギュラ・ピンテールという人の「トッカータ」は、もともとはオルガンのための曲だったそうです。それを、おそらくサンプリングしたオルガンの音で再現するという趣向でしょうか。最初のうちは普通のオルガンのように聞こえているものが、次第にエレクトロニクスならではの独特の表現に変わっていくのが面白いところでしょう。
ベーラ・ファラゴーさんの「Dirty Works」は、SPレコードのようなスクラッチ・ノイズを素材にした作品、そのレコードに録音されているのは笛の音だそうですが、変調された音の中からその素朴な音色が聞こえてくるというのが、なんともレトロです。そのレトロさは、「ビーッ」という単純な三角波(最初は、装置がおかしくなったのかと思いました)の中にあって、確かに際だつものです。
ここではミクローシュ・スガールという人と、シゲティの2人だけが、それぞれ2曲を提供しています。この2人はまっとうな(というのも変ですが)電子音楽というもので勝負です。スガールはおとなしめ、シゲティは過激な音源という、対照的な「作風」を聴くことが出来ます。スガールの「Birds of the Crater」という曲などは、実際に火山の噴火口(クレーター)の中で演奏されたというものですが、まるで「姫神」か「喜多郎」かといったメディテーションの世界です。マネをしたわけではないでしょうが(それは「イミテーション」)。ちなみに、ジャケットの印刷では、この曲とさっきの「Dirty Works」の時間表示が入れ替わっています。対するシゲティの「Hypostasis」は、人間の声も素材にしていて、まるでリゲティの「アバンチュール」を思わせるものです。
そのリゲティの作品に、「ポエム・サンフォニク」という、100台のメトロノームを一斉に鳴らすというとんでもない曲がありますが、イシュトヴァーン・ラーングの「Capriccio metronomico」というタイトルを聞いてその曲のことが頭をよぎったとしたら、その人はかなりのマニアに違いありません。まさにこれは、そのハンガリーの先達へのオマージュとしての作品であるはずです。メトロノームのビートをサンプリングして、さまざまに組み合わせるという曲なのですが、その最後にはリゲティが作り上げた100台のメトロノームのクラスターが、高らかに鳴り響いているのですから。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-16 22:51 | 現代音楽 | Comments(0)
SWEENEY TODD
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Sound Track(Highligts)
NONESUCH/7559-79961-3


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Original Cast
MASTERWORKS BROADWAY/82876-68639-2



現在上映中のジョニー・デップ主演の映画「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」はもうご覧になりましたか?「とってもスイート」とはいきませんが、面白いように飛び散る血しぶきと、そんな材料で作ったとてもおいしいパイというグロテスクな設定も、そのバックで流れる美しい音楽とはなんの違和感もなく受け止められるのではないでしょうか。デップや相手役のヘレナ・ボナム・カーターが歌を歌っていたのにも驚かされたはずですが、これはもともとはブロードウェイ・ミュージカルだったものの映画化なのです。そのミュージカルというのは、1979年の3月に初演された後、1980年の6月まで、557回のロングラン公演を続けたという大ヒット作品です。もちろん、現在でも世界中で上演されており、昨年はデップ役を市村正親、ボナム・カーター役を大竹しのぶというなんだかなあというキャストで、日本でも上演されたそうです。しかもそれは日本初演ではなく、実は1981年にすでに市川染五郎(当時)、鳳蘭というキャストで上演されていたのでした。
初演直後に録音されたそのブロードウェイでのオリジナル・キャスト盤が、映画の上映に合わせてリマスターされ、ボーナス・トラックのおまけも付いてリイシューされました。映画で聴いた音楽があまりに素晴らしかったので、サウンドトラック盤と、そして、そのオリジナル・キャスト盤を、即座に入手してしまいました。それほどまでして手元に置いておきたくなるような、これは、別にミュージカルに特別の思い入れがない人でも間違いなく心を打たれるに違いない美しい曲のいっぱい詰まった作品です。
幕開け、そして何度となく登場することになる「The Ballad of Sweeney Todd」は、屈託のない3連符のリズムとは裏腹に、不気味な和声で包まれています。その拍子も、微妙に変拍子が組み込まれているもの、さらにお馴染みグレゴリオ聖歌の「怒りの日Dies irae」のモチーフが印象的に響き渡ります。判事の家に幽閉されているスウィーニーの娘の美しさをたたえる「Johanna」は、一度聴いただけで虜になってしまう素敵な歌です。切ない思いを寄せるアンソニーが歌う曲と同じものを、スウィーニーが次々に客をカミソリで血まみれにする場面で使うという発想が、たまりません。終わりの方でのトビーのナンバー「Not While I'm Around」は、年上の女性であるマダム・ラベットを「僕がそばにいて守ってあげる」という、一途な気持ちが見事に表れた、名曲です。
作詞と作曲を担当しているのは、スティーヴン・ソンドハイム、ブロードウェイのミュージカル界ではまさに「巨匠」の名をほしいままにしている人です。この方は作詞と作曲の両面に秀でているという希有な才能の持ち主で、かつてはあの「ウェスト・サイド・ストーリー」で作詞を担当していました。その時の作曲者はもちろんレナード・バーンスタインなのですが、もしかしたらソンドハイムは作詞だけではなく、作曲に関してもかなりの部分で関与していたのではないか、という思いが、「スウィーニー・トッド」の音楽面での完成度の高さを見るにつけわき上がってきてしまいます。そのつもりになって聴いてみると、この2つの作品の中にいくらでも同じ人が作ったかもしれないと思えるような「クセ」を見つけ出すことだって、出来るかもしれません。例えば、ヘミオレを多用したリズム処理とか、全体を支配する極めて個性的な和声感、そして、複雑なポリフォニーなどです。なによりも、一度聴いただけですんなり入っていけるキャッチーなメロディを作る才能は、バーンスタインの他の作品では殆ど感じることが出来ないだけに、「もしかしたら・・・」と思ってしまいます。
オリジナル・キャスト盤のボーナス・トラックには、1992年に行われたジェリー・ハドレーのような「オペラ歌手」が出演したこの作品のコンサートのライブ録音の一部が収録されています。そういう場にも耐えうるだけのクオリティを持ち得ているというのも、バーンスタインとの「共作」の成果との共通点です。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-15 00:47 | オペラ | Comments(3)