おやぢの部屋2
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RAILROAD RHYTHMS/Classical Music about Trains
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Jiri Starek/
SWR Rundfunkorchester Kaiserlautern
HÄNSSLER/CD 93.187



有名なオネゲルの「パシフィック 231」のような、蒸気機関車の走行音をオーケストラで再現した曲が集められたもの・・・のはずです。それにしても、そんな曲だけが13曲も集められたのですから、ちょっとすごいというか、無謀というか。
世界中の作曲家による「鉄」の音楽、アメリカ代表はまずエーロン・コープランドです。彼の「ジョン・ヘンリー/鉄道バラード」という曲は、確かに機関車の模倣という形をとってはいますが、えらく屈折した情感まで伴ってくるのはなぜなのでしょう。他の彼の作品同様、どこか住む世界が違うような空虚さに、こんな曲までもが支配されている、というのが興味あるところです。そして、彼の流れをくむレナード・バーンスタインのエントリーもミュージカル「オン・ザ・タウン」の中の「地下鉄乗車と想像上のコニー・アイランド」という、シーン・ミュージックでした。これは電車そのものの描写ではなく、そのようなシーンを暗示するような音楽、ちょっとアルバムの趣旨からは離れるようなものです。
しかし、そんな文句は言ってはいられません。チェコのアントニーン・ドヴォルジャークという、「超」のつく「鉄」マニアの名前があれば、だれだって、さぞや精密な、そう、まるで忠実に縮小された鉄道モデルのように細部にまでこだわった音楽のジオラマを期待してしまうはずですよね。ところが、聞こえてきたのはあの有名曲「ユモレスク作品101の7」ではありませんか。ここからいったいどんな蒸気機関車を想像しろと言うのでしょうか。それに対するライナーでの言い訳は、「汽車に乗ってたどり着いた避暑地でのすがすがしい空気」なんですって。
そこで、オネゲルのようなまっとうな描写音楽は、やはりフランス圏の(オネゲルはスイス人)作曲家にかぎるということになります。イベールの「地下鉄」や、ダンディの「緑の地平線」などには、確かにそんな期待を裏切らないものがあります。その上で、いかにもフランス人らしいウィットも。イベールの曲の最初に聞こえる警笛の音が、ベートーヴェンの「第9」の第4楽章の最初のハチャメチャな和音そっくりなのは、単なる偶然ではないのかもしれませんよ。
サンバの国ブラジルの作曲家、エイトール・ヴィラ・ロボスの「ブラジル風バッハ第2番」からの「カイピラの小さな汽車」となると、汽車も踊り出します。それは、単純なビートではない、シンコペーションが奏でる軽快さ。あいにく、このオーケストラにその軽快さが殆ど備わっていないことから、ちょっと不器用な踊りにしか聞こえないのが残念なところ。同じように、シュトラウス・ファミリーの曲も、あまりに「機関車」を意識しすぎたために本来のダンス・ミュージックからはほど遠い仕上がりになってしまいました。
しかし、「北欧のシュトラウス」と呼ばれたデンマークの作曲家ハンス・クリスティアン・ロンビの「コペンハーゲンの蒸気機関車ギャロップ」は、まさにオーケストラで演奏された蒸気機関車そのものでした。汽笛の音やスチームのリズムを、あくまで単純に楽器によって再現しようというリアリズム、それだからこそ自然に体が動き出してしまうほどの軽快感が生まれるのでしょう。頭が空っぽになってしまうほどの楽しさは、ちょっとクセになってしまうほどの魅力です。でも、演奏する側にしてみれば、ひたすら単純なリズムを刻み続けている低弦などは、相当のストレスが募ることでしょうね。それが電子音のパルスによって解消されるまでには、ドイツのテクノバンド、クラフトワークが「ヨーロッパ特急」を発表するまで、もう100年ほど待たなければなりません。
なんでも、指揮者のスターレクは、お父さんが鉄道マンだったんですってね。宇宙船を運転していたのは、別の人(それは「スタートレック」)。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-30 21:02 | オーケストラ | Comments(0)
うた魂
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 連休初日となったおとといの日曜日、街に用事があって車を走らせていると、「フォーラム」の前を通りかかりました。と、3つ(系列のものも合わせると5つかな)のスクリーンを持つ、その仙台で唯一のシネコンではない映画館の前には、前から見たいと思っていた「うた魂」のポスターが貼ってあるではありませんか。もはや市内の他の映画館ではとっくに終わってしまったというのに、こんなところでまだやっていたとは。急遽車を停めて時間を確かめると、あと1時間ほどで始まります。街での用事を済ませるとちょうどというタイミング、思いがけなく見ることが出来ることになりました。
 ご存じのように、これは高校の合唱部が舞台の映画です。主人公はその合唱部でソプラノのパートリーダーを務めている、いわばエリート、自分の歌声と、そして容姿には絶対の自信を持っている、という設定ですが、好きな男子から「歌っているときの顔が面白い」と言われて、歌うことへの自信をなくしてしまいます。いやあ、確かに、コンクールなどに出てくる高校の合唱部というのは、どうしてあんなに必要以上に面白い顔で歌っているのでしょうね。ですから、これは全ての合唱団へ向けての問いかけとなっているはずなのですが、物語としてはその事には深く関わらず、主人公がさる男声合唱を聴いて「合唱の魂」を知り、歌への情熱を取り戻す、という確かな成長譚として進んでいくのです。
 その男声合唱団のリーダーから、「合唱で一番大切なのはなんだ」と聞かれて、主人公は「きれいな声で、正しい音程で・・・」などと言っていると、「そんなんじゃなくて、大切なのはソウルだろう」と決めつけられるのを見ていると、私たちも遙か昔に同じようなことをやっていたことをはたと思い出しました。私が入っていた大学の男声合唱団は、まさにこの番長が集まった合唱団のような、ちょっと荒っぽい考えで音楽を作っていたところでしたので、理屈だけは一人前でした。他の合唱団が一緒になった何かの討論会で、「合唱をするときの正しい姿勢とはなんだろうか」などと、大まじめに語り合っていたものです。それに対して、さる女声合唱団のメンバーが「日本語を美しく歌うことです」などと言おうものなら、みんなして冷笑していたのですから、なんと恥ずかしい。
 そんな、ありがちな葛藤を盛り込みつつ、あくまでギャグのセンスで物語は「あり得ない」シチュエーションを繰り出してきます。現実を知っているだけに、そこからはさらにおかしさがこみ上げて来るという、おそらく制作者も予想しなかったほどの効果が、実際に合唱に関わってきたものには「ツボ」としてきいてくるのですよ。コンクールで優勝したグループが「アンコール」で別の曲を歌うなんて、あり得ないでしょう?でも、この映画ではそれこそが重要なポイントになってきて、感動を呼んでいるのですからね。このコンクールの場面では「本物」の合唱団が、きちんと演奏しているカットが入ります。そこで「本物」の男声合唱団が歌っている千原英喜の「リグ・ヴェーダ」は、インパクトがありましたね。
 ひとつ、ちょっと残念だったのが、薬師丸ひろ子が演じているエキストラの顧問の先生の扱いです。あれだけ「男声合唱団」との関わりの伏線を張っておきながら、あの結末はまさに拍子抜け、私は絶対、合唱をバックに尾崎を歌うと思っていたのですが。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-29 23:22 | 禁断 | Comments(0)
WAGNER/The Ring, An Orchestral Adventure
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Neeme Järvi/
Royal Scottish National Orchestra
CHANDOS/CHSA 5060(hybrid SACD)



ヤルヴィが指揮したワーグナーなんて、ちょっと珍しいレパートリーなのではないでしょうか。ただ、このタイトル曲「指輪・管弦楽の冒険」というのはワーグナーのオリジナルではなく、彼の「指輪」の中の音楽を切り刻み、それを集めて貼り付けたものなのです。それが、良くある「ハイライト」のように、聴かせどころの曲をそのまま並べたのではなく、それらを切れ目なくつないで一つの作品にした、というのが、ユニークなところです。
そんな、言ってみれば「指輪」の「再構築」を行った人は、オランダのヘンケ・デ・ヴリーガーという人です。もちろん、フリーターではなく、打楽器奏者で作曲家というきちんとした職業に就いています。彼が1991年に作ったこの「作品」は、「指輪」の音楽を素材にして、まるで4楽章から成る交響曲のようなしっかりとした「構成」を持つものとして仕上がっている、と言われています。確かに、オリジナルのオペラの流れをそのまま踏襲したこの「作品」は、「ラインの黄金」の導入部から「ワルハラ」までが堂々たる第1楽章となっています。しかし、次の「ワルキューレ」からは「ワルキューレの騎行」と「魔の炎の音楽」しか使われていなくて、それで「スケルツォ楽章」と片づけられているのは、ちょっと寂しい気がします。逆に「ジークフリート」は、「森のささやき」から始まってブリュンヒルデとジークフリートの愛のデュエットまでをたっぷり用いて、リリカルな「アンダンテ楽章」を形作っています。そして、フィナーレはもちろん「神々の黄昏」ということになります。
それはなかなか興味深い「冒険」ではあるのですが、別々のところから持ってきた曲を、あくまで一つのつながりとして聴かせようとするためにデ・ヴリーガーが行っていることは、とても不自然に聞こえてなりません。曲と曲の間に、あたかも自然であるかのように見せかけるために「つなぎ」の部分を作って挿入しているのですが、それが逆に耳障りになってしまっているのです。最悪なのは、「神々の黄昏」の楽章での「葬送行進曲」へのつながりの部分です。そこでは、かなり長い時間にわたって、ワーグナーのモチーフを使ってデ・ヴリーガーが新たに作り上げた音楽が鳴り響きます。彼はおそらくワーグナーになりきったつもりで、それらのモチーフを論理的につなぎ合わせたと思っているのでしょうが、そこからはワーグナーとは全く無縁の醜悪な音楽しか聞こえてはこないのです。そう言えば、英語の「冒険」という言葉には、「向こう見ず」や「山師」といった意味もありましたね。
そんなとんでもない編曲ですが、ヤルヴィは精一杯仕事をこなしているように見えます。特に後半での甘い情景の歌い上げや、クライマックスでの盛り上がりなどはなかなか楽しめます。ただ、前半ではなにか集中力の定まらないもどかしさを感じてしまいます。特に、冒頭の混沌とした部分のなんとも雑な扱いには失望を禁じ得ません。これはせっかくのSACDを使いこなせていない録音スタッフにも責任があることなのかもしれません。なにしろ、音が団子になってしまって、肝心のホルンの動きなどが全く聞こえてこないのですからね。「ワルハラ」でのワーグナー・チューバも、なんとも薄っぺらな音ですし。
ただ、カップリングの、こちらはワーグナーのオリジナル「ジークフリート牧歌」でも、なんだかあまりやる気がないように聞こえてくるのはなぜでしょう。愛情たっぷりの思いで作られたこの曲には、おもいっきり感情を込めて歌って欲しいところがたくさんあるのに、ヤルヴィはいとも冷淡な扱いしかしてくれていないのです。ここまで無神経な演奏に終始されてしまうと、この指揮者はそもそもワーグナーに対して共感出来るものがなにもないのでは、とさえ思ってしまいます。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-28 21:05 | オーケストラ | Comments(0)
Fantasista! Schubert
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Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-4



今年もまた大型連休の期間に行われる「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」の季節が巡ってきました。これが何回目なのかというのも分からないほど、この催しはすっかり日々の音楽生活の中に定着してしまったようですね。なにしろ、今では「フォル・ジュルネ」という言葉が俳句の季語にまでなっているのですから。

  ふぉるじゅるね 今夜のおかずは とん汁ね

そして、これも恒例になっていますが、その年のテーマ作曲家にちなんだコンピレーション・ボックスが、今年もタワーレコードから発売されました。こちらでも取り上げた一昨年のモーツァルト同様、NAXOSの音源を使って音楽ライターの山尾敦史さんが選曲、ライナーノーツも書いているというものです。なんせ、10枚組で税抜き2500円、コンサート帰りのお土産には格好のアイテムです。今年も、有楽町界隈には綿飴や水風船や金魚すくいに混じって、このボックスをうずたかく積み上げた屋台が登場することでしょう。
最初、このパッケージを見たときには「『未完成』全曲入り!」とタスキに書かれているのにちょっとびっくりさせられました。そこまでマニアックなことをやってくれたとは。最近は「7番」と呼ばれているその交響曲は、2楽章までしか演奏されないバージョンが殆どだというのに、それを4楽章まで「全曲」を聴かせてくれるなんて、えらいぞタワー!、えらいぞNAXOS!。・・・しかし、どうやらそれは全くの勘違いだったようです。そもそもこのシリーズのポリシーは、1つの曲の最大1つの楽章を、フェイド・アウトなしで「全部」聴かせるということ、ただ、「未完成」に関しては2つの楽章という「全曲」を収録して目玉にした、ということだったのです。そんなことだろうとはうすうす思っていましたが、ちょっとがっかり。
モーツァルト盤同様、シューベルト自身の作品が聴けるのは10枚のうちの6枚だけです。しかし、その中に宗教曲やオペラが1曲も入ってはいないというのは残念です。ミサ曲などこんな機会でなければ聴くことの出来ないような名曲がいっぱいあるというのに、NAXOSに音源がないことにはしょうがありません。その代わりと言ってはなんですが、例えばリストがピアノソロに編曲した「ます」などという珍品が聴けるのは嬉しいものです。もっとすごいのは、おなじ「ます」のゴドフスキ編曲版、ミサ曲もないのにこんなものがカタログにあるのですから、NAXOSというのはほんとにヘンなレーベルですね。というより、こんな超珍品を見つけてきた山尾さんというのは、本当にヘンな人。さらに、サラ・ヴォーンが歌った「アヴェ・マリア」とか、さりげなくヘンなものを忍び込ませているのですから、油断は出来ません。
その他のCDには、シューベルトが生きていた街ウィーンにちなんだ、ウィーンゆかりの作曲家たちの曲が入っています。グルックからウェーベルンまで、シューベルトに直接の関係があった人もなかった人も並べられているのは、ある意味壮観です。出来れば、グルックの「精霊の踊り」はきちんと中間部のフルートソロが入った「全曲」を入れておいて欲しかったものですが、ひょっとしたらこれが最初の形だ、という啓蒙的な意味もあったのかもしれません。侮れませんね。
最後の1枚は、ウィーンの演奏家たちのヒストリカル音源が集められています。その中で興味を惹いたのが、ブルーノ・ワルターが1938年にウィーン・フィルを指揮したマーラーの「アダージェット」です。ここで聴けるのは、たっぷりしたビブラート、したがって、ノリントンがその頃のウィーンではまだオーケストラでビブラートをかけて演奏することはなかったと言っているのが真っ赤な嘘であったことが分かります。
選曲同様、油断の出来ないのが山尾さんの軽妙なライナーです。これを読破すれば、シューベルトの裏も表もすっかり分かり、ふぉるじゅるねも数倍楽しめることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-26 11:34 | Comments(2)
VASKS/Pater noster
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Sigvards Klava/
Latvian Radio Choir
Sinfonietta Riga
ONDINE/ODE 1106-2



バルト3国の真ん中に位置するラトヴィアを代表する現代作曲家、ペーテリス・ヴァスクスの宗教曲集です。ヴァスクスは1946年の生まれ、お隣エストニアの有名なアルヴォ・ペルトが1935年生まれですから、ひとまわり後の世代の作曲家ということになります。ペルト同様、初期の頃にはさまざまな前衛的な手法に手を染めていたものが、ある時期から至極オーソドックスな三和音の世界へたどり着くという、現代の作曲家では少なからず見られるような道を経てきている人です。
このアルバムの曲は、1991年以降の作品、もはや彼の語法は確固としたものとなり、迷わずに信じた道を進んでいるさまがうかがえるものばかりです。その1991年の作品が、「Pater noster」です。混声合唱と弦楽オーケストラという編成、それは何も知らないで聴けば何百年も昔に作られたものだといわれても疑いを持たないほどの、穏やかな調和を持ったものでした。そこには、おそらく意識して取り入れたのでしょう、バッハの「マタイ受難曲」の「受難のコラール」を彷彿とさせるようなメロディ・ラインとハーモニーを感じることが出来るはずです。そして、その息の長いフレーズは、同じ「マタイ」の最後の合唱のような、圧倒的な力を感じさせてくれるものでした。慣れ親しんだ語法だからこそ、迫ってくるその力にも共感出来るのかもしれません。
次の曲は、1996年に作られた「Dona nobis pacem」です。実は、この曲の世界初録音というものを、かつてエストニア・フィルハーモニック室内合唱団の演奏で聴いたことがありました。その時にはこの曲の中に先ほどのペルトとよく似たテイストを感じたものです。これもやはり弦楽オーケストラが一緒に演奏していますが、その飽和した厚ぼったい響きは明らかにペルトを意識したものでした。今回の演奏は、同じ曲でありながらその時のものとはかなり肌触りが異なって、より洗練されたものに仕上がっています。それは、ごく短い「Dona nobis pacem」というテキストによる、事実上たったひとつのモチーフを執拗に繰り返す中で生まれてくる高揚感が、非常に見晴らしのよい形で見渡せるものだったからなのでしょう。それぞれのパーツの中ではナチュラルに振る舞っているにもかかわらず、それが重なりとなったときに発揮される大きな力というものを、大切にしている、これはこの作曲家の創作姿勢ともきっちりシンクロした演奏なのかもしれません。この作品は一見ミニマニズムのような外観を持っていますが、もっと根元的な自然界の現象(寄せては返す波のようなものでしょうか)などともリンクしているのではないでしょうか。
最後は、この中では最も大きな作品、「ミサ曲」です。構成的には、通常文から「Credo」を欠くという凝縮された形、本来は2000年に無伴奏合唱曲として作られたものですが、それがまずオルガン伴奏の形に改訂され、さらに2005年にここで演奏されている弦楽オーケストラ伴奏に再改訂されています。その伴奏のオーケストラが、まず、かなりのハイテンションで雄弁な音楽を作り出しています。それに続く合唱もテンションの高さでは負けてはいません。教会でしっとりと祈りをあげる、というシチュエーションとはちょっと違った、殆ど体育会系のノリの「叫び」がそこには見られます。その目指すところは、やはり自然の中で喜びを声高らかに謳う、といった趣でしょうか。そんな中にあって、「Sanctus」での民謡を素材とした素朴な楽想がひときわ印象的に響きます。
ハイレベルの技術を備えた上で、あくまで飾らないひたむきさを表現したラトヴィア放送合唱団は、生きていく上で何の役にも立たないムダな知識を披露することなく(それは「トリヴィア」)、ヴァスクスによって示されたシンプルな音楽の持つ大きな力の意味を、ストレートに伝えることに成功しています。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-24 19:49 | 合唱 | Comments(0)
MOZART/Davide Penitente
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Trine Wilsberg Lund, Kristina Wahlin(Sop)
Lothar Odinius(Ten)
Morten Schuldt-Jensen/
Immortal Bach Ensemble
Leipziger Kammerorchester
NAXOS/8.570231



さる音楽雑誌に、このレーベルの歴代売り上げチャートみたいなものが載っていました。それによると、以前ご紹介したオルフの「カルミナ・ブラーナ」が「四季」に次いで堂々の第2位、そして、やはり取り上げていたモーツァルトのレクイエムが第4位に入っているそうです。オールソップのオルフはイマイチでしたが、モーツァルトの方は文句なしの名演ですので、それが売れているというのはとてもうれしいものです。
その時の指揮者のモーテン・シュルト・イェンセンが、今度は同じモーツァルトの「悔悟するダヴィデ」を録音してくれました(日本語の帯のタイトルは「改悛するダヴィデ」)。オーケストラも同じライプツィヒ室内オーケストラなのですが、合唱が違っています。前回は「ゲヴァントハウス室内合唱団」だったものが「イモータル・バッハ・アンサンブル」という、聞いたことのない名前の団体に変わっています。ただ、その名前の中にある「イモータル・バッハ」というのは見覚えのある名前、というかタイトルでした。常連さんであれば思い当たるかもしれませんが、それはノルウェーの作曲家ニシュテットが作ったバッハのコラールを原形をとどめぬほどに解体してしまうという、バッハと現代を見事に結びつけたあの痛快な合唱曲のタイトルではありませんか。
ブックレットを読んで、その謎は解明されました。この合唱団は以前の団体が、ただ「改名」しただけだったのですね。そして、やはりニシュテットの作品とも関連が。この合唱団(と言うか、アンサンブル)が、それこそ、バッハの時代の作品から現代の曲までを幅広くレパートリーにするというコンセプトが、その中には込められているのだそうです。
そんなリニューアルを果たした合唱団、その演奏には、前作にも
増して「凄み」のようなものが宿っています。いつもながらの軽快な指揮者のテンポ、しかし、合唱が歌い始めると、そこになんとも言えない重みが感じられるようになります。渋くしっとりとした音色で丁寧に形作られたたフレーズたち、それからは、全ての音にきちんと責任を持たせるという強い決意のようなものさえ感じることが出来るはずです。その「凄さ」が最もはっきり現れているのが、終曲の「Chi in Dio sol spera」です(ご存じのように、「ダヴィデの悔悟」という曲は「ハ短調ミサ」のパロディですので、これは元ネタの「Gloria」の終曲「Cum sancto spiritu」に相当します)。トゥッティのイントロに続いてフーガが現れるのですが、そのフーガ主題の歌わせ方にはなんという陰影が込められていることでしょう。これは、もしかしたらラテン語の聖書のテキストから、おそらくダ・ポンテが作ったとされているイタリア語の自由な歌詞に変わったことを、意識して強調した結果なのでしょうか。いずれにしても、その細部まで磨き上げられた音の「かたち」には、信じられないようなメッセージが込められていることに気づくはずです。それに続くメリスマにも、単に音の羅列ではない、真の意味での音楽が宿っているのは、まさに奇跡としか言いようがありません。
ただ、ソリストたちがその合唱団のテンションにちょっとついて行けていないのが、残念なところです。特に第2ソプラノのテンポに乗りきれないもっさりとした芸風は、致命的ですらあります。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-22 23:25 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Motets
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Peter Dijkstra/
Nederlands Kamerkoor
CHANNEL/CCS SA 27108(hybrid SACD)


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Bo Holten/
Flemish Radio Choir
GLOSSA/GCDSA 922205(hybrid SACD)



最近バッハのモテットの新しい録音がないな、と思てっていたところ、なんとまとめて2種類もリリースされました。いずれもネーデルランドのアーティストによる録音のSACD、レーベルを扱っている日本の代理店も一緒という不思議な縁で結ばれたアイテム同士です。
まずは、合唱指揮界の期待の新星、ピーター・ダイクストラの指揮するオランダ室内合唱団です。この合唱団の他にもドイツのバイエルン放送合唱団とスウェーデンのスウェーデン放送合唱団の指揮者も務めているという超売れっ子のダイクストラ、最近は自らの仲間を集めた男声合唱団「ジェンツ」の方はどうなっているのでしょうか。
このレーベルのSACDでは、使っているマイクなどの機材から、マスタリングの時のケーブルまで、きちんとメーカーや機種を表記しています。それだけ音に対するこだわりはハンパではないぞ、ということなのでしょう。確かに、ここで聴ける録音は素晴らしいものです。合唱団の声はとてもきれいに混ざり合っている中に、通奏低音として加えられたチェロとオルガン(なぜか、どこにもクレジットがなく、いきなりプロフィールが書いてあるのは、ブックレットの編集ミス?)が、控えめなのにはっきりした主張をもって聞こえてきます。なによりも美しいのが、歌い終わったあとの残響です。録音セッションは教会で行われていますが、その空間が感じられるような広がりを持った爽やかな残響が、とても暖かくその場を包み込んでいます。
ただ、ここで歌っているオランダ室内合唱団の、特に女声パートの声の質が、ちょっと前までのまるでいぶし銀のような渋いものから、もっと軽やかなものに変わってしまっているのが気になります。いや、正直それは「軽やか」というよりは「薄っぺら」と言った方があたっているような、芯のない響きなのです。ここで彼らが聴かせてくれる素材としての「音」は、それ自体は非常に透き通った、美しいものです。ハーモニーもこの上なく見事に決まり、高次倍音がはっきり感じられるものです。しかし、それは人間が息を吹き込んで出している音というのではなく、何か楽器、それも電子楽器のような、極めて客観性の強いものが発する音のように聞こえてなりません。そこからは、歌っている人たちの人格が、まるで感じられないのです。
このような感覚は、ダイクストラとジェンツのアルバムを最初に聴いたときに受けた印象と良く似ています。美しいのだけれどなにも訴えるものがない、これはちょうど「癒し系」とか、「ヒーリング・ミュージック」を聴いたときに感じる物足りなさにつながるものなのでしょう。そのような路線が好結果を呼ぶ場合もあるのでしょうが、ここで演奏されているものがバッハだったところに、彼らの誤算がありました。中でも、多くの曲が集まっていて、それぞれが個別の訴えかけをもって迫ってきて欲しい「Jesu, meine Freude」などは、全てがのっぺりとした肌触りのよいものにまとめ上げられていて、なんの引っかかりもない分、衝撃からはほど遠い仕上がりとなってしまっているのです。
もう一方のベテラン、ボー・ホルテンを迎えたフランダース放送合唱団の場合は、指揮者の伝えたいものはしっかり伝わってくるという安心感があります。ちょっと合唱には雑なところがあるにもかかわらず、こちらの方がより充実したものが味わえたと感じられるのは、なぜなのでしょう。
ちなみに、ダイクストラ盤ではいわゆる1番から6番までの6曲、ホルテン盤では、それに偽作(J・クリストフ・バッハ)とされているBWV Anh.III 159Ich lasse dich nicht, du segnest mich denn」を加えた7曲が演奏されています。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-20 20:10 | 合唱 | Comments(0)
BIZET/Carmen
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Leontyne Price, Mirella Freni(Sop)
Franco Corelli(Ten), Robert Merril(Bar)
Herbert von Karajan/
Vienna Philharmonic
BMG JAPAN/BVCC-34150-52(hybrid SACD)



またまた生誕100周年がらみの、カラヤンのアイテムです。現在では「Sony BMG Music Entertainment」という名前になっている、かつては「RCA」というレーベルで知られていたアメリカのレコード会社から1964年にリリースされたもののリイシューとなります。なぜカラヤンがRCA?といぶかしがる方もいらっしゃるかもしれませんね。この当時のレコード業界は今のように巨大資本が全世界に販売網を広げるというようなことはありませんでしたから、それまで続いていたEMI(というよりHMV)との提携が解消されてしまい、ヨーロッパでの販路が絶たれたRCAは、イギリスのDECCAと新たに提携を結んでいたのです。販売面だけではなく、制作の現場でもその提携関係は生かされており、このようにお互いのアーティストを出し合ってレコードを作ることもありました。そこで、当時DECCAと契約していたカラヤンとウィーン・フィルが、RCAレーベルに登場することになったのです。
ここで録音を担当していたのが、DECCAのジョン・カルショーのチームでした。エンジニアに天才ゴードン・パリーを抱え、有名なショルティの「指環」を作り上げたこのチームが、カラヤンとウィーン・フィルを録音したものは、実は少し前にDECCAからまとめてボックス・セットのCDが出ていました。しかし、これを聴いて、なぜか期待したほどの音ではなかったのには、ちょっとした失望を味わったものです。このチームの音をLPレコードで聴きなれた人にとっては、おそらくそれはなんとも輝きに欠けるものに感じられたことでしょう。
今回は、初出時のパッケージを彷彿とさせるような豪華なブックレットと外箱仕様というだけではなく、音に関しても特別に吟味されたものであるという事を聞いて、今時のCDとしてはかなり高価ですが購入して聴いてみることにしました。なんでも、このために用意されたのは、RCADECCAから渡されたオリジナルの2チャンネルのマスターテープであり、アメリカでそれをDSDでトランスファーしたものをSACDレイヤーのマスターとするとともに、CDレイヤーのためにはあの杉本さんがマスタリングを行ったというのですからね。ちなみに、SACDはステレオだけで、マルチチャンネルはありません(それが、当然のことですが)。
そのマスタリングの素晴らしさは、最初の前奏曲での底力のあるシンバルのクラッシュを聴いただけで明らかになりました。それはなんという厚みと、そして瑞々しさをたたえたものだったでしょうか。これは、まさにDECCAのボックスをはるかに凌ぐ、よりオリジナルに近いものでした。注目すべきは、CDレイヤーでの健闘ぶりです。SACDのクオリティを意地でもCDで出してやろうじゃないか、という杉本さんの意地のようなものまで、そこからは感じることは出来ないでしょうか。比較のために、1997年に行われた20ビット・マスタリングのCD(↓)も聴いてみましたが、その差は歴然たるものです。シンバルの音は少し高音が強調されて一見華やかに思えますが、そこからは重量感のようなものが見事に消え去っています。

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RCA/74321 39495 2


他のチェック・ポイントを聴き比べるという、楽しい作業を続けていくうちに、その違いはさらに明らかになっていきます。中でも驚異的なのは、第1幕フィナーレの最初に現れるチェロの存在感でしょうか。以前のCDではなんとも平べったかった音が、今回のCDレイヤーはまさにSACDに肉薄した立体的な音で迫ってきます。
歴史的な事情から、たまたまRCAのものとなっていたDECCAの磁気テープが、そのおかげで最高のスタッフの手によって最高の形でハイブリッドSACDとして蘇ることになりました。本家DECCA(というかUNIVERSAL)ではそれはもはや叶わないことなのでっか
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by jurassic_oyaji | 2008-04-18 20:48 | オペラ | Comments(0)
拍手のルール 秘伝クラシック鑑賞術
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茂木大輔著
中央公論新社刊
ISBN978-4-12-003925-6


N響のオーボエ奏者、茂木大輔さんの最新の書き下ろし単行本です。あとがきではつい最近のシェレンベルガーとN響との共演のことに触れられていますが、この演奏会の模様は実は少し前の「おやぢ」でも取り上げていました。その時には、後半の交響曲でオーボエを吹いていた茂木さんの姿をテレビで見ながら、オーボエと指揮の両方で活躍しているという同じ立場の指揮者の下で演奏している彼の心中はどんなものなのかとても興味が湧いたものですが、それをご本人の言葉でこんなに早く知ることが出来ようとは。
茂木さんの著書には、以前から親しんできました。今では文庫本になってしまった彼のデビュー作「オーケストラは素敵だ」を読んだときには、とてもユニークな才能が現れたことに驚きすら感じたものです。しかし、それは彼の執筆活動のほんのスタート地点、それからの茂木さんの多方面での活躍ぶりには目を見張るものがあり、それらの体験の中から産み出された著作は、さらなる広がりを持ったものになっていきます。今回の新作を昔のものと比較してみると、文体までもが完全に変わっていることが分かります。
そんな、完璧に茂木さん独自のペースを身につけた軽快な語り口で繰り広げられているのは、タイトルの通りの「コンサートにおける拍手の正しいルール」、及び、「『今さら聞けないクラシック音楽に対する疑問』への回答」です。もちろん、それはそのような体裁を借りて茂木さんの音楽観をさりげない形で披露するという、非常に高度な仕掛けを持ったものであることは、十分に認識しておく必要があるでしょう。
そのためには、前半の章で述べられている彼の「クラシック」観をしっかりと噛みしめることが重要になってきます。彼の中での「クラシック音楽」というものは、様式的には(年代ではなく)バッハからシェーンベルクであると規定されています。それ以前は「古楽」、そしてそれ以後は「現代音楽」として、全く別の概念として扱われています。
そのような前提を設けた上で彼は「クラシックは敷居が高い」と主張します。これは、彼が行っている「のだめコンサート」などの趣旨とは矛盾するものではないか、と誰しもが思うかもしれませんが、彼は「敷居の高さこそが、クラシックの魅力である」と言いきっているのです。そうなのです。敷居を下げたとき、それはもはやクラシックではなくなっていることを、これほど明確に語ってくれたことには、まっとうなクラシック・ファンであれば誰しもが溜飲を下げるに違いありません。そんな彼だからこそ、日本人のクラシック演奏家がクラシックやそれ以外の曲を華やかにアレンジして演奏するいわゆる「J-クラシック」を「あれはクラシックではない」と決めつけることが出来るのです。「J-クラシック」は、「ライト・クラシック」と言い換えても差しつかえはないでしょう。茂木さんは、そのような安直なクラシックへのアプローチではなく、もっと苦痛を伴いつつも、いずれはたどり着くであろう実り多い世界の美しさを主張しているように思えます。
そのようなある意味堅苦しい内容を、なんの抵抗もなくすらすら読ませてしまう茂木さんの文章の魅力の秘密は、至る所にちりばめられた怒濤の「おやぢギャグ」ではないでしょうか。明らかにスベりまくっているにもかかわらず(「拍手の法則」は、その最たるもの)、その迫力には圧倒されっぱなしです。もぎ(もし)あなたのオーケストラが茂木さんに指揮をされるような機会があった時には、「タイ明けくん」とか、「仙台市役所すぐ戻す課」などと言われても困ったりしないで、的確なリアクションを返してあげて下さいね。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-16 19:33 | 書籍 | Comments(0)
ANDERSON/Orchestral Music Vol.1
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Jeffrey Biegel(Pf)
Leonard Slatkin/
BBC Concert Orchestra
NAXOS/8.559313



今年生誕100年を迎えるのは、なにもカラヤンだけではありません。少し軽めのオーケストラ・コンサートには欠くことの出来ない数多くの魅力的な作品を作ったアメリカの作曲家、ルロイ・アンダーソンも、やはり1908年に生まれているのです。「タイプライター」や「そりすべり」の作曲家がカラヤンと同じ年だったなんて、ちょっと意外な気がしませんか?ただ、アンダーソンの場合は1975年に亡くなっていますから、「むかしの人」という印象が強いのかもしれません。
このアニヴァーサリーに合わせて、「全曲録音」が大好きなこのレーベルが、ついにアンダーソンの全集を作ることになりました。彼のオーケストラ作品は、出版されているものだけでも70曲近くあります。しかし、彼の曲は殆どが3分前後の短いものばかりですので、おそらく4、5枚もあればすべてのものが収録されてしまうことでしょう。完成が楽しみです。
ハーヴァード大学でウォルター・ピストンやジョルジュ・エネスコに作曲を師事したというアンダーソンは、クラシックの基礎を持ちながらも「ヒット曲」を作ることを目指していたのでしょう。ダンスバンドを作って活躍していた1930年代後半に、ボストン・ポップスの指揮者、アーサー・フィードラーに見いだされて、専属のアレンジャー・作曲家となるのです。戦争で一時活動が中断した後も、1950年頃まではフィードラーの元で曲を作り続けますが、それ以後は自分でオーケストラを編成して、自分名義のレコードを出すようになります。このアルバムにも収録されている「舞踏会の美女」と「ブルー・タンゴ」がカップリングされたシングル盤は大ヒットとなり、「ブルー・タンゴ」はなんとビルボードのシングル・チャートの1位になってしまいます(1952年の年間チャート1位)。そう、あのころでいえばパティ・ペイジやナット・キング・コールと同じ次元でのヒットを、彼は放ってしまったのです。これでアンダーソンのヒット・メーカーとしての地位は揺るぎないものとなりました。
さらに、1958年にはブロードウェイにも進出、ミュージカルを1曲作ることになります。しかし、1962年に最後のアルバムをDECCA(もちろん、アメリカDECCA。今はMCAからCD化されています)から出した後は、殆ど作曲からは遠ざかり、もっぱら編曲や指揮が主な活動となってしまいます。

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MCA/MCAD2-9815


この第1集、そんなヒット・チューンに混じって、1953年に作られたピアノ協奏曲が収録されているのが目をひきます。もちろん、初めて聴くものですが、例えばあのガーシュウィンのように、ヒット曲だけではなく、きっちりとしたクラシックの作品も後世に残したいという思いが、彼の中にもあったのだろうという先入観を持って聴き始めると、見事に裏切られることになります。もちろん、それは楽しい裏切りでした。そこにはやはり他の小曲で見られる彼の素顔が、そのまま宿っていたのですからね。特に、第3楽章などは、ピアノ・ソロとスネアドラムの対話という楽しい導入から始まって、いかにも軽快そのもののいつものアンダーソン節が満開となります。それにしても、この曲の第1楽章は殆どラフマニノフのパロディではないですか。しかも後半にはなんとブルースの「フーガ」が登場するのですから笑えます。2楽章にしたって、いきなりラテン・リズムが乱入してきたりと、彼の頭の中はとことん人を楽しませようという気持ちでいっぱいだったのでしょうね。
そう言えば、この中の「クラシックのジュークボックス」という曲も、パロディ精神満載の小気味よいナンバーです。ご想像のとおり、クラシックの名曲の断片を集めた、まさに「ジョークボックス」(途中では「針飛び」まで起こします)ですが、コードが違っているのもなんのその、別の曲を強引に同時に演奏するという手法は、後のP・D・Q・バッハそのものではありませんか。そう、ピーター・シックリーこそは、まさにアンダーソンの正統な後継者だったのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-04-14 20:16 | オーケストラ | Comments(0)